HOME | ① ② ③ ④ ⑤ ⑥ ⑦ | 源氏物語・目次 |
---|
源氏物語は様々な文人や学者によりまた市井の愛好家によって、現代文にされている。
源氏は邸に引き取った玉鬘に惹かれて、自分のものにしようと煩悶する。その源氏が逡巡する自分勝手な思惑を描写した個所である。
常夏の巻
原文
渡りたまふことも、あまりうちしきり、人の見たてまつり咎むべきほどは、心の鬼に思しとどめて、さるべきことをし出でて、御文の通はぬ折なし。ただこの御ことのみ、明け暮れ御心にはかかりたり。
「なぞ、かくあいなきわざをして、やすからぬもの思ひをすらむ。さ思はじとて、心のままにもあらば、世の人のそしり言はむことの軽々しさ、わがためをばさるものにて、この人の御ためいとほしかるべし。限りなき心ざしといふとも、春の上の御おぼえに並ぶばかりは、わが心ながらえあるまじく」思し知りたり。「さて、その劣りの列にては、何ばかりかはあらむ。
わが身ひとつこそ、人よりは異なれ、
見む人のあまたが中に、かかづらはむ末にては、何のおぼえかはたけからむ。
異なることなき納言の際の、二心なくて思はむには、劣りぬべきことぞ」
と、みづから思し知るに、いといとほしくて、「宮、大将などにや許してまし。さてもて離れ、いざなひ取りては、思ひも絶えなむや。いふかひなきにて、さもしてむ」と思す折もあり。
されど、渡りたまひて、御容貌を見たまひ、今は御琴教へたてまつりたまふにさへことづけて、近やかに馴れ寄りたまふ。
姫君も、初めこそむくつけく、うたてとも思ひたまひしか、「かくても、なだらかに、うしろめたき御心はあらざりけり」と、やうやう目馴れて、いとしも疎みきこえたまはず、さるべき御応へも、馴れ馴れしからぬほどに聞こえかはしなどして、見るままにいと愛敬づき、薫りまさりたまへれば、なほさてもえ過ぐしやるまじく思し返す。
「さはまた、さて、ここながらかしづき据ゑて、さるべき折々に、はかなくうち忍び、ものをも聞こえて慰みなむや。
かくまだ世馴れぬほどの、わづらはしさにこそ、心苦しくはありけれ、
おのづから関守強くとも、ものの心知りそめ、
いとほしき思ひなくて、わが心も思ひ入りなば、しげくとも障はらじかし」と思し寄る、
いとけしからぬことなりや。
いよいよ心やすからず、思ひわたらむ苦しからむ。なのめに思ひ過ぐさむことの、とざまかくざまにもかたきぞ、世づかずむつかしき御語らひなりける。
常夏の巻
与謝野晶子 1912年/1938年
玉鬘の西の対への訪問があまりに続いて人目を引きそうに思われる時は、源氏も心の鬼にとがめられて間は置くが、そんな時には何かと用事らしいことをこしらえて手紙が送られるのである。この人のことだけが毎日の心にかかっている源氏であった。
なぜよけいなことをし始めて物思いを自分はするのであろう、煩悶などはせずに感情のままに行動することにすれば、世間の批難は免れないであろうが、それも自分はよいとして女のために気の毒である。どんなに深く愛しても春の女王と同じだけにその人を思うことの不可能であることは、自分ながらも明らかに知っている。第二の妻であることによって幸福があろうとは思われない。自分だけはこの世のすぐれた存在であっても、自分の幾人もの妻の中の一人である女に名誉のあるわけはない。
平凡な納言級の人の唯一の妻になるよりも決して女のために幸福でないと源氏は知っているのであったから、しいて情人にするのが哀れで、兵部卿の宮か右大将に結婚を許そうか、そうして良人おっとの家へ行ってしまえばこの悩ましさから自分は救われるかもしれない。消極的な考えではあるがその方法を取ろうかと思う時もあった。
しかもまた西の対へ行って美しい玉鬘を見たり、このごろは琴を教えてもいたので、以前よりも近々と寄ったりしては決心していたことが揺ゆらいでしまうのであった。
玉鬘もこうしたふうに源氏が扱い始めたころは、恐ろしい気もし、反感を持ったが、それ以上のことはなくて、やはり信頼のできそうなのに安心して、しいて源氏の愛撫からのがれようとはしなかった。返辞などもなれなれしくならぬ程度にする愛嬌の多さは知らず知らずに十分の魅力になって、前の考えなどは合理的なものでないと源氏をして思わせた。
それでは今のままに自分の手もとへ置いて結婚をさせることにしよう、そして自分の恋人にもしておこう、処女である点が自分に躊躇をさせるのであるが、結婚をしたのちもこの人に深い愛をもって臨めば、良人のあることなどは問題でなく恋は成り立つに違いないとこんなけしからぬことも源氏は思った。
それを実行した暁にはいよいよ深い煩悶に源氏は陥ることであろうし、熱烈でない愛しようはできない性質でもあるから悲劇がそこに起こりそうな気のすることである。
谷崎潤一郎 1939年/1965年
このあたりへのお越しもあまり度重なって、人目に立ちそうな時は、心の鬼に咎められてお止めになりますが、何かと用事を拵えては、絶えずおん文を通わします。ただこのおんことばかりが明け暮れお心にかかっています。どうしてこういう下らないことにやきもきするのか、そんなに苦しむくらいなら、思いのままにする道もないではないが、それでは世間の人たちが何というか、軽々しいという誹りを、自分が受けるのは覚悟の前であるとしても、あのお人がいとおしいし、それに、どれほど深い志であるにしてからが、春の御殿のおん方と同じ扱いをするほどにして上げられようとは、御自分ながらお考えになれないのでした。そうかといって、それ以下の人々と同じ並みにしたのでは、どれほどの見栄えがあろう、自分だけが人より偉くても、多くの思い人が囲われている末席に列なっているのであったら、さして名誉なことでもあるまい、そのくらいなら、あまりぱっとしない納言などの身分の、二心のない男から、大切にされていた方がましかも知れない、と、そう御自分でもお分かりになってみますと、ひどく可哀そうで、いっそ兵部卿宮か大将などに許して上げることにしようか、そちらに迎え取られて行って、側にいなくなったら、諦めるようにもなるであろうか、つまらないようではあるが、そうでもしてしまった方がとお思いになると折もあります。しかしこちらへお渡りになって、お姿を御覧になり、今ではお琴をお教えになるという口実さえできたことですから、何かと馴れ馴れしく近づいていらっしゃるのです。姫君も初めのうちこそ薄気味悪く、疎ましくお感じになりましたが、こう見えてもほんとうはそんな厭らしいお心のない、おだやかなお方であったのだと、ようよう目馴れて、そう餘所々々しくお扱にならず、しかるべき折りの遣り取りなども、あまり打ち解け過ぎないほどに聞え交しなどして、日ましに愛想よく、色香も添わっていらっしゃいますので、やはりこのままでは見過ごしにくいというように、気がお変わりになるのです。ではまあ、ここに住まわせたなりで婿を迎え、大切にかしずいて、何かの折々にそっと忍んで逢いに行き、はかない語らいをして慰めることにしようか、かように男を知らぬうちこそ手なずけるのに面倒だけれども、いったん情愛というものが分かれば、どんなに関守しくても、こちらも気がねなくなるし、熱心に言い寄って行ったら、人目が繁くてもどうにかならないことはあるまい、と、そんなこともをお思いつきになりますのも、まことにけしからぬお心なのです。でもまたそうなりましてから、いよいよ思いが募って行って、恋しつづけるのでは苦しいでしょうし、あれにつけこれにつけ、いい加減な程度で済ますことができませんのは、世にも珍しい、むずかしいおん間柄なのでした。
玉上琢弥 1965年
おいでになることもあまりにたび重なり、人目に立ちそうになると、気がとがめるので自制なさって、何か用事を作りだし、お手紙の通わない時はない。
まったくこの姫のことばかりが、朝から晩までお心を離れないのであった。
「どうしてこんなつまらないことをして、心を苦しめるのか。苦しむまいと思って思いのままにふるまえば(それは)世間の悪評受ける軽率なふるまいというもの。自分のことはしばらくおき、この女にとってはきのどくなことになる。いかに熱愛しているにもせよ、春の上の御待遇に劣らないほどには、御自分ながらできはすまい」とわかっていらっしゃるのであった。
「そういうこpとでそれ以下の一人としてではどれほどの幸福と言えよう。自分だけは誰よりも立派だが、愛している女がおおぜいいる中にはいってのp末席にいるのでは、なんのはえがあろうぞ。大したこともない大納言ぐらいの身分の者がただ一人の妻として愛するのには、負けることになろう」と、御自身おわかりなので、たいそうきのどくで「(いっそ)宮か大将などにやってしまおうか。そうして自分も離れ、あれも連れていってしまったら、あきらめもしようか。つまらないが、そうしてしまおう」とお思いになる時もある。
しかしお渡りになってお姿を御覧になり、今では和琴をお教えになるということまで口実にして、そばに近づくのが常になっていらっしゃる。姫君のほうもはじめのうちこそ、気味悪くいやだとお思いであったけれども、こんなにしていても、穏やかで、心配なお気持ちはないのだと、だんだん普通になって、たいしておいやがりもなさらない。お答えするべきことはいい気にならない程度に気をつけて申し上げなさったりして、見れば見るほどかわいらしさがまし、お美しさがますので、やはりこのままではいられまいと、気がお変わりになる。
ではやはり、こうしてここに置いたまま婿を通わせることにして、適当な時があれば目立たぬようにこっそりあって話もして心を慰めることにしようか。このようにまだ男を知らないうちは、手を出すのもめんどうで、それでかわいそうにも思うのだが、いくら関守が強くとも男を知り、(こっちも)かわいそうという気持なしで熱心に口説いたら、人目は多くても邪魔にもなるまいて、と考えつく。とは、実にけしからぬことである。(そうなったら)ますます気が気でなくなり恋しつづけるとあっては苦しかろう。適当にすますことは何かにつけてもできそうにないというのが、世にも珍しく複雑なお二人の間柄であった。
瀬戸内寂聴 1997年
西の対へお出かけになることも、あまり度重なり、女房たちに見とがめられそうにもなると、源氏の君も、さすがに御自分のお心のやましさに自制なさり、行くのを控えられます。そんな折は、何かの用事をこしらえて、お手紙を絶え間なくお届けになります。ただもう玉鬘の姫君のことばかりが、明けても暮れてもお心にかかっていらっしゃるのでした。
「どうして、こんなしてはならない理不尽な恋をして、心の安らぐ閑もない辛い悩みをするのだろう。もうこんな苦しい思いはしたくない、思い通りに姫君を自分のものにしてしまったら、どんなに世間から軽薄だと非難されることか。自分の不面目はまあいいとしても、ただこの姫君のためにはお気の毒なことになるだろう。またこの人を限りなく愛するといったところで、紫の上への愛情と並ぶような扱いは、とてもできないことは自分でもわかっている。もし妻にしたところで、そういう紫の上以下の立場では、どれほどの幸せがあろうか。自分だけは格別な身分とはいえ、その大勢の妻妾たちのなかで、末席に仲間入りするのでは、あまりほめられもしないだろう。それならいっそ平凡な納言あたりの身分のものから、ひとりだけ愛されて大切にされるほうが、はるかに幸せだろう」
と、御自分でもよくお分かりになりますので、姫君がひどく不憫になられて、
「いっそあの蛍火に想いをつのらせた兵部卿の宮か、熱心に言い寄る右大将などと結婚させてしまおうか。そうして自分から離れ、夫の邸に引きとられて行ってしまったなら、この切ない恋心も断ち切れるだろうか。あの人たちと結婚させるのは、いかにもつまらないが、いっそ思い切って、そうさせてしまおうか」
と、お考えになる時もあるのでした。けれども、西の対にお越しになって、玉鬘の姫君の美しいお顔を御覧になり、今ではお琴もお教えになることまでも口実にして、馴れ馴れしく姫君に、いつでも近々と寄り添っていらっしゃいます。
玉鬘の姫君も、はじめの頃こそ、気味悪く、疎ましくお思いになられたものの、こうしてお側近くにいらっしゃっても何事もないので、心配するような変なお気持ちはなかったのだと、次第に源氏の君にお馴れになって、そうひどくはお嫌いにもなりません。そうした折のお返事も、打ち解けすぎない程度にやさしくなさいます。
渋谷榮一 1996年
お渡りになることも、あまり度重なって、女房が不審にお思い申しそうな時は、気が咎め自制なさって、しかるべきご用を作り出して、お手紙の通わない時はない。ただこのお事だけがいつもお心に掛かっていた。
「どうして、このような不相応な恋をして、心の休まらない物思いをするのだろう。そんな苦しい物思いはするまいとして、心の赴くままにしたら、世間の人の非難を受ける軽々しさを、自分への悪評はそれはそれとして、この姫君のためにもお気の毒なことだろう。際限もなく愛しているからと言っても、春の上のご寵愛に並ぶほどには、わが心ながらありえまい」と思っていらっしゃった。「さて、そうしたわけで、それ以下の待遇では、どれほどのことがあろうか。自分だけは、誰よりも立派だが、世話する女君が大勢いる中で、あくせくするような末席にいたのでは、何の大したことがあろう。格別大したこともない大納言くらいの身分で、ただ姫君一人を妻とするのには、きっと及ばないことだろう」
と、ご自身お分りなので、たいそうお気の毒で、「いっそ、兵部卿宮か、大将などに許してしまおうか。そうして自分も離れ、姫君も連れて行かれたら、諦めもつくだろうか。言っても始まらないことだが、そうもしてみようか」とお思いになる時もある。
しかし、お渡りになって、ご器量を御覧になり、今ではお琴をお教え申し上げなさることまで口実にして、近くに常に寄り添っていらっしゃる。
姫君も、初めのうちこそ気味悪く嫌だとお思いであったが、「このようになさっても、穏やかなので、心配なお気持ちはないのだ」と、だんだん馴れてきて、そうひどくお嫌い申されず、何かの折のお返事も、親し過ぎない程度に取り交わし申し上げなどして、御覧になるにしたがってとても可愛らしさが増し、はなやかな美しさがお加わりになるので、やはり結婚させてすませられないとお思い返しなさる。
「それならばまた、結婚させて、ここに置いたまま大切にお世話して、適当な折々に、こっそりと会い、お話申して心を慰めることにしようか。このようにまだ結婚していないうちに、口説くことは面倒で、お気の毒であるが、自然と夫が手強くとも、男女の情が分るようになり、こちらがかわいそうだと思う気持ちがなくて、熱心に口説いたならば、いくら人目が多くても差し障りはあるまい」とお考えになる、実にけしからぬ考えである。
ますます気が気でなくなり、なお恋し続けるというのもつらいことであろう。ほどほどに思い諦めることが、何かにつけてできそうにないのが、世にも珍しく厄介なお二人の仲なのであった。
大塚ひかり 2008年年
玉鬘の姫君のもとに行くのもあまりたび重なって、「女房などが見咎めるほどになっては」と、源氏の君はやましさがあるので、自制して、何か適当な用事を作っては、お手紙のやりとりをしない時はありません。
ただ、この姫のことばかりが、明けても暮れても心にかかっています。
「なんでこんな筋違いな恋をして、心の休まる時もない物思いをしているのだろう。かといって、悩むのはやめよとばかり、心のままに行動すれば、世間の人に軽率のそしりを受けようし、私自身にとって良くないのはもちろん、この姫君のためにも可哀想だろう。いくら彼女を限りなく思っていても、春の町の紫の上に匹敵するほどの扱いは、我ながらとてもできそうにないのは分かっている。といって、一段下の妻の仲間では、どうしようもないではないか。自分一人こそ人より優れていても、”見む人”・・・関係するその他大勢の妻たち・・・の中の末席に連なるのでは、何が誇らしいものか。それよりは、格別のこともない納言ていどの男から、「二心なく愛されるほうがましというものだ」と、自分でも分かっているだけに、姫君がとても可哀想で、
「蛍宮か右大将(髭黒)などに許してしまおうか。そうやって離れて行って、夫のほうに迎えられることにでもなれば、諦めもつくのではないか。仕方がないが、そうするか」と思う折もあります。
姫君も初めのうちこそ、ぞっとするとも嫌だとも思っていましたが、こうまで近づいても源氏の君は無体なこともしないので、「これ以上、こちらが不安にさせられるようなお気持はないのだ」と、しだいに馴れてきて、さほど嫌がりもしません。
必要なお返事も、馴れ馴れしくならないていどにやりとりなどして、見れば見るほどあふれる魅力が増して、香るような美しさがまさっていくので、源氏の君は、
「ならばいっそ、このままここに大事に置いて、適当な折々にちょっと忍びこんで、話でもして思いをなぐさめようか。こうしてまだ男を知らないうちは、口説き落とすのも面倒だし、可哀想だが、結婚してしまえば、夫という関守が強く守っていても、女も男女の情愛が自然に分かってきて、気の毒に思う必要もなく熱心に口説くことができる。そうすれば人目についたところで差支えあるまい」と、思いつきます。
まったくとんでもないことですよ。
けれどもそんなことになったら、ますます心の安まる時もなく、思い続けることになって、辛いでしょう。いい加減に考えて放置することが、何としてでも難しいという、世にも珍しく、ややこしいお二人のご関係なのでした。
角田光代 2017-2020年
西の対へやってくることがあまりにも度重なって、女房たちの目が気になってくると、光君はさすがに気が咎めて思いとどまり、適当な用事を見つけてはしょっちゅう手紙を送る。ただもうこの姫君のことだけが、明けても暮れても心を占めているのである。
どうしてこんな筋違いの恋をして、心休む間もないほど悩んでいるのだろう。かといってこれ以上苦しむまいと、いっそ姫君を思い通りにしてしまうのも、世間の人から非難されるだろう軽率さだ。自分の評判はさておき、姫君のためにはあまりにも気の毒・・・。それにいくら尽きることのない思いだといっても、春の町の紫の上ほどに愛せるかというと、我が心ながらあり得ないとわかっている。それには劣る扱いでは、どれほどの幸福と言えようか。私自身は格別に高い身分にあるにしても、その大勢いる妻たちの末席に連なるのでは、世間体もいいとは言えまい。ならばいっそ、平々凡々の納言程度の者から、ただ一途に愛されるほうがましだろう。・・・と自分でもわかってはいて、それだけに姫君も不憫でならず、兵部卿宮(蛍宮)や右大将(髭黒)にいっそ結婚を許してしまおうか、そうだ、しかたがないけれどそうしよう、と思う時もある。けれども相変わらず西の対へ行って姫君の姿を目にし、今は琴を教えることをう口実にして、そば近くにいつも寄り添っている。姫君も、はじめこそ光君は気味悪く、またいやらしいとも思っていたのだが、こう近くにいても表立って何かをすることもなく、こちらが心配するようなことは何もないらしいとだんだん馴れてきれ、そうひどく嫌がることもなくなった。しかるべき返事も、馴れ馴れしくない程度に取り交わしている。そうなると姫君は会うたびに魅力が増し、うつくしさが深まってくるようで、やはりほかの男の元に行かせるわけにはいかないと光君は思い返すのである。それならそれでこの邸に住まわせて今まで通りだいじに世話をし、夫を通わせ、機会をうかがってさりげなく忍びこみ、話などをすることで気持ちをなぐさめようか。こんなふうに彼女がまだ男女のことを何も知らないうちに契りを結ぶのは面倒だし、気の毒でもあるが、結婚すれば、夫の厳しい目があっても、男女の情もしだいにわかってくるだろう。そうすればこちらも不憫に思うこともないし、またこちらがいよいよ本気になったら、たとえ人目が多くても何とか逢い続けられるだろう・・・。
などと考えてうるのですから、まったくけしからぬこと。
しかし結婚させてますます心休まる時がなくなり、姫君を気に掛け続けるのも苦しいだろう、さりとてあきらめてしまうことはどうあっても難しいに違いない。と、世にも珍しい厄介な二人の関係なのである。
KT 2023年
玉鬘のところに通うことが度重なって、人に不審に思われないよう、しっかり自制して、用事を作り出し、文を途切れなく通わせていた。ただこのことばかりを、明け暮れ心にかかるのだった。
「どうしてこう、余計な恋をして、あれこれ悩むのだろう。悩まずに、思いのままに振舞えば、世間の人のそしりを受ける軽率さ、自分の評判は措くとして、この人がかわいそうだ。限りなく愛すると言っても、紫の上の寵愛に並ぶほどのことは、自分ながら、ありえない」と承知している。「さて、その劣った妻の座では、大したものでもあるまい。わたしの身分こそ太政大臣で別格だが、女君がたくさんいる中での末席では、世間体も大したことではなかろう。ざらにいる納言程度の身分の者が、玉鬘ひとりを後生大事にするのには及ばないだろう」
と、自分で思い知っているので、玉鬘が可哀そうになり、「蛍兵部卿や髯黒の大将に結婚を許そうか、離れて他家へ行ったら、思いも絶えるだろう、成り行きだ、そうしよう」と思うこともあった。
しかし、通って行って、容貌を見てしまうと、今は琴を教えることにかこつけて、近くに寄るのであった。
姫君は、初めはとても嫌だと思っていたが、「口で言っても、穏やかで、心配はないのだ」と段々馴れてきて、それほど嫌がらなくなり、その折の返歌も、馴れ馴れしくならぬ程度に交わしていたので、会うたびに可愛らしくなり、美しさが増しているので、やはりそうやって結婚させてはいけないと思い返すのだった。
「さてまた、ここで大切に世話をして婿を迎え、夫のいない折々に忍んで、自分の気持ちを告げて心を晴らそうか。まだ男を知らぬ娘に策を弄するのは、気の毒ではあるが、夫の警戒が強くなっても、男女の情が分かるようになり、わたしがすっかりその気になったら、人目がしげくても気にならないだろう」と、実にけしからんことを考えている。
そうなったらいよいよ気持ちが騒ぎ、思いがつのるであろう。適当に思い過ごすことが、とにかく難しいので、あまり例のない二人の間柄である。
Arthur Waley 1925-1933年
There were times when he himself took fright at the frequency of his visits to this part of the house, and in order to make a good impression stayed away for days on end. But he always contrived to think of some point in connection with her servants or household affairs which required an endless going and coming of messengers, so that even during these brief periods of absence she was in continual communication with him, The truth is that at this point she was the only subject to which he ever gave a thought. Day and night he asked himself how he could have been so insensate as to embark upon this fatal course. If the affair was maintained upon its present footing he was face with the prospect of such torture as he felt he could not possibly endure. If on the other hand his resolution broke down and she on her side was willing to accept him as a lover, the affair would cause a scandal which his own prestige might disaster. He cared for her very deeply, but not, as he well knew, to such an extent that in time enable him to live down, but which for her would mean irreparable an extent that he would ever dream of putting her on an equality with Murasaki, while to thrust her into a position of inferiority would do violence to his own feelings and be most unfair to her. Exceptional as was the position that he now occupied in the State, this did not mean that it was any great distinction to figure merely as a belated appendage to his household, Far better, he very well knew, to reign supreme in the affections of some wholly unremarkable Deputy Councillor! Then again there was the question whether he ought to hand her over to his stepbrother Prince Sochi or to Prince Higeguro. Even were this course in every way desirable, he gravely doubted his own capacity to pursue it. Such self-sacrifices, he knew, are easier to plan than to effect. Nevertheless, there were times when he regarded this as the plan which he had definitely adopted, and for a while he could really believe that he was on the point of carrying it out. But then would come one of his visits to her. She would be looking even more charming than usual, and lately there were these zither lessons, which, involving as they did a great deal of learning across and sitting shoulder to shoulder, had increased their intimacy with disquieting rapidity. All his good resolutions began to break down, while she on her side no longer regarded him with anything like the same distrust as before. He had indeed behaved with model propriety for so long that she made sure his undue tenderness towards her was a thing of the past. Gradually she became used to having him constantly about her, allowed him to say what he pleased, and answered in a manner which though discreet was by no means discouraging. Whatever resolutions he may have made before his visit, he would go away feeling that, at this point in their relations, simply to hand her over to a husband was more than the most severe moralist could expect of him. Surely there could be no harm in keeping her here a little longer, that he might enjoy the innocent pleasure of sometimes visiting her, sometimes arranging her affairs? Certainly, he could assure himself, his presence was by no means distasteful to her. Her uneasiness at the beginning was due not to hostility but to mere lack of experience. Though 'strong the watchman at the gate,'she was beginning to take a very different view of life. Soon she would be struggling with her own as well as his desires, and then all her defenses would rapidly give away....
A Bed of Carnations
Edward G.Seidensticker 1976年
Uncomfortable about the frequency of his visits, he took to writing letters, which came in a steady stream. She was never out of his thoughts. Why, he asked himself, did he becom so engrossed in matters which sould not have concered him? He knew that to let his feelings have their way would be to give himself a name for utter frivolity, and of course to do the girl great harm. He knew further that though he loved her very much she would never be murasaki's rival. What sort of life would she have, but a lesser lady was still a lesser lady. Should he then let Hotaru or Higeguro have her? He might succeed in resigning himself to such an arrangement. He would not be happy, but - or so he sometimes thought - it might perhaps after all be best. And then he would see her, and change his mind.
He still visited her frequently. The Japanese koto was his excuse.Embarassed at first to find herself his pupil, she presently began to feel that he did not mean to take advantage of her, and came to accept the visits as normal and proper.Rather prim and very careful to avoid any suggestion of coquetry, she pleased him more and more. Matters could not be left as they were.
Suppose then that he were to find her a bridegroom but keep her here at Rokujo, where he could continue to see her,clandestinely, of course. She knew nothing of men, and his overtures disturbed her,He had to feel sorry for her; but once she was better informed he would make his way past the most unblinking of gatekeepers and have his way with her. These thoughts may not seem entirely praiseworthy. The longing and fretfulness increased and invite trouble - it was a very difficult relationship indeed.
Wild Carnations