源氏物語を読む 現代文比較 ④

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源氏物語は様々な文人や学者によりまた市井の愛好家によって、現代文にされている。
源氏と明石の君の間に生まれ娘を紫の上が育てることになり、源氏が引き取りに行く場面である。雪の別れといわれる。明石の上が娘を渡す心の葛藤が書かれるが、さりげなく実に簡潔に書かれているので、読者の想像は追いつかない。その箇所を選びました。
薄雲の巻から

原文
この雪すこし解けて渡りたまへり。例は待ちきこゆるに、さならむとおぼゆることにより、胸うちつぶれて、人やりならず、おぼゆ。
† 「わが心にこそあらめ。いなびきこえむをしひてやは、あぢきな」とおぼゆれど、「軽々しきやうなり」と、せめて思ひ返す。
いとうつくしげにて、前にゐたまへるを見たまふに、
おろかには思ひがたかりける人の宿世かな
と思ほす。この春より生ふす御髪、尼削ぎのほどにて、ゆらゆらとめでたく、つらつき、まみのかおれるほどなど、言へばさらなり。よそのものに思ひやらむほどの心の闇、推し量りたまふに、いと心苦しければ、うち返しのたまひ明かす。
何か。かく口惜しき身のほどならずだにもてなしたまはば
と聞こゆるものから、念じあへずうち泣くけはひ、あはれなり。
薄雲の巻


与謝野晶子 1912年/1938年
この雪が少し解けたころに源氏が来た。平生は待たれる人であったが、今度は姫君をつれて行かれるかと思うことで、源氏の訪れに胸騒ぎのする明石であった。
自分の意志で決まることである、謝絶すればしいてとはお言いにならないはずである、自分がしっかりとしていればよいのであると、こんな気も明石はしたが、約束を変更することなどは軽率に思われることであると反省した。
美しい顔をして前にすわっている子を見て源氏は、
この子が間に生まれた明石と自分の因縁は並み並みのものではないと思った。
今年から伸ばした髪がもう肩先にかかるほどになっていて、ゆらゆらとみごとであった。顔つき、目つきのはなやかな美しさも類のない幼女である。これを手放すことでどんなに苦悶くもんしていることかと思うと哀れで、一夜がかりで源氏は慰め明かした。
「いいえ、それでいいと思っております。私の生みましたという傷も隠されてしまいますほどにしてやっていただかれれば」
と言いながらも、忍びきれずに泣く明石が哀れであった。

谷崎潤一郎 1939年/1965年
この雪が少し解けた時分に、殿がお渡りになりました。いつもなら待ちこがれているところですのに、さてはと感じると胸が潰れるのですが、誰を咎めようもありません。もともと自分の心次第であるものを、いやでございますと申し上げてしまえば、それでもとはおっしゃるまいに、つまらないことになったものよと思うのですけれども、いまさら軽々しいようなので、じっと思い返しています。殿は可愛らしいおん方が、おん目の前いらっしゃるのを御覧なされて、おろそかには思えない宿縁のある人かなとお思いになります。この春からお伸ばしになったおぐしが、尼の切下げ髪くらいにゆらゆらと揺れているのもめでたく、顔だち、眼つきの美しい具合など、言うも愚かなことなのです。これを人手に渡す母親の心の闇をお察しになりますと、ひどく気の毒におなりなされて、繰り返して慰め給いながらお明かしになります。「何のまあ、こういういやしい者の子のようではなく、お扱になってさえ下さいましたら」と申し上げつつも、怺えかねて泣くけはいがいじらしいのです。

玉上琢弥 1965年
この雪の少しとけたころ殿がお見えになった。いつもならお待ちかね申すのだが、あれだろうと思われているせいで、胸にこたえて、人のせいではないと思う。自分の一存によるであろう。おことわり申したら無理にはなさるまい。つまらないことをしたと思うが(いまさらおことわりなど)、身分にかかわろう、と、しいて思いなおす。(姫君が)とてもかわいい様子で、前におすわりなのを(殿は御覧になるにつけ)、「おろそかには思えないこの人の運命だ」とお思いになる。この春からのばしはじめたおぐしは、尼そぎぐらいになり、ゆらゆらとみごと、顔つき、目つきのつやつやしいところなど、言うに及ぶまい。他人の物として遠くから思う時の、(生みの親の)心の苦しさを御想像なさると、きのどくで、くり返しておさとしになる。「いいえ、いいえ、わたくしのような身分でないような身分でないようにさえ、してくださいましたら」してくださいましたら」と申しはするものの、こらえきれずに泣く様子はかわいそうである。

瀬戸内寂聴 1997年
この雪が少し解けた頃に、源氏の君は大井をおたづねになりました。明石の君はいつもなら待ちかねていらっしゃるのに、今日、姫君をお迎えにいらっしゃったのだろうと感じ、胸もつぶれる思いがして、これも誰のせいでもない自分の招いたことなのだと悔やまれます。
「もともとお断りするのも従うのも自分の心次第なのだから、いやだと申し上げたら、それでも無理にとはおっしゃらないだろうに。つまらないことになってしまって」
と思いますけれど、今更お断りするのも軽率なようなので、強いて思い直しています。
源氏の君は、姫君がいかにも可愛らしい姿で、目の前に座っていらしゃるのを御覧になりますと、
「こんないとしい子をもうけたこの人との宿縁は、いい加減に思ってはならないのだ」
とお考えになります。
この春からのばしはじめた姫君のおぐしが尼のそいだ髪のように、肩のあたりでゆらゆら揺れているのが可愛らしく、顔つきや目もとのはんなりと匂うような美しさなど、今さら言うまでもありません。
この可愛い子を人手に渡して、遠くから案じつづけるだろう明石の君の、親心の闇をお察しになりますと、源氏の君はたまらず不憫ふびんになられ、安心するようにと繰り返し、夜を徹してお慰めになります。
「いいえ、何で悲しみましょう。せめて、わたくしのようなつまらない者の子としてではなくお扱く下さいますのなら」
と申しあげながらも、こらえきれずにしのび泣く気配が痛々しいのです。

渋谷榮一 1996年
この雪が少し解けてお越しになった。いつもはお待ち申し上げているのに、きっとそうであろうと思われるために、胸がどきりとして、誰のせいでもない、自分の身分低いせいだと思わずにはいられない。
 「自分の一存によるのだわ。お断り申し上げたら無理はなさるまい。つまらないことを」と思わずにはいられないが、「軽率なようなことだわ」と、無理に思い返す。
とてもかわいらしくて、前に座っていらっしゃるのを御覧になると、
「おろそかには思えない宿縁の人だなあ」
とお思いになる。今年の春からのばしている御髪、尼削ぎ程度になって、ゆらゆらとしてみごとで、顔の表情、目もとのほんのりとした美しさなど、いまさら言うまでもない。他人の養女にして遠くから眺める母親の心惑いを推量なさると、まことに気の毒なので、繰り返して安心するように言って夜を明かす。
「いいえ。取るに足りない身分でないようにお持てなしさえいただけしましたら」
と申し上げるものの、堪え切れずにほろっと泣く様子、気の毒である。

大塚ひかり 2008年
この雪が少し溶けてから、源氏の君は大井にやって来ます。御方は、いつもは君をお待ちしているのに、「若君の件でいらしたのだ」と思うと、胸がつぶれながらも誰を責めることもできない気持ちです。
私の心次第だろう。お断りしても無理強いはなさらないだろうに。つまらぬことをした」と思いますが、「今さらお断りしても無理強いはなさらないだろうに。つまらぬことをした」と思いますが、「今さら断るのは軽々しいようだし」と、強いて思い返します。
若君がそれは可愛らしく前に座っているのを見ると、君は、
「とてもおろそかには思えない縁であるなあ」と明石の御方のことを思います。
この春から伸ばした御髪が尼そぎぐらいの長さになって、ゆらゆらと見事で、頬や目元の香るような美しさなど、いまさら言うまでもありません。この若君を他人の子として思いを馳せる御方の、子を思う、”心の闇”を想像すると、とても胸が痛むので、君は繰り返し慰めて夜を明かします。
「いえいえ、せめて私のような口惜しい身の程とは違うお扱をしてくださるのなら」と申すものの、こらえきれずに涙をこぼす様子があわれです。

上野榮子 2008年
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角田光代 2017-2020年
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KT 2023年
雪が少し融ける頃、君はお越しになった。いつもは待ちかねているのに、姫を連れに来たのだと思うと、胸がつぶれて、苦しかった。
「自分の一存だ。渡すのを拒めば無理はしないだろうが、つまらないことをした」と思うし、「今更お断りしたら、軽率だ」と思い直した。
姫君がとてもかわいい様子で、前にいるのを見ると、
「明石の上との縁は前世から深いのだ」
と君は思う。この春からのばしはじめた姫の髪は、尼そぎの程度にのびて、ゆらゆらとみごとで、顔つきや目の輝きなどすばらしい。娘を他人に渡すという苦しい心の闇を推し量るに、明石の君が気の毒になり、夜を徹してお話される。
「いいえ、わたしのような賎しい身分としてではなく育てて下されば」
と言うのだが、こらえきれずに泣くさまは、あわれであった。

Arthur Waley 1925-1933年
The snow was now falling a lillte less fast. Suddenly Genji appeared at the door.The moment during which she waited to receive him put always in a state of painful agitation. Today guessing as she did the purpose of his visit, his arrival threw her immediately into an agonizing conflict. Why had she consented? There was stil time. If she refused to part with the child,would he snatch it from her? No, indeed; that was unthinkable. But stay! She had consented; and should she change her mind, she would lose his confidence for ever. At one moment she was ready to obey; a moment afterwards, she had decided to regist by every means in her power.
She sat by the window, holding the liltel girl in her arms. He thought the child very beautiful, and felt at once that her birth was one of the most important things that had happened in his life. Since last spring her hair had been allowed to grow and it was now an inch or two long, falling in delicate waves about her ears like that of a little novice at a convent. Her skin too was of exquisite whiteness and purity, and she had the most delightful eyes. To part with such a creature, to send her away into strange hands - he understood well enough what this must mean, and suddenly it seemed to him that it was impossible even to suggest such a sacrifice. The whole matter was reopend, and a discussion followed which lasted the better part of the day.'whether it is worth while depends on you,' she said at last. 'It is in your power to make amends to the child for the disadvantage of its birth. And if I thought that you meant to do so....'he was worn out by the long discussion, and now burst into tears. It was terrible to witness such distress.
A Wreath of Cloud

Edward G.Seidensticker 1976年
The snow had melted a little when Genji paid his next visit. She would have been delighted except for the fact that she knew its porpose. Well, she had brought it on herself. The decision had been hers to make. Had she refused he would not force her to give up the child. She had made a mistake, but would not risk seeming mercurial and erratic by trying to rectify it at this late date.
The child was sitting before her, pretty as a doll. Yes, she was meant for unusual things, one could not deny it.Since spring her hair had been allowed to grow, and now, thick and fowing, it had reached the length that would be usual for a nun. I shall say nothing of the brught eyes and the glowing, delicately carved features. Genji could imagine the lady's anguish at sending her child off to a distant foster mother. Over and over again, he sought to persuade her that it was the only thing to do.
"Please, you needn't. I will happy if you see that she becomes something more than I have been myself." But for all her valiant efforts at composure she was in tears.

公開日2023年2月19日