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源氏物語は様々な文人や学者によりまた市井の愛好家によって、現代文にされている。
源氏が明石の君を初めて訪れる場面。
明石の巻から。
原文
造れるさま、木深く、いたき所まさりて、見どころある住まひなり。海のつらはいかめしうおもしろく、これは心細く住みたるさま、「ここにゐて、思ひ残すことはあらじ」と、思しやらるるに、ものあはれなり。三昧堂近くて、鐘の声、松風に響きあひて、もの悲しう、岩に生ひたる松の根ざしも、心ばへあるさまなり。前栽どもに虫の声を尽くしたり。ここかしこのありさまなど御覧ず。娘住ませたる方は、心ことに磨きて、月入れたる真木の戸口、けしきばかり押し開けたり。
うちやすらひ、何かとのたまふにも、「かうまでは見えたてまつらじ」と深う思ふに、もの嘆かしうて、うちとけぬ心ざまを、「こよなうも人めきたるかな。さしもあるまじき際の人だに、かばかり言ひ寄りぬれば、心強うしもあらずならひたりしを、いとかくやつれたるに、あなづらはしきにや」とねたう、さまざまに思し悩めり。「情けなうおし立たむも、ことのさまに違へり。心比べに負けむこそ、人悪ろけれ」など、乱れ怨みたまふさま、げにもの思ひ知らむ人にこそ見せまほしけれ。
439字
与謝野晶子 1912年/1938年
山手の家は林泉の美が浜の邸にまさっていた。浜の館は派手に作り、これは幽邃あることを主にしてあった。若い女のいる所としてはきわめて寂しい。こんな所にいては人生のことが皆身にしむことに思えるであろうと源氏は恋人に同情した。三昧堂が近くて、そこで鳴らす鐘の音が松風に響き合って悲しい。岩にはえた松の形が皆よかった。植え込みの中にはあらゆる秋の虫が集まって鳴いているのである。源氏は邸内をしばらくあちらこちらと歩いてみた。
娘の住居になっている建物はことによく作られてあった。月のさし込んだ妻戸が少しばかり開かれてある。
そこの縁へ上がって、源氏は娘へものを言いかけた。これほどには接近して逢おうとは思わなかった娘であるから、よそよそしくしか答えない。貴族らしく気どる女である。もっとすぐれた身分の女でも今日までこの女に言い送ってあるほどの熱情を見せれば、皆好意を表するものであると過去の経験から教えられている。この女は現在の自分を侮あなどって見ているのではないかなどと、焦慮の中には、こんなことも源氏は思われた。力で勝つことは初めからの本意でもない、女の心を動かすことができずに帰るのは見苦しいとも思う源氏が追い追いに熱してくる言葉などは、明石の浦でされることが少し場所違いでもったいなく思われるものであった。
571字
谷崎潤一郎 1939年/1965年
岡の家というのは、木立の
しばらくしてから、何やかやと仰せになるのですけれども、こうまで親しくはお目にかかるまいと、深く思い込んでいましたにつけても溜息が出まして、打ち解けぬ様子をしていますので、たいそう人柄らしくしていることよ、もっと身分の高い人でも、これほどまでに言い寄れば、そう強情を張るようなことはないのが例であるのに、今は尾花打ち枯らしているので、侮っているのであろうかと、くやしくお感じになったりしまして、さまざまにお悩みになります。そう荒々しく振舞って無理なことをしますのも本意ではありません。そうかといって、意地くらべに負けてしまうのは不体裁だしなどと、やきもきなさるおん有様は、全くものの情けを知る人に見せてやりたいようなのです。
637字
玉上琢弥 1965年
岡辺の家は森の中にあって、数寄をこらし、結構な住まいである。海辺の家は、堂々として興をひく建て方であったが、これはいかにもはかない住まいの様子、こういう所で暮らしたら、さぞありうる限りの物思いをしつくす事であろうと想像もされて、心が痛むのである。三昧堂が近くにあり(勤行の)鐘の音が松風の響きと一緒に聞こえ何やら悲しく、岩に生えている松の根ざしまでが情趣ありげの様子である。前栽には虫が声の限りに鳴いている。邸内ありらこちらの有様を御覧になる。娘を住まわせてある一棟は、特別に美しくしてあって、月の光のさしこむ木戸口が、ほんの心持だけ、あけてあった。
(君は)しばしたたずんで何かとお言葉をおかけになる。が、(女は)こんなおそば近くにはあがるまいと固い決心であったので、なにか悲しくなり、お返事も申さないやり方を、「みごとに貴婦人ぶっているな。男とあうなど思いもかけないほど身分の高い女でも(わたしが)こんなにそばに寄って言葉をかければ、はねつけたりしないのがおきまりだったのに。こんな風に落ちぶれているので馬鹿にしているのか」と、しゃくで、進むべきか退くべきか御決心がつかない。
女の意志を無視して無理じいするするのも、入道の心を思えば、よろしくない。根競べに負けたりしては、外聞がわるい、など、よそゆきの態度はやめて恨み言をおっしゃる(その御様子)噂どおり情趣のわかる人に見せたい気がした。
599字
瀬戸内寂聴 1997年
岡の邸の造り方は、木立が深々と茂って、なかなか数寄を凝らした見どころのある住まいでした。海辺の邸は、どっしりとして趣に富んでいますが、こちらはいかにもひっそりともの静かなたたずまいで、こういう所に暮らしていたら、ある限りの物思いをし尽くすことだろうと、住む人の心も思いやられて、しみじみとせつなくなられます。
三昧堂が近くにありますので、鐘の音が、松風に響き合って聞こえるのももの悲しく、岩に生えている松の根の姿さえ、何やら風情ありげです。前庭の草かげには、秋の虫が声も限りに鳴きたてています。源氏の君は邸内のここかしこを御覧になります。
娘を住まわせてある方の一棟は、格別念入りに磨きたてて、月光のさし入った槙の戸口を、ほんの少し開けてあります。
内に入られた源氏の君が、ためらいがちに、あれこれとお話かけなさいましても、娘はこれほどまで近々と親しくお目にかかりたくないと深く思いこんでいましたので、ただ悲しくなって、少しも打ち解けようとはしません。その娘のかたくなな心構えを、源氏の君は、
「何とまあ、ひどく上品ぶって気どっていることよ。もっと近づきがたい高貴な身分の人たちでも、ここまで近づいて言い寄れば、気強く拒みきれないのが普通だったのに、自分が今、こんなに零落しているので、侮っているのだろうか」
と、癪に障り、さまざまに思い悩まれるのでした。
「思いやりなく、無理を押し通すのも、今の場合、ふさわしくない行為だ。かといって、このまま根比べに負けてしまっては、体裁の悪い話だ」
などと、思い悩んで、恨みごとをおっしゃる源氏の君の御様子は、全く、物の情けのわかる人にこそ見せたいようでした。
701字
渋谷榮一 1996年
造りざまは、木が深く繁ってひどく感心する所があって、結構な住まいである。海辺の住まいは堂々として興趣に富み、こちらの家はひっそりとした住まいの様子で、「ここで暮らしたら、どんな物思いもし残すことはなかろう」と自然と想像されて、しみじみとした思いにかられる。三昧堂が近くにあって、鐘の音が松風に響き合ってもの悲しく、巌に生えている松の根ざしも情趣ある様子である。前栽などに秋の虫が盛りに鳴いている。あちらこちらの様子を御覧になる。娘を住ませている建物は格別に美しくしつらえてあって、月の光を入れた真木の戸口は、ほんの気持ちばかり開けてある。
君は少しためらいがちに何かと言葉をおかけになるが、娘は「こんなにまでお側近くには上がるまい」と深く決心していたので、何となく嘆かわしくて、気を許さない娘の態度を、「ずいぶんと貴婦人ぶっているな。容易に近づきがたい高貴な身分の女でさえ、わたしがこれほど近づいて言葉をかけてしまえば、気強く拒むことはないのであったが、このように落ちぶれているので、見くびっているのだろうか」といまいましくて、いろいろと悩んでいるようである。「容赦なく無理じいするのも、意向に背くことになる。かといって根比べに負けたりしたら、体裁の悪いことだ」などと、千々に心乱れてお恨みになるご様子は、本当に物の情趣を理解する人に見せたいものである。
576字
大塚ひかり 2008年
岡辺の家の造りは木立が深く、趣向をたっぷり凝らしてあって、見どころのある住まいです。君のいた海辺の家は堂々として趣がありますが、こちらの家は、心細く娘が住んでいる有様、ここでありったけの物思いをし尽くしている様子が想像されて、なにやら胸が締めつけられます。三枚堂が近くにあって、鐘の声が松風に響き合って物悲しく、岩に生えた松の根も風情のある感じです。たくさんの植え込みに、虫が声を尽くしています。君はあちこちを見物します。・・・月を入れた槙の戸口・・・を、ほんの気持ちていど押し開けてあります。
少し遠慮がちに、何かと口説いてみますが、娘は“かうまでみえたてまつらじ”・・・ここまで親しくはお目にかかるまい、身を許すまい・・・と深く思っているので、なにやら悲しくて心を開こうとしません。そんな娘のやり方を君は、
「えらく一人前じゃないかそう簡単に近寄れない高貴な人ですら、これほど言い寄れば、強くは拒まないのが普通なのに、私がこうも落ちぶれているので、なめているのか」と、いまいましくて、あれこれ思い悩んでいます。
「情け容赦なく無理強いするのも、今回の場合違う。根比べに負けるのもみっともないし」などと心乱れて、恨む姿は、なるほど入道の言う“あたら夜の”の古歌さながら、違いの分かる人にこそ見せたいものです。
上野榮子 2008年
岡辺の家の構えは木立が深くて、数寄を凝らしたようなところが海辺の家よりずっとすぐれていて、結構な住居であった。海辺の入道の家は素晴らしく壮大で風情があったが、ここ岡辺の家は、娘がしめやかに住んでいる様子で、ここで暮らしていると、いろいろ物思いをし残す事はあるまいと思うほど物思いをするであろうと、住んでいる人の気持ちが自然に思いやられるので、何となしに、感慨が深い。入道の勤行する三昧堂に近いので、鐘の音や松風が響き合って物悲しく聞こえ、岩に生えている松の根の延びている様も風情がある様子である。庭の植え込みの中では、秋の虫たちが声を限りに鳴いている。源氏の君は邸の中のここかしこの有様をご覧になる。娘を住まわせている方の建物は、特別に気をつかって立派に造作して、月の光をさし入れた槙の妻戸は、しるしばかり開いている。源氏の君は槙の板戸を押し開けて娘の許に行き、しばらく御休憩になって、何やかやとお話し掛けになるが、こんなに身近で自分の姿を見られ申したくないと、娘は心に深く思っているので、突然の事で気持ちが顛倒して源氏の君の御接近が嘆かわしくて、気持ちを許そうとしない態度を、君はえらく貴婦人ぶって澄ましているなあ、めったに靡きそうにないような高貴な身分の女であっても、男がこれほどまでに身近に言い寄れば、そう気強くは拒みきれないのが普通なのだが、まったく、自分(源氏)が、こんなに落ちぶれて衰えているために、娘は自分を軽んじて馬鹿にしているのであろうかと、源氏の君は、娘が憎らしく、悔しくて、さまざまに思い悩み給うのであった。情けも容赦もなく、無遠慮な振舞をするのは周囲の事情に合わない。そうかと言って、娘との根気較べに負けるのも、人聞きの悪い事だなどと、御心も乱れて、娘をお恨みになる御様子は、本当に、物の風情を理解するような人があったら見せたいものである。
784字
角田光代 2017-2020年
岡辺の家は、庭木が鬱蒼と茂り、なかなか趣向が凝らしており、みごとな造りである。海辺の邸は贅沢な造りではなやかだが、こちらはひっそりとした感じである。このようなところに住んでいたら、あらぬ限りのもの思いをし尽くさずにはいられないだろうと、光君は娘に同情する。三昧堂が近く、鐘の音が松風と響き合ってもの悲しい気分にさせ、岩に生えた松の根も風情がある。庭の植えこみのあちこちで、秋の虫がいっせいに鳴いている。光君は邸内の様子をあちこち見てまわった。娘が住んでいる一角は、とくべつ念入りに磨き立ててあり、月の光が射しこんだ妻戸の戸口が、誘うように開いている。
光君がためらいがちに、何やかやと口にするが、娘はこれほど間近くはお目にかかるまいとかたく決めているので、嘆かわしくなり気を許そうとしない。その態度を、
「なんとまあいっぱしの貴婦人気取りだろう。もっと近づきがたい高い身分の人でもこれほど近づいてしまえば、気丈に拒み続けたりしないのがふつうなのに。私がこんなに落ちぶれているから、見くびっているのだろうか」と光君は癪に思い、あれこれと思いめぐらせる。「思いやりなく無理強いするのも、この場合にはふさわしくない。かといって意地の張り合いに負けるのもみっともない」などと、困惑して恨み言をつぶやく姿は、まったく真に情趣をわきまえる人にこそ見てほしいもの。
587字
KT 2023年
岡辺の家は、木立が深く、数寄をこらしたすばらしい住まいだった。海辺の住まいは堂々としていたが、こちらは物静かなたたずまいで、「ここでは存分に物思いにふけるだろう」と思えて、あわれだった。三昧堂が近く、鐘の音が松風に響きあって物悲しく、岩に生えた松の根も意味ありげだった。庭の植え込みに虫の声がしきりにした。あちこちの風情をご覧になる。娘が住んでいる方は、念を入れて調えて、月の光が漏れ入る木戸口は、少し開けてあった。
君は中に入り、ためらいながら、何かと話しかけるが、「こんなに近くで見られたくない」と娘は決意しているので、君は嘆かわしく、打ち解けてくれない心根を、「実に気位が高い。男に容易になびかぬ身分の高い女も、これくらい言い寄れば、普通は強情ははらぬもの、わたしが都落ちしたので、軽く見られたのか」と口惜しく、さまざまに思い悩んだ。「無理強いするのは、この際よくない。根競べに負けたら、見っともない」など、思い乱れるさまは、物思い知る人に見せたいくらいだ。
479字
Arthur Waley 1925-1933年
It was indeed a house impressively situated and in many ways remarkable; but it had not the conveniences nor the cheerful aspects of the house on the shore. So dark snd shut-in an appearance did it present as he drew near, that Genji soon began to imagine all its inhabitants as necessarily a prey to the deepest melancholy and felt quite concerned at the thought of what they must suffer through living in so cheerless a place. The Hall of Meditation stood close by and the sound of its bell uneveven ground grew precariously out of a ledge of rock, their roots clutching at it like dome desperate hand. From the plantations in front of the house came a cofused wailing of insect voices.
He looked about him.That part of the house which he knew to be occupied by the lady and her servants wore an air of festive preparation. Full in the moonlight a door stood significantly ajar. He opened it.'I wish to rest for a few minutes,' he said; 'I hope you have no objectionto my coming in?'She had in fact the greatest ocjection, for it was
agaist just such a meeting as this that she had resolutely set her face. She could not actually turn him away; but she showed no signs of making him welcome.He thought her in fact the most disagreeable young person whom he had ever met.He was accustomed to see women of very much greater consequence than this girl show at any rate a certain gratification at being thought worthy of his attentions.She would not, he felt, have dared to treat him so rudely but for the present eclipse of his fortunes.
He was not used to being regarded so lightly, and it upset him. The nature of the circumstances was obviouly not such that he could carry off the situation with a high hand. But though violence was out of the question, he would certainly cut a very ridiculous figure in the eyes the girl's parents if he had to admit that she showed no signs of wanting to be acquainted with him. He felt embarrassed and angry.
Edward G.Seidensticker 1976年
The house was a fine one,set in a groove of trees.Carefull attention had gone into all the details. In contrast to the solid dignity of the house on the beach,this house in the hills had a certain fragility about it, and he could imagine the melancholy thoughts that must come to one who lived here. There was sadness in the sound of the temple bells borne in on pine breezes from a hall of meditation nearby. Even the pines seemed to be asking for something as they sent their roots out over the crags. All manner of autumn insectes were singing in the garden. He looked about him and saw a pavilion finer than the others. The cypress door upon which the moonlight seemed to focus slightly open.
He hesitated and spoke. There was no answer. She resolved to admit him no nearer. All very aristocratic, thought Genji. Even ladies so wellborn they were sheltered from sudden visiters usually tried to make conversation when the the visitor was Genji. Perhaps she was letting him know that he was under a cloud. He was annoyed and thought of leaving. It would run against the mood of things to force himself upon her, and on the other hand he would look rather silly if it were to seem that she had bested him at this contest of wills. One would indeed have wished to show him,the picture of dejection, "to someone who knows."
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