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これは紫式部集のなかから秀歌と思われるものをぬきだしたものです。もちろん全133首(実践女子大本126首+陽明本から7首)の中から、秀歌として選びだすのは、個人の嗜好に左右される。私は紫式部の人生観がよく表れた歌を選ぶようにした。
※ 頭の番号が註釈にリンクしてます。・・・管理人
(評釈・感想)
『新古今和歌集』『定家八代抄』『百人秀歌』『女房三十六人歌合』『百人一首』所収。「ほのか」はっきり見わけたり、聞きわけたりできないさま、ぼんやり、うっすら、ほんの少し、わずか、ちょっと。少しの間。
式部の若い頃の清新な一首。幼い頃からの友人と、久しぶりに会えて、友がまたすぐ帰ってしまったので、それを雲隠れする月に喩えて歌ったもの。恐らく友だちは受領の子で、親の赴任に伴って、行かざるを得なかったのだろう。「見しやそれともわかぬ間に」”会えて幾許もない内に、久しぶりに会って十分お話もできぬ間に”。友はそれとも、当時は女性は屋内でも人に顔を見せない習慣があり、友人の女性は人に隠れるように夜遅く来て、隠れるようにすぐ去ったものか。この少女期に式部は、人と別れる悲しみを知ったか。
(評釈・感想)
『千載和歌集』所収。遠い所に行っていた友が亡くなり、親兄弟が帰ってきて、生前の話をするので、友との永久の別れに式部は悲しい感情を味わう。「いづかたの雲路と聞かば訪ねまし」の表現に、若さの活力が感じられ、「列離れけむ雁がゆくへを」の表現が秀逸である。親しき人に死別すると、すこし恐ろしいが、こんな気持ちになる。
(評釈・印象)
『新古今和歌集』『時代不同歌合』『歌枕名寄』所収。この歌は秀歌とはいえないが、夫宣孝を結婚後わずか3年で失った哀しみを詠ったもの。宣孝の喪失は式部にとって、人生を狂わす一大契機となった。終生彼女の人生に憂愁が漂う契機となった。
(評釈・印象)
式部は人生無常をすでに心底から感得しているのに、幼い子の行く末を祈っていることの矛盾を自虐的に詠っている。
(評釈・印象)
詞書にある初出仕は、寛弘三年(1006)十二月二十九日とされる。寛弘二年・寛弘元年説もあり。夫宣孝が亡くなってて寡婦となり、ひとり子の賢子を抱えて、すでに人生の苦渋をなめた。どういう契機であったか分らぬが、中宮の彰子のもとへ宮仕えをはじめた頃の歌である。内裏の壮麗さに驚いている一方で、すでに式部の胸の底には、人生憂愁の思いが深い。式部にとって夫を結婚3年でなくしたことは、彼女の人生の一大契機となった。
(評釈・印象)
『後拾遺和歌集』『後六々撰』『古来風体抄』所収。世の中を憂きものとしてどうして嘆いたりできましょうか、花を愛でる気持ちがあるのなら。このような心境になりたいものだ。いい歌だが、これは実地に移し、実践するのは難しい歌だ。
(評釈・印象)
『新古今和歌集』所収。返歌とあるが、贈歌がない。前が四行空白となっていて、「やれてなし」(破れてない)と写書生のコメントあり。年代が分らないが、結婚時代の夜離れの歌と見る。このようにつらい夜を過ごした時もあったのだ。「心のかぎり待ちぞ侘びにし」の表現がつらい。
(評釈・印象)
夜離れの歌と見る。夫宣孝が他の女のところへ行って、式部の処に来ない日が続く。式部も人並みにこのような苦しみを味わったのであろう。プライドの高い式部には、我慢のできない日々の苦渋を詠った。夫の死後、病気になって気が弱くなり、秋までは生きていられないだろう、と詠ったと解釈する人もいる。「秋までは見じ」の解釈はが分れるところです。/ ただ単に、撫子の花は露がおりる秋までは咲いていないだろう。と詠っており、自分の身を、夫との関係をそれになぞらえて、暗示した歌とも取れる。
(評釈・印象)
『続詞花和歌集』『千載和歌集』所収。寛弘5年(1008)土御門殿へ行幸が近づいた秋のことである。式部36才頃。土御門殿の池の水鳥だろう。水鳥が思うままに水に浮いて遊んでいるのを見て、わが身をふりかえって内省する。世の出来事・現象・あり様を見てわが身に振り替えて、わが身にそって感じるのは、式部の考え方の特徴である。『日記』に帝が土御門殿を行幸するの描写があり、その中で、御輿をかつぐ駕輿丁が苦し気にしているのを見て、自分と異なることがないと感じているのである。
(評語・感想)
『玉葉和歌集』に所収。里帰りして、同僚から文に対する返歌。この歌は寛弘5年(1008)の作、出仕して、2年程たっている。(出仕は寛弘元年・二年説もあるが)寛弘3年(1006)十二月二十九日に初参内したと推定されていて、初めて出仕した時のことを思い出して、年数もたちすっかりもの馴れた自分の身を疎ましく思う。年の瀬に詠った歌。「心のうちのすさまじき哉」、世に生きている寂しさと自分のそのときの感情を表わしたこの表現は、後の西行・芭蕉に通じる同じ感慨だろう。極めて日本人的感情だと思う。
(評釈・感想)
里にさがって同僚の女房から、初雪の見舞いの歌、「しばらくお会いしてませんが、お元気ですか」程度の挨拶の歌。それに対する式部の二首の返歌が、式部の人生観をよく表している。友のこの歌が契機となっている。
(評釈・印象)
『新古今和歌集』所収。長く生きていると、憂さばかりが多い世ですが、それとも知らずに、荒れた庭に初雪が積もっている。式部の代表的歌と思う。
(評釈・印象)
『千載和歌集』所収。この身をどう処したらいいのか分らないので憂き世と思いながらも生き永らえている。上の一首とともに、初雪にちなんで、挨拶代わりの友人の歌にふいと出た、式部の代表的歌と思う。
(評語・感想)
『新古今和歌集』所収。詞書に、「小少将の君の書きたまへりしうちとけ文の、物の中なるを見つけて、加賀少納言のもとに」とあり、亡くなった小少将の君は、式部ととても仲の良かった同僚、中宮彰子に仕える女房だった。局が隣同士なので、中仕切りを撤去して、二人で一つ部屋に住むほど仲が良かった。道長が、内緒にしている男が来たらどうするのか、とからかっている様子が、『紫式部日記』に出ている。その小少将の君は、長和二年(1013)(式部41歳まだ中宮に仕えている)に亡くなったので、この歌は、式部晩年の頃だろう。親友の打ち解けた文を、しまい込んだものの中から見つけて、誰が生き永らえて友のこの文を見るでしょうか、と感慨にふけっている。実に悲しい歌だ。その文は式部以外は、おそらく誰にも顧みられないことだろう。
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公開日2025年1月4日