紫式部日記目次   ♠紫式部年譜♠  紫式部集
和暦 西暦 式部推定年齢 出来事 その他
天禄元年
天延元年
天元元年
970年
973年
978年
1才 緒説がある。
天禄元年(970)(今井源衛説)がある。
天延元年(973)(岡一男説)がある。
天元元年(978)(与謝野晶子説)がある。
前後3才~8才の差がある。ここでは天延元年(973)をとって式部の年齢とする。
母は早くに亡くなったらしい。日記にも歌集にも母にふれた記事が全くない。同腹に、姉と弟の惟則のぶのりがいたが、姉も若くして亡くなったらしい。
寛和2年 986年 14才 7月一条天皇即位(7)
父為時、官職を失う。以後十年間、散官の憂き目を見る。式部、十四歳から二十三歳までの思春期に当たる。
永延2年 988年 16才 道長長女、彰子誕生
正歴元年 990年 18才 10月、定子(14)一条帝(11)に入内し中宮となる。
正歴四年 993年 21才 冬、清少納言、中宮定子のもとへ出仕。清少納言はこの年28才、966年生まれと推定されているので、式部の7才年上である。
長徳2年 996年 24才 1月、為時、越前の守に任ず。秋赴任。式部、父とともに下向。 1月 長徳の政変、藤原伊周・隆家兄弟、花山法王を襲撃する。両名に流罪の勅命下る。
5月 定子懐妊中なるも、絶望し出家。
長徳3年 997年 25才 藤原宣孝のぶたかが式部に求婚。
式部、越前より帰京する。(家集80・81)一年余りの地方生活であった。宣孝との結婚準備もあったか。
長徳4年 998年 26才 この頃、宣孝(47)と結婚か。(家集83・84)宣孝には3人の妻がいた(尊卑文脈)
長保元年 999年 27才 11月1日、彰子(12)一条天皇(20)に入内。同じ日、一条天皇の第一皇子敦康あつやす親王誕生。母定子。(定子出家後の子と思われた)
長保2年 1000年 28才 長女、賢子誕生。のちに後冷泉天皇の乳母となり大弐三位といわれた。 12月、中宮定子出産後崩御(25)。
長保3年 1001年 29才 宜孝が病没する。長保3年4月25日。疫病が流行した。結婚わずか3年で、寡婦となった。数年間、将来への心細い不安感を抱きながら呆然と無為な日々を過ごす。やがて『源氏物語』を出筆開始したと思われる。(『日記』寛弘五年(1008)十一月中旬頃の、宮仕え以前の寡居時代を回想した記事) 春、為時越前より帰京。
寛弘3年 1006年 34才 この年の12月29日、中宮彰子のもとに出仕した。(家集56・59)(寛弘2年・寛弘元年とする説もあり)すぐに翌年五月まで里居に戻っている。
寛弘4年 1007 35才 夏頃から、中宮彰子に『白氏文集』の「楽府」二巻を進講する。以後継続。 8月、道長(42)吉野山に参拝する。彰子の子宝祈願か。
寛弘5年 1008年 36才 夏以前、一条天皇『源氏物語』を読み評価。
7月16日 彰子、出産に向け土御門殿に退出。(『日記』この時期から記述)
11月上旬、中宮の意向で、紫式部を係として、内裏に戻るにあたり、一条帝への土産として、『源氏物語』の御冊子制作。(『日記』)
彰子(21)入内9年目にして懐妊、紫式部お産記録係を配命か。
9月11日中宮彰子一条天皇の二男敦成あつなり(のち後一条天皇)親王出産、五十日の祝い。この時点で「若紫」は出筆済。(『日記』)
寛弘6年 1009年 37才 中宮彰子、二度目の懐妊で土御門殿へ下がる。
11月25日、彰子一条天皇の三男敦良あつなが親王を出産する。
寛弘8年 1011年 39才 2月 父為時、越後守に任命される。弟の惟規、蔵人を辞し、父に同行して、下向し、10月に客死する。 6月13日一条天皇(32)譲位し、三条天皇(36)即位する。敦成親王東宮に。
6月22日 一条天皇出家する。6月22日一条院、崩御する。
長和2年 1013年 41才 長和2年5月25日の記録。「・・・資平(実資の嗣子)をして去夜密々に皇太后宮(彰子)に参らしめ、東宮(敦成親王)御悩の間、假(か)に依りて不参の由を啓せしむ。今朝帰来して言はく、去夕女房に逢ふ。越後の守為時の女。此の女を以って前々雑事を啓せしむるのみ。彼の女の言はく、東宮の御悩重きに非ずと雖も、猶未だ尋常に御しまさざるの内、熱気未だ散せず、亦(また)左府(道長)患ふ気有りてへり」(小右紀)実資の中宮への取次は、式部が一手に受けていた。
長和3年 1014年 42才 式部は中宮彰子の病気治癒祈願のため、清水寺に参詣し、伊勢大輔(歌人・彰子中宮の女房)に会う。
紫式部、6月頃死亡とする説あり。


娘の賢子は、15~16才になっていた。賢子はまもなく上東門院彰子(彰子の院号)に仕え、祖父為時の官名により、越後の弁と呼ばれた。
6月、為時、越後守を任期途中で辞任し、帰京する。このことにより、式部がこの頃亡くなったのではないかと憶測されている。父為時は、息子を失い、娘に先立たれた失意の為、任期途中で辞任したと推定されている。
長和5年 1016年 44才 1月、後一条天皇(敦成親王)即位す。道長摂政。
4月29日、為時、三井寺で出家。
寛仁元年 1017年 45才 『紫式部集』この前後に成るか。 このころ、娘賢子(18)、彰子のもとに出仕か。
寛仁3年 1019年 47才 紫式部この年まで宮仕えか。正月五日、実資、太皇太后宮彰子のところへ継子の資平を参上させる。「相逢女房<先以宰相(資平)令案内。」久しぶりのことで、「枇杷殿に御座おはしましし時(1009-1016)しばしば参入せし事、今に忘れさず」という彰子の「仰せ事」を取り次ぐ、この「女房」も紫式部だとすると、式部47才までは生存していたことになる。没年未詳。
以後式部生存の資料ナシ。(山本淳子氏記述)
三月道長(54)出家。
四月刀伊来寇
※ 以下の資料を参照しました。紫式部の生年・没年・本当の氏名等確かなことは分かっておりません。日記その他資料に記載されているもので推定します。()内数字は年齢。
  • 『紫式部ひとり語り』(山本淳子著 角川ソフィア文庫)
  • 『紫式部日記 紫式部集』(新潮日本古典集成 山本利達 校注 新潮社)
  • 『紫式部日記 全訳注』(宮崎荘平著 講談社文庫)
  • 『紫式部集全釈』(笹川博司著 風間書房)
  • 『紫式部』(清水好子著 岩波新書)