この歌集は紫式部の晩年の自選である。生涯の歌集を編むにあたり娘時代の歌から、ほぼ年代順に始めている。わたしが依拠している渋谷榮一氏のサイトは実践女子大本を使用していて、126首ある。一方、陽明文庫本には131首収められており、実践女子大本には載っていない7首をこのサイトに入れました(陽明0001~0007の番号を付す)。配列箇所も『紫式部集全釈』(笹川博司著 私家集全叢書39 風間書房)によっていますいます。紫式部の歌を読む場合、この二つの写本を参照すべしとのことです。 ・・・管理人
※ 頭の番号が註釈にリンクしてます。
原文 | 現代文 |
はやうよりわらは友だちなりし人に、年ごろへて行きあひたるが、ほのかにて、十月十日のほど、月にきほひて帰りにければ、
0001 めぐり逢ひて見しやそれともわかぬまに 雲がくれにし夜はの月かな |
幼い頃から友達だった人に、久しぶりに会ったが、わずかの間で、十月十日ころ月と競うように帰ってしまわれたので、
0001久しぶりに会って十分お話もできぬ間に夜半の月が雲隠れするようにあなたは去ってしまったのね |
その人、とほき所へ行くなりけり。秋の果つる日きたるあかつき、虫の声あはれなり。
0002 鳴きよわるまがきの虫もとめがたき 秋の別れや悲しかるらむ |
その幼友達は、遠方の任地へ行くのだった。秋も終わろうする頃、暁の虫の声があわれだった。
0002 籬に弱々しく鳴く虫も、あなたを引き止められない わたしと同じ 秋の別れは悲しいのだろう |
「箏の琴しばし」と書いたりける人、「参りて御手より得む」とある返り事に、
0003 露しげきよもぎが中の虫の音を おぼろけにてや人の尋ねむ |
「箏の琴しばらく借りたい」と書き寄こした人、「参上して直接習いたい」とある返事に、
0003 露が濃くよもぎの茂るなかで鳴く虫の音を聞かんとしてわざわざ尋ねてが来る人がいるでしょうか。酔狂なお方ね。 |
方違へにわたりたる人の、なまおぼおぼしきことありとて、帰りにけるつとめて、朝顔の花をやるとて、
0004 おぼつかなそれかあらぬか明けぐれの そらおぼれする朝顔の花 |
方違えに来た人が、わけのわからないことをして、帰るその早朝に、朝顔の花をやろうとして、
0004 どうもよくわかりません その方なのか誰なのか うす暗い早朝にぼんやり咲いた朝顔の花のようなとぼけた顔をして |
返し、手を見わかぬにやありけむ、
0005 いづれぞと色分くほどに朝顔の あるかなきかになるぞわびしき |
返歌は、筆跡で分からなかったのだろうか、
0005 どちらの筆跡か迷っているうちにしおれてしまった朝顔の花 |
筑紫へ行く人のむすめの、
0006 西の海を思ひやりつつ月見れば ただに泣かるるころにもあるかな |
筑紫へ行く人の娘が、
0006 西の海を思いつつ月見れば ただ泣きたくなる頃です |
返し、
0007 西へ行く月の便りにたまづさの かき絶えめやは雲のかよひぢ |
返歌、
0007 雲の通い路を通って西へ行く月にことづける手紙の絶えることはないでしょう |
「遥かなる所に、行きやせむ、行かずや」と、思ひわづらふ人の、山里より紅葉を折りておこせたる、
0008 露深く奥山里のもみぢ葉に かよへる袖の色を見せばや |
「遠い地方に、行こうか行くまいか」と思い煩う人の、山里から紅葉を折って寄こして、
0008 露深く奥山里のもみじ葉に 似てしまった袖の涙の色をお見せしたい |
返し、
0009 嵐吹く遠山里のもみぢ葉は 露もとまらむことのかたさよ |
返歌、
0009 嵐吹く遠山里のもみじ葉は、露も留めないように、あなたも都に留まることは難しいでしょう |
又、その人の、
0010 もみぢ葉を誘ふ嵐は早けれど 木の下ならで行く心かは |
またその人の返歌
0010 もみじ葉を誘う嵐は強いですが木の下でなければ行きたくありません。 |
もの思ひわづらふ人の、うれへたる返り事に、霜月ばかり、
0011 霜氷り閉ぢたるころの水茎は えも書きやらぬ心地のみして |
物思いにわずらう人の、嘆きを訴える返事に、霜月なので、
0011 霜が凍り流れを閉ざすころの水茎ではうまく書けない気がします |
返し、
0012 行かずともなほ書きつめよ霜氷り 水の上にて思ひ流さむ |
返歌、
0012 たとえ筆が進まなくてもやはりお考えを書いてください 便りによってわたしの霜氷に閉ざされた胸の思いも晴れることでしょう。 |
賀茂に詣うでたるに、「ほととぎす鳴かなむ」と言ふあけぼのに、片岡の木末をかしく見えけり。
0013 ほととぎす声待つほどは片岡の 森の雫に立ちや濡れまし |
賀茂神社に詣でて、「ほととぎすが鳴いてほしいね」と言っていると曙に、片岡の木々が趣があった。
0013 ほととぎすの鳴く声を待つ間 片岡の森の雫に立って濡れていましょう。 |
弥生の朔日、河原に出でたるに、傍らなる車に法師の紙を冠にて、博士だちをるを憎みて、
0014 祓へどの神のかざりのみてぐらに うたてもまがふ耳はさみかな |
弥生の朔日、賀茂の河原に出ると、傍の車に、法師が紙の冠をかぶって陰陽博士のように振舞っていたのを、憎んで、
0014 祓の神飾りの幣にそっくりな紙冠の耳はさみだこと |
姉なりし人亡くなり、又、人のおとと失なひたるが、かたみに行きあひて、「亡きが代はりに思ひ交はさむ」と言ひけり。文の上に姉君と書き、中の君と書き通はしけるが、おのがじし遠きところへ行き別るるに、よそながら別れ惜しみて、
0015 北へ行く雁の翼に言伝てよ 雲の上がきかき絶えずして |
姉が亡くなって、別に妹を亡くした人が、互いにお会いして、それぞれ亡くした人の代わりと思いましょうと言い交した。文に姉上と書き、妹へと書いていたが、お互いが遠方へ行かなければならず、離れ離れになって、別れを惜しみ、
0015 北へ行く雁の翼に言づけてよ、雲のうわがきを絶えさせないでください |
返しは、西の海の人なり。
0016 行きめぐり誰れも都に鹿蒜山 五幡と聞くほどのはるけさ |
返歌は西の海の人から
0016 行きめぐって誰もが都に帰ろうとするそれはいつのことか互に遠くなりましたね |
津の国といふ所よりおこせたりける、
0017 難波潟群れたる鳥のもろともに 立ち居るものと思はましかば |
難波の津の国から文を送ってきたので、
0017 難波潟に群れる水鳥のように、あなたと起居を共にしていると思いたい |
返し、
欠 (二行空白) |
|
筑紫に肥前といふ所より、文おこせたるを、いとはるかなる所にて見けり。その返り事に、
0018 あひ見むと思ふ心は松浦なる 鏡の神や空に見るらむ |
筑前の備前という所から来た文を、遠い越前の地で見て、その返事に、
0018 あなたに会いたいと思う心は、松浦に鎮座する鏡神社の神が空からご覧でしょう。 |
返し、又の年もてきたり。
0019 行きめぐり逢ふを松浦の鏡には 誰れをかけつつ祈るとか知る |
返歌は、翌年になってきた
0019 行きめぐって再びお会いしたいと松浦の神に祈っています、誰にお会いしたいと祈っているかご存じですか。 |
近江の湖にて、三尾が崎といふ所に、網引くを見て、
0020 三尾の海に網引く民の手間もなく 立ち居につけて都恋しも |
琵琶湖の三尾が崎というところで、網を引くのを見て、
0020 三尾の海で網を引く漁師の手を休める暇もなく立居続けて働くのを見るにつけ都が恋しい |
又、磯の浜に、鶴の声々鳴くを、
0021 磯隠れ同じ心に田鶴ぞ鳴く なに思ひ出づる人や誰れそも |
また、磯の浜というところで、鶴がなく声をきいて、
0021 磯のもの陰でわたしと同じく泣いている鶴は誰を思って鳴いているのだろう。 |
夕立ちしぬべしとて、空の曇りてひらめくに、
0022 かき曇り夕立つ波の荒ければ 浮きたる舟ぞしづ心なき |
夕立ちがくる、空が曇って稲妻が光る
0022 夕立がくる 空が曇って稲妻がひかり波が荒れて、浮いている舟は落ち着つかない |
塩津山といふ道のいとしげきを、賤の男のあやしきさまどもして、「なほからき道なりや」と言ふを聞きて、
0023 知りぬらむ行き来にならす塩津山 世にふる道はからきものぞと |
塩津山の道が草木が茂って、下男がみすぼらしい姿で、「やはりここは難儀な道だなあ」というのを聞いて、
0023 分ったでしょういつも行き来する塩津山の道でも 昔から世渡りの道はつらいものだと |
湖に、おいつ島といふ洲崎に向かひて、わらはべの浦といふ入り海のをかしきを、口ずさびに、
0024 おいつ島島守る神がやいさむらむ 波も騒がぬわらはべの浦 |
琵琶湖でおいつ島という洲崎に向かって、わらわべの浦という入江がおもしろいので、口すさみに、
0024 おいつ島の島守る神がいさめたのだろうか波が静かなわらわべの浦 |
暦に「初雪降る」と書きたる日、目に近き日野岳といふ山の雪、いと深う見やらるれば、
0025 ここにかく日野の杉むら埋む雪 小塩の松に今日やまがへる |
暦に「初雪降る」と書いた日、近くの日野岳という山の雪が深いように見えたので、
0025 こちらでは日野山の杉林が埋まるほどの雪ですが都でも小塩の松に雪が降っているでしょうか |
返歌、
0026 小塩山松の上葉に今日やさは 峯の薄雪花と見ゆらむ |
返歌、
0026 小塩山の松の上葉に今日降る峰の薄雪は花と見えるでしょう |
降り積みて、いとむつかしき雪をかき捨てて、山のやうにしなしたるに、人びと登りて、「なほ、これ出でて見たまへ」と言へば、
0027 ふるさとに帰る山路のそれならば 心やゆくと雪も見てまし |
雪が降り積もって、たいそうやっかいな雪をかき捨てて、山のようにした所に、人びとが登って、「雪は嫌でも、ここへ出て来て御覧なさい」と言うので、
0027 そこが都故郷へ帰るの山の雪でしたら、出て行って見もしましょう |
年かへりて、「唐人見に行かむ」と言ひける人の、「春はとく来るものと、いかで知らせたてまつらむ」と言ひたるに、
0028 春なれど白根の深雪いや積もり 解くべきほどのいつとなきかな |
新年になって、「唐人を見に行こう」と言っていた人が、「春は早く来るものと、何とかしてお知らせ申そう」と言ったので、
0028 春とはなりましたが、白山の深雪はますます降り積もって いつ雪解けとなるかは分かりませんわ |
近江守の女、懸想すと聞く人の「二心なし」など、常に言ひわたりければ、うるさくて、
0029 湖の友呼ぶ千鳥ことならば 八十の湊に声絶えなせそ |
近江守の娘に、求婚しているという評判の人が、「あなた以外に、二心ありません」などと、いつも言い続けていたので、わずらわしくなって、
0029 湖の友を呼ぶ千鳥よ、同じことならば たくさんの湊に声をかけなさい |
歌絵に海人の塩焼くかたを描きて、樵り積みたる投げ木のもとに書きて、返しやる。
0030 四方の海に塩焼く海人の心から 焼くとはかかる投げ木をや積む |
歌絵に海人が塩を焼いている絵を描いて、木を切って積み上げた薪の処に、返歌を投げかえす。
0030 あちこちの海で塩を焼く海人のように自分から 焦がれているとはこのような嘆きを重ねているのでしょうか |
文の上に朱といふ物をつぶつぶと注きかけて、「涙の色」など書きたる人の返り事に、
0031 紅の涙ぞいとど疎まるる 移る心の色に見ゆれば (式部) もとより人の女を得たる人なりけり。 |
文の上に朱色のものを注いで、「涙の色を見てください」などと書いた人の返事で、
0031 紅の涙と聞くと疎まれます 移ろいやすい心が色に表れています もとより、確かな親の娘を妻に得ている人なのだ |
「文散らしけり」と聞きて、「ありし文ども、とり集めておこせずは、返り事書かじ」と、言葉にてのみ言ひやりければ、「みなおこす」とて、いみじく怨じたりければ、睦月十日ばかりのことなりけり。
0032 閉ぢたりし上の薄氷解けながらさは絶えねとや山の下水 |
わたしの手紙を他の人に見せたと聞いて、「今まで書いた文を全部返してくれなければ、返事は書きません」と文使いに口頭で伝えさせた。正月十日頃のことである。
0032 春がきて薄氷が溶けるように打ち解けましたのに、これでは、山の下水も絶えて絶交するとお考えなのですか |
すかされて、いと暗うなりたるに、おこせたる、
0033 東風に解くるばかりを底見ゆる石間の水は絶えば絶えなむ |
わたしに言いすかされて、落ち込んでいた頃、詠った歌
0033 東風に解くるばかりを底見ゆる石間の水は絶えば絶えなむ |
「今はものも聞こえじ」と、腹立ちたれば、笑ひて、返し、
0034 言ひ絶えばさこそは絶えめなにかそのみはらの池を包みしもせむ |
「もう何も言いません」と相手は腹を立てているので、笑って、返歌する、
0034 もう文も出さないと仰るならそれもいいでしょう。どうしてあなたの腹立ちにこちらが遠慮することがありましょう |
夜中ばかりに、又、
0035 たけからぬ人数なみはわきかへりみはらの池に立てどかひなし |
夜中に又、文がきて
0035 優れているわけでもなく、人並みの身分でもないが、腹が立ってみはらの池に立ったが、お前には負けたよ |
桜を瓶に挿して見るに、とりもあへず散りければ、桃の花を見やりて、
0036 折りて見ば近まさりせよ桃の花 思ひ隈なき桜惜しまじ |
桜を瓶に差して眺めていると、すぐに散ってしまったので、桃の花を思って、
0036 近くで見るほど美しい桃の花です自分勝手な桜は惜しくない |
返し、人、
0037 桃といふ名もあるものを時の間に散る桜にも思ひ落とさじ |
返歌、ある人から、
0037 もも(百)という名もあるのですから、すぐに散る桜に思いいたすことはしません |
花の散るころ、梨の花といふも、桜も夕暮れの風の騒ぎに、いづれと見えぬ色なるを、
0038 花といはばいづれか匂ひなしと見む散り交ふ色の異ならなくに |
花の散るころ、梨の花も、桜も夕暮れの風が荒い中、どちらの色か見分けがつかないので、
0038 花というからには梨と桜とどちらが美しくないなどといえようか風に散る色は同じなので |
遠き所へ行きにし人の亡くなりにけるを、親はらからなど帰り来て、悲しきこと言ひたるに、
0039 いづかたの雲路と聞かば訪ねまし列離れけむ雁がゆくへを |
遠い所に行っていた人が亡くなって、親兄弟が帰ってきて、悲しい話をするので、
0039 どちらの雲路を行ったと分れば尋ねましょう 列を離れた雁の行方を |
去年より薄鈍なる人に、女院崩れさせたまへる春、いたう霞みたる夕暮れに、人のさし置かせたる。
0040 雲の上ももの思ふ春は墨染めに霞む空さへあはれなるかな |
去年から夫の喪に服しているわたしに、帝の母君がお亡くなりになった春、霞にくもる夕暮れに、人が文を置いていった。
0040 帝が喪に服している春は 霞にくもる夕暮れの空さえあわれだ |
返し、
0041 なにかこのほどなき袖を濡らすらむ霞の衣なべて着る世に |
返歌、
0041 何ほどでもないわたしごときが夫の喪で袖を濡らして嘆いていることか、天下の皆が喪に服しているのに |
亡くなりし人の女の、親の手書きつけたりけるものを見て、言ひたりし。
0042 夕霧にみ島隠れし鴛鴦の子の跡を見る見る惑はるるかな |
亡夫の他の女の娘が親の筆跡を見て、詠って寄こしたもの。
0042 夕霧に島がくれした鴛鴦の子が途方に暮れるように親の筆跡を見て途方にくれています |
同じ人、「荒れたる宿の桜のおもしろきこと」とて、折りておこせたるに、
0043 散る花を嘆きし人は木のもとの寂しきことやかねて知りけむ 「思ひ絶えせぬ」と、亡き人の言ひけることを思ひ出でたるなり。 |
同じ人からまた、「荒れた庭の桜が趣があったので」とて、折った枝につけて送ってきた、
0043 桜が散るのを嘆いていた亡父は亡くなったあと取り残された子の寂しさを知っていたのだろうか 「桜が恋しい」と亡き人が言っていたのを思い出しました。 |
絵に、もののけ憑きたる女の醜きかた描きたる後ろに、鬼になりたるもとの妻を、小法師の縛りたるかた描きて、男は経読みて、もののけ責めたるところを見て、
0044 亡き人にかごとはかけてわづらふもおのが心の鬼にやはあらぬ |
物の怪が憑いた女の醜い姿の後ろに、鬼になった先妻を、小法師が縛っている様を描いて、男が経を読んで、物の怪を責めている絵を見て、
0044 亡き人のせいにしてわずらいを何とかしようとするのも己の心の鬼が原因ではないか |
返し、
0045 ことわりや君が心の闇なれば鬼の影とはしるく見ゆらむ |
返歌、
0045 ごもっとです、君の心が闇なので、鬼の影とはっきり分かるのでしょう |
絵に、梅の花見るとて、女、妻戸押し開けて、二三人ゐたるに、みな人びと寝たるけしき描いたるに、いとさだ過ぎたるおもとの、つらづゑついて眺めたるかたあるところ、
0046 春の夜の闇の惑ひに色ならぬ心に花の香をぞ染めつる |
絵の中で、梅の花を見ようとし、女が、妻戸を開けて入り、二三人は座していたが、他はみな寝ている様子を描いていて、盛りを過ぎた女房が、頬杖して物思いに耽っている図で、
0046 春の夜の闇のなかで、色気のない心に花の香が染みる |
同じ絵に、嵯峨野に花見る女車あり。なれたる童の、萩の花に立ち寄りて折りたるところ、
0047 さ雄鹿のしか慣らはせる萩なれや立ちよるからにおのれ折れ伏す |
同じ絵に、嵯峨野で花を見る女車あり。馴れた童が、萩の花に近寄って手折ったところ、
0047 雄鹿がいつもそのように慣らしている萩なのでしょうか童女が近付くと同時に自然と萩が折れ伏すことよ |
世のはかなきことを嘆くころ、陸奥に名ある所どころ描いたるを見て、塩釜、
0048 見し人の煙となりし夕べより名ぞ睦ましき塩釜の浦 |
連れ添った人が亡くなって世の無常を嘆いている頃、陸奥に名のある所を描いた絵を見て、塩釜、
0048 親しかった人が煙となった夕べから、塩釜の名は親しく感じられる。 |
門叩きわづらひて帰りにける人の、つとめて、
0049 世とともに荒き風吹く西の海も磯辺に波は寄せずとや見し |
門を叩きあぐねて帰っていった人の、暁に、
0049 いつも荒い風が吹きつける西の海では、磯辺まで波は寄せてこないとお思いでしょうか。 |
と恨みたりける返り事、
0050 かへりては思ひ知りぬや岩角に浮きて寄りける岸のあだ波 |
と、恨みの歌に対する返歌、
0050 お帰りになって分ったでしょう岩角に打ち寄せるあなたの浮気なあだ波を |
年返りて、「門は開きぬや」と言ひたるに、
0051 誰が里の春の便りに鴬の霞に閉づる宿を訪ふらむ |
年があけて、「門はあきましたか(喪はあけたか)といってきたので、
0051 どなたの里を訪れてから 鶯は喪中にこもるこの宿を尋ねてきたのでしょう。 |
(陽明本から)さしあはせて物思はしげなりときく人を、ひとにつたへてとぶらひける本ニやれてかたなしと
(一首分空白) 八重やまぶきをおりて、あるところにたてまつれるに、ひとへの花のちりのこれるをおこせ給えり 陽明0001 をりからを ひとへにめづる 花の色は うすきをみつつ うすきともみず |
不幸が重なった人に、使者使わせて見舞った。
(一首分空白) 八重の山吹を折ってある人にお贈りしたところ、一重の房が残っているのを贈り返してきて、 陽明0001 ちょうど咲きごろの山吹は一重でも花の色は薄いがその美しさは薄くはありません |
世の中の騒がしきころ、朝顔を人のもとへやるとて、
0052 消えぬ間の身をも知る知る朝顔の露と争ふ世を嘆くかな |
世の中が不安で満ち、騒々しかったころ、朝顔を人のもとにやって、
0052 わが身もいつ果てるか分からない、朝顔の露のようなはかない世です |
世を常なしなど思ふ人の、幼き人の悩みけるに、唐竹といふもの、瓶に挿したる女ばらの祈りけるを見て、
0053 若竹の生ひゆく末を祈るかなこの世を憂しと厭ふものから |
この世は無常と思っている人が、幼い娘が病気になって、唐竹を瓶にさして女房が祈っているのを見て、
0053 幼子の無事の成長を祈っているこの世は憂しと厭っているのに |
身を思はずなりと嘆くことの、やうやうなのめに、ひたぶるのさまなるを思ひける。
0054 数ならぬ心に身をばまかせねど身にしたがふは心なりけり |
思うようにならない身の不遇を嘆くことが、通常のことになって、一途に思い込むのを
0054 数ならぬ身は思いどおりにはゆかぬが、不遇なこの身に心は馴れてくるものだ |
0055 心だにいかなる身にかかなふらむ思ひ知れども思ひ知られず | 0055 どんな身分になったら心は満足するだろうか分かってはいるが悟れない |
初めて内裏わたりを見るにも、もののあはれなれば、
0056 身の憂さは心のうちに慕ひきていま九重ぞ思ひ乱るる |
初めて内裏のあたりを見て、もののあわれを感じて、
0056 身の憂さは心の内のあるままに慕っていた宮中を見て心は九重に乱れている |
まだいと初々しきさまにて、古里に帰りてのち、ほのかに語らひける人に、
0057 閉ぢたりし岩間の氷うち解けばをだえの水も影見えじやは |
初めて出仕した頃、里帰りしてのち、わずかに言葉を交わした同輩に、
0057 岩間の氷が溶けましたら自ずと閉ざされていた水も流れることでしょう。 |
返し、
0058 深山辺の花吹きまがふ谷風に結びし水も解けざらめやは |
返歌、
0058 山辺の花を吹き散らす谷風に結んだ氷もきっと解けるでしょう |
正月十日のほどに、「春の歌たてまつれ」とありければ、まだ出で立ちもせぬ隠れがにて、
0059 み吉野は春のけしきに霞めども結ぼほれたる雪の下草 |
正月十日頃、「春の歌を作ってだせ」と仰せがあったので、まだ出仕せず里に隠れていたのだが、
0059 み吉野は春らしく霞んでいるのに、わたしはまだ雪の下に埋まっている下草同様です |
弥生ばかりに宮の弁のおもと、「いつか参りたまふ」など書きて、 0060 憂きことを思ひ乱れて青柳のいと久しくもなりにけるかな |
弥生の頃、宮の弁のおもとが、「いつ出仕されますか」などと文を寄こして、
0060 嫌なことに思い悩まれてお里下がりも青柳のように長くなりましたね |
返し、
0061 つれづれと長雨降る日は青柳のいとど憂き世に乱れてぞ経る |
返歌、
0061 つれづれに長雨がふる日は青柳のようにこの憂き世に思いが乱れます |
かばかり思ひ屈しぬべき身を、「いといたうも上衆めくかな」と言ひける人を聞きて、
0062 わりなしや人こそ人と言はざらめみづから身をや思ひ捨つべき |
わたしがこれほど元気がなくしふさぎ込んでいるのに、「ひどく上臈めいた振舞いですこと」といわれていると聞いて、
0062 しかたない、あの人たちは私を人並みに遇しなくとも、自分でわが身を見捨てることはできません |
薬玉おこすとて、
0063 忍びつる根ぞ現はるる菖蒲草言はぬに朽ちてやみぬべければ |
薬玉を届けて、
0063 何も言わぬうちに朽ちて終わりそうなので、節句にちなんで好意の気持ちをお伝えします。 |
返し、
0064 今日はかく引きけるものを菖蒲草わがみ隠れに濡れわたりつる |
返歌、
0064 今日は菖蒲を引いて言葉をかけていただきましたがわたしは菖蒲のように家に籠って泣いています |
土御門殿にて三十講の五巻、五月五日に当たれりしに、
0065 妙なりや今日は五月の五日とて五つの巻のあへる御法も |
土御門殿で行われた法華三十講の第五巻、五月五日にあたって、
0065 実に尊い、今日は五月五日で第五巻が講じられる法会であることよ |
その夜、池の篝火に御明かしの光りあひて、昼よりも底までさやかなるに、菖蒲の香いまめかしう匂ひ来れば、
0066 篝火の影も騒がぬ池水にいく千代澄まむ法の光ぞ |
その夜は、池の篝火に灯明の光がはえて、昼よりも水底まで清らかに見えて、菖蒲の香が匂くれば
0066 篝火が静かに池に映えて幾千年と澄んでいく御灯明ですこと |
公事に言ひ紛らはすを、向かひたまへる人は、さしも思ふことものしたまふまじきかたち、ありさま、よはひのほどを、いたう心深げに思ひ乱れて、
0067 澄める池の底まで照らす篝火のまばゆきまでも憂きわが身かな |
法華三十講の盛況のさなか、向かいに座った女房は、さして物思いをするような方ではないのだが、心深く悩まれて、
0067 澄んだ池の底まで照らす篝火のまばゆさに憂きわが身も照らし出されてしまいます |
やうやう明け行くほどに、渡殿に来て、局の下より出づる水を、高欄を押さへて、しばし見ゐたれば、空のけしき、春秋の霞にも霧にも劣らぬころほひなり。小少将の隅の格子をうち叩きたれば、放ちて押し下ろしたまへり。もろともに下り居て眺めゐたり。
0068 影見ても憂きわが涙落ち添ひてかごとがましき滝の音かな |
ようやく夜も明けようとする頃、渡殿に戻って、局のしたを流れる遣水を、高欄にもたれて見ていれば、空のけしき、春秋の霞や霧に劣らぬ景色であった。小少将の隅の格子を叩くと、二枚格子の上を開け放って下をおろした。二人で簀子にでて遣水を眺めていた。
0068 水にうつるわが姿を見ても、憂き心の涙が落ちて涙のせいだといいたそうな滝の音だこと |
返し、
0069 一人居て涙ぐみける水の面に浮き添はるらむ影やいづれぞ |
返歌、
0069 ひとりで涙ぐんで水の面を見ていると横にうつったのはどちらの顔ですか |
明かうなれば入りぬ。長き根を包みて、
0070 なべて世の憂きに泣かるる菖蒲草今日までかかる根はいかが見る |
空が明るくなったので、局に戻った。小少将は菖蒲の長い根を包んで、
0070 つらい憂き世に菖蒲草のように泣いています五日を過ぎて菖蒲草がかかっていますがあなたはこの長い根の菖蒲草をどう見ますか |
返し、
0071 何ごとと菖蒲は分かで今日もなほ袂にあまる根こそ絶えせね |
返歌、
0071 何故なのか物の道理は分かりませんが、今日もまた袂に余る菖蒲の根を頂いて涙がたえません |
内裏に水鶏の鳴くを、七八日の夕月夜に、小少将の君、
0072 天の戸の月の通ひ路鎖さねどもいかなる方に叩く水鶏ぞ |
内裏で水鶏の鳴くのを聞いて、七八日の夕月夜に、小少将の君が詠む、
0072 夕月のさす宮中で戸も閉めていないのにどちらで戸をたたくのでしょう |
返し、
0073 槙の戸も鎖さでやすらふ月影に何を開かずと叩く水鶏ぞ |
返歌、
0073 槙の戸も閉めずにやすらっている月影にどこが開かないとたたいている水鶏か |
夜更けて戸を叩きし人、つとめて、
0074 夜もすがら水鶏よりけに泣く泣くぞ槙の戸口に叩き侘びつる |
夜更けて戸を叩いていた人が翌朝文を寄こして、
0074 夜中に、水鶏のように泣いて戸を叩いていたのに、応答がなかった |
返し、
0075 ただならじ戸ばかり叩く水鶏ゆゑ開けてはいかに悔しからまし |
返歌、
0075 ただごとではありませんね戸を叩く水鶏に開けてしまったらどんなに悔しい思いをしたでしょう |
(陽明本から)だいしらず
陽明0002 よのなかを なになげかまし 山桜 花みる程の こゝろなりせば |
題知らず
陽明0002 どうして世の中を嘆くことがありましょう山桜を楽しむ心もちがあるのなら |
朝霧が美しい時分に、前栽の花どもが色とりどりに咲き乱れている中に、女郎花がたいそう花盛りであるのを、殿が御覧になって、一枝折らせなさって、几帳の上から、「これをむだには返すな」とおっしゃって、お与えなさった。
0076 女郎花盛りの色を見るからに露の分きける身こそ知らるれ |
朝霧が美しい早朝、前栽の花々が色とりどりに咲き乱れているなかで、女郎花がとてもあざやかに花盛りなのを、殿がご覧になり、一枝折って、几帳の上から「この花を無駄にしないように、一句詠みなさい」と仰って花を贈られた。
0076 露に美しく染まった女郎花の盛りの色を見ると、分けへだてして、わたしには露はおりなかったと知られます |
と書きつけたるを、いととく、
0077 白露は分きても置かじ女郎花心からにや色の染むらむ |
と詠んだ歌に対し、素早い返歌があった
0077 白露は分けへだてしないでしょう女郎花は自ずから色を染めて咲いているのです |
久しく訪れなかった人を思い出した折、
0078 忘るるは憂き世の常と思ふにも身をやる方のなきぞ侘びぬる |
久しく来ない人を思い出して、
0078 忘れるのは憂き世の常と思うが忘れられた身のやり場がなくつらいものです。 |
(四行空白) |
|
返し、
0079 誰が里も訪ひもや来るとほととぎす心のかぎり待ちぞ侘びにし |
返歌、
0079 時鳥は誰の里にも来るというから待っていて心の底から待ちわびました |
都の方へとて鹿蒜山越えけるに、呼坂といふなる所のわりなき懸け路に、輿もかきわづらふを、恐ろしと思ふに、猿の木の葉の中より、いと多く出で来たれば、
0080 ましもなほ遠方人の声交はせわれ越しわぶるたごの呼坂 |
都へ向かってかえる山を越えるのに、呼坂という難所で、輿も難儀して恐ろしく思ったが、猿が木の葉のなかからたくさん出てきたので、
0080 猿たちよ、遠方人と声を交わせわたしがこの呼坂を越えるのに難儀していると |
湖にて伊吹の山の雪いと白く見ゆるを、
0081 名に高き越の白山雪なれて伊吹の岳を何とこそ見ね |
湖を渡るに、伊吹山が雪をかぶって白く見えるので、
0081 名高い越の国の白山を見馴れたので伊吹山の雪は何とも思わない。 |
卒塔婆の年経たるが、まろび倒れつつ人に踏まるるを、
0082 心あてにあなかたじけな苔むせる仏の御顔そとは見えねど |
卒塔婆が年を経て、倒れて人に踏まれているのを見て、
0082 恐れ多いこととです倒れて苔むした卒塔婆は踏まれて仏のお顔は見えませんが |
人の、
0083 け近くて誰れも心は見えにけむ言葉隔てぬ契りともがな |
人が寄こした歌、
0083 親しくなってお互いの心は見えて言葉に隔てのない仲になりたいものです |
返し、
0084 隔てじとならひしほどに夏衣薄き心をまづ知られぬる |
返歌、
0084 わたしはいつも隔てなくおもっているのにあなたはわざわざ隔てなくしようとは薄い心だったのですね |
0085 峯寒み岩間凍れる谷水の行く末しもぞ深くなるらむ |
0085 峯は寒く岩間に氷る谷水でも行く末は深い流れになるでしょう |
宮の御産屋、五日の夜、月の光さへことに隈なき水の上の橋に、上達部、殿よりはじめたてまつりて、酔ひ乱れののしりたまふ。盃の折にさし出づ。
0086 めづらしき光さしそふ盃はもちながらこそ千世をめぐらめ |
一条天皇第二皇子誕生の祝いの五日目の夜、上達部や道長殿よりはじまって、みな酔いしれののしりあう。盃が回ってきた時の用意に、作って差し出した歌。
0086 若宮ご誕生の祝いの盃は望月に光をそえて千代にめぐってゆくでしょう |
又の夜、月の隈なきに若人たち、舟に乗りて遊ぶを見やる。中島の松の根にさしめぐるほど、をかしく見ゆれば、
0087 曇りなく千歳に澄める水の面に宿れる月の影ものどけし |
次の夜、月が曇りなく明るいので、船に乗って遊ぶのを見る。中島の松の根をめぐるなど、趣があったので、
0087 曇りなく千歳に澄む池の水面に宿る月影も穏やかだ |
御五十日の夜、殿の「歌詠め」とのたまはすれば、
0088 いかにいかが数へやるべき八千歳のあまり久しき君が御世をば |
若宮の五十日の祝いの夜、道長様が「歌詠め」と仰せになったので、
0088 どうやって数えたらよろしいのでしょう、若宮の幾千年という久しい御代を |
殿の御、
0089 葦田鶴の齢しあらば君が代の千歳の数も数へとりてむ |
道長様の返歌、
0089 あしたづの齢があれば若宮の幾千年の齢も数えられるでしょう |
たまさかに返り事したりける人、後に又も書かざりけるに、男、
0090 折々に書くとは見えてささがにのいかに思へば絶ゆるなるらむ |
時折は返事をだしていた人に、後に又返事を出さないでいると、男が、
0090 折々に返事を頂けるものと思っていましたが、どうしてお返事が絶えたのでしょうか |
返し、九月つごもりになりにけり。
0091 霜枯れの浅茅にまがふささがにのいかなる折に書くと見ゆらむ |
返歌、九月になってしまった。
0091 霜枯れの浅茅の中に蜘蛛のように住んでいる寡婦のわたしがどんな折に書くとお思いですか |
何の折にか、人の返り事に、
0092 入る方はさやかなりける月影を上の空にも待ちし宵かな |
何かの折に、返事に、
0092 月が入る処ははっきり分かっているのに、うわの空で月を待っていました。 |
返し、
0093 さして行く山の端もみなかき曇り心も空に消えし月影 |
返歌、
0093 山の端もすっかりかき曇り心も月も消えてしまったのです |
又、同じ筋、九月、月明かき夜、
0094 おほかたの秋のあはれを思ひやれ月に心はあくがれぬとも |
また、同じ思いで、九月、月の明るい夜、
0094 おおかたの秋のあわれを待つ身の悲しみを思いやってください心は月にあこがれても |
六月ばかり、撫子の花を見て、
0095 垣ほ荒れ寂しさまさる常夏に露置き添はむ秋までは見じ |
撫子の花を見て、
0095 垣根は荒れてさびしさがまさるひとり寝が続くなら、露がおりる秋までには別れよう |
「ものや思ふ」と、人の問ひたまへる返り事に、長月つごもり、
0096 花薄葉わけの露や何にかく枯れ行く野辺に消え止まるらむ |
「何か心配事でも」と、人が問うてきてその返歌で、長月の末ごろ、
0096 薄の穂の下葉に置く露がこうして枯れ行く野辺に消え残っているのはどうしてでしょうか |
わづらふことあるころなりけり。「貝沼の池といふ所なむある」と、人のあやしき歌語りするを聞きて、「心みに詠まむ」と言ふ。
0097 世にふるになぞ貝沼のいけらじと思ひぞ沈む底は知らねど |
病気をしていた頃、「貝沼の池という所がある」と、人が不思議な歌語りをするのを聞いて、「試しに詠んでみよう」と思う。
0097 生きながらえて、どんな生き甲斐があるのか、と池に身を沈めてしまおうと思うその底はどんな処か知らないが |
又、心地よげに言ひなさむとて、
0098 心ゆく水のけしきは今日ぞ見るこや世に経つる貝沼の池 |
今度は気持ちよさそうに詠んでみようと思って、
0098 心地よい水の景色を今日は見ましたこれがこの世に生きる甲斐のあるといわれる貝沼の池ですか |
侍従宰相の五節の局、宮の御前いとけ近きに、弘徽殿の右京が、一夜しるきさまにてありしことなど、人びと言ひ立てて、日蔭をやる。さし紛らはすべき扇など添へて、
0099 多かりし豊の宮人さしわきてしるき日蔭をあはれとぞ見し |
侍従宰相が奉納した五節の局は、中宮御前に近く、弘徽殿の右京が、先夜すばらしかったので、人々はその話でもちきりで、日陰の鬘を賜る。顔をかくす扇を添えて、
0099 たくさんの大宮人のなかでもとりわけてすばらしかった日陰の鬘のあなたを拝見しました |
中将、少将と名ある人びとの、同じ細殿に住みて、少将の君を夜な夜な逢ひつつ語らふを聞きて、隣の中将、
0100 三笠山同じ麓をさしわきて霞に谷の隔てつるかな |
中将、少将と名のある人々のなかで、同じ細殿に住んでいて、少将の君と夜な夜な会って語らうのを見て、隣の中将が、
0100 三笠山の同じ麓なのに別け隔てして霞が谷を隔てていますね |
返し、
0101 さし越えて入ることかたみ三笠山霞吹きとく風をこそ待て |
返歌、
0101 さしおいて入ることは難しい三笠山の霞を吹き飛ばす風を待ちましょう |
紅梅を折りて里より参らすとて、
0102 埋もれ木の下にやつるる梅の花香をだに散らせ雲の上まで |
紅梅を折って里から献上するので、
0102 埋もれ木のようなやつれた里の梅ですせめてその香だけでも雲居に散らしておくれ |
卯月に八重咲ける桜の花を、内裏にて、
0103 九重に匂ふを見れば桜がり重ねて来たる春の盛りか |
八重に咲いている桜の花を、内裏で見て、
0103 九重に匂う八重桜を見れば、花見の春がまた来たかと思ってしまう |
桜の花の祭の日まで散り残りたる、使の少将の挿頭に賜ふとて、葉に書く。
0104 神代にはありもやしけむ山桜今日の挿頭に折れるためしは |
桜の花が賀茂の祭りの日まで散らずに残っていた。勅使の少将のかざみに賜るというので、葉に書く。
0104 神代にはあったであろうか、山桜を賀茂の祭りのかざしに手折ったためしは |
睦月の三日、内裏より出でて、古里のただしばしのほどにこよなう塵積もり荒れまさりにけるを、言忌みもしあへず、
0105 改めて今日しもものの悲しきは身の憂さやまたさま変はりぬる |
正月の三日、内裏から出て、里がわずかの間に、たいそう塵が積り荒れてしまったので、新年の言忌みも忘れて、
0105 改めて新年の今日という日に、物悲しいのは、身の憂きことが様変わりしたのだろうか |
五節のほど参らぬを、口惜しなど、弁宰相の君ののたまへるに、
0106 めづらしと君し思はば着て見えむ摺れる衣のほど過ぎぬとも |
五節には参内しないと聞いて、残念です、と弁宰相の君が言ってきたので、
0106 すばらしいとあなたが思ってくれるならそれを着て会いに行きましょうたとえ小忌衣の時節を過ぎても |
返し、
0107 さらば君山藍の衣過ぎぬとも恋しきほどに着ても見えなむ |
返歌、
0107 それならあなた、山藍の衣の時節が過ぎても、お会いしたいのでそれを着てお越しください |
人のおこせたる、
0108 うち忍び嘆き明かせばしののめのほがらかにだに夢を見ぬかな |
ある人の寄こした歌、
0108 あなたに逢えずに嘆いて夜を明かしたので、せめて晴々とあなたの夢を見たかったがそれもかないませんでした |
七月朔日ごろ、あけぼのなりけり。返し、
0109 しののめの空霧りわたりいつしかと秋のけしきに世はなりにけり |
七月一日頃、明け方の頃である。返歌、
0109 東の空は一面の霧で、いつしか秋(飽き)の景色になったようですね |
七日、
0110 おほかたに思へばゆゆし天の川今日の逢ふ瀬はうらやまれけり |
七月七日、
0110 普通に思えば、忌々しいことだが、天の川の今日の逢瀬はうらやましい |
返し、
0111 天の川逢ふ瀬はよその雲井にて絶えぬ契りし世々にあせずは |
返歌、
0111 天の川の逢瀬は、別の世界の話、この世でこの契りが世々に褪せなければ |
門の前より渡るとて、「うちとけたらむを見む」とあるに、書きつけて返しやる。
0112 なほざりのたよりに訪はむ人言にうちとけてしも見えじとぞ思ふ |
門の前を通るので、「打ち解けてくれたらそんな様子を見たい」と文を届けたので、書きつけて返歌する。
0112 いいかげんな文をして訪れようとする人に誰がうちとけて会うでしょうか |
月見る朝、いかに言ひたるにか、
0113 横目をもゆめと言ひしは誰れなれや秋の月にもいかでかは見し |
月を見た翌朝、男はどんな風に言ってきたか、
0113 決して浮気はしませんと誓ったひとは誰でしょうか、秋の月はどなたと見たのでしょう |
九月九日、菊の綿を上の御方より賜へるに、
0114 菊の露若ゆばかりに袖触れて花のあるじに千代は譲らむ |
九月九日、菊の綿を倫子様からいただいたので、
0114 わたくしには菊の露は若やぐほどに袖に触れさせ花の主に千年の寿命はお譲り申しましょう |
(陽明本から)水どりどもの、おもふことなげにあそびあへるを
陽明0003 水どりを みづのうへとや よそにみむ われもうきたる 世をすぐしつゝ |
水鳥が思うままに遊んでいるのを見て
陽明0003 水鳥が水の上で遊んでいると他所ごとに見れようかわたしも浮ついた世にただ過ごしているのに |
時雨する日、小少将の君、里より、
0115 雲間なく眺むる空もかきくらしいかにしのぶる時雨なるらむ |
時雨れふる日、小少将の君が里から、
0115 雲のきれ間もない空を眺めて物思いに沈み 何を忍んでふる時雨なのでしょう |
返し、
0116 ことわりの時雨の空は雲間あれど眺むる袖ぞ乾く世もなき |
返歌、
0116 時雨れの空は/// |
里に出でて、大納言の君、文賜へるついでに、
0117 浮き寝せし水の上のみ恋しくて鴨の上毛にさえぞ劣らぬ |
里に帰った、大納言の君が、文に添えて、
0117 中宮の御前にあなたと一緒に仮寝していた頃が恋しくて独り寝の今は鴨の上毛の劣らぬ寒さです |
返し、
0118 うち払ふ友なきころの寝覚めにはつがひし鴛鴦ぞ夜半に恋しき |
返歌、
0118 霜を払い合う友なきときの寝覚めには一緒に過ごした夜が恋しい |
(陽明本から)しはすの廿九日にまゐり、はじめてまいゐりしもこよひぞかしとおもひいづれば、こよなうたちなれにけるも、うとましの身の程やとおもふ。
夜いたふふけにけり。まへなる人々「うちわたりは、猶いとけはひことなり。さとにては、いまねなまし、さも、いざときくつのしげさかな」と、色めかしくいふをきく 陽明0004 としくれて わがよふけゆく 風の音に 心のうちの すさまじき哉 |
十二月二十九日に参内して、初めて出仕した時のことを思い出して、すっかりもの馴れた自分の身を疎ましく思う。
夜も更けた。前にいる女房たちが「内裏の夜は、気配が違いますこと。里ではもう寝ているでしょう。沓音がかしましいこと」と、色めかしくいうのを聞いて、 陽明本0004 年も暮れわたしも老いてゆく 風の音に心の内はすさまじい |
(陽明本から)源氏物がたり、おまへにあるを、殿、御覧じて、れいの、すゞろごとどもいできたるついでに、梅のしたにしかれたるかみにかゝせ給へる
陽明0005 すき物と なにしたてれば みる人の をらですぐれば あらじとぞ おもふ
とて、たまわされば |
源氏物語が中宮の御前にあるのを、道長様が見て、例によって、冗談をいったついでに、梅の実の下に敷いた紙に書かれた、
陽明0005 好きものと評判が立っているので、そなたに会う人で口説こうとしない人はいないだろう と詠われたので、 |
(陽明本から)
陽明0006 人にまだ をられぬ物を たれかこの すき物ぞとは くちならしけん |
陽明本0006 人にまだ手折られたことはございません好きものなどと誰が評判をたてたのでしょう |
又、いかなりしにか、
0119 なにばかり心尽くしに眺めねど見しに暮れぬる秋の月影 |
また、どんな時であったか、
0119 とりわけもの思いに沈んで眺めていたわけではないが、いつのまにか深まった秋の月影であった |
相撲御覧ずる日、内裏にて、
0120 たづきなき旅の空なる住まひをば雨もよに訪ふ人もあらじな |
相撲をご覧になる日、内裏にて、
0120 寄る辺ない旅の空の住まいに雨の中をに訪うてくれる人はいないでしょう |
返し、
0121 挑む人あまた聞こゆる百敷の相撲憂しとは思ひ知るやは 雨降りて、その日は御覧とどまりにけり。あいなの公事どもや。 |
返歌、
0121 相撲に限らず競い合う人がたくさんいる宮中は住みずらい所とお分かりにりましたか 雨が降ってその日は中止になった。なんと不適切な公の贈答か |
初雪降りたる夕暮れに、人の、
0122 恋ひわびてありふるほどの初雪は消えぬるかとぞ疑はれける |
初雪が降った夕暮れ、ある人からの歌、
0122 あなたを恋しく思っていますお元気でしょうか初雪がすぐ消えてしまわぬか心配です |
返し、
0123 経ればかく憂さのみまさる世を知らで荒れたる庭に積もる初雪 |
返歌、
0123 生き永らえば憂さばかりがつのる世とも知らずに荒れた庭に初雪が積もっている |
(陽明本から)
陽明0007 いづくとも 身をやるかたの 知られねば うしとみつつも ながらふるかな |
陽明本0007 この身をどう処したらいいのか分らないので憂き世と思いながらも生き永らえている。 |
小少将の君の書きたまへりしうちとけ文の、物の中なるを見つけて、加賀少納言のもとに、
0124 暮れぬ間の身をば思はで人の世の哀れを知るぞかつは悲しき |
亡くなった小少将の書いた打ち解けた文を、しまい込んだものの中から見つけて、加賀少納言に贈る、
0124 わが身の束の間の命を思わず人の世の無常を知るのは悲しいものです |
0125 誰れか世に永らへて見む書き留めし跡は消えせぬ形見なれども |
0125 誰が生き永らえて故人の筆跡を留めた文を見るのでしょう |
返し、
0126 亡き人を偲ぶることもいつまてぞ今日のあはれは明日のわが身を |
返歌、
0126 亡くなった人を偲ぶのもいつまででしょう今日の悲しみは明日のわが身に起こります |
以下のwebsiteに式部の歌の紹介が、時系列的に、分類されて出ています。 紫式部の歌
『紫式部集』を総合的に読んでゆこうという場合、必ず実践女子大本と陽明文庫本の両方に目配りしながら、この二本に依拠していくことになろう。(『紫式部集全釈』笹川博博司著)
公開日2024年12月//日