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(一)
『紫式部集』には、あまり一般には知られていない、紫式部の、勝気で、率直で、しかも明るく優しく、知性ゆたかな、少女時代の歌から、彼女の晩年近いころまでの、ほぼ全生涯の歌が集録されている。それ故、紫式部の歌風、心情、生活、人間等を知るためには、好個の貴重な資料であるのみならず、集録されている歌が、その詞書と密接な連携を示し、それぞれに意味深い内容を包含し、ゆたかな文芸的香気を放っていて、歌屑というべきものがほとんどない。それらの一つ一つの歌は、それぞれ意味深い小世界を完結させながら、しかもそれらがまとめられて一つの家集となった時、そこにはまた、別種の総和世界が屹立していて、全体としての文芸的価値追及の意味は看過しがたいものがある。
ところが、この家集は、古来紫式部の名に引かれた一部の人びとの手によって書写され、和歌作りの参考程度にしか扱われず、文芸的研究の対象としては、まったく注目されることなく、また式部のの人物論的研究の資料としても、ほとんど顧みられるところがなかった。
たとえば、紫式部の人物研究書として、最初のまとまった著述である、江戸初期の、安藤為章の『紫家七論』においても、同じく江戸時代における紫式部研究の第一人者であった本居宣長においても、紫式部について語る場合、源氏物語と紫式部日記とを取りあげながらこの家集にはまったく触れるところがなかった。
このような状況の中で、この家集を紫式部の伝記的資料として、初めてそれに脚光を浴びせたのは、大正初期における、与謝野晶子の「紫式部考」(大正五年七月刊『新訳紫式部日記』)であった。これを契機としてその後ようやくこの家集は一部の人びとの関心を引くに至ったが、なおそれが文芸的研究の対象となるまでには、数十年の歳月を経なければならなかった。
この『紫式部集』が永く埋もれたかたちで、一般に取りあげられずに、成立後、一千年近くもの歳月を経るに至った最大の理由は、良き伝本が流布しなかったためである。この集は江戸時代に『群書類従』に」収められて公刊されたが、まお本文にかなり誤写があって、しかも、その後公刊された活字本はすべて類従に拠ったものであったため、本文の校合にも、誤文の訂正にも役立ち得なかった。昭和初頭になって、その点に注目された池田亀鑑博士が、類従本以外の異系統の伝本を探求され、紫式部集の伝本研究に大きな礎を築かれた。そして戦後になってから、諸家の研究によって、続々と新資料の発見、翻刻、紹介が行われ、現在では式部集の写本は数十本の存在が知られるに至った。
筆者も数年前から式部集の伝本を諸方に渉猟し、昨年『紫式部集の研究ー校異篇・伝本研究篇』を公刊し、現存数十本の伝本を校合の結果、それぞれの系統を明らかにして、信頼しうる校定本文の作製に努めた。
かくて、現存伝本の系統を大別すると、
一、定家自筆本系
二、古本系
三、別本系
の三系統となる。これらの三系統は原形「紫式部集」に源泉を発しながら、その伝存の過程において脱落や異同が生じ、おのずから異なる系統をなしたもので、うち古本系は、他系に比して最も歌数が少なく、部分的に古い姿を残存させているので、古本系と称せられるもので、この系統は現在七本が知られ、その代表本は陽明文庫本である。また別本系は定家本系から派生したものと思われるが、本文が乱れていて信頼性がうすいもので、現在、享保写本・宝暦写本・岡田本の三本が知られる。
その他の数十本の伝本は、すべて定家本系に属するもので、この系統の代表本は、実践女子大学歳本である。定家本系と古本系との本文を比較する場合、優劣半ばする状態であるが、諸本のうち、最善本として推すべきものは実践女子大学本である。本著の本文はその実践本を底本とし、諸本との校合の結果、妥当なものとして定着する歌数を128首とし、実践本(126首)に二首を増補 した校定本文である。
しかし、現存諸本には共通して明らかに脱落を想定させる二、三の箇所があるので、原形は、なお、違った姿のものであったと思われる。
(二)
『紫式部集』の特色の概略は前節の冒頭に記したごとくであるが、では、この家集は紫式部の自選であろうか、それとも他選であろうか。
この家集を読んで、まず驚目させられるのは、歌と詞書との緊密性である。その詞書には長短があるが、長い詞書には詠歌のシチュエーションを叙べ尽くして間隙するところがないし、また簡単な詞書には、一読そのシチュエーションの把握を渋滞させるようなものもあるが、実は歌と深い緊密性をもっていて、それ以上の冗言を要しないという例が多いのである。(5)「手を見わかぬにやありけん」などはパラドクシカルな表現で、式部の心底のつぶやきが聞こえてくるようであり、(29)「うるさくて」(33)「すかされて」(34)「笑ひて、返し」などの表現も、当事者の主観的な、あるいは内面心情の表白を示すもので、第三者のなしうる表現ではない。あるいはまた、随所に見える左注が、歌と密接していて、そのシチュエーションを遺憾なく説き明かしている点など、当事者ならでは、と思わせる。
以上のような点から、やはり作者の自選家集であろうと考えられる。しかし、現存家集に収められているすべてが式部の自選歌であったとは断定しがたい。たとえば、日記と重複する歌でその詞書がほとんど日記の地文と同じものである歌などは、伝存の過程において補入されたものではないかという疑問もすでに生じている。にもかかわらず、その大要においては、詠者自身の意図をもって精選されたと思われる点が多く、その源泉においては、式部の自選による家集であったと信じられる。
(三)
式部集の歌数は、諸本校合の結果、今日の段階では128首とみるのが妥当と思われるが、しかし、この歌数が原形であったとは言いがたい。先にも述べたように、現存伝本において明らかに脱落と思われるもの、たとえば、(80)の歌のように、返歌があって贈歌がない箇所、(51)の次には詞書のみがあって歌のない箇所などがあるし、あるいはさらに研究が進めば、現在形家集中に後人による追補歌を確かめうるかもしれない。
さて、右の128首中、式部自身の歌は89首であるが、その時代範囲は、未婚時代から、結婚時代、寡居(かきょ)時代、宮仕え時代にわたり、ほぼ式部の全生涯に及んでいる。それらを素材によって分類すると、
憂き身の孤愁を詠み、あるいは交わした歌(30)計128首となるが、これらを対人関係のめんからみると、
夫婦仲を詠んだ歌(19)
死別の悲哀を詠んだ歌(13)
生別の悲哀を詠んだ歌(12)
みやびの贈答歌(11)
宣孝との恋愛歌(9)
宮仕え中の賀歌(8)
旅中の歌(8)
知己感を詠んだ歌(5)
宣孝以外の男からの求愛の関係の歌(5)
望郷の歌(3)
自然の興趣を詠んだ歌(2)
不快な対象を詠んだ歌(2)
愛児への情を詠んだ歌(1)
宣孝関係(37)の順で、宣孝との関係歌が断然優位を占め、その37首を分類すると、結婚後の夫婦間の仲を詠んだ歌(19)、結婚前の恋愛関係歌(9)、宣孝死後の哀悼歌(9)となる。
筑紫へ下ったともとの関係歌(13)
小少将との関係歌(10)
道長との関係歌(6)
大納言の君との関係歌(4)
弁の宰相との関係歌(4)
倫子との関係歌(2)
次に、この式部集を心情内容の面からみると、憂き身の孤愁を独詠あるいは他者と詠み交わした歌は、素材面からの分類では30首であったが、そのほかに死別生別その他の歌に包有され表明されているものを合わせると、97首(76%)の歌が、孤愁、悲哀の情感を帯びたものと見られる。
このように、『紫式部集』の中に大きくただよい流れているものは、孤愁感、憂き世感、無常感、宿世感であって、式部はそれらの情感を心内に濃くただよわせながら、それらに埋没してしまうことなく、そのような事象(環境)や心象(自己)を、対象化し、客観視することによって、人の世の常理を見究めようと努めたもののようである。
家集の編成は、このような彼女の生き方につながる行為であったとおもわれる。
(四)
”紫式部”というと、天才的な女流作家として、豊かな教養と知性に恵まれ、理知的で鋭い洞察力をもった女性といったイメージが浮かぶのが当然であろうが、にもかかわらず、その日記によると人前では””一”という字も知らぬような風をし、遠慮がちに振舞いながら、しかも、同僚や他の女房たちの人柄について鋭くあげつらっている点などから、内向的で、陰湿な性格で、あの陽性な(と一般にみられている)清少納言とは、まったく対照的な陰性の女性であったらしいというのが、一般のイメージであろうと思われる。このようなイメージは多分紫式部日記から受けたものであろうが、そのようなイメージが、はたして紫式部の資質を言い当てたものであるだろうか。『紫式部集』を読んだ場合、それは否定せざるを得ない。大体「性格」というものは、先天的気質と後天的環境によって形成されるものであるが、紫式部においては、どのようなものが先天的で、どのようなものが後天的環境によるものであろうか。それを判別する規準は必ずしも一様ではないが、内的で、表面的に不可視なものである「性格」は、表現された言語・行動によって判別せざるを得ないだろう。
ここに取りあげた『紫式部集』は、彼女のほぼ生涯にわたる体験心情の表明であり、式部の人柄、性格を理解する最も有力な手がかりであるが、彼女の娘時代の歌の中には、千記のようなイメージとは、およそ対照的な、式部の先天的気質であったと思われるものが見られるのである。
たとえば(4)の歌は、娘時代のものと思われるが、方違えに式部の家に泊まった男が、夜中、式部の居室の辺りで何か不可解な振舞いをしておきながら、翌朝何くわぬ顔で帰って行ったのに対し、早速その男の不可解な挙動をとっちめてやろうとして、皮肉をこめた朝顔の花を贈って、帰り際のあの空とぼけた朝顔は、何を意味するのかと詠んでやったもので、率直で勝気で、行動的な気質をうかがわせる。
また(14)の歌は、貧乏法師が陰陽博士気取りで、河原で祓いをしている姿をみて、苦々しく感じて、早速に詠んだ歌で、そこにも利かぬ気で、率直な、感情表明が見られるし、(27)の歌では、越前へ下り、雪に閉ざされて、つれづれをわびる式部の心をなぐさめようと、側近の者たちが、都で行われる雪山を作って、式部に端近くに出て眺めるように勧めたのに対し、「それが都への帰路にあるかえる山なら、行っても見るが、そうでないならつまらないわ」と詠んだものであるが、折角側近者が式部の心をなぐさめようとして雪山を作ってくれた好意を知りながらも、つまらないわ、とずばり言ってのける遠慮の名ない娘らしい甘えなど、式部に対する一般の陰湿な内向的イメージとは、およそ対照的なものである。
後年その日記のなかで、宮仕えから帰宅して、つれづれのままに、亡夫の残しておいた漢籍を見ていると、女房たちが「奥様は女のくせに漢籍などお読みになるから不幸なのだ」などと陰口をいうのを聞いて、「だからといって、縁起をかつぐ人がすべて長生きだという例もないではないか」と言ってやりたかったが、自分のことを心配して言ってくれているのだから、きつい事を言うのは思いやりがなないようだからと黙っていたと、書いているのとくらべると、娘時代には周囲にはばかりなく、言いたいことを言い放っていた、率直な、勝気な式部であったことが知れる。
後年、宮仕えの中で、周囲に気をつかい、慎み深く務めているのに、「受領の後家風情が、いやに上臈ぶって、乙にすましているわねえ」などという同僚の言を聞いて、
わりなしや人こそ人と言わざらめみづから身をや思ひ捨つべき(家集63)と詠んでいる点などを見ると、娘時代にみた勝気さが、なお底流している事を思わせ、先ほど見てきた率直さ、勝気さ、遠慮のなさなどこそが、式部の先天的気質であったと考えられる。ところが、娘時代のそのような、むしろ明るい感じのあった式部が、内向的、非社交的で、孤独感に閉ざされ、陰湿なイメージを一般に与えるようになったのは、宣孝との結婚生活が、わずか二年余りで宣孝の死によって崩れ去って後、そしてまた、寡婦の身で宮仕えに出仕して後の、式部の歌や詞書に、
(46)「色ならぬ心」・(48)「世のはかなきことを嘆く」・(53)「世の中の騒がしきころ」・(54)「世を常なしなど思ふ」・(55)「身を思はずなりと嘆く」・(57)「身の憂さは心のうちにしたひ来て」・(62)「憂き世に乱れてぞふる」・(69)「憂きわが涙」・(72)「袂にあまるね」・(77)「露のわきける身」・(106)「今日しもものの悲しき」・(117)「ながむる袖ぞ乾く世もなき」・(124)「ふればかく憂さのみまさる世」・(126)「暮れぬ間の身」などの詞書が頻出してくるのを見ると、宣孝との死別が、式部の人生観に最も大きな暗い影を刻みつけたものと見られるし、さらに受領の寡婦という身で、はなやかな宮廷後宮での宮仕え生活が、彼女の心意に添わぬ苦痛なものに感じられていたためであっただろう。
とすれば、彼女の性格形成に画期的な影響を与えた後天的環境は、夫との死別と宮仕え生活であったと思われる。
すなわち、少女時代から宣孝との新婚生活までは、気がねのない家庭生活や、寛容磊落な宣孝の包容力のもとでの新婚生活においては、式部の先天的気質を、ほぼそのままに表明し得たが、夫との死別、宮仕え生活に至って、式部の先天的気質は、後天的環境の影響を大きく受けて後退し、内閉的で、遠慮がちで、非社交的な陰鬱な性格が形成されていったものと考えられる。
このように、性格というものは、固定的、不変的なものではなく、後天的な環境の影響によって、著しい変転を遂げるものであるが、一方また、変転する性格の背後に、不変の素質もあることを見落としてはならないであろう。
式部においては、それは知的素養というべきものである。一般に性格というものが、先天的な気質(素質の集合)と後天的環境との交互作用によって形成されるとすると、式部の知的素質は、他の素質よりも、後天的環境に左右され変転を迫られる度合いが少なかったものといえる。ということは、紫式部の人格の中で、この知的素質が優位を占め、強勢であったためであろう。
人間の精神活動を、仮に知・情・意に分類すると、情的素質の強い人は、環境に順応したり埋没したりし易く、したがって環境との対立意識が弱いが、意志的素質の強い人は、環境との対立意識が強く、環境を克服すべき対象としてとらえがちである。ところが、知的素質の強い人は、環境との対立を意識するのみならず、自己との対立をさえ意識する。自己との対立とは、自分をすら対象化し、客観視することである。そして、そしてそこから自己の存在意味、個人と環境・社会との運命的存在についての認識を追求し、したがってその生活態度において、きわめて内省的・自己批判的になりがちであるとされている。
知的素質が優位を占めていたと思われる紫式部においては、以上のことがきわめて典型的に見受けられるのである。
ところで紫式部は自我意識の強い女性であったと、よく言われているが、自我意識は自分が常に行為の中心であり、主体であるという意識であるが、そのような意識は、知的素質の強い人に多く見られるものである。知的素質の強い人は、環境を対象化し、対立的に見がちであるが、それはその環境からの制約・束縛を強く意識するからであり、そういう制約から自己を自立・解放させたいと願う意識が自我意識であり、また、知的素質の強い人は、内省的になりがちで、自己を対象化し、客観視するのは、自己の存在意味、自己と環境・社会との運命的存在についての本質や限界を追及しようとするところから生起するのであって、それは知的素質が包含する側面に他ならない。
(五)
前節で、紫式部の知的素質の優位性をあげたgs、その知的素質のもつ一特性としての内省性・自己凝視性が、式部において特に際立って見うけられるのは、深い根因があるようである。
それに関して想起されるのは、式部日記の回想的』一節である。それは周知のエピソードでもあるが、、式部の父為時は、祖父中納言兼輔以来の「歌壇の名門」の出自であるという誇りを持ち、自分の才能に適した「詩文の家」を興そうと志し、微官の身で学問に精進し、苦節を重ねていたが、そのため自家の後継者たる長男惟規にかける期待は大きく、惟規の幼少の時から、漢籍の教授に熱心であった。それを傍聴していた幼少の式部が、兄よりもよく理解したので、父は「お前が男に生まれなかったのがわが家の不幸だ」と、常に嘆いていたという話である。
このような父の言葉を終始聞かされていた式部は、優れた詩文家であった父から、自分の才能を認められ、たのもしがられたという誇り・優越感を持つと同時に、「男でなかったのが、わが家の不幸だ」と父を嘆かせていることは大きなショックだったにちがいない。-父の嘆きの根因は自分が「女」に生まれたことにある。その事が父に「不幸」感を与えている。自分の才能を認めてくれた敬愛する父にそのような嘆きを抱かせるような自分は、何という「不幸」な存在だろう。-そういう自己卑下の意識の生起は、式部にとって「女」に生まれてきた自分の存在意義を根底から問われているに等しかった。紫式部は年少の時期に、すでに自分の存在基点への内省を迫られていたのであった。(拙稿「紫式部の意識基体」-『同支社国文学』昭和四十六年三月刊に詳述)
この事は、相基部の心中につねに大きなしこりとして横たわり、彼女の意識基体ともいうべきものとなっていた。そこから一体「女」とは何であるのか。「女」では何故だめなのか。自分が「女」として生まれたことは、自分の意志ではどうすることもできないもので、それこそ「宿世のさだめ」である。では、その「宿世」とは何であるのか。人間の運命とは何であるのか。というような内省的契機を抱え込まされていたのであった。
だが、まだ少女時代は、なお、先天的気質としての勝気さや率直さ、わだかまりのなさが優位を占め、あるいは学者ち父から自己の才能を認められているという誇り、優越感があって、内省的契機は強く表面化してくることはまだ少なかったと思われる。
それが結婚わずか二年余にして、夫と死別する身となった時、年少時から心内のしこりとして底流していた「宿世のつたなさ」、それは前世での因縁が悪かったためで、すなわち、自分は「罪深い身」と思わざるを得なくなってくるのであり、急激に卑下意識が台頭してきて、内省性を助長させ、関心はおのずから自己に集中し、自己の存在基点の問い直しへと向けられて行ったようである。
(六)
紫式部という人格において、際立ってみられる内省性、自己凝視性は、彼女の先天的気質としての知的素質と、後天的環境との交互作用による特性で、それは根深い契機に発するものであったことを見てきた。
p>そして式部が過去において体験してきた、死別・生別その他の悲哀は、彼女の上にひしひしと無常・孤愁・憂き身の感慨となって迫り、折にふれ、事にふれて、その感慨を洩らさざるを得なかったほど、深いものであったようである。だが、彼女は、つねにそのような事実を対象化し、そのような自己を、第二の自己によって凝視するという行為を通して、客観的視点を保持し、孤立化しようとする自己を自己が現実に生きている歴史的社会の中へ連れもどし、個別と普遍との相関性の中で、改めて自己を検証しようとしているようである。それは内在世界との不断の緊張関係の樹立であり、自律性にもとづく、さめた自我の意識の持ち主であったことを語っている。このような意識から、自己をとりまく孤独無常を、人の世の常理としてとらえ、その結果、別離の悲哀も「会者定離」として、死別の悲嘆も「生者必滅」の理として、観照し止観し得るに至っている。それは外界の事象への安易な同化を許さぬ自律性にもとづく壮絶な自己凝視を通しての、常理観照への苦闘の道であった。
『紫式部集』にただよい流れる孤愁、無常の憂き世感は、そのような情感世界への埋没の表明ではなく、それらの心象や事象を対象化し、客観視することによって、感性世界を理性にまで深化し、人の世の常理を見究め、孤愁感・無常感・憂き世感を超えて、孤独観・無常観・宿世観・死生観にまで高め、独自の世界観の確立にまで及ぼうとする精神的葛藤の姿であり、彼女の内面史との対決の姿勢を示すものであろう。
(七)
/紫式部の家系は、左大臣藤原冬嗣の子内舎人良門を祖とし、良門の兄良房が氏の長者として摂政関白の豊洲家門を築いたのにくらべると微官に終わった家筋であるが、式部の曽祖父堤中納言兼輔は、延喜歌壇の重鎮となり、その長男雅正は豊前守・周防守を歴任した受領であったが、歌人として知られ、後撰集に七首の入撰歌がある。雅正の弟清正の勅撰歌人として11首の入撰歌のある人で、兼輔以来、歌壇の名門であった。式部の父為時は歌よりは儒学に精進し、文章博士菅原文時の門下として、「詩文の家」を興そうと志した人であった。官位は年ふけてから越前守、さらに越後守で終わった。五位程度の受領 層であった。
式部は為時の二女として、天延二年(975)に生まれ、長徳二年(996)初夏、父の越前赴任に同行し、一年半ばかり国府武生に滞在して、長徳三年冬帰京、翌四年冬、山城守右衛門権佐藤原宣孝と結婚した。時に式部二十四歳、宣孝は四十四、五歳であった。
長保元年(999)、一女賢子を生んだが、同三年四月二十五日宣孝と死別した。寛弘二、三年の十二月二十九日に、一条帝の中宮彰子のもとへ初出仕、その没年は長和三年(1014)四十歳ごろとみられている。
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