出定後語 用語解説

出定後語を読む 用語解説

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00序   ///
  著者富永仲基の名の一字。自称。
細席に   いちいち詳しく。
因縁する   経説の由来を探求する。
屬籍する   書籍に綴る。著述する。(水田)/「属籍」の註で、付属する所の典籍である。関係ある経典の意(吉川・京戸)/ (水田註では)仲基が自説を本に書く意にとれるが、その他の註では、根拠を仏典に当たる、意にとれる。どちらの解釈もあり得るようだが、悩んだあげく最終的に管理人は前者をとった。
然るに其の道の義を細席に因縁するに至りては、則ち豈に説無きことを得ん乎。即ち屬籍すること無きこと能はざるなり。ここにおいてか、出定成りぬ。    「あに説なきことを得んや」→説明が必要だろう。「屬籍することなきことあたはざるなり」この本(出定後語)を書かざるを得なかった、の意に解した。 以下、他の解釈を挙げておく。
① これらによって、儒教も仏教もそれぞれの道は、みな善をなすことにつきるということがわかった。そして、その(仏教の)道の意義を詳しくたどると、まさに仏説ではないことがわかり、(仏教の教えに直接)関係ある経典がないことがわかったのである。このことによって出定という考えが成立するのである。(『出定後語』普及版 隆文館 京戸慈光 )意訳のし過ぎと思った。「このことによって出定という考えが成立するのである」も訳としては弱い。意味が分からない。・・・管理人
②これによって、「儒・仏の道もまたやはり同じようなものだなあ、みな善を樹立することを目的としているだけだ」と思った。しかしそれにもかかわらず、この考えについて、道の心(義)を詳細な例証に求めるという段になると、そのときはなにも説明を要しないとは限らない。そのときは関係の出典を示さないわけにはいかない。こうして『出定後語』が出来あがったのである。(日本の名著 富永仲基 石田梅岩 加藤周一編 石田瑞麿 現代語訳)
『天才 富永仲基』釈徹宗著も②に同じ。
數箇个   数年。
頒󠄃白  (はんぱく)白髪が半分混じる。中老の人。 頒󠄃(はん)は、分ける。
側陋   身分の賤しい人。
夫の明者の部索して之を楔ぐ   (楔󠄃ふさぐ) 「明者」智慧の深い明らかな人。後世の学者。「部索」手分けして探し求める」「楔󠄃」この字に仲基自らカナをつけて「フサグ」つ打つ。塞ぐの意で、自説(出定後語)を更に補充する。
大故   大きな事故、自分の死をさす。
01教起の前後   ///
衛世師外道   印度六派哲学の一なる勝論宗のこと。六派の一。 (水田)
阿羅羅 (あらら)釈迦が出家後、この人について学び、道を求めたに対し空無辺拠のことについて語る。まもなくその空無辺拠を証得し、真のさとりの道ではないことを知り去って、鬱陀羅の処に行く。(京戸)
鬱陀羅 (うつだら)釈迦が出家後、阿羅羅あららを訪れ、のち鬱陀羅の処で修行する。釈迦は、非想非非想処まで修行が進みそれを証得し、真の道に在らざるを知って去る。(京戸)
非非想 非想非非のこと、三界の最上位、無色界の第四天のこと。この天に生ずるものは下地の如き瞑想なきを以て非想、叉は非有想と云う。外道では此処を訴真の涅槃処とする。
『ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅したものでもない。・・・このように行じた者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は想いを縁として起こるからである。』(スッタニパータSn 874)(京戸)
加上   思想史における発展の原則で、ある思想は必ずしれ以前に成立している既存の思想を予想し、それを超克しようと努力する。そしてあらたな一つの思想が成立すると、さらに別の思想が起こって、これを超克しようとする。かくのごとくして超克の過程は無限に続くのであるが、その際に超克の行われるたびごとに、過去の思想には存しないところの要素があらたに付加される。
『翁の文』第九節に
「およそ古(いにしえ)より道をとき法をはじむるも、必ずそのかこつけて祖とするところありて、我より先にたてたる者の上に出んとするが、その定りたるならはしにて、後の人は皆これをしらずして迷ふことをなせり」(京戸)
天を宗とせり   天は、地上はるか上方にある理想世界。思想発達とともに複雑に階層化した。原始仏教成立の思想的背景になったのは、古代インドの生天説である。(水田)
因果經   過去現在因果經の略称、羅什の訳。釈迦の過去因と現在果の自伝形式の経典。(水田)
釋迦文   「釋迦文(しゃかもん)」は主に「釈尊」を指す言葉で、サンスクリット語の「シャーキャムニ」の音写(釈迦族の聖者)です。釈迦牟尼に同じ。釈迦は生天説では外道に勝てないので、七仏を提唱し生死を超越して神秘性で外道や印度人を帰依させた。(水田)
二十八天   [二十八天]三界にある天の総称。欲界六天、色界十八天、無色界四天の計。天ははじめ六欲天のみが説かれたが、次第に欲界(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・六欲天)の観念が成立し、その上に色界が積み重ねられ、さらに空無辺処天・識無辺処天と、無色界の諸天が架設され、その上にアーラーラ仙人が無所有処天を説き、最後にウッダカ仙人が非想非非想処天(有頂天)を加え重ね説いた。(水田)
無所有   [無所有]無色界の第三天で無所得即ち空の異名である。空は無辺であると観じて空を破した人が、更に識が三世にわたって無辺であるを厭い、所縁共に所有無しと観じ、この行力によって生まれるところである。
『尊師(ブッダ)は答えた。「ウパシーバよ。よく気を付けて無所有を期待しつつ、「そこには何も存在しない」と思うことによって、煩悩の流れを渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、愛執の消滅を昼夜に観ぜよ。』『スッタニパータSn 1070f』 『尊者于パシバァがいった、「一切の欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、他のものを捨て、最上の有想解脱で(原語は・・・・・で七等至のうちで最上のものである無所有処定をいう)において解脱した人ー彼は怠堕することなく、そこに安住するのでありましょうか?(Sn1071f)』とある。(京戸)
識処   無色界の第二天。前地の空が無辺であるを厭い心を転じて識を縁じ、識と相応じ心定まりて動かず、三世の識悉く定中に現じて清浄寂静なる果報を云う。(京戸)
生天   生天説である。人間が死して後、修行苦行の深浅によって上天に生まれ得るとの説。
竺民   インドの民。
僧祇結集   仏弟子たちによる、多数の遺教の集成が行われた。阿僧祇のこと。僧祇とは数が多いという意味。 //釈迦入滅後、ただちに行われた、いわゆる第一回結集は魔訶迦葉を代表とする五百人の僧によって王舎城の郊外でおこなわれた「五百結集」である。経は阿難あなんが、律は優波離うはりが誦出し、全員の承認を得てできあがったと伝えられる。その後、百年ほど経て、戒律のことで異議が生じ、七百年の僧が参加していわゆる「七百結集」がおこなわれたというが、さらに滅後二百年ごろ、阿育王のとき第三回、下って紀元二百年ごろ迦膩色迦かにしか王のときに第四回がなされたとする。
三藏   経・律・論の三蔵
智度   大智度論。100巻、鳩摩羅什訳。竜樹の著した魔訶般若波羅蜜経の註釈。// 大智度論(だいちどろん、梵: Mahā-prajñāpāramitā-śāstra, マハー・プラジュニャーパーラミター・シャーストラ)は、大乗仏教中観派の祖である龍樹による『摩訶般若波羅蜜経』(大品般若経、二万五千頌般若経、梵: Mahā-prajñāpāramitā Sūtra)に対する百巻に及ぶ注釈書である。初期の仏教からインド中期仏教までの術語を詳説する形式になっているので、仏教百科事典的に扱われることが多い。漢訳は鳩摩羅什による(402-405年、大正蔵No.1509)(WIKipedia)
金剛仙   金剛仙論のこと。バスバンドウ(世親、インド唯識学派の僧)の『金剛般若経論』に対する弟子の金剛仙の註釈書。
  上座部と大衆部。//上座部と大衆部の違いは、 仏教の教団が分裂した際の根本的な教義の違い、特に律の解釈の違いにあります。上座部は戒律を厳格に守る保守的な立場から個人の悟りを重視し、大衆部は戒律に例外を認めようとする革新的な立場から大衆の救済を重視しました。上座部仏教は東南アジアに広まり、大乗仏教の出現につながった大衆部は初期の革新派として位置づけられます。
上座部
特徴: 釈迦の入滅後、戒律を厳格に守ることを主張した保守的な一派です。 重視する点: 個人の悟り(解脱)を目指すことを重視します。 教義: 戒律に例外を認めず、厳格に遵守することを主張しました。 現在: スリランカ、タイ、ミャンマーなど東南アジアに広まり、上座部仏教として現在も続いています。
大衆部
特徴: 戒律に例外を認めようとした革新的な一派です。 重視する点: 多くの人々(大衆)を救済することを重視します。 教義: 上座部とは異なり、戒律に柔軟な解釈を許容しようとしました。 現在: 大衆部の流れは、後に「すべての人々の救済」を目指す大乗仏教の教義につながっていきました。 (Google AI)
鉄囲山外  須弥山の外側の鉄山。//鉄囲山の外には、最後の「外海」が広がり、その中に我々が住むとされる南閻浮提(なんえんぶだい)など4つの大陸が浮かんでいるとされています。(我々が住んでいるこの世界を超えたところで)の意か。
閻浮提(えんぶだい) とは、仏教の世界観において、須弥山(しゅみせん)の南にある人間が住むとされる大陸(四大洲の一つ)を指し、もとは古代インドの地を意味しましたが、転じて我々が住むこの世界(人間世界・娑婆世界)そのものを指す言葉です。(Google AI)
十方   四方・四維・上下の計。全体。
既に没して   紀元前383年。釈迦没後部派仏教に分かれた。
方等   方正平等の意で大乗教をさす。(水田) //大乗仏教の教え・経典:「方広」とも訳され、広大で多様な教えを意味します。/大乗の説は横に十方に遍き方広普遍の実理があり、縦に凡聖を問わぬ平等な教えであるから、この名がある。
方広   方等におなじ。大乗の教えをさす。
年数前後の説   諸経成立順序の説。
迦文   釈迦文、釈迦牟尼のこと。
十八部   小乗十八部のこと。仏滅後100年に、大衆と上座の二部に仏説が分かれた。第200年目に大衆部からまた分出する・・・・。(京戸)
七仏   過去七仏のこと。// 過去七仏(かこしちぶつ)とは、お釈迦様以前に出現したとされる仏に、お釈迦様を加えた合計七人の仏です。具体的には、毘婆尸仏(びばしぶつ)、尸棄仏(しきぶつ)、毘舎浮仏(びしゃふぶつ)、倶留孫仏(くるそんぶつ)、倶那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)、迦葉仏(かしょうぶつ)、そして釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)の七人を指します。 (Google AI)→もう一つの七仏参照
初成道   (しょじょうどう)35歳の12月8日の解脱。
釈提桓因   (しゃくだいかんいん) 帝釈天。忉利天(とうりてん)の王。
般若波羅密   (はんにゃはらみつ)真実の智慧。
智度論   大智度論(だいちどろん、梵: Mahā-prajñāpāramitā-śāstra, マハー・プラジュニャーパーラミター・シャーストラ)は、大乗仏教中観派の祖である龍樹による『摩訶般若波羅蜜経』(大品般若経、二万五千頌般若経、梵: Mahā-prajñāpāramitā Sūtra)に対する百巻に及ぶ注釈書である。初期の仏教からインド中期仏教までの術語を詳説する形式になっているので、仏教百科事典的に扱われることが多い。漢訳は鳩摩羅什による(402-405年、大正蔵No.1509)(WIkipedia)
初転法輪   釈迦の初説法。初転法輪(しょてんぼうりん)とは、お釈迦さまが悟りを開いた後、インドの鹿野苑(ろくやえん/サールナート)で、かつての苦行仲間である五比丘(ごびく)に対し、初めて仏教の教え(法)を説いた出来事を指します。法輪(ほうりん)とは仏の教えのことで、それが世に広まることを「法輪を転ずる(まわす)」と表現し、その最初の説法が「初転法輪」です。この説法で中道・四諦・八正道などの仏教の基本原則が説かれ、仏教教団が始まったとされる重要な出来事です。(Google AI)
転法輪経   釈迦が鹿野苑で説いた最初の説法。
大涅槃   釈迦の入滅。
大迦葉   迦葉。仏陀十大弟子のひとり。王舎城のバラモンの子。仏陀成道後三年目の頃に弟子となり、八日目に阿羅漢に入ったという。弟子中最も執着の念のない清廉な人格者で仏陀の信頼は最も厚かった。仏陀の入滅後、教団の統率者となり、王舎城において第一回の経典結集を行った。後に阿難を後継者にし、山に入って入定したまま生涯を終えた。特に禅宗でこの人を尊崇する。無執着の行で第一人者(頭陀第一)であった故であろうか(京戸)
阿難あなん   仏陀十大弟子のひとり。仏陀の従弟。出家してまもなく仏陀の常随(侍従)の弟子となったため、仏陀の教説を記憶している点では弟子中随一で、多聞第一と呼ばれた。釈迦入滅後、大迦葉の教誡をうけて大悟し、第一結集には選ばれて経を誦出した。また比丘尼教団成立の斡旋をした。
四十余年いまだ真実を顕わさず   無量義経に「四十余年未だ真実を顕さず」(四十余年未顕真実)と記されており、釈尊が法華経を説く以前の40年余りの間説いてきた諸経の教えは、方便・仮の教え(権経)であり、いまだ真実を明かしていない、と説いている。
四阿含   四阿含(しあごん)は、釈迦の教え(初期仏教)を伝える漢訳の根本的な4つの経典群の総称です。釈迦が実際に説いた内容に最も近いとされる仏典であり、内容は4つのテーマに分かれています。四阿含の構成四阿含は以下の4つの経典で構成されており、それぞれ分量や内容の傾向が異なります。長阿含経(じょうあごんきょう)内容が長く、包括的な教えや他宗教との問答などをまとめた経典です。中阿含経(ちゅうあごんきょう)中ぐらいの長さの経典群で、仏教の基本的な教義が網羅的に説かれています。雑阿含経(ぞうあごんきょう)短い経典をテーマごとに寄せ集めたもので、初期仏教の最も古い姿を伝えているとされています。増一阿含経(ぞういちあごんきょう)教えの数(1から11まで)を基準にして、項目ごとに数を増やしながら説く形式の経典です。パーリ仏典との関係南伝仏教(スリランカや東南アジア)に伝わる「パーリ語経典」の五部(ニカーヤ)のうち、最後の「小部」を除いた4つの部にほぼ対応しています。仏教の教えのルーツをたどる上で非常に重要な資料となっています。阿含経典についての学術的な解説は、コトバンクの詳細ページで確認できます。 (Google AI) //原始仏教経典。小乗経典。// アーガマの音写。原始仏教経典。実際に仏陀が説かれたと思われる経典が数多く含まれている。南方系仏教では、長部・中部・相応部・増支部・小部の五部に分けているが、北方系仏教では長阿含・中阿含・増一阿含・雑阿含に分類している。
修跖路法蔵   (しゅとろほうぞう) 十二部経。小乗経典。
仁王般若   (にんのうはんにゃ)『仁王経』(にんのうぎょう)は、大乗仏教における経典のひとつとされ、『仁王般若経』『仁王般若波羅蜜多経』等とも称される。なお、この経典は仏教における国王のあり方について述べた経典であり、天部に分類される仁王(=二王:仁王尊)について述べた経典ではない。
泛爾   (はんじ) はっきり述べずに、漫然と。
法界性論   魏の菩提流支の著である。が、現存しない。『法華文句記』第四巻下に『菩提流支法界性論云。仏成道後四十二年説法華経』とあり。また『天台円宗四教五時西谷名目』下巻、に『菩提流支法界性論曰。阿含十二年。般若三十個年。法華八個年等有料簡之』(京戸)/『西谷名目下末に菩提流支の法界論として、この句の引用あり。(吉川)「法界性論(ほっかいしょうろん)」は、仏教、特に日蓮仏教や華厳宗などで言及される教義で、 この世のすべての存在(法界)が仏性(真実の性質)を持つという考え方や、それを論じたテキスト(現存せず)を指し、あらゆるものが相互に関連し、すべてが仏になれる(一切衆生悉有仏性)という思想の根拠となります。具体的には、事(現象)と理(真理)が相互に融け合う「四法界」(事法界、理法界、理事無礙法界、事事無礙法界)の思想と関連が深く、日蓮が『法華経』の説時を釈尊晩年の真実の教えとした根拠の一つとされます。/ 法界性論』は、漢訳は散逸しており現存しないと考えられています。 しかし、原典であるサンスクリット語の写本は、20世紀初頭にチベットで発見されたという報告があり、また、チベット語訳は現存しています。龍樹作といわれている。( Google AI)註、富永仲基はどこで読んだのだろう。
諸法の実相   一切のありのままの姿。諸現象の真実性。(水田)// 「諸法実相(しょほうじっそう)」とは、あらゆる物事(諸法)が本来持っている、ありのままの真実の姿(実相)のことです。仏教、特に大乗仏教における重要な概念で、仏の智慧によって見極められる究極の真理を指します。この真実を理解すれば、森羅万象がそのまま仏の真実の現れであることが分かるとされています。(Google AI)
蔽する   「蔽」は断の意。断定・判断する。(水田)//「蔽する」は 「おおう」「隠す」「遮る」の意味。(Google AI)
出定如来   仲基自ら如来になぞらえかく自称した。
これ法華氏は   法華経を釈迦成道四十年後に説いた妙法だとかこつけて説いて、それ以前の経説を劣った教えとして、諸法実相にかこつけて従来の小乗や般若大乗を超克打破した。法華派はすなはち大乗の別派で、これまでの小乗と大乗をともに否定したのである。
// 「法華四十年(ほっけしじゅうねん)」とは、仏教において、釈迦が『法華経』を説くまでの約40年余りの教えは、すべて「仮の教え(方便)」であり、まだ真実の教えを明らかにしていない、という意味の仏教用語「四十余年未顕真実(しじゅうよねんみけんしんじつ)」を指す言葉です。 詳細は以下の通りです。 「四十余年未顕真実」の意味: 釈迦がその生涯で説いたとされる約50年の教えのうち、晩年の約8年間で説かれた『法華経』こそが最も重要な真実の教え(真実相)であるとし、それ以前の40年余りの教えは、人々を真実の教えへと導くための準備段階の教え(方便権教)であったと位置づける教義上の解釈です。 背景: この解釈は、中国の天台大師智顗(ちぎ)によって体系化されたもので、当時の様々な経典に対する優劣を定める「五時八教」という教判(きょうはん:仏教の教えを体系的に分類すること)に基づいています。 目的: 衆生の能力(機根)がまだ真実の教えを理解する準備ができていなかったため、様々な方便の教えを用意し、次第に機根を調えて『法華経』に至って初めてすべての衆生が成仏できるという真意(一乗思想)を説いたとされます。 宗派による重視: 特に日蓮宗(法華宗)系の各宗派では、この「四十余年未顕真実」の文言を非常に重視し、『法華経』こそが釈迦の教えの集大成であり絶対最高の教えであると位置づけています。 (Google AI)
并呑権実   (へいどんごんじつ) 方便真実を併せた説。// 権実(ごんじつ)とは、仏教用語で「方便(ほうべん)の教え(権)」と「真実の教え(実)」を対比する言葉です。特に天台宗では、釈迦が説いた初期の教えは方便であり、法華経こそが真実の教えであるという「開権顕実(かいごんけんじつ)」の思想で知られています。(Google AI)
初め小乗、中空教、後不空なか空教、のち不空「初小乗、中空教、後不空」は、日本の仏教、特に 真言宗における教義の発展段階を示す言葉であると考えられます。これは、仏教の教えが時代や人々の能力に応じて説き分けられたという解釈に基づいています。 この言葉は、仏教の教えを以下の3つの段階に分けて捉えています。 初小乗(しょしょうじょう): 初期の仏教や部派仏教(かつて小乗仏教と呼ばれた、特定の修行僧が自己の悟りを最終目的とする教え)を指します。この段階では、すべての存在には実体がないという「空」の思想の否定的な側面(あらゆるものへの執着を捨てること)が強調されます。 中空教(ちゅうくうきょう): 龍樹(ナーガールジュナ)に代表される大乗仏教の中観派(般若経典群など)の教えを指します。この段階では、「空」が単なる否定ではなく、すべての存在が相互の因縁によって成り立っており、固定的な実体(自性)を持たないという理法(縁起)として深く理解されます。 後不空(ごふくう): 密教、特に真言密教の教えを指します。唐代の僧である不空三蔵によって中国に広められた密教経典に基づいています。この教えでは、「空」の思想の肯定的な側面、すなわち「空」であるからこそ、様々な現象や仏の力が現れ、信じることで願いが叶い、空しい思いをさせない(不空)という考えに至ります。 この三段階は、教えの優劣ではなく、衆生の機根(能力や理解力)に応じて段階的に説かれたとする思想的変遷を示しており、最終的に密教が最も深い教えであるとする真言宗の立場を表しています。 //法相宗と関係がありそうだ。//法相宗(唯識)において、釈尊(ブッダ)の教えを時期や内容の深浅で3段階に分けた「三時教判(さんじきょうはん)」を指す言葉です。 唐の慈恩大師 基(き)などが、『解深密経(げじんみっきょう)』に基づき体系化しました。 // この検索で、特に(Google AI)検索するたびに説明がかわる。
普現   普賢菩薩に仮託した一派。
遍吉の語   大智度論にある普賢菩薩の法華経護持の語。 「遍吉」は普賢菩薩の異名。
解深密経   (げじんみつきょう) 五巻。唐の玄奘訳。法相宗の根本経典。唯識の深旨を論述するもの。
円満修多羅   (えんまんしゅうたら) 華厳経のこと。
ここにおいて   華厳経の作者は釈迦成道後の十四日目に華厳経を説いたとして、従来の小乗を排し、日光三照の譬えで従来の大乗説に優ることを主張している。
頓の頓   (とんのとん) 頓教中最も悟りが速い。//「頓教」(とんきょう)は、 修行の段階を経ないで直ちに成仏できると説く仏教の教えです。最初から深遠な大乗の教えを説くことを指し、これに対し段階的に教えを説くことを「漸教」(ぜんきょう)と呼びます。
すぐに成仏できる: 長い修業を経ずに、ただちに深い悟りの境地に達できるとする教えです。 「漸教」との対比: 仏教における教えの分類の一つで、やさしい教えから始め、段階的に深い内容へ導く「漸教」と対をなします。 具体的な例:
真言・天台・浄土などの宗派: これらの宗派で説かれています。
浄土宗: 浄土教こそが、究極の「頓教」であると位置づけられています。(Google AI)
二七日の前   「二七日の前」とは、故人の命日から14日目の「二七日(ふたなのか)法要」の直前の期間を指します。仏教の慣習では、命日から7日目の「初七日」に続き、14日目の二七日、21日目の三七日など、7日ごとに「中陰法要」が営まれます。二七日法要: 命日を1日目として数え、14日目に行う法要です。
二七日の前: 具体的には、命日から13日目までを指します。
※『華厳経』は、釈迦が悟り(成道)を開いてから14日目に初めて説かれた教えであるとされています。これは仏教の伝統的な解釈です。 (Google AI)
日輪のまづ諸大山を照らすに譬へて   「 日光三照(にっこうさんしょう)の譬え」とは、仏教、特に天台宗の教えにおいて、仏の教えが人々の能力(機根)に応じて説かれる様子を、太陽の光が当たる場所によって異なるように見えることに例えたものです。 この譬えは、主に以下の3つの段階で説明されます。
① 高山を照らす:太陽が昇る時、まず最も高い山の峰を照らすように、仏はまず最も優れた能力を持つ人(上根の機)に向けて、高度で深遠な教え(『華厳経』など)を説いた。
② 幽谷(ゆうこく)を照らす:次に、太陽の光が谷間や奥まった場所に届くように、仏は中程度の能力を持つ人(中根の機)に向けて、少し分かりやすい教え(『阿含経』など)を説いた。
③ 平地を照らす:最後に、太陽の光が平らな土地全体を平等に照らすように、仏はすべての衆生(あらゆる能力の人々)に向けて、分け隔てなく救済する普遍的な教え(『法華経』)を説いた。 これは、仏が衆生の能力に合わせて段階的に教えを説き、最終的にすべての人が成仏できる「一乗(いちじょう)」の真理へと導くという、教えの順序(教相判釈)を示すために用いられる譬喩です。
舎利弗   (しゃりほつ) 仏陀の十大弟子のひとり。マガダ国王舎城の北バラモンの家に生まれた。相弟子とともに、仏弟子となり、智慧第一と称せられた。仏陀より先に入滅した。
目連   (もくれん) 仏十大弟子のひとり。マガダ国王舎城の市外のバラモンの子に生まれた。隣村の舎利弗と親交があり、はじめはともにサンジヤッヤの弟子であったが後に釈尊の弟子になった。神通一(超自然的能力)といわれた。市内行乞中に仏教教団を嫉むバラモンに襲撃されてたおれた。
異時異処   仏弟子になった、時期と場所がそれぞれ異なりこと。
逗漏  (とうろ) 偽るの意。// 漏は煩悩の異名。逗はとどまる。まだ煩悩がぬけきらないもののこと。/
ここにおいて   華厳経の作者は釈迦成道後の14日目に華厳経を説いたとして、従来の小乗を排し、日光三照の譬えで従来の大乗説に優ることを主張した。
大集   (だいじゅう) 大方等大集経の略。仏の成道後第十六年目に、今や大衆が菩薩の法蔵を受け得可き機根に達したと見て、仏は深甚の大乗法門を説いたとされる。ここではこの経を説いた一派の学僧をいう。
泥洹   (ないおん)泥洹は、 涅槃のこと。涅槃と記せず泥洹と書く経がいくつかある。ここでは涅槃経を作った一派の学僧をいう。
兼部   (けんぶ)大小乗を兼ね併せて説を立てるもの、ここでは大集及び泥洹の作者たちをさす。/ 氏は、作者と訳すのがいいのか、の一派または輩(ともがら)。
捃捨教   (くんじゅうきょう) 天台宗で涅槃経の教えをいう法華経で漏れた衆生を拾う意。(水田)釈迦は法華経を説いて大衆を教化したが、なお、残ったものに涅槃経を説いた、とされる。// 捃拾教(くんじゅうきょう)とは、天台大師智顗が創始した天台教学における『涅槃経』の位置付けを指す。捃拾とは拾い集める、落ち穂拾いの意。日蓮もこの説を踏襲した。天台宗及び日蓮宗の各諸派や教団で、涅槃経は法華経よりも劣るとして、『涅槃経』をこう呼ぶ。
その十六年目にして初めて大集経を説く   大集は大方等大集経の略、仏の成道後十六年目に、今や大衆が菩薩の法蔵を受け得難き機根に達したと見て、仏は欲界と色界との中間に一大道場を開き、十方の仏菩薩並びに天竜鬼神を集め深甚微妙の大法門を説いたと云われる。ここではこの経を説いた一派の学僧を云う。空思想に加えて密教的要素が濃厚である。大乗仏教の重要な経とされている。
八十誦   優婆離の誦出した根本律蔵。
頓部氏   「頓経(とんぎょう)」とは、 仏教用語で修行の段階を踏まずに、いきなり(たちどころに)悟り(成仏)へと到達できると説く教え、または最初から深い道理を説く教えのことです。これに対し、段階を踏んで徐々に悟りに至る教えは「漸教(ぜんぎょう)」といい、この二つは仏教の教えを整理する「教相判釈(きょうそうはんしゃく)」で用いられます。天台宗では『法華経』、浄土宗では念仏信仰が頓教とされ、特に浄土宗では阿弥陀信仰を「頓中の頓(とんちゅうのとん)」と位置づけています。 (Google AI)
楞枷   『楞伽経(りょうがきょう)』は、** 大乗仏教の重要な経典で、唯識思想(すべてのものは心が生み出す)と如来蔵思想(すべての人に仏性がある)**を説き、初期の禅宗(達磨大師が重視)や密教にも影響を与えた、仏陀がランカー城(楞伽山)で説いたとされる対話形式の経典です。『楞伽経』は仏教の深遠な教えを伝えるとともに、禅や密教といった後世の多様な仏教運動の源流の一つとなった経典です。(Google AI)/ ランカー島(セイロン島)を訪れた釈迦がラーヴァナと対話する、という体裁をとる。 (Wikipedia)
畢竟不生なり   不生(ふしょう)。 煩悩も原因もすべて何もない。「不生」とは、「すべての存在は本来、生まれることも滅することもない」という真理を表す言葉です。(Google AI)//「不生不滅」「不生不滅(ふしょうふめつ)」とは 仏教用語で、「生じることも滅することもなく、永遠に変わらず存在し続ける」という意味で、悟りの境地や真如(しんにょ)、涅槃(ねはん)の状態を表し、「空(くう)」の概念を補足し、輪廻転生の世界観とは異なる絶対的な真理を指します。これは、私たちが認識する「生」と「死」の対立を超えた、本質的なあり方を示す言葉です。(Google AI)
名字を離るれば   (みょうじ) 言語文字等の形。文字表現。
唯一真心、一念不生なり  真心(しんしん)。 唯一真心があるだけ。「真心」人間に本来そなわる清浄な心。「一念不生」欲心が少しも起こらぬこと。
因陀羅   (いんだら) 旧来の複雑な旧説。「因陀羅」帝釈天の宝網の目につけた宝珠は他のすべての珠影を現じる、複雑重々無尽のたとえ。
菩提達磨   (ぼだいだるま) 達磨禅師。禅宗の祖。
乾尿橛   (かんしけつ) 糞を払うへら。目前の汚物。
拭瘡疣   (しょくそうゆう) はれものを払うこと。// 「 拭瘡疣」は、仏教、特に禅宗において、経典などの教えを「瘡(かさ、皮膚病)を拭う紙」のように、悟りを得るための手段や道具に過ぎないとみなす、過激で否定的な表現として用いられる言葉です。 「拭瘡疣」の意味と禅宗の教え 「拭瘡疣(しきそうゆう)」は、文字通りには「皮膚病(瘡、疣)を拭うための紙」を意味します。この言葉は、禅宗の古典籍において、以下のような文脈で登場します。 経典の軽視: 禅宗では、経典の文字や言葉に執着することを戒め、座禅などを通じた「直指人心(じきしじんしん、人の心に直接訴えかけること)」や「見性成仏(けんしょうじょうぶつ、自性を見極めて仏になること)」を重視します。 否定的な表現: 禅の祖師たちは、修行者が文字や教義に縛られることを避けるため、あえて過激な言葉で仏教の権威を否定することがありました。例えば、「達磨は老臊胡(体臭のある異民族)」「釈迦老子は乾屎橛(乾いた糞掻き棒)」などと言い放ち、十二分教(仏教の経典)を「鬼神簿(鬼神の名簿)」「拭瘡疣紙(瘡を拭く紙)」と呼びました。(Google AI)
六度経   大乗理趣六波羅密多経。巻一から引用。
阿難陀   釈迦十大弟子の一。多聞第一。釈迦の従弟で、成道の日、誕生す。
素咀続蔵   (そたららんぞう) 経典。
鄔波離  (うぱり) 釈迦十大弟子の一。持律第一。もと宮廷の理髪師の出で、諸王子とともに出家して仏弟子となる。戒律を守り、精通していること弟子中第一であった。第一次結集のとき、律を誦出したという。(京戸)
毘那耶蔵   (びなやぞう) 律蔵。
迦多衍那  (かたえな) 迦多衍那尼子。バラモンの名門の出。紀元前後 に活躍した説一切有部の学匠で、同派の根本所依の論書である阿毘達磨発智論二十巻を著した。(京戸)
阿毘達磨蔵   (あびだつまぞう) 論蔵。
曼殊師利菩薩   (まんじゅしりぼさつ) 文殊師利。
金剛手菩薩  (こんごうしゅぼさつ) 金剛手菩薩。// 金剛手菩薩(こんごうしゅぼさつ/ヴァジュラパーニ)は、「金剛杵(こんごうしょ)」を手に持ち、仏法と衆生を護る忿怒相(ふんぬそう)の菩薩で、**金剛薩埵(こんごうさった)**とも呼ばれ、密教で非常に重要視される尊格です。煩悩や障害を打ち破る力を持つとされ、火炎を背負い、虎皮の衣をまとうなど、激しい姿で表現されることが多く、大日如来と私たち(衆生)を繋ぐ役割も担います。'(Google AI)
総持門   (そうじもん) 総持は陀羅尼の意。密教。
方便道   衆生それぞれに応じて。
世尊は   大日経巻一に見える。
一切智智   仏智は一切智(すべてを知り尽くす智)の中で最も優れた智であるからかくいわれる。一切智は声聞・縁覚の智と仏の智とは共通するから、区別していう。(京戸)// いっさいち/一切智 一切の物事について完全に知る智慧。仏の智慧。仏智。原語はⓈsarvajñaⓈsarvajñatā。薩婆若と音写される。仏は一切智を具えるものとして一切智者、全智者といわれる。声聞・縁覚の一切智と仏の一切智を区別して、仏の一切智を一切智智という。仏に特有の一〇種の智力である十力は、仏が一切智者であることを示す。『俱舎論』破我品では、仏は気持ちを発動するだけで望むままに何ごとも知る能力が具わっていると示される。また仏陀が全智者であることは、インド仏教論理学において他学派からの批判に答える形で、法称や寂護によって活発に議論された。天台宗の別教では一切智・道種智・一切種智の三智を順次に証得すると説き、円教では三智を同時に一心に証得する一心三智を説く’一切智(浄土宗大辞典)
祇洹林   (ぎおんりん) 祇園精舎。正式名、祇樹給孤独園精舎。コーサラ国首都シュラーヴァスティー(舎衛城)城壁南端から西南約500mの位置にあった精舎(vihāra)である。
普光法堂   仏教の経典である『華厳経』において、釈迦が説法を行ったとされる場所(会座)の一つです。実際に存在する特定の建物や寺院の名称ではありません。
名数  (みょうすう) 数をつけ分類解説された教義。四諦、八正道、十二因縁、三界、五蘊、五位など。
『魔訶般若波羅密経』   摩訶般若波羅蜜経(まかはんにゃはらみつきょう)は、大乗仏教般若経典の一つである『二万五千頌般若経』(にまんごせんじゅはんにゃきょう、梵: Pañcaviṃśatisāhasrikā-prajñāpāramitā Sūtra, パンチャヴィンシャティサーハスリカー・プラジュニャーパーラミター・スートラ)の、鳩摩羅什による漢訳である。 90品(高麗大藏再雕本は27巻、思溪資福藏、普寧藏等は30巻)の比較的規模の大きな経であり、通常『大品般若経』(大品)と呼ばれている。 鳩摩羅什の訳した経の中には、『摩訶般若波羅蜜経』と名づけられるものがもう一つあるが、そちらは『八千頌般若経』の漢訳(408年)で、大品に対し29品(10巻)しかないので『小品般若経』(小品)と呼ばれる。 ナーガールジュナ(龍樹)が著した『大智度論』は、本経(『大品般若経』)に対する注釈書である。 (Wikipedia)
初地は乃ち八地   「初地は乃ち八地(しょちはすなわちはっち)」という言葉は、大乗仏教の修行段階(十地)において、 最初の段階である「初地(歓喜地)」に到達することは、そのまま「第八地(不動地)」までの到達を約束されたも同然である、あるいはその悟りの本質において通じているという意味で使われます。(Google AI)
魔雎羅伽   (まごらか) 天部に位置し仏法を守護する護法善神の八部衆には、天衆、龍衆、夜叉衆、乾闥婆衆、阿修羅衆、迦楼羅衆、緊那羅衆、摩睺羅伽衆がいます。天部は天界に住む者の総称で、古いインド神話の神々などの仏教以外の神が仏教に取り入れられて護法神となったものだと言われています。八部衆とは… 仏法を守護する八神で、天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽の八部衆。この八神は仏教以前、古代インドの鬼神・戦闘神・音楽神・動物神などです。後に仏教に帰依し、仏の弟子となって護法を誓い、善神となりました。聖天ブログより。
一切智智道は一味なり   「一切智智道は一味なり」とは、 仏教の教えにおいて、悟りへと至る道(一切智智道)は、どの教えや修行法を通じても、最終的に得られる境地(味)は同一である、という深い意味を持つ言葉です。これは、多様な修行や宗派の存在を認めつつも、それらが目指す究極の目標は同じであるという「諸法一味(しょほういちみ)」の思想に基づいています 。この言葉は、様々な仏教の経典や論書、特に天台宗や華厳宗などの教義の中で説かれています。それぞれの修行は異なっても、最終的に仏の智慧に到達するという点では区別がなく、すべてが同じ真理に帰着する、という寛容で普遍的な見解を示しています 。(Google AI )// 一味 絶対の立場からは、すべてのものが同一であり平等無差別であること。多くは仏の教法についていう。(京戸)
契経は乳のごとく、調伏は酪のごとく、対法は生蘇のごとく、般若は熟蘇のごとく、総持門は醍醐のごとし契経かいきょうは乳のごとく、調伏じょうぶくらくのごとく、対法は生蘇しょうそのごとく、般若は熟蘇じゅくそのごとく、総持門は醍醐のごとし。大乗理趣六波羅蜜多経の語。契経は経、調伏は律、対法は論、乳・酪・・・醍醐は牛乳より順次精製され上質化された酪品。// 調伏、対法、般若、総持は、仏教、特に天台宗における教えの深遠さを「酪(らく)・生蘇(しょうそ)・熟蘇(じゅくそ)・醍醐(だいご)」という乳製品の製造過程になぞらえた比喩表現です。これは、法華経が最も優れた教えであるとする天台大師智顗(ちぎ)の教義「五時八教(ごじはっきょう)」の中の「五味(ごみ)の比喩」に基づいています。
調伏(ちょうぶく)は酪のごとし: 釈迦が悟りを開いて最初に説いた教え(華厳経)を指します。乳製品の最初の段階である「酪」にたとえられ、煩悩を抑え(調伏)、仏教の基礎を説く段階です。
対法(たいほう)は生蘇(しょうそ)のごとし: 華厳経の次に説かれた阿含経(あごんきょう)を指します。酪よりも少し進んだ「生蘇」にたとえられ、声聞(しょうもん)や縁覚(えんがく)の二乗の衆生に対して、個々の能力に応じた対話形式(対法)で教えが説かれました。
般若(はんにゃ)は熟蘇(じゅくそ)のごとし: 阿含経の次に説かれた般若経(はんにゃきょう)を指します。生蘇よりもさらに精製された「熟蘇」にたとえられ、空の思想(般若)が説かれました。
総持門(そうじもん)は醍醐(だいご)のごとし: 般若経の次に説かれた法華経および涅槃経(ねはんぎょう)を指します。乳製品の最高級品である「醍醐」にたとえられ、すべての教えを包含し(総持)、あらゆる衆生を救う究極の真理(醍醐味)が説かれています。 (Google AI)。
毘慮遮那仏びるしゃなぶつ   「毘盧遮那(びるしゃな)」は、大乗仏教における宇宙の真理を体現する如来の一尊です。サンスクリット語の「ヴァイローチャナ」に由来し、太陽のようにすべてのものをあまねく照らす智慧と慈悲を象徴しています。日本では、奈良・東大寺の「奈良の大仏」として特に有名です。1. 意味と別名意味: 「光明遍照(こうみょうへんじょう)」=「全宇宙を照らす智慧の光」を意味します。別名: 経典の翻訳によって「毘盧舎那仏」「盧舎那仏(るしゃなぶつ)」「遮那仏(しゃなぶつ)」などとも表記されます。2. 仏教における位置づけ華厳経(けごんきょう): 華厳経では、世界(蓮華蔵世界)の真理そのものである「法身仏(ほっしんぶつ)」として中心的な役割を果たします。密教での関係: 密教においては、宇宙の根源である「大日如来(だいにちにょらい)」と同一視されています。3. 代表的な仏像(日本)東大寺 盧舎那仏像(奈良県): 奈良時代に聖武天皇が国家安寧を祈って建立した、日本で最も有名な毘盧遮那仏です。唐招提寺 盧舎那仏坐像(奈良県): 奈良時代に造られた国宝で、千体の仏が彫られた光背が特徴です。 (Google AI)
阿字門   「阿字門(あじもん)」とは、真言宗などの密教における重要な概念で、宇宙の根源や真理を意味する梵字(サンスクリット文字)の「阿(ア)字」を入り口として、仏の悟りの境地(大日如来)へと至る修行や教えのことです。
阿字観(あじかん)と同義「阿字門」は、阿字を観想(思い描く)して悟りを開く瞑想法である「阿字観」と同じ意味で使われます。すべての始まりと真理梵字の「阿」はサンスクリット語のアルファベットの最初の文字であり、すべての音の母胎(すべての言葉の始まり)とされています。また、万物が生まれることも滅することもないという真理(阿字本不生)を象徴しています。宇宙との一体化阿字観の瞑想では、目の前にある「阿」の文字や月輪(がちりん)に描かれた阿字を見つめ、自身の呼吸と大宇宙の波動を同調させることで、自分と仏(大日如来)が本来ひとつであることを実感する修行を行います。大阪や関西エリア周辺では、高野山(和歌山県)の 総本山金剛峯寺 や京都の 総本山智積院 などの真言宗の寺院で、僧侶の指導のもと阿字観(阿字門)を本格的に体験することができます。(Google AI)
02 経説の異同   ///
大論   仏教における「大論(たいろん)」は、一般的に大乗仏教の基礎を築いた龍樹(りゅうじゅ・ナーガールジュナ)が著したとされる注釈書『大智度論(だいちどろん)』を指します。また、チベット仏教におけるツォンカパの『菩提道次第大論(ぼだいどうしだいだいろん)』などの代表的な論書を指すこともあります。仏教文献としての主な「大論」について以下にまとめました。1. 『大智度論(だいちどろん)』概要: 大乗仏教の最も重要な経典の一つ『般若経』の注釈・解説書です。全100巻からなり、仏教の百科事典とも呼ばれるほど膨大な情報量を誇ります。著者・訳者: インドの僧である龍樹が著し、後に名翻訳僧の鳩摩羅什(くまらじゅう)によって漢訳(402〜405年)されました。内容: 空(くぁ)の思想を軸に、仏教の教理、実践修行のプロセス(菩薩道)、仏教用語の解説などがあらゆる角度から説かれています。(Google AI)
健駄羅けんだら   健駄羅国。ガンダーラ国。西北インドの古国で、紀元二世紀、カニシカ王時代、仏教が興隆し、名僧輩出、大乗経典編集が促進された。(水田)
大毘婆沙だいびばしゃ   有部の根本経典。発智論の註釈の集大成。二百巻。第四結集によりなるという。(水田)
その実はみな大乗、小乗を誘ふの説なり  小乗は大乗の細目とする勝鬢経・文殊問両経の説も、最も後に説かれた大乗のみが真実で、それ以前の小乗はすべて方便とする説も、真実の大乗(華厳経)が真先に説かれ、小乗は後に説かれ、小乗は後に説かれたとする説も、ともに大乗が小乗を自説宣揚の具として利用した説き方である。(水田)
03 如是我聞   ///
しからば則ちすでに聞くののち、何をもってまた聞くと言うや   (直接)聴聞してより後もなぜ伝聞などと(間接的)に表現するのか。(水田)
その仏経の初首に何らの語をなすと云う者は   大智度論巻1・2に、如是我聞一時の句を詳しく解釈している。涅槃経はこの大智度論を引用した、と仲基は説く。(水田)
嘱累ぞくるいせば   「嘱累(ぞくるい)する」とは、仏教用語で仏が弟子たちに教え(仏法)を授け、後世に伝えるようその流布を委任・委託することを意味します。つまり、「いろいろと面倒をかける(苦労を伴う)が、この大切な教えを未来へ伝えることを頼む」という、仏から弟子への強い信頼と願いが込められた言葉です。お経の多くは、最後にこの委任を行う「嘱累品(ぞくるいほん)」という章で締めくくられます。(Google AI)
魔訶衍まかえん   大乗教のこと。(水田)/ サンスクリット語「マハーヤーナ(大乗)」の音訳仏教用語としての摩訶衍は、サンスクリット語の mahāyāna(マハーヤーナ) を漢字に当てはめた(音訳した)ものです。意訳すると「大乗(だいじょう)」になります。摩訶(マハー):大きい、偉大な、優れた衍(ヤーナ):乗るもの、乗り物、進むこと(Google AI)
かつこれをもってこれを言ふに・・・   これによれば、阿難は気の弱い内気者にすぎず、大乗教を理解しながら積極的に教化しようとせず、心にもなく小乗修行者の機嫌をとっていることになる。これではどうして仏教徒の資格があろうか。(水田)
その実阿難集むる所は・・・   阿難が編集したのは数部の小乗経典にすぎず、他の経典はすべて仏滅後五百年頃の編集者が、阿難やそのほかの誦出者にかこつけ、各自、仏より直接聴聞した内容の伝聞という形でまとめあげたものである、との意。(水田)
須菩提しゅぼだい   釈迦十大弟子の一、空を理解し解空第一といわれた。スプーティの音訳。善吉、善現と訳す。
04 須弥諸天世界   ///
須弥山   須弥山(しゅみせん)とは、古代インドの世界観(仏教やヒンドゥー教など)において、世界の中心にそびえ立つとされる聖なる巨大な山のことです。この山を中心とした構造や、現代の暮らしに根付く関連用語について、以下のポイントで分かりやすく解説します。1. 須弥山を取り巻く世界(仏教宇宙観)仏教では、須弥山を中心に以下のようなダイナミックな世界が広がっていると考えられています。九山八海(くせんはっかい):須弥山の周りを、7つの金色の山と8つの海が同心円状に取り囲み、一番外側を「鉄囲山(てっちせん)」という鉄の山が囲んでいます。四大州(しだいしゅう):外側の海には、東西南北に4つの大陸があり、私たち人間は南の「贍部洲(せんぶしゅう)」に住んでいるとされます。天界と地獄:山の中腹や上空には神々が住む世界(天界など)があり、大地の底には地獄が広がっています。(google AI)// 頂上は帝釈天、半腹は四天王の住処いうことになっている。(吉川)
必ずしも牽合けんごうせざるも可なり   (みな異部の異言なので)必ずしも辻褄を合わせる必要はない。
三災   さんさい/三災 三種の災い。仏教の世界観では、世界は成立期(成劫)、存続期(住劫)、破壊期(壊劫)、空漠期(空劫)を繰り返すとされる。存続期(住劫)には小の三災が、破壊期(壊劫)には大の三災が起こるという。小の三災とは、『俱舎論』一二によれば、存続期(住劫)では、人の寿命が八万歳から一〇歳の間の増減を二〇回繰り返す。一〇歳になったときに、交互に三種の災い、すなわち刀兵(刃物を持ち互いに殺し合う)、疾疫(疫病が流行する)、飢饉(雨が降らず飢饉となる)が起こるとされる。刀兵の期間は七日間、疾疫は七ヶ月七日間、飢饉は七年七ヶ月七日間続くとされる。大の三災とは同じく『俱舎論』一二によれば、壊劫において起こる火・水・風の三種の災いで、それらが器世間を破壊する。火災は初禅天までを焼き尽くし、水災は第二禅天までを水没させ、風災は第三禅天までを吹き飛ばし、火災が七度起こった後に水災が一度起こる。それを七回繰り返し、八回目に火災が七度起こった後は、風災が一度起こるという。『婆沙論』一三三によると、大の三災により器世間が破壊される時期には、壊劫の二十劫のうち、後半の十劫、最後の五劫、最後の一劫、以上の三説があるとする。(Web版新纂浄土宗大辞典
三梵さんぼん   仏教の世界観(九地・二十八天)における「初禅天(しょぜんてん)」という天界にある3つの階層(三梵天)を指します。梵衆天(ぼんしゅうてん):一般の天人たちが住む場所。梵輔天(ぼんほてん):大梵天王を補佐する天人たちが住む場所。大梵天(だいぼんてん):この天界の主である大梵天王が住む場所。 (Google AI)
魔醯首羅   「魔醯首羅」は「まけいしゅら」と読み、サンスクリット語の「マヘーシュヴァラ(Maheśvara)」を音写した仏教用語で、ヒンドゥー教の最高神シヴァ神が仏教に取り入れられた姿(別名:大自在天)を指します。仏教の宇宙観においては、世界の中心とされる色界の頂上(色究竟天)に住み、三千大千世界を支配する最高神とされています。なお、この言葉は仏教の伝統的な神を指す・・・。 (Google AI)
禅禅   (ぜんぜん) 色界の四禅天。(水田)
無色界むしきかいの身処を論ずるがごとき   修行によって無色界に心身を置くこと(水田)// 無色界は三界の一である純精神的世界のことで、身処は修行によってここに心身を置くことである(吉川)// 無色界(むしきかい)は、仏教における世界観「三界」の最上位に位置する、肉体や物質が全く存在しない純粋な精神の世界です。欲望にとらわれる「欲界」、物質的な制約がある「色界」をさらに超越した境地であり、極めて深い瞑想(禅定)によって到達できるとされています。(Google AI)
一音いっとんの演出する所にあらざるなり   仏一人の所説ではない(水田)/釈迦ひとりの口からでたものではないだろう。(管理人)
毘尼   戒律のこと(水田)/ 律蔵(りつぞう|Vinaya)の漢訳仏教の教え(経)、実践の徳目(律)、解釈(論)の「三蔵」のうち、比丘・比丘尼の守るべき戒律や僧伽(教団)の規則を指す言葉です。サンスクリット語の「ヴィナヤ(Vinaya)」の音訳である「毘尼(びに)」の異表記・略語として用いられることがあります。(Google AI) 基本的に、仏教における戒律は仏によって制定されたものであった。しかし仏教がインドから東へ伝わっていくと、実際にはその地域などや風習など、また時代によって規定を変えなければならなかった。これを随方(あるいは随処)という。 したがって、仏の法に随順していれば、毘尼(戒律)の原則的な規制に関わらず、時や場所、またそのケースによって新たに制定したり、また反対に緩和したり廃止してもよいとされるようになった。これが随方毘尼である。 (Wikipedia)
名物みょうもつ度数どす   用語の名称や付帯数字(水田)
釈迦譜しゃかふ   『釈迦譜(しゃかふ)』は、中国の斉・梁時代(5世紀末〜6世紀初頭)の学僧である僧祐(そうゆう)が編纂した、中国に現存する最古の仏伝書(釈尊の伝記)です。編纂のスタイル:僧祐独自の文章で書かれたものではなく、漢訳された様々な仏典から釈迦の生涯や親族に関する記述を引用し、時系列に沿って分類・整理した「類書(百科事典)」のような性質を持っています(Google AI)
首鼠しゅその説   「首鼠(しゅそ)」とは、ネズミが穴から首を出して、どちらへ出ようかとあたりをうかがって迷う様子を指します。転じて、「どうすべきか心を決めかねて、ぐずぐずと態度を決めないこと」を意味します。どちらにつこうかと迷い、形勢をうかがって日和見(ひよりみ)をしているさまを指します。史記から。(Google AI)
首鼠両端(しゅそりょうたん)とは、どちらにつこうか迷い、決心がつかずに形勢を傍観している様子を指します。ネズミが穴から首を出して、出るか出ないか迷いキョロキョロと様子をうかがう姿が語源となっており、日和見(ひよりみ)的な態度を表す言葉です。
小千世界・中千世界・三千大千世界   これらは仏教の「宇宙観(古代インドの世界観)」を表す言葉です。最小単位のひとつの世界が1000個集まって「小千世界」となり、さらにそれが幾重にも掛け合わされて全宇宙を形成しています。仏教における宇宙の階層構造は以下の通りです。小千世界古代インドの世界観で、太陽と月を一つずつ持つ「須弥山(しゅみせん)を中心とする世界」が1,000個集まった広がり。中千世界上記で説明した「小千世界」が、さらに1,000個集まった広がり(約100万個の世界)。大千世界「中千世界」が、さらに1,000個集まった広がり。これら「小千・中千・大千」の3つの階層を合わせることで全宇宙のスケールとなり、総称して 「三千大千世界(さんぜんだいせんせかい)」 と呼びます。ひとつの「須弥山世界」には、地獄や天界を含む衆生が輪廻転生する世界が含まれており、この三千大千世界はひとりの仏(如来)の教えが及ぶ範囲(仏国土)ともされています。仏教の世界観の詳細は、新纂浄土宗大辞典 や Wikipediaの三千大千世界解説ページ をご確認ください。
三千大千世界(さんぜんだいせんせかい)とは、古代インドの宇宙観に基づく仏教の世界観のことです。広大無辺な宇宙の広がりを表しており、現代でいう「全宇宙」に相当します。(Google AI)
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蓮華蔵世界   (れんげぞうせかい)蓮華台蔵世界 蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)とは、『華厳経』に説かれる、宇宙のように広大で美しい仏(毘盧遮那仏)の悟りの世界です。巨大な蓮華(ハスの花)の中にすべての世界が蔵められているとされ、真の調和と生命のつながりを象徴する仏教の理想郷とされています。仏教における主な特徴は以下の通りです。 世界観の広がり: 一輪の大蓮華の上に無数の世界が重なり合って存在しているとする壮大な宇宙観を持っています。盧遮那仏(るしゃなぶつ)の浄土: 毘盧遮那仏(大日如来)が菩薩であった過去の時代に、長い修行と誓願によって清め、つくり上げた世界とされています。 清浄と調和: 泥の中から美しい花を咲かせる蓮華のように、煩悩や苦しみの世界(穢土)にありながらも、それに染まらない清らかなさとりの境地を意味します。伝統宗派での位置づけ: 真言宗や華厳宗の教義の中心となるほか、浄土宗や真宗の『正信偈』のなかでも「蓮華蔵世界」という言葉が登場し、阿弥陀仏の極楽浄土の別称としても親しまれています。この蓮華蔵世界という宇宙観や悟りの境地については、新纂浄土宗大辞典や創価学会公式サイトの解説が詳しいので、さらに深く知りたい場合はご参照ください。
然否ぜんぴを知らん   「然否」 是非、正否、真偽(水田)
05 三藏・阿毘曇・修多羅・伽陀   ///
三藏   経、律、論の三蔵である。(吉川)
阿毘曇   三藏中の論部の梵名である。(吉川)
修多羅十二部経(釈迦の教えを12に分類したもの)の一、経文で如是我聞に始まり、歓喜奉行に終わる散文体の四阿含経、その他大乗諸経典を云うが、また、三藏中の十二部経の総称で、又論?経を除く十一部経をもさすことがある。サンスクリット語の「スートラ(経典)」の音写。ここでは三藏中の経部のこと。(Google AI・吉川)
伽陀   伽陀(かだ)とは、仏様の教えや功徳を讃える韻文(詩句)に、独特の旋律(メロディ)をつけて唱える仏教の讃歌(声明)です。サンスクリット語の「gāthā(ガーター)」の音写で、漢訳では「偈(げ)」や「偈頌(げじゅ)」などと訳されます。(Google AI)
魔訶衍まかえん   「摩訶衍(まかえん)」とは、サンスクリット語の「マハーヤーナ(mahāyāna)」の音写語で、仏教用語で「大乗(だいじょう)」を意味します。すべての人が悟りを開き、共に救われることを目指す仏教の教えのことです。(Google AI)
天台四教   「天台四教」とは、中国の天台宗の開祖である智顗(ちぎ)が、釈尊の生涯に説かれたすべての教え(一代聖教)を内容と教化形式の2つの側面から各4つに分類した教相判釈(きょうそうはんしゃく)です。
1. 化法の四教(けほうのしきょう)教えの内容(教理と修行のレベル)によって4つに分けたもの。蔵教(ぞうきょう)主として小乗仏教の教え。煩悩を分析して断つことを教える。通教(つうきょう)大乗仏教への入り口となる教え。小乗と大乗に通じる。別教(べっきょう)菩薩のために特別に説かれた大乗の教え。段階的な修行を説く。円教(えんきょう)天台宗の究極の教え。『法華経』に代表され、万物が互いにとけあい円満であることを説く。
2. 化儀の四教(けぎのしきょう)教えを説く形式やアプローチ(教化の形式)によって4つに分けたもの。頓教(とんきょう)能力の高い者に対して、最初からいきなり最高・完全な教えを説く形式。漸教(ぜんきょう)能力の低い者に対して、段階的に少しずつ教えを深めていく形式。秘密教(ひみつきょう)同じ教えを聞いても、人々がそれぞれ異なる理解をし、互いに気づかない形式。不定教(ふじょうきょう)同じ教えを聞いても、人によって異なる利益(悟り)を得る形式。これらは、宋の時代に高麗の僧・諦観(たいかん)がまとめた書物『天台四教儀』によって体系的に学ぶことができます。詳細は天台四教儀談義 - 法藏館などの専門書で解説されています。(Google AI)// 天台宗では仏教全体を組織的に系統づけるために仏の説法教化の形式より之を分類して四種とした。すなわち、頓教、漸教、秘密教、不定教の四である。また別に化法の四教として、蔵教、通教、別教。円教の四が挙げられている。(吉川) 
蔵を立つる   仏典をその性質より分類してまとめるの意。(吉川)
言に物あるなり  言葉の成立している要素、ここでは時代性。(水田) // 『およそ言に類あり、世あり、人あり。これを言に三物ありと謂う。一切の語言を解するに三物を以てする者は、わが教学の立てるなり。苟くも此れを以て之を求むるに、天下の道法、一切の語言未だ 嘗て錯然として分れずんばあらざるなり。』(中村元 「近代日本の批判的精神」参照)
「言に三物あり」とは、江戸時代の町人学者・富永仲基(とみなが なかもと)がその著書『出定後語(しゅつじょうごご)』で提唱した、言語や思想を読み解くための根本的な分析方法です。「およそ言に類あり、世あり、人あり」という言葉に基づき、あらゆる言説は以下の3つの要素を考慮しなければ正確に理解できないとしました。言に人あり(げんにひとあり)同じ言葉や教えであっても、それを語る「人物」(立場、性格、思想的背景)によってその意味合いや意図は異なるということ。言に世あり(げんにせあり)言葉や思想は、それが作られた「時代」や社会的背景によって影響を受けているということ。言に類あり(げんにるいあり)言葉には「ジャンル」や文脈、表現の型(比喩や誇張など)があり、それぞれの種類や性質に応じた読み方が必要であるということ。富永仲基はこれら「三物」に、当時の状況や論理展開を意味する「五類(ごるい)」を合わせた「三物五類」の視点を駆使し、大乗仏教の経典は釈迦の死後に作られたものであるとする「加上(かじょう)の説」を導き出しました。 (Google AI)
阿毘曇経   阿毘曇経(あびどんきょう)は、仏教の聖典である三蔵(経蔵・律蔵・論蔵)のうち「論蔵(アビダルマ)」に分類される文献群の総称です。お釈迦様の教え(経)を仏弟子たちが分析・体系化したもので、仏教哲学や心理学の基礎となっています。(Google AI)
迦蘭陀からんだ   マガダ国の首都、王舎城の富豪。仏に帰依して竹林園を寄付した(水田)
須陳那しゅじんな   はじめて戒を犯した仏弟子(水田)
五畏恚恨   (ごいいこん) 仏教において「怖畏(ふい)」は不安や恐れを意味し、「瞋恚(しんに)」や「恚恨(いこん)」は怒りや恨みを指す煩悩です。これらの感情は苦しみの根源とされ、仏教では私たちがそれらをどのように乗り越えていくべきかが深く説かれています。五つの恐れ:五怖畏(ごふい)仏教では、人間の目に見えないものや、生きていく中での普遍的な不安を5つに分類し、これを「五怖畏」と呼びます。不活畏(ふかつい): 食っていけなくなるのではないかという、生活や経済に対する不安。死畏(しい): 死に対する恐怖。悪名畏(あくみょうい): 世間から悪く言われるのではないか、評判が下がるのではないかというおそれ。悪道畏(あくどうい): 死後に悪い結果(地獄・餓鬼・畜生など)を招くのではないかという不安。大衆威徳畏(だいしゅういとくい): 大勢の人々の前で恥をかかされるのではないかというおそれ。これらは時代を問わず、誰の心にも潜んでいる感情として解説されています。 (Google AI)
波羅奈はらな   波羅奈(はらな)は、古代インドの宗教都市で、現在のインド・ウッタル・プラデーシュ州にある聖地 ヴァーラーナシー(バラナシ) の古称(サンスクリット語: Bārāṇasī の音写)です。主な特徴と歴史は以下の通りです:仏教の聖地:釈迦(釈尊)が悟りを開いた後、初めて5人の弟子に教えを説いた「初転法輪(しょてんぼうりん)」の地として知られます。その舞台となった サールナート(鹿野苑) は、仏教四大聖地の一つです。(Google AI)
毘尼蔵にびぞう   毘尼蔵(びにぞう)は、仏教の聖典である「三蔵」の一つである「律蔵」の別名です。サンスクリット語の「ヴィナヤ(Vinaya)」の音写で、出家者が守るべき戒律や仏教教団(サンガ)の規則、およびその制定に至る経緯をまとめたものです。(Google AI)
舎婆提城しゃばだいじょう   舎婆提城(しゃばだいじょう)は、古代インドのコーサラ国の首都である舎衛城(しゃえいじょう)の別名・音写語です(サンスクリット語:Śrāvastī)。お釈迦様が好んで滞在し、多くの教えを説いた地として仏教史上非常に重要な都市であり、仏典では祇園精舎があった場所として知られています。(Google AI)
迦多衍尼子かたえにし   有部の学匠。紀元前後の人。バラモン出身。(水田)
 蜫勒門   1 蜫勒門(こんろくもん)の意味。初期仏教の経典や論議をまとめた「論蔵(ろんぞう)」、特に古代インドの学者である大迦旃延(だいかしゃねん)が著した『蜫勒(ペタカ)』に基づく教えの入口を指す言葉です。この言葉は、龍樹(りゅうじゅ)が著した『大智度論(だいちどろん)』において、「智者が仏の言葉を理解・分類するための3つの法門(蜫勒門・阿毘曇門・空門)」の一つとして挙げられています。2. 論議が無窮となる修行の門『大智度論』によれば、蜫勒門は主に「論議(物事の道理を論じ合うこと)」に関する教えであり、「この門に入れば議論が尽きることなく広がる」と説かれています。 (Google AI)
// 昆勒門とかく。論蔵(三藏の中)の名で小乗四門の一、筴蔵と訳す。迦旃延の作で亦有亦空の理を明らかにしたもの。(吉川)
//真理を悟るための教門の一。有無を離れて亦有亦空の理を説く。(水田)
迦旃延   迦旃延(かせんねん、カッチャーナ、Katyayana)は、釈迦の十大弟子の一人であり、論議第一と称せられる。 摩訶(まか、Mahā=「偉大なる」の意)を冠して摩訶迦旃延(梵:Mahākātyāyana マハーカーティヤーヤナ、巴:Mahākaccāna マハーカッチャーナ)、大迦旃延などとも呼ばれる。彼の名前は、経典などにより表記が著しく異なるが、主なものとしては音訳としては摩訶迦多衍那、婆帝梨迦、大迦旃延、大迦多衍那、大迦多演那などが、意訳としては好肩、文飾、大剪剔種男、大浄志などがあげられる。なお、「迦旃延」とは、婆羅門種の十姓の一つであり、姓を以って名としている。(Google AI)
相義そうぎ   現象を批判究明する理論(水田)//相の義であり。相とは事物の相状で、外に表れて心に想せられる。空想、有想、一切の相であり。大乗義章に、「諸法の体状之を謂て相となす」とあり。義は理論である。倶舎論分別根本品に「相とは謂はく、諸の有為の生、住、異、滅の牲なり」ともあり。その義を指す。(吉川)
// 仏教用語としての「相の義(そうのぎ)」は、主に『法華経』などの大乗仏教において、「この世のすべての現象(相)の真実のあり方(義)」、または「悟りの本質」を指します。外に現れる姿(相)の奥にある本質的な意味(義)を解き明かす教えです。(Google AI)
像法   仏教では、お釈迦様が亡くなった(入滅)後の時代を「正法(入滅後500年間)」「像法(正法後1000年間)」「末法(まっぽう)(像法後の10000年間)」の3つに区分します。仏教の成立に不可欠な「教(教え)」「行(修行)」「証(悟り)」の3つの要素が、時代とともに失われていくと考えられています。日本では、平安時代中期にこの三時思想をベースにした「末法思想」が爆発的に流行しました。当時の計算では、1052年(永承7年)から最悪の時代である「末法」に突入すると信じられており、その直前までが「像法」の時代とされていました。(Google AI)
像法時代は、教えと修行は残るが悟りに至るものはいない。
修多羅   もと線を意味し、のち散文の経を、さらに三藏中の経蔵をさす(水田)//「修多羅(しゅたら)」とは、サンスクリット語の「スートラ(sūtra)」の音写で、仏教における「経典」を意味します。原義の「糸」「紐」「線」から転じて、教えを貫きまとめる「経(たて糸)」と訳されました。
経の原語である「スートラ」は、本来「縦糸(たていと)」を意味する言葉でした。古代インドでは、教えの基本線や綱要を貫くものとしてこの言葉が使われており、仏教でも釈尊の教えの根幹を貫くものとしてこの名称が引き継がれました。仏の教えが人々の心に寄り添い、真理を正しく伝えることから「契経」と漢訳されるようになりました。(Google AI)
優婆提舎   「優婆提舎(うばだいしゃ)」とは、仏教の教理を解説・論議したサンスクリット語「upadeśa」の音写語です。釈尊の教えを12種類に分類した「十二部経」の一つで、仏や高僧による教えの解説や、経典の注釈書を指す言葉として用いられます。(Google AI)
操縵󠄄そうまん   伴奏音楽のこと。つまびき。(水田)
神祇じんぎ   神祇(じんぎ)」とは、天の神々(天神)と地の神々(地祇)、すなわち天地のすべての神々を総称する言葉です。(Google AI)
過患かかん   あやまち。過失。
06 九部・十二部・方等乗 第六
九部・十二部・方等乗   「九分十二分方等乗」とは、仏教において釈迦の教え(経典)の分類である十二分教(十二部経)と、大乗仏教の経典を総称する方等(ほうどう)という概念を組み合わせた言葉です。
1. 九分・十二分教(くぶん/じゅうにぶんきょう)釈迦の説法を内容や形式によって分類したものです。九分教:古い時代の仏典の分類法(契経、応頌、記別、諷頌、自説、本事、本生、方広、希法)。十二分教:上記の九つに、因縁、譬喩、論議の3つを加えたもの。釈迦の説いた教えのあらゆるジャンルを網羅しています。
2. 方等(ほうどう)サンスクリット語の「バイプルヤ(Vaipulya)」の訳で、本来は「広大」や「平等」を意味します。大乗仏教においては、広大で普遍的な真理を説く大乗経典の総称として用いられるようになりました。 (Google AI)
方等は、乃ち方広   「方広」および「方等」は、ともにサンスクリット語の「ヴァイプリヤ(vaipulya)」の訳語です。主に大乗仏教において、平等の真理(普遍平等なる真如)と、広大で奥深い教え(大乗経典)を指す言葉として用いられます。方広(ほうこう):「方」には「広大」、「広」には「大いなる」という意味があり、広大で奥深い教えそのものを指します。方等(ほうどう):「方正にして平等(すべてのものが平等である)」な真理や、「方(広く)」「等(等しい)」という意味を持ちます。大乗仏教の教えは、小乗(初期仏教)に比べて非常に幅広く平等な救済を説くため、大乗の経典そのものを「方等経」や「方広経」と呼ぶようになりました(Google AI)
判字とは   仏教において「半字(はんじ)」とは、主に教えの内容が部分的で未熟なものであることを意味し、完全で全てが説かれている教えである「満字(まんじ)」に対する言葉です。また、お釈迦さまの教えの歴史や分類(教相判釈)において重要な概念として用いられます。(Google AI)
これ別に一乗あるなり   「一乗(いちじょう)」とは、大乗仏教において「すべての人がひとしく仏になることができる」と説く、唯一の真実の教えや乗り物のことです。仏を悟りの彼岸へ運ぶ乗り物にたとえられた言葉で、法華経の根本的な精神として知られています。
仏教における「二乗(にじょう)」とは、自らの解脱や悟りのみを求める「声聞(しょうもん)」と「縁覚(えんがく)」の2つの修行者のことです。大乗仏教では、利他行(他者の救済)を行わないため非難されることもありましたが、『法華経』では最終的に成仏できることが説かれています。
仏教における「三乗(さんじょう)」とは、悟りの境地に至るための3つの教えや実践方法を、人を目的地へ運ぶ「乗り物」にたとえたものです。具体的には、声聞乗(しょうもんじょう)・縁覚乗(えんがくじょう)・菩薩乗(ぼさつじょう)の3つを指します。
三乗(さんじょう)すべての衆生(生きとし生けるもの)を救うために、仏が仮に設けた3つの修行の段階・教え。声聞乗(しょうもんじょう):仏の教えを聞いて悟りを目指す出家者縁覚乗(えんがくじょう):自身の観察によって悟りを開く修行者菩薩乗(ぼさつじょう):他者の救済(利他)を実践しながら成仏を目指す者一乗(いちじょう / 一仏乗)『法華経』などで説かれる真実の教え。三乗は人々を導くための「方便(仮の手段)」であり、最終的にはすべての人が平等に仏になれる唯一の教え(=一乗)に帰着するという思想です。無乗(むじょう)の解釈仏教の言葉として「無二無三(むにむさん)」や「唯一無二」という表現があり、これは「二つ(二乗)も三つ(三乗)もなく、ただ一つの真実(一乗)しかない」という意味を持ちます。ここから「悟りへの道は複数ではなく、究極には区別のない一つの道である」というニュアンスで使われることがあります。「乗」の思想は、天台宗などの大乗仏教において特に重要視され、すべての人が差別なく救われる根拠として論じられてきました。 (Google AI)/ これは別に仏乗を説いたものである。(石田)
07 涅槃・華厳のニ喩 第七   ///
涅槃・華厳二喩   涅槃経で説かれた五味のたとえと華厳経で説かれた日光三照のたとえ。いずれも自経が最勝至高であることを説くための比喩である。(水田)
下劣げれつ根性こんじょうに取る   根性機根の相違に基づいて説いたと。(水田)
相生そうしょうの次第に取る   五時教それぞれの出現順序を説いたこと。(水田)
華厳は則ち鹿苑ろくおんより、オサオサ   (天台の教判では)釈尊(お釈迦様)の説法は、「華厳」が先で、その後に「鹿野苑(ろくやおん)」での説法が行われたとされています。これは中国の天台宗の開祖・智顗(ちぎ)が、お釈迦様が悟りを開いてから亡くなるまでの説法を5つの時期に分けた「天台五時教判(てんだいごじきょうはん)」という教えの分類に基づいています。第一・華厳時(けごんじ):お釈迦様が悟りを開いた直後(菩提樹の下など)、深遠な『華厳経』を自らの悟りのままに説いたとされます。第二・鹿苑時(ろくおんじ):その後に鹿野苑(サールナート)へ赴き、修行者たちに対して初めての説法(初転法輪)として『阿含経』などの教えを説いたとされています。ただし、これはあくまで大乗仏教における解釈・分類の一つです。仏教の歴史的研究においては、最初に説かれた具体的な内容としては鹿野苑での「初転法輪」が仏教の原点であると考えられています。(Google AI)//(直訳)華厳の経説は、鹿野苑の経説より重い。しかし、五味の喩では、華厳は、鹿野苑の経説より、味が粗いことになる、乳が酪より味が粗いように。(管理人)
オサオサ   「 をさをさし【長長し】」は、主に古語で「しっかりしている」「おとなびている」「重々しい」といった意味を持つ形容詞(シク活用)です。子供や若者が落ち着いて成熟している様子や、態度が安定している様子を指す言葉です。 (Google AI)
ただ阿含の最も愚法にして、第二照となり   阿含のような小乗経がこの比喩では第二照で、法華経・涅槃経のような大乗の妙典が後回しにされ第四・五照に扱われている(水田)
これを五時に合はするも   「天台五時(てんだいごじ)」とは、中国・天台宗の開祖である天台大師智顗(ちぎ)が、釈尊(お釈迦様)が一生の間に説いた多くの経典を内容や説法した時期によって5つの段階に分類し、体系化した教相判釈(きょうそうはんしゃく)です。
釈尊の生涯の説法を以下の5つの時期に分類しています。
1.華厳時(けごんじ)成道(悟りを開いた直後)の時期に、『華厳経』を説いたとされる段階。釈尊が自らの悟りの世界をそのまま説き明かしたもので、最も難解で高度な教えとされます。
2.鹿苑時(ろくおんじ)鹿野苑(ろくやおん)において、初めての弟子たちに向けて『阿含経』などを説いた段階。教えの理解度に合わせて、小乗の教え(四諦・十二因縁など)が説かれました。
3.方等時(ほうどうじ)大乗仏教の入り口となる『維摩経』や『勝鬘経』などを説いたとされる時期。小乗の教えに執着していた弟子たちを大乗の教えへと導くために、大乗と小乗の両方を説いて比較させました。
4.般若時(はんにゃじ)『般若経』などを説いた時期。すべてのものには実体がなく、空(くう)であることを明かし、一切の執着を打ち破るための教えが説かれました。
5.法華涅槃時(ほっけねはんじ)釈尊晩年の『法華経』と臨終の説法である『涅槃経』を説いた段階です。『法華経』はそれまでの全ての教えを統合し、すべての人が平等に仏になれるという真実を明かした究極の教え(円教)とされ、天台宗では最重要視されています。これらの五時に、説法の形式や相手の違いによる「化儀の四教」、教えの内容の深浅を示す「化法の四教」を合わせたものを「五時八教」と呼び、天台教学の根幹を成しています。(Google AI)
胡越の異   大へんな違い。故は北方越は南方地方をさし、遠く相隔たる。(水田)/「胡越の異」は、古代中国の北方の異民族「胡」と南方の民族「越」の気候や習慣、言語が全く異なることに由来します。転じて、お互いに遠く離れていて関係がないことや、考え方や性質が全く相容れないことの例えとして用いられる四字熟語です(Google AI)
阿浮陀達磨   阿浮陀達磨(あぶだだつま)とは、サンスクリット語の「adbhutadharma」の音写で、仏教用語です。漢訳では「未曾有法(みぞうほう)」と訳され、経典(十二部経)の一つとして、仏陀が示した奇跡的な神通力や、偉大な功徳について説いた部分や経典を指します。仏教の経典の形式や内容を12種類に分けた「十二部経(じゅうにぶきょう)」の第7(または第9)に数えられます。具体的には、仏の誕生や出家、成道などの場面で現れた奇瑞(不思議な現象)や、常識を超えた功徳を讃える内容がこれに該当します。/ 「本地(ほんじ)」とは、仏教において人々を救うために仮の姿(垂迹)となって現れた、仏や菩薩の「本来の姿(本体)」を指します。 (Google AI)
伊帝越伽   「伊帝越伽(イティユクタカ・イティウクタカ)」とは、仏教における経典の分類法である「十二分経(じゅうにぶんきょう)」の一つです。正しくは「伊帝目多伽」や「伊帝曰多伽」とも表記されます。サンスクリット語(iti-vṛttaka)の音訳で、日本語では「本事(ほんじ)」や「如是語(にょぜご)」と訳されます。仏弟子の過去世の物語。/ 「本事(ほんじ)」は、仏教において菩薩などの前世(過去世)における修行時代の行いや、仏の過去の物語(本生)を指す言葉です。また、お経の分類である「十二分経」の一つとして、過去の因縁を説いた経典や章句を指す際にも用いられます。(Google AI)
闍陀伽   闍陀伽(じゃだか)は、サンスクリット語の「ジャータカ(Jātaka)」の音写で、漢訳では「本生(ほんしょう)」または「本生譚(ほんじょうたん)」と呼ばれます。お釈迦様が過去世で菩薩として修行していた時代のエピソードを集めた、古代インドの仏教説話集です。
和伽那   「和伽那(わかな)」と「授記(じゅき)」は、仏教における用語や特定の場所・店舗に関連するキーワードです。仏教用語としては、「和伽那」はサンスクリット語「Vyākaraṇa」の音訳であり、仏陀が弟子たちの未来の悟りや成仏を約束・予言することを意味する「授記(じゅき)」の同義語(和伽羅那)です。
尼陀那   「尼陀那(にだな)」とは、サンスクリット語のニダーナ(nidāna)の音写で、仏教において「因縁(いんねん)」「縁起」と訳される重要概念です。物事が生じる原因や、説法のきっかけ(エピソード)などを指します。(Google AI)
毘仏略   「毘仏略(びぶつりゃく)」は、サンスクリット語「Vaipulya」の音写で、仏教用語で「広大」「方広(ほうこう)」「方等(ほうどう)」と訳されます。仏陀の教えを12種類に分類した「十二部経」の一つで、広大な理義や深い内容を説いた大乗仏教の経典群を指します。(Google AI)
方広   「方広(ほうこう)」と「方等(ほうどう)」は、どちらも大乗仏教における「広大な教え」や「大乗経典」そのものを指す言葉です。サンスクリット語の「ヴァイプルヤ(vaipulya)」の漢訳で、元々は「広い」「大きい」といった意味を持ちます。仏教において、この2つは以下のような文脈で用いられます。教理としての「方広・方等」普遍平等な真理(平等の真理)や、大乗の広大な教義を意味します。この教えを説く経典は「方広経(ほうこうきょう)」や「方等経(ほうどうきょう)」と呼ばれます。経典の分類としての「方等」天台宗などの教相判釈(きょうそうはんしゃく:お経の分類)において、釈迦が『維摩経(ゆいまきょう)』や『勝鬘経(しょうまんきょう)』などを説いた時期を「方等時(ほうどうじ)」と呼びます。これは、初期の小乗の教えから大乗の教えへと移行する過程で、広大で多様な教えが展開された時期と位置づけられています。十二部経としての「方広」仏典の形式を12種類に分けた「十二部経」の一つに数えられます。ここでは、真理を広大に説き明かしたテキスト全般を指す言葉として使われます。/ 教理としての「方広・方等」普遍平等な真理(平等の真理)や、大乗の広大な教義を意味します。この教えを説く経典は「方広経(ほうこうきょう)」や「方等経(ほうどうきょう)」と呼ばれます。 (Google AI)
禁呪経こんじゅきょう   陀羅尼。梵文のまま読誦する。呪文。(水田)
三十二天   欲界十天、色界十八天、無色界四天の総称。(水田) /仏教における「三十二天」とは、須弥山(しゅみせん)の頂上にある忉利天(とうりてん)に住む32人の神々、またはその天界そのものを指します。天主である帝釈天(たいしゃくてん)が中央に座し、四方に配された四天王を統率して32の眷属(家臣)を従え、計33の神々で世界を守護するとされています。仏教の宇宙観(六欲天の第二層)では、この忉利天は「三十三天」とも呼ばれます。帝釈天はこの場所にある「喜見城(きけんじょう)」に住み、下界の争いを見守り、仏法を守護する二大護法善神の筆頭として知られています。密教の曼荼羅などでは、方角や宇宙を守る「十二天」の一つとしても描かれます。(Google AI)
芥子須弥   (けししゅみ)「須弥(しゅみ)」と「芥子(けし)」は、仏教の経典『維摩経』に登場する「芥子納須弥(けしにしゅみをいれる)」という言葉を指します。極めて小さなケシの実の中に、世界の中心である巨大な須弥山(しゅみせん)がそのまま入るという意味です。大小の概念を超越した、とらわれのない自由な境地や仏教の宇宙観を表しています。(Google AI)
因陀羅網   (いんだらもう古代インドの神であるインドラ(帝釈天)の宮殿に張り巡らされている宝の網のことです。仏教(特に『華厳経』)において、すべての存在が互いに関係し合い、影響を与え合っていることを説明する重要な比喩として用いられます。(Google AI)
山澖平   (さんかんへい)天地山沢の高低は相対的で一律に平正と見てよい、とのたとえ。(水田)
象三耳   (ぞうさんじ)故事見当たらず(吉川)
中人以下の者   凡庸愚昧の人。(水田)
一切入   「一切入(いっさいにゅう)」は、仏教の華厳宗の核心的な教えである「一切入一(いっさいにゅういつ)」や「一切入一切(いっさいにゅういっさい)」などを指す言葉です。これは「すべての存在(一切)が、他のひとつの存在(一)の中に完全に溶け込んで含まれている」という、ダイナミックな世界のつながりを表しています。主な意味と世界観華厳思想では、この世のあらゆる事象がバラバラに存在するのではなく、互いに境界なく融け合っていると考えます(相即相入)。一入一切(いちにゅういっさい):ひとつのものが、他のすべてのものの中に入り込むこと。一切入一(いっさいにゅういつ):すべてのものが、ひとつのものの中に入り込むこと。例えば、「一滴のしずくの中に、全宇宙のすべての情報や存在が宿っている」とする世界観です。全体が部分を含み、部分が全体を含むという、無限に重なり合う重々無尽の縁起を象徴しています。(Google AI)
背捨勝処   「背捨(はいしゃ)」と「勝処(しょうじょ)」は、いずれも仏教(特に小乗仏教の『倶舎論』や大乗仏教の『大智度論』『摩訶止観』など)における瞑想(禅定)の修行段階や方法を表す仏教用語です。 これらは心の中の貪欲(むさぼり・執着)を克服し、対象に囚われない自由な知見を得るための一連の観想法として、組み合わせて修められます。(Google AI)
  祝(いわい・のろい)「祝」という漢字は、一般的には「いわ(う)」や「シュク」と読みますが、実は訓読みで 「のろ(う)」と読むことができます。 (Google AI)
子夜の術   (しやのじゅつ)人に夢を見させる術。真夜中の術(水田)
09 地位 第九   ///
菩薩の位階   菩薩修行の位階、五十一位(十信・十住・十行・十廻向・十地・等覚・妙覚)の中、十地の初位のことであるが、ここでは五十ニ位全部をさす(京戸)
上品十善   上品十善(じょうぼんじゅうぜん)とは、仏教において「最も高い次元(上品)で、10種類の善い行い(十善)を完璧に実践すること」を意味する言葉です。 仏教の宇宙観では、この「上品十善」を修めた(成し遂げた)人は、死後に迷いの世界(六道)の中でも最上位である「天界(天上界)」に生まれ変わる、あるいは高い境地の往生を遂げることができるとされています。(Google AI)
菩提   「菩提(ぼだい)」は、サンスクリット語の「bodhi」に由来する仏教用語で、煩悩を断ち切って到達する「悟りの境地」や、そのための「智慧」を意味します。(Google AI)
薩埵   「薩埵(さった)」とは、サンスクリット語の「sattva」の音訳で、仏教用語で「生命あるもの(有情・衆生)」や「勇猛な心を持つ者」を意味します。一般的には「悟りを求める修行者」を指す「菩提薩埵(ぼだいさった=菩薩)」の略語として広く知られています。
声聞の四果   声聞(しょうもん)の四果とは、仏の教えを聞いて悟りを目指す修行者(声聞)が到達する4段階の悟りの境地(果位)のことです。 修行の過程である「四向(しこう)」と合わせて「四向四果」とも呼ばれ、段階的に煩悩を断ち切ることで涅槃へと至ります。四果の段階と意味声聞が目指す4つの悟りは、 以下の通りに分類されます。預流果(よるか / 初果)仏教の真理を初めて悟り、迷いの世界(輪廻)から抜け出す「聖者」の仲間入りをする最初の段階です。この境地に達した者は、決して迷いの世界に逆戻りしないとされます。一来果(いちらいか / 第二果)欲界(欲望の世界)における迷いをさらに減らした段階です。修行を完成させるために、天界と人間界にあと「一度ずつ生まれ変わる」ことで悟りを開くとされています。不還果(ふげんか / 第三果)欲界の煩悩を完全に断ち切った段階です。欲の世界に再び生まれ変わる(還る)ことはなくなり、この世を去った後に色界や無色界と呼ばれる高次元の天界に生まれ、そこで悟りを開きます。阿羅漢果(あらかんか / 第四果)声聞における最高の悟りです。すべての煩悩を滅ぼし尽くし、この世で迷いの輪廻から完全に解放されて涅槃に入る境地を指します。四向四果について上記の4つの「果(悟りの結果)」に至るまでの修行段階である、4つの「向(むかう)」を合わせて「四向四果(しこうしか)」と総称します。これらは全部で8つの段階となるため、「四双八輩(しそうはっぱい)」とも呼ばれます。(Google AI)
十信   十信・十解 菩薩修行の位階(五十二位)のはじめの二十位までをいう。(水田)
羅漢   羅漢(らかん)とは、仏教において最高の悟りを開き、人々から尊敬や供養を受けるに値する聖者のことです。サンスクリット語の「阿羅漢(あらかん)」を省略した言葉で、本来はお釈迦様の弟子たちの中で修行を完成させた高僧を指します。(Google AI)
菩薩の位   菩薩の位とは、悟りを開くため修行し(菩薩)、最高位である「如来」へと至るまでの52の段階です。代表的な階梯には「十信」「十住」「十行」「十回向」「十地」があり、この後に如来一歩手前の「等覚」、仏の悟りそのものである「妙覚」へ至ります。(Google AI) / 十地の菩薩(読み)じゅうじのぼさつ 精選版 日本国語大辞典 「十地の菩薩」の意味・読み・例文・類語 じゅうじ【十地】 の 菩薩(ぼさつ) 菩薩の修行階位五二位のうち、第四一位から第五〇位までの菩薩をいう。これを十聖といい、これ以前を地前といって区別する。無漏智を得て、衆生をまもりそだてることができるようになった位。(ことばんく)
賢首師   賢首師(けんじゅだいし)は、 中国華厳宗の事実上の開祖である唐代の僧・法蔵(ほうぞう、644-712)の諡号・尊称。武則天に重用され『華厳経』を深く講じた。代表的著作に『華厳五教章』『華厳経探玄記』などがあり、華厳宗の教学を大成させたため、華厳宗は「賢首宗」とも呼ばれる。 (Google AI)
十信・十解   十信(じゅうしん)と十解(じゅげ/十住)は、 大乗仏教における菩薩の修行階位(菩薩五十二位)の一部です。十信は仏法を信じて疑わない最初の10段階(信心)、十解は信じた教えを正しく理解し悟りへ向かう次の10段階(理解・確信)を指し、退転しない不退転の境地を目指す過程。(浄土宗全解テキストベース(Google AI)
通教   声聞・縁覚・菩薩に通じる教え。(水田)
異部の名字   仲基が云う「異部の名字」とは、どんなニュアンスでつかっているのか、どう訳したらいいのか。「異説を主張している」か。「異部」とは、正統派と異なるあるいは別の説、「名字」は「主張・内容」の名称か。「異説を主張する宗派」とでもするか。「異説を主張して宗派をなしている」意か。(管理人)//同じ仏教であっても、流派や時代が違えば教義(名字)も異なります。ある宗派が後世になってから作った新しい教えを、お釈迦様が直接説いた教えであるかのように古い経典と結びつけたり(異部加上)、矛盾する各派の教えを「結局は同じことを言っているのだ」と強引に解釈したりする態度は間違っている、と仲基は批判しました。/ 「異部の名字(異部の名字は必ずしも和会しがたし)」とは、江戸時代の町人学者・富永仲基の主著『出定後語』に記された有名な言葉です。「異なる宗派や学派(異部)が使う言葉(名字)は、それぞれ意味合いや背景が異なるため、無理に一つにまとめ合わせる(和会)ことはできない」という意味です。(Google AI)
遷就・牽強   (せんしゅう・けんきょう)あれこれとこじつけて(水田)
理、蘇息そそくすべし   色々調べたが、意味が分かりません。真理は、ほっと一休みしたとき現れる、の意か。(管理人)
超果ちょうか   小乗四果を超えること。(水田)/ 仏教における「超果(ちょうか)」は、一般的に「悟りの境地(果)」をさらに超えること、または仏道の修行によって得られる最高の悟りを指します。主に以下の2つの意味で用いられる言葉です。最高の悟り(極果と同義): 仏道修行の最終的な到達点である究極の悟り(大乗仏教の仏果や、小乗仏教の阿羅漢果など)を意味します。(Google AI)
10 七仏・三阿僧祇劫   ///
七仏   釈迦以前の六仏と釈迦。七仏」とは、主に釈迦牟尼仏(お釈迦様)以前に現れた6人の仏と釈迦を合わせた「過去七仏(かこしちぶつ)」を指し、毘婆尸仏・尸棄仏・毘舎浮仏・拘留孫仏・倶那含牟尼仏・迦葉仏・釈迦牟尼仏の7人を指します。これらは、仏教の普遍的な真理を象徴する存在として尊崇されています。
長阿含説。仲基はこれを非なりという。
「七仏通戒偈」: 7人の仏が共通して説いたとされる教えで、仏教の根本とされる教え(諸悪莫作・衆善奉行・自浄其意・是諸仏教)のこと。(Google AI)
三祇・百劫   「三祇・百劫(さんぎ・ひゃくこう)」とは、菩薩が発心(悟りを求める決意)してから完全な悟りを開き、仏(如来)になるまでに要する途方もなく長い修行期間のことです。具体的には、数え切れないほどの時間を表す「三阿僧祇劫(さんあそうぎこう)」と、相貌(仏の身体的な32の優れた特徴)を完成させるための「百大劫(ひゃくだいこう)」を指します。 (Google AI)
阿僧祇劫   阿僧祇劫(あそうぎこう)とは、仏教において「想像もつかないほど途方もなく長い時間」を表す言葉です。数え切れないほどの大きな数を意味する「阿僧祇」と、インドの哲学における最長の時間単位である「劫」が組み合わさってできています。言葉の分解と意味阿僧祇(あそうぎ):サンスクリット語の「アサンキヤ(Asaṃkhya)」の音写で、「数えられないほど多い」という意味です。日本の古い数詞(命数法)では、10の56乗(あるいは59乗など諸説あり)という莫大な数を指します。劫(こう):サンスクリット語の「カルパ(Kalpa)」の音写です。「一辺が約16kmある大きな岩を、3年に一度、天女が羽衣でそっと撫で、その岩が摩擦で完全に消滅するまでの時間」(五劫の擦り切れ)などと例えられる、永久に近い時間です。仏教における主な使われ方仏典では、主に「三阿僧祇劫(さんあそうぎこう)」という形でよく登場します。これは、菩薩(修行者)が初めて「悟りを開こう」と決意してから、厳しい修行を重ねて最終的に「成仏(仏になること)」するまでに必要とされる気が遠くなるような修行期間を指します。(Google AI)
拘留孫くるそん拘那含くなごん牟尼迦葉仏むにかしょうぶつ   三者とも、過去七仏(水田)
十年行苦楽を行ひ   一般に、釈迦は29才で出家し、35才で菩提樹下で覚醒したたとされており、6年の修行を経て、覚醒したことになる。(管理人)
無量劫   「無量劫(むりょうごう / むりょうこう)」は、仏教において「計り知れないほど、気が遠くなるほど長い時間」を意味する言葉です。 (Google AI)
阿耨菩提   「阿耨菩提」は、主に仏教における「阿耨観音(あのくかんのん)」、または仏の最高の悟りを表す「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」 と深く結びついた言葉です。 一般的に「阿耨」という言葉が菩薩や観音の文脈で使われる場合、以下の2つの意味を指していることがほとんどです。2. 最高の悟りを目指す心(阿耨菩提)もう一つは、言葉としての「阿耨(あのく)」の仏教的な意味合いです。サンスクリット語の「アヌッタラ(anuttarā)」の音写で、「この上ない」「最高のもの」という意味を持ちます。仏教の究極のゴールである最高の正しい悟りを「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」(略して阿耨菩提)と呼びます。この「この上ない悟り」を開くために修行を重ねている存在そのものが「菩薩(ぼさつ)」です。そのため、最高の悟りを目指して発心した修行者を指す言葉の背景としても使われます。(Google AI)
一念成仏   一瞬のうちに悟ること(水田)/ 長らくの修行を経ずして、一瞬時に直ちに悟入するの意である(吉川)
頓部氏   頓教のこと。 頓教(とんぎょう)とは、仏教において長い修行の段階(階程)を経ることなく、速やかに直ちに成仏・悟りに達することができると説く教え、または最初からいきなり深遠な究極の真理を説き明かす教えのことです。だんだんと段階を踏んで悟りへと導く漸教(ぜんきょう)の対義語として用いられます。 中国仏教における経典の分類・評価基準(教相判釈)の言葉。・・・代表的な経典『華厳経』など(一足飛びに仏の境界を説く)。『阿含経』『般若経』など(順を追って段階を昇る)。宗派・思想による「頓教」の捉え方中国や日本の諸宗派は、自らの正当性や実践の有効性を証明するために「頓教」の概念を独自に解釈しました。
天台宗(智顗の教判論)天台宗の「化儀四教(釈尊の説法形式の4分類)」において、頓教は「最初から遮るものなく最高真理(華厳経など)を突きつける方法」と位置づけられます。後に最澄らは、天台の円融の教えを「円頓教(えんどんきょう)」と呼び、誰もがただちに仏になれる究極の頓教であると主張しました。禅宗(頓悟思想)「文字を立てず、直ちに人の心に指し示して本性を見出し成仏する(不立文字・直指人心・見性成仏)」という立場から、人間の本来持つ仏性を一瞬で自覚する「頓悟(とんご)」を最重視します。修行ステップの蓄積を否定する禅のスタイルは、頓教の代表格とみなされます。浄土教・浄土宗(法然の解釈)法然は『無量寿経釈』において、自力で煩悩を断ち切って悟る聖道門の諸宗(天台・真言など)も頓教を自称するが、結局は修行が必要なため実質は漸教であると指摘しました。これに対し、煩悩を一切断じない凡夫のまま阿弥陀仏の力によって一足飛びに迷いの世界を超出できる浄土の教えこそが、「頓中の頓(頓教の中の頓教)」であると最大級の評価を与えています。 (Google AI)
底沙を讃して九劫を超ゆ   釈迦(釈迦牟尼菩薩)が過去世において「底沙仏(ていしゃぶつ)」という仏を熱心に讃嘆した功徳により、本来よりも9劫(きわめて長い時間)も早く成仏したという仏教の有名な説話に基づく言葉です。
この言葉は、「仏やその功徳を心から褒め称えること(讃嘆)には、計り知れないほど大きな功徳があり、修行のプロセスを劇的に進める力がある」という意味の格言や教訓として用いられます。 背景にある仏教説話の詳細や、日本文化における影響は以下の通りです。説話の背景(大智度論や倶舎論より)弥勒(みろく)との競い合い:過去世において、釈迦菩薩と弥勒菩薩はともに「底沙仏(弗沙仏とも呼ばれる)」のもとで修行をしていました。本来、修行の進み具合(機根)としては、弥勒菩薩の方が先に成仏するはずでした。片足を挙げての讃嘆:ある時、底沙仏が洞窟の中で「火定(かじょう:炎を放つ深い瞑想状態)」に入っているのを釈迦菩薩が見ました。その神々しい姿に深く感動した釈迦菩薩は、片足を挙げたまま(翹足:ぎょうそく)7日7夜にわたって、まばたきもせずに一つの偈(うた)を唱えて底沙仏を讃え続けました。9劫を飛び越える:このあまりにも純粋で精進に満ちた「讃嘆」の功徳によって、釈迦菩薩は本来の成仏の順序をひっくり返し、弥勒菩薩よりも9劫も早く、先に仏(釈迦牟尼仏)に成ることができたとされています。(Google AI)
鑿空さくくうしてこれを出ず   細かに詮索し明記することをしない。(水田)
11 言に三物あり 第十一   ///
言に三物   富永仲基は、実に言語を手掛かりとして思想変遷の研究を行ったのであるが、その場合に言語に関しては諸原則を懐いていた。それはすなわち「三物五類」の原則である。『三物五類は立言の紀なり』という。そのうちの三物について、かれは次のように説明している。『およそ言に類あり、世あり、人あり、これを言に三物ありと謂う。一切の言語を解するに三物をもってする者は、わが教学の立てるなり。苟くも此れをもって之を求むるに、天下の道法、一切の語言、未だ嘗て錯然(さくぜん)として分れずんばあらざるなり。』(中村元選集第7巻『近代日本の批判的精神』214ページ参照)。」(京戸註)
楚夏   「楚(そ)」は中国の南方、「夏(か)」は中原(中国の中心部・華夏)を指す。言語や音韻の違い: 古い仏典や漢文の注釈などで「楚夏声異(楚と夏とで声調や言葉が異なる)」のように、地方による方言や発音の違いを表現する言葉として使われることがある。 (Google AI)
四食   仏教における「四食(しじき)」とは、私たちの命や心身を維持し育てる4つの栄養源のことです。一般的な飲食物だけでなく、感覚や意識といった精神的なエネルギーも「食」として捉えられているのが大きな特徴です。四食の詳細は以下の通りです。
• 段食(だんじき)私たちが普段口にする飲食物のこと。物質として口から摂取し、肉体を養う基本的な栄養源です。
• 触食(そくじき)感覚器官(目・耳・鼻・舌・身)が外界の環境や対象に触れること。心地よさや安心感、あるいは不快感などのふれあいが、心身を生き生きとさせるエネルギーになります。
• 思食(しじき)「こうしたい」という強い意思や願い、欲求のこと。目標に向かって行動するモチベーションそのものが、心の糧として生命を維持・成長させます。
• 識食(しきじき)対象を認識・判断する精神の働き(心・意識)のこと。過去の記憶や知恵、情報などを深く味わい、受け止めることで精神を保ちます。 (Google AI) /
一咫一尺   (いっし いっせき) 「 奚翅一咫一尺矣」の読み方は、書き下し文にすると「なんぞ一咫一尺(ひとあたいっしゃく)に翅(とど)まらんや」となります。 これは漢文における比較や反語の表現で、「どうして、たった一咫や一尺(のわずかな距離・量)だけであろうか(いや、それだけではない、はるかに大きい/多い)」という意味を表します。 構成要素の読みと意味 「一咫(ひとあた)」と「一尺(いっしゃく)」は、 古代中国や日本における身体を基準とした短い長さの単位です。一咫は開いた手の親指から中指までの約18cm(8寸)、一尺は22.5cm(10寸)を指し、両者を合わせた「咫尺(しせき)」は、非常に近い距離や親密な関係を表す言葉として使われます。) (Google AI)
類においてはんとなす   内藤虎次郎著『先哲の学問』(弘文堂書房)102頁に『何か一つの、或物の名前とか考えとか、固有名詞であったものが、それが後になると変化して普通名詞になる。最初の事実は何か一つの片寄ったもの、極まったものについての名前であったのが、それが段々に意味が拡がって、それが普通の意味になり、名前になるということを「泛」というのであります。』とあり。中村元著『近代日本の批判的精神』(中村元選集・第7巻・春秋社216頁)に『泛とは「ひろし」「うかぶ」の意味の字である。この意味ははっきりわからないが、相対立する二つの観念をいまだ開展せしめない状態にあることをいうらしい。「如来の義は、如にして来るなり。もとこれ心体の名にして、善悪未だ分かれず。類において泛となす。楞伽経に云わく『一切衆生は皆如来蔵なり』と。是れなり。」とある。(京戸)
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類においてとなす   内藤虎次郎著『先哲の学問』(弘文堂書房・昭和21年102頁)に、『「磯」ということは、多分これは孟子の中に「以て磯すべからず」と言葉がありますから、それから来たとおもいます。言葉を激しく言う、強めて言う、意味を強めて言うことであります。誇張するという程ではありませんが、その為に少し言葉の意味に変化が出来ます。(京戸)/ 磯とは激しく云うことである。孟子の告子章に「是れ磯す可からざる也」とあり。多少物事を誇張すること。(吉川)
この五類   言語の転用法、張・泛・磯・反の四種と固有の用法、偏と合わせると五類になるが、仲基は転用法のみを数え間違ったかと思われる。なお、第二十五章で説かれた転を、前四類に加える数え方もある(水田)/泛、磯、反、転の五類である。(吉川)/ 五類(張・偏・泛・磯・反)(Google AI)
言に類あり、世あり、人ある   「言に類あり、世あり、人ある」とは、江戸時代の町人学者・富永仲基が主著『出定後語』の中で説いた、言葉や教えが変化する3つの基本法則(三物)です。それは「言に人あり」「言に世あり」「言に類あり」の3つを指します。三物の内容言に人あり:同じ言葉や教えでも、説く人(派や個人)によって解釈や言い方が違うこと。言に世あり:言葉の意味や使われ方が、時代(世の中)の移り変わりとともに変わること。言に類あり:言葉自体に、誇張や偏り、広い意味や狭い意味などの類別(五類)があること。(Google AI)/このなかで類が一番難しい。言葉の向いて方向、傾向と解する。(管理人)
12 八識はっしき   ///
八識   八識(はっしき)とは、仏教の「唯識(ゆいしき)学派」が説く、人間の心のはたらきを8つに分類した心の構造モデルです。私たちが自覚できる「意識」だけでなく、現代心理学でいう「無意識」の領域まで網羅しているのが特徴です。八識の構造八識は、心の深い層(1〜8)へと向かって以下のように構成されています。表層意識(前六識・ぜんごしき+意識)五感と日常的な思考を司る、自分自身で自覚できる心の領域です。1. 眼識(げんしき):目で色や形を見る視覚。2. 耳識(にしき):耳で音を聞く聴覚。3. 鼻識(びしき):鼻でにおいを嗅ぐ嗅覚。4. 舌識(ぜっしき):舌で味を識別する味覚。5. 身識(しんしき):肌で寒暖や痛みに触れる触覚。6. 意識(いしき):前五識を統合し、考えたり判断したりする日常の思考。深層意識(無意識の領域)本人が自覚できない、心の奥底にある広大な領域です。7. 末那識(まなしき):無意識のうちに「これが自分だ」と執着し続ける自我意識。8. 阿頼耶識(あらやしき):すべての経験や行為が「種子(しゅうじ)」として蓄積される心の根本源(蔵識)(Google AI)/
八識(はっしき、はちしき)といは、仏教の意識作用(識, viññāṇa)の8種をいう。4世紀のインドに興った瑜伽行唯識学派によって立てられた。 なお、天台宗では、さらに第九・阿摩羅識を立てて全九識とする。また真言宗ではさらに第十・乾栗陀耶識(紇哩陀耶識、hṛdaya-vijñāna)を立て全十識とする。(WIkipedia)
阿頼耶 阿頼耶識   (あらや あらやしき) 阿頼耶(アーラヤ)とはサンスクリット語で「蔵(くら・住居)」を意味し、それに「分ける、知る」を意味する識(ヴィジュナーナ)を合わせた阿頼耶識(あらやしき)は、すべての経験や行いの記憶(種子)を蓄える、人間の心の最も深い根本の層(第八識)を指す大乗仏教の重要な概念です。阿頼耶(アーラヤ)の意味蔵(くら):サンスクリット語の「ālaya」の音写と意訳であり、すべてをしまい込む「倉庫」や「住家」を表す。言葉の由来:ヒマラヤ(雪の蔵)と同じ「アーラヤ」という言葉が使われている。阿頼耶識(あらやしき)の仕組み第八識(はっしき):五感や通常の思考(意識)よりさらに奥深くにある、自分では直接気づけない心の土台。種子(しゅうじ)の貯蔵庫:日々の行いや経験が「タネ」となってここに蓄えられ、それが次の感情や行動を引き起こす原因になる。Wikipediaの阿頼耶識を参照のこと。(Google AI)
蘊界処   蘊界処(うんじょかい)とは、仏教においてこの世の一切の存在や現象(一切法)を分類・整理するための基本範疇である、五蘊(ごうん)、十二処(じゅうにしょ)、十八界(じゅうはちかい)の三つ(三科)をまとめた言葉です。三つの分類五蘊:心と体を作る五つの要素(色・受・想・行・識)十二処:感覚器官とその対象となる外界の領域(六根・六境)十八界:感覚器官、その対象、および生じる認識の領域(六根・六境・六識)意味と目的存在の分析:私たちが「自分」や「世界」と呼んでいるものが、実体のない一時的な要素の集まりに過ぎないことを示す教え。執着の離脱:すべてが条件によって変化するもの(無常・空)と理解し、執着を捨てるための枠組み。 (Google AI )
  習気(じっけ/しゅうき)とは、行いや煩悩の繰り返しによって心に染みついた「習慣性」「心のくせ」「余韻」を意味する仏教用語です。衣服に香りが移るように、日々の行動や思いが心に良いまたは悪い影響を残す働きを指します。日本語の「躾(しつけ)」という言葉の語源になったとも言われています。(Google AI)
所熏   所熏(しょくん)とは、仏教の唯識思想において、行いや経験(能熏)によって影響や種子を「熏習(くんじゅう:香りが染み込むような影響)される側」のことです。具体的には第八識である阿頼耶識(あらやしき)を指します。所熏の四義(満たすべき4つの条件)熏習を受ける主体となるためには、以下の4つの条件が必要です。堅住性(けんじゅうせい):常に同じ状態で長く続く性質。無記性(むきせい):善でも悪でもない中立の性質。可熏性(かくんせい):影響や汚れ、汚れなき力をしっかりと受け止められる性質。能所和合性(のうしょわごうせい):影響を与える側(能熏)と一体となって作用する性質。所熏と対になる能熏(のうくん)の4つの条件あり。 (Google AI)
有宗   有宗(うしゅう)とは、人間の存在を構成するすべての要素(法)が実際に存在すると認める仏教の立場であり、説一切有部、成実宗、法相宗がこれに属します。有宗の基本情報読み方: うしゅう(有教とも呼ばれる)主な教え: すべての存在(諸法)は実体として実在するという考え方代表的な宗派・部派: 説一切有部、成実宗、法相宗など。
説一切有部(せついっさいうぶ)は、部派仏教(小乗仏教)の最大かつ最も有力な一派であり、過去・現在・未来の「三世」にわたって、すべての存在(法)の実体が常に実在するという「三世実有・法体恒有(さんぜじつう・ほったいごうう)」の思想を説いたことで知られています。歴史と特徴釈迦の滅後、紀元前300年頃に上座部から分かれて成立しました。インド西北部のカシミール地方などで非常に栄えました。「阿毘達磨(アビダルマ)」と呼ばれる詳細な仏教の教義・存在分析の研究を盛んに行いました。主な思想一切有:過去・現在・未来のすべてにおいて、物事の本質(自性)は常に実在すると主張しました。存在の分析:人間や世界を構成する最小単位である「法」を細かく分類し、宇宙の仕組みを体系的に説明しようとしました。後に世親(ースバーブ/バスバンドゥ)が書いた『倶舎論(くしゃろん)』は、この説一切有部の教えをまとめた代表的な論書です。 (Google AI)
13 四諦・十二因縁・六度   ///
四諦・十二因縁・六度   º四諦 苦・集・滅・道。仏教の実践原理を示す根本教説
º十二因縁 人間存在の輪廻の有様を十二支の因果系列でしめしたもの
º六度 六波羅蜜。大乗仏教の菩薩が実践修行すべき六種の徳目。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧(般若)(水田)
三世羯頼藍   (さんぜかつららん)十二因縁を過去・現在・未来にわたる因果関係と見る説。(水田)
一念   (いちねん) 瞬間のうちに十二因縁をそなえると説くこと。(水田)
槃涅槃   (はつねはん) 生死を越え梧境に入ること。(水田)
四度   六度より、禅那・般若の二波羅蜜を除いたものをさす。(水田)
14 戒   ///
十善   十善とは尸羅(戒律を守り善を行うこと)で、釈迦出現以前からある戒律である。(水田)/ 十悪に対するもので、十悪すなわち、身・口・意の三つがつくりだす悪(三業)を十種に整理したもの。①生き物を殺す ②盗む ③姦淫 ④嘘を言う ⑤二枚舌をつかう ⑥罵倒する ⑦駄言を弄する ⑧貪る ⑨怒る ⑩邪見にふける。これらを離れるのが十善である(京戸)
これ何ぞ特操なき   何ぞ(なんぞ):どうして、なんと。特操(とくそう):自分が正しいと信じる主義や志を、かたく守ること(節操)。なき(なき):ないこと。つまり、周囲の意見に流されたり、損得で態度を変えたりする人に対して、「信念というものがないのか!」と呆れているニュアンスですね。(Google AI)/「節操がない」仲基の好きな言い回し。・・・管理人
15 宝娶   ///
室娶   (しつしゅ)妻をもとること(水田)
善星   善星比丘(ぜんしょうびく)は、かつて釈迦(仏陀)の弟子でありながら、後に仏教の教えに背いて悪邪見を抱き、生身のまま阿鼻地獄(無間地獄)に堕ちたとされる人物です。北伝の仏教経典(大乗仏教)の一説では、釈迦が出家する前にもうけた実子(あるいは羅睺羅の異母兄)とも伝えられています。(Google AI)
むる   「揉(た)むる」は、漢字「揉」の古風な読み方(歴史的仮名遣い・文語形)であり、手で強くこすり合わせる、または木や竹などを曲げてまっすぐにしたり形を整えたりする(矯める:ためる)という意味を持ちます。現代語の「もむ(揉む)」や「ためる(矯める)」の古い表現です。(Google AI)矯正する。
16 肉食   ///
七衆   七衆(しちしゅ)とは、仏教の教団を構成する出家者5種と在家者2種の仏弟子の総称です。比丘・比丘尼・沙弥・沙弥尼・式叉摩那(出家)と優婆塞・優婆夷(在家)で構成され、仏典において仏教徒全体の分類として用いられます。(Google AI)
肉葷辛   (にくぐんしん) 肉類と刺激性のある野菜類。ともに精力がつき亢奮効果がある。(水田)
熟食   (じゅくじき) 煮て食べる。(水田)
生啖   (しょうだん)なまでたべること、(水田)
恚(イ)   怒り恨む。憤る。
なる   「頗る(すこぶる)」の漢字「頗」の音読みは「は」であり、「かたよる」「非常に、たいそう」という意味を持ちます。一般には「頗る」の形で「非常に」という意味で使われます。意味:非常に、たいそう(「頗る」)かたよる、公平ではない(「偏頗」)(Google AI)
五種の辛菜   仏教の戒律(四十八軽戒など)において、心身への刺激が強く修行を妨げるとされて食すことが禁じられた5種類の臭い・辛い野菜を指す場合もあります。一般的な内訳:韮(にら)薤(らっきょう)葱(ねぎ)蒜(にんにく)薑(しょうが・はじかみ) (※諸説あり、アサツキやノビルが入る場合もあります)(Google AI五種の辛菜)
17有宗   ///
有宗   物心の本体の実在を主張する派で、ここは四諦・十二因縁を説く小乗教をさす。仏滅後百余年で分派がはじまり、四百年で二十一部を数えるに至ったが、仏後五百年後に一切皆空を説く大乗教が起こった、と仲基は論述する。(水田)
般闍于闍大会   (はんじょうしつだんえ)五年会と訳す。五年ごとに設ける大齋会である。阿育王が第二結集を命じたので有名。(吉川)/ :「般闍于闍大会」は、正しくは仏教用語で「般闍于瑟(はんじゃうしつ)大会」(または般闍于瑟、無遮会)と呼ばれ、古代インドにおいて王などが5年に一度開いた大規模な無差別施与の大会式(大斎会)のことです。『大智度論』などでは、仏滅後にアショカ王が催したこの大会の最中、諸国の大法師たちの論議に食い違いが生じたことが、のちの仏教教団における部派分裂(部派仏教の形成)のきっかけの一つになったと伝えられています。(Google AI)
大天乖諍   「大天乖諍(だいてんかいそう)」は、仏教用語で、釈迦の死後(入滅後)に僧団(教団)が分裂・争乱した出来事を指す言葉です。大乗仏教の伝承において、特に教団分裂のきっかけを作った僧「大天(だいてん/マハーデーヴァ)」に起因する争いや、彼が唱えた「五事(ごじ)」に対する教団内の乖離(分裂)と諍(争い)を意味します。大天(だいてん): マハーデーヴァという名の僧。彼が唱えた5つの命題(大天五事)がきっかけで教団が保守派(上座部)と進歩派(大衆部)に分裂した。乖諍(けじょう): 意見が背き(乖)、争う(諍)こと。この出来事は、部派仏教の成立に関わる非常に大きな事件として記録されています。 (Google AI)
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18空有   ///
迦文の時、いまだこれあらざるなり   釈迦在世中は空有両説の対立はなかった。それは現実とかけ離れているからである。対立があったと主張するものは、後世の仮託である。空有:現象を一切空とする説と、現象の本体は実在すると主張する説。(水田)
車匿(しゃのく)   車匿(しゃのく、Chandaka)は、釈迦(シッダルタ太子)が出家する際に、白馬カンタカを牽引して従った馬丁(従僕)です。のちに出家して弟子となり、最終的に阿羅漢果(さとり)を得ました。当初は高慢でしたが、釈迦の死に際に下された懲戒処分で更生したエピソードが有名です。主な特徴・エピソード出家の同行者: 太子がカピラ城を出て出家する(四門出遊)際、馬を引いてアノーマ河のほとりまで付き従いました。別れ: 出家の場所で太子から宝冠や装身具を預かり、城へ引き返すよう命じられた際、別れを悲しみ涙したとされます。性格とその後: 出家後は傲慢な態度で他の僧から「悪口車匿」と呼ばれましたが、のちに阿難(アーナンダ)から教えを受け、深く反省して修行に励みました。チャンナ: 梵語(サンスクリット語)のChandakaの音訳で、チャンナとも呼ばれます。仏教伝記において、釈迦の人間らしい一面(出家時の葛藤)を支える重要な人物として描かれています。(Google AI)
性あひ近し、習あひ遠し   「性相近し、習い相遠し(せいあいちかし、ならいあいとおし)」は、『論語』陽貨篇に由来する言葉で、「人間は生まれつきの性質(素質)は似たりよったりだが、後天的な環境や習慣、教育によって大きな差が生まれる」という意味です。(Google AI)
諸悪莫作しょあくまくさ衆善奉行しゅうぜんぶぎょう、みづからその意を浄む、これ諸仏の教へ諸悪莫作しょあくまくさ 衆善奉行しゅうぜんぶぎょう 自浄其意じじょうごい 是諸仏教ぜしょぶっきょう。この四言四句は七仏通誡偈という。増一阿含経巻一・四四、涅槃経巻一四等(水田)/ 七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)は、過去七仏(釈迦牟尼仏とその前の6人の仏)が共通して説いたとされる、仏教の根本的な教えをまとめた4句の詩(偈)です。「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」(悪いことをせず、善い行いを行い、自らの心を清めること。これが諸仏の教えである)この偈は『[法句経』(ダンマパダ)に由来し、仏教の真髄を簡潔に表現したものとして、宗派を超えて尊ばれています。(Goole AI)
法性   法性(ほっしょう)とは、仏教において万物(存在や現象)の根本にある「真のありのままの姿」や「不変の真理」を指す言葉です。すべての物事は法性(真如・実相)に拠っているとされ、動かしようのない真理を意味します。主なポイント本質: 万物が持つ不変の本性であり、仏の悟りの本質。意味: 「法」は物事・真理、「性」は本性を表す。別称: 「法性真如(ほっしょうしんにょ)」とも呼ばれ、全ての法(もの)に平等に備わる真実の性質。(Google AI)
慈氏じし   「慈氏(じし)」は、仏教において弥勒菩薩(みろくぼさつ)の異称・訳語です。梵語の「マイトレーヤ(Maitreya)」の訳で、慈悲深い者、慈しみを基本とする者を意味し、将来的に釈迦如来の次に現れる「当来仏」として信仰されています。
六竜りくちゅうの舞のみ   『易経』乾卦に『・・・時乗六竜以御天』とある。ここでは仮空の議論を自由勝手に立てることを嘲る意である。(京戸) / 空理空論を弄ぶたとえ。(水田)
中観派・唯識派   中観派(ちゅうがんは)と唯識派(ゆいしきは)は、大乗仏教の二大論理学派です。中観派は「全て(心も対象も)に実体がない(空)」と説き、唯識派は「対象は存在せず、すべては心の認識(識)である」と説きます。
前者は徹底した無自性を、後者は識の存在を肯定する点が主な違いです。主な違いのまとめ中心思想(空の解釈)中観派: すべての法(存在)は空である。実体(自性)は根本的に存在しない。唯識派: 認識する心(識)だけが存在し、認識される対象は心によって作り出されたもの(唯識)である。究極的には心も空である。
「識」の扱い中観派: 認識主体(心)も無自性である。唯識派: 第八識「阿頼耶識(あらやしき)」という「変転する心の根源」を実在と認める側面がある。(Google AI)
大道は泛焉たり   「大道は泛(はん)焉(えん)たり」という表現は、主に老子思想における。「大道(だいどう)」の捉えどころがなく、広大無辺で自由な様子を表す言葉です。出典は『老子』第34章。読みは「だいどうははんえんたり」。1. 意味大道: 老子の言う「道(タオ)」。宇宙の根源的な真理、自然のありのままの姿。泛(はん): 広々として水に浮かぶように、定まった形や場所がない様子。漂っている様子。焉(えん): ~である(状態を表す語気辞)。全体として、「宇宙の真理(大道)は、広大無辺で漂うようにどこにでも存在し、特定の形や場所に縛られることがない」という意味になります。(Google AI)/ 大道は変わらず常に存在している。(管理人試訳)
無明むみょうの指のごとし   くすり指が他の指とくらべて相対的に長いとも短いとも言えるように、現象の実在についても同様である。無明は無名の誤り。(水田)
出定の義、実はここに出づ   本書を『出定後語』と題したゆえんは、釈迦が禅定を出てのち、弟子たちの仏説解釈いずれも仏意そのままではないと斥けつつも、その所説を評価し、無下に否定しなかったとの経説にちなみ、「大乗諸説は本来の仏説ではなく、仏説にことよせ、後世その上に次第に加えかさねられて発達した思想である」という主題の表明である。(水田)
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18南三北七   ///
南三北七   中国南北朝時代の仏教を智顗(ちぎ 天台大師)が南地三師、北地七師の十種の教判に分類した。法華玄義巻10の所説だが、仲基は法蔵(賢首大師)の説に拠っている。(水田)/ 南三北七(なんさんほくしち)は、中国の南北朝時代(5〜6世紀)に栄えた、様々な経典の解釈(教相判釈:きょうそうはんじゃく)を体系化しようとした10人の高僧の学説のことです。揚子江(長江)の南の3つの学派と北の7つの学派を指し、のちに天台大師智顗がこれらを批判・発展させて「五時八教」を確立しました。(Google AI)
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19南三北七   ///
また異部の名字   出定後語(しゅつじょうこうご)』における「異部名字(いぶみょうじ)」とは、異なる宗派や後世の集団(異部)がそれぞれ勝手な名称(名字)を名乗って教えを伝えることを指します。富永仲基は「異部の名字は必ずしも和会(わかい)しがたし」と主張し、複数の異なる説を無理に一つにまとめようとしてはいけないと説きました。(Google AI)
有塞うそく   矛盾、不条理。(水田)
初後は一字も説かず   「初後」 初めと終わり。初めから終わりまで。終始。/ 「初後は一字も説かず(しょごはいちじもとかず)」と「出定後語(しゅつじょうごご)」は、いずれも仏教、特に禅宗(ぜんしゅう)において極めて重要視される言葉です。お釈迦様が悟りを開いてから(初)亡くなるまで(後)の45年間、「私は本当の真理を一文字も言葉にしていない」という意味です。本質: 悟りの境地や宇宙の真理は、言葉や文字(言語)で100%表現できるものではありません。意図: 言葉そのものに執着(文字の奴隷に)なってはならず、言葉の奥にある「真意」を自分で体得せよという戒めです。出定後語禅定(ぜんじょう:深い瞑想状態)から目覚めた(出定)のちに、言葉にできないはずの境地を、あえて人々に伝えるために発する言葉のことです。本質: 真理は不言実行のものですが、人々を救うためには言葉を使わざるを得ません。意図: 便宜上使われる「仮の言葉」であり、究極の真実そのものではないと理解した上で聞くべき言葉を指します。二つの関係性この二つは対になっており、禅の本質である「不立文字(ふりゅうもんじ:文字に頼らない)」と「大悲(だいひ:人々を救う慈悲)」の矛盾と調和を表しています。真理は言葉にできない(初後は一字も説かず)。しかし、人々を導くためにあえて言葉を用いる(出定後語)(Google AI)
華厳別教べっきょう   華厳教学で華厳経のみが超絶絶対的な、究極の別教一乗門であり、真実の円経(一乗教、五教 の最高)であると説く。(水田) /華厳宗の第三祖・法蔵(ほうぞう)などが提唱した「五教十宗(ごきょうじっしゅう)」という教えの分類に基づきます。別教一乗(べっきょういちじょう)の強調華厳宗では、お釈迦様が悟りを開いた直後にその悟りの世界をそのまま説いたとされる(google AI)
余をもって試みにこれを論ずるに   自分(仲基)の考えでは、諸仏教を釈迦一人がその生涯に説いたという前提で教判を立てる必要はない。同じ所説から聴き方の相違で異説が生じることは、小さなことなら起こりもしよう。が仏説の順序という重大問題に、多数の弟子が聴聞していて異説が発生するとは奇怪である。また、聴衆の程度に応じて釈迦が方便として教説に差をつけたということはあるが、はじめから三乗教を説いたなどという考えは、ともに聴衆を教化する上に矛盾を生じ妥当を欠く。もともと釈迦一代の教説に前後の相違があるはずはなく、実は後世教義の発達による別人の異説にすぎない。(水田)
幺麼ようまの事物   とるに足らぬちいさなこと。(水田)
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20禅家祖承   ///
禅家ぜんけ祖承   釈迦の教えを正統に伝承したものの意で、後世の禅宗ではない。(吉川)
要するに、また異部に伝ふる所の説にして   宝林伝(法林伝)の順序は経典に見えず、智矩(慧炬)の偽作といわれる。他説を借用して無理に系統立てたり、達磨も心から認めぬなま悟りの愚かな人物を据えたりしている。これも異部の所説で信用できない。(水田)
一黙雷轟く   維摩の一黙が百雷にも値するように、菅原為長の緘黙(かんもく)には意義がある、と仲基は評した。(水田)
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21 曼荼羅氏 第二十一   ///
曼荼羅氏の業はまったく観相禁呪かんそうきんじゅにあり・・・   密教は止観と呪法が特色で、よく印度の習俗を留めている。中国でははやく失われ、不思議にもわが国に伝わっている。(京戸)
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22 外道 第二十二   ///
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大梵天はよく万物を生ずるもとなり   大梵天(だいぼんてん)とは、古代インドの最高神ブラフマーが仏教に取り入れられた守護神(天部)です。宇宙の創造神から仏法の護法善神へと姿を変え、慈悲と智慧を象徴する存在として帝釈天と対になって祀られることが多くあります。(Google AI)///
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23 仏出の朝代   ///
仏出朝代   釈迦が誕生した年代。(京戸)
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24 三教   ///
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25 雑   ///
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三教   儒(孔子の教え)・仏(釈迦の教え)・道(老子の教え)の三教。
こころみにこれを蔽するに・・・   仮に断定すると、儒教は修辞的傾向にに過ぎ、仏教は神秘的傾向に過ぎ、道教はいわば外道の類で、他の二教に遠く及ばない。(水田)
冥数の自然   自然の運命。道理。(水田)/「冥数の自然(めいすうのしぜん)」は、人智では推し量れない運命や天の意志を指す「冥数」 と、自然(理わり)が組み合わさった言葉です。1. 「冥数」の意味「冥(めい)」は暗い、死後の世界、人知の及ばない領域を意味します。「冥数」とは、人間の力ではどうすることもできない「宿命」や「寿命」のことです。古くは中国の歴史書『後漢書』などにみられ、「天の冥数(天が定めた寿命や運命)」という使われ方をします。2. 「自然」の意味現代の「ネイチャー(自然)」とは異なり、この文脈における「自然」は「おのずからそうなること」「道理」「摂理」を意味します。人為的な力が働かない、宇宙や運命のありのままの姿のことです。(Google AI)
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所属不明
阿毘達磨(あびだるま)    
薄伽梵   薄伽梵(ばがぼん/ばぎゃぼん)は、 サンスクリット語の「Bhagavat(バガヴァッド/バガヴァーン)」の音写で、仏教では「世尊(せそん)」や「覚れる者」と訳され、ブッダ(釈迦)の尊称の一つです。福徳や智慧、徳ある者、聖なる者を意味し、仏教以外でもインドで神や聖者に対して使われる敬称です。 主な特徴・由来:仏教用語: 如来の十号の一つ「世尊」の原語であり、煩悩を超越した徳のある人を指します。「天才バカボン」との関連: 漫画『天才バカボン』のタイトルは、この「薄伽梵」が由来であるという説が有名です。作中の「これでいいのだ」というセリフは、あるがままを受け入れる仏教の悟りの境地を象徴しているとされています。(Google AI)
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東人の絞における   「東人」=日本人。「絞」(こう) 論語の泰伯篇に「直にして禮なければ則ち絞・・・」とあり。正直にして禮にこだわらぬこと。直情径行を尊ぶ性質をいう。(吉川)
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奚翅一咫一尺矣一咫いっし一尺いっせき 「 奚翅一咫一尺矣」の読み方は、書き下し文にすると「なんぞ一咫一尺(ひとあたいっしゃく)に翅(とど)まらんや」となります。 これは漢文における比較や反語の表現で、「どうして、たった一咫や一尺(のわずかな距離・量)だけであろうか(いや、それだけではない、はるかに大きい/多い)」という意味を表します。 構成要素の読みと意味 「一咫(ひとあた)」と「一尺(いっしゃく)」は、 古代中国や日本における身体を基準とした短い長さの単位です。一咫は開いた手の親指から中指までの約18cm(8寸)、一尺は22.5cm(10寸)を指し、両者を合わせた「咫尺(しせき)」は、非常に近い距離や親密な関係を表す言葉として使われます。
奚翅(なんぞ……にとどまらんや) 「奚(なんぞ)」は疑問・反語の副詞。 「翅(し)」はここでは「啻(ただ……のみ)」と同じ意味で使われており、「とどまる(〜だけである)」と訓読します。 文末の「矣(い)」とあわせて、「〜だけであろうか(いや、もっとだ)」という反語的な強調になります。
一咫(いっし) 「咫(し)」は長さの単位で、約15〜18cm(手のひらを広げた親指から中指までの長さ)を指します。 一尺(いっしゃく) 「尺(しゃく)」は約30cmを指します。
由来について このフレーズは、『孟子』告子章句下に見られる「奚翅食重。(なんぞ食の重きに翅(とど)まらんや。=どうして食べ物のことだけが重大なのだろうか、いや、もっと大切なことがある)」などの表現と同様の構文です。
咫 | 漢字一字 - 漢字ペディア あた。 日本の上代の長さの単位。 開いた手の親指の先から中指の先までの長さ。 「八咫鏡(やたのかがみ)」 ②ちかい。 www.kanjipedia.jp 「一分」「一尺」「一寸」「一間」の長さとは? | バンビハイム|奈良 2021/10/07 — 一尺(読み方:いっしゃく) とは一寸の10倍の単位です。 メートル法で換算すると約30.3センチメートル。 bambi-heim.com 奚 | 漢字一字
①なんぞ。 なに。 疑問・反語を表す助字。 www.kanjipedia.jp 「翅(し)」はここでは「啻(ただ……のみ)」と同じ意味で使われており、「とどまる(〜だけである)」と訓読します。 文末の「矣(い)」とあわせて、「〜だけであろうか(いや、もっとだ)」という反語。 (Google AI)

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出定後語 用語解説

公開日20//年//月//日