九部・十二部・方等乗 「九分十二分方等乗」とは、仏教において釈迦の教え(経典)の分類である十二分教(十二部経)と、大乗仏教の経典を総称する方等(ほうどう)という概念を組み合わせた言葉です。
1. 九分・十二分教(くぶん/じゅうにぶんきょう)釈迦の説法を内容や形式によって分類したものです。九分教:古い時代の仏典の分類法(契経、応頌、記別、諷頌、自説、本事、本生、方広、希法)。十二分教:上記の九つに、因縁、譬喩、論議の3つを加えたもの。釈迦の説いた教えのあらゆるジャンルを網羅しています。
2. 方等(ほうどう)サンスクリット語の「バイプルヤ(Vaipulya)」の訳で、本来は「広大」や「平等」を意味します。大乗仏教においては、広大で普遍的な真理を説く大乗経典の総称として用いられるようになりました。
(Google AI)
方等は、乃ち方広 「方広」および「方等」は、ともにサンスクリット語の「ヴァイプリヤ(vaipulya)」の訳語です。主に大乗仏教において、平等の真理(普遍平等なる真如)と、広大で奥深い教え(大乗経典)を指す言葉として用いられます。方広(ほうこう):「方」には「広大」、「広」には「大いなる」という意味があり、広大で奥深い教えそのものを指します。方等(ほうどう):「方正にして平等(すべてのものが平等である)」な真理や、「方(広く)」「等(等しい)」という意味を持ちます。大乗仏教の教えは、小乗(初期仏教)に比べて非常に幅広く平等な救済を説くため、大乗の経典そのものを「方等経」や「方広経」と呼ぶようになりました(Google AI)
判字とは 仏教において「半字(はんじ)」とは、主に教えの内容が部分的で未熟なものであることを意味し、完全で全てが説かれている教えである「満字(まんじ)」に対する言葉です。また、お釈迦さまの教えの歴史や分類(教相判釈)において重要な概念として用いられます。(Google AI)
これ別に一乗あるなり 「一乗(いちじょう)」とは、大乗仏教において「すべての人がひとしく仏になることができる」と説く、唯一の真実の教えや乗り物のことです。仏を悟りの彼岸へ運ぶ乗り物にたとえられた言葉で、法華経の根本的な精神として知られています。
仏教における「二乗(にじょう)」とは、自らの解脱や悟りのみを求める「声聞(しょうもん)」と「縁覚(えんがく)」の2つの修行者のことです。大乗仏教では、利他行(他者の救済)を行わないため非難されることもありましたが、『法華経』では最終的に成仏できることが説かれています。
仏教における「三乗(さんじょう)」とは、悟りの境地に至るための3つの教えや実践方法を、人を目的地へ運ぶ「乗り物」にたとえたものです。具体的には、声聞乗(しょうもんじょう)・縁覚乗(えんがくじょう)・菩薩乗(ぼさつじょう)の3つを指します。
三乗(さんじょう)すべての衆生(生きとし生けるもの)を救うために、仏が仮に設けた3つの修行の段階・教え。声聞乗(しょうもんじょう):仏の教えを聞いて悟りを目指す出家者縁覚乗(えんがくじょう):自身の観察によって悟りを開く修行者菩薩乗(ぼさつじょう):他者の救済(利他)を実践しながら成仏を目指す者一乗(いちじょう / 一仏乗)『法華経』などで説かれる真実の教え。三乗は人々を導くための「方便(仮の手段)」であり、最終的にはすべての人が平等に仏になれる唯一の教え(=一乗)に帰着するという思想です。無乗(むじょう)の解釈仏教の言葉として「無二無三(むにむさん)」や「唯一無二」という表現があり、これは「二つ(二乗)も三つ(三乗)もなく、ただ一つの真実(一乗)しかない」という意味を持ちます。ここから「悟りへの道は複数ではなく、究極には区別のない一つの道である」というニュアンスで使われることがあります。「乗」の思想は、天台宗などの大乗仏教において特に重要視され、すべての人が差別なく救われる根拠として論じられてきました。
(Google AI)/ これは別に仏乗を説いたものである。(石田)
07 涅槃・華厳のニ喩 第七 ///
涅槃・華厳二喩 涅槃経で説かれた五味のたとえと華厳経で説かれた日光三照のたとえ。いずれも自経が最勝至高であることを説くための比喩である。(水田)
下劣の根性に取る 根性機根の相違に基づいて説いたと。(水田)
相生の次第に取る 五時教それぞれの出現順序を説いたこと。(水田)
華厳は則ち鹿苑より、治し (天台の教判では)釈尊(お釈迦様)の説法は、「華厳」が先で、その後に「鹿野苑(ろくやおん)」での説法が行われたとされています。これは中国の天台宗の開祖・智顗(ちぎ)が、お釈迦様が悟りを開いてから亡くなるまでの説法を5つの時期に分けた「天台五時教判(てんだいごじきょうはん)」という教えの分類に基づいています。第一・華厳時(けごんじ):お釈迦様が悟りを開いた直後(菩提樹の下など)、深遠な『華厳経』を自らの悟りのままに説いたとされます。第二・鹿苑時(ろくおんじ):その後に鹿野苑(サールナート)へ赴き、修行者たちに対して初めての説法(初転法輪)として『阿含経』などの教えを説いたとされています。ただし、これはあくまで大乗仏教における解釈・分類の一つです。仏教の歴史的研究においては、最初に説かれた具体的な内容としては鹿野苑での「初転法輪」が仏教の原点であると考えられています。(Google AI)//(直訳)華厳の経説は、鹿野苑の経説より重い。しかし、五味の喩では、華厳は、鹿野苑の経説より、味が粗いことになる、乳が酪より味が粗いように。(管理人)
治し 「
をさをさし【長長し】」は、主に古語で「しっかりしている」「おとなびている」「重々しい」といった意味を持つ形容詞(シク活用)です。子供や若者が落ち着いて成熟している様子や、態度が安定している様子を指す言葉です。 (Google AI)
ただ阿含の最も愚法にして、第二照となり 阿含のような小乗経がこの比喩では第二照で、法華経・涅槃経のような大乗の妙典が後回しにされ第四・五照に扱われている(水田)
これを五時に合はするも 「天台五時(てんだいごじ)」とは、中国・天台宗の開祖である天台大師智顗(ちぎ)が、釈尊(お釈迦様)が一生の間に説いた多くの経典を内容や説法した時期によって5つの段階に分類し、体系化した教相判釈(きょうそうはんしゃく)です。
釈尊の生涯の説法を以下の5つの時期に分類しています。
1.華厳時(けごんじ)成道(悟りを開いた直後)の時期に、『華厳経』を説いたとされる段階。釈尊が自らの悟りの世界をそのまま説き明かしたもので、最も難解で高度な教えとされます。
2.鹿苑時(ろくおんじ)鹿野苑(ろくやおん)において、初めての弟子たちに向けて『阿含経』などを説いた段階。教えの理解度に合わせて、小乗の教え(四諦・十二因縁など)が説かれました。
3.方等時(ほうどうじ)大乗仏教の入り口となる『維摩経』や『勝鬘経』などを説いたとされる時期。小乗の教えに執着していた弟子たちを大乗の教えへと導くために、大乗と小乗の両方を説いて比較させました。
4.般若時(はんにゃじ)『般若経』などを説いた時期。すべてのものには実体がなく、空(くう)であることを明かし、一切の執着を打ち破るための教えが説かれました。
5.法華涅槃時(ほっけねはんじ)釈尊晩年の『法華経』と臨終の説法である『涅槃経』を説いた段階です。『法華経』はそれまでの全ての教えを統合し、すべての人が平等に仏になれるという真実を明かした究極の教え(円教)とされ、天台宗では最重要視されています。これらの五時に、説法の形式や相手の違いによる「化儀の四教」、教えの内容の深浅を示す「化法の四教」を合わせたものを「五時八教」と呼び、天台教学の根幹を成しています。(Google AI)
胡越の異 大へんな違い。故は北方越は南方地方をさし、遠く相隔たる。(水田)/「胡越の異」は、古代中国の北方の異民族「胡」と南方の民族「越」の気候や習慣、言語が全く異なることに由来します。転じて、お互いに遠く離れていて関係がないことや、考え方や性質が全く相容れないことの例えとして用いられる四字熟語です(Google AI)
阿浮陀達磨 阿浮陀達磨(あぶだだつま)とは、サンスクリット語の「adbhutadharma」の音写で、仏教用語です。漢訳では「未曾有法(みぞうほう)」と訳され、経典(十二部経)の一つとして、仏陀が示した奇跡的な神通力や、偉大な功徳について説いた部分や経典を指します。仏教の経典の形式や内容を12種類に分けた「十二部経(じゅうにぶきょう)」の第7(または第9)に数えられます。具体的には、仏の誕生や出家、成道などの場面で現れた奇瑞(不思議な現象)や、常識を超えた功徳を讃える内容がこれに該当します。/ 「本地(ほんじ)」とは、仏教において人々を救うために仮の姿(垂迹)となって現れた、仏や菩薩の「本来の姿(本体)」を指します。
(Google AI)
伊帝越伽 「伊帝越伽(イティユクタカ・イティウクタカ)」とは、仏教における経典の分類法である「十二分経(じゅうにぶんきょう)」の一つです。正しくは「伊帝目多伽」や「伊帝曰多伽」とも表記されます。サンスクリット語(iti-vṛttaka)の音訳で、日本語では「本事(ほんじ)」や「如是語(にょぜご)」と訳されます。仏弟子の過去世の物語。/ 「本事(ほんじ)」は、仏教において菩薩などの前世(過去世)における修行時代の行いや、仏の過去の物語(本生)を指す言葉です。また、お経の分類である「十二分経」の一つとして、過去の因縁を説いた経典や章句を指す際にも用いられます。(Google AI)
闍陀伽 闍陀伽(じゃだか)は、サンスクリット語の「ジャータカ(Jātaka)」の音写で、漢訳では「本生(ほんしょう)」または「本生譚(ほんじょうたん)」と呼ばれます。お釈迦様が過去世で菩薩として修行していた時代のエピソードを集めた、古代インドの仏教説話集です。
和伽那 「和伽那(わかな)」と「授記(じゅき)」は、仏教における用語や特定の場所・店舗に関連するキーワードです。仏教用語としては、「和伽那」はサンスクリット語「Vyākaraṇa」の音訳であり、仏陀が弟子たちの未来の悟りや成仏を約束・予言することを意味する「授記(じゅき)」の同義語(和伽羅那)です。
尼陀那 「尼陀那(にだな)」とは、サンスクリット語のニダーナ(nidāna)の音写で、仏教において「因縁(いんねん)」「縁起」と訳される重要概念です。物事が生じる原因や、説法のきっかけ(エピソード)などを指します。(Google AI)
毘仏略 「毘仏略(びぶつりゃく)」は、サンスクリット語「Vaipulya」の音写で、仏教用語で「広大」「方広(ほうこう)」「方等(ほうどう)」と訳されます。仏陀の教えを12種類に分類した「十二部経」の一つで、広大な理義や深い内容を説いた大乗仏教の経典群を指します。(Google AI)
方広 「方広(ほうこう)」と「方等(ほうどう)」は、どちらも大乗仏教における「広大な教え」や「大乗経典」そのものを指す言葉です。サンスクリット語の「ヴァイプルヤ(vaipulya)」の漢訳で、元々は「広い」「大きい」といった意味を持ちます。仏教において、この2つは以下のような文脈で用いられます。教理としての「方広・方等」普遍平等な真理(平等の真理)や、大乗の広大な教義を意味します。この教えを説く経典は「方広経(ほうこうきょう)」や「方等経(ほうどうきょう)」と呼ばれます。経典の分類としての「方等」天台宗などの教相判釈(きょうそうはんしゃく:お経の分類)において、釈迦が『維摩経(ゆいまきょう)』や『勝鬘経(しょうまんきょう)』などを説いた時期を「方等時(ほうどうじ)」と呼びます。これは、初期の小乗の教えから大乗の教えへと移行する過程で、広大で多様な教えが展開された時期と位置づけられています。十二部経としての「方広」仏典の形式を12種類に分けた「十二部経」の一つに数えられます。ここでは、真理を広大に説き明かしたテキスト全般を指す言葉として使われます。/ 教理としての「方広・方等」普遍平等な真理(平等の真理)や、大乗の広大な教義を意味します。この教えを説く経典は「方広経(ほうこうきょう)」や「方等経(ほうどうきょう)」と呼ばれます。
(Google AI)
禁呪経 陀羅尼。梵文のまま読誦する。呪文。(水田)
三十二天 欲界十天、色界十八天、無色界四天の総称。(水田) /仏教における「三十二天」とは、須弥山(しゅみせん)の頂上にある忉利天(とうりてん)に住む32人の神々、またはその天界そのものを指します。天主である帝釈天(たいしゃくてん)が中央に座し、四方に配された四天王を統率して32の眷属(家臣)を従え、計33の神々で世界を守護するとされています。仏教の宇宙観(六欲天の第二層)では、この忉利天は「三十三天」とも呼ばれます。帝釈天はこの場所にある「喜見城(きけんじょう)」に住み、下界の争いを見守り、仏法を守護する二大護法善神の筆頭として知られています。密教の曼荼羅などでは、方角や宇宙を守る「十二天」の一つとしても描かれます。(Google AI)
芥子須弥 (けししゅみ)「須弥(しゅみ)」と「芥子(けし)」は、仏教の経典『維摩経』に登場する「芥子納須弥(けしにしゅみをいれる)」という言葉を指します。極めて小さなケシの実の中に、世界の中心である巨大な須弥山(しゅみせん)がそのまま入るという意味です。大小の概念を超越した、とらわれのない自由な境地や仏教の宇宙観を表しています。(Google AI)
因陀羅網 (いんだらもう古代インドの神であるインドラ(帝釈天)の宮殿に張り巡らされている宝の網のことです。仏教(特に『華厳経』)において、すべての存在が互いに関係し合い、影響を与え合っていることを説明する重要な比喩として用いられます。(Google AI)
山澖平 (さんかんへい)天地山沢の高低は相対的で一律に平正と見てよい、とのたとえ。(水田)
象三耳 (ぞうさんじ)故事見当たらず(吉川)
中人以下の者 凡庸愚昧の人。(水田)
一切入 「一切入(いっさいにゅう)」は、仏教の華厳宗の核心的な教えである「一切入一(いっさいにゅういつ)」や「一切入一切(いっさいにゅういっさい)」などを指す言葉です。これは「すべての存在(一切)が、他のひとつの存在(一)の中に完全に溶け込んで含まれている」という、ダイナミックな世界のつながりを表しています。主な意味と世界観華厳思想では、この世のあらゆる事象がバラバラに存在するのではなく、互いに境界なく融け合っていると考えます(相即相入)。一入一切(いちにゅういっさい):ひとつのものが、他のすべてのものの中に入り込むこと。一切入一(いっさいにゅういつ):すべてのものが、ひとつのものの中に入り込むこと。例えば、「一滴のしずくの中に、全宇宙のすべての情報や存在が宿っている」とする世界観です。全体が部分を含み、部分が全体を含むという、無限に重なり合う重々無尽の縁起を象徴しています。(Google AI)
背捨勝処 「背捨(はいしゃ)」と「勝処(しょうじょ)」は、いずれも仏教(特に小乗仏教の『倶舎論』や大乗仏教の『大智度論』『摩訶止観』など)における瞑想(禅定)の修行段階や方法を表す仏教用語です。
これらは心の中の貪欲(むさぼり・執着)を克服し、対象に囚われない自由な知見を得るための一連の観想法として、組み合わせて修められます。(Google AI)
祝 祝(いわい・のろい)「祝」という漢字は、一般的には「いわ(う)」や「シュク」と読みますが、実は訓読みで
「のろ(う)」と読むことができます。
(Google AI)
子夜の術 (しやのじゅつ)人に夢を見させる術。真夜中の術(水田)
09 地位 第九 ///
菩薩の位階 菩薩修行の位階、五十一位(十信・十住・十行・十廻向・十地・等覚・妙覚)の中、十地の初位のことであるが、ここでは五十ニ位全部をさす(京戸)
上品十善 上品十善(じょうぼんじゅうぜん)とは、仏教において「最も高い次元(上品)で、10種類の善い行い(十善)を完璧に実践すること」を意味する言葉です。
仏教の宇宙観では、この「上品十善」を修めた(成し遂げた)人は、死後に迷いの世界(六道)の中でも最上位である「天界(天上界)」に生まれ変わる、あるいは高い境地の往生を遂げることができるとされています。(Google AI)
菩提 「菩提(ぼだい)」は、サンスクリット語の「bodhi」に由来する仏教用語で、煩悩を断ち切って到達する「悟りの境地」や、そのための「智慧」を意味します。(Google AI)
薩埵 「薩埵(さった)」とは、サンスクリット語の「sattva」の音訳で、仏教用語で「生命あるもの(有情・衆生)」や「勇猛な心を持つ者」を意味します。一般的には「悟りを求める修行者」を指す「菩提薩埵(ぼだいさった=菩薩)」の略語として広く知られています。
声聞の四果 声聞(しょうもん)の四果とは、仏の教えを聞いて悟りを目指す修行者(声聞)が到達する4段階の悟りの境地(果位)のことです。
修行の過程である「四向(しこう)」と合わせて「四向四果」とも呼ばれ、段階的に煩悩を断ち切ることで涅槃へと至ります。四果の段階と意味声聞が目指す4つの悟りは、
以下の通りに分類されます。預流果(よるか / 初果)仏教の真理を初めて悟り、迷いの世界(輪廻)から抜け出す「聖者」の仲間入りをする最初の段階です。この境地に達した者は、決して迷いの世界に逆戻りしないとされます。一来果(いちらいか / 第二果)欲界(欲望の世界)における迷いをさらに減らした段階です。修行を完成させるために、天界と人間界にあと「一度ずつ生まれ変わる」ことで悟りを開くとされています。不還果(ふげんか / 第三果)欲界の煩悩を完全に断ち切った段階です。欲の世界に再び生まれ変わる(還る)ことはなくなり、この世を去った後に色界や無色界と呼ばれる高次元の天界に生まれ、そこで悟りを開きます。阿羅漢果(あらかんか / 第四果)声聞における最高の悟りです。すべての煩悩を滅ぼし尽くし、この世で迷いの輪廻から完全に解放されて涅槃に入る境地を指します。四向四果について上記の4つの「果(悟りの結果)」に至るまでの修行段階である、4つの「向(むかう)」を合わせて「四向四果(しこうしか)」と総称します。これらは全部で8つの段階となるため、「四双八輩(しそうはっぱい)」とも呼ばれます。(Google AI)
十信 十信・十解 菩薩修行の位階(五十二位)のはじめの二十位までをいう。(水田)
羅漢 羅漢(らかん)とは、仏教において最高の悟りを開き、人々から尊敬や供養を受けるに値する聖者のことです。サンスクリット語の「阿羅漢(あらかん)」を省略した言葉で、本来はお釈迦様の弟子たちの中で修行を完成させた高僧を指します。(Google AI)
菩薩の位 菩薩の位とは、悟りを開くため修行し(菩薩)、最高位である「如来」へと至るまでの52の段階です。代表的な階梯には「十信」「十住」「十行」「十回向」「十地」があり、この後に如来一歩手前の「等覚」、仏の悟りそのものである「妙覚」へ至ります。(Google AI)
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十地の菩薩(読み)じゅうじのぼさつ
精選版 日本国語大辞典 「十地の菩薩」の意味・読み・例文・類語
じゅうじ【十地】 の 菩薩(ぼさつ)
菩薩の修行階位五二位のうち、第四一位から第五〇位までの菩薩をいう。これを十聖といい、これ以前を地前といって区別する。無漏智を得て、衆生をまもりそだてることができるようになった位。(ことばんく)
賢首師 賢首師(けんじゅだいし)は、
中国華厳宗の事実上の開祖である唐代の僧・法蔵(ほうぞう、644-712)の諡号・尊称。武則天に重用され『華厳経』を深く講じた。代表的著作に『華厳五教章』『華厳経探玄記』などがあり、華厳宗の教学を大成させたため、華厳宗は「賢首宗」とも呼ばれる。 (Google AI)
十信・十解 十信(じゅうしん)と十解(じゅげ/十住)は、
大乗仏教における菩薩の修行階位(菩薩五十二位)の一部です。十信は仏法を信じて疑わない最初の10段階(信心)、十解は信じた教えを正しく理解し悟りへ向かう次の10段階(理解・確信)を指し、退転しない不退転の境地を目指す過程。(浄土宗全解テキストベース(Google AI)
通教 声聞・縁覚・菩薩に通じる教え。(水田)
異部の名字 仲基が云う「異部の名字」とは、どんなニュアンスでつかっているのか、どう訳したらいいのか。「異説を主張している」か。「異部」とは、正統派と異なるあるいは別の説、「名字」は「主張・内容」の名称か。「異説を主張する宗派」とでもするか。「異説を主張して宗派をなしている」意か。(管理人)//同じ仏教であっても、流派や時代が違えば教義(名字)も異なります。ある宗派が後世になってから作った新しい教えを、お釈迦様が直接説いた教えであるかのように古い経典と結びつけたり(異部加上)、矛盾する各派の教えを「結局は同じことを言っているのだ」と強引に解釈したりする態度は間違っている、と仲基は批判しました。/ 「異部の名字(異部の名字は必ずしも和会しがたし)」とは、江戸時代の町人学者・富永仲基の主著『出定後語』に記された有名な言葉です。「異なる宗派や学派(異部)が使う言葉(名字)は、それぞれ意味合いや背景が異なるため、無理に一つにまとめ合わせる(和会)ことはできない」という意味です。(Google AI)
遷就・牽強 (せんしゅう・けんきょう)あれこれとこじつけて(水田)
理、蘇息すべし 色々調べたが、意味が分かりません。真理は、ほっと一休みしたとき現れる、の意か。(管理人)
超果 小乗四果を超えること。(水田)/ 仏教における「超果(ちょうか)」は、一般的に「悟りの境地(果)」をさらに超えること、または仏道の修行によって得られる最高の悟りを指します。主に以下の2つの意味で用いられる言葉です。最高の悟り(極果と同義): 仏道修行の最終的な到達点である究極の悟り(大乗仏教の仏果や、小乗仏教の阿羅漢果など)を意味します。(Google AI)
10 七仏・三阿僧祇劫 ///
七仏 釈迦以前の六仏と釈迦。七仏」とは、主に釈迦牟尼仏(お釈迦様)以前に現れた6人の仏と釈迦を合わせた「過去七仏(かこしちぶつ)」を指し、毘婆尸仏・尸棄仏・毘舎浮仏・拘留孫仏・倶那含牟尼仏・迦葉仏・釈迦牟尼仏の7人を指します。これらは、仏教の普遍的な真理を象徴する存在として尊崇されています。
長阿含説。仲基はこれを非なりという。
「七仏通戒偈」: 7人の仏が共通して説いたとされる教えで、仏教の根本とされる教え(諸悪莫作・衆善奉行・自浄其意・是諸仏教)のこと。(Google AI)
三祇・百劫 「三祇・百劫(さんぎ・ひゃくこう)」とは、菩薩が発心(悟りを求める決意)してから完全な悟りを開き、仏(如来)になるまでに要する途方もなく長い修行期間のことです。具体的には、数え切れないほどの時間を表す「三阿僧祇劫(さんあそうぎこう)」と、相貌(仏の身体的な32の優れた特徴)を完成させるための「百大劫(ひゃくだいこう)」を指します。
(Google AI)
阿僧祇劫 阿僧祇劫(あそうぎこう)とは、仏教において「想像もつかないほど途方もなく長い時間」を表す言葉です。数え切れないほどの大きな数を意味する「阿僧祇」と、インドの哲学における最長の時間単位である「劫」が組み合わさってできています。言葉の分解と意味阿僧祇(あそうぎ):サンスクリット語の「アサンキヤ(Asaṃkhya)」の音写で、「数えられないほど多い」という意味です。日本の古い数詞(命数法)では、10の56乗(あるいは59乗など諸説あり)という莫大な数を指します。劫(こう):サンスクリット語の「カルパ(Kalpa)」の音写です。「一辺が約16kmある大きな岩を、3年に一度、天女が羽衣でそっと撫で、その岩が摩擦で完全に消滅するまでの時間」(五劫の擦り切れ)などと例えられる、永久に近い時間です。仏教における主な使われ方仏典では、主に「三阿僧祇劫(さんあそうぎこう)」という形でよく登場します。これは、菩薩(修行者)が初めて「悟りを開こう」と決意してから、厳しい修行を重ねて最終的に「成仏(仏になること)」するまでに必要とされる気が遠くなるような修行期間を指します。(Google AI)
拘留孫・拘那含・牟尼迦葉仏 三者とも、過去七仏(水田)
十年行苦楽を行ひ 一般に、釈迦は29才で出家し、35才で菩提樹下で覚醒したたとされており、6年の修行を経て、覚醒したことになる。(管理人)
無量劫 「無量劫(むりょうごう / むりょうこう)」は、仏教において「計り知れないほど、気が遠くなるほど長い時間」を意味する言葉です。 (Google AI)
阿耨菩提 「阿耨菩提」は、主に仏教における「阿耨観音(あのくかんのん)」、または仏の最高の悟りを表す「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」 と深く結びついた言葉です。
一般的に「阿耨」という言葉が菩薩や観音の文脈で使われる場合、以下の2つの意味を指していることがほとんどです。2. 最高の悟りを目指す心(阿耨菩提)もう一つは、言葉としての「阿耨(あのく)」の仏教的な意味合いです。サンスクリット語の「アヌッタラ(anuttarā)」の音写で、「この上ない」「最高のもの」という意味を持ちます。仏教の究極のゴールである最高の正しい悟りを「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」(略して阿耨菩提)と呼びます。この「この上ない悟り」を開くために修行を重ねている存在そのものが「菩薩(ぼさつ)」です。そのため、最高の悟りを目指して発心した修行者を指す言葉の背景としても使われます。(Google AI)
一念成仏 一瞬のうちに悟ること(水田)/ 長らくの修行を経ずして、一瞬時に直ちに悟入するの意である(吉川)
頓部氏 頓教のこと。 頓教(とんぎょう)とは、仏教において長い修行の段階(階程)を経ることなく、速やかに直ちに成仏・悟りに達することができると説く教え、または最初からいきなり深遠な究極の真理を説き明かす教えのことです。だんだんと段階を踏んで悟りへと導く漸教(ぜんきょう)の対義語として用いられます。
中国仏教における経典の分類・評価基準(教相判釈)の言葉。・・・代表的な経典『華厳経』など(一足飛びに仏の境界を説く)。『阿含経』『般若経』など(順を追って段階を昇る)。宗派・思想による「頓教」の捉え方中国や日本の諸宗派は、自らの正当性や実践の有効性を証明するために「頓教」の概念を独自に解釈しました。
天台宗(智顗の教判論)天台宗の「化儀四教(釈尊の説法形式の4分類)」において、頓教は「最初から遮るものなく最高真理(華厳経など)を突きつける方法」と位置づけられます。後に最澄らは、天台の円融の教えを「円頓教(えんどんきょう)」と呼び、誰もがただちに仏になれる究極の頓教であると主張しました。禅宗(頓悟思想)「文字を立てず、直ちに人の心に指し示して本性を見出し成仏する(不立文字・直指人心・見性成仏)」という立場から、人間の本来持つ仏性を一瞬で自覚する「頓悟(とんご)」を最重視します。修行ステップの蓄積を否定する禅のスタイルは、頓教の代表格とみなされます。浄土教・浄土宗(法然の解釈)法然は『無量寿経釈』において、自力で煩悩を断ち切って悟る聖道門の諸宗(天台・真言など)も頓教を自称するが、結局は修行が必要なため実質は漸教であると指摘しました。これに対し、煩悩を一切断じない凡夫のまま阿弥陀仏の力によって一足飛びに迷いの世界を超出できる浄土の教えこそが、「頓中の頓(頓教の中の頓教)」であると最大級の評価を与えています。
(Google AI)
底沙を讃して九劫を超ゆ 釈迦(釈迦牟尼菩薩)が過去世において「底沙仏(ていしゃぶつ)」という仏を熱心に讃嘆した功徳により、本来よりも9劫(きわめて長い時間)も早く成仏したという仏教の有名な説話に基づく言葉です。
この言葉は、「仏やその功徳を心から褒め称えること(讃嘆)には、計り知れないほど大きな功徳があり、修行のプロセスを劇的に進める力がある」という意味の格言や教訓として用いられます。
背景にある仏教説話の詳細や、日本文化における影響は以下の通りです。説話の背景(大智度論や倶舎論より)弥勒(みろく)との競い合い:過去世において、釈迦菩薩と弥勒菩薩はともに「底沙仏(弗沙仏とも呼ばれる)」のもとで修行をしていました。本来、修行の進み具合(機根)としては、弥勒菩薩の方が先に成仏するはずでした。片足を挙げての讃嘆:ある時、底沙仏が洞窟の中で「火定(かじょう:炎を放つ深い瞑想状態)」に入っているのを釈迦菩薩が見ました。その神々しい姿に深く感動した釈迦菩薩は、片足を挙げたまま(翹足:ぎょうそく)7日7夜にわたって、まばたきもせずに一つの偈(うた)を唱えて底沙仏を讃え続けました。9劫を飛び越える:このあまりにも純粋で精進に満ちた「讃嘆」の功徳によって、釈迦菩薩は本来の成仏の順序をひっくり返し、弥勒菩薩よりも9劫も早く、先に仏(釈迦牟尼仏)に成ることができたとされています。(Google AI)
鑿空してこれを出ず 細かに詮索し明記することをしない。(水田)
11 言に三物あり 第十一 ///
言に三物 富永仲基は、実に言語を手掛かりとして思想変遷の研究を行ったのであるが、その場合に言語に関しては諸原則を懐いていた。それはすなわち「三物五類」の原則である。『三物五類は立言の紀なり』という。そのうちの三物について、かれは次のように説明している。『およそ言に類あり、世あり、人あり、これを言に三物ありと謂う。一切の言語を解するに三物をもってする者は、わが教学の立てるなり。苟くも此れをもって之を求むるに、天下の道法、一切の語言、未だ嘗て錯然(さくぜん)として分れずんばあらざるなり。』(中村元選集第7巻『近代日本の批判的精神』214ページ参照)。」(京戸註)
楚夏 「楚(そ)」は中国の南方、「夏(か)」は中原(中国の中心部・華夏)を指す。言語や音韻の違い: 古い仏典や漢文の注釈などで「楚夏声異(楚と夏とで声調や言葉が異なる)」のように、地方による方言や発音の違いを表現する言葉として使われることがある。
(Google AI)
四食 仏教における「四食(しじき)」とは、私たちの命や心身を維持し育てる4つの栄養源のことです。一般的な飲食物だけでなく、感覚や意識といった精神的なエネルギーも「食」として捉えられているのが大きな特徴です。四食の詳細は以下の通りです。
• 段食(だんじき)私たちが普段口にする飲食物のこと。物質として口から摂取し、肉体を養う基本的な栄養源です。
• 触食(そくじき)感覚器官(目・耳・鼻・舌・身)が外界の環境や対象に触れること。心地よさや安心感、あるいは不快感などのふれあいが、心身を生き生きとさせるエネルギーになります。
• 思食(しじき)「こうしたい」という強い意思や願い、欲求のこと。目標に向かって行動するモチベーションそのものが、心の糧として生命を維持・成長させます。
• 識食(しきじき)対象を認識・判断する精神の働き(心・意識)のこと。過去の記憶や知恵、情報などを深く味わい、受け止めることで精神を保ちます。
(Google AI) /
一咫一尺 (いっし いっせき) 「 奚翅一咫一尺矣」の読み方は、書き下し文にすると「なんぞ一咫一尺(ひとあたいっしゃく)に翅(とど)まらんや」となります。 これは漢文における比較や反語の表現で、「どうして、たった一咫や一尺(のわずかな距離・量)だけであろうか(いや、それだけではない、はるかに大きい/多い)」という意味を表します。 構成要素の読みと意味 「一咫(ひとあた)」と「一尺(いっしゃく)」は、 古代中国や日本における身体を基準とした短い長さの単位です。一咫は開いた手の親指から中指までの約18cm(8寸)、一尺は22.5cm(10寸)を指し、両者を合わせた「咫尺(しせき)」は、非常に近い距離や親密な関係を表す言葉として使われます。)
(Google AI)
類において泛となす 内藤虎次郎著『先哲の学問』(弘文堂書房)102頁に『何か一つの、或物の名前とか考えとか、固有名詞であったものが、それが後になると変化して普通名詞になる。最初の事実は何か一つの片寄ったもの、極まったものについての名前であったのが、それが段々に意味が拡がって、それが普通の意味になり、名前になるということを「泛」というのであります。』とあり。中村元著『近代日本の批判的精神』(中村元選集・第7巻・春秋社216頁)に『泛とは「ひろし」「うかぶ」の意味の字である。この意味ははっきりわからないが、相対立する二つの観念をいまだ開展せしめない状態にあることをいうらしい。「如来の義は、如にして来るなり。もとこれ心体の名にして、善悪未だ分かれず。類において泛となす。楞伽経に云わく『一切衆生は皆如来蔵なり』と。是れなり。」とある。(京戸)
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類において磯となす 内藤虎次郎著『先哲の学問』(弘文堂書房・昭和21年102頁)に、『「磯」ということは、多分これは孟子の中に「以て磯すべからず」と言葉がありますから、それから来たとおもいます。言葉を激しく言う、強めて言う、意味を強めて言うことであります。誇張するという程ではありませんが、その為に少し言葉の意味に変化が出来ます。(京戸)/ 磯とは激しく云うことである。孟子の告子章に「是れ磯す可からざる也」とあり。多少物事を誇張すること。(吉川)
この五類 言語の転用法、張・泛・磯・反の四種と固有の用法、偏と合わせると五類になるが、仲基は転用法のみを数え間違ったかと思われる。なお、第二十五章で説かれた転を、前四類に加える数え方もある(水田)/泛、磯、反、転の五類である。(吉川)/ 五類(張・偏・泛・磯・反)(Google AI)
言に類あり、世あり、人ある 「言に類あり、世あり、人ある」とは、江戸時代の町人学者・富永仲基が主著『出定後語』の中で説いた、言葉や教えが変化する3つの基本法則(三物)です。それは「言に人あり」「言に世あり」「言に類あり」の3つを指します。三物の内容言に人あり:同じ言葉や教えでも、説く人(派や個人)によって解釈や言い方が違うこと。言に世あり:言葉の意味や使われ方が、時代(世の中)の移り変わりとともに変わること。言に類あり:言葉自体に、誇張や偏り、広い意味や狭い意味などの類別(五類)があること。(Google AI)/このなかで類が一番難しい。言葉の向いて方向、傾向と解する。(管理人)
12 八識 ///
八識 八識(はっしき)とは、仏教の「唯識(ゆいしき)学派」が説く、人間の心のはたらきを8つに分類した心の構造モデルです。私たちが自覚できる「意識」だけでなく、現代心理学でいう「無意識」の領域まで網羅しているのが特徴です。八識の構造八識は、心の深い層(1〜8)へと向かって以下のように構成されています。表層意識(前六識・ぜんごしき+意識)五感と日常的な思考を司る、自分自身で自覚できる心の領域です。1. 眼識(げんしき):目で色や形を見る視覚。2. 耳識(にしき):耳で音を聞く聴覚。3. 鼻識(びしき):鼻でにおいを嗅ぐ嗅覚。4. 舌識(ぜっしき):舌で味を識別する味覚。5. 身識(しんしき):肌で寒暖や痛みに触れる触覚。6. 意識(いしき):前五識を統合し、考えたり判断したりする日常の思考。深層意識(無意識の領域)本人が自覚できない、心の奥底にある広大な領域です。7. 末那識(まなしき):無意識のうちに「これが自分だ」と執着し続ける自我意識。8. 阿頼耶識(あらやしき):すべての経験や行為が「種子(しゅうじ)」として蓄積される心の根本源(蔵識)(Google AI)/
八識(はっしき、はちしき)といは、仏教の意識作用(識, viññāṇa)の8種をいう。4世紀のインドに興った瑜伽行唯識学派によって立てられた。
なお、天台宗では、さらに第九・阿摩羅識を立てて全九識とする。また真言宗ではさらに第十・乾栗陀耶識(紇哩陀耶識、hṛdaya-vijñāna)を立て全十識とする。(WIkipedia)
阿頼耶 阿頼耶識 (あらや あらやしき) 阿頼耶(アーラヤ)とはサンスクリット語で「蔵(くら・住居)」を意味し、それに「分ける、知る」を意味する識(ヴィジュナーナ)を合わせた阿頼耶識(あらやしき)は、すべての経験や行いの記憶(種子)を蓄える、人間の心の最も深い根本の層(第八識)を指す大乗仏教の重要な概念です。阿頼耶(アーラヤ)の意味蔵(くら):サンスクリット語の「ālaya」の音写と意訳であり、すべてをしまい込む「倉庫」や「住家」を表す。言葉の由来:ヒマラヤ(雪の蔵)と同じ「アーラヤ」という言葉が使われている。阿頼耶識(あらやしき)の仕組み第八識(はっしき):五感や通常の思考(意識)よりさらに奥深くにある、自分では直接気づけない心の土台。種子(しゅうじ)の貯蔵庫:日々の行いや経験が「タネ」となってここに蓄えられ、それが次の感情や行動を引き起こす原因になる。Wikipediaの阿頼耶識を参照のこと。(Google AI)
蘊界処 蘊界処(うんじょかい)とは、仏教においてこの世の一切の存在や現象(一切法)を分類・整理するための基本範疇である、五蘊(ごうん)、十二処(じゅうにしょ)、十八界(じゅうはちかい)の三つ(三科)をまとめた言葉です。三つの分類五蘊:心と体を作る五つの要素(色・受・想・行・識)十二処:感覚器官とその対象となる外界の領域(六根・六境)十八界:感覚器官、その対象、および生じる認識の領域(六根・六境・六識)意味と目的存在の分析:私たちが「自分」や「世界」と呼んでいるものが、実体のない一時的な要素の集まりに過ぎないことを示す教え。執着の離脱:すべてが条件によって変化するもの(無常・空)と理解し、執着を捨てるための枠組み。
(Google AI )
習気(じっけ/しゅうき)とは、行いや煩悩の繰り返しによって心に染みついた「習慣性」「心のくせ」「余韻」を意味する仏教用語です。衣服に香りが移るように、日々の行動や思いが心に良いまたは悪い影響を残す働きを指します。日本語の「躾(しつけ)」という言葉の語源になったとも言われています。(Google AI)
所熏 所熏(しょくん)とは、仏教の唯識思想において、行いや経験(能熏)によって影響や種子を「熏習(くんじゅう:香りが染み込むような影響)される側」のことです。具体的には第八識である阿頼耶識(あらやしき)を指します。所熏の四義(満たすべき4つの条件)熏習を受ける主体となるためには、以下の4つの条件が必要です。堅住性(けんじゅうせい):常に同じ状態で長く続く性質。無記性(むきせい):善でも悪でもない中立の性質。可熏性(かくんせい):影響や汚れ、汚れなき力をしっかりと受け止められる性質。能所和合性(のうしょわごうせい):影響を与える側(能熏)と一体となって作用する性質。所熏と対になる能熏(のうくん)の4つの条件あり。
(Google AI)
有宗 有宗(うしゅう)とは、人間の存在を構成するすべての要素(法)が実際に存在すると認める仏教の立場であり、説一切有部、成実宗、法相宗がこれに属します。有宗の基本情報読み方: うしゅう(有教とも呼ばれる)主な教え: すべての存在(諸法)は実体として実在するという考え方代表的な宗派・部派: 説一切有部、成実宗、法相宗など。
説一切有部(せついっさいうぶ)は、部派仏教(小乗仏教)の最大かつ最も有力な一派であり、過去・現在・未来の「三世」にわたって、すべての存在(法)の実体が常に実在するという「三世実有・法体恒有(さんぜじつう・ほったいごうう)」の思想を説いたことで知られています。歴史と特徴釈迦の滅後、紀元前300年頃に上座部から分かれて成立しました。インド西北部のカシミール地方などで非常に栄えました。「阿毘達磨(アビダルマ)」と呼ばれる詳細な仏教の教義・存在分析の研究を盛んに行いました。主な思想一切有:過去・現在・未来のすべてにおいて、物事の本質(自性)は常に実在すると主張しました。存在の分析:人間や世界を構成する最小単位である「法」を細かく分類し、宇宙の仕組みを体系的に説明しようとしました。後に世親(ースバーブ/バスバンドゥ)が書いた『倶舎論(くしゃろん)』は、この説一切有部の教えをまとめた代表的な論書です。
(Google AI)
13 四諦・十二因縁・六度 ///
四諦・十二因縁・六度 º四諦 苦・集・滅・道。仏教の実践原理を示す根本教説
º十二因縁 人間存在の輪廻の有様を十二支の因果系列でしめしたもの
º六度 六波羅蜜。大乗仏教の菩薩が実践修行すべき六種の徳目。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧(般若)(水田)
三世羯頼藍 (さんぜかつららん)十二因縁を過去・現在・未来にわたる因果関係と見る説。(水田)
一念 (いちねん) 瞬間のうちに十二因縁をそなえると説くこと。(水田)
槃涅槃 (はつねはん) 生死を越え梧境に入ること。(水田)
四度 六度より、禅那・般若の二波羅蜜を除いたものをさす。(水田)
14 戒 ///
十善 十善とは尸羅(戒律を守り善を行うこと)で、釈迦出現以前からある戒律である。(水田)/ 十悪に対するもので、十悪すなわち、身・口・意の三つがつくりだす悪(三業)を十種に整理したもの。①生き物を殺す ②盗む ③姦淫 ④嘘を言う ⑤二枚舌をつかう ⑥罵倒する ⑦駄言を弄する ⑧貪る ⑨怒る ⑩邪見にふける。これらを離れるのが十善である(京戸)
これ何ぞ特操なき 何ぞ(なんぞ):どうして、なんと。特操(とくそう):自分が正しいと信じる主義や志を、かたく守ること(節操)。なき(なき):ないこと。つまり、周囲の意見に流されたり、損得で態度を変えたりする人に対して、「信念というものがないのか!」と呆れているニュアンスですね。(Google AI)/「節操がない」仲基の好きな言い回し。・・・管理人
15 宝娶 ///
室娶 (しつしゅ)妻をもとること(水田)
善星 善星比丘(ぜんしょうびく)は、かつて釈迦(仏陀)の弟子でありながら、後に仏教の教えに背いて悪邪見を抱き、生身のまま阿鼻地獄(無間地獄)に堕ちたとされる人物です。北伝の仏教経典(大乗仏教)の一説では、釈迦が出家する前にもうけた実子(あるいは羅睺羅の異母兄)とも伝えられています。(Google AI)
揉むる 「揉(た)むる」は、漢字「揉」の古風な読み方(歴史的仮名遣い・文語形)であり、手で強くこすり合わせる、または木や竹などを曲げてまっすぐにしたり形を整えたりする(矯める:ためる)という意味を持ちます。現代語の「もむ(揉む)」や「ためる(矯める)」の古い表現です。(Google AI)矯正する。
16 肉食 ///
七衆 七衆(しちしゅ)とは、仏教の教団を構成する出家者5種と在家者2種の仏弟子の総称です。比丘・比丘尼・沙弥・沙弥尼・式叉摩那(出家)と優婆塞・優婆夷(在家)で構成され、仏典において仏教徒全体の分類として用いられます。(Google AI)
肉葷辛 (にくぐんしん) 肉類と刺激性のある野菜類。ともに精力がつき亢奮効果がある。(水田)
熟食 (じゅくじき) 煮て食べる。(水田)
生啖 (しょうだん)なまでたべること、(水田)
恚(イ) 怒り恨む。憤る。
頗なる 「頗る(すこぶる)」の漢字「頗」の音読みは「は」であり、「かたよる」「非常に、たいそう」という意味を持ちます。一般には「頗る」の形で「非常に」という意味で使われます。意味:非常に、たいそう(「頗る」)かたよる、公平ではない(「偏頗」)(Google AI)
五種の辛菜 仏教の戒律(四十八軽戒など)において、心身への刺激が強く修行を妨げるとされて食すことが禁じられた5種類の臭い・辛い野菜を指す場合もあります。一般的な内訳:韮(にら)薤(らっきょう)葱(ねぎ)蒜(にんにく)薑(しょうが・はじかみ) (※諸説あり、アサツキやノビルが入る場合もあります)(Google AI五種の辛菜)
17有宗 ///
有宗 物心の本体の実在を主張する派で、ここは四諦・十二因縁を説く小乗教をさす。仏滅後百余年で分派がはじまり、四百年で二十一部を数えるに至ったが、仏後五百年後に一切皆空を説く大乗教が起こった、と仲基は論述する。(水田)
般闍于闍大会 (はんじょうしつだんえ)五年会と訳す。五年ごとに設ける大齋会である。阿育王が第二結集を命じたので有名。(吉川)/ :「般闍于闍大会」は、正しくは仏教用語で「般闍于瑟(はんじゃうしつ)大会」(または般闍于瑟、無遮会)と呼ばれ、古代インドにおいて王などが5年に一度開いた大規模な無差別施与の大会式(大斎会)のことです。『大智度論』などでは、仏滅後にアショカ王が催したこの大会の最中、諸国の大法師たちの論議に食い違いが生じたことが、のちの仏教教団における部派分裂(部派仏教の形成)のきっかけの一つになったと伝えられています。(Google AI)
大天乖諍 「大天乖諍(だいてんかいそう)」は、仏教用語で、釈迦の死後(入滅後)に僧団(教団)が分裂・争乱した出来事を指す言葉です。大乗仏教の伝承において、特に教団分裂のきっかけを作った僧「大天(だいてん/マハーデーヴァ)」に起因する争いや、彼が唱えた「五事(ごじ)」に対する教団内の乖離(分裂)と諍(争い)を意味します。大天(だいてん): マハーデーヴァという名の僧。彼が唱えた5つの命題(大天五事)がきっかけで教団が保守派(上座部)と進歩派(大衆部)に分裂した。乖諍(けじょう): 意見が背き(乖)、争う(諍)こと。この出来事は、部派仏教の成立に関わる非常に大きな事件として記録されています。
(Google AI)
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18空有 ///
迦文の時、いまだこれあらざるなり 釈迦在世中は空有両説の対立はなかった。それは現実とかけ離れているからである。対立があったと主張するものは、後世の仮託である。空有:現象を一切空とする説と、現象の本体は実在すると主張する説。(水田)
車匿(しゃのく) 車匿(しゃのく、Chandaka)は、釈迦(シッダルタ太子)が出家する際に、白馬カンタカを牽引して従った馬丁(従僕)です。のちに出家して弟子となり、最終的に阿羅漢果(さとり)を得ました。当初は高慢でしたが、釈迦の死に際に下された懲戒処分で更生したエピソードが有名です。主な特徴・エピソード出家の同行者: 太子がカピラ城を出て出家する(四門出遊)際、馬を引いてアノーマ河のほとりまで付き従いました。別れ: 出家の場所で太子から宝冠や装身具を預かり、城へ引き返すよう命じられた際、別れを悲しみ涙したとされます。性格とその後: 出家後は傲慢な態度で他の僧から「悪口車匿」と呼ばれましたが、のちに阿難(アーナンダ)から教えを受け、深く反省して修行に励みました。チャンナ: 梵語(サンスクリット語)のChandakaの音訳で、チャンナとも呼ばれます。仏教伝記において、釈迦の人間らしい一面(出家時の葛藤)を支える重要な人物として描かれています。(Google AI)
性あひ近し、習あひ遠し 「性相近し、習い相遠し(せいあいちかし、ならいあいとおし)」は、『論語』陽貨篇に由来する言葉で、「人間は生まれつきの性質(素質)は似たりよったりだが、後天的な環境や習慣、教育によって大きな差が生まれる」という意味です。(Google AI)
諸悪莫作、衆善奉行、みづからその意を浄む、これ諸仏の教へ 諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教。この四言四句は七仏通誡偈という。増一阿含経巻一・四四、涅槃経巻一四等(水田)/ 七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)は、過去七仏(釈迦牟尼仏とその前の6人の仏)が共通して説いたとされる、仏教の根本的な教えをまとめた4句の詩(偈)です。「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」(悪いことをせず、善い行いを行い、自らの心を清めること。これが諸仏の教えである)この偈は『[法句経』(ダンマパダ)に由来し、仏教の真髄を簡潔に表現したものとして、宗派を超えて尊ばれています。(Goole AI)
法性 法性(ほっしょう)とは、仏教において万物(存在や現象)の根本にある「真のありのままの姿」や「不変の真理」を指す言葉です。すべての物事は法性(真如・実相)に拠っているとされ、動かしようのない真理を意味します。主なポイント本質: 万物が持つ不変の本性であり、仏の悟りの本質。意味: 「法」は物事・真理、「性」は本性を表す。別称: 「法性真如(ほっしょうしんにょ)」とも呼ばれ、全ての法(もの)に平等に備わる真実の性質。(Google AI)
慈氏 「慈氏(じし)」は、仏教において弥勒菩薩(みろくぼさつ)の異称・訳語です。梵語の「マイトレーヤ(Maitreya)」の訳で、慈悲深い者、慈しみを基本とする者を意味し、将来的に釈迦如来の次に現れる「当来仏」として信仰されています。
六竜の舞のみ 『易経』乾卦に『・・・時乗六竜以御天』とある。ここでは仮空の議論を自由勝手に立てることを嘲る意である。(京戸)
/ 空理空論を弄ぶたとえ。(水田)
中観派・唯識派 中観派(ちゅうがんは)と唯識派(ゆいしきは)は、大乗仏教の二大論理学派です。中観派は「全て(心も対象も)に実体がない(空)」と説き、唯識派は「対象は存在せず、すべては心の認識(識)である」と説きます。
前者は徹底した無自性を、後者は識の存在を肯定する点が主な違いです。主な違いのまとめ中心思想(空の解釈)中観派: すべての法(存在)は空である。実体(自性)は根本的に存在しない。唯識派: 認識する心(識)だけが存在し、認識される対象は心によって作り出されたもの(唯識)である。究極的には心も空である。
「識」の扱い中観派: 認識主体(心)も無自性である。唯識派: 第八識「阿頼耶識(あらやしき)」という「変転する心の根源」を実在と認める側面がある。(Google AI)
大道は泛焉たり 「大道は泛(はん)焉(えん)たり」という表現は、主に老子思想における。「大道(だいどう)」の捉えどころがなく、広大無辺で自由な様子を表す言葉です。出典は『老子』第34章。読みは「だいどうははんえんたり」。1. 意味大道: 老子の言う「道(タオ)」。宇宙の根源的な真理、自然のありのままの姿。泛(はん): 広々として水に浮かぶように、定まった形や場所がない様子。漂っている様子。焉(えん): ~である(状態を表す語気辞)。全体として、「宇宙の真理(大道)は、広大無辺で漂うようにどこにでも存在し、特定の形や場所に縛られることがない」という意味になります。(Google AI)/ 大道は変わらず常に存在している。(管理人試訳)
無明の指のごとし くすり指が他の指とくらべて相対的に長いとも短いとも言えるように、現象の実在についても同様である。無明は無名の誤り。(水田)
出定の義、実はここに出づ 本書を『出定後語』と題したゆえんは、釈迦が禅定を出てのち、弟子たちの仏説解釈いずれも仏意そのままではないと斥けつつも、その所説を評価し、無下に否定しなかったとの経説にちなみ、「大乗諸説は本来の仏説ではなく、仏説にことよせ、後世その上に次第に加えかさねられて発達した思想である」という主題の表明である。(水田)
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18南三北七 ///
南三北七 中国南北朝時代の仏教を智顗(ちぎ 天台大師)が南地三師、北地七師の十種の教判に分類した。法華玄義巻10の所説だが、仲基は法蔵(賢首大師)の説に拠っている。(水田)/ 南三北七(なんさんほくしち)は、中国の南北朝時代(5〜6世紀)に栄えた、様々な経典の解釈(教相判釈:きょうそうはんじゃく)を体系化しようとした10人の高僧の学説のことです。揚子江(長江)の南の3つの学派と北の7つの学派を指し、のちに天台大師智顗がこれらを批判・発展させて「五時八教」を確立しました。(Google AI)
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19南三北七 ///
また異部の名字 出定後語(しゅつじょうこうご)』における「異部名字(いぶみょうじ)」とは、異なる宗派や後世の集団(異部)がそれぞれ勝手な名称(名字)を名乗って教えを伝えることを指します。富永仲基は「異部の名字は必ずしも和会(わかい)しがたし」と主張し、複数の異なる説を無理に一つにまとめようとしてはいけないと説きました。(Google AI)
有塞 矛盾、不条理。(水田)
初後は一字も説かず 「初後」 初めと終わり。初めから終わりまで。終始。/ 「初後は一字も説かず(しょごはいちじもとかず)」と「出定後語(しゅつじょうごご)」は、いずれも仏教、特に禅宗(ぜんしゅう)において極めて重要視される言葉です。お釈迦様が悟りを開いてから(初)亡くなるまで(後)の45年間、「私は本当の真理を一文字も言葉にしていない」という意味です。本質: 悟りの境地や宇宙の真理は、言葉や文字(言語)で100%表現できるものではありません。意図: 言葉そのものに執着(文字の奴隷に)なってはならず、言葉の奥にある「真意」を自分で体得せよという戒めです。出定後語禅定(ぜんじょう:深い瞑想状態)から目覚めた(出定)のちに、言葉にできないはずの境地を、あえて人々に伝えるために発する言葉のことです。本質: 真理は不言実行のものですが、人々を救うためには言葉を使わざるを得ません。意図: 便宜上使われる「仮の言葉」であり、究極の真実そのものではないと理解した上で聞くべき言葉を指します。二つの関係性この二つは対になっており、禅の本質である「不立文字(ふりゅうもんじ:文字に頼らない)」と「大悲(だいひ:人々を救う慈悲)」の矛盾と調和を表しています。真理は言葉にできない(初後は一字も説かず)。しかし、人々を導くためにあえて言葉を用いる(出定後語)(Google AI)
華厳別教 華厳教学で華厳経のみが超絶絶対的な、究極の別教一乗門であり、真実の円経(一乗教、五教
の最高)であると説く。(水田) /華厳宗の第三祖・法蔵(ほうぞう)などが提唱した「五教十宗(ごきょうじっしゅう)」という教えの分類に基づきます。別教一乗(べっきょういちじょう)の強調華厳宗では、お釈迦様が悟りを開いた直後にその悟りの世界をそのまま説いたとされる(google AI)
余をもって試みにこれを論ずるに 自分(仲基)の考えでは、諸仏教を釈迦一人がその生涯に説いたという前提で教判を立てる必要はない。同じ所説から聴き方の相違で異説が生じることは、小さなことなら起こりもしよう。が仏説の順序という重大問題に、多数の弟子が聴聞していて異説が発生するとは奇怪である。また、聴衆の程度に応じて釈迦が方便として教説に差をつけたということはあるが、はじめから三乗教を説いたなどという考えは、ともに聴衆を教化する上に矛盾を生じ妥当を欠く。もともと釈迦一代の教説に前後の相違があるはずはなく、実は後世教義の発達による別人の異説にすぎない。(水田)
幺麼の事物 とるに足らぬちいさなこと。(水田)
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20禅家祖承 ///
禅家祖承 釈迦の教えを正統に伝承したものの意で、後世の禅宗ではない。(吉川)
要するに、また異部に伝ふる所の説にして 宝林伝(法林伝)の順序は経典に見えず、智矩(慧炬)の偽作といわれる。他説を借用して無理に系統立てたり、達磨も心から認めぬなま悟りの愚かな人物を据えたりしている。これも異部の所説で信用できない。(水田)
一黙雷轟く 維摩の一黙が百雷にも値するように、菅原為長の緘黙(かんもく)には意義がある、と仲基は評した。(水田)
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21 曼荼羅氏 第二十一 ///
曼荼羅氏の業はまったく観相禁呪にあり・・・ 密教は止観と呪法が特色で、よく印度の習俗を留めている。中国でははやく失われ、不思議にもわが国に伝わっている。(京戸)
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22 外道 第二十二 ///
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大梵天はよく万物を生ずるもとなり 大梵天(だいぼんてん)とは、古代インドの最高神ブラフマーが仏教に取り入れられた守護神(天部)です。宇宙の創造神から仏法の護法善神へと姿を変え、慈悲と智慧を象徴する存在として帝釈天と対になって祀られることが多くあります。(Google AI)///
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23 仏出の朝代 ///
仏出朝代 釈迦が誕生した年代。(京戸)
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24 三教 ///
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25 雑 ///
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三教 儒(孔子の教え)・仏(釈迦の教え)・道(老子の教え)の三教。
こころみにこれを蔽するに・・・ 仮に断定すると、儒教は修辞的傾向にに過ぎ、仏教は神秘的傾向に過ぎ、道教はいわば外道の類で、他の二教に遠く及ばない。(水田)
冥数の自然 自然の運命。道理。(水田)/「冥数の自然(めいすうのしぜん)」は、人智では推し量れない運命や天の意志を指す「冥数」 と、自然(理わり)が組み合わさった言葉です。1. 「冥数」の意味「冥(めい)」は暗い、死後の世界、人知の及ばない領域を意味します。「冥数」とは、人間の力ではどうすることもできない「宿命」や「寿命」のことです。古くは中国の歴史書『後漢書』などにみられ、「天の冥数(天が定めた寿命や運命)」という使われ方をします。2. 「自然」の意味現代の「ネイチャー(自然)」とは異なり、この文脈における「自然」は「おのずからそうなること」「道理」「摂理」を意味します。人為的な力が働かない、宇宙や運命のありのままの姿のことです。(Google AI)
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