物理の窓

一般相対性理論の誕生

1 時空の幾何学
2 いざ、プリンシベ島へ 
3 誰が「場の方程式」を発見したか? この頁
4 まとめ

3 誰が「場の方程式」を発見したか?

一般相対性理論の核心となる方程式を最初に発見したのは、じつはアインシュタインではなかったと、つい最近まで 信じられていた。ゲッティンゲン大学のダーフィト・ヒルベルトがアインシュタインよりも早く同じ結論に到達していた というのである。アインシュタインが一般相対性理論の最終論文を書きあげてプロイセン科学アカデミーで発表したのは 1915年11月25日のことで、翌週の12月3日(2日?)には印刷公刊された。いっぽうヒルベルトの最終論文が公刊されたのは1916年 3月31日のことだったが、論文がゲッティンゲン科学協会に提出されたのは前年の11月20日、つまりアインシュタインの 論文の5日前だった。両者はともに重力場の方程式をみちびいているが、その先取権は、もちろん5日はやく論文を提出 したヒルベルトにあると、科学史の専門家たちは考えてきた。そればかりではない。二人は研究成果についてたがいに 情報交換をしており、アインシュタインはヒルベルトに、論文を事前に送ってほしいと依頼していた。つまり アインシュタインは公刊前のヒルベルト論文を見るチャンスがあり、それにもとづいて自身の最終論文を完成させた のではないか、と勘ぐるむきもあったのだ。20世紀を代表する数学者と物理学者をめぐる盗作疑惑である。
1997年、イスラエル、ドイツ、アメリカの研究者チームが包括的な調査を行い、この疑惑に最終的な裁定を下した。 「遅ればせの決着―ヒルベルト=アインシュタインの先取権論争」と題された論文(レオ・コリー他「サイエンス」11月14日号) は、1915年11月に繰り広げられた二人の天才の丁々発止のやりとりを伝えてまことに興味深い。
ヒルベルトが一般相対性理論を研究するようになったのは1915年の夏、アインシュタインがゲッティンゲンを訪れ 講演をしたころからである。7月から10月にかけて、ヒルベルトはグスタフ・ミーの特殊相対論的電磁理論と、 アインシュタインのリーマン幾何学にもとづく重力理論へのアプローチとを融合させる道を模索し、いっぽうアインシュタインは ここ2年ほどの研究の見直しを進めていた。事態が動くのは11月に入ってからだ。
11月4日、アインシュタインはプロイセン科学アカデミーで「一般相対性理論について」と題する論文を読みあげ、 そのなかで3年前に捨てた「一般共変性」を重力理論の出発点とすべきことを確認し、7日にはその校正刷をヒルベルトに送った。 11日には、この論文の「補遺」をアカデミーで発表したが、まだ最終的な理論の完成にはいたっていない。13日、ヒルベルト はアインシュタインに葉書を送り、ゲッティンゲンに来ないかと誘う。16日にヒルベルトは「貴兄の最大課題の原理的な 解決」について講演を行い、アインシュタインが先にみちびいた結論とは異なる結果を発表する予定だというのである。 アインシュタインは多忙と体調不良を理由に誘いを断り、ヒルベルト論文の写しを送ってほしいと依頼した。
さっそく送られてきたヒルベルトの論文は、アインシュタインの期待にそうものではなかった。かれは18日付で書簡を 送り、ヒルベルトが独自のものだと主張するシステムは、じつはここ数週間に自分が発見しアカデミーに提出したものと 同じ内容のものであると指摘し、こうつけ加えた。< 困難なのは gμυ に対して一般共変な方程式をみつけることではありません。リーマン・テンソルをつかえばそれは可能なのです。ほんとうに 困難だったのは、これらの方程式が一般性をもっているかどうか、つまりニュートンの法則の、シンプルかつ自然な一般化に なっているかどうかを見極めることでした・・・。しかしその困難はいまや克服されたのです> 
これは実質上のアインシュタインの勝利宣言だった。先にのべたように、新たな仮説を導入して数学的な導出を試みたところ、 有望な方程式がえられたのだ。すばらしいことに、この方程式で水星の近日点移動がみごとにみちびけたし、太陽の重力による 光線の曲がりの予測値も訂正できた。ライヴァル宛ての手紙はこう締めくくられている。
< 今日、アカデミーで論文を発表します。そのなかで私は、一般相対性から、一切の仮説ぬきに、ルヴェリエが発見した 水星の近日点移動を数学的にみちびきました。これまで、どんな重力理論も成しえなかった成果です。 >
これに対してヒルベルトは、19日付で葉書を送ってきた。型どおりの祝いの文句をのべているが、内心おだやかではなかった ろう。ヒルベルトはアインシュタインの数学的能力を決して高くは評価していなかった。アインシュタインがこれまで一般相対性 理論でなんどか過ちをくりかえしてきたことからすれば、水星の計算で成功をおさめたというのもあやしいものだ。 アインシュタインのいう最終的な方程式がどんなものかまだわからないけれど、ともかく自分がえた新たな結論を発表するのが 先決だろう・・・。ヒルベルトの気持ちを推測すれば、そんなところになろうか。翌20日、ヒルベルトは自らの論文を 「ゲッティンゲン科学学会報」に提出した。
いっぽうアインシュタインは「重量場の方程式」と題した論文を完成させ、25日にアカデミーで読みあげた。2週間前に 導入した仮説は、いまや不要であることがわかり、場の方程式をわずかに修正すればいいことが判明した。< ここにおいて、 ついに一般相対性理論の理論構造が完成しました > とアインシュタインはのべたが、聴衆の何人がその内容を理解していたろうか。
翌26日、アインシュタインは友人ハインリヒ・ツァンガーにあてた書簡のなかで、ある人物が自分の業績を盗もうとしている 気がする、と訴えた。名前こそ記していないが、ヒルベルトをさしていることは明らかだ。一般相対性理論のことでは、人びとの 疑わしいふるまいを学んだといい、< けれどもそのことで僕は心配していない > とかれは書いている。ようやく一般相対性 理論を完成させた余裕というべきだろう。
『アインシュタイン全集 第8巻』に掲載されたヒルベルトとの交信はこの後しばらくとだえているが、12月20日になって アインシュタインは手紙を書く。12月のはじめ、ゲッティンゲン王立協会はアインシュタインを通信会員に選出した。その通知 に対する礼を簡単にのべたのち、この機会にあなたに是非ともお伝えしておきたいことがあります、とアインシュタインはきりだす。 < 確かにわれわれのあいだには怒りがありました。そのわけを私はこれ以上分析したいとは思いません。私はあのとき抱いた 苦い感情と戦いを克服しました。私は依然、少しも優しい心を減らさないでおります。あなたもそうなさるようにお願いします >
二人のライヴァルの和解は、どうやらこれで成立したらしいのだが、問題はそこで終わらない。1916年3月末にヒルベルトの 最終論文が刊行された。そこにはアインシュタインがみちびいたのと本質的には同じ「重力場の方程式」がふくまれており、しかも その論文提出日は1915年11月20日となっていた。科学の世界の常識でいえば、方程式の先取権はヒルベルトにある。それにしても、 ヒルベルトはいつの間に、正しい方程式にたどりついたのだろう。
1997年の調査では、新たにヒルベルトの論文の校正刷が発見され、これが「遅ればせの決着」の鍵となった。この初稿ゲラ のなかでヒルベルトは、自分の理論が「一般共変」でないことを認めていた。一般共変の方程式10個に加えて、因果律を保証する ために一般共変でない四つの方程式を付加せざるをえなかったのだ。これでは正しい結論をみちびくことはできない。校正刷には 印刷所のスタンプが押してあり、日付は12月6日となっていた。アインシュタインの論文が公刊されたのは12月2日だから、 ヒルベルトはライヴァルの論文を見てゲラを訂正できたことがわかる。じっさいにゲラの 《gμυ》 ポテンシャルのところには注が加えられ、< アインシュタインによって最初に導入された > とのペン字が書きこまれている のだ。ヒルベルトが先に到達したのでもないし、これまで多くの学者が信じていたように二人がそれぞれ独立に正しい方程式を みちびいたのでもなかった。コリーらの論文はこう締めくくられている。< もしヒルベルトが「1915年11月20日提出」という 日付を訂正さえしていれば、(アインシュタインの最終論文が発表された12月2日以降ならいつでもよかったのだ)、 先取権をめぐる論争がのちのち起こることはなかったろう >

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更新2009年1月5日