一般相対性理論の誕生
2 いざ、プリンシベ島へ
一般相対性理論の論文が公表されても、すぐにそれが他国の科学者たちの目にふれたわけではなかった。第1次世界大戦が
その成果の伝達を妨げたのだ。アインシュタインは、中立国スイスを経由して、イギリスに論文を送ろうと試みたがうまくいかな
かった。しかしオランダの天文学者ウィレム・ド・ジッター(1872〜1934)がケンブリッジ天文台の台長アーサー・エディントン
(1882〜1944)に送った郵便は、ドーヴァー海峡をわたって無事にロンドンに到着した。天文学者であると同時にすぐれた理論家
でもあったエディントンは、一般相対性理論の革新的でエレガントな内容を正しく読みとり、熱烈な相対論支持者となった。
エディントンからアインシュタインの業績について情報をえたイギリスの物理学者や天文学者は、日食での観測が一般相対性理論
の予測を検証できることも正しく理解した。
当時の王立天文台長サー・ダイソン(1868〜1939)は、1919年5月29日に皆既日食があり、アフリカ、ブラジル、オーストラリア
を横切る赤道近傍の一帯で観測が可能になることに目をつけた。都合のいいことに、この日食はおうし座の中心でおこり、その背後
にはヒアデス散開星団をふくむ多くの恒星がある。それらの星の光は、太陽の近傍をかすめて地球に達することが予測される―
このまたとない機会を見のがしてはならない、ダイソンは、この夢の計画の重要性について政府に説いてまわり、精力的に資金の
調達にあたった。
1918年11月11日、第1次世界大戦が終わり、ダイソンとエディントンは、翌年5月の日食に向けて計画の細部にわたる検討に
没頭できるようになった。この計画がはらんでいる最大の危険性は、もし天候に恵まれなければすべての努力がむだになってしまう
ことで、これを回避するには、できるかぎり多くの場所で観測することが望ましい。観測地が多いほど、どこかで良い天候に恵まれる
可能性が高くなるからだ。しかし赤道近くまで数千キロを遠征するには莫大な費用と人手を必要とする。このようなディレンマ
のなかでダイソンとエディントンは、同時に2箇所へ遠征隊を送るとの結論に到達した。アフリカ西海岸のプリンシペ島(北緯2度、
東経7度)と、もう1ヶ所は大西洋の対岸、ブラジル東岸のソブラル(南緯4度、西経40度)が選ばれた。エディントンは、アフリカ
遠征隊の隊長をつとめることになり、ブラジルでの観測には、グリニッジ天文台の研究者によってチームが編成された。
日食の81日前の1919年3月8日、イギリス軍艦アンセルム号は、二つのチームを乗せてリヴァプールを出帆した。途中、
モロッコの西方に位置するポルトガル領マデイラ島でエディントン・チームは下船し、ポルトガルの貨物船でプリンシペ島へ向かった。
アンセルム号はグリニッジ・チームを乗せたままブラジルへ進む。エディントン隊を乗せた船は日食の約1ヶ月前の4月23日
プリンシペ島に着いた。この島は当時、ポルトガルの植民地だった。熱帯雨林で覆われた緑の島とそれを囲む澄みきった海岸。
そこは文明から遠く隔離されたこの世の楽園であった。研究者たちは、153平方キロメートルの小さな島を車でくまなく走り回り、
島の北西に観測に適した場所を探しあてた。生涯一度の決定的な日に向けて周到な準備が進められ、当日の作業を予想して
慎重なリハーサルがくりかえされた。
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計算によれば、日食はグリニッジ標準時で5月29日午後2時13分から約5分間おこる。当日の朝、10時から11時30分にかけて
かなり強い雨となったが、2時ごろには雲間から太陽が見え隠れするようになった。隊員たちは全員、不安と期待に胸が高鳴る
のをおさえることができないまま天空の一点を凝視した。運命の一瞬がおとずれる。見えた!あたり一面が暗闇につつまれ、
隠された太陽のまわりの暗黒のなかに、はっきりとおうし座の星ぼしが確認されたのだ。口径13インチ(約32cm)と4インチ
(約10cm)の2台の望遠鏡にセットしたカメラは、特別の注意を払って正確に調整されている。エディントンと同僚たちは、
死にものぐるいで撮影した。薄暗いなかで動きまわるスタッフの姿を、エディントンは《ロウソクの代わりに太陽をつかった
影絵箱》にたとえている。
遠方の恒星からの光は、太陽の重力場で曲げられて
地球に到達する。日食時には太陽の光が月に遮断されるので、写真を撮ると恒星は「みかけの位置」にあるように写る。
太陽の重力場が影響しないときに撮影された写真と比較することで、光の曲進が確認できる。1919年5月、イギリスの2チーム
による観測で、太陽近傍を通る恒星の光の曲進が実証され、しかもその曲がりぐあいは、一般相対性理論の予測値にきわめて
近いものだった。
一般相対性理論によれば、光の進路が曲げられるのは
太陽の重力に引っぱられるかれではない。物質が存在すると、その重力によって平坦な時空が曲げられる。この曲がった
時空にそって光が“直進”するため、曲がって観測されるのだ。上図に示したように太陽の周辺では、おもりをおいた
ゴム膜のように空間がたわんでおり、恒星からの光はこの曲がりにそって進む。みかけの位置が実際とずれるのはそのためだ。
《私たちはその影絵箱にすっかり気を取られてしまった。上空には息を呑むような光景がひろがっている。のちに写真を
見てわかったことだが、すばらしい紅炎(プロミネンス)が太陽の10万マイル上空でゆらめいていたというのに、それを眺める
時間すらなかった。私たちが意識していたことはといえば、周囲の自然の奇妙な薄暗さと静けさ、その静寂をときおり破る
観測隊員の声、そして皆既日食のつづく302秒間をきざむメトロノームの音だけだった》
望遠鏡の近くに、撮影した写真をすぐ現像できるように、急ごしらえの実験室が建てられていた。日食時にとった恒星群
の写真を、夜間(このとき太陽は地球の反対側にあるので星の光は重力場に影響されない)にとった写真と比較する必要がある。
夜間の写真は出発前にオックスフォードで撮ってある。あとは、いま写した日食の写真を現像し、つきあわせればよい。慎重な
エディントンは、万全の準備と整えたうえで、一部のフィルムを現像してみた。曇り空のため何も写っていない乾板も多かったが、
うち一枚にぼんやりと5個の星が写っていた。その位置をオックスフォードの写真とくらべると、いずれも太陽の中心から遠ざかる
ようにずれている。太陽から離れるにしたがって、重力の影響は減少しずれは小さくなるはずだが、その傾向もはっきり読みとれた。
帰国後、すべての写真の解析が行われ、位置の平均のずれは1.61秒、その標準偏差(測定値のばらつきの程度を示す量)は
0.3秒と確定された。この値は、統計誤差の範囲で、一般相対性理論の予測値1.75秒と一致している。
ソブラルのチームも、プリンシペ・チームに劣らない質のよい写真をとっていた。このチームがロンドンに帰るのには3ヵ月
ちかくかかったが、帰国後すぐに写真が解析された。結果は1.98秒で偏差は0.12秒となり、これもまた一般相対性理論の
予測値とよく一致していることがわかった。いまやアインシュタインの予測は、二つのチームの日食観測によって、統計誤差
の範囲内で完全に実証されたのだ。
ところで、この相対性理論の検証という大事業に、アインシュタインはどのようにかかわっていたのだろうか。結論をいえば、
この実験は、アインシュタインには何の知らせもなく計画され、実行され、さらには観測結果すら直接には伝達されなかった。
ようやく9月になって、アインシュタインはオランダの友人経由で、エディントンらの日食観測が一般相対性理論の正しさを実証
したことを知った。第1次世界大戦による長期の敵対関係があったとはいえ、イギリスの科学者たちがここまでアインシュタインを
無視したのはなぜだろう。日食観測が検証しようとしているのは、アインシュタインの理論そのものだというのに。あるいは、
ニュートンが確立した古典力学が2世紀余にわたり物理学をリードしてきた、というプライドのなせるわざだったのか・・・。
1919年11月、日食観測の成果の報告と一般相対性理論の議論を目的として、王立天文学協会と王立協会の合同会議が開かれた。
王立協会会長をつとめる物理学者サー・トムソン(1856年〜1940年)は、開会の辞において、アインシュタインの理論は《人類の
思考の歴史における最大の業績の一つである》と賞賛し、つぎのようにのべた。《これは、新しい科学思想の離れ小島の発見
ではなく、全大陸の発見である。これはニュートンがその原理を発見していらいの、重力に関する最も大きな発見である》。
発見の主役エディントンは、観測の結果がニュートンの法則からみちびきだされる値ではなく、アインシュタインの一般相対性理論
から予測される値を支持していることを明確にのべた。
会議はイギリスのマスコミの注目を集め、11月7日の「タイムズ」紙は「科学の革命」とのタイトルを揚げて大々的な報道を
行い、ニュートン理論をくつがえす宇宙の新理論が誕生したこと、その理論によれば空間がゆがんでいることを伝えた。同紙は
翌8日にも「アインシュタイン対ニュートン」と題して著名な物理学者たちの見解を掲載し、相対性理論の革新性を人びとに印象
づけた。その後、「ニューヨークタイムズ」をはじめ世界のメディアが同様の大報道をくりひろげ、アインシュタインは
わずか数日にして世界で最も名を知られた科学者となった。
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