第三章 賭の必要性について
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無限。無。
——
われわれの魂は、身体のうちに投げ込まれ、そこで数、時、空間三次元を見いだす。魂はその上で
推理し、それを自然、必然と呼び、他のものを信じることが出来ない。
——
一を無限に足しても、すこしも無限を増加させない。一ピエ
(1)を無限の長さに足しても同様である。
有限は無限の前では消えうせ、純粋な無となる。われわれの精神も神の前では同様で、われわれの正義も
神の前では同様である。
われわれの正義と神の正義とのあいだの不釣合いは、一と無限とのあいだの不釣合いほどには、
はなはだしくない。
神の正義は、そのあわれみと同じように、並はずれて大きくなければならない。ところが、神に
見捨てられたものに対する正義は、神に選ばれたものに対するあわれみのように並はずれて大きくはない。
またそれほど人々のつまずきにはならないはずである。
——
われわれは無限が存在することを知っているが、その性質を知らない。たとえば、われわれは数が
有限であるというのは誤りであることを知っている。したがって数には無限がある。しかしわれわれは、
その無限が何であるかを知らない。それが偶数であるのは誤りで、奇数であるのも誤りである。なぜなら、
それに一を足しても、その性質に変わりはないからである。しかもそれは数であり、いかなる数も偶数か
奇数である。もっともこれはすべて有限な数について了解されていることなのであるが。
このようにして、人は、神が何であるかを知らないでも、神があるということは知ることができる。
——
実体的真理というものは、いったい存在しないのだろうか。真理そのものではないが、真ではあるものが、
こんなにたくさん見えるのに
(2)。
——
さて、われわれは有限なるものの存在と性質を知っている。なぜなら、われわれもそれと同じに有限で
広がりを持っているからである。
われわれは無限の存在を知っているが、その性質は知らない。なぜなら、それはわれわれと同じに
広がりを持っているが、われわれのように限界を持たないからである。
しかしわれわれは、神の存在も性質も知らない。なぜなら、神には広がりも限界もないからである。
——
しかし信仰によって、われわれは神の存在を知り、天国の至福においてその性質を知るであろう。
ところで、私がすでに示したように、人はあるものの性質を知らないでも、その存在を知ることができる
のである。
——
今は、自然の光にしたがって話そう。
もし神があるとすれば、神は無限に不可能である。なぜなら、神には部分も限界もないので、われわれと
何の関係も持たないからである。したがって、われわれは、神が何であるかも、神が存在するかどうかも
知ることができない。そうだとすれば、だれがいったいこの問題の解決をあえて企てようとするであろうか。
それは神と何の関係も持たないわれわれではない。
それならば、キリスト者が自分たちの信仰を理由づけることができないからといって、だれにそれを
責めることができよう。彼らは、自分たちでは理由づけることができないという宗教を公然と信じている。
彼らは、それを世に説くにあたって、それを愚かなもの、<愚かしさ
(3)>と宣言しているのである。
それなのに、君は、彼らがそれを証明しないからといって、不平を言うのか。もしも彼らがそれを証明した
とするならば、彼らは言葉を守らなかったことになるだろう。証明を欠いていればこそ、彼らは分別を
欠かないのである。— よろしい。しかし、このことは、宗教をそういうものとして提供する人たちを
許してやり、それを理由なしに提出するという非難から彼らを免れさせてやるかもしれないが、それを
受ける人たちを許すことにはならない。— それではこの点を検討して、「神はあるか、またはないか」
と言うことにしよう。だがわれわれはどちら側に傾いたらいいのだろう。理性はここでは何も決定できない。
そこには、われわれを隔てる無限の混沌がある。この無限の距離の果てで賭が行なわれ、表が出るか裏が出る
のだ。君はどちらに賭けるのだ。理性によっては、君はどちら側にもできない。理性によっては、二つのうちの
どちらを退けることもできない。
したがって、一つの選択をした人たちをまちがっているといって責めてはいけない。なぜなら君は
、そのことについて何も知らないからなのだ。— いや、その選択を責めはしないが、選択をしたということを
責めるだろう。なぜなら、表を選ぶ者も、誤りの程度は同じとしても、両者とも誤っていることに変わりはない。
正しいのは賭けないことなのだ。
— そうか。だが賭けなければならないのだ。それは任意的なものではない。君はもう船に乗り込んで
しまっているのだ。では君はどちらを取るかね。さあ考えてみよう。選ばなければならないのだから、どちらのほうが
君にとって利益が少ないかを考えてみよう。君には、失うかも知れないものが二つある。真と幸福である。
また賭けるものは二つ、君の理性と君の意志、すなわち君の知識と君の至福とである。そして君の本性が
避けようとするするものは二つ、誤りと悲惨とである。君の理性は、どうしても選ばなければならない以上、
どちらのほうを選んでも傷つけられはしない。これで一つの点がかたづいた。ところで君の至福は。神がある
というほうを表にとって、損得を計ってみよう。次の二つの場合を見積もってみよう。もし君が勝てば、
君は全部もうける。もし君が負けても、何も損しない。それだから、ためらわずに、神があると賭けたまえ。
— これは、すばらしい。そうだ、賭けなければいけない。だが僕は多く賭けすぎていはすまいか。
— そこを考えてみよう。勝つにも負けるにも、同じだけの運があるのだから、もし君が一つの生命の
代わりに二つの生命をもうけるだけだとしても、それでもなお賭けてもさしつかえない。ところがもし、
三つの生命がもうけられるのだったら、賭けなければいけない(なぜなら、君はどうしても賭けなければならない
のだから)。そして、賭けることを余儀なくされている場合に、損得の運が同等であるという勝負で、三つの
生命をもうけるために君の生命を賭けなかったとしたら、君は分別がないことになろう。ところが、ここには、
永遠の生命と幸福があるのだ。それならば、仮に無数の運のうちでただ一つだけが君のものだとしても、君が
二つの生命を得るために一つの生命を賭けてもまだ理由があることになろう
(4)。そして、賭けることを余儀なくされている
場合に、無数の運のうちで一つが君のものだという勝負で、もしも無限に幸福な無限の生命がもうけられる
のであるならば、君が三にたいして一つの生命を賭けることを拒むのは、無分別と言うことのなろう
(5)。ところが、
ここでは、無限に幸福な無限の生命がもうけられるのであり、勝つ運が一つであるのに対して負ける運は有限
の数であり、君の賭けるものも有限なものである。これでは、確率計算など全部いらなくなる。どこでも無限の
あるところ、そして勝つ運一つに対して負ける運が無限でない場合には、ぐずぐずしないで、すべてを
出すべきだ。したがって、賭けることを余儀なくされている場合には、無に等しいものを失うのと同じような
可能性でもって起こりうる無限の利益のために、あえて生命を賭けないで、出し惜しみをするなど、
理性を捨てないかぎり、とてもできないことである。
なぜなら、もうけられるかどうかは不確実なのに、賭けの危険を冒すことは確実であると言ったところで、
また、人が危険に身をさらす確実さと、もうけるものの不確実さとのあいだにある無限の距離が、確実に危険に
さらすところの有限な幸福と不確実な無限と同等なものにすると言ったところで、なんにもならない。それは
そういうことにはならないのである。賭をする者は、だれでも、不確実なもうけのために、確かなものを
賭けるのである。と言っても、有限なものを不確実にもうけるために、有限なものを確実に賭けることは、
理性にもとってはいないのである。人が危険に身をさらすことのこの確実さと、もうけの不確実さとのあいだに、
無限の距離があるわけではないのである。それは誤りである。ほんとうの話は、もうける確実さというものと、
損する確実さというものとのあいだにこそ無限があるのである。ところで、もうけることの不確実さは、
もうける運と損する運とのあいだの比率に応じて、賭けるものの確実さと釣り合うのである。したがって、
双方の運が等しければ、賭けは対等に行われるのである。その場合、賭けるものの確実さは、もうけるものの
不確実さと等しいことになる。両者のあいだに無限の距離があるなどとは、とんでもないことである。それだから、
勝ち負けの運が同等で、無限をもうけるために有限をかけるというわれわれの主張は、無限の力を持ってくる
のである。
これには証明力がある。もし人間がなんらかの真理をつかむことができるとするならば、これがまさに
それである。
— 僕はそれを認め、それに同意する。だが、それにしても、勝負の内幕を見通す方面がないものだろうか。
— あるとも。聖書とかその他のものがある。— それはそうだ。だが、僕の手は縛られ、口は
ふさがれている。賭をしろと強制され、自由の身ではない。僕は放してもらえない。しかも、僕は信じられない
ようにできている。君はいったい僕にどうしろというのだ。
— まったくだ。だが、理性が君を信じるほうへつれてきているのに、君にそれができないのだから、
君には信じる力がないのだということを、せめて悟らなくてはいけない。したがって、神の証拠を増やすことに
よってではなく、君の情欲を減らすことによって、自分を納得させるように努めたまえ。君は信仰に達したい
と思いながら、その道を知らない。君は不信仰から癒されたいとのぞんで、その薬を求めている。以前には、
君と同じように縛られていたのが、今では持ち物すべてを賭けている人たちから学びたまえ。彼らは、君が
たどりたいと思っている道を知っており、君が癒されたいと思う病から癒されたのである。彼らが、まず
やり始めた仕方にならうといい。それは、すでに信じているかのようにすべてを行うことなのだ。聖水を受け、
ミサを唱えてもらうなどのことをするのだ。そうすれば、君はおのずから信じるようにされるし、愚かに
されるだろう。— だが僕のおそれているのは、まさにそれなのだ。— それはまたどうしてか。君に
何か損するものがあるというのか。だが、これが信仰への道であることを君に納得させるのに役立つことは、君の
大きな障害になっている情欲をこれが減らしてくれるということである。
この議論の終わり。
ところでこの方に賭けることによって、君にどういう悪いことが起こるというのだろう。君は忠実で、
正直で、謙虚で、感謝を知り、親切で、友情にあつく、まじめで、誠実な人間になるだろう。事実、
君は有害な快楽や、栄誉や、逸楽とは縁がなくなるだろう。しかし、君はほかのものを得ることになるのでは
なかろうか。
私は言っておくが、君はこの世にいるあいだに得をするだろう。そして君がこの道で一歩踏みだ
さすごとに、もうけの確実さと賭けたものが無に等しいこととをあまりにもよく悟るあまり、ついには、
君は確実であって無限なものに賭けたのであって、そのために君は何も手放しはしなかったのだということを
知るだろう。
— ああ、この議論は僕を夢中にさせ、有頂天にさせる、等々。— もしこの議論が君の気に入り、
君に有力なものと見えるとしたら、次のことを知ってもらいたい。すなわち、これを記した人間は、自分の
全存在をささげているあの無限で不可分の存在に向かって、君自身の幸福と彼の栄光のために、君の存在を
彼に従わせるようにと祈る目的で、これの前と後とにひざまずいたということである。そして、この謙虚さに、
力が結び合わされるようにと祈ったのである。
(2)この二行は「一を無限の上に足しても・・・」から、この直前のところまでの部分の、
左側の欄外に縦に記されている。
(4)前に出てきた、一対一の運で、一つの生命の代わりに二つの生命をもうける場合には、
確率計算の結果は、両者同等であるため、「それでもなお賭けてもさしつかえない」としたのである。この場合も、
それに準じて、運のほうが無限対一なのに対し、もうける生命の長さが、一対無限の比率になり、確率計算の
結果がまた同等になるため、「まだ理由があることにはなろう」としたのである。
(5)これも、前に出てきた「三つの生命をもうけるために君の生命を賭けなかったとしたら」
というところと並行させているのである。ただし、無限を前にして、三つの生命ということは、無限を三倍しても
無限なので、理解しがたいため、さまざまの説明が試みられている。量的に無限な生命の場合を一対二とした
ところなので、今度は量的にも質的にも無限な、いわば無限の二乗の場合を一対三として表したので、あろう
という解釈が多く行われている。
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