源氏物語 32 梅枝 うめがえ

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原文 現代文
32.1 六条院の薫物合せの準備
裳着もぎのこと、思しいそぐ御心おきて、世の常ならず。春宮も同じ二月に、御かうぶりのことあるべければ、やがて御参りもうち続くべきにや。
正月の晦日なれば、公私のどやかなるころほひに、薫物合はせたまふ。大弐の奉れる香ども御覧ずるに、「なほ、いにしへのには劣りてやあらむ」と思して、二条院の御倉開けさせたまひて、唐の物ども取り渡させたまひて、御覧じ比ぶるに、
「錦、綾なども、なほ古きものこそなつかしうこまやかにはありけれ」
とて、近き御しつらひの、物の覆ひ、敷物、茵などの端どもに、故院の御世の初めつ方、高麗人のたてまつれりける綾、緋金錦どもなど、今の世のものに似ず、なほさまざま御覧じあてつつせさせたまひて、このたびの綾、羅などは、人びとに賜はす。
香どもは、昔今の、取り並べさせたまひて、御方々に配りたてまつらせたまふ。
「二種づつ合はせさせたまへ」
と、聞こえさせたまへり。贈り物、上達部の禄など、世になきさまに、内にも外にも、ことしげくいとなみたまふに添へて、方々に選りととのへて、鉄臼の音耳かしかましきころなり。
大臣は、寝殿に離れおはしまして承和の御いましめの二つの方を、いかでか御耳には伝へたまひけむ、心にしめて合はせたまふ。
上は、東の中の放出はなちいでに、御しつらひことに深うしなさせたまひて八条の式部卿の御方を伝へて、かたみに挑み合はせたまふほど、いみじう秘したまへば、
「匂ひの深さ浅さも、勝ち負けの定めあるべし」
と大臣のたまふ。人の御親げなき御あらそひ心なり。
いづ方にも、御前にさぶらふ人あまたならず。御調度どもも、そこらのきよらを尽くしたまへるなかにも、香壺の御筥どものやう、壺の姿、火取りの心ばへも、 目馴れぬさまに、今めかしう、やう変へさせたまへるに、所々の心を尽くしたまへらむ匂ひどもの、すぐれたらむどもを、 かぎあはせて入れむと思すなりけり。
明石の姫君の裳着の儀式を準備なさる心配りは、尋常ではなく、春宮も同じ二月に加冠の儀式の予定なので、その後姫君の入内も続いてあるだろう。
正月の月末で、公の行事も少なく、私事も暇でのんびりした頃合に、薫物較べをすることになった。大宰府の大弐の献上した舶来の香と比べると、「まだ昔の香に劣っている」ので、二条院の倉を開けて唐の舶来ものを取り出して、見比べるに、
「錦や綾なども、昔のものの方が、親しみがあって、細やかだ」
と言って、身近な道具類、覆いや敷物、しとねの端、故桐壺院の初期のころ、高麗人が献上した綾、羅、緋金錦どもなど、などは、今の世のなかの物に似ず、さまざまに見比べて、最近の大宰府の大弐からの綾、羅などの献上物などは、女房たちに賜った。
いろいろな香などは古今のものを並べて選別して、それぞれ女房たちに賜った。
「二種ずつ合わせなさい」
と仰せになった。参列者への贈り物、上達部への禄など、またとなく見事に、内にも外にも、忙しく支度して、婦人たちもそれぞれ選りすぐって、鉄臼の音がかしましかった。
源氏は離れの寝殿に居て、承和の二つの戒めをどうやって聞き出したのだろう、それによって熱心に調合するのだった。
紫の上は、東の対の仕切りを開け放って、屏風や几帳を幾重にも立てて八条の式部卿の秘法によって、互いに競いあって、たいそう内密に調合するのだった。
「香りの深さ浅さも勝ち負けの基準になるぞ」
と源氏は仰せになる。人の親にもなる人のやることではない。
二人とも、御前に女房たちを少なめに侍べらしている。調度類も多くの善美を尽くした中でも、香壷の箱の作り様式や、壷の姿、火取りの意匠にも、見たこともないような今風で、珍しい様変わりのものを用い、それぞれに心を尽くした香りの優れたものを、嗅ぎ比べて入れようとのいろいろな算段をしていた。
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32.2 二月十日、薫物合せ
二月の十日、雨すこし降りて、御前近き紅梅盛りに、色も香も似るものなきほどに、兵部卿宮渡りたまへり。御いそぎの今日明日になりにけることども、訪らひきこえたまふ。昔より取り分きたる御仲なれば、隔てなく、そのことかのこと、と聞こえあはせたまひて、花をめでつつおはするほどに、前斎院よりとて、散りすきたる梅の枝につけたる御文持て参れり。宮、聞こしめすこともあれば、
「いかなる御消息のすすみ参れるにか」
とて、をかしと思したれば、ほほ笑みて、
「いと馴れ馴れしきこと聞こえつけたりしを、まめやかに急ぎものしたまへるなめり」
とて、御文は引き隠したまひつ。
沈の筥に、瑠璃のつき二つ据ゑて、大きにまろがしつつ入れたまへり。心葉kこころば、紺瑠璃には五葉の枝、白きには梅を選りて、同じくひき結びたる糸のさまも、なよびやかになまめかしうぞしたまへる。
「艶あるもののさまかな」
とて、御目止めたまへるに、
花の香は散りにし枝にとまらねど
うつらむ袖に浅くしまめや

ほのかなるを御覧じつけて、宮はことことしう誦じたまふ。
宰相中将、御使尋ねとどめさせたまひて、いたう酔はしたまふ。紅梅襲の唐の細長添へたる女の装束かづけたまふ。御返りもその色の紙にて、御前の花を折らせてつけさせたまふ。
宮、
「うちのこと思ひやらるる御文かな。何ごとの隠ろへあるにか、深く隠したまふ」
と恨みて、いとゆかしと思したり。
「何ごとかはべらむ。隈々しく思したるこそ、苦しけれ」
とて、御硯のついでに、
花の枝にいとど心をしむるかな
人のとがめむ香をばつつめど

とやありつらむ。
「まめやかには、好き好きしきやうなれど、またもなかめる人の上にて、これこそはことわりのいとなみなめれと、思ひたまへなしてなむ。いと醜ければ、疎き人はかたはらいたさに、中宮まかでさせたてまつりてと思ひたまふる。親しきほどに馴れきこえかよへど、恥づかしきところの深うおはする宮なれば、何ごとも世の常にて見せたてまつらむ、かたじけなくてなむ」
など、聞こえたまふ。
あえものも、げに、かならず思し寄るべきことなりけり
と、ことわり申したまふ。
二月の十日になり、雨が少し降って、御前の手前の庭の紅梅が美しい盛りとなり、色も香も見事に咲き誇っている時節となった頃、兵部卿の宮がやって来た。昔からごく仲がよかったので、二人は親しくあれこれとご相談され、紅梅をめでていたところへ、朝顔の君からと言って、花が散って盛りを過ぎ梅の枝につけた文が届いた。宮は以前から二人の間柄を聞いていたので、
「あちらからどんな消息が来たのだ」
とて、興味をしめしたところ、源氏はにっこりして、
「薫物合わせなど無遠慮なお願いしたところ、几帳面に早くもお作りになったのでしょう」
と言って、文は隠してしまった。
沈香の木で作った箱に、瑠璃の杯二つつけて、大きく丸めて入れてあった。箱の装飾には、紺瑠璃の杯には五葉の松、白い瑠璃の杯には、白梅の心葉を選び同じように結んでいる糸の結び方も女らしい。
「風情がありますね」
と、兵部卿の目に留まった。
(朝顔の君)「私のように散ってしまった枝に花の香は残りませんが
たきしめる姫君の袖には深く残ることでしょう」
淡墨で書いてあるのを目にして、宮は大げさに朗詠なさる。
夕霧は、使いを探し引き止めて、丁重に酒をふるまった。紅梅襲の唐織りの細長を添えて、女の装束一式をお与えになった。返事もその色の紙に庭先の紅梅を手折ってつけた。
宮は、
「中味が気になりますね。どんな内緒事があるのでしょう。ずいぶん隠しますね」
と、ぜひ知りたいと思っていると、
「何もないですよ。細かく探られるのは心外です」
と筆のついでに、
(源氏)「花の枝に心が惹かれます
人に咎められる恐れはありますが」
とあった。
「本当のところ、物好きに過ぎると思われるでしょうが、二人といない大切な姫君、こうするのが当然と思いまして。姫は醜いので、疎遠な人は、都合が悪いでしょうから、秋好む中宮にお越し頂いて、腰結いをお願いしようと思いまして。親しく馴れた人ですが、こちらが気後れするほどの宮なので、何事にしても普通に頼むのは、恐れ多いのです」
などと源氏は仰せになる。
「中宮にあやかる、なるほど、お考えおくべきことでしょう」
と宮は相槌を打つのだった。
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32.3 御方々の薫物
このついでに、御方々の合はせたまふども、おのおの御使して、
「この夕暮れのしめりにこころみむ」
と聞こえたまへれば、さまざまをかしうしなして奉りたまへり。
「これ分かせたまへ。「誰れにか見せむ
と聞こえたまひて、御火取りども召して、こころみさせたまふ。
「知る人にもあらずや」
と卑下したまへど、言ひ知らぬ匂ひどもの、進み遅れたる香一種などが、いささかの咎を分きて、あながちに劣りまさりのけぢめをおきたまふ。かのわが御二種のは、今ぞ取う出させたまふ。
右近の陣の御溝水かわみずのほとことをりになずらへて、西の渡殿の下より出づる汀近う埋ませたまへるを、惟光の宰相の子の兵衛尉、堀りて参れり。宰相中将、取りて伝へ参らせたまふ。宮、
「いと苦しき判者にも当たりてはべるかな。いと煙たしや」
と、悩みたまふ。同じうこそは、いづくにも散りつつ広ごるべかめるを、人びとの心々に合はせたまへる、深さ浅さを、かぎあはせたまへるに、いと興あること多かり。
さらにいづれともなき中に、斎院の御黒方くろぼう、さいへども、心にくくしづやかなる匂ひ、ことなり。侍従は、大臣の御は、すぐれてなまめかしうなつかしき香なりと定めたまふ。
対の上の御は、三種ある中に、梅花、はなやかに今めかしう、すこしはやき心しつらひを添へて、めづらしき薫り加はれり。
「このころの風にたぐへむには、さらにこれにまさる匂ひあらじ」
とめでたまふ。
夏の御方には、人びとの、かう心々に挑みたまふなる中に、数々にも立ち出でずやと、煙をさへ思ひ消えたまへる御心にて、ただ荷葉を一種合はせたまへり。さま変はりしめやかなる香して、あはれになつかし。
冬の御方にも、時々によれる匂ひの定まれるに消たれむもあいなしと思して、薫衣香くわえこうの方のすぐれたるは、前の朱雀院のをうつさせたまひて、公忠朝臣きむただあそんの、ことに選び仕うまつれりし百歩の方など思ひ得て、世に似ずなまめかしさを取り集めたる、心おきてすぐれたりと、いづれをも無徳ならず定めたまふを、
「心ぎたなき判者なめり」
と聞こえたまふ。
この機会に、婦人方の合わせた薫物を、それぞれに使いを出して、
「この夕暮れの湿りのある時に香りを較べよう」
と源氏が仰せられると、さまざまに趣向を凝らして、持参した。
「判定をしてください。知る人に判定してもらいましょう」
と源氏が仰せになって、火を取り寄せて、薫物較べがはじまった。
「わたしは知る人には値しませんが」
と宮は卑下したが、数々の口に尽くせぬ香りの中で、材料が強すぎたり足りなかったりちょっとした違いをかぎ分けて、優劣を決めるのは至難の技だった。あの例の源氏の二種は今取り出させた。
右近の陣の溝水のほとりに埋めたのにならって、西の渡りの下の遣り水の近くに埋めたのを、惟光宰相の子の兵衛の尉が、掘って持ってきた。夕霧が源氏にお渡しする。
「大変難しい判者に任じられた。困った」
と宮は、 悩んでいる。調合法は、同じようにどこにでも広がっていくはずのものだが、人々がそれぞれに工夫して薫物の良し悪しをかぎ比べるのは、興味あることだ。
どれとも決めかねる中で、斎院の薫物の黒方、やはり、心憎く静かな匂いは、格別だった、侍従の香は、源氏の薫物が、 優れてなまめかしく親しみのある香りと判じた。
紫の上の薫物は、三種の中で、梅花、華やかで今風で、心持匂いに鋭い工夫があって、珍しい香りが加わっている。
「この時期の風に香らせるには、これ以上のものはないでしょう」
と宮はめでた。
花散里は、御婦人方がそれぞれに競う中にあって、目立ってはいけないと、煙も出さないような心遣いをして、ただ荷葉一種のみ合わせていた。趣が変わって、しめやかな香がして、あわれに親しみがわいた。
明石の御方は、季節季節で香りも決まっているので、負けてもつまらないと思い、薫衣香くわえこうの優れているのは、前の帝の朱雀院の手法にならい、公忠朝臣が特に選んだ百歩の方などを思いついて またとないなまめかしいのを取り集めたのを、特に優れたものとして、どの薫香をも花を持たせる判定をなさるので、
「ずるい判者ですね」
と仰せになるのだった。
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32.4 薫物合せ後の饗宴
月さし出でぬれば、大御酒など参りて、昔の御物語などしたまふ。霞める月の影心にくきを、雨の名残の風すこし吹きて、花の香なつかしきに、御殿のあたり言ひ知らず匂ひ満ちて、人の御心地いと艶あり。
蔵人所の方にも、明日の御遊びのうちならしに、御琴どもの装束などして、殿上人などあまた参りて、をかしき笛の音ども聞こゆ。
内の大殿の頭中将、弁少将なども、御見参けざんばかりにてまかづるを、とどめさせたまひて、御琴ども召す。
宮の御前に琵琶、大臣に箏の御琴参りて、頭中将、和琴賜はりて、はなやかに掻きたてたるほど、いとおもしろく聞こゆ。宰相中将、横笛吹きたまふ。折にあひたる調子、雲居とほるばかり吹きたてたり。弁少将、拍子取りて、「梅が枝」出だしたるほど、いとをかし。童にて、韻塞いんふたぎぎの折、「高砂」謡ひし君なり。宮も大臣もさしいらへしたまひて、ことことしからぬものから、をかしき夜の御遊びなり。
御土器参るに、宮、
鴬の声にやいとどあくがれむ
心しめつる花のあたりに

千代も経ぬべし」
と聞こえたまへば、
色も香もうつるばかりにこの春は
花咲く宿をかれずもあらなむ

頭中将に賜へば、取りて、宰相中将にさす。
鴬のねぐらの枝もなびくまで
なほ吹きとほせ夜半の笛竹

宰相中将、
心ありて風の避くめる花の木に
とりあへぬまで吹きや寄るべき

情けなく」
と、皆うち笑ひたまふ。弁少将、
霞だに月と花とを隔てずは
ねぐらの鳥もほころびなまし

まことに、明け方になりてぞ、宮帰りたまふ。御贈り物に、みづからの御料の御直衣の御よそひ一領、手触れたまはぬ薫物二壺添へて、御車にたてまつらせたまふ。宮、
花の香をえならぬ袖にうつしもて
ことあやまりと妹やとがめむ

とあれば、
「いと屈したりや」
と笑ひたまふ。御車かくるほどに、追ひて、
めづらしと故里人も待ちぞ見む
花の錦を着て帰る君

またなきことと思さるらむ」
とあれば、いといたうからがりたまふ。次々の君達にも、ことことしからぬさまに、細長、小袿こうちきなどかづけたまふ。
月が出てきて、酒などがふるまわれ、昔話などを二人でなさる。おぼろにさす月影はゆかしく、雨の名残の風少し吹いて、花の香が漂い、御殿の辺りに薫物の香もたちこめて、人々の気持ちも華やかだ。
蔵人所では、明日の管弦の遊びの準備をしていて、琴などの準備をして、殿上人が沢山来ていて、ゆかしい笛の音も聞こえる。
柏木や弟の弁の中将は挨拶だけでさがるつもりだったが、留まって、琴などを取り寄せた。
宮の前に琵琶、源氏の前にに箏の琴が用意され、柏木が和琴を渡されて、華やかにかきたてると、興がのってきた。夕霧が横笛を吹き、季節に合った調子を、天にも届けと吹くのだった。弁の少将が拍子をとって、「梅が枝」を謡いだして、興がのってきた。童のときに、韻塞ぎのとき、「高砂」を謡った君である。宮も源氏も、声を合わせて謡いだし、儀式ばらず、趣のある夜の遊びであった。
盃を差し上げる時に、宮が歌を作る、
(宮)「鶯の美しい声に惹かれます
花の御殿にいると
いつまでもここにいたいです」
と申し上げると、
(源氏) 「花の色も香も身に染みるほどに、この春は、
花咲くわが宿を訪ねてほしい」
柏木に盃を賜えば、それを取って、夕霧に渡す。
(柏木)「鴬のねぐらの枝もなびくほどに
その横笛を夜通し吹いてください」
夕霧は、
(夕霧) 「風さえ気をつかって花を散らさぬように避けているのに、
むやみに笛を吹き寄っていいものでしょうか
情がありませんね」
と歌うと皆が笑った。弁の少将が、
(弁の少将)「せめて霞が月と花を隔てなかったら
ねぐらの鳥も鳴きだすでしょう」
実際に夜が明けてから、宮はお帰りになった。贈り物に、源氏は自分の直衣一そろい、手に触れていない薫物二壷を添えて、車まで持っていってさし上げた。宮は、
(宮)「花の香を頂いた衣装の袖に移して帰ったら
女と過ちをおかしたと妻が咎めることでしょう」
と返したので、
「弱気ですね」
と笑った。車が来ると、追いかけて、
(源氏) 「珍しいと待っている奥方も見ることでしょう
錦の衣装を着て帰る君を
めったにないこと思うでしょう」
とからかうと、ひどくつらがっていた。次々の君達にも、大げさにならぬ程度に、細長、小袿などを賜るのだった。
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32.5 明石の姫君の裳着
かくて、西の御殿おとどいぬの時りたまふ。宮のおはします西の放出はなちいでをしつらひて、御髪上ぐしあげの内侍なども、やがてこなたに参れり。上も、このついでに、中宮に御対面あり。御方々の女房、押しあはせたる、数しらず見えたり。
の時に御裳たてまつる。大殿油ほのかなれど、御けはひいとめでたしと、宮は見たてまつれたまふ。大臣、
「思し捨つまじきを頼みにて、なめげなる姿を、進み御覧ぜられはべるなり。後の世のためしにやと、心狭く忍び思ひたまふる」
など聞こえたまふ。中宮は、
いかなるべきこととも思うたまへ分きはべらざりつるを、かうことことしうとりなさせたまふになむ、なかなか心おかれぬべく
と、のたまひ消つほどの御けはひ、いと若く愛敬づきたるに、大臣も、思すさまにをかしき御けはひどもの、さし集ひたまへるをあはひめでたく思さる。母君の、かかる折だにえ見たてまつらぬを、いみじと思へりしも心苦しうて、参う上らせやせましと思せど、人のもの言ひをつつみて、過ぐしたまひつ。
かかる所の儀式は、よろしきにだに、いとこと多くうるさきを、片端ばかり、例のしどけなくまねばむもなかなかにやとて、こまかに書かず。
こうして、明石の姫君は、中宮の住まう西の御殿に戌のころに渡った。開け放って、準備をして、御髪上の内侍なども、こちらへ参上した。紫の上もこの機会に中宮と対面した。それぞれのお付の女房たちが大勢数知れず集まっていた。
の時に裳を着せる儀式を取り行った。灯火の光はほのかで、姫君の様子は、めでたいと中宮は見ていた。大臣は、
「中宮は決してお見捨てにならないだろうと思って、失礼な姿をお見せして、狭い料簡で、後の世の先例にもなると秘かに思っています」
などと仰せになる。中宮は、
「どういうことともわきまえずにやっているのに、こうことごとしく意味付けされると、かえって気が引けます」
と、なんでもないことのように言う様子が、若く愛嬌があり、源氏も、思い思いにそれぞれ美しい婦人たちが集うのを、一門のめでたいことと思うのだった。姫君の母がこういう晴れの舞台に参列してないのを心苦しく思い、呼ぼうかとも思うときもあったが、人のうわさを懸念して、そのままになさった。
こういうお邸の儀式は、普通でも、煩雑で、一端だけを書いても、例のまとまりなくなってしまうので、細かいことは書きません。
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32.6 明石の姫君の入内準備
春宮の御元服は、二十余日のほどになむありける。いと大人しくおはしませば、 人のむすめども競ひ参らすべきことを、心ざし思すなれどこの殿の思しきざすさまの、いとことなればなかなかにてや交じらはむと左の大臣なども、思しとどまるなるを聞こしめして、
「いとたいだいしきことなり。宮仕への筋は、あまたあるなかに、すこしのけぢめを挑まむこそ本意ならめ。そこらの警策の姫君たち、引き籠められなば、世に映えあらじ」
とのたまひて、御参り延びぬ。次々にもとしづめたまひけるを、かかるよし所々に聞きたまひて、左大臣殿の三の君参りたまひぬ。 麗景殿れいけいでんと聞こゆ。
この御方は、昔の御宿直所、淑景舎を改めしつらひて、御参り延びぬるを、宮にも心もとながらせたまへば、四月にと定めさせたまふ。御調度どもも、もとあるよりもととのへて、御みづからも、ものの下形、絵様などをも御覧じ入れつつ、すぐれたる道々の上手どもを召し集めて、こまかに磨きととのへさせたまふ。
草子の筥に入るべき草子どもの、やがて本にもしたまふべきを選らせたまふ。いにしへの上なき際の御手どもの、世に名を残したまへるたぐひのも、いと多くさぶらふ。
春宮の元服は二月二十余日に取り行われた。大人びた人なので、娘を競って入内させようと思っていた親たちは、源氏が並々ならず肩入れしているので、なまじ入内させない方がよかった、ということになりかねず、左大臣なども、思い止まったということを聞いて、
「まことに由々しいことだ。宮仕えのいいところは、多くの優れた姫君たちが、少しの優劣を競ってこそ本意あるのだ。優れた娘たちが、引きこもったら、面白みがないだろう」
と源氏は仰せになり、姫の入内を延期された。明石の姫君の後からと差し控えていたが、このような話を聞いて、左大臣の三の宮が入内した。麗景殿れいけいでんを賜った。
明石の姫君は、昔の源氏の宿泊所であった、淑景舎しげいさを改装して、用意され、入内が延びたのを、春宮も待ち遠しく思われたので、四月と定められた。調度類 も元からあったものをさらに磨きをかけて整え、源氏自ら道具の雛形や図案などに目を通され、それぞれの道の上手を集めて、念入りに手間をかけて作らせた。
草子の箱に入るべき草子もそのまま本にしたものも選んだ。昔の優れた名筆家の手のものや、後世に名を残された人たちの筆跡も多く手元にあったのも交じっていた。
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32.7 源氏の仮名論議
「よろづのこと、昔には劣りざまに、浅くなりゆく世の末なれど、仮名のみなむ、今の世はいと際なくなりたる。古き跡は、定まれるやうにはあれど、広き心ゆたかならず、一筋に通ひてなむありける。
妙にをかしきことは、外よりてこそ書き出づる人びとありけれど、女手を心に入れて習ひし盛りに、こともなき手本多く集へたりしなかに、中宮の母御息所の、心にも入れず走り書いたまへりし一行ばかり、わざとならぬを得て、際ことにおぼえしはや。
さて、あるまじき御名も立てきこえしぞかし。悔しきことに思ひしみたまへりしかど、さしもあらざりけり。宮にかく後見仕うまつることを、心深うおはせしかば、亡き御影にも見直したまふらむ。
宮の御手は、こまかにをかしげなれど、かどや後れたらむ」
と、うちささめきて聞こえたまふ。
「故入道宮の御手は、いとけしき深うなまめきたる筋はありしかど、弱きところありて、にほひぞすくなかりし。
院の尚侍こそ、今の世の上手におはすれど、あまりそぼれて癖ぞ添ひためる。さはありとも、かの君と、前斎院と、ここにとこそは、書きたまはめ」
と、聴しきこえたまへば、
の 「この数には、まばゆくや」
と聞こえたまへば、
「いたうな過ぐしたまひそ。にこやかなる方のなつかしさは、ことなるものを。真名のすすみたるほどに、仮名はしどけなき文字こそ混じるめれ」
とて、まだ書かぬ草子ども作り加へて、表紙、紐などいみじうせさせたまふ。
「兵部卿宮、左衛門督などにものせむ。みづから一具は書くべし。けしきばみいますがりとも、え書き並べじや」
と、われぼめをしたまふ。
「すべてのことに、今のものは昔に劣り、末世になり悪くなるが、仮名だけは今の世のものが優れている。昔の筆跡は決まった書き方があったようで、自由な変化がなく、どれも似通っている。
見事な筆跡は最近になって書ける人が出てきました。わたしが女手を習っていた頃は、難点のない手本を沢山集めた中に 、中宮の母の御息所が何気なく走り書きした一行が、絶妙な書き方で、実に無造作な筆跡で、ひどく感心したものです。
それがために、とんでもない浮名が立ちましたが、母宮はそれを後悔していましたが、わたしはそう思いません。中宮を手厚くお世話しています。思慮深いお方ですから、草葉の陰で喜んでおられるでしょう。
中宮の手は、丁寧で風情があるが、才気が少し乏しいですね」
と小声で仰せになる。
「故入道の藤壺の宮の手は、深みがあり優雅なところがありましたが、筆跡に弱いところがあって、華やかさに欠けていました。
朧月夜の内侍の君こそ、現代の上手だが、しゃれた癖があります。しかし、朧月夜の君と朝顔の君と、そしてあなたこそ、当代の名手でしょう」
とお認めになる旨仰せになると、
「この方々のお仲間入りは気が引けます」
と紫の上が申し上げると、
「そんなに遠慮するな。ものやわらかな親しみを感じさせる点では、格別ですよ。漢字に習熟するほど、仮名に整わない字が交じるようですね」
といって、まだ書いてない草子を作って、表紙、綴じ紐や装丁などをさせるのだった。
「兵部卿宮、左衛門督などにも書いてもらおう。わたしも上下一冊は書こう。あの方々が自信があっても、わたしだってその位書けるよ」
と自賛される。
2020.1.29/ 2021.10.17◎
32.8 草子の執筆の依頼
墨、筆、並びなく選り出でて、例の所々に、ただならぬ御消息あれば、人びと、難きことに思して、かえさひ申したまふもあれば、まめやかに聞こえたまふ。高麗の紙の薄様だちたるが、せめてなまめかしきを、
「この、もの好みする若き人びと、試みむ」
とて、宰相中将、式部卿宮の兵衛督、内の大殿の頭中将などに、
葦手あしで歌絵うたえを、思ひ思ひに書け」
とのたまへば、皆心々に挑むべかめり。
例の寝殿に離れおはしまして書きたまふ。花ざかり過ぎて、浅緑なる空うららかなるに、古き言どもなど思ひすましたまひて、御心のゆく限り、草のも、ただのも、女手も、いみじう書き尽くしたまふ。
御前に人しげからず、女房二、三人ばかり、墨など擦らせたまひて、ゆゑある古き集の歌など、いかにぞやなど選り出でたまふに、口惜しからぬ限りさぶらふ。
御簾上げわたして、脇息の上に草子うち置き、端近くうち乱れて、筆の尻くはへて、思ひめぐらしたまへるさま、飽く世なくめでたし。白き赤きなど、掲焉なる枚は、筆とり直し、用意したまへるさまさへ、見知らむ人は、げにめでぬべき御ありさまなり。
墨、筆の最上のものを添えて、例によってあちこちのご婦人方に、念入りな依頼状を送ったので、難しいと思って辞退する人には、ねんごろにお願いした。高麗渡来の薄様な紙で綴じた優雅な草子をつけて、
「風流好みの若い人たちを試してやろう」
といって、夕霧や、式部卿宮の子の兵衛の督や、柏木などに
葦手あしででも歌絵うたえでも、思う存分に書け」
と仰せになり、皆それぞれに腕を競うのだった。
例によって、源氏は、寝殿にひとり籠もって書いた。桜の花の盛りを過ぎて、浅緑の空がうららかで、古歌をあれこれ思い浮かべて、満足のゆくまで、女手の文字を書くのであった。
御前にはあまり人を呼ばず、女房が二、三人ばかり、墨などすらせて、由緒ある古い歌集など、これはどうかなどと、選んで、返事ができそうな者だけが控えている。
御簾を全部上げて、脇息の上に草子をおき、端近くに寄って筆の端をくわえながら、思い巡らしている様子は、いつまでも見飽きぬ出来栄えだった。白や赤の目立った紙は、筆を取りなおして、注意して書く様は、情趣を解する人なら、感心する有様であった。
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32.9 兵部卿宮草子を持参
「兵部卿宮渡りたまふ」と聞こゆれば、おどろきて、御直衣たてまつり、御茵参り添へさせたまひて、やがて待ち取り、入れたてまつりたまふ。この宮もいときよげにて、御階みはしさまよく歩み昇りたまふほど、内にも人びとのぞきて見たてまつる。うちかしこまりて、かたみにうるはしだちたまへるも、いときよらなり。
「つれづれに籠もりはべるも、苦しきまで思うたまへらるる心ののどけさに、折よく渡らせたまへる」
と、よろこびきこえたまふ。かの御草子待たせて渡りたまへるなりけり。やがて御覧ずれば、すぐれてしもあらぬ御手を、ただかたかどに、いといたう筆澄みたるけしきありて書きなしたまへり。歌も、ことさらめき、そばみたる古言どもを選りて、ただ三行ばかりに、文字少なに好ましくぞ書きたまへる。大臣、御覧じ驚きぬ。
「かうまでは思ひたまへずこそありつれ。さらに筆投げ捨てつべしや」
と、ねたがりたまふ。
かかる御中に面なくくだす筆のほど、さりともとなむ思うたまふる
など、戯れたまふ。
書きたまへる草子どもも、隠したまふべきならねば、取う出たまひて、かたみに御覧ず。
唐の紙の、いとすくみたるに、草書きたまへる、すぐれてめでたしと見たまふに、高麗の紙の、肌こまかに和うなつかしきが、色などははなやかならで、なまめきたるに、おほどかなる女手の、うるはしう心とどめて書きたまへる、たとふべきかたなし。
見たまふ人の涙さへ、水茎に流れ添ふ心地して、飽く世あるまじきに、また、ここの紙屋の色紙の、色あひはなやかなるに、乱れたる草の歌を、筆にまかせて乱れ書きたまへる、見所限りなし。しどろもどろに愛敬づき、見まほしければ、さらに残りどもに目も見やりたまはず。
「兵部卿の宮がお越しになりました」と女房が告げるので、驚いて直衣を着た。敷物をもう一枚用意させ、そのまま待ってもらって招じ入れる。宮はたいそう美しい姿で階段を体裁よく上ってくる、御簾の内の女房たちは覗いて見ている。二人が礼儀正しく、互いに改まった挨拶をされるのも、本当に美しい所作だった。
「所在無く籠もっているのも、苦しく思うほどののどかなときに、よくお越しくださいました」
と源氏は喜んで仰せになる。あの草子を持ってきたのだ。すぐその場で開くと、優れた手ではないが、一本調子ではあるが少し才気走って、すごく垢抜けした筆で書いている。歌もあえて風変わりな偏った古語のを選んで、ただ二三行ばかり、少なめの文字で、好ましく書いてあった。源氏はひどく驚いた。
「これほど、上手とは予期しませんでした。わたしは筆を置きます」
とくやしがった。
「選ばれて書くのだから、それほど下手ではないはずです」
などと言う。
源氏の書いた草子も、隠すべきものでもないので、取り出して、互いにご覧になるのであった。
唐のこわごわした紙に、草書で書いている。すごくいい出来栄えだ、高麗の紙はきめ細かな柔らかな感じで、温かで優雅な紙で、色は華やかでなく、ゆったりと麗しい女手で、美しく丁寧に心をこめて書いている。喩えようもなくとてもすばらしい。
見る人の涙さえ筆跡に流れ添う心地して、見飽きることがない。また、国産の紙屋の色紙の、色合い華やかなのに、乱れ書きした草の歌は、筆に任せて乱れ書いている。見飽きることがない。あれこれといつまでも魅力があって見ていたいので、他のものは見ようとしない。
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32.10 他の人々持参の草子
左衛門督さえもんのかみは、ことことしうかしこげなる筋をのみ好みて書きたれど、筆の掟て澄まぬ心地して、いたはり加へたるけしきなり。歌なども、ことさらめきて、選り書きたり。
女の御は、まほにも取り出でたまはず。斎院のなどは、まして取う出たまはざりけり。葦手の草子どもぞ、心々にはかなうをかしき。
宰相中将のは、水の勢ひ豊に書きなし、そそけたる葦の生ひざまなど、難波の浦に通ひて、こなたかなたいきまじりて、いたう澄みたるところあり。また、いといかめしう、ひきかへて、文字やう、石などのたたずまひ、好み書きたまへる枚もあめり。
「目も及ばず。これは暇いりぬべきものかな」
と、興じめでたまふ。何事ももの好みし、艶がりおはする親王にて、いといみじうめできこえたまふ。
左衛門督は、大げさでもったいぶった書法ばかり好んで書いたが、筆が垢抜けしていない心地がして、技巧を凝らしている。歌も、ことさらにわざとらしく選んでいる。
御婦人方のは、全部は取り出さない。まして朝顔の君のなどは、出さない。葦手の草子などが、思い思いで面白い。
夕霧のは、水の勢いが豊かで、葦の生え際など、難波の浦に似ていて、あちこちで入り混じっていて、まことに澄んでいる風情があり、また趣向を変えてすっかり華やかに、文字や石のたたずまいを変えて、しゃれた書き方のもある。
「すばらしい。これは鑑賞するのに時間がかかりますね」
と宮は興じている。宮は何事にも凝り性で、風流好みなので、好んであれこれと楽しんでいた。
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32.11  古万葉集と古今集
今日はまた、手のことどものたまひ暮らし、さまざまの継紙つぎがみの本ども、選り出でさせたまへるついでに、御子の侍従して、宮にさぶらふ本ども取りに遣はす。
嵯峨の帝の、『古万葉集』を選び書かせたまへる四巻、延喜の帝の、『古今和歌集』を、唐の浅縹の紙を継ぎて、同じ色の濃き紋の綺の表紙、同じき玉の軸、緞の唐組の紐など、なまめかしうて、巻ごとに御手の筋を変へつつ、いみじう書き尽くさせたまへる、大殿油短く参りて御覧ずるに、
「尽きせぬものかな。このころの人は、ただかたそばをけしきばむにこそありけれ
など、めでたまふ。やがてこれはとどめたてまつりたまふ。
「女子などを持てはべらましにだに、をさをさ見はやすまじきには伝ふまじきを、まして、朽ちぬべきを」
など聞こえてたてまつれたまふ。侍従に、唐の本などのいとわざとがましき、沈の筥に入れて、いみじき高麗笛添へて、奉れたまふ。
またこのころは、ただ仮名の定めをしたまひて、世の中に手書使いにやってくとおぼえたる、上中下の人びとにも、さるべきものども思しはからひて、尋ねつつ書かせたまふ。この御筥には、立ち下れるをば混ぜたまはず、わざと、人のほど、品分かせたまひつつ、草子、巻物、皆書かせたてまつりたまふ。
よろづにめづらかなる御宝物ども、人の朝廷までありがたげなる中に、この本どもなむ、ゆかしと心動きたまふ若人、世に多かりける。御絵どもととのへさせたまふ中に、かの『須磨の日記』は、末にも伝へ知らせむと思せど、「今すこし世をも思し知りなむに」と思し返して、まだ取り出でたまはず。
今日は、筆跡のことなどを語りながら一日を過ごし、さまざまな綱紙の本を、選び出したついでに、宮の子の侍従を遣いに出して、宮家にある本を取りにやった。
嵯峨天皇が『古万葉集』を書いた四巻、醍醐天皇の『古今和歌集』を唐の浅縹あさはなだの紙に継いで同色の濃い紋の綺の表紙をつけ、同じ縹色の玉の軸をつけ、だんだらに組んだ平組の紐など、優雅な巻物で、巻毎に書風を変え、あらゆる仮名の美しさを尽くしたのを、燈台を短くしてご覧になり、
「いつまでも見飽ませんね。今どきの人は、部分的に技巧に走るだけですね」
などと賞賛するのだった。宮は、これをそのまま、源氏に贈呈した。
「娘がいたにしても、見る目のない者には伝えてもしょうがないもので、宝の持ち腐れになる」
宮はこう言うのだった。源氏は、宮の息子の侍従に、唐の本で念入りに書いてあるのを、沈の箱に入れて、見事な高麗笛を添えて贈った。
また源氏は、当世の仮名を論じて世間に能書家といわれる人々を、身分の上下を問わず、上中下のそれぞれの者にも、しかるべき適当にはからって、探し出して、書かせた。姫の箱には、身分の低い者のは入れず、わざわざその人柄や、身分を品定めして、草子、巻物などをそれぞれに適宜に書かせるのだった。
何から何まで、世に珍しい宝物を、外国にもないようなものなかで、この手本を見たいと心を動かす若い人たちが多かった。絵なども揃えるなかで、あの須磨の日記は、子孫にも残そうと思っていて、姫君が、「もう少し世間のことがわかる様になってから」と思い直して、まだ出さなかった。
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32.12  内大臣家の近況
内の大臣は、この御いそぎを、人の上にて聞きたまふも、いみじう心もとなく、さうざうしと思す。姫君の御ありさま、盛りにととのひて、あたらしううつくしげなり。つれづれとうちしめりたまへるほど、いみじき御嘆きぐさなるに、かの人の御けしき、はた、同じやうになだらかなれば、「心弱く進み寄らむも、人笑はれに、人のねむごろなりしきざみに、なびきなましかば」など、人知れず思し嘆きて、一方に罪をもおほせたまはず。
かくすこしたわみまへる御けしきを、宰相の君は聞きたまへど、しばしつらかりし御心を憂しと思へば、つれなくもてなし、しづめて、さすがに他ざまの心はつくべくもおぼえず、 心づから戯れにくき折多かれど、「浅緑」聞こえごちし御乳母どもに、納言に昇りて見えむの御心深かるべし。
内大臣は、このあわただしい準備を、他人事として、聞いていたが、気にはなっていたが、つまらないと思っていた。姫君の 雲井の雁は娘盛りでますます美しくなり、所在なげに沈んでいるのは、嘆きの種ではあるが、あの夕霧の態度は相変わらず、気のない風なので「こちらから折れて、物笑いになるより、相手が熱心でいたとき、受けていれればよかった」など、人知れず思い嘆いて、夕霧が悪いと一方的に思ってはいなかった。
こうして、内大臣が少し参っているのを、夕霧は聞いていたが、かっての冷たい態度を怨んでいたので、さりげない態度て処していたが、さすがに他の女に気を移すことはなく、恋しさがつのるときもあったが、浅緑の六位と蔑んだ乳母たちに、中納言になって見返してやると思っていた。
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32.13 源氏、夕霧に結婚の教訓
大臣は、「あやしう浮きたるさまかな」と、思し悩みて、
かのわたりのこと、思ひ絶えにたらば、右大臣、中務宮などの、けしきばみ言はせたまふめるを、いづくも思ひ定められよ」
とのたまへど、ものも聞こえたまはず、かしこまりたる御さまにてさぶらひたまふ。
「かやうのことは、かしこき御教へにだに従ふべくもおぼえざりしかば、言まぜま憂けれど、今思ひあはするには、かの御教へこそ、長き例にはありけれ。
つれづれとものすれば、思ふところあるにやと、世人も推し量るらむを、宿世の引く方にて、なほなほしきことにありありてなびく、いと尻びに、人悪ろきことぞや。
いみじう思ひのぼれど、心にしもかなはず、限りのあるものから、好き好きしき心つかはるな。いはけなくより、宮の内に生ひ出でて、身を心にまかせず、所狭く、いささかの事のあやまりもあらば、軽々しきそしりをや負はむと、つつみしだに、なほ好き好きしき咎を負ひて、世にはしたなめられき。
位浅く、何となき身のほど、うちとけ、心のままなる振る舞ひなどものせらるな。心おのづからおごりぬれば、思ひしづむべきくさはひなき時、女のことにてなむ、かしこき人、昔も乱るる例ありける。
さるまじきことに心をつけて、人の名をも立て、みづからも恨みを負ふなむ、つひのほだしとなりける。とりあやまりつつ見む人の、わが心にかなはず、忍ばむこと難き節ありとも、なほ思ひ返さむ心をならひて、もしは親の心にゆづり、もしは親なくて世の中かたほにありとも、 人柄心苦しうなどあらむ人をばそれを片かどに寄せても見たまへ。わがため、人のため、つひによかるべき心ぞ深うあるべき」
など、のどやかにつれづれなる折は、かかる御心づかひをのみ教へたまふ。
源氏は、「妙にいつまでも身を固めないでいる」と心配して、
「内大臣の姫のことを、諦めたら、右大臣や中務の宮からも、そのつもりで言ってきているので、どちらなりと決めなさい」
と源氏が諭すが、夕霧は黙って物も言わない。すっかりかしこまって座っている。
「こういうことは、わたしも父帝の教えに従わなかったのだから、口を挟みにくいのだが、今思うと、父帝の教えこそ長い規範に通じるものだった。
ひとりでいると、他に好きな女がいるのか、と世間の人も思い、宿世によって、つまらない女に靡いてしまう、最後は尻すぼみで世間体も良くないことになる。
大層な高望みをしても、かなわないこともある、限りあるものだから、浮気はするな。わたしは幼少頃から内裏の中で育ち、自由もきかず、窮屈で、わずかの誤りがあっても、軽々しく謗りを負わないように、気をつけていたのだが、それでも、好色だと責められて、世間の通り相場になっている。
あなたは、まだ位も低く、気楽な身分だから、油断して、思いのままにするでないぞ。心に驕りがあれば、浮気心を抑えるようなものがないとき、女のことで、聖賢も昔乱れた例もある。
分に過ぎたことをして、相手の浮名を立て、自分も恨みをかう。一生の障りとなる。間違って結婚した相手が、こちらの意に添わず、我慢ができなくても、やはり思い直して、女親の気持ちに免じ、また親のいない不如意な場合でも、相手の人柄が気の毒に思われる人はそれを取り得にも思って連れ添いなさい。自分にも相手にも最後には良い結果になるように思慮深く行いなさい」
などと、のんびりした暇な折は、このような心遣いを教えるのだった。
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32.14 夕霧と雲井の雁の仲
†かやうなる御諌めにつきて、戯れにても他ざまの心を思ひかかるは、あはれに、人やりならずおぼえたまふ。女も、常よりことに、大臣の思ひ嘆きたまへる御けしきに、恥づかしう、憂き身と思し沈めど、上はつれなくおほどかにて、眺め過ぐしたまふ。
御文は、思ひあまりたまふ折々、あはれに心深きさまに聞こえたまふ。「誰がまことをか」と思ひながら、世馴れたる人こそ、あながちに人の心をも疑ふなれ、あはれと見たまふふし多かり。
「中務宮なむ、大殿にも御けしき賜はりて、さもやと、思し交はしたなる」
と人の聞こえければ、大臣は、ひき返し御胸ふたがるべし。忍びて、
「さることをこそ聞きしか。情けなき人の御心にもありけるかな。大臣の、口入れたまひしに、執念かりきとて、引き違へたまふなるべし。心弱くなびきても、人笑へならましこと」
など、涙を浮けてのたまへば、姫君、いと恥づかしきにも、そこはかとなく涙のこぼるれば、はしたなくて背きたまへる、らうたげさ限りなし。
「いかにせまし。なほや進み出でて、けしきをとらまし」
など、思し乱れて立ちたまひぬる名残も、やがて端近う眺めたまふ。
「あやしく、心おくれても進み出でつる涙かな。いかに思しつらむ」
など、よろづに思ひゐたまへるほどに、御文あり。さすがにぞ見たまふ。こまやかにて、
つれなさは憂き世の常になりゆくを
忘れぬ人や人にことなる

とあり。「けしきばかりもかすめぬ、つれなさよ」と、思ひ続けたまふは憂けれど、
限りとて忘れがたきを忘るるも
こや世になびく心なるらむ

とあるを、「あやし」と、うち置かれず、傾きつつ見ゐたまへり。
このような戒めに、戯れにも他の女に心を惹かれるのは、自分が悪いと思うのだった。雲井の雁も、いつもよりも、内大臣の思い嘆く様子に、申し訳なく、辛いと思って落ち込んでいるが、表面は何気なくよそおって、物思いに沈んでいる。
夕霧は思い余った折々に、気持ちを込めて文を書いてくる。「この人以外誰の言葉を信じるのか」と雲居の雁は思いながら、恋になれた人なら、軽率に人の心を疑うのだろう、とあわれを感じる。
「中務宮が、源氏に内諾をもらい、姫の話を双方でまとめようとしている」
と女房の話を聞くと、内大臣は胸がつぶれそうになる。こっそり、
「こうだそうですね。夕霧は薄情だ。お二人のことを源氏が口ぞえされたのに、当方が強情にもお言葉に従わなかったので、話を他に持って行かれた。今さら頭を下げても、笑いものになるだけだ」
などと、内大臣が涙を浮かべて仰せになれば、姫君、恥ずかしがっていたが、涙がこぼれ、きまり悪く横を向いた姿は、かわいらしい。
「どうしよう。やはりこちらから申し出て先方の意向を聞こう」
などと思い惑って席を立った後も、姫は端近くで物思いに沈んでいる。
「思いがけず、ふがいない涙だ。父はどう思っているだろう」
など、あれこれ思っているところへ文が来た。さすがに文を見る。細やかな字で、
(夕霧)「あなたのつれなさはこの世並みになってゆく
それでもわたしは忘れない 並みの人とは違います」
とあった。「他の縁談の話を仄めかさない、つれない人」と思い続けるのはつらいけれど
(雲居)「これ限りとて、忘れがたい人を忘れるのは
この世の常でしょう心がなびいたのでしょう」
とある文を、夕霧は「変だ」と下に置けず傾けて見ている。
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読書期間2020年1月3日 - 2020年2月5日