第七章 道徳と教義
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懐疑論者たちの主な力は、些細なものは放っておくが、次のようなものである。すなわち、これらの原理が真であることについて
われわれは、信仰と啓示とによらない限り、われわれが自分自身のなかでそれらの原理を自然に感知するということ以外には
何も確証を持っていない。ところが、この自然的直感も、それらの原理が真理であるということの確証にはならない。なぜなら、
人間が善き神により、邪悪の鬼神により、あるいは偶然に創造されたものであるかについては、信仰によらないかぎり確実性がない
以上、これらの原理も、われわれの起原に応じて、われわれに真のものとして授けられたものであるか、偽者としてであるか、
不確実なものとしてであるかが疑わしいからである。
その上、何人も信仰によらないかぎり、自分が目覚めているのか、眠っているのかということについて確信が持てない。
なぜなら、人は眠っているあいだでも、われわれが現在しているのと同じようにしっかりと、目がさめているものと信じている
からである。〔(1)そして、一つの夢に他の夢を重ねて、夢を見ているということを夢に見ることがしばしばあるように、一生そのものも
一つの夢にすぎず、その夢の上に他の夢が接ぎ木され、その夢のなかからは、死ぬときに目ざめ、その一生のあいだには、自然
の夢のあいだと同じようにわずかしか真理と善との原理を持っていないのであって、そこでわれわれを揺さぶるさまざまな考えは、
われわれの夢における時間の流れや空しい幻と同様の幻影にすぎないのではなかろうか〕空間、形、運動が見えると信じ、時が流れる
のを感じてそれを計り、そして目ざめているときと同じに行動する。それであるから、われわれがみずから認めているように、一生の
半分は眠りのなかで過ごされ、そこでは、その時にわれわれが感じることすべてが錯覚である以上、何がどう見えようとわれわれは
真理の観念を一つとして持たないのである。したがって、われわれが目ざめていると考えている一生の他の半分も、最初のものと
少しだけ違う他の眠りであり、そこからは、われわれが眠ると思う時に目ざめているのではないかどうかを、だれが知ろう。
以上は、どちらも主な力である。懐疑論者たちが、習慣、教育、国々の風俗やその他類似のものの及ぼす影響に対して行う
反論のような、些細なものは放っておく。これらのものの及ぼす影響は、一般の人々の大部分を引きずり回し、その人々は、この
空しい基礎の上だけに立って独断論をほしいままにしているのであるが、そういうものは懐疑論者たちのほんの一息によって覆されて
しまうのでる。もしこのことが存分に納得できないなら、彼らの書物を見れば十分である。そうすれば、たちまち納得し、おそらく
納得しすぎてしまうであろう。
私は独断論者たちの唯一の砦の前に足をとめよう。それは、誠実に、まじめに話すならば、自然的な諸原理を疑うことはできない
ということである。
これに反対して、懐疑論者たちは、われわれの起原の不明という一言をもって対抗し、そのなかには、われわれの本性の不明
という問題も含まれているのである。それに対して、独断論者たちも、世の始めから何か答え続けている。
こうして、人間のあいだに戦端が開かれたのである。この戦いでは、各人はその去就を決し、あるいは独断論、あるいは懐疑論
のいずれかの側に必ず立たなければならないのである。なぜなら、中立を守ろうと思う者こそ、懐疑論者の最たるものである
からである。中立を守るというこのことこそ、この徒党の本質なのである。彼らに反対しない者は、りっぱに彼らの側に立っている
のである。〔そこに彼らの有利な点があるように見える〕彼らは、自分たちの側に立つのではない。彼らは、中立で、無関心、すべて
について宙ぶらりんである。彼ら自身に対しても例外ではない。
そんな状態で人間は、いったいどうしたらいいのだろう。すべてを疑おうか。はたして目ざめているのか、つねられている
のか、焼かれているのかということを疑おうか。自分が疑っていることを疑おうか。果たして自分が存在していのだろうか
ということを疑おうか。
人は、こんなところまで来るわけにはいかない。私はあえて断言するが、いまだかって実際に完全な懐疑論者というものが
存在したためしはない。自然が無力な理性を支えて、こんなところにまではめをはずすのを防ぐのである。
それならば、その反対に、人間は確実に真理を所有していると言うのだろうか。ただわずかばかり突つかれただけで、何の資格も
示すことができず、つかんでいるものを手放してしまわなければならないこの人間が。
では、人間とはいったい何という怪物だろう。何という新奇なもの、何という妖怪、何という混沌、何という矛盾の主体、
何という驚異であろう。あらゆるものの審判者であり、愚かなみみず、真理の保管者であり、不確実と誤謬の掃きだめ。宇宙の栄光で
あり、屑。
だれがこのもつれを解いてくれるのだろう。〔(2)これは確かに、独断論と懐疑論、そして人間的哲学のすべてを超えている。
人間は人間を超えている。だから懐疑論者たちに対してかれらがあんなに盛んに叫んだことを承認してやるべきである。すなわち、
真理はわれわれの力の及ぶ範囲にはなく、われわれの獲物でもない。それは地上には留まらず、天の一族で、神の懐(ふところ)に
宿り、人はそれが神の思召(おぼしめ)しによって啓示してくださる程度にしか知ることができないのである。それならば、創造された
ものでなく、しかも肉となった真理(3)から、われわれの真の本性を教えてもらおう〕自然は懐疑論者たちを困惑させ、理性は独断論者たち
を困惑させる。自分の自然的な理性によって自分の真の状態を知ろうと求めている人たちよ、あなたがたはどうなってしまうのだろう。
あなたがたは、これらの宗派のいずれかを避けることができず、そうかといってそのいずれに留まることもできないのである。
そうだとしたら、尊大な人間よ、君は君自身にとって何という逆説であるかを知れ。へりくだれ、無力な理性よ。だまれ、愚かな
本性よ。人間は人間を無限に超えるものであるということを知れ。そして、君の知らない君の真の状態を、君の主から学べ。
神に聞け。
なぜなら、結局、もし人間がいまだかって腐敗したことがなかったならば、その罪のない状態において、真理と至福とを、
安心して楽しむことができたであろう。また、もし人間が、初めからただ腐敗しているばかりだったならば、真理についても、至福
についても、何の観念も持たなかったであろう。だが、不幸なことには、そしてそれはわれわれの状態のなかに何の偉大さもなかった
とする場合よりももっと不幸なことであるが、われわれは幸福の観念を持っていながら、そこに到達することができないのである。
われわれは真理の彫像を感じながらも、嘘ばかりしか持っていないのである。絶対に無知であることも、確実に知ることもできない
のである。すなわち、われわれがかって完成へのある段階にいたにもかかわらず、不幸にしてそこから堕ちてしまったということは、
こんなにも明白なのである。
しかし、驚くべきことは、われわれの理解から最も遠いところにあるあの秘儀、すなわち原罪遺伝の秘儀は、それがなければ
われわれ自身について何の理解も得られなくなるということである。
なぜなら、最初の人間の罪が、この源からあんなに遠く離れており、それにあずかることが不可能であるように見える人たち
までをも、有罪としてしまうこと以上に、われわれの理性に、はなはだしく突き当たるものはないことには疑う余地がないからである。
このような流通は、われわれにとって、ただ不可能に見えるばかりでなく、はなはだ不正であるとさえ思われる。なぜなら、意志の力
のない子供を、彼が生まれたときより六千年も前に犯された、彼が関与したと見るふしがあんなにも少ない一つの罪のために、永遠に
地獄におとすということほど、われわれのあわれな正義の尺度に合わないものはないからである。確かにこの教義ほどわれわれにひどく
突き当たるものはない。しかし、それにもかかわらず、あらゆるもののなかで最も不可解なこの秘儀なしには、われわれは自分自身に
とって不可解なものになってしまうのである。われわれの状態の結び目は、その折り目や曲がり目をこの深淵のなかにとっているのである。
その結果、この秘儀が人間にとって不可解である以上に、この秘儀なしには人間そのものがもっと不可解となるのである。〔(4)そこから
神は、われわれの存在についての難問をわれわれ自身に理解できないようにしようと欲して、その難問の結び目を、われわれがとても
到達できないほど高いところに、というよりは、むしろ低いところに隠されたように思われる。その結果、われわれが真にわれわれ自身を
知ることができるのは、われわれの理性の思い上がった動きによってではなく、理性の単純な服従によってなのである。
宗教のおかすべからざる権威の上にしっかりとたてられたこれらの基礎は、われわれに、等しく不変な二つの信仰の真理がある
ことを知らせてくれる。
一つは、人間は創造の状態、あるいはまた恩恵の状態においては、自然全体の上に引き上げられ、神に似たようなものにされ、
その神性にあずかるものとされるということであり、いま一つは、腐敗と罪との状態では、人間はさきの状態から堕ちて、獣に似たもの
とされるということである。これら二つの命題は、等しく堅固で確実である。
聖書は、若干の箇所で次のように述べる際に、これら二つの命題をわれわれに明らかに宣言している。「〈私の喜びは人の子らと
ともにあることである〉(5)」「〈私は私の霊をすべての肉なる者の上に注ぐであろう〉(6)」等々。「〈あなたがたは神だ〉(7)」そしてまた
他のところで、「〈すべての肉は草だ〉(8)」「〈人は心なき獣とくらべられ、それと等しくされた〉(9)」「〈私は人の子らについて
自分の心に言った(10)」
以上のことから明らかであると思うが、人間は、恩恵によって神に似たようなものにされ、その神性にあずかるものとされるが、
恩恵なしには、野獣に似たものと見なされるのである〕
(1)〔 〕内は、初めに書いた部分である。後になって、この部分を消して、その先の部分(パラグラフの終わりまで)
を書き加えたものである。
(2)〔 〕内は、初めに書いた部分である。後になって、この部分を消して、次の(神に聞け)までを
書き加えたものである。
(3)キリストをさす。
(4)ここから終わりまでは、全部一本の線で一度に消されたもの。
(5)『箴言』8の31。
(6)『ヨエル書』2の28。
(7)『詩篇』82(ヴァルガータ訳81)の6。
(8)『イザヤ書』40の6。
(9)『詩篇』49(ヴァルガータ訳48)の12、20。
(10)『伝道の書』3の18。
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