『パンセ』を読む

第六章 哲学者たち

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一つの魂、たとえば勇気について、その極度のものは、極度の勇気と極度の寛容とを持っていた エバミノンダス(1)のように、その反対の徳も同時に認められるのでなければ、 私は感心しない。 なぜなら、そうでない場合は、登るのではなくて落ちるのである。人がその偉大さを示すのは、 一つの極端にいることによってではなく、両極端に同時に届き、その中間を満たすことによってである。
だが、それも両極端の一方から他方への魂の急激な運動にすぎないのかもしれない。 そして燃えさしの薪(まき)のように(2)、魂も現実には一点にしか いないのかもしれない。それなら、それでよい。 だが、そのことは、魂の広さのしるしにならないまでも、すくなくともその敏捷(びんしょう)さの しるしにはなるのだ。

(1)紀元前五世紀のギリシャの軍人政治家。モンテーニュ『エセー』2の36、3の1による。
(2)ポール・ロワイヤル版では「振り回している」との加えられている。

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公開日2008年2月22日