第五章 正義と現象の理由
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モンテーニュはまちがっている。習慣はそれが習慣であるゆえにのみ従われるべきで、それが理にかなう
とか正しいとかのゆえに従われるべきではない。だが、民衆はそれを正しいと思うというただ一つの理由
によってそれに従っているのである。さもなければ、それがいくら習慣であっても、それに従わないだろう。
なぜなら、人は理性あるいは正義にしか服したがらないからである。それらがなければ、習慣も圧制とみなされる
であろう。ところが、理性や正義の支配は快楽の支配と同様に、圧制的ではない。これらは人間にとって自然な
原理である。
したがって、人間が法律や習慣に、それが法律であるというゆえに従い、そしてまた、新たに導入すべき
真なる正しい法律は存在しないこと、われわれはそれについて何も知っていないこと、それゆえにすでに
受け入れられているものだけに従うべきであるということを知るのは、よいことである。そうすれば、
人はこれらのもから決して離れないだろう。しかし民衆は、この教説を受け入れることができない。こうして
民衆は、真理は見いだされるものであり、それは法律や習慣のなかにあると信じているので、これらのものを
信じ、それらの古さを真理の証拠として受け取っているのである(すなわち、真理抜きの、ただその権威だけの
証拠としてでなく(1))こうして民衆はこれらのものに従う。だが、これらのものが何の価値もないことを、人
が彼らに示すやいなや、すぐに反逆する傾向を持っている。このようなことは、ある方面から見れば、
すべてのものについて示すことができるものである。
(1)( )内の文章もパスカルのもの。
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