第三章 賭の必要性について
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これこそ私が見ているものであり、私を悩ましているものである。私はあらゆる方を眺めるが、
どこにもわからないものしか見えない。自然は私に、疑いと不安の種でないものは何もくれない。
もし私が自然のなかに、神のしるしとなるものを何も見ないのだったら、私は否定のほうへと心を定めた
ことであろう。もしいたるところに創造主のしるしを見るのだったら、信仰に安住したことであろう。
ところが、否定するにはあまりに多くのものと、確信するにはあまりに少ないものとを見て、私は
あわれむべき状態にある。そのなかで私は、もし神が自然をささえているのだったら、自然が何の曖昧さ
なしにはっきりと神を示してくれるように、またもし自然の与える神のしるしが偽りのものならば、
それをすっかりどけてくれるように、そして私がどちら側について行ったらいいかわかるように、
自然がすべてを語ってくれるか、何も語らないでくれるように、百度も願ったのである。ところが私は、
自分が何であり、何をすべきか知らないので、自分の状態をも自分の義務をも知っていないのである。
私の心は、真の善に従うために、それがどこにあるかを知ろうとして、すべてをあげてそれに向かっている。
永遠を得るためには、何ものも私にとって高価すぎることはない。
信仰のなかで、あんなに怠慢に暮らしているように見える人たち、私だったらすっかり違った使い方をする
であろうと思う賜物を、あんなに悪用している人たちを、私はうらやましいと思う。
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