『パンセ』を読む

第三章 賭の必要性について

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これこそ私が見ているものであり、私を悩ましているものである。私はあらゆる方を眺めるが、 どこにもわからないものしか見えない。自然は私に、疑いと不安の種でないものは何もくれない。 もし私が自然のなかに、神のしるしとなるものを何も見ないのだったら、私は否定のほうへと心を定めた ことであろう。もしいたるところに創造主のしるしを見るのだったら、信仰に安住したことであろう。 ところが、否定するにはあまりに多くのものと、確信するにはあまりに少ないものとを見て、私は あわれむべき状態にある。そのなかで私は、もし神が自然をささえているのだったら、自然が何の曖昧さ なしにはっきりと神を示してくれるように、またもし自然の与える神のしるしが偽りのものならば、 それをすっかりどけてくれるように、そして私がどちら側について行ったらいいかわかるように、 自然がすべてを語ってくれるか、何も語らないでくれるように、百度も願ったのである。ところが私は、 自分が何であり、何をすべきか知らないので、自分の状態をも自分の義務をも知っていないのである。 私の心は、真の善に従うために、それがどこにあるかを知ろうとして、すべてをあげてそれに向かっている。 永遠を得るためには、何ものも私にとって高価すぎることはない。
信仰のなかで、あんなに怠慢に暮らしているように見える人たち、私だったらすっかり違った使い方をする であろうと思う賜物を、あんなに悪用している人たちを、私はうらやましいと思う。

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公開日2008年2月3日