第三章 賭の必要性について
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キリスト教の証拠にはいるまえに、人々が、自分にとってこんなに重要で、こんなに切実な一つの問題
について、真理を求めることに無関心のまま暮らしているのが、どんなに正しくないかを、示す必要がある
と思う。
彼らのあらゆる迷いのうちに、これこそ疑いなく、彼らの愚かさと盲目とを彼らに最もよく納得させる
ものであり、常識的に一目見るだけでも、自然な感情に訴えるだけでも、最も容易に彼らを説き伏せることが
出来るのである。なぜなら、この世で生きる時間は一瞬にすぎず、死の状態は、その性質がどんなものである
にせよ、永遠であるということは疑う余地がないからである。したがって、この永遠の状態がどうである
かによって、われわれのすべての行動と思想とは、全く異なった道をとらなければならないのであるから、
われわれの究極の目的とならなければならないこの一点の真理によってわれわれの歩みを律しないかぎり、
ただの一歩も良識と分別とをもって踏みだすことはできないのである。
これ以上明白なことはない。それだから、理性の原理に照らしても、人々の行動は、別の道をとらなければ、
全く道理に反しているのである。そこで、次のような人たち、すなわち、人生のこの究極の目的について
何も考えないで暮らし、反省も不安もなく自分たちの好みと楽しみとの導くままになり、しかも、自分たちの
考えをそこからそらすことによって永遠をなくすことができるかのように、現在のつかのまを幸福に
すごすことだけしか考えていない人たちのことを、判断してもらいたい。
しかし、この永遠は存在している。そして、この永遠を必ず展開させようとして彼らを刻々脅かしている
死は、やがて彼らを、永遠に、あるいは無とされ、あるいは不幸となるという、恐ろしい必然のなかへ
誤りなく置くのである。しかも、それらの永遠のうちのいずれが彼らのために用意されているかも知らない
のだ。
これは、恐るべき結果をともなう疑いである。彼らは、永遠の悲惨という危険にさらされているのである。
それなのに彼らは、この問題がそれで苦労する値うちがないものであるかのように、この説が、民衆の
あまりに軽々しい信じやすさのために受け入れられているものの一つにすぎないか、あるいはまた、それ自身は
わかりにくいのであるが、隠れているとはいえ、きわめて堅固な基礎をもっているものの一つであるかを
検討するのを怠っているのである。それだから彼らは、そのことのうちに真理があるのか誤りがあるのか、
その証拠のうちに強さがあるのか弱さがあるのかを知らないのである。彼らはその証拠が目の前にあるのに、
それを調べることを拒む。そして、このような無知のなかにあって、彼らは、もしその不幸が存在する場合には
、そこに落ち込むのにおあつらえむきの道を選んで、死ぬときにはそれをためしてみようと待っているのである。
しかも、そんな状態にしごく満足して、それを公言し、さらにそれを得意としてるのである。この問題の
重大さをまじめに考えるときに、こんなむちゃな行動に対して、戦慄しないでいられようか。
このような無知のなかで安んじているということは、奇々怪々のことである。それで、そういう生活を
送っている人々に対してそのことを示して、それがどんなにむちゃで愚かであるかを感じさせ、
彼らが自分たちの狂態を目撃することによって、参ってしまうようにしなければならない。なぜなら、
自分が何であるかについてのこのような無知のなかにあって、このことの解明をさがし求めようともしないで
暮らすことを選ぶときには、人々は次のように論じるからである。彼らは言う、「私は知らない・・・」
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