『パンセ』を読む

第ニ章 神なき人間の惨めさ

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自己愛。
自己愛とこの人間の「自我」との本性は、自分だけを愛し、自分だけしか考えないことにある。 だが、この自我は、どうしようと言うのか。彼には、自分が愛しているこの対象が欠陥と悲惨とに 満ちているのを妨げるわけにはいかない。彼は偉大であろうとするが、自分が小さいのを見る。 幸福であろうとするが、自分が惨めなのを見る。完全であろうとして、不完全で満ちているのを見る。 人々の愛と尊敬の対象でありたいが、自分の欠陥は、人々の嫌悪と侮蔑にしか値しないのを見る。 彼が当面するこの困惑は、想像しうるかぎり最も不正で最も罪深い情念を、彼のうちに生じさせる。 なぜなら、彼は、自分を責め、自分の欠陥を確認させるこの真理なるものに対して、極度の憎しみを いだくからである。彼はこの真理を絶滅できたらと思う。しかし、真理をそれ自体においては絶滅 できないので、それを自分の意識と他人の意識とのなかで、できるだけ破壊する。言かえれば、自分の 欠陥を、自分に対しても他人に対しても、おおい隠すためにあらゆる配慮をし、その欠陥を、 他人から指摘されることにも、人に見られることにも、堪えられないのである。
たしかに、欠陥に満ちていることは、悪いことである。しかし、欠陥に満ちていながら、それを 認めようとしないのは、なおもっと悪いことである。なぜなら、それは、その上にさらに、故意のまやかしを 加えることになるからである。われわれはほかの人たちがわれわれをだますことは望まない。われわれは、 彼らがそれに値する以上にわれわれから尊敬されたいと願うのは、正しくないと思う。それならば、 われわれが彼らをだまし、われわれがそれに値する以上にかれらから尊敬されたいと願うのも正しくない わけである。
したがって彼らが、現にわれわれが持っている欠点や悪徳ばかりを発見しても、彼らはわれわれに 対して悪いことをしていないのは明らかである。なぜなら、それらの欠点や悪徳は彼らのせいではない からである。また、それらの欠点を知らずにいるという悪からわれわれを救い出す助けをしてくれている のであるから、彼らはむしろわれわれにいいことをしているのも、明らかである。彼らがそれらの欠点を知り 、われわれを軽蔑するからといって腹を立てるべきではない。彼らが、われわれをあるがままの姿で知り、 もしわれわれが軽蔑に値するなら、軽蔑するのは正しいことだからである。
以上のような気持ちこそ、公正と正義とに満ちている人から生ずべきものである。ところが、 それとは正反対の構えが見られるわれわれの心について、いったい何と言ったらいいのだろう。なぜなら、 われわれが真実と、それをわれわれに言ってくれる人たちとを憎み、彼らをわれわれに有利なように思い違い をしてくれるのを好み、そしてまた、われわれが現にそうであるのとは別のものとして彼らから評価されたい と願っているのは、ほんとうではなかろうか。
ここに私をぞっとさせる証拠がある。カトリック教は、自分の罪をだれにでも無差別にさらけ出す ことを)いはしない。この宗教は他のすべての 人々に隠したままでいることを許容するが、ただし、そこからただ一人だけ除外する。その一人に対しては 、心の底をさらけ出し、自分をあるがままの姿で見せることを命令する。この宗教が、われわれについての 誤認を正すべきことをわれわれに命ずるのは、ただ一人の人に対してだけである。しかもその人は、 不可侵の秘密としての義務を負わせられているので、彼が持っているこの知識は、彼のなかにありながら、 あたかもそこにないのと同じようにされているのである。これ以上愛に富んだ、これ以上やさしい方法を、 いったい想像できるだろうか。それなのに、人間の腐敗ははなはだしいので、この定めさえ、なお厳格すぎる と考える。そしてこのことが、ヨーロッパの大部分をして、教会に反逆させたおもな原因の一つである (1)
人間の心は、なんと不正で不合理なことだろう。すべての人に対してなんらかの方法でそのように しても正しかったであろうことを、一人の人にするようにさせられるからといって、それを悪く思うとは。 なぜなら、すべての人たちをだましていることが、正しいとでもいうのだろうか。
真実に対するこの嫌忌けんき)には、 程度の差がある。しかし、それはすべての人のうちに、ある程度までは存在すると言うことができる。なぜなら それは自愛と切り離せないものであるからである。例のまちがったこまやかさもそうである。そのために、 他人をしか)らなければならない立場にある人々は、相手の気にさわらないように、多くの回り道をしたり、 手心を加えたりしなければならなくなる。彼らはわれわれの欠点を小さくして、それを許しているように 見せかけ、ほめことばと愛情と尊敬のしるしとをそこに混ぜなければならない。こういうことをみなやっても 、この薬は自己愛にとって苦いものであることに変わりはない。自己愛はそれをできるだけ少なく 飲もうとし、しかもいつもまずいと思いながら、そして多くの場合、それをくれる人たちに対して ひそかな恨みをいだきながら飲むのである。
そけいうわけで、もし人がわれわれからよく思われたほうが得であるという場合には、その人は、 われわれにとって不愉快だとわかっているような世話をやくことを避けるという現象が生じる。 その人は、われわれがそう扱ってもらいたいと思うとおりに扱ってくれる。われわれが真実を憎むので、 それを隠してくれる。お世辞を言ってもらいたいので、お世辞を言ってくれる。だまされたいので、 だましてくれる。
そのために、われわれの世の中での地位が、運よく上がるたびに、それだけわれわれを真実から 遠ざける結果になるのである。なぜなら、その人の愛顧を得れば有益で、きらわれれば危険だというような 人たちを傷つけることは、その度合いに応じて、それだけ多く人々に恐れられるからである。一人の王侯が 、ヨーロッパじゅうの笑い草になろうとも、知らぬは彼ばかりということになろう。真実を言うことは、 それを言われる相手方にとって有利なのであって、それを言う人たちにとっては不利である。ところで、 王侯たちとともに暮らす人々は、彼らが仕えている主君の利益よりも、自分の利益をいっそう愛している。 したがって、彼らは自分自身に損させてまで、主君に得をさせようなどとは、夢にも思わない。
このような不幸は、上流社会の人たちにおいて最もはなはだしいのはもちろんである。しかし、 もっと下のほうでも、こうした不幸から免れているわけではない。なぜなら、人々からよく思われるということは 、常に何か得になることがあるからである。このようにして、人生はまやかしの連続である。人は互いに だまし、互いにへつらうことしかしない。だれもわれわれのいるところでは、われわれについて、われわれが いないところで言っているようなことは言わない。人間同士の結合は、このだましあいの上に築かれたものに過ぎない。 もし各人が、自分の友人か、自分のいないときにじぶんについて言っていることを知ったならば、たとい その友人がその際、真心で、冷静に話していたことだとしても、それでもなお続いていくような友情は 少ないだろう。
したがって人間は、自分自身においても、他人に対しても、偽装と虚偽や偽善とであるに過ぎない。 彼は、人が彼にほんとうのことを言うのを欲しないし、他の人たちにほんとうのことを言うもの避ける。 正義と理性とからこのようにかけ離れたこれらすべての性向は、人間の心のなかに生まれつき根ざしている のである。

(1)宗教改革のことをさす。

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公開日2008年1月24日