『パンセ』を読む

第ニ章 神なき人間の惨めさ

72
人間の不釣合ふつりあい)
[自然的な認識がわれわれを導いていくところはここまでである。もしそれが真でないならば、 人間のうちに真理は存在しない。もしそれが真ならば、人間はそこに卑下すべき大きな理由を見いだし、 いずれにしても人間はへりくだらなければならない。
そして人間は、それを信じないでは存続できない以上、私のねがうところは、彼が自然のさらに 大いなる探求にはいる前に、その自然を一度真剣に、またゆっくり観察し、また自分自身をも見つめる ことであるそして、彼がそこでどういう釣合になっているかを知って・・・]
そこで人間は、全自然をその高く満ちみちた威容のうちに仰視し、その視線を自分をとりまく 低いものから遠ざけるがいい。そして宇宙を照らすための永遠の灯火のように置かれている あの輝かしい光に目を注ぎ、この天体の描く広大な軌道にくらべては、この地球も一点のように見え、 さらにこの広大な軌道それ自体といえども、天空をめぐるもろもろの天体がとりまいている軌道に くらべては、ごく微細な一尖端せんたん) にすぎないということに驚くがいい。しかし、もしわれわれの視線がそこで止まるまらば、われわれの 想像力がさらに遠く進むがいい。自然が与えるのに疲れるより先に、想像がそれを頭に入れるのに疲れて しまうであろう。すべてこの目に見える世界は、自然のゆったりしたふところのなかでは、目にもとまらぬ ほどの一つの線にすぎない。いかなる観念もそれに近づくことはない。われわれが想像しうるかぎりの 空間よりもさらに向こうへ、われわれの思いをいくらふくらませていったところでむだである。 事物の現実にくらべては、原子を生みだすにすぎない。これは中心がどこにもあり、円周がどこにもない 無限の球体である。すなわち、われわれの想像がその思考のなかに自分を見失ってしまうということこそ 、神の万能について感知しうる最大のしるしである。
さて、人間は自分自身に立ち返り、存在しているものにくらべて、自分が何であるかを考えてみるがいい。 そして自分を、この自然の辺鄙へんぴ)な片隅に 迷い込んでいるもののようにみなし、彼がいま住んでいるこの小さな牢獄 ろうごく)、私は宇宙の意味で言っているのだが、そこから地球、もろもろの王国、 もろもろの町、また自分自身をその正当な値において評価するのを学ぶがいい。
無限のなかにおいて、人間とはいったい何なのであろうか。
しかし私は、人間に他の同じように驚くべき驚異を示そうと思うのであるが、それには彼がその知りうる かぎりのなかで最も微細なものを探求するがいい。一匹のだに・・) が、その小さな身体のなかにくらべようもないほどに更に小さな部分、すなわち関節のある足、 その足のなかの血管、その血管のなかの血、その血のなかの液、その液のなかのしずく、 そのしずくのなかの蒸気を彼に提出するがいい。そしてこれらのものをなおも分割していき、 ついに彼がそれを考えることに力尽きてしまうがいい。こうして彼が到達できる最後の 対象を、今われわれの議論の対象としよう。彼はおそらく、これこそ自然のなかの最も小さなものであると 考えるであろう。 そのなかに私は新しい深淵しんえん) を彼に見せようと思う。単に目に見える宇宙だけではなく、自然について考えられるかぎりの広大無辺なもの を、この原子の縮図の枠内に描きだしてやろうと思うのである。彼はそのなかに無辺の宇宙を見、その おのおのがそれぞれの天空、遊星、地球を、目に見える世界と同じ割合で持っているのを見、その地球の なかにもろもろの動物、そしてついにはだに・・) を見るがいい。そしてこれらのだに・・) のなかに、最初のだに・・)が提供したものを 再び見いだすであろう。こうして、その次のもののなかにも、やはりこれと同様に果てしのない、また 休みのないものを見いだし、これらの不可思議、すなわちその広がりにおいて驚嘆すべき他の不可思議と 同様に、その小ささにおいて驚嘆すべきこれらの不可思議に、茫然ぼうぜん )自失するがいい。なぜなら、われわれの身体は、つい先ほどまでは、 宇宙のなかにあって知覚できないほどのものであり、その宇宙すら、全体のうちにあって知覚 しがたいほどのものであったにもかかわらず、今やその身体が、人の到達できない虚無に対しては一個の 巨人であり、一つの世界であり、いな、むしろ全体であるということについて、だれが感嘆しないものが あろうか。
このように考えてくる者は、自分自身について恐怖に襲われるであろう。そして自分が、自然が 与えてくれたかたまり)のなかに支えられて 無限と虚無とのこの二つの深淵の中間にあるのを眺め、その不可思議を前にして恐れおののくであろう。 そして彼の好奇心は今や驚嘆に変わり、これらのものを僭越せんえつ )な心でもって探求するよりは、沈黙のうちにそれを打ち眺める気持ちになる だろうと信ずる。
なぜなら、そもそも自然のなかにおける人間というものは、いったい何なのだろう。無限に対しては 虚無であり、虚無に対してはすべてであり、無とすべてとの中間である。両極端を理解することから 無限に遠く離れており、事物の究極もその原理も彼に対して立ち入りがたい秘密のなかに固く隠されており、 彼は自分がそこから引き出されてきた虚無をも、彼がそのなかへ )み込まれている無限をも等しく見ることができないのである。
それなら人間は、事物の原理をも究極をも知ることができないという永遠の絶望のなかにあって、 ただ事物の外観を見る以外に、いったい何ができるのであろう。すべてのものは、虚無から出て無限にまで 運ばれていく。だれがこの驚くべき歩みについていくというのだろう。これらの不可思議の創造主は、 それを包含している。他の何びとにもそれはできない。
これらの無限をしっかり打ち眺めなかったために、人間は、あたかも自然に対して何らかの釣合 を持っているかのように、向こう見ずにもその自然の探求へと立ち向かったのである。彼らがその対象と 同じように無限なうぬぼれをもって、事物の原理を理解しようとし、そこからすべてを知るに至ろうとしたのは 、奇怪なことである。なぜなら、このような意図は、自然と同様に、無限な能力、あるいはうぬぼれなしには、 とうてい)きうるものではないことは、 疑いないからである。
学識ある者は、自然は自分の姿とその創造主の姿とをあらゆるもののなかに刻み込んだので、それらの ものは、ほとんどすべてその二重の無限性をそこから受けているということを理解する。すなわちわれわれ は、すべての学問が、その探求の範囲において無限であることを認める。なぜなら、たとえば幾何学が展開 すべき命題は、無限に無限であることをだれが疑うであろうか。同様に、これらの学問は、その原理が 多数で微細である点においても無限である。なぜなら最後のものとして提出された原理といえども、 それ自身では立つことができず、他の原理によって支えられ、その原理もまたさらに他の原理を支えとしている のであるから、最後のものなど決してありえないということを、認めないものがあろうか。しかしわれわれは 理性に対して、最後のものと見えるものに対して、物質的なものについてするのと同じことをしている。 すなわち、物質的なものについては、その性質上無限に分割できるにもかかわらず、われわれの感覚が それ以上何ものも認められない点をさして不可分の点と呼んでいるのである。
学問のこの二つの無限のうち、大きいほうの無限は、ずっと感じられやすい。そのため、万物を 知るとあえて自負するにいたった人は少ない。「私はすべてのことについて語ろうと思う」と デモクリトスは言った(1)
しかし小さい無限のほうは、ずっと認めにくい。哲学者たちは、多くの場合、そこに到達する と自負しただけであって、みなそこでつまずいてしまった。そのために、これらのありふれた書名 、『事物の原理について』『哲学の原理について(2)』といったたぐいのもの が出現したのである。それらは、一見それほどではないが、実際は、<すべての知りうべきこと について(3)>という人目にあまるものと同じようにけばけばしいものである。
事物の周囲をつつむよりは、その中心へ達するほうがはるかに可能だと、われわれはおのずと考える。 世界の目に見える広がりは、目に見えてわれわれを超越する。しかし、小さいものは、それを超越している のがわれわれなのであるから、われわれはそれを所有するほうがはるかに可能であると考えている。 しかしながら、虚無に達するためには、万有に達するのと少しも劣らない能力を必要とするのである。
そのいずれに達するためにも、無限の能力が必要である。そして、もし事物の究極の原理を理解 した人があるとするならば、その人は同様に無限を知ることにも到達しえたであろうと私には 思えるのである。一は他に依存し、そして一は他を導く。これら両極端は、相遠ざかるあまりに相触れ、 相合し、そして神のうちで再開する。しかもそれは、神のうちにおいてだけである。
それならば、われわれの限度をわきまえよう。われわれは、なにものかであって、すべてではない。 われわれの持っている存在が虚無から生ずる第一原理の認識をわれわれから盗み去り、われわれの持っている 存在の少なさが、無限を見ることをわれわれから隠すのである。
われわれの知性は、知的なものの次元において、われわれの身体が自然の広がりのなかで占める のと同じ地位を占めている。
われわれは、あらゆる方面において限られているので、両極端の中間にあるというこの状態は、 われわれのすべての状態において見いだされる。われわれの感覚は、極端なものは何も認めない。 あまり大きい音は、われわれの耳を聞こえなくする。あまり強い光は、目をくらます。あまり遠くても、 あまり近くても、あまり短くても、それを不明瞭ふめいりょう )にする。あまり真実なことは、われわれを困惑させる。わたしはゼロから四を引いて ゼロが残るということを理解できない人たちがいるのを知っている。第一原理は、われわれにとって あまりに明白すぎる。あまりに多くの快楽は、不快にする。あまりに多くの協和音は、音楽では、 気にさわる。あまりの恩恵は、われわれをいらだたせる。われわれは負債を余分に償えるようなものが ほしいのである。<恩恵は返却可能と見られるあいだは好ましいが、度をはるかに越えれば、感謝に 代わって憎悪にて報いられる(4)>われわれは暑さも、極端な冷たさも 感じない。過度の性質は、われわれ敵であって、感知できないものである。われわれはもはや、それを 感じることなく、その害を受けるのである。あまりの若さも、あまりの老年も、精神を妨げる。 多すぎる教育も、少なすぎる教育もまた同様である。すなわち、極端な事物は、われわれにとっては、 あたかもそれが存在していないのと同じであり、われわれもそれらに対しては存在していない。それらの ものがわれわれから逃げ去るか、われわれがそれらのものから逃げ去るかである。
これがわれわれの真の状態である。そのために、われわれは確実に知ることも、全然無知である こともできないのである。われわれは広漠たる中間に )ぎいでているのであって、常に定めなく漂い、一方の端から他方の端へと押しやられて いる。われわれがどの極限に自分をつないで安定させようとしても、それは揺らめいて、われわれを 離れてしまう。そしてもし、われわれがそれ追って行ゆけば、われわれの把握 はあく)からのがれ、われわれから すべ)りだし、永遠の遁走 とんそう)でもって逃げ去ってしまう。何ものもわれわれのためにとどまっては くれない。それはわれわれにとって自然な状態であるが、しかもわれわれの性向に最も反するものである。 われわれはしっかりした足場と、無限に高くそびえ立つ塔を築くための究極の不動な基盤を見いだしたい との願いに燃えている。ところが、われわれの基礎全体がきしみだし、大地は奈落 ならく)の底まで裂けるのである。
このことがよくわかったら、人は自然が各人を置いたその状態で、じっとしているであろうと思う。
われわれの分として与えられたこの中間が、両極からは常に隔たっている以上、人が事物の知識を 少しばかりよけい持ったとしたところで、何になるであろう。もし彼がそれを持っているとすれば、彼は それを少しばかり上のところから取っただけのことである。彼は常に究極からは無限に遠ざかっている のではなかろうか。またわれわれの寿命は、それが十年よけい続いたとしたところで、永遠からは 等しく無限に遠いのではなかろうか。
これらの無限を目の前におけば、有限なものはすべて相等しい。それで私には、なぜわれわれの思いを、 他の有限でなく、ある一つの有限の上に置くのであるか、その理由がわからない。われわれを有限なものと くらべることだけがわれわれを悩ますのである。
もし人間が、まず第一に人間を研究したならば、それ以外に出ることが、どんなに不可能かが わかるだろう。どういうふうにして一部分が全体を知りえようか。だがおそらく彼は、少なくとも自分との あいだに釣合を保っている部分だけでも知りたいと渇望するだろう。しかし世界の諸部分は、すべて 互いにあのようの関係し連絡しているので、他の部分を知らず、そしてまた全体を知らずに、一部分を 知ることは不可能であると思う。
たとえば人間は、彼の知っているすべてのものと関係を持っている。彼は、彼を入れるための場所、 存続するための時間、生きるための運動、彼を組成するための諸元素、彼を養うための熱と食料、呼吸 するための空気を必要とする。彼は光を見、物体を感知する。要するに、すべてのものは彼に縁がある のである。それで、人間を知るためには、どういう理由で彼が生存するために空気を必要とするのかを 知らなければならず、その空気を知るためには、どういう点でそれが人間の生命に対してこのような 関係を持っているのかを知らなけれならない、等々。
炎は、空気なしには存続しない。したがって、一を知るには、他を知らなければならない。
このようにすべての事物は、引きおこされ引きおこし、助けられ助け、間接し直接するのであり、 そしてすべてのものは、最も遠く、最も異なるものをもつなぐ、自然で感知されないきずなによって 支えあっているので、全体を知らないで各部分を知ることは、個別的に各部分を知らないで全体を知る ことと同様に不可能であると、私は思う。
[さらに、事物のそれ自体における、あるいは神における永遠性も、われわれの短い存続を驚かさず にはおかない。
自然の一定不変な不動性も、われわれのうちに起こる絶えまのない変化とくらべて、同じ結果を起こす にちがいない]
事物を知ることについてのわれわれの無力に止めをさすものは、事物それ自体は単純であるのに、 われわれは、霊魂と身体という、相反し、種類の異なる二つの本性から組成されていることである。なぜなら、 われわれのうちにあって推理する部分が、精神以外のものであるということは不可能である。またもし、 われわれが単に身体的であると主張するならば、それはわれわれを事物の認識からいっそう遠ざけることに なるであろう。なぜなら、物質がそれ自身を知るということほど不可能なことはないからである。物質が どうやってそれ自身を知るのかを、われわれは知ることができない。
このようにして、もしわれわれが単に物質的であるならば、われわれは全然なにも知ることができず 、もしわれわれが精神と物質とによって組成されているならば、われわれは、精神的なものでも、物質的 なものでも、すべて単純なものは、完全には知ることができないのである。
ここから、ほとんどすべての哲学者たちが、事物の観念を混同し、物質的なものを精神的に話し、 精神的なものを物質的に話すようになるのである。なぜなら、彼らは大胆にも、物質は下方に向かうとか、 その中心を渇望するとか、自身の破壊を避けるとか、真空を恐れるとか、意向や共感や反感を持つとか言うが、 それらはすべて精神だけに属するものである。また、彼らは精神について話しながら、それをあたかも ある場所にあるかのようにみなし、一つのところから他のところへの運動を付与したりするが、それらは すべて物体だけに属するものである。
われわれは、それらの事物の純粋な観念を受け入れるかわりに、それらをわれわれの性質でもって 染めてしまい、われわれの眺めるすべての単一な事物を、われわれの複合的な存在でもって印するのである。
われわれがあらゆる事物を精神と物質から合成するのを見て、この混合こそ、われわれにとって きわめて理解しやすいものであろう、とだれが思わないであろう。ところが、これこそ最も理解しにくいもの なのである。人間は、自分自身にとって、自然のなかで最も驚異に値する対象なのである。なぜなら、 人間は、身体が何であるかを理解できず、なおさらのこと精神が何であるかを理解できない。まして、身体が どういうふうにして精神と結合されうるのかということは、何よりも理解できないのである。そこに、 彼の困難の窮みがあり、しかもこれが、彼の固有の存在なのである。<精神と身体との結合様式は 、人間に理解しえぬところである。しかもこれがすなわち人間なのである(5)>
最後に、われわれの弱さの証拠を完全にするために、私は次の二つの考察によって結ぼうと思う・・・

(1)モンテーニュ『エセー』2の12による。
(2)デカルトの『哲学の原理』は、パスカルの青年時代 の1644年に出版された。
(3)デコ・デルラ・ミランドラが1486年、ローマで 公表しようとした九百の提題の一つ。
(4)タキトゥス『年代記』4の18.モンテーニュ『エセー』 3の8による。
(5)アウグスティヌス『神の国』21の10.モンテーニュ 『エセー』2の12による。

頁をめくる
次頁
頁をめくる
前頁
公開日2008年1月20日