私の万葉集 巻第十七

立山たちやま一首 この立山は新川郡にひかわのこほりにあり

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天離あまざかる ひなに名かかす こしなか 国内くぬちことごと 山はしも しじにあれども 川はしも さはにけども 皇神すめかみの うしはきいます 新川にひかはの その立山たちやまに 常夏とこなつに 雪降り敷きて ばせる 片貝川かたかひがはの 清き瀬に 朝夕あさよひごとに 立つきりの おもひ過ぎめや ありがよひ いや年のはに そとのみも け見つつ 万代よろづよの 語らいぐさと いまだ見ぬ 人にもげむ おとのみも 名のみも聞きて ともしぶるがね

立山連峰は昔から修験道の行場として知られていたようであるが、歌に詠まれたのはおそらくこれが初めてなのではないだろうか。万年雪をたたえた立山は、遠くから見ても美しく忘れられない、見たことのない人はうらやましいだろう、と詠うのだが、言葉の連なりが美しいのです。
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立山―立山連峰。主峰の大汝峰は富山県中新川郡にあり、高さ3015m。万葉集に詠まれたそれはその北の剣岳(2998m)を中心とした一帯をさす。
新川―越中国の旧郡名。富山県の東部、神通川以東の地をいう。
名かかす―名を冠する。有名な。つまり、鄙として有名な。
しじにあれども―シジニは、隙間なく。びっしりと。
さはに―数多く。
うしはき―神がある地域を占領支配すること。統括する。
帯ばせる―帯のように、川が山裾を巡って流れている。この句から「立つ霧の」までの五句は霧が消え行く意によって過グを起こす序。
片貝川―立山連峰の北部、毛勝山(2998m)に発して富山県魚津市の北部で富山湾に入る川。ここではあくまでも、景観ではなく修飾として使っている。
思い過ぎめや―思イ過グは、は思わなくなること。反語。
あり通ひ―アリは継続を示す接頭語。
いや年のはに―イヤは、重ねて、の意。年ノハは毎年。
外のみも―国庁付近などの遠方からでも。
ともしぶるがね―羨ましがるだろう。
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あゆのかぜ いたく吹くらし 奈呉なご海人あまの つりする小船おぶね かくる見ゆ

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あゆの風―越の俗の語に東の風をあゆのかぜといふ(原注)。
奈呉―富山県新湊市の放生津潟の名称。
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湊風みなとかぜ 寒く吹くらし 奈呉のに 妻呼びかわし たづさはに

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湊風―射水川(小矢部川)河口を吹く風。あゆの風と実質的に同じ。

婦負郡めひのこほり鵜坂うさかの川辺を渡る時作る一首

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鵜坂川うさかがは 渡る瀬おほみ このの 足掻あがきの水に 衣濡きぬぬれにけり

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鵜坂川―神通川の富山市西南部を流れる辺りの呼び名か。
奈呉―富山県新湊市の放生津潟の名称。

新川郡にひかわのこほりにして延槻川はひつきがはを渡る時に作る歌

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立山たちやまの 雪しらしも 延槻はひつきの 川のわた 鐙漬あぶみつかすも

全部大伴家持の歌です。家持は746年(天平18年、28歳?)越中の国守に任ぜられる。ここの五年の間の体験は、家持の作風に大きな変化をもたらしたようである。
大伴氏は武門の家系であるが、大伴旅人を父にもち、大伴坂上郎女を叔母にもち、歌人として恵まれた環境に育った家持は、それまで、都に居て相聞歌ばかりを歌っていた。恋の歌は実体験に基づいたものとはいえ、所詮は、歌会や部屋の中にいて心理の綾を詠んだものである。すでに定型化された心理描写のやり取りである。
越中に赴任して、領内を旅し、新しい風物に接して、自然朗詠をはじめている。風光明媚な土地柄であったことも幸いしていると思われる。立山連峰をはじめ、富山湾また奈呉の浦や布勢の水海(ふせのうみ)と呼ばれていた美しい入江(現在の富山県氷見市南部、残念ながら埋めたてられて今はない)もあり、歌の題材には事欠かなかったようである。何よりもこの体験自体が、家持に大きな影響を与えたようである。
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延槻川―早月川。剣岳に発し、富山県滑川・魚津両市の境をなして富山湾に入る。
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巻第十七終了。5首採集―全142首。

更新2007年8月16日