私の万葉集 巻第六

919

わかうらに 潮れば かたをなみ 葦辺あしへをさして たづ鳴き渡る

題詞に山部宿禰赤人の作る歌とし、長歌と反歌二首あり、そのうちの一首である。よく知られた歌だが、自然な流れるような風景描写です。
右の注にあるように、このあたり一帯は、万葉集では雑賀野(さひかの)と呼ばれ、聖武天皇の離宮があった所。風光明媚だったらしく、沖の玉津島もよく詠われ、「現在の新和歌浦一帯は当時海で、権現山、船頭山、妙見山、雲蓋山、鏡山、妹背山などと今日呼ばれる小山は海中の島であった」という。
『奥の細道』で「・・・俤松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。」と賞された象潟もかっては海中にあったが、今は田畑の中にわずかに昔の面影をとどめている。
919
若の浦―和歌山市和歌浦。現在観光地として知られる新和歌浦でなく、その東南の旧和歌浦をさす。神亀元(724)年十月の紀伊行幸の際、聖武天皇はその風光を賞し従来の「弱(わか)の浜」の名を改めて「明光(あか)の浦」とせよと命じた、と『日本書紀』にある。
潟をなみ―干潟がないので。
山部宿禰赤人やまのべのすくねあかひとの作る歌ニ首 并せて短歌
923

やすみしし わご大君おほきみの 高知たかしらす 吉野の宮は たたなづく 青垣あをかきごもり 川なみの 清き河内かふちぞ 春へには 花咲きををり 秋されば きり立ち渡る その山の いやますますに この川の 絶ゆることなく ももしきの 大宮人おほみやひとは 常にかよはむ

反歌
924

み吉野の 象山さきやまのまの 木末こぬれには ここだもさわく 鳥の声かも

925

ぬばたまの のふけゆけば 久木生ひさきおふる 清き川原かはらに 千鳥ちどりしば鳴く

これらの歌は、長歌もいいものですが、924番の和歌が素晴らしいので、一緒に載せました。・・・
923
やすみしし―ワゴ大君の枕詞。
高知らす―高々と宮殿を造り構えなさる。
たたなづく―山が幾重にも重なっている形容。
青垣ごもり―青い垣根のような山々に囲まれて。
川なみ―川のながれ。
春へ―春ごろ。
秋されば―春秋朝夕などの語についたサル・サリ来は、その時間の到来を表す。
象山―奈良県吉野郡吉野町宮滝(吉野離宮の所在地)の南正面の山。この象山と東の三船の山との間に喜佐谷があり、そこを「象の小川」が流れている。
ここだも―こんなにもおびただしく。
難波宮なにはのみやにして作る歌一首 并せて短歌

1062

やすみしし 大君おほきみの ありがよふ 難波の宮は いさなとり 海片付かたづきて 玉ひりふ 浜辺はまへを近み 朝はふる 波の音騒おとさわき 夕なぎに かぢおと聞こゆ あかときの 寝覚ねざめに聞けば いくりの 潮干しおかれのむた 浦渚うらすには 千鳥ちどり妻呼び 葦辺あしへには たづとよむ 見る人の 語りにすれば 聞く人の 見まくりする 御食向みけむかふ 味経あぢふの宮は 見れどかぬかも

反歌二首
1063

ありがよふ 難波の宮は 海近み 海人娘子あまをとめらが 乗れる船見ゆ

1064

れば 葦辺あしへさわく 百鶴ももたづの 妻呼ぶ声は 宮もとどろに

右の二十一首、田辺福麻呂たなべのさきまろの歌集の中に出づ。

田辺福麻呂は伝不詳。六つの長歌を含んだ二十一首の中から、難波宮を読んだ長歌と反歌を載せました。長歌はどれも素晴らしく、詩才豊かだった人と思われます。
1062
いさなとり―海・浜などの枕詞。
片付く―カタヅクは一部分が他のある物に接すること。
朝はふる―朝がた、鳥がはばたくように風や波が荒々しく吹き寄せること。
いくり―海中の岩礁。イは接頭語。今でも方言で暗礁をクリ・グリという所がある。
潮干のむた―シホカレは干潮。・・ノムタは、・・・につれて。
浦渚―入江の洲。スは川や海の浅瀬の砂の現れた所。
御食向かふ―淡路・味生・城上・南淵などの地名にかかる枕詞。これらの地方の食産物が、天皇に奉納された。
味経の宮―大阪市天王寺区味原町・下味原町の一帯か。上町台地に一角にあたり、難波宮址の南の地。
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巻第六終了。7首採集―全161首。

更新2007年7月30日