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105 竊かに―万葉集の題詞・左注でこの字を用いてある場合、必ず男女の秘事に関する記述が見られる。 我が背子―夫や恋人に用いることが多い |
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大伯皇女と大津皇子は天武天皇の子で、同母の姉・弟の関係にある。母は天智天皇の皇女、大田皇女(持統天皇の同母姉)。当時も近親婚で、異母兄弟・姉妹間の婚姻は認められていたが、同母間のそれは禁じられていた。この姉・弟は明らかに、秘すべき禁忌の恋愛関係にある。
解説によれば、「『日本書記』に、九月九日天武天皇崩御、同二十四日大津皇子謀反、十月二日逮捕、翌三日処刑、とある。この伊勢下向はその九日間のこと・・・」とあります。大津皇子が何故謀反を起こしたのか、あるいはその嫌疑をかけられただけなのか分からないが、そのような身に危険が押し迫っている中で皇子は、大伯皇女に会いに伊勢へ行ったのである。皇子が大和へ帰るのは死を意味する。出立するその朝、大伯皇女の弟に対する愛情に満ちたこの二首の歌は、秀逸である。 |
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神風の―伊勢にかかる枕詞。 伊勢の国にもあらましを―いた方がよかったのに、の意。伊勢での暮らしもつらく悲しかったが、大津皇子のいない大和国にいるよりはよほどましだ、と言う気持ちを表す。 |
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見まく 大津皇子の居ない都に、埋葬に参列するために、大伯皇女が帰ってくる。「なにしか来けむ 君もあらなくに」「なにしか来けむ 馬つかるるに」と歌う。大事な人を失って、ぽっかり空いた虚ろな気持ち、自分にとってまったく無意味になった都に来てしまった。 |
164 この歌の次に、大伯皇女の歌が二首あり、その題詞に「大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に、大伯皇女の哀傷して作らす歌二首」とある。皇子の埋葬に来たのである。 |