私の万葉集 巻第一

天皇の御製歌おほみうた
1

もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 摘ます 家らせ 名告らさね そらみつ 大和やまとの国は おしなべて われこそれ しきなべて 我こそいませ 我こそば 告らめ 家をも名をも

万葉集冒頭の歌。求婚の歌。実におおらかだ。雄略天皇は、皇位継承者の兄達をことごとく殺して、皇位についている。また関東から九州までほぼ征圧し、朝鮮に拠点をもち、百済を保護し、高句麗や新羅と戦っている。天下人の例にもれず、色も好んだようである。このような立場でこのように歌える人は、歴史上そんなにいない。半ば伝説上の天皇のようだが、その足跡を知ると、おおらかで素朴な歌ではあるが、複雑な気分になる。

1
泊瀬朝倉宮はつせのあさくらのみやの世。所在不明。奈良県桜井市の東部に、五世紀後半ないし六世紀初頭と思われる建物跡が現れた。これが雄略天皇の皇宮朝倉宮跡とする説もある。雄略天皇(在位456-479)の歌。
ふくし―根菜類を掘り取るためのへら。
名告らさね―ネは希求の終助詞。古代では名をみだりに明かすことは忌まれ、男が女に名のれということは求婚の意志の表明であった。
そらみつ―大和の枕詞。
我こそいませ―イマスはいらっしゃるの意の敬語動詞。詔勅や口承文芸では天皇などの尊者が自敬表現を用いた例が多い。
天皇、宇智うちの野に遊狩みかりする時に、中皇命なかつすめらみこと間人連老はしひとのむらじおゆたてまるらしむる歌
3

やすみしし 我が大君おおきみの あしたには 取り撫でたまい 夕べには い寄り立たしし みとらしの あずさの弓の 中弭なかはずの 音すなり 朝狩に 今立たすらし 夕狩に 今立たすらし みとらしの 梓の弓の 中弭の 音すなり 

反歌
4

たまきはる 宇智の大野に 馬めて 朝踏あさふますらむ その草深野くさふかの

日常の天皇の行動と狩の様子を、そのまま詠んだ歌であるが、全体の調子がよく、反歌もすばらしい。情景が彷彿として浮かんでくるようだ。子どもの視点を交えて詠んだものであろうか。このような歌になるのは、やはり言葉の調子と歌全体の調子にあると思う。内容は二次的なものだ。
3
高市岡本宮たけちのおかもとのみやの世。奈良県高市郡明日香村の域内にあった舒明・皇極(斉明)両天皇の皇宮。現在地については諸説がある。舒明天皇(在位629-641)の世。
宇智の大野・宇智の野―大和国宇智群、現在の奈良県五條市大野町一帯の山野。
中皇命―伝不詳。間人皇女はしのひとのひめみことすれば、舒明天皇の皇女、天智天皇の妹、天武天皇の姉にあたる。
間人連老―伝不詳。皇女の乳母か。
やすみしし―我が大君の枕詞。原義不詳。
みとらし―ご愛用の。
―かばの木科の落葉高木の一種。弓の材。
中弭の音すなり―中弭は未詳。ハズは弓または矢の弦と接する部分。
たまきはる―命・ウチ・世のなどの枕詞。原義未詳。
並めて―ナメは、二つ以上のものを並べるナラベに対して、それ以上の多数整列させる意を表すことが多い。
額田王の歌
8

熟田津にきたつに 船乗りせむと 月待てば 潮もかないぬ 今は漕ぎ出でな

右、山上憶良大夫やまのうえのおくらだいぶ類聚歌林るいじゅうかりんただすに、曰く、「飛鳥岡本宮あすかのをかもとのみやあめしたおさめたまひし天皇てんわうの元年己丑きちう、九年丁酉ていいうの十二月、己巳きしつきたち壬午じんごに、天皇・皇后だいごう伊予いよの宮にいでます。後岡本のちのおかもとのみやに天の下治めたまひし天皇の七年辛酉しんいうの春正月、丁酉の朔の壬寅じんいんに、御船おほみふね西にしつかたにき、始めて海路うみつぢく。庚戌かうしゅつ御船おほみふね、伊予の熟田津にきたつ石湯いはゆ行宮かりみやつ。天皇、昔日むかしなほのこれる物を御覧みそこなはして、当時そのときに忽ちに感愛のこころを起したまふ。所以このゆえりて歌詠みうたつくりて哀傷したまふ」といふ。すなわち、この歌は天皇の御歌おほみうたなり。ただし、額田王ぬかたのおおきみの歌は、別に四首あり。

この有名な歌一首に、長い注釈を載せたのは、この歌が大きな歴史的事件の中で歌われていると分かるからである。
まず作者であるが、左注ではこの歌の成立のいきさつを記し、「この歌は天皇の御歌なり」としているが、題詞にあるとおり、額田王が作ったものであろう。当時、作歌を依頼した人が作者だという考え方も存したようであるし、斉明天皇の命で、額田王が作ったと解した方が、自然である。なお、斉明天皇は女帝で、舒明天皇の皇后であった。その後二度皇位(皇極天皇・斉明天皇)に就いている。
斉明天皇は、その時何故額田王に作歌を命じのであろう。女帝は熟田津に来て、二十二年前に夫君舒明天皇と熟田津の石湯の離宮に来たことを懐かしみ、「昔日の猶し存れる物を御覧して、当時に忽ちに感愛の情を起したまふ」とある。しかしこの歌は、その時の斉明天皇の心を汲んで、懐旧の情を詠んだ歌ではない。
このとき何故熟田津にいたのであろうか。熟田津は伊予(愛媛県)の松山市北部の和気町辺りとある。石湯は今の道後温泉である。朝鮮出兵の兵士達の見送りに、同船して来たのである。当時朝鮮半島では、唐・新羅軍に百済が攻められ、大和朝廷はその援軍を送ることになった。白村江(はくすきのえ)の戦いとなる軍勢である。一行はこれからさらに船旅で筑紫(九州)まで行き、女帝はその年の七月にそこで崩御してしまう。また翌月八月に白村江の戦いで、大和軍は大敗する。
つまり熟田津にいたときは、女帝は歌を作る体力・気力は無かったのであろうと推察される。自分は懐古の情に絶えないし、まともな歌を作る気力も残っていないから、歌の巧みな侍女に作歌を依頼したのであろう。額田王はこの船旅の目的を忘れず、さりげなく状況を盛りこんだ歌を作った、と思われます。このような背景を知ると、戦いのことなど微塵も感じさせないこの歌が、ひときわ際立ってくるように思われる。
古代国家の威信をかけた戦いだったから、船団は何十隻もの船であったろう。それらが静かに月の出を待っている。月も出てきた。ちょうど潮も満ちてきた。さあ、出航の時です。
8
後岡本宮のちおかもとのみやの世。先帝舒明天皇の飛鳥岡本宮の跡に宮地を定めた。岡本宮と区別するために後岡本宮と称する。斉明天皇(在位655-661)の世。女帝。
熟田津―松山市北部の和気町の辺りか。同市御幸寺山の麓とする説もあって、決定は困難。
船乗りせむと―フナノリは船に乗り込むこと。トはとての意。「天智記」二年(663年)に記事では白村江はくすきのえ(朝鮮半島)の戦の日本軍兵士の数は二万七千人とあり、この熟田津寄港の際に員数は不明だが、非戦闘員も含めてかなりの人数が幾多の艦船に分乗して出発しようとしていると思われる。
御船西つかたに征き―唐・新羅軍の攻撃を受けて滅亡に瀕した百済を救援するために難波を出発したことをいう。
昔日の―舒明十一年はこの斉明七年(661)より二十二年前。
この歌は天皇の御歌なり―斉明天皇の御歌。「類聚歌林」は実作者の名を載せずに代作を命じた上位者を正面に据える建前尊重の方針を執る。
(現代語訳)
右、山上憶良大夫の類聚歌林について調べてみると、「舒明天皇の九年十二月十四日、天皇と皇后は伊予の温泉の離宮に行幸された。斉明天皇の七年正月六日、天皇の御船は海路筑紫に向かって出発した。十四日、御船は伊予の熟田津の石湯の離宮に泊まった。天皇は夫君舒明天皇と来られた時の風物が昔のまま残っているのをご覧になって、すぐに懐かしく思われた。そこでお歌を作られ、悲しみのお気持ちを表された」とある。つまり、この歌は天皇(斉明)のお歌である。額田王の歌は別に四首ある。
15

わたつみの 豊旗雲とよはたくもに 入日いりひ見し 今夜こよい月夜つくよ さやけかりこそ

「入日さし」と憶えていた。この方が歌としてはいいだろう。豊旗雲のイメージが素晴らしい。これは情景描写として、ひとつの言葉がよく情景を表しているからだろう。
15
中大兄なかのおほえ 近江京おふみのみやの世。天智天皇(在位668-671)の世。天智天皇の歌。
わたつみ―海神。転じて海そのものをもいう。
豊旗雲―旗(幟状の古代のそれ)のように長く延び空を横断している雲。
天皇てんわう蒲生野かまふの遊猟みかりする時に、額田王ぬかだのおおきみの作る歌
20

あかねさす 紫草野行むらさきのゆき 標野しめの行き 野守のもり は見ずや 君がそで振る

・・・

20
蒲生野―近江国蒲生郡の野。今の滋賀県近江八幡市武佐南野、八日市市蒲生野・野口・市辺・蒲生郡安土町内野などの一帯の平地。
あかねさす―紫・日などの枕詞。サスは色や光を発する意。
標野行き―標野は一般の立ち入りを禁じた丘陵地。シメは神または特定個人の占有であることを示す標識。杭を打ち、縄などを張って囲った。
君が袖振る―君は大海人皇子(のちの天武天皇)をさす。袖を振るのは愛情を示す直接的行為。
皇太子わうたいしこたふる御歌みうた 明日香宮あすかのみやに天の下治めたまひし天皇、おくりなを天武天皇といふ
21

紫草むらさきの にほへるいもを 憎くあらば 人妻故ひとづまゆえに あれ恋ひめやも

記に曰く、「天皇の七年丁卯ていばうの夏五月五日、蒲生野に遊猟す。時に、大皇弟・諸王・内臣また群臣皆悉ことごと従ふ」といふ。

この20・21の相聞歌はおそらく史上最も有名な歌だろう。額田王の歌が素晴らしい。あかねや紫の色のイメージといい、標野という逢引にふさわしい場所といい、野守という番人への気遣いといい、遠くに見える恋人の大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)が袖を振る姿といい、また行き行きと重ねて使う言葉の調子といい、情景があざやかに浮かんできます。
左注を引いたのは、以上のように人から隠れた秘めた逢瀬かと思っていたが、天智天皇の威信をかけた大規模な狩だったことに、驚いた。諸王・内臣・群臣が悉く従うとあります。そのような中でも、逢引しようとするとは・・・。
額田王は、最初大海人皇子の妃であって、一女をもうけた。その後、この歌で人妻と呼ばれているので、天智天皇の妃となっていることが分かる。どのようないきさつでそうなったのか、定かではないが、未だに大海女皇子と額田王は互いに相思相愛の関係にあることが分かる。また、天智天皇の長歌で、昔も今も妻を争うものだ(13番)、と歌っている。おそらくこの三角関係のことであろう。
21
我恋ひめやも―メヤモは反語。第三句の「憎くあらば」という反実仮定を受けて、憎くないからこそ恋い慕うのだ、という気持ちを、屈折した気持ちで述べたもの。
天皇てんのう御製歌おほみうた
25

吉野よしのの 耳我みみがみねに 時なくそ 雪は降りける なくそ 雨は降りける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごとく くまも落ちず 思いつつぞし その山道やまみち

この歌は、前句を連ねながら、「思いつつぞ来し その山道を」という一点に集約されてくる。物思いにふけりながら山道を来たというのだが、この思いは政権抗争に伴うかなり具体的な感情の去来があったのである。
大海人皇子(後の天武天皇)は、大化の改新以来、中大兄皇子(後の天智天皇)とずっと行動を共にして、兄を立ててきた。天智天皇になってからは、皇太子になっている。天皇が死の床に臥したとき見舞いに行き、後継に指名されるが、天皇は当時の慣習に反して、子の大友皇子に皇位を継承させたい気持ちであることを察して、野心のない事を示すために、出家し、妃と共に旧飛鳥宮に一泊し、吉野に身を隠したのである。なお地図で見ると、芋峠の山越えの道は、飛鳥から吉野まで直線で10km位だから、一日行程であろう。
天皇崩御の後、大友皇子が陵の造営などを理由に兵を集めている等の不穏な情報が吉野に入ってくる。意を決して、大海人皇子は吉野から伊賀を経由して美濃に行き、東部の豪族を味方につけて兵を挙げ、ここに皇位継承争いである壬申の乱が勃発する。
八年後に当時を回想して作った歌であるが、平明な調子の中に「思いつつぞ来し この山道を」としか表現しようのない思いがあっただろう。くだくだ説明をしていない。またそれは歌にふさわしくない。
25
天武天皇(在位673-686)の歌。
耳我の嶺(山)―所在不明。
隈も落ちず―道の隈。隈は物陰にあって周囲から見えにくい所。カーブ。
その山道を―飛鳥から芋峠・上市を経由して吉野まで山越えし川隈沿いに徒歩で来た道をさしていったのであろう。
解説 天武八年(679)の吉野御幸の際に離宮で詠まれた歌であろう。天皇はその八年前の天智十年冬十月十九日死に瀕した天智天皇に皇位継承の野心のないことを示すために出家し、記の□野皇女(うののひめみこ)と共に近江京を離れ、旧京飛鳥の島宮に一泊して吉野に身を隠した。この「思いつつぞ来し」も思ヒには、愛と憎、不安、失意などさまざまな感情が込められていると思われる。
頁をめくる
次頁

巻第一終了。8首採集―全84首。

更新2007年7月15日
デザイン更新7月21日