わたしはイエスの実在を疑ったことはないが、イエスと同時代の紀元一世紀に生きたフラウィウス・ヨセフス(紀元37年?-100年) が書いたもののなかに、イエスについて記されている箇所があります。福音書以外にイエスが当時の資料でどのように言及されているか大変興味深いものです。ここに引用した『ユダヤ古代誌』が直接イエスのことを記録した唯一の文献だそうです。それだけで貴重なものです。ヨーロッパでは聖書とあわせてヨセフスの著作はよく読まれたそうです。訳者は註において非常な注意を払って、文章表現がヨセフス自身のものかキリスト教側の挿入の形跡はないか、注釈しています。
このなかで特に『フラウィウス証言』といわれているイエスに関する短い文章が、キリスト教側の文章挿入があったとかなかったとか、 やかましく論議されているようです。ヨセフスの本はキリスト教側でよく読まれ保存されてきたようですので、多少の修飾はあったように 思われますが、洗礼者ヨハネ、イエス、イエスの兄弟ヤコブと続けて読んでみると、イエスの歴史的実在は疑いようがないように感じます。(管理人)
以下『原典新約時代史』より
4.2 洗礼者ヨハネ、イエス、イエスの兄弟ヤコブについてのヨセフスの証言
新約時代史、とくにユダヤ史に関する資料としてのヨセフスの重要性についてはくり返すまでもないが、この他に洗礼者ヨハネ、 イエス、イエスの兄弟ヤコブについての有名で、重要な言明がある。このうちイエスについての証言の信憑性は疑われているが、 それなりに検討してみる必要があろう。
4.2.1 洗礼者ヨハネについての証言―ヨセフス『ユダヤ古代誌』18:116-119 本文
しかしユダヤのある人びとには、ヘロデ✽1 の軍隊の敗戦は神の復讐であるように思われたが、確かにそれは「洗礼者 ✽2」と呼ばれたヨハネになされた仕業に対する正義の復讐であった。というのはヨハネは立派な人 ✽3であり、ユダヤ人に正しい生活 ✽4をおくり、同胞に対する公正を、 神に対する敬虔を実行し、洗礼✽5に加わるよう 教え勧めたのに、ヘロデは彼を死刑に処したからであった。ユダヤ人たちが洗礼 ✽6を受ければ神に嘉納されるであろうが、それは彼らが犯した何らかの罪の赦しを 得るためではなく、肉体の浄化のためであった✽7。 霊魂は正しい行いによってその前に浄められていたからである。さてその他の人びと ✽8も彼の言葉を聴いて大いに奮起 ✽9させられて彼のもとに集まったとき、ヘロデはヨハネの民衆に対する大きな影響が 騒乱をひき起こしはしないかと恐れた。彼らはヨハネが勧めることなら何でもしようという気持ちになっていたからである。 そこでヘロデは実際に騒乱が起こって窮地に陥り、そのとき後悔するよりも、彼によってひき起こされるかも知れない反乱に先手をうって、 彼を殺すほうが上策であると考えた。そこでヘロデの疑念のためにヨハネは前述した砦のマカイルス ✽10に送られ、そこで処刑された。
註✽1 このヘロデはヘロデ大王の子で、ガリラヤ・ペレアの分封領主ヘロデ・アンティパス。彼の軍隊はナパタイ人の王アレタス軍に敗れた。この戦いはヘロデ・アンティパスが異母兄弟ヘロデの妻ヘロデアに恋慕して、彼女を奪って妻とし、それまでの妻であるアレタスの娘を離婚しようとしたのを感づかれ、妻は父アレタスのもとへ逃れたので、アレタスは軍を集め、ヘロデの軍を破った。この事件はティベリウス帝の死(紀元37年)より少し前と考えられるので、福音書におけるヨハネの死の年代とはずれがあり、ヨハネ処刑の理由も福音書(マコ6:14-29平行記事)とは異なっているが、これは両者の関心の差異はあっても全く両立しないわけでもない。アレタスの攻撃が数年後(前?)に起こったと見ることもできよう。✽2 「洗礼者と呼ばれた」はキリスト教側による挿入とも推定されるが、ヨセフスもヨハネの洗礼の実行について少なからず記しているから、強いて挿入と断定することはできない。ヨセフスの提示しているヨハネ像はキリスト教側のそれとは異なっており、終末論的・メシア論的要素は欠落している(ただし註✽4を参照)。✽3 スラブ訳のヨセフスではヨハネを「立派な人」ではなく「野人」の意に解しており、アイスラーはこれをキリスト教側の改変としている。しかしギリシャ語原本にその単語を記した写本はない。✽4 福音書(マタ3:7-12、ルカ3:7-14)もヨハネの道徳的訓戒を伝えているが、その主な関心は「来るべき方」の予告にあった。この書をローマで書いたヨセフスはそのような議論を避けたほうがよいと考えたであろうが、すぐその後でヘロデがヨハネの運動に革命的要素を感じとったと記していることからすれば、政治的な性格が全くなかったともいいきれない。✽5.6 「洗礼」は5と6では異なった言葉が用いられており、そのことからもこの箇所はキリスト教的挿入とは思われない。✽7 この記述も福音書におけるヨハネの洗礼の理解とは異なっており、ここに反キリスト教的立場が表明されているのかもしれない。なお、エッセネ派とバンヌスの洗礼に関するヨセフスの言明(p.443以下p.616)を参照。✽8 この表現は理解しがたく・・・など修正またはラテン訳「無数の群集」の採択が提起されている。しかしヨハネの教えを前に聴いて洗礼を受けた者と後続の者とを区別するために本文を修正する必要はないであろう。✽9 異本とエウセピオスでは「狂喜させられる」。✽10 マカイルス・死海の東6キロ、モアブ山岳地にあるキルベト・ムカウエルと比定され、標高736m(死海水面より1128m)の山頂にある城砦でペレア南端を固める防砦でもあり、強固な城壁、櫓、地下牢が残っている。ハスモン朝のアレクサンドロス・ヤンナイオスが築造、ローマのポンペイウスの武将ガビニウスに破壊されたが、ヘロデ大王が再建し、マサダ、ヘロディウムとともに三大要塞の一つとされたが、第一ユダヤ戦争の末期ローマ軍の将バッススに占領された。福音書ではヨハネが処刑された場所を記していないし、ヘロデの誕生日の祝宴が開かれたのは彼の首都ガリラヤ湖畔のティベリウスの方が相応しいようであるが、ヨハネの処刑と関連すると、やはりマカイルスをとるべきであろう。4.2.2 イエスについての証言(フラウィウス証言[Testimonium Flavianum ])
『フラウィウス証言』について
・・・解説の前・中般は省略・・・従ってこの『フラウィウス証言』は全体がキリスト者による偽作とするか、 ヨセフスの原文にキリスト者の解説が挿入されたかのいずれかであるか直ちに決定しがたいが、さし当りは後者の見解に立つとしよう。ヨセフス『ユダヤ古代誌』18:63-64 本文
このころ✽11、イエスという賢人 ✽12―実際、彼を人 ✽13と呼ぶべきであるとすれば―が生きていた。 驚くべき業を行い、喜んで真理✽14を受け容れた 人々の教師であり、多くのユダヤ人とまた多くのギリシャ人 ✽15を誘って帰依させた。彼はキリスト✽16 であった。ピラトは彼が、われわれの間の高位の人びとによって告訴されると十字架刑の判決を下したが ✽17、最初に彼を愛するようになった人びとは 彼を愛することをやめなかった✽18。というのは 三日目✽19に彼は復活して彼らに現れたのは、 神の預言者たちがこれらのことと彼についての、その他の無数の驚嘆すべきことがらを語っていたからであった。 彼によってキリスト者と名づけられた族✽20 は今もなお消え失せてはいない。
註✽11 「このころ」 ヨセフスはこの『フラティウス証言』のすぐ前段にピラトの挑発によって起こったユダヤ人の二つの騒動、すなわち、(1)ピラトが皇帝の像を描いた軍旗をエルサレムに持ちこんだこと、(2)水道建設にエルサレム神殿の基金を流用したこと、を挙げており、「こうした騒動は終わった」(マコ15:7など参照)と結んでいる。従って、この「騒動」との関連で、イエスの「メシア(キリスト)的騒乱」に言及したとすれば、必ずしも文脈上の大きな中断はない。『証言』に続く記述(18:65以下)はイーシス女神礼拝ををめぐるローマの貴婦人のスキャンダルとユダヤ人のローマ追放で、『同じころ』とあるが、実際はタキトゥウスによれば紀元十九年のことである(この年代自体にも問題はあるが)。従って『証言』の箇所を削除すれば、前後の文脈が整合的になるとは断定できない。✽12 「賢人」この呼称はキリスト教的ではない。✽13 この箇所は明白にキリスト教的挿入である。キリスト者以外の者はイエスを「人」と呼ぶことをためらうはずがない。✽14 「常ならぬこと」になる読み替える説もある。✽15 この「ギリシャ人」もキリスト者の挿入と見なされるが、ヨセフスが異邦人キリスト者についての知見がなかったとはいちがいに断定できない。✽16 「いわゆるキリスト」と読む提案もあるが、写本の裏付けはない。ただし20:200でヤコブは「キリストと言われたイエスの兄弟」と記されている。✽17 この箇所は福音書の記述に一致しているが、それ故にキリスト者の挿入とすることはできない。✽18 この表現もとくにキリスト教的なものではない。✽19 この箇所の原文にあった「彼ら(キリスト者)の報告によれば」という章句がキリスト者によって削除されたとする説のある。しかし「復活」の記事はやはりキリスト者の挿入であろう。✽20 「族」という言葉は原始キリスト教の文献には見出されない。二世紀にはキリスト者はユダヤ人でも異邦人でもなく、新しい民族と呼ばれるようになる(『ディオグネートスへの手紙』)。4.2.3 「イエスの兄弟」ヤコブの死―ヨセフス『ユダヤ古代誌』20:199-203
ヨセフスは「洗礼者」ヨハネの場合と同じく、「イエスの兄弟」ヤコブの死についても、当時の 政治史の中から言及している。このほかにエウセビオス『教会史』2.23.4-18に、ヘゲシッポスの『回想録』から引用したヤコブの死 に関する別個の伝承があり、さらに『ナグ=ハマディ文書』のなかに1965年にテキストが公表された『ヤコブの黙示録』の第二に、 ヤコブの殉教に関して、ヘゲシッポスに近いが、より詳細な報告がある。アンナス二世✽21は前述したように大祭司に 任命されたが、その気性は性急で、また異常にずぶとくあった。彼は私がすでに説明したように裁判の席についたとき、いかなる 他のユダヤ人たちよりも無情であったサドカイ派に属していた。そのような人間であったので、アンナスはフェストゥス ✽22が死に、アルビヌスは赴任の途に あるのを好機と考えた。そこで彼はサンヘドリンの裁判官を召集し、彼らの前にキリストと呼ばれたイエスの兄弟で、 ヤコブ✽23.24という名の男とその他の人びと を引き出し、彼らは律法に違反していると告発し、彼らが石打ちの刑に処せられるよう引き渡した。エルサレムの住民で公正な 心をもち律法の遵守に厳格であった人びとはこのことを憤った。そこで彼らは秘かにアグリッパ王 ✽25に使いを送り、アンナスはその最初の 行動からして正しくなかったのだから✽26、 王がアンナスにそれ以上の行動をさしひかえるよう命じることを要望した。彼らのある者はさらにアレクサンドリアから旅中に あったアルビヌスに面会に行き、アンナスが彼(アルビヌス)の承諾なしにサンヘドリンを召集する権限はないことを彼に知らせた。 アルビヌスはこれらの言葉に動かされ、怒って✽27 アンナスに書簡を送り、報復するぞと威嚇した。アグリッパ王はアンナスをこのような行為のために三か月在任の大祭司から解任し、 タマムナイオスの子イエスを後任者とした。
註✽21 アンナス二世は福音書においてイエスの逮捕・審問に関与したアンナス(一世)の子。ヨセフスは二世の酷評と対比して一世の方には賛辞を呈している。すなわち彼は「熱心党」に勇敢に反対し(『戦記』Ⅶ160以下)、私益よりも公益を優先し、政治家・弁論家としても有能であった(『戦記』Ⅳ319-321)というのである。✽22 フェストゥスはユダヤ代官(ローマ総督)在任期間二ヵ年足らずで、62年現職のまま病死し、後任代官アルビヌスの着任まで空位期が生じたのである。✽23 エウセビオス引用のヘゲシッポスによると、ヤコブ処刑の事情は次のとおりである。民衆の指導者のうち多くの者がイエスをキリストと信じるようになったので、「ユダヤ人、学者、パリサイ人」は、ヤコブが民衆を危険に陥れているものとみなし、ヤコブのもとに行き、ヤコブがイエスの名で民衆を惑わしていることを神殿の頂上からユダヤ人にも異邦人にも公言するようにと勧める。ところがヤコブは神殿の頂上から、「人の子が大いなる力(ある者)の右に座し、天の雲に乗って来るであろう」(マタ21:9、マコ11:9、ルカ19:38、ヨハ12:13参照)と証言する。これに対し民衆は「ダビデの子に、ホサナ」と喚声をもって答える(マタ21:9、マコ11:9-10、ルカ19:38、ヨハ12:13参照)。そこで「学者、パリサイ人」は、ヤコブが民衆を惑わし続けるものと判定する。彼らは、ヤコブくを石打ちの刑に処するために神殿の頂上から突き落としたが、彼は死なず、立ち上がり、ひざまずいて「主よ、父よ、神よ、彼らをゆるしてください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34、行7:60参照)と祈った。彼らはヤコブに石を投げ続けた。そのとき、レカブ人の子孫で、祭司の一人が立って「止めよ、何をするのか。義人はあなたがたのために祈っているのに」と言った。しかし、一人の布晒し職人が進み出て、布を晒す木でヤコブの頭を打ったので、ヤコブは殉教の死をとげ、その場すなわち神殿の側に葬られた。このヘゲシッポスの記事には福音書のイエス像、使徒行伝のステパノ像との等置が試みられ、さらに聖者伝説的要素が多いし、またヤコブの処刑はパリサイ派ではなく、サドカイ派の干渉によるものと思われるので、ユセフスの記述の方が信憑性が多いとみなされている。新発見の『ヤコブの黙示録』では、三つのモチーフが結合されている。第一はヤコブは神殿の頂上から突き落とされたが死ななかったので、石打ちにされたというヘゲシッポスの記事にもあるモチーフである。第二は、ヤコブの石打ちの刑を『サンヘドリン』六の規定に合致させようとする試みで、この規定によると、刑の執行人は受刑者を郊外の処刑場に引き立てて行き、彼を小高い丘の上に立たせ、ここから下の穴の中に突き落とし、それでも死ななかった場合には、仰むけにして身体をひき伸ばし、陰部を隠すために腹まで蔽って、その上に大きな石を投げ落とし、その重みで受刑者を殺すことになっていた。そしてその際、刑の執行人は受刑者に向かって、「誘惑者よ!」という。『ヤコブの黙示録』では、第一と第二のモチーフを組み合わせるために、ヤコブをもう一度立せて、彼自身に穴を掘らせて、その中に埋め、「腹まで蔽って」石打ちの刑に処している。第三のモチーフは、使徒行伝のステパノ処刑の記事に見られる私刑(リンチ)を思わせるもの、すなわちヤコブを「ひきずっていった」とか、「足蹴りにした」とかである。その後、ヤコブは手を拡げて神に呼びかけ、死・肉体・審き人・苦難からの救済を祈願して、息をひきとる。このヘゲシッポスと『ヤコブの黙示録』との比較研究については、荒井献『原始キリスト教とグノーシス主義』岩波書店、1971年、70-75頁参照。✽24 上記の『フラウィウス証言』と異なり、このヤコブの章句についての信憑性を疑う学者は少ない。もしそれがキリスト教的挿入であれば、ヤコブに対していっそうの賛辞が捧げられていたであろう。なおヨセフスでは「キリストとよばれた」とあるのを、エウセビオスが・・・と配列を換えているのは、「キリスト」に力点をおいたためだろう。✽25 アグリッパ二世(紀元27-100頃[異説93年頃])。彼はユダヤ王アグリッパ一世の子で、ユダヤ王位は継承せず、カルキス王に留まったが、エルサレムの大祭司任免権と神殿財産管理権は保有した。✽26 すなわち、アンナスはアルビヌスの承認なしにサンヘドリンを召集したからであろう。「アンナスが不正を行なったのは、これが最初ではなかった」とも訳することができる。✽27 アルビヌスが怒ったのは、アンナスが彼の承認なしにサンヘドリンを召集したこと以上に、代官の権限とされた死刑執行権を侵犯してヤコブを無断で石打ちの刑に処したためとも推定される。
公開日2007年11月25日