イエス伝 資料編

「人の子」について

イエスは自分のことを「人の子」という。昔から不思議に思っていた。自分を特別な存在と思っている人の言い方であるのが 感じられるが、「人の子」は複数形の「人の子ら」と共に、死すべきものとしての人間一般を指している言葉である。それが単数形 として特別な存在者の一種の称号として用いられるようになった。イエスが突然使い始めたわけではなく、何らかのユダヤの伝統が あったはずである。イエスを解くひとつの鍵がそこにあるような気がしていた。その解説がなかなか見つけられなかったが、 ここに『原典新約時代史』(1986年山本書店 著者 蛭沼寿雄・秀村欣ニ・新見宏・荒井献・加納政弘)から、 「第二編六黙示文学6.2黙示文学の主要概念(D)人の子」を全文を引用します(P.719-728)。

ここに載せた解説・文献を読むと、専門家の間でもいまだ解明されていないことが分かる。『第一エノク書』ではほとんど 「メシア」と同義語に近い使われ方をしています。これが黙示文学に深い関係があることが分かるし、またそれらの文献が イエスの生存当時かなり流布していたが、多くのものが失われてしまったことも分かる。福音書を読む限り、イエスの宣教の 初期の頃、故郷のナザレに帰って冷たく遇され、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」 (『マタイ伝』8:20) とイエスが言ったとき、弟子たちは特に違和感を感ずることなくその自称を聞き、またその言葉に 特別な意味を察することもなかったところを見ると、この言葉は当時知る人ぞ知るジャンルで知られており、その言葉の 特別な意味が一般に通じていなかったのではないかと思われます。

なお『エノク書』は旧約聖書では正典でなく外典でもなく、偽典に分類されており、『第一エノク書』はエチオピア語、 『第二エノク書』はスラブ語の文献だそうです。また黙示文学は紀元前二世紀中葉から紀元後一世紀末に最盛期であったことも、 イエスの活動時期を考えると興味深いことです。なお黙示文学については、 こちらのサイト「黙示文学について」 に好個の解説があります。(管理人)

以下『原典新約時代史』より

(D)人の子

福音書に用いられる「人の子」という呼称をめぐる多くの問題は到底ここに詳述できないし、ましてそれらに回答を与え ようなどとは考えない。新約学の諸問題の中で、これほどユダヤ文学およびその周辺の文献に関する深い学識を必要とする課題は ないであろう。

以下にあげるのは黙示文学のなかで「人の子」が用いられている章句であって、この呼称を論議する場合に絶対に無視できない 箇所である。この他、すでに6.1.6(694頁)に出てきた「人」という語も、ほぼ確実に「人の子」と密接な関係があるであろう。

6.2.8 ダニエル書7:1-14

バビロンの王ベルシャザルの治世元年に、ダニエルは床に横たわっていて夢と幻を見た。 彼はその夢を書きとめておいたのだが、それは次のようなものであった。
「わたしが幻を見ていると、天の四方から風がおこって大海を波立たせた。すると海から 四つの巨大な獣があらわれたが、それらは一つ一つ異った形をしていた。
第一の獣はライオンのようで、鷲の翼ををもっていた。わたしが見ていると、獣は地から おこされて人のように足で立った。そして人間の心がこれに与えられた。わたしの見た第二の獣は第一のと違って、 熊のようであったが、これはからだの片側をおこし、口の中の歯の間に三本の肋骨をくわえていた。この獣に対して 命令する声があり、「起きよ。たくさんの肉を食らえ」といった。そののち、わたしが見ていると、もう一匹の獣は豹のようで、 背には四枚の鳥のつばさがあった。また四つの頭があった。この獣に権力が与えられた。
やがて、わたしは夜のまぼろしの中にもう一つの幻を見た。第四の獣で、これはおそろしく、 ものすごく、極めて強かった。この獣は巨大な鉄の歯を持ち、それで物を食い、食べ残したものはすべて足の下に踏みつけた。 また、この獣は前の三つの獣とちがって、十本の角をもっていた。
わたしがこれらの角を見ているうちに、もう一本の小さな角がその間から生えて出た。そして、 さきの十本のうち、三本はこの小さな角に道をゆずるために根こそぎ抜かれてしまった。この小さな角に、人間の眼のような 眼があり、また口があって高慢なことばをしゃべりちらしていた。
それからわたしが見ていると、
王座が設けられ、
多くの日をへた、老人が王座についていた。
その衣は雪のように白く
髪の毛は純粋な羊毛のようで
その王座は燃えさかる炎であった。
彼のおられるところから
火が 流れるようにほとばしり、
何千、何万という人が、御前に立った
やがて法廷が開かれ、
巻物がくりひろげられた。
例の角が語る大言壮語はまだわたしの耳にひびいていたが、わたしが見ているうちにその獣は殺され、 死体は火の中に投げこまれて滅びた。他の獣たちは権力をうばわれたが、なおしばらくの間、生命を与えられていた。
わたしは夜の幻を見つめた。
すると、天の雲にのって
人の子のようなもの✽1があらわれた
彼は、多くの日をへた老人の所に来て
その御前に案内された。
彼に対して
主権と栄光と王位とが与えられ
すべての民族、国民、国語のものが
彼のしもべとなった。
その主権は永遠の主権で
過ぎ去ることがなく
その王国は滅びることがない。
✽1 「人の子のようなもの」この解釈については多くの説がある。 有力な説はイスラエル民族(あるいはその中の敬虔な者)をさすとする説で、7:27によれば、国も主権も栄光もみな至高者の 聖徒の民に与えられる、とあって、この節と符合するが、他方、古代神話における天的な「人」-メシア的存在-と解する説もある。 おそらくダニエル書においては先の四つの獣によって象徴される異邦諸国に対して「人間」のシンボルをもってイスラエルを あらわしたとする見方が妥当であろう。第一エノク書との関連について、また「人の子」の解釈をめぐる諸問題については、 以下の文献を参照されたい。・・・参考図書五冊省略・・・

6.2.9 第一エノク書 48. 69:26-29. 71:14-17

第一エノク書の中心を形成する37-41章は、『エノクの譬』という名で通常よばれている。この部分には 「人の子」と称する人物がしばしば登場する。この部分の著作年代については多くの説があるが、新約聖書の最も初期の文書よりも 古いことはほぼ確実である。一説によれば約二百年近くも古いともいう。したがって『エノクの譬』が、イエスの思想や表現に影響 を与えた可能性も充分考えられる。

(A)38
そこに ✽2わたしは、つきることのない
義の泉を見た。
そのまわりには多くの知恵の泉があった。
渇く者はすべてそこから飲み、
知恵にみたされた。
彼らの住居は義人、聖者、選ばれた者らと共にあった。
そのとき、あの人の子が
諸霊の主✽3の み前で名づけられた。
彼の名は、日のかしら✽3よりも前に
しかり、太陽としるしが創られる前に✽4
天の星々が造られる以前に
諸霊の主の み前で名づけられた。
彼は義人が倒れぬためによりたのむ杖となり
異邦人の光となり
思い悩む者の望みとなる。
地に住むすべての者はひれ伏して彼を拝み
諸霊の主をあがめ、祝福し、歌をもって賛美する。
このゆえに彼は世のはじめの先から永遠に
選らばれて主のみ前にかくまわれていた✽5
諸霊の主の知恵は聖者・義人に彼を啓示した。
彼は義人の運命を守護した。
それは義人らがこの不義な世を憎み、忌みきらい
この世の業と道とのいっさいを諸霊の主の み名にかけて憎んだからである。
その み名によって彼らは救われ✽6
彼らの生命にかかわるさだめは主の みこころにかなっていた。
その日には地の王たちの面目は失われ、
自分の手の働きによって地を所有する権力者も同様になる。
彼らは苦しみなやみの日に自分自身を救うことができない。
わたしは彼らをわたしの選んだ者たちの手に渡す。
藁が火に燃えるように彼らは義人の面前で焼きつくされる。
彼らはあとかたもなく消える✽7であろう。
彼らのほろびの日には地上に安息が来る。
彼らは倒れて再び起き上がらす、
彼らを手でかかえ起こす者は一人もない。
それは彼らが諸霊の主と受膏者✽8とを無視したからである。
諸霊の主の み名はほむべきかな。
✽2 「天」の意。
✽3 ともに神を遠まわしに表現した、エノク書に多い用語。
✽4 本書における「人の子」は、ダニエル書よりもはるかに「天的」存在である。ここでは「あの人の子」とあって、読者の知識を前提としている上、「先在」の思想がはっきり出ている。
✽5 この「人の子」は創造以前から「先在」するが、現世においてはなお「かくされた、秘密の」存在であり、この秘密は「聖者・義人」にのみ啓示される。この節から明らかなことは、「人の子」がダニエル書における場合と異なり、選民の集団と解することができないことである。
✽6 救われる義人が苦しみから救われることを意味する。新約にあるような意味で「失われたものの救い」もしくは「罪からの救い」などの意味はない(ルカ19:10等参照)。
✽7 本書では悪人は完全にほろびるのであって、未来永劫の罰という思想はない。
✽8 油そそがれて任職された「預言者、祭司、王」等の意味であるが、この書ですでに「メシア」が特定の称号であったか否かについては説の分かれるところである。

(B)69:26-29

彼らの間に大きな喜びがあった。
彼らは神を祝福し、栄光をたたえ、賛美した。
あの人の子の名が彼らに啓示✽9されたからである。
彼はその栄光の王座につき
審判のすべくくり✽10が人の子に与えられた。
彼は罪人らをほろぼし、地上から消え去らせ
世を迷わす者どもをほろぼした。
彼らは鎖でつながれ
滅亡の刑場に囚われた。
彼らのすべての業は地上から消滅し
今からのち、罪に汚されるものは一つもない。
あの人の子があらわれ、
彼が栄光の王座についたからだ。
彼の面前からすべての悪はすぎ去り、
あの人の子のことばが発せられて、
諸霊の主の前で力を得る。
これがエノクの第三の譬である。
✽9 終末のときには従来かくされていた「人の子」の名が一般に啓示される。
✽10 審判のすべての権威、全権。ヨハ5:27参照。

(C)71:14-17

それから彼は私のところに来て、声を出してわたしに挨拶して言った。

これこそ義のために生まれた、人の子
彼の上に義はとどまる
日のかしらの義は彼を離れることがない。
そして彼はわたしに言った。
彼はあなたに、来るべき世の名において平和を宣言する。
それゆえに、世の創造以来の平和が生まれ、
とこしえからとこしえまで、つづくであろう。
そして、すべての者は彼の道を歩むであろう。それは公義が決して彼をはなれることがないからだ。
彼とともに彼らの住居はあり、彼らの 業はある。
彼らはとこしえからとこしえまで彼をはなれることがない。
あの人の子の日は長くつづき、
義人は、諸霊の主のみ名において
とこしえに平和と正義に道を保つであろう。

頁をめくる
次頁
頁をめくる
前頁

公開日2007年11月23日