イエス伝

2 イエスの生誕にまつわる伝説

その1 イエスはベツレヘムで生まれた

イエスはベツレヘムで生まれたということになっています。これはクリスマスの話で、東方の博士たち(占星術の学者たち)が、 明るい星を見て「ユダヤの王」が生まれたことを知り、ユダヤのベツレヘムまで来て、イエスの誕生を祝福する話で有名です (『マタイ伝』)。また野宿をしながら夜通し番をしていた羊飼いたちに天使が現われて、ダビデの町に「メシア」が生まれたことを 知り、ベツレヘムにやってきて飼い葉おけのなかのイエスを見つけます(『ルカ伝』)。 いずれもベツレヘムで生まれたイエスを祝福する記述です。イエスは生まれた ときから、「ユダヤの王」であり「メシア」として語られます。この話は、 他の福音書には書かれていません。マタイとルカだけが取り上げた話です。ベツレヘムは、エルサレムの近郊にあり、 故郷のガリラヤ地方のナザレの村からはかなり遠い。なぜベツレヘムで生まれたのでしょうか。 あるいはベツレヘムに生まれなければならなかったのでしょう。

この経緯は、『ヨハネ伝』の次の記述を見れば判明します。

7 40この言葉を聞いて、群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、41「この人はメシアだ」と言う者がいたが、このように言う者もいた。「メシアはガリラヤから出るだろうか。42メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」(『ヨハネ伝』7:40-7:42)

この群集の中の発言から、メシアはダビデの家系で、ダビデの町ベツレヘムから出るとユダヤの人々に信じられていたこと が分かります。 福音書の筆者が、イエスの正統性を証しするために、イエスはダビデの家系でかつベツレヘムで生まれなければならぬ、と考えてこの話を 挿入したことが分かります。またこの二つの福音書には、父ヨセフの系図がアダムまでさかのぼって紹介されていますが、 二つの系図は全然一致していない。このように見てくると、どうしてもイエスはベツレヘムで 生まれなければならなかったし、父ヨセフはダビデの末裔でなければならなかったので、福音書の筆者は、 イエスの生誕の場所と系図を伝承に合うように創作して、イエスの正統性を証したように思われます。 実際は、ヨセフは系図などまったく明らかでない市井の庶民で、 イエスはナザレで生まれたとしても何ら不都合はないと思います。いずれにしてもここで分かることは、イエスは ユダヤの伝統のなかから生まれたということです。

その2 マリアは聖霊により身ごもった

イエスや聖書について何も知らない人も、マリアが聖霊により身ごもってイエスが生まれたとする奇怪な教理は、 世界中誰一人知らないものはないと思われるほど人口に膾炙しています。布教効果は絶大なものがあります。

この受胎告知及び処女懐胎の伝説は、イエスがベツレヘムで生まれたとする話と同様に『マタイ伝』と『ルカ伝』 にのみ書かれています。一番最初に書かれたとされる『マルコ伝』にも、一番最後に書かれたとされる『ヨハネ伝』 にもそのような記述は一切ありません。これが当時イエスの信奉者の間で一般に信じられていた事であるとすれば、 すべての福音書が書かなければならない大事件でしょうが、そうなっていないところを見ると、『マタイ伝』と『ルカ伝』 の著者が考え出したか、あるいは著者が参考にした当時の言い伝えや記録類に、処女懐胎の話があったのでしょう。『マタイ伝』 では次のように書かれています。

1 18イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。 母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。 19夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、 ひそかに縁を切ろうと決心した。 20このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを 迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、 「神は我々と共におられる」という意味である。(『マタイ伝』1:18-23)

イザヤ・ベンダサンは『日本人とユダヤ人』のなかで次のように書いている。 「ある“ものずき”が調べたところによると、ユーラシア大陸の西から東まで、処女降誕で生まれた人間は 1856人いるそうである。もっともこれは調べがついた人数で、記録に残らなかったものまで含めれば、実に膨大な数となろう。 とすれば処女降誕伝説は別に珍しいことではないことになる。・・・ところが処女から生まれた人間が絶対に存在しなかった 民族が二つある。一つはユダヤ人でもう一つは日本人である」 ✽1。同じく同書のなかで、マタイの主眼はイザヤ書 の予言が 成就されたことを示すためにマリアの処女懐胎をもってきており、それに比べて ルカは全くそういう意図なしに受胎告知・処女懐胎を記述しているので、この伝説はルカが元凶であると説明している。 ルカはおそらくギリシャ人であったと推定されていますし、また福音書をユダヤ以外の人々を対象に書いたようです。 こうなるとイエスの物語は、発生した地域性すなわちパレスチナのユダヤ人を完全に離れてしまいます。 『ルカ伝』は、本来の聖書ではなく、非ユダヤ人を対象にして書かれた文書となってしまっています。 いずれにしても、イエスの信奉者が段々多くなり地中海沿岸の地域に広がっていく過程で、布教の必要上考えだされたものでしょう。 師を弟子たちが尊敬し飾り立てるのは、一般的傾向であるし、まして「神の子」であるとすれば、尋常な飾り立てではダメで、 特別仕立てのものが必要だったでしょう。また、伝道によって信奉者はパレスチナから小アジアやエジプトに広がり、 ギリシャ語圏で生活している人々も増えていったと思われます。ユダヤ圏ではなく異なった文化圏で布教するには、 新しい衣を着せる必要があったと思われます。処女懐胎と聖母マリアの伝説は、布教の強力な武器になったのです。

聖母マリアについて付言すれば、イエスにとってマリアは決して聖母ではありません。イエスはマリアにかなり冷淡だった といえるでしょう。聖母マリアの伝説は、後にキリスト教として一派をなすようになった教団の組織的要請よって 作られたものです。マリアについては、後の章でふれるようになると思います。

ゲザ・ヴェルメシュは『ユダヤ人イエス』のなかで、処女懐胎がユダヤ的伝統のなかには見出されず、全く非ユダヤ的なものであることを説明して、次のように 述べています。「この誕生物語とその物語の目的との間に、矛盾のあることは明白である。一方において、神によって受胎した子が処女の母から 生まれており、他方では、系図に述べられているように、イエスは正統なダビデの子孫であることを示そうとしている。というのは、 もしヨセフがマリアの懐胎に何のかかわりもないとすれば、その系図を作製しようとした意図は空しいものになる。というのは、 ヨセフにあるダビデ王朝の血がイエスに伝わっていないことになるからである。・・・もし、一方をとって、ヨセフが父である と想定したとすれば、(「もし系図が何らかの意味をもっているとすれば、唯一可能な結論」はこれであろう)、堅固に打ち建て られている処女誕生の伝承というものは、どんな意味のものとされるべきなのか。というのは、イエスの復活の場合、とにかく そのことは予想されていなかったゆえに、復活をでっちあげたとしても意味がなかったのと同じように、処女誕生を造り出すような 聖書的理由は何もなかったのである。というのは、メシアがそのような仕方で生まれるということは、旧約聖書時代のユダヤ教でも、 中間聖書時代のユダヤ教においても、信じられたことはなく、まさかそんなことがあったとは思われないのである」 ✽2

イエスはその言動の実によって知られるべきものであって、その奇妙な出生の不思議によって正統化されるべきではありません。 まったく余計なことを考え出したものである。


✽1 イザヤ・ベンダサン『日本人とユダヤ人』11処女降誕なき民(血縁の国と召命の国)
✽2 ゲザ・ヴェルメシュ『ユダヤ人イエス―歴史家の見た福音書』第八章神の子イエス 補注  神の子と処女誕生
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公開日2007年9月1日
更新2009年7月21日