イエスの生きた当時、パレスチナはローマの統治下にありました。イドマヤ出身のヘロデ王(在位紀元前37年 - 紀元前4年) は、ローマから王の称号と大幅な自治権を得て、長い間この地域一帯を治めていました。ヘロデが死んでから、三人の息子が領主 として後を継ぎます。 ユダヤと呼ばれていた地方は、南からイドマヤ、エルサレムのあるユダヤ、その北のサマリアからなっており、 ヘロデの息子のアルケラオスが統治しますが、治世に失敗し、ユダヤの住民がローマに直訴した結果、 それが受けいれられてアルケラオスは追放されます。同時にユダヤ地方は紀元6年ローマの属州となり、直接統治のためローマから 総督が派遣されていました。 一番北のガリラヤ地方は、 ヨルダン川東部のペレアとともにヘロデ王の息子のヘロデ・アンティパス(在位、紀元前4年-紀元39年)が領主として治めていました。 ヘロデ・アンティパスの長い治世は、小さな騒乱はありましたが、比較的平穏な時代でした。 また彼の治世はイエスの生涯と時代も地域もほぼ重なります。
イエスの育ったガリラヤ地方は、東にガリラヤ湖をかかえ、気候温暖で、景色が美しく、耕作に適し、オリーブの産地として 知られていました。また外部の圧力に対して反骨の気風が強かったようです。これはいったん事あれば反逆者になりうる風土でもあり、 実際ガリラヤは時に騒動の発生源にもなっていたのである。 紀元一世紀の歴史家ヨセフスは次のように書いています。 「ガリラヤの住民は、これだけの土地しかなかったが、強力な異民族に四方から脅かされていたため外部の攻撃には常に抗してきた。 彼らは幼いときから好戦的であり、いったん戦闘が起これば多数の住民が武器を手にした。彼らは決して臆病になることはなく、 員数が不足することもなかった。というのは、ガリラヤ全土が肥沃で緑も豊かであらゆる樹木に恵まれているという好条件に魅せられて、 労働を全く好まない者までこの地に集まってきたからである。事実、全土が住民によって耕されており、荒地は まったく見られなかった。町も密集して存在し、村といえどもその多くは肥沃な土地のおかげで多くの住民に恵まれ、最も小さい村でも 一万五千の人口を有していた」✽1。
ユダヤ地方のユダヤ人の中では、長い歴史の中から培われて自分たちが正統的なユダヤ人だという意識が強かったせいで、 それぞれの地域を蔑視して次のように見ていたようです。イドマヤは異邦人の住む土地と思われていたし、サマリアは異民族と 多く交じり合ったことから、サマリアの地には足を踏み入れない、またサマリア人とは付き合わないという不文律があったようです。 ガリラヤ人は、気性は純朴であったが激しやすい気質をもっていたので、常に騒動を起こす奴らとも見られていたようです。 またユダヤ教の生活規範の面では細かい決まりを守ることに頓着しなかったので、粗野で教養がないとされていたし、 言葉に独特の訛りがあり、ガリラヤ方言のアラム語を喋っていたことも蔑視の的になっていたようです。 すべてにおいてガリラヤ地方とガリラヤ人は、田舎あるいは田舎者と見られていました。 イエスもガリラヤ訛りで喋っていたのだろう。✽2
ガリラヤ地方を地図で見ると、およそ四十キロメートル四方の枠内に納まってしまいます。健脚の人なら平地では一日で通り 過ぎることのできる、相当に狭い地域である。イエスの育ったナザレも、歩けば家々が見え、往来には時に行き交う人もあり、 人々が働いたり生活している姿が見えたことでしょう。もう少し歩けば、丘陵地のなかに次の村が見えて来ることでしょう。 イエスは弟子たちを布教の旅に出すとき、パンも金も袋も下着二枚も持つことを許さず、ただ杖と履物だけで送り出している ✽3。
このガリラヤの南部にあるナザレという村がイエスの故郷です。
公開日2007年9月1日
更新2009年7月14日