イエス伝研究 年代記

イエスはいつ十字架にかけられたのか

イエスを十字架刑にかける判決を下したのは、当時のユダヤの総督であったポンティオ・ピラトであるから、大枠では彼の任期 つまり紀元26 - 36年のどれかの年にイエスは亡くなったことになる。

また、イエスは「およそ三十歳」で宣教を開始してから、何年くらい教えを説いていたのだろうか。これがはっきりわからない。 イエスが宣教を開始してから何回エルサレムに行ったかということは一つの目安になりますが、『マタイ伝』『マルコ伝』『ルカ伝』 はどれも、イエスがエルサレムへ行くのは十字架刑にかけられる最後の時だけです。「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、 ありえないからだ。」(『ルカ伝』13:33)と言ったイエスは、自分がエルサレムへ行くこと及びその時期を極めて象徴的に 考えていましたので、これはそれなりに真実味を帯びています。またイエスの宣教期間は意外と短かったのではないか、と推測の根拠にも なっています。一方『ヨハネ伝』のみは過越しの祭りのエルサレムに三回行ったことが記述されております✽1。 三回目は最後の時です。 一般に『ヨハネ伝』は伝記性に乏しい書き方をしておりますが、時折具体的な事柄を書いている箇所もありますので、あながち 無視できない面もあります。たとえば次の節は一考に値します。

2 18 ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。 19 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」 20 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。 21 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。(『ヨハネ伝』2:18-21)

ヘロデ大王は神殿の大改修工事を彼の治世第18年に始めたと言われております(ヨセフス『ユダヤ戦記』新見宏訳 Ⅰ:401注記)。 これは紀元前20/19年 (これも治世の数え方によるのだろう)にあたります。これから計算すると「この神殿を建てるのに四十六年かかった」という年は、 紀元27/28年にあたります。いまだ工事中であった ので✽2 、 四十六年が過ぎて四十七年目に入っているという意味であれば、紀元28/29年になります。この言葉はイエスがエルサレムにいて、 自分の三日後の復活を予告したものですから、イエスが十字架刑にかけられる 直前の言葉といっていいでしょう。これはひとつの目安となります。

もう一つの手がかりがあります。それはイエスが処刑された時の過越しの祭りはいつの年であったかという調べ方です。 福音書に共通しているのは、イエスが十字架刑で死んだのは、過越しの祭りの前日でかつ安息日の前日すなわち安息日の「準備の日」 であったということです。 つまり過越しの祭りの初日が安息日にあたる年ということです。『ヨハネ伝』では「特別の安息日」(19:31)といっています。 ユダヤの暦は太陰暦にもとにして、そのつど閏月を挿入して季節をあわせ、また天体現象等で年の改めや一年の日数が 変わったそうなので、その年を特定するのは不可能に近いといわれています。過越しの祭りは、ユダヤ暦で ニサンの月の15日から21日までの一週間です。この祭りはまた除酵祭ともいわれ期間中は酵母なしのパンを食べます。 ユダヤ全土から人々が巡礼でエルサレムに来る慣わしがあり、そういう意味ではイエスはユダヤ人で、かつユダヤ人として 最高の舞台を選んだことになります。このニサンの月というのは、春分の日を基準としてそれに最も近い新月から始まり、 その年の最初の月だそうです。今の暦では3月から4月にあたり、15日は満月になります。またユダヤの一日は、 日没から翌日の日没までですので、説明を読むときにユダヤ式でいっているのか今日式でいっているのかよく理解しなければ 混乱します。それでイエスが亡くなったのは、ニサンの月の14日の金曜日ということになります。安息日は土曜日で一週間の終わり であり、週の初めは今でいう日曜日になります。ニサンの月の14日は過越しの祭りの前日なので、子羊を屠って 過越しに備えます。ユダヤの人々が子羊を屠っているその日に、イエスは十字架にかけられて死んでいったのですから、これほど 痛ましいこともありません。まさしく神の子羊であり、またきわめて象徴的です。学者たちの調べによると、 ポンティオ・ピラト総督の任期中の26年 - 紀元36年の間にこの条件を満たす年は、紀元27、 33年、 36年にあたるそうで、 新月の具合によっては紀元 30年も該当するするそうです。一つの目安になるでしょう。


✽1 『ヨハネ伝』の記述では、2回目のエルサレム行きを単に 「ユダヤ人の祭り」(5:1)としか書かいていないので、これを過越しの祭りと数えて3回となります。 なお他に仮庵祭(7:2-10)と神殿奉献記念祭(10:22-23)にも行っているので、イエスはエルサレムに5回行っている ことになる。これは「その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、 ユダヤを巡ろうとは思われなかった」(7:1)ということと矛盾します。
✽2 This temple has been under construction for forty-six years (John 2:20) (この神殿は46年もかけてまだ工費中だ)と NRSVに書かれておりこちらの方がわかりやすい表現です。

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公開日2009年6月29日
更新7月27日