源氏物語 39 夕霧 ゆうぎり

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原文 現代文
39.1 一条御息所と落葉宮、小野山荘に移る 。ブラウザーの設定は、IEでは150%、Google Crome では80%。この辺りから、左右の原文と現代文の文字数スペースをできるかぎりそろえるようにした。
まめ人の名をとりて、さかしがりたまふ大将、この一条の宮の御ありさまを、なほあらまほしと心にとどめて、おほかたの人目には、昔を忘れぬ用意に見せつつ、いとねむごろにとぶらひきこえたまふ。下の心には、かくては止むまじくなむ、月日に添へて思ひまさりたまひける。
御息所も、「あはれにありがたき御心ばへにもあるかな」と、今はいよいよもの寂しき御つれづれを、絶えず訪づれたまふに、慰めたまふことども多かり。
初めより懸想びても聞こえたまはざりしに、
「ひき返し懸想ばみなまめかむもまばゆし。ただ深き心ざしを見えたてまつりて、うちとけたまふ折もあらじやは」
と思ひつつ、さるべきことにつけても、宮の御けはひありさまを見たまふ。みづからなど聞こえたまふことはさらになし。
「いかならむついでに、思ふことをもまほに聞こえ知らせて、人の御けはひを見む」
と思しわたるに、御息所、もののけにいたう患ひたまひて、小野といふわたりに、山里持たまへるに渡りたまへり。早うより御祈りの師に、もののけなど祓ひ捨てける律師、山籠もりして里に出でじと誓ひたるを、麓近くて、請じ下ろしたまふゆゑなりけり。
御車よりはじめて、御前など、大将殿よりぞたてまつれたまへるを、なかなか昔の近きゆかりの君たちは、 ことわざしげきおのがじしの世のいとなみに紛れつつ、えしも思ひ出できこえたまはず。
弁の君、はた、思ふ心なきにしもあらで、けしきばみけるに、ことの外なる御もてなしなりけるには、しひてえ参でとぶらひたまはずなりにたり。
この君は、いとかしこう、さりげなくて聞こえ馴れたまひにためり。修法などせさせたまふと聞きて、僧の布施、浄衣などやうの、こまかなるものをさへたてまつれたまふ。悩みたまふ人は、え聞こえたまはず。
なべての宣旨書きは、ものしと思しぬべく、ことことしき御さまなり」
と、人びと聞こゆれば、宮ぞ御返り聞こえたまふ。
いとをかしげにて、ただ一行りなど、おほどかなる書きざま、言葉もなつかしきところ書き添へたまへるを、いよいよ見まほしう目とまりて、しげう聞こえ通ひたまふ。
「なほ、つひにあるやうあるべきやう御仲らひなめり」
と、北の方けしきとりたまへれば、わづらはしくて、参うでまほしう思せど、とみにえ出で立ちたまはず。
堅物との評判をとって、したり顔の夕霧は、この落葉の宮を、申し分ないお方と心にかけて、世間体は、昔の友を忘れぬ気持からと見せつつ、大そう心を込めて丁重にお見舞い申し上げる。内心では、このままでは済むまい、と月日がたつにつれて思いは募るのであった。
御息所も、「とてもありがたい心ばえだこと」と、今はいよいよ物寂しくなった所在なさに、いつも夕霧が訪れてくれることに、慰められることも多かった。
初めから、色恋めいたことは申し上げなかったので、
「急に気がありそうな振舞いをするのもよくない。深い心ざしを見せておけば、そのうち打ち解ける折もあるだろう」
と思いながら、何かにつけて、宮の気配の様子を注意している。宮ご自身で対応することはまったくなかった。
「何かのついでに、自分の気持ちをはっきり申し上げて、宮がどう思うか見よう」
と思っていると、御息所が、物の怪につかれて病気になり、小野というところに、別邸を所有していたのでそこに移った。以前から祈祷の師として、物の怪などを祓う律師が山籠りして、里には出ないと誓いをたてていたのを、麓近くなので、頼んで下りてもらった。
車をはじめ、前駆の者など、夕霧が手配してさし上げたのだが、故人とのかかわりから近しいはずの弟たちは、仕事に忙しくめいめいの生活にかまけて、思いやることもない。
弁の君だけは、下心がなかったわけではなかったので、それとなく当たって見たが、もってのほかのあしらいに、その後はあえて来なくなった。
夕霧は、大そう上手に、何くわぬ顔でお付き合いし、親しくなった。修法などをすると聞いていたので、僧の布施、浄衣の類などの、細かなものまで用意した。病人の御息所は礼状が書けなかった。
「通り一遍の代筆なら、機嫌を損なうでしょう。むつかしい方ですから」
と女房たちが言うので、宮が礼状を書いた。
たいそう趣のある筆で、ただ一行、おおらかな書きぶりで、やさしい言葉も書き添えてあったので、いっそうお会いしたいと目が離せず、しきりに文をさしあげた。
「やはり何か事が起きるに違いない仲なのだろう」
と北の方の雲居の雁が察しているので、夕霧はこと面倒と思って、行きたいのだが、すぐには出かけられなかった。
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39.2 八月二十日頃、夕霧、小野山荘を訪問
八月中の十日ばかりなれば、野辺のけしきもをかしきころなるに、山里のありさまのいとゆかしければ、
「なにがし律師のめづらしう下りたなるに、せちに語らふべきことあり。御息所の患ひたまふなるもとぶらひがてら、参うでむ」
と、おほかたにぞ聞こえて出でたまふ。御前、ことことしからで、親しき限り五、六人ばかり、狩衣にてさぶらふ。ことに深き道ならねど、松が崎の小山の色なども、さる巌ならねど、秋のけしきつきて、都に二なくと尽くしたる家居には、なほ、あはれも興もまさりてぞ見ゆるや。
はかなき小柴垣もゆゑあるさまにしなして、かりそめなれどあてはかに住まひなしたまへり。寝殿とおぼしき東の放出はなちいでに、修法の檀塗りて、北の廂におはすれば、西面に宮はおはします。
御もののけむつかしとて、とどめたてまつりたまひけれど、いかでか離れたてまつらむと、慕ひわたりたまへるを、人に移り散るを懼ぢて、すこしの隔てばかりに、あなたには渡したてまつりたまはず。
客人のゐたまふべき所のなければ、宮の御方の御簾の前に入れたてまつりて、上臈だつ人びと、御消息聞こえ伝ふ。
「いとかたじけなく、かうまでのたまはせ渡らせたまへるをなむ。もしかひなくなり果てはべりなば、このかしこまりをだに聞こえさせでやと、思ひたまふるをなむ、今しばしかけとどめまほしき心つきはべりぬる」
と、聞こえ出だしたまへり。
「渡らせたまひし御送りにもと思うたまへしを、六条院に承りさしたることはべりしほどにてなむ。日ごろも、そこはかとなく紛るることはべりて、思ひたまふる心のほどよりは、こよなくおろかに御覧ぜらるることの、苦しうはべる」
など、聞こえたまふ。
八月の中旬ころなので、野辺の景色も趣のあるころで、山里の様子はどうかと心惹かれて、
「某律師がたまたま下山するそうなので、是非とも相談したいことがあります。御息所のご病気の見舞いもかねて、行ってきます」
夕霧は、さりげない用事のように言って出かけた。前駆もことごとしくなく、親しい者五、六人ばかり、狩衣で出かけた。さほど深い山道ではないが、大した岩山というほどでもないが、秋めいた景色の中で、都の立派な寝殿にはない、あわれも興もまさって見えるのであった。
ささやかな小柴垣も趣ある様で、仮の住まいながら品のよい暮らしぶりだった。寝殿と思われる東の放出はなちいでに 修法のための壇をもうけて、北の廂に御息所が住し、西面に宮が住まっていた。
物の怪は厄介だからと、都に残るように言ったが、どうして離れていられましょうと、一緒に移って来たのだが、人に移るのを恐れて、少しばかりの隔ての程度で、御息所のいる北廂には宮を移らせなかった。
客を招じ入れる所がないので、宮の御簾の前に案内して、上席の女房らしい人が、御息所に取り次ぎます。
「恐れ多いことでございます。こんなに遠路はるばるお越しくださって。もしこのままはかなく亡くなったら、このお礼も言えないことになりますので、今少し生きながらえようという気持ちになります」
と女房を介して申し上げる。
「お移りになるときはお送りしたいと思っておりましたが、六条院から仰せつかったこともあり、常日頃も何ということもなく雑用がございまして、思っている気持ちよりは、ずいぶん行き届かない者と見られるのでは、とつらいです」
などと夕霧は言う。
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39.3 夕霧、落葉宮に面談を申し入れる
宮は、奥の方にいと忍びておはしませど、ことことしからぬ旅の御しつらひ、浅きやうなる御座のほどにて、人の御けはひおのづからしるし。いとやはらかにうちみじろきなどしたまふ御衣の音なひ、さばかりななりと、聞きゐたまへり。
心も空におぼえて、あなたの御消息通ふほど、すこし遠う隔たる隙に、例の少将の君など、さぶらふ人びとに物語などしたまひて、
「かう参り来馴れ承ることの、年ごろといふばかりになりにけるを、こよなうもの遠うもてなさせたまへる恨めしさなむ。かかる御簾の前にて、人伝ての御消息などの、ほのかに聞こえ伝ふることよ。まだこそならはね。いかに古めかしきさまに、人びとほほ笑みたまふらむと、はしたなくなむ。
齢積もらず軽らかなりしほどに、ほの好きたる方に面馴れなましかば、かううひうひしうもおぼえざらまし。さらに、かばかりすくすくしう、おれて年経る人は、たぐひあらじかし」
とのたまふ。げに、いとあなづりにくげなるさましたまひつれば、さればよと、
「なかなかなる御いらへ聞こえ出でむは、恥づかしう」
などつきしろひて、
かかる御愁へ聞こしめし知らぬやうなり
と、宮に聞こゆれば、
みづから聞こえたまはざめるかたはらいたさに、代はりはべるべきを、いと恐ろしきまでものしたまふめりしを、見あつかひはべりしほどに、いとどあるかなきかの心地になりてなむ、え聞こえぬ」
とあれば、
「こは、宮の御消息か」とゐ直りて、「心苦しき御悩みを、身に代ふばかり嘆ききこえさせはべるも、何のゆゑにか。 かたじけなけれど、ものを思し知る御ありさまなど、はればれしき方にも見たてまつり直したまふまでは、平らかに過ぐしたまはむこそ、誰が御ためにも頼もしきことにははべらめと、推し量りきこえさするによりなむ。 ただあなたざまに思し譲りて、積もりはべりぬる心ざしをも知ろしめされぬは、本意なき心地なむ
と聞こえたまふ。「げに」と、人びとも聞こゆ。
宮は、奥にひっそりしていたのだが、なにぶん旅の宿のような仮住まいなので、奥も浅い住まいのようで、人の気配が自ずからわかるのだった。ひそかに身じろぎするときの衣擦れの音など、あれが宮なのだろうと、夕霧は聞き耳を立てた。
気もそぞろに、御息所に取り次ぎに女房が通っている隙に、例の少将の君など、お付きの女房たちと話をしながらも、
「こうしてずいぶん通いまして、何年にもなりますのに、未だにこのようなよそよそしいお扱いを恨めしく思います。このような御簾の前で、人伝に頼りなく言葉をかわすなんて。まだこんな目にあったことはございません。わたしを古い人間と、人は笑うでしょうが、気持ちが落ち着きません。
こんなに年をとらず若い頃に、色恋沙汰に馴れていましたら、これほど戸惑わなくも済んだものを。これほど生真面目にのんびり過ごしてきた人間は、またといないでしょう」
と言う。軽く扱えない立派な所作をしているので、ただではすまないだろうと、
「なまじ下手なご返事は、できません」
などとつつき合って女房が、
「これほどのご不満に、応じないのは、ご無礼が過ぎるでしょう」
と宮に申し上げると、
「母がご自分で応対できかねますので見かねて、わたしが代わりをすべきでしょうが、母の病状がひどく悪く、介護しておりまして、わたしの方が絶え入りそうになりまして、お話もできません」
とあれば、
「これは宮のお言葉か」と居住まいを正して、「御息所のご病気に、この身に代えてもと嘆いておりますのも、何故でしょうか。恐れ多い言い方ですが、お母様の日ごろの行き届いたご配慮が、はっきり回復して、宮が穏やかに過ごせるようになることが、お二人に取って肝心と、推察します。わたしがただあちらのお母様のお見舞いに来ているとばかり、思われるのは、長年のわたしの気持ちを察していない、不本意です」
と夕霧が言う。「本当に」と、女房たちも言うのだった。
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39.4 夕霧、山荘に一晩逗留を決意
日入り方になり行くに、空のけしきもあはれに霧りわたりて、山の蔭は小暗き心地するに、ひぐらしの鳴きしきりて、垣ほに生ふる撫子の、うちなびける色もをかしう見ゆ。
前の前栽の花どもは、心にまかせて乱れあひたるに、水の音いと涼しげにて、山おろし心すごく、松の響き木深く聞こえわたされなどして、不断の経読む、時変はりて、鐘うち鳴らすに、立つ声もゐ変はるも、一つにあひて、いと尊く聞こゆ。
所から、よろづのこと心細う見なさるるも、あはれにもの思ひ続けらる。出でたまはむ心地もなし。律師も、加持する音して、陀羅尼いと尊く読むなり。
いと苦しげにしたまふなりとて、人びともそなたに集ひて、おほかたも、かかる旅所にあまた参らざりけるに、いとど人少なにて、宮は眺めたまへり。しめやかにて、「思ふこともうち出でつべき折かな」と思ひゐたまへるに、霧のただこの軒のもとまで立ちわたれば、
「まかでむ方も見えずなり行くは、いかがすべき」とて、
山里のあはれを添ふる夕霧に
立ち出でむ空もなき心地して

と聞こえたまへば、
山賤のまがきをこめて立つ霧も
心そらなる人はとどめず

ほのかに聞こゆる御けはひに慰めつつ、まことに帰るさ忘れ果てぬ。
中空なかぞらなるわざかな。家路は見えず、霧の籬は、立ち止るべうもあらず遣らはせたまふ。つきなき人は、かかることこそ」
などやすらひて、忍びあまりぬる筋もほのめかし聞こえたまふに、年ごろもむげに見知りたまはぬにはあらねど、知らぬ顔にのみもてなしたまへるを、かく言に出でて怨みきこえたまふを、わづらはしうて、いとど御いらへもなければ、いたう嘆きつつ、心のうちに、「また、かかる折ありなむや」と、思ひめぐらしたまふ。
「情けなうあはつけきものには思はれたてまつるとも、いかがはせむ。思ひわたるさまをだに知らせたてまつらむ」
と思ひて、人を召せば、御司の将監よりかうぶり得たる、睦ましき人ぞ参れる。忍びやかに召し寄せて、
「この律師にかならず言ふべきことのあるを。護身などに暇なげなめる、ただ今はうち休むらむ。今宵このわたりに泊りて、初夜そやの時果てむほどに、かのゐたる方にものせむ。これかれ、さぶらはせよ。随身などの男どもは、栗栖野の荘近からむ、秣などとり飼はせて、ここに人あまた声なせそ。かやうの旅寝は、軽々しきやうに人もとりなすべし」
とのたまふ。あるやうあるべしと心得て、承りて立ちぬ。
日の入りになるころ、空の気色もあわれに霧が出て、山の蔭はほの暗い心地がして、ひぐらしがしきりに鳴いて、垣に生えた撫子の、かしいだ淡い花の色も趣があった。
前栽の花は、思い思いに咲き乱れて、水の音が涼し気で、山おろしの風がぞっとする趣で、松の響きが奥深く聞こえてきて、不断経の読経の声も、交代時がきて、鐘を鳴らして、坐を立つ僧と入れ替わる僧の読経の声がひとつになり、尊い。
場所柄、すべて心細く見えるのも、夕霧はあわれに感慨深く感じていた。帰る気はしなかった。律師も、加持祈祷する音がして、陀羅尼を唱える声も尊い。
御息所が苦し気にしているので、女房たちもそちらの方に集って、もともとこのような仮の住まいに大勢のお供を連れてきていないので、人は少なく、宮は物思いに沈んでいた。物静かで、「思うことを打ち明ける時だ」と思うのだが、霧がこの軒元にまで立ち込めているので、
「帰る道も見えなくなりますので、どうしましょう」とて、
(夕霧)「山里のあわれをさそう夕霧が立ち込めて
帰る気にもなれない思いでおります」
と申し上げると、
(宮)「山里の垣根に立ち込める霧も
気もそぞろで帰りたがる人は引き止めないでしょう」
かすかに聞こえる宮の気配に慰めを得て、帰るのを忘れていた。
「どうしたらいいか。帰る家路は見えず、霧の籬は帰れと、急き立てます。不慣れな男はこんな目に合うのだろう」
など、座を立ちかねて、抑え難い思いをほのめかし申したのであるが、今までも全然お察しでなかったわけではなかったが。いつも気づかぬふりをしていたので、こうして言葉に出して恨みがましく言っても、まったく返事がないのを嘆きつつ、心の内では、「二度とこんな機会があろうか」と思うのであった。
「思いやりのない軽々しい振舞いと思われても、もういい。思いのたけを知ってもらおう」
と思って供の者を召して、御司の将監の位の、腹心の部下が来た。秘かにそばへ呼んで、
「この律師にどうしても伝えたいことがある。読経に余念がないようで、今は休憩しているだろう。今宵はこの辺りに泊まって、初夜そやが終わった頃に律師のところに行くつもりだ。随身などの者たちは、来栖野の荘園が近いので、そこで、馬の秣などを与えて、この辺りに人が多く詰めないようにしなさい。このような旅寝は、世間もうるさいだろう」
と仰せになる。何か子細があるのだろうと承って立ち去った。
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39.5 夕霧、落葉宮の部屋に忍び込む
さて、
「道いとたどたどしければ、このわたりに宿借りはべる。同じうは、この御簾のもとに許されあらなむ。阿闍梨の下るるほどまで」
など、つれなくのたまふ。例は、かやうに長居して、あざればみたるけしきも見えたまはぬを、「うたてもあるかな」と、宮思せど、ことさらめきて、軽らかにあなたにはひ渡りたまふは、人もさま悪しき心地して、ただ音せでおはしますに、とかく聞こえ寄りて、御消息聞こえ伝へにゐざり入る人の影につきて、入りたまひぬ。
まだ夕暮の、霧に閉ぢられて、内は暗くなりにたるほどなり。あさましうて見返りたるに、宮はいとむくつけうなりたまうて、北の御障子の外にゐざり出でさせたまふを、いとようたどりて、ひきとどめたてまつりつ。
御身は入り果てたまへれど、御衣の裾の残りて、障子は、あなたより鎖すべき方なかりければ、引きたてさして、水のやうにわななきおはす。
人びともあきれて、いかにすべきことともえ思ひえず。こなたよりこそ鎖す錠などもあれ、いとわりなくて、荒々しくは、え引きかなぐるべくはたものしたまはねば、
「いとあさましう。思たまへ寄らざりける御心のほどになむ」
と、泣きぬばかりに聞こゆれど、
「かばかりにてさぶらはむが、人よりけに疎ましう、めざましう思さるべきにやは。数ならずとも、御耳馴れぬる年月も重なりぬらむ」
とて、いとのどやかにさまよくもてしづめて、思ふことを聞こえ知らせたまふ。
さて、
「道も見えぬ霧の深さに、この辺りに宿を借りたい。できれば、この御簾のところに許されたい。阿闍梨が戻ってくるまで」
など、さりげなく言う。いつもはこうして長居しても、乱れたところがないので、「困ったことになった」と宮は思うが、ことさらにあちらの御息所のところにすぐに移るのも、見っともないと思って、宮は息をひそめていたのだが、夕霧は何かと申して、取り次ぎの女房に近づいて、いざり入る女房について中に入った。
まだ夕暮れで、霧がいちめんに立ちこめて、内は暗くなってきた。驚いて女房が振り返ると、宮はとても気分が悪くなって、北の障子の外にいざり出ようとするのを、夕霧が探り寄って、引き留めた。
身体は外に出たが、衣の裾が残っていて、障子は、外側に鍵がついていないので、閉め切れずに汗びっしょりになってわなないているのだった。
女房たちもあきれて、どうしたらいいか思いつかない。こちら側には錠はあるのだが、どうしようもなく、ご身分からして荒々しく引き離すこともできず、
「あまりと言えばあまりな。思いも寄らなかった」
と泣かんばかりに言うのだが、
「この程度に近づいて、誰にもまして疎ましく、無礼者と思われるのでしょうか。数ならぬ身ですが、長いお付き合いでご存じのはずですが」
と夕霧は言って、とても静かに落ち着いた調子で、心中を語るのだった。
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39.6 夕霧、落葉宮をかき口説く
聞き入れたまふべくもあらず、悔しう、かくまでと思すことのみ、やる方なければ、のたまはむことはたましておぼえたまはず。
「いと心憂く、若々しき御さまかな。人知れぬ心にあまりぬる好き好きしき罪ばかりこそはべらめ、これより馴れ過ぎたることは、さらに御心許されでは御覧ぜられじ。いかばかり、千々に砕けはべる思ひに堪へぬぞや。
さりともおのづから御覧じ知るふしもはべらむものを、しひておぼめかしう、け疎うもてなさせたまふめれば、聞こえさせむ方なさに、いかがはせむ、心地なく憎しと思さるとも、かうながら朽ちぬべき愁へを、さだかに聞こえ知らせはべらむとばかりなり。言ひ知らぬ御けしきの辛きものから、いとかたじけなければ
とて、あながちに情け深う、用意したまへり。
障子を押さへたまへるは、いとものはかなき固めなれど、引きも開けず。
「かばかりのけぢめをと、しひて思さるらむこそあはれなれ」
と、うち笑ひて、うたて心のままなるさまにもあらずの、なつかしうあてになまめいたまへること、さはいへどことに見ゆ。世とともにものを思ひたまふけにや、痩せ痩せにあえかなる心地して、うちとけたまへるままの御袖のあたりもなよびかに、気近うしみたる匂ひなど、取り集めてらうたげに、やはらかなる心地したまへり。
宮は、聞き入れるべくもなく、口惜しくて、どうしてこんなに近づけたか、無念で、返事の言葉は何も言えない。
「ご返事がなく、何と情けない。子供のようです。ずっとお慕いしてきた思いが勢いあまって色めいた所行に出た罪は認めますが、これ以上はしません。お許しがなければ、もう致しません。千々に乱れた思いを堪えます。
それでも、わたしの気持ちに自ずと気づく折りもあるでしょうが、あえて知らぬふりをして、他人行儀にお扱いされるなら、言いようもありません。どうしても憎いと思うのなら、朽ちてしまう胸の思いをはっきりお伝えしたいと思うばかりです。言いようもないつれない扱いがつらくても、恐れ多いのでこれ以上は致しません」
とて、どこまでも物やさしく、振舞っている。
障子を押さえるのは、守りにもならないが、夕霧は開けようとはしない。
「この程度の隔てで、しがみついているのがあわれだ」
と笑って、思いやりのない勝手な振舞いをするのでもない。宮の様子はやさしく気品があって優雅でいることは、そうは言っても、格別優れている。柏木の死以来悲しみに沈んでいるせいか、痩せてきゃしゃな感じがして、普段着の衣の袖のあたりも品があり、親しみを感じる匂いなど、総じて可愛らしく、やわらかい感じがする。
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39.7 迫りながらも明け方近くなる
風いと心細う、更けゆく夜のけしき、虫の音も、鹿の鳴く音も、滝の音も、一つに乱れて、艶あるほどなれど、ただありのあはつけ人だに、寝覚めしぬべき空のけしきを、格子もさながら、入り方の月の山の端近きほど、とどめがたう、ものあはれなり。
なほ、かう思し知らぬ御ありさまこそ、かへりては浅う御心のほど知らるれかう世づかぬまでしれじれしきうしろやすさなども、たぐひあらじとおぼえはべるを、何事にもかやすきほどの人こそ、かかるをば痴者などうち笑ひて、つれなき心もつかふなれ
あまりこよなく思しおとしたるに、えなむ静め果つまじき心地しはべる。世の中をむげに思し知らぬにしもあらじを
と、よろづに聞こえせめられたまひて、いかが言ふべきと、わびしう思しめぐらす。
世を知りたる方の心やすきやうに、折々ほのめかすも、めざましう、「げに、たぐひなき身の憂さなりや」と、思し続けたまふに、死ぬべくおぼえたまうて、
「憂きみづからの罪を思ひ知るとても、いとかうあさましきを、いかやうに思ひなすべきにかはあらむ」
と、いとほのかに、あはれげに泣いたまうて、
我のみや憂き世を知れるためしにて
濡れそふ袖の名を朽たすべき

とのたまふともなきを、わが心に続けて、忍びやかにうち誦じたまへるも、かたはらいたく、いかに言ひつることぞと、思さるるに、
げに、悪しう聞こえつかし
など、ほほ笑みたまへるけしきにて、
おほかたは我濡衣ゆれぎぬを着せずとも
朽ちにし袖の名やは隠るる

ひたぶるに思しなりねかし
とて、月明き方に誘ひきこゆるも、あさまし、と思す。心強うもてなしたまへど、はかなう引き寄せたてまつりて、
かばかりたぐひなき心ざしを御覧じ知りて、心やすうもてなしたまへ。御許しあらでは、さらに、さらに
と、いとけざやかに聞こえたまふほど、明け方近うなりにけり。
風がひどく心細く、更け行く夜の気色、虫の音も、鹿の鳴く音も、滝の音も、一つになって、風情のある夜に、まったく無趣味な人でも寝られない空の気色で、格子も開け放って、入り方の月が山の端に近く、涙も止められない物あわれな夜であった。
「やはりこれほどまでわたしの気持ちをわかっていただけないのであれば、それだけ浅い気持ちなのだと、知ります。これ程、世間知らずで安心できる男は、めったにいるもんじゃないと、何ごとも気軽にやれる人は、こんな男を間抜けと笑って、女に勝手を通すものです。
あまりにわたしを見くびったら、おとなしく穏やかにすます気になれない。男女の仲を知らぬわけでもあるまいに」
と宮はあれこれと攻められて、何と返事したものか、すっかり困惑している。
男女の仲を知っているから心安いように、ほのめかされるのも、不愉快で、「実に例がないほどこの身が不幸だ」と思い続けていて、死にそうなほどだったので、
「不幸な結婚のこの身の過ちを思い知るとしても、こんなにひどい仕打ちをされるとは、どう受けたらいいのか」
かすかな声で、あわれにも泣いたので、
(落葉宮) 「わたしが不幸な女の例としてこの憂き世で
夫との死別に加えて、あなたと浮名を流さねばならぬとは」
と言うともなく口について出た歌を、夕霧は自分の心につなげて、そっと繰り返すと、宮は気恥ずかしく、どうして歌など詠んだのか、と思い、
「本当に、失礼なことを言ってしまいました」
などと(夕霧は)ほほえみそうな気色で、
(夕霧)「わたしのせいにしなくても、
亡き人に嫁いだ噂は消えないでしょう
一途にわたしに向いてください」
と言って、月の明るい方へ誘おうとするが、宮は、浅ましい、と思うのだった。身構えたが、造作なく引き寄せられて、
「これ程類ない心ざしをご覧に入れたのですから、安心してください。お許しがなければ無体なことは決してしません」
とはっきり言うころには、明け方近くなっていた。
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39.8 夕霧、和歌を詠み交わして帰る
† 月隈なう澄みわたりて、霧にも紛れずさし入りたり。浅はかなる廂の軒は、ほどもなき心地すれば、月の顔に向かひたるやうなる、あやしうはしたなくて、紛らはしたまへるもてなしなど、いはむかたなくなまめきたまへり。
故君の御こともすこし聞こえ出でて、さまようのどやかなる物語をぞ聞こえたまふ。さすがになほ、 かの過ぎにし方に思し貶すをば、恨めしげに怨みきこえたまふ。御心の内にも、
† 「かれは、位などもまだ及ばざりけるほどながら、誰れ誰れも御許しありけるに、おのづからもてなされて、見馴れたまひにしを、それだにいとめざましき心のなりにしさま、ましてかうあるまじきことに、よそに聞くあたりにだにあらず、大殿などの聞き思ひたまはむことよ。なべての世のそしりをばさらにもいはず、院にもいかに聞こし召し思ほされむ
など、離れぬここかしこの御心を思しめぐらすに、いと口惜しう、わが心一つに、
「かう強う思ふとも、人のもの言ひいかならむ。御息所の知りたまはざらむも、罪得がましう、かく聞きたまひて、心幼く、と思しのたまはむ」もわびしければ、
「明かさでだに出でたまへ」
と、やらひきこえたまふより外の言なし。
あさましや。ことあり顔に分けはべらむ朝露の思はむところよ。 なほ、さらば思し知れよ。をこがましきさまを見えたてまつりて、賢うすかしやりつと思し離れむこそ、その際は心もえ収めあふまじう、知らぬことと、けしからぬ心づかひもならひはじむべう思ひたまへらるれ」
とて、いとうしろめたく、なかなかなれど、ゆくりかにあざれたることの、まことにならはぬ御心地なれば、「いとほしう、わが御みづからも心劣りやせむ」など思いて、 誰が御ためにも、あらはなるまじきほどの霧に立ち隠れて出でたまふ、心地そらなり
荻原や軒端の露にそぼちつつ
八重立つ霧を分けぞ行くべき

濡衣はなほえ干させたまはじ。かうわりなうやらはせたまふ御心づからこそは
と聞こえたまふ。げに、この御名のたけからず漏りぬべきを、「心の問はむにだに、口ぎよう答へむ」と思せば、いみじうもて離れたまふ
分け行かむ草葉の露をかことにて
なほ濡衣をかけむとや思ふ

めづらかなることかな」
† と、あはめたまへるさま、いとをかしう恥づかしげなり。年ごろ、人に違へる心ばせ人になりて、さまざまに情けを見えたてまつる、名残なく、うちたゆめ、好き好きしきやうなるが、いとほしう、心恥づかしげなれば、おろかならず思ひ返しつつ、「かうあながちに従ひきこえても、後をこがましくや」と、さまざまに思ひ乱れつつ出でたまふ。道の露けさも、いと所狭し
月が隈なく澄み渡って、霧を透して差し込んできた。深くもない廂の軒は、何の覆いにもならず、月に直面するようで、宮が、きまり悪がって、顔をそむけようとする所作なども、言いようもなく上品で優雅だった。
亡くなった柏木のことも少し話に出して、あたりさわりのない話をした。さすがに今も、故人となった柏木より自分が劣っているように見られているのを夕霧は恨めしく思った。宮は心のなかで、
「あの方は位もまだ十分ではなく、どちらの後見からもお許しがあって、そのため夫婦になったが、それにもかかわらずつれない仕打ちをされて、ましてあろうことか今また、全く縁がないでもないお方が、致仕の大臣に聞かれたら何と思われますか、世間に知れ渡ったらどんなことになるやら、院がお聞きになったらいったいなんと思われましょう」
など、近いかかわりのあるあの方この方を思い、口惜しくて、自分ひとりが、
「強く抵抗しても、世間は言いふらすだろう。御息所がご存じでないのも、気が咎めるし、これを聞いて、わたしの幼稚さを非難するだろう」と思うのもつらく、
「せめて世の明けぬうちにお帰り下さい」
と急き立てて言う外はない。
「何ということだ。昨夜何かあったように訳あり顔に朝露を踏んで帰るとは。それなら覚悟してください。こんな間抜けな様子を見られて、うまくあしらってその後は逢わない、そうなったらわたしの心が収まらない、やったことはないが、わたしだって不埒なこともやりかねません」
とて、それでもあとあとの宮の態度が気になり、突然色めいた振舞いに出たら、馴れないことゆえ、「何もかも台無しになる、自分は見下げはてた奴だ」などと思って、どちらにとっても、人目につかない深い霧が立ち込めている間に退出しようと、気もそぞろだった。
(夕霧)「萩の原のなかを、軒端の露に濡れながら
立ち込めた深い霧をかき分けて帰ります
あなたも浮き名を免れられないでしょう。わたしを急きたてて帰すのですから」
と言うのだった。宮は自分の名は世間に漏れようが、「自分の心に問うて、潔白だとはっきり言おう」と決心して、ひどく冷たく返すのだった。
(落葉宮)「ご自分で分け入って草場の露に濡れて
どうしてわたしにまで濡れ衣をきせようとするのですか
何という仰りようでしょう」
と咎める様子はとても風情があり気品があった。夕霧が今まで人並み以上に心配りのできる人をよそおい、さまざまに親切をしてきて、急に、油断させて、好き心を出しては、宮がお気の毒で、恥ずかし気にしているので、夕霧は自分の気持ちをよく抑えて、「宮の言葉通りにして今後相手にされなくなる」のでは、とさまざまに心乱れて帰った。道の露けさも厄介だった。
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39.9 夕霧の後朝の文
かやうの歩き、慣らひたまはぬ心地に、をかしうも心尽くしにもおぼえつつ、殿におはせば、女君の、かかる濡れをあやしと咎めたまひぬべければ、六条院の東の御殿に参うでたまひぬ。まだ朝霧も晴れず、ましてかしこにはいかに、と思しやる。
「例ならぬ御歩きありけり」
と、人びとはささめく。しばしうち休みたまひて、御衣脱ぎ替へたまふ。常に夏冬といときよらにしおきたまへれば、香の御唐櫃より取う出て奉りたまふ。御粥など参りて、御前に参りたまふ。
かしこに御文たてまつりたまへれど、御覧じも入れず。にはかにあさましかりしありさま、めざましうも恥づかしうも思すに、心づきなくて、御息所の漏り聞きたまはむことも、いと恥づかしう、また、かかることやとかけて知りたまはざらむに、ただならぬふしにても見つけたまひ、人のもの言ひ隠れなき世なれば、おのづから聞きあはせて、隔てけると思さむがいと苦しければ、
† 「人びとありしままに聞こえ漏らさなむ。憂しと思すともいかがはせむ」と思す。
親子の御仲と聞こゆる中にも、つゆ隔てずぞ思ひ交はしたまへる。よその人は漏り聞けども、親に隠すたぐひこそは、昔の物語にもあめれど、さはた思されず。人びとは、
「何かは、ほのかに聞きたまひて、ことしもあり顔に、とかく思し乱れむ。まだきに、心苦し
など言ひあはせて、いかならむと思ふどち、この御消息のゆかしきを、ひきも開けさせたまはねば、心もとなくて、
「なほ、むげに聞こえさせたまはざらむも、おぼつかなく、若々しきやうにぞはべらむ」
など聞こえて、広げたれば、
あやしう、何心もなきさまにて、人にかばかりにても見ゆるあはつけさの、みづからの過ちに思ひなせど、思ひやりなかりしあさましさも、慰めがたくなむ。え見ずとを言へ
と、ことのほかにて、寄り臥させたまひぬ。
さるは、憎げもなく、いと心深う書いたまうて、
魂をつれなき袖に留めおきて
わが心から惑はるるかな

ほかなるものはとか、昔もたぐひありけりと思たまへなすにも、さらに行く方知らずのみなむ
など、いと多かめれど、人はえまほにも見ず。例のけしきなる今朝の御文にもあらざめれど、なほえ思ひはるけず。人びとは、御けしきもいとほしきを、嘆かしう見たてまつりつつ、
「いかなる御ことにかはあらむ。何ごとにつけても、ありがたうあはれなる御心ざまはほど経ぬれど」
「かかる方に頼みきこえては、見劣りやしたまはむ、と思ふも危ふく」
など、睦ましうさぶらふ限りは、おのがどち思ひ乱る。御息所もかけて知りたまはず。
このような、忍び歩きは、今までないことなので、興もあり気のもめることでもあり、三条院に戻れば、女君は、濡れているのがあやしいと咎めるので、六条院の東の御殿に行った。まだ朝霧も晴れず、まして、あちらはどうだろうと思いやる。
「ついぞないお忍び歩きでしたね」
と女房たちはささやき合った。しばし休んで、衣を脱ぎ変える。いつも夏冬ときれいにして置いてあるので、香の唐櫃から取り出して持ってくる。お粥など召し上がって、源氏の御前に参じた。
あちらに、文を遣わしたが、宮は見もしない。昨夜の突然の浅ましい所行があって、驚くなり恥ずかしくも思い、気に入らぬことに、御息所が漏れ聞いてしまうことも、ひどく気にかかりで、また、こんなことがあったと知らないまま、ちょっとした不審を見つけて、さがない世の噂を小耳にして、自ずと聞いてしまい、御息所にはあえて隠したと思われるのが、かえってつらいので、
「女房たちがありのまま伝えてくれれば。情けないと思われても仕方ない」と思う。
親子の間でも、隠し立てせず思いを交わす間柄である。他人は知っていても、親には隠す類は、昔の物語にもあるが、宮はそうしたことはなさらない。女房たちは、
「不確かなことを、御息所が小耳にはさんで、あれこれ心配されるのも、まだ何事もないのにお気の毒です」
などと女房たちが言い合って、二人の仲を知りたがり、文の内容を見たがるが、宮は開けもしないので、気が気でなく、
「やはり全然ご返事の文を出されないのも、わけが分からず、子供じみていると思われるでしょう」
などと言って、女房が文を広げれば、
「見っともない、うっかり、あの程度とはいえ近づけたのを人に見られた至らなさは、自分の過ちであったと思うが、あの方の無情な振舞いが浅ましい。拝見していないと返事しなさい」
と宮はもってのほかのご機嫌で、寄り臥している。
とは言え、やさしく、たいそう心をこめて書いていて、
(夕霧)「わたしの魂はつれないあなたの袖に置いてきて
わたしは正体もなく惑っています
思い通りにならないのが心とかいいますが、昔もこんな例があったとか、とても気が晴れません」
などと、たくさん書いてあるが、女房にはよく見えない。例の後朝きぬぎぬの文ではないようだけれど、女房にはどうしても想像できない。宮の気色もお気の毒な様子であるし、嘆かわしく見ながら、
「二人にどんなことがあったのだろう。何ごとにつけても、御親切であわれな心をお持ちの方だけれど」
「このような方を夫として頼っては、見劣りがすると思うのであろうか」
など女房たちの親しい仲間内であれこれ言い合うのであった。御息所も何も知らなかった。
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39.10 律師、御息所に告げ口
もののけにわづらひたまふ人は、重しと見れど、さはやぎたまふ隙もありてなむ、ものおぼえたまふ。日中の御加持果てて、阿闍梨一人とどまりて、なほ陀羅尼読みたまふ。よろしうおはします、喜びて、
「大日如来虚言したまはずは。などてか、かくなにがしが心を致して仕うまつる御修法、験なきやうはあらむ。悪霊は執念きやうなれど、業障ごうしょうにまとはれたるはかなものなり」
と、声はかれて怒りたまふ。いと聖だち、すくすくしき律師にて、ゆくりもなく、
「そよや。この大将は、いつよりここには参り通ひたまふぞ」
と問ひ申したまふ。御息所、
「さることもはべらず。故大納言のいとよき仲にて、語らひつけたまへる心違へじと、この年ごろ、さるべきことにつけて、いとあやしくなむ語らひものしたまふも、かくふりはへ、わづらふを訪らひにとて、立ち寄りたまへりければ、かたじけなく聞きはべりし」
と聞こえたまふ。
「いで、あなかたは。なにがしに隠さるべきにもあらず。今朝、後夜に参う上りつるに、かの西の妻戸より、いとうるはしき男の出でたまへるを、霧深くて、なにがしはえ見分いたてまつらざりつるを、この法師ばらなむ、『大将殿の出でたまふなりけり』と、『昨夜も御車も返して泊りたまひにける』と、口々申しつる。
げに、いと香うばしき香の満ちて、頭痛きまでありつれば、げにさなりけりと、思ひあはせはべりぬる。常にいと香うばしうものしたまふ君なり。このこと、いと切にもあらぬことなり。人はいと有職にものしたまふ。
なにがしらも、童にものしたまうし時より、かの君の御ためのことは、修法をなむ、故大宮ののたまひつけたりしかば、一向にさるべきこと、今に承るところなれど、いと益なし。本妻強くものしたまふ。さる、時にあへる族類にて、いとやむごとなし。若君たちは、七、八人になりたまひぬ。
え皇女の君圧したまはじ。また、女人の悪しき身をうけ、長夜の闇に惑ふは、ただかやうの罪によりなむ、さるいみじき報いをも受くるものなる。人の御怒り出で来なば、長きほだしとなりなむ。もはら受けひかず」
と、頭振りて、ただ言ひに言ひ放てば、
「いとあやしきことなり。さらにさるけしきにも見えたまはぬ人なり。よろづ心地の惑ひにしかば、うち休みて対面せむとてなむ、しばし立ち止まりたまへると、ここなる御達言ひしを、さやうにて泊りたまへるにやあらむ。おほかたいとまめやかに、すくよかにものしたまふ人を」
と、おぼめいたまひながら、心のうちに、
「さることもやありけむ。ただならぬ御けしきは、折々見ゆれど、人の御さまのいとかどかどしう、あながちに人の誹りあらむことははぶき捨て、うるはしだちたまへるに、たはやすく心許されぬことはあらじと、うちとけたるぞかし。人少なにておはするけしきを見て、はひ入りもやしたまへりけむ」と思す。
物の怪に患っている御息所は、病は重かったが、気分のいい時もあり、そんな時は意識も戻っていた。日中の加持が終わって、阿闍梨ひとり残って、陀羅尼を唱えていた。気分がいいのを喜んで、
「大日如来は嘘を言わないから、拙僧が心をこめて祈念して修法しているのに、応えられないことがありましょうか。悪霊は、執念深いようだが、業障が憑いたつまらぬものです」
としわがれ声で、いかめしく言う。いかにも修行一筋らしい律師で、だしぬけに、
「おおそうだ。大将はいつから姫君の元へ通っているのか」
と問うのであった。御息所は、
「そんなことはありません。故大納言の仲の良い友人で、故人の遺言を守って、この頃は、何につけても、不思議なほど親しく出入りしていて、こうしてわざわざ、わたくしの病気見舞いにも訪れて、立ち寄ってくれるのを、恐れ多く思っております」
とお答えになる。
「いいえ、わたしに隠すべきものでもないでしょう。今朝、後夜の務めに上がろうとして、あの西の妻戸から、たいそう美しい男が出てきまして、霧が深くて、誰かは見分けられなかったが、法師たちが、『大将殿がお出かけになったのです』と、『昨夜は車を帰してここに泊まったのです』と口々に申しておった。
香ばしい香が満ちて、頭が痛いほどだったので、そうだったかと、思い合わせることがありました。いつも香ばしい香をたいている君ですから。 お二人のためにはなりません。人物はまことに立派なお方ですが。
わたしも、あの君が童であった時から、君のために、修法を、亡き大宮様から仰せがあり、ずっと今になっても勤めております。いい縁組ではありません。あの方にはれっきとした本妻がおります。あの君は今を時めく一族ですから、世に重きをなしています。若君は七、八人いるでしょう。
皇女であっても押さえはききません。また、悪しき女人として生を受けましたので、長夜の闇に惑うのは、このような罪で、ひどい報いを受けるでしょう。本妻の怒りがでましたら、長く障害になるでしょう。賛成できません」
と、頭を振って、直截に言い放つと、
「おかしなお話でございます。そんな風な人には見えませんが。すっかり気分が悪うございましたので、一休みして対面しようとして、しばし留まっていると、年配の女房も言いますので、そうして泊まったのではないですか。大体がとてもまじめで実直な方であられる人です」
と不審そうにおもいながら、心のうちに、
「そのようなことがあったのだろうか。気のありそうなそぶりは、折々見えたが、人柄が筋の通す人で、人のそしりを受けることはしないし、まじめに振舞っておられたので、めったにこちらの納得しないことはしないだろうと、気を許していました。人が少ない時を見はからって、入ったのだろうか」と思うのだった。
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39.11 御息所、小少将君に問い質す
律師立ちぬる後に、小少将の君を召して、
「かかることなむ聞きつる。いかなりしことぞ。などかおのれには、さなむ、かくなむとは聞かせたまはざりける。さしもあらじと思ひながら」
とのたまへば、いとほしけれど、初めよりありしやうを、詳しう聞こゆ。今朝の御文のけしき、宮もほのかにのたまはせつるやうなど聞こえ、
「年ごろ、忍びわたりたまひける心の内を、聞こえ知らせむとばかりにやはべりけむ。ありがたう用意ありてなむ、明かしも果てで出でたまひぬるを、人はいかに聞こえはべるにか」。
律師とは思ひも寄らで、忍びて人の聞こえけると思ふ。ものものたまはで、いと憂く口惜しと思すに、涙ほろほろとこぼれたまひぬ。見たてまつるも、いといとほしう、「何に、ありのままに聞こえつらむ。苦しき御心地を、いとど思し乱るらむ」と悔しう思ひゐたり。
「障子は鎖してなむ」と、よろづによろしきやうに聞こえなせど、
「とてもかくても、さばかりに、何の用意もなく、軽らかに人に見えたまひけむこそ、いといみじけれ。うちうちの御心きようおはすとも、かくまで言ひつる法師ばら、よからぬ童べなどは、まさに言ひ残してむや。人には、いかに言ひあらがひ、さもあらぬことと言ふべきにかあらむ。すべて、心幼き限りしも、ここにさぶらひて」
とも、えのたまひやらず。いと苦しげなる御心地に、ものを思しおどろきたれば、いといとほしげなり。気高うもてなしきこえむとおぼいたるに、世づかはしう、軽々しき名の立ちたまふべきを、おろかならず思し嘆かる。
「かうすこしものおぼゆる隙に、渡らせたまうべう聞こえよ。そなたへ参り来べけれど、動きすべうもあらでなむ。見たてまつらで、久しうなりぬる心地すや」
と、涙を浮けてのたまふ。参りて、
「しかなむ聞こえさせたまふ」
とばかり聞こゆ。
律師が去った後、小少将の君を召して、
「このようなことを聞きました。どうなっているのか。どうしてわたしに、このようにと話してくれなかったのか。そうではないと思うが」
と言えば、お気の毒ではあったが、初めからあったことを、詳しく報告する。今朝の文の様子を、宮もちらっと仰ったことも申し上げ、
「日ごろから、秘かに思っていたことを、申し上げようと思ったのでしょう。珍しいほど心遣いなさって、夜も明けぬうちにお帰りになりました。人はどのように申すでしょう」
律師が告げたとは思いも寄らず、だれか女房がひそかに告げたように思った。御息所は物も言わず、残念で口惜しいと思い、涙をほろほろとながすのだった。「どうしてありのままに言ったのだろう。御病気で苦しんでいる時に、かえって苦しめてしまった」と悔しく思うだった。
「障子は鍵をかけてありました」と、適当に言いつくろうが、
「ともかくもそんな風に、十分な用心もせず、容易に人に逢えるようになっているのが、いけないのです。自分では潔白だと思っても、こうして言っている法師たちや、良からぬ若者などは、黙っているだろうか。世間の噂に、どんなに言い抗って、そうではないと証を立てられますか。すべてお付きの者が行き届かなく」
と最後まで言い切れない。病気で苦しい時に、心配ごとが重なり、たいそう気の毒であった。皇女をその地位にふさわしく扱い育てようと思っているのに、軽々しい浮き名が立てば、一方ならず、たいそう痛手であった。
「こう少し気分の良い時に、姫君に来るように伝えてください。本来ならわたしが行くべきであるが、身動きも叶わない有様で。しばらく会っていないので」
と涙を浮かべて仰る。小少将は、行って、
「このように仰せになっております」
とだけ、伝えるのだった。
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39.12 落葉宮、母御息所のもとに参る
渡りたまはむとて、御額髪の濡れまろがれたる、ひきつくろひ、単衣の御衣ほころびたる、着替へなどしたまひても、とみにもえ動いたまはず。
「この人びともいかに思ふらむ。まだえ知りたまはで、後にいささかも聞きたまふことあらむに、つれなくてありしよ」
と思しあはせむも、いみじう恥づかしければ、また臥したまひぬ。
「心地のいみじう悩ましきかな。やがて直らぬさまにもありなむ、いとめやすかりぬべくこそ。脚の気の上りたる心地す」
と、押し下させたまふ。ものをいと苦しう、さまざまに思すには、気ぞ上がりける。
少将、
「上に、この御ことほのめかし聞こえける人こそはべけれ。いかなりしことぞ、と問はせたまひつれば、ありのままに聞こえさせて、御障子の固めばかりをなむ、すこしこと添へて、けざやかに聞こえさせつる。もし、さやうにかすめきこえさせたまはば、同じさまに聞こえさせたまへ」
と申す。
嘆いたまへるけしきは聞こえ出でず。「さればよ」と、いとわびしくて、ものものたまはぬ御枕より、雫ぞ落つる。
「このことにのみもあらず、身の思はずになりそめしより、いみじうものをのみ思はせたてまつること」
と、生けるかひなく思ひ続けたまひて、「この人は、かうても止まで、とかく言ひかかづらひ出でむも、わづらはしう、聞き苦しかるべう」、よろづに思す。「まいて、いふかひなく、人の言によりて、いかなる名を朽たさまし」
など、すこし思し慰むる方はあれど、「かばかりになりぬる高き人の、かくまでも、すずろに人に見ゆるやうはあらじかし」と、宿世憂く思し屈して、夕つ方ぞ、
「なほ、渡らせたまへ」
とあれば、中の塗籠の戸開けあはせて、渡りたまへる。
宮は、御息所の処に行こうとして、額髪が濡れているのを、櫛をいれたり、単衣のほころびをつくろったり、着替えなどして、すぐには動かなかった。
「お供の女房たちもどう思うだろう。御息所はまだ知らないで、後で少しでも聞いてしまったら、素知らぬ風を装った思われる」
と、あれこれ思い合わせて、気が引けるので、また臥してしまう。
「気分がとても悪いのです。このまま直らなかったら、かえって都合がいい。脚気の気が上に上がったようだ」
と小少将に按摩をしてもらう。物事をあれこれ考えたので、気が上がったのだろう。
少将は、
「御息所にこのことをそれとなく告げた人がいるようです。どうなっているのだ、と聞かれましたので、ありのままに申し上げて、障子の固めのことを少し大げさにきっぱり言っておきました。もしそのようなことが少しでもお聞きになりましたら、同じように答えてください」
と言う。
御息所が嘆いている様子は言わず、「やはりそうか」と悲しく、物も言わない枕から、雫が落ちた。
夕霧とのことのみならず、うまくいかなかった結婚以来、大そう心配をかけてばかりいる」
と、生きている甲斐ないと思い続けて、「大将のこの人は、これで引き下がらず、あれこれと言い寄って来るだろうが、煩わしい、不愉快だ」 、とあれこれ思うのだった。「まして不甲斐なく、男の甘言によって、名を汚すなんて」
など、少しは慰める面はあるとしても、「わたしほどの高い身分の者が、こんなに容易に男に逢えることなどあってはならない」と、辛い宿世を嘆いていると、夕方に、
「それでもお越しください」
と催促があったので、中の塗籠の戸を開けて、行った。
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39.13 御息所の嘆き
苦しき御心地にも、なのめならずかしこまりかしづききこえたまふ。常の御作法あやまたず、起き上がりたまうて、
「いと乱りがはしげにはべれば、渡らせたまふも心苦しうてなむ。この二、三日ばかり見たてまつらざりけるほどの、年月の心地するも、かつはいとはかなくなむ。後、かならずしも、対面のはべるべきにもはべらざめり。まためぐり参るとも、かひやははべるべき。
思へば、ただ時の間に隔たりぬべき世の中を、あながちにならひはべりにけるも、悔しきまでなむ」
など泣きたまふ。
宮も、もののみ悲しう取り集め思さるれば、聞こえたまふこともなくて見たてまつりたまふ。ものづつみをいたうしたまふ本性に、際々しうのたまひさはやぐべきにもあらねば、恥づかしとのみ思すに、いといとほしうて、いかなりしなども、問ひきこえたまはず。
大殿油など急ぎ参らせて、御台など、こなたにて参らせたまふ。もの聞こし召さずと聞きたまひて、とかう手づからまかなひ直しなどしたまへど、触れたまふべくもあらず。ただ御心地のよろしう見えたまふぞ、胸すこしあけたまふ。
病気中でも、御息所は、宮を丁重に畏まっておもてなしした。いつもの作法通りに、起き上がって、
「むさくるしいところへ、お出でいただいて心苦しいです。この二三日ばかりお会いしてませんので、何年にもなる心地がしますが、この世の浅はかな未練です。あの世で必ずしも会えるとは限らず、輪廻で再度この世に生まれても、互いがわからないでしょう。
思えば、一時の別れ別れになる世の中ですから、親子の情にほだされたのも、悔やまれます」
などと泣くのだった。
宮も、あれこれと悲しいことばかり思われて、何も言わず黙って御息所を見ていたが、すごく内気な性格なので、昨夜のことも何か申し開きするでなく、とても恥ずかしいことと思っているので、 御息所もお気の毒に感じて、何があったのか問うこともしない。
灯火を急いで持って来させて、食膳もこちらに持って来させる。宮が何も召し上がらないと聞いて、何かと自ら食事をととのえ直したりしたが、宮は手を付けなかった。御息所の気分が少しいいように見えて、宮はほっとするのであった。
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39.14 御息所、夕霧に返書
かしこよりまた御文あり。心知らぬ人しも取り入れて、
「大将殿より、少将の君にとて、御使ひあり」
と言ふぞ、またわびしきや。少将、御文は取りつ。御息所、
「いかなる御文にか」
と、さすがに問ひたまふ。人知れず思し弱る心も添ひて、下に待ちきこえたまひけるにさもあらぬなめりと思ほすも、心騷ぎして、
「いで、その御文、なほ聞こえたまへ。あいなし。人の御名を善さまに言ひ直す人は難きものなり。そこに心きよう思すとも、しか用ゐる人は少なくこそあらめ。心うつくしきやうに聞こえ通ひたまひて、なほありしままならむこそ良からめ。あいなき甘えたるさまなるべし」
とて、召し寄す。苦しけれどたてまつりつ。
「あさましき御心のほどを見たてまつり表いてこそ、なかなか心やすく、ひたぶる心もつきはべりぬべけれ。
せくからに浅さぞ見えむ山川の
流れての名をつつみ果てずは

と言葉も多かれど、見も果てたまはず。
この御文も、けざやかなるけしきにもあらで、めざましげに心地よ顔に、今宵つれなきを、いといみじと思す。
† 「故督の君の御心ざまの思はずなりし時、いと憂しと思ひしかど、おほかたのもてなしは、また並ぶ人なかりしかば、こなたに力ある心地して慰めしだに、世には心もゆかざりしを。あな、いみじや。大殿のわたりに思ひのたまはむこと」
と思ひしみたまふ。
「なほ、いかがのたまふと、けしきをだに見む」と、心地のかき乱りくるるやうにしたまふ目、おし絞りて、あやしき鳥の跡のやうに書きたまふ。
頼もしげなくなりにてはべる、訪らひに渡りたまへる折にて、そそのかしきこゆれど、いとはればれしからぬさまにものしたまふめれば、見たまへわづらひてなむ
女郎花萎るる野辺をいづことて
一夜ばかりの宿を借りけむ

と、ただ書きさして、おしひねりて出だしたまひて、臥したまひぬるままに、いといたく苦しがりたまふ。御もののけのたゆめけるにやと、人びと言ひ騒ぐ。
例の、験ある限り、いと騒がしうののしる。宮をば、
「なほ、渡らせたまひね」
と、人びと聞こゆれど、御身の憂きままに、後れきこえじと思せば、つと添ひたまへり。
夕霧からまた文があった。事情を知らぬ女房が取り次いで、
「大将殿から、少将の君へ、文がきてます」
と言うも、宮は当惑している。少将は文を取った。御息所は、
「どういう文か」
と、さすがに問うた。御息所は、夕霧を許そうという気持ちに傾いて、心待ちにしていたが、今日は来ないと思うと、心が騒いで、
「さあ、その文には返事を出しなさい。そのままではいけません。一度立った噂を言い直すなどできません。自分は潔白だと思っても、それを信じる人は少ないでしょう。さりげなくいつも通りにするのです。返事をしないのは馴れしいと見られます」
とて、文を渡すようにいう。少将は困ったがお渡しした。
「つれない御心を拝見しまして、かえって気楽になり、一途な気持ちになってしまいます。
(夕霧)わたしの気持ちを堰き止めようなどと
あなたの考えが浅いですよ、流れた浮き名は隠せません」
と細々と書いてあるが、最後まで読まない。
この文も、はっきり結婚の意思を示さず、驚くほど自分勝手で、御息所は今宵来ないのを、残念に思うのだった。
「柏木がつれない仕打ちをされた時、とても情けなく思ったが、表向きはたいそう大事に扱われて、こちらに強みがあるような気がして、慰めにはなったが、夫婦の仲は最悪だった。今また、とんでもない。致仕の大臣が何と思うか」
と心を痛めるのだった。
「夕霧が何と言ってくるか、打診してみよう」と気持ちがかき乱れ、涙で曇った目をおし絞って、あやしい鳥の足跡のような字を自ら書くのだった。
「すっかり弱っ私を見舞いに、宮がきておりますので、返事を書くようにすすめましたが、気分がすぐれない様子ですので、見るに見かねまして。
(御息所)女郎花の嘆き萎れている野辺を、
どことお思いで、ただ一夜だけお泊りになったのでしょう」
と途中まで書いて、両端をおしひねり、臥してしまい、ひどく苦しがった。今まで物の怪がゆるめて油断していたのだ、女房たちが言って騒ぐ。
例によって、律師や効験ある僧たちの修法始まった。宮に、
「どうぞお戻りください」
と女房たちがすすめるが、宮自身が情けなさに沈んで、母に後れじと、添い寝した。
2020.7.12/ 2022.3.8/ 2023.8.1
39.15 雲居雁、手紙を奪う
大将殿は、この昼つ方、三条殿におはしにける、今宵立ち返り参でたまはむに、「ことしもあり顔に、まだきに聞き苦しかるべし」など念じたまひて、いとなかなか年ごろの心もとなさよりも、千重にもの思ひ重ねて嘆きたまふ。
北の方は、かかる御ありきのけしきほの聞きて、心やましと聞きゐたまへるに、知らぬやうにて、君達もて遊び紛らはしつつ、わが昼の御座に臥したまへり。
宵過ぐるほどにぞ、この御返り持て参れるを、かく例にもあらぬ鳥の跡のやうなれば、とみにも見解きたまはで、大殿油近う取り寄せて見たまふ。女君、もの隔てたるやうなれど、いと疾く見つけたまうて、はひ寄りて、御後ろより取りたまうつ。
「あさましう。こは、いかにしたまふぞ。あな、けしからず。六条の東の上の御文なり。今朝、風邪おこりて悩ましげにしたまへるを、院の御前にはべりて、出でつるほど、またも参うでずなりぬれば、いとほしさに、今の間いかにと、聞こえたりつるなり。見たまへよ、懸想びたる文のさまか。さても、なほなほしの御さまや。年月に添へて、いたうあなづりたまふこそうれたけれ。思はむところを、むげに恥ぢたまはぬよ」
とうちうめきて、惜しみ顔にもひこしろひたまはねば、さすがに、ふとも見で持たまへり。
「年月に添ふるあなづらはしさは、御心ならひなべかめり」
とばかり、かくうるはしだちたまへるに憚りて、若やかにをかしきさましてのたまへば、うち笑ひて、
「そは、ともかくもあらむ。世の常のことなり。またあらじかし、よろしうなりぬる男の、かく紛ふ方なく、一つ所を守らへて、もの懼ぢしたる鳥の兄鷹やうのもののやうなるは。いかに人笑ふらむ。さるかたくなしき者に守られたまふは、御ためにもたけからずや。
あまたが中に、なほ際まさり、ことなるけぢめ見えたるこそ、よそのおぼえも心にくく、わが心地もなほ古りがたく、をかしきこともあはれなるすぢも絶えざらめ。かく翁のなにがし守りけむやうに、おれ惑ひたれば、いとぞ口惜しき。いづこの栄えかあらむ」
と、さすがに、この文のけしきなくをこつり取らむの心にて、欺き申したまへば、いとにほひやかにうち笑ひて、
「ものの映え映えしさ作り出でたまふほど、古りぬる人苦しや。いと今めかしくなり変はれる御けしきのすさまじさも、見ならはずなりにける事なれば、いとなむ苦しき。かねてよりならはしたまはで」
とかこちたまふも、憎くもあらず。
「にはかにと思すばかりには、何ごとか見ゆらむ。いとうたてある御心の隈かな。よからずもの聞こえ知らする人ぞあるべき。あやしう、もとよりまろをば許さぬぞかし。なほ、かの緑の袖の名残、あなづらはしきにことづけて、もてなしたてまつらむと思ふやうあるにや。いろいろ聞きにくきことどもほのめくめり。あいなき人の御ためにも、いとほしう」
などのたまへど、つひにあるべきことと思せば、ことにあらがはず。大輔の乳母、いと苦しと聞きて、ものも聞こえず。
夕霧は、その日の昼は、三条殿にいた。今夜も通おうと思っていたが、「何かことがあった顔をして、まだ何もないのに外聞が悪い」とあれこれ考えて、かえって長いこと気をもんでいたときより、千々にもの思い嘆くのだった。
北の方は、こうした小野に出かける様子を小耳にはさんで、おもしろくなく、知らぬふりをして、子供たちと遊びに紛らわして、昼の座に臥していた。
宵が過ぎる頃に、返事が来て、例の御息所らしからぬ鳥の足跡のような字を、夕霧はすぐには見ないで、灯火を取り寄せて見たのだった。 北の方は、素知らぬ顔をして、素早く見つけ、這い寄って、後ろから文を横取りした。
「とんでもないことを。どうしたのだ。何ということをするのだ。六条の花散里の文だ。今朝風邪にかかって具合が悪そうだったので、源氏の御前に参上したあとに、寄れなかったので、心配で今の具合は如何と、文を出したのだ。御覧なさい。恋文かどうか。それにしてもはしたない。年月が経つにつれて、わたしを馬鹿にするのが情けないですね。わたしがどう思おうと、ちっとも気にしないのですね」
と嘆息して、文を取り返そうともしないので、さすがに中身を見ずに、手に持っていた。
「年月を経て馬鹿にしているのは、あなたの方ではありませんか」
と言ってはみたものの、落ち着いた様子に憚って、可愛らしい顔つきで、言うので、夕霧は笑って、
「それは、どうでしょうか。夫婦とはそんなものです。他にいないでしょう。相当な地位についている男で、このように一途に、一人の妻を守って、びくびくして雄鷹のようにしているのは。人の笑い者になりましょう。こんな愚か者では、あなたも不名誉でしょう。
たくさんの妻妾のなかにいて、なお優れて、際立っていてこそ、世間の評判もよく、わたしの気持ちも新鮮で、夫婦の趣ある筋もあわれな筋も絶えるないのです。年寄りが何やらを大事に守っているように、愚かにしていては、お話にもなりません。見栄えがありません」
 と、さりげなく文を取り戻そうとして、雲居の雁の気をそらすように言うと、はなやかに笑って、
「見栄えよく作るのもいいですが、わたしのようなお婆さんは苦しくなります。たいそう今めかしい姿も、見馴れてませんので、ついていけません。昔からです」
と恨みがましく言うが、憎からず思われる。
「急に変わったと仰るが、どう変わったのでしょう。疑い深いですね。よくない告げ口する者がお側にいるのでしょう。どうしてか、昔からわたしを許してはくれませんでしたね。やはり、あの六位風情と、緑の袖口を馬鹿にした言い方で、言っているのでは。聞きにくいこともちらほら聞こえてきますよ。巻き添えにされた人も、お気の毒です」
など言うが、どうせそうなることと思うので、特に弁解もしない。乳母の大輔は、とてもつらく黙っている。
2020.7.13/ 2022.3.8/ 2023.8.1
39.16 手紙を見ぬまま朝になる
とかく言ひしろひて、この御文はひき隠したまひつれば、せめても漁り取らで、つれなく大殿籠もりぬれば、胸はしりて、「いかで取りてしがな」と、「御息所の御文なめり。何ごとありつらむ」と、目も合はず思ひ臥したまへり。
女君の寝たまへるに、昨夜の御座の下などに、さりげなくて探りたまへど、なし。隠したまへらむほどもなければ、いと心やましくて、明けぬれど、とみにも起きたまはず。
女君は、君達におどろかされて、ゐざり出でたまふにぞ、われも今起きたまふやうにて、よろづにうかがひたまへど、え見つけたまはず。女は、かく求めむとも思ひたまへらぬをぞ、「げに、懸想なき御文なりけり」と、心にも入れねば、君達のあわて遊びあひて、雛作り、拾ひ据ゑて遊びたまふ、書読み、手習ひなど、さまざまにいとあわたたし、小さき稚児這ひかかり引きしろへば、取りし文のことも思ひ出でたまはず。
男は、異事もおぼえたまはず、かしこに疾く聞こえむと思すに、昨夜の御文のさまも、えたしかに見ずなりにしかば、「見ぬさまならむも、散らしてけると推し量りたまふべし」など、思ひ乱れたまふ。
誰れも誰れも御台参りなどして、のどかになりぬる昼つ方、思ひわづらひて、
「昨夜の御文は、何ごとかありし。あやしう見せたまはで。今日も訪らひ聞こゆべし。悩ましうて、六条にもえ参るまじければ、文をこそはたてまつらめ。何ごとかありけむ」
とのたまふが、いとさりげなければ、「文は、をこがましう取りてけり」とすさまじうて、そのことをばかけたまはず、
「一夜の深山風に、あやまりたまへる悩ましさななりと、をかしきやうにかこちきこえたまへかし」
と聞こえたまふ。
「いで、このひがこと、な常にのたまひそ。何のをかしきやうかある。世人になずらへたまふこそ、なかなか恥づかしけれ。この女房たちも、かつはあやしきまめざまを、かくのたまふと、ほほ笑むらむものを」
と、戯れ言に言ひなして、
「その文よ。いづら」
とのたまへど、とみにも引き出でたまはぬほどに、なほ物語など聞こえて、しばし臥したまへるほどに、暮れにけり。
とかく、言い合って、この文は隠されたので、無理に取ろうとはせず、何ごともないかのように寝て、胸騒ぎして、「どうやって取り戻そう」と、「御息所の文だ。何かあったのか」と、目も閉じずにあれこれと思って臥した。
雲居の雁が寝たので、昨夜の座のしたなどを、さりげなく探したが、ない。隠したようでもないので、気がおさまらずおもしろくない、夜が明けても、夕霧はすぐにも起きない。
雲居の雁は、子供たちに起こされて、いざり出ると、夕霧も今起きたようにして、あちこち探したが、見つけられなかった。北の方は、夕霧が探しているとも思わずに、「ほんと、恋文ではないわ」と、気にもしないで、子供たちと騒がしく遊んで、雛遊びで、あちこち立てて遊ぶのだった。書を読み、手習いなど、さまざまにあわただしく、稚児が這いまわって衣を引っ張ったりして、文のことは思い出さない。
夕霧は、他のことは考えもせず、あちらに早く返事を出そうと思い、昨夜の文もよく読んでいなかったので、「見ないで書いたとなれば、なくしたと思うだろう」など、あれこれ思い乱れた。
誰もが皆食事時になって、のんびりした昼頃になると、とうとう思い余って、
「昨夜の文は、どうしたのか。どうして見せないのか。今日も訪ってお見舞いに行かなくては。気分がすぐれず、六条へけそうにないので、文を出さなければ。どんな内容だったのか」
と言ったが、さり気なかったので、「文を取って、馬鹿げたことをした」と気落ちして、そのことは気にかけず、
「先夜の山風にあたって具合が悪くなった、と風流気取りで返事を出したらどうですか」
と言うのだった。
「とんでもない。冗談を言うものではない。何の風情などあるものか。浮気男と思われているのが、恥ずかしい。女房たちも、生真面目なわたしが変わったと、こんな風にからかって、笑っているのだろう」
と冗談交じりに言って、
「その文は、どこにあるか」
と言うが、すぐに出してこないので、それから話などをして、しばし臥していたが、夕暮れになった。
2020.7.13/ 2022.3.9/ 2023.8.1
39.17 夕霧、手紙を見る
ひぐらしの声におどろきて、「山の蔭いかに霧りふたがりぬらむ。あさましや。今日この御返事をだに」と、いとほしうて、ただ知らず顔に硯おしすりて、「いかになしてしにかとりなさむ」と、眺めおはする。
御座の奥のすこし上がりたる所を、試みにひき上げたまへれば、「これにさし挟みたまへるなりけり」と、うれしうもをこがましうもおぼゆるに、うち笑みて見たまふに、かう心苦しきことなむありける。胸つぶれて、「一夜のことを、心ありて聞きたまうける」と思すに、いとほしう心苦し。
「昨夜だに、いかに思ひ明かしたまうけむ。今日も、今まで文をだに」
と、言はむ方なくおぼゆ。いと苦しげに、言ふかひなく、書き紛らはしたまへるさまにて、
「おぼろけに思ひあまりてやは、かく書きたまうつらむ。つれなくて今宵の明けつらむ」
と、言ふべき方のなければ、女君ぞ、いとつらう心憂き。
すずろに、かく、あだへ隠して。いでや、わがならはしぞや」と、さまざまに身もつらく、すべて泣きぬべき心地したまふ。
やがて出で立ちたまはむとするを、
「心やすく対面もあらざらむものから、人もかくのたまふ、いかならむ。坎日かんにちにもありけるを、もしたまさかに思ひ許したまはば、悪しからむ。なほ吉からむことをこそ」
と、うるはしき心に思して、まづ、この御返りを聞こえたまふ。
「いとめづらしき御文を、かたがたうれしう見たまふるに、この御咎めをなむ。いかに聞こし召したることにか。
秋の野の草の茂みは分けしかど
仮寝の枕結びやはせし

明らめきこえさするもあやなけれど、昨夜の罪は、ひたやごもりにや
とあり。宮には、いと多く聞こえたまて、御厩に足疾き御馬に移し置きて、一夜の大夫をぞたてまつれたまふ。
「昨夜より、六条の院にさぶらひて、ただ今なむまかでつると言へ」
とて、言ふべきやう、ささめき教へたまふ。
ひぐらしの声に驚き、「山里は霧だろうか。何ということか。今日はこの返事を出さなければ」と心配で、何気ない顔をして硯をすっていたが、「手紙をどうしたことにしよう」と思案にくれている。
北の方の坐の奥の方が少し上がっていて、試みにめくってみると、「ここに差し挟んであった」と、うれしくも馬鹿らしくも思い、にっこりして文を見ると、痛ましい内容であった。胸がつぶれて、「先夜は何かあったのか、と事情を聞いているのだ」と思うと、おいたわしく思い、胸が痛む。
「昨夜は、どんな風に思い明かしたか。今日はまだ文を出してない」
と言うに言われぬ気持ちになった。御息所は苦しそうで、書き紛らすように、
「よほど思い余って、このように書いたのだろう。返事も出さずに今宵も明けてしまった」
と、言いようもない。雲居の雁の仕打ちがとても恨めしい。
「愚かなことを、手紙を隠すなんて。わたしのしつけが悪かった」とさまざまにわが身を責めて、何もかも泣きたい気持ちだった。
やがて出かけようとするのだが、
「心安く会ってくれないだろうが、御息所はこのように言っている。どうしたものか。今日は、坎日かんにちだ、もし婿としてお許しがでたとしても、日が悪い。吉日にしよう」
と几帳面な性格から、まず返事を書くのだった。
「珍しい文をうれしく拝見しましたが、このお咎めは、さてどうしたらよろしいのでしょう。
(夕霧の歌)秋の野の草の茂みを分け入ってお伺いしましたが
仮寝の契りは結んでおりません
言い訳になるが、昨夜行かなかった咎を受けねばならぬでしょうか」
とあり。宮には細々とたくさん書いて、厩のなかで足の速い馬を選んで、あの時の太夫を文遣いに立てた。
「昨日から、六条院に行っていて、ただ今帰って来たばかりと言え」
と声をひそめて言うのだった。
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39.18 御息所の嘆き
かしこには、昨夜もつれなく見えたまひし御けしきを、忍びあへで、後の聞こえをもつつみあへず恨みきこえたまうしを、その御返りだに見えず、今日の暮れ果てぬるを、いかばかりの御心にかはと、もて離れてあさましう、心もくだけて、よろしかりつる御心地、またいといたう悩みたまふ。
なかなか正身の御心のうちは、このふしをことに憂しとも思し、驚くべきことしなければ、ただおぼえぬ人に、うちとけたりしありさまを見えしことばかりこそ口惜しけれ、いとしも思ししまぬを、かくいみじうおぼいたるを、あさましう恥づかしう、明らめきこえたまふ方なくて、例よりももの恥ぢしたまへるけしき見えたまふを、「いと心苦しう、ものをのみ思ほし添ふべかりける」と見たてまつるも、胸つとふたがりて悲しければ、
†「今さらにむつかしきことをば聞こえじと思へど、なほ、御宿世とはいひながら、思はずに心幼くて、人のもどきを負ひたまふべきことを。取り返すべきことにはあらねど、今よりは、なほさる心したまへ。
数ならぬ身ながらも、よろづに育みきこえつるを、今は何事をも思し知り、世の中のとざまかうざまのありさまをも、思したどりぬべきほどに、見たてまつりおきつることと、そなたざまはうしろやすくこそ見たてまつりつれ、なほいといはけて、強き御心おきてのなかりけることと、思ひ乱れはべるに、今しばしの命もとどめまほしうなむ。
ただ人だに、すこしよろしくなりぬる女の、人二人と見るためしは、心憂くあはつけきわざなるを、ましてかかる御身には、さばかりおぼろけにて、人の近づききこゆべきにもあらぬを、思ひのほかに心にもつかぬ御ありさまと、年ごろも見たてまつり悩みしかど、さるべき御宿世にこそは。
† 院より始めたてまつりて、思しなびき、この父大臣にも許いたまふべき御けしきありしに、おのれ一人しも心をたてても、いかがはと思ひ寄りはべりしことなれば、末の世までものしき御ありさまを、わが御過ちならぬに、大空をかこちて見たてまつり過ぐすを、いとかう人のためわがための、よろづに聞きにくかりぬべきことの出で来添ひぬべきが、さても、よその御名をば知らぬ顔にて、世の常の御ありさまにだにあらば、おのづからあり経むにつけても、慰むこともやと、思ひなしはべるを、こよなう情けなき人の御心にもはべりけるかな」
と、つぶつぶと泣きたまふ。
小野では、昨夜のつれないあしらいに、我慢できず、後の世間の噂も気にせずに恨みの手紙を出したのに、その返事もなく、今日もすっかり暮れてしまって、男君はどんな御心でいるのか、もってのほかのあきれたことと、心も千々に乱れて、良くなった病気も、また悪くなるのだった。
かえって宮自身は、このことを、何か厭うこともなく驚くでもなく、思いも寄らぬ人に、油断した姿を見せたことがく口惜しかったので、宮自身はそれほど気にしていなかったが、御息所がこれほど悲しんでいるのを、宮はとても恥ずかしく、きちんと弁明するすべもなく、宮がいつもより恥じらいの気色が深くなったように見えるのを、御息所は、「お気の毒だ、次々と物思いをしているのだ」と見て、胸が詰まって悲しいので、
「今さらうるさいことを申し上げたくないが、なお、宿世とはいいながら、あなたは思いのほか幼くて、人の批判を受けることになる。今さら取り返すこともできないので、今後はやはり、気をつけなさい。
至らぬ身ながら、力の及ぶ限り育んで来ましたが、今は何事も知って、男女の仲のあれこれの有様も、思い至ることができ、理解していると思っていたのですが、その方面も安心と思っていましたが、それでも、なお頼りなくて、しっかりした心構えができていない、と心配になりまして、今しばしこの命をこの世に留めたいと思います。
普通の人でも、人並みの身分に生まれた女は、二人の夫に仕えるのは、軽薄なことと見られますが、まして皇族のあなたが、そんなに容易に 人が近づくこともできないのに、思っても見ませんでした心外なお身の上になって、年頃も思い悩んできましたが、そんな宿世だったのでしょう。
朱雀院から承認されて、同じく父大臣も許可賜るように動いていたので、わたし一人が反対しても、どうしたものかと思って認めたのですが、後々になっても夫に先立たれる不幸、あなた自身の過ちでもないのに、大空を恨んで眺めているような有様で、先様としても私らとしても何かと不都合なことがこれから起こってくるだろうが、世間の噂は知らぬ顔にて、せめて世間並みの夫婦として夕霧と無事に過ごしてゆけば、自ずから気持ちがなぐさむだろうと思ったのだが、今度ばかりは、なんとひどい情けない夕霧の心ばえだろう」
と不平を言って泣くのだった。
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39.19御息所死去す
いとわりなくおしこめてのたまふを、あらがひはるけむ言の葉もなくて、ただうち泣きたまへるさま、おほどかにらうたげなり。うちまもりつつ、
「あはれ、何ごとかは、人に劣りたまへる。いかなる御宿世にて、やすからず、ものを深く思すべき契り深かりけむ」
などのたまふままに、いみじう苦しうしたまふ。もののけなども、かかる弱目に所得るものなりければ、にはかに消え入りて、ただ冷えに冷え入りたまふ。律師も騷ぎたちたまうて、願など立てののしりたまふ。
深き誓ひにて、今は命を限りける山籠もりを、かくまでおぼろけならず出で立ちて、壇こぼちて帰り入らむことの、面目なく、仏もつらくおぼえたまふべきことを、心を起こして祈り申したまふ。宮の泣き惑ひたまふこと、いとことわりなりかし。
かく騒ぐほどに、大将殿より御文取り入れたる、ほのかに聞きたまひて、今宵もおはすまじきなめり、とうち聞きたまふ。
「心憂く。世のためしにも引かれたまふべきなめり。何に我さへさる言の葉を残しけむ」
と、さまざま思し出づるに、やがて絶え入りたまひぬ。あへなくいみじと言へばおろかなり。昔より、もののけには時々患ひたまふ。限りと見ゆる折々もあれば、「例のごと取り入れたるなめり」とて、加持参り騒げど、今はのさま、しるかりけり。
宮は、後れじと思し入りて、つと添ひ臥したまへり。人びと参りて、
「今は、いふかひなし。いとかう思すとも、限りある道は、帰りおはすべきことにもあらず。慕ひきこえたまふとも、いかでか御心にはかなふべき」
と、さらなることわりを聞こえて、
「いとゆゆしう。亡き御ためにも、罪深きわざなり。今は去らせたまへ」
と、引き動かいたてまつれど、すくみたるやうにて、ものもおぼえたまはず。
修法の壇こぼちて、ほろほろと出づるに、さるべき限り、片へこそ立ちとまれ、今は限りのさま、いと悲しう心細し。
勝手に独りぎめして言うので、宮は逆らって申し開きをすることもできず、ただ泣いている様子は、おっとりして可愛らしい。じっと見つめている様子は、
「あわれだ。宮のどこが、人に劣っているのか。どんな宿世の因縁があって、心やすからず、ひどい苦労をするのか」
などと御息所は仰せになるまま、ひどく苦しんでいる。物の怪なども、こうした弱目につけ込んで勢いを得るものなので、たちまち息も絶え絶えになり、冷たくなってくる。律師も騒ぎ立てて、願を立て祈祷する。
深く誓って、命ある限りの山籠もりであったのに、意を決して下山したのに、ご本人が死んで、護摩壇を壊して山に帰ることの、面目がなく、仏をもお恨み申そうと、一心に願を立てて祈るのであった。宮の泣き惑うのも、無理なかった。
こうして騒いでいるとき、夕霧から文がきたと知らせがあったので、御息所は今夜も夕霧は来ないのだと理解した。
「情けない。世間の語り草とされるだろう。何で自分が自らあんな文を残したのだろう」
と様々に思い、やがて息絶えた。あまりのはかなさに、人々の落胆と悲しみは、言い表せない。昔から、物の怪に悩まさるれることがあり、今わの際が折々あったので、「また、気を失った」と、加持を騒いだが、これが最後なのは、明らかだった。
宮は、後を追おうと思って、添い臥してしまった。人々が集まって、
「もう仕方ありません。そんなに悲しまなくても、死出のさだめですから、帰っては来ません。慕って一緒に行きたいとしても、願いは叶いません」
と分かり切った道理を申し上げて、
「縁起でもない。亡き方のためにも、罪深いです。離れてください」
と、引き離そうとしたが、こわばったようになって、聞き入れようとしない。
修法の護摩壇は壊して、僧たちは帰ってゆく、しかるべき僧たちは残ったが、今はすべてが終わり、悲しみだけが残った。
2020.7.15/ 2022.3.9/ 2023.8.1
39.20朱雀院の弔問の手紙
所々の御弔ひ、いつの間にかと見ゆ。大将殿も、限りなく聞き驚きたまうて、まづ聞こえたまへり。六条の院よりも、致仕の大殿よりも、すべていとしげう聞こえたまふ。山の帝も聞こし召して、いとあはれに御文書いたまへり。宮は、この御消息にぞ、御ぐしもたげたまふ。
「日ごろ重く悩みたまふと聞きわたりつれど、例も篤しうのみ聞きはべりつるならひに、うちたゆみてなむ。かひなきことをばさるものにて、思ひ嘆いたまふらむありさま推し量るなむ、あはれに心苦しき。なべての世のことわりに思し慰めたまへ」
とあり。目も見えたまはねど、御返り聞こえたまふ。
常にさこそあらめとのたまひけることとて、今日やがてをさめたてまつるとて、御甥の大和守にてありけるぞ、よろづに扱ひきこえける。
骸をだにしばし見たてまつらむとて、宮は惜しみきこえたまひけれど、さてもかひあるべきならねば、皆いそぎたちて、ゆゆしげなるほどにぞ、大将おはしたる。
「今日より後、日ついで悪しかりけり」
など、人聞きにはのたまひて、いとも悲しうあはれに、宮の思し嘆くらむことを推し量りきこえたまうて、
「かくしも急ぎわたりたまふべきことならず」
と、人びといさめきこゆれど、しひておはしましぬ。
あちこちからの弔問、いつの間に知らせが届いたのか思えるほどだった。夕霧も、とても驚いて、まず弔問申し上げる。六条院からも致仕の大殿からも、次々と弔問があった。山の帝も御息所の死を聞いて、とてもあわれな文を寄せた。宮は、この文に、頭を上げられた。
「日ごろ病が重いと聞いていたが、いつも病気がちなので、つい気を許してお見舞いにも上がらなかった。悔んでも甲斐ない人のことはさておき、残されて思い嘆く人を推し量ると、あわれに心苦しい。すべて世の理と思って慰めてください」
とあった。宮は涙で目も見えないほどだったが、返事を出した。
普段からそうしてくれるように言っていたので、今日ただちに葬儀を執り行うということで、甥の大和の守が全体を仕切ることになった。
亡骸の側にもっとついていたいと、宮は埋葬を延すよう希望したが、そうしたところで仕方ないので、皆支度に忙しくしていることろに、夕霧が弔問に来た。
「今日から後では、日が悪い」
など、人が聞いている手前言って、たいそう悲しくあわれに、宮の思い嘆くのを推し量って、
「こんなに急いで行くべきではないでしょう」
と、人々が諫めたが、強いて来たのだった。
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39.21夕霧の弔問
ほどさへ遠くて、入りたまふほど、いと心すごし。ゆゆしげに引き隔てめぐらしたる儀式の方は隠して、この西面に入れたてまつる。大和守出で来て、泣く泣くかしこまりきこゆ。妻戸の簀子におし掛かりたまうて、女房呼び出でさせたまふに、ある限り、心も収まらず、物おぼえぬほどなり。
かく渡りたまへるにぞ、いささか慰めて、少将の君は参る。物もえのたまひやらず。涙もろにおはせぬ心強さなれど、所のさま、人のけはひなどを思しやるも、いみじうて、常なき世のありさまの、人の上ならぬも、いと悲しきなりけり。ややためらひて、
「よろしうおこたりたまふさまに承りしかば、思うたまへたゆみたりしほどに。夢も覚むるほどはべなるを、いとあさましうなむ」
と聞こえたまへり。「思したりしさま、これに多くは御心も乱れにしぞかし」と思すに、さるべきとは言ひながらも、いとつらき人の御契りなれば、いらへをだにしたまはず。
「いかに聞こえさせたまふとか、聞こえはべるべき」
「いと軽らかならぬ御さまにて、かくふりはへ急ぎ渡らせたまへる御心ばへを、思し分かぬやうならむも、あまりにはべりぬべし」
と、口々聞こゆれば、
「ただ、推し量りて。我は言ふべきこともおぼえず」
とて、臥したまへるもことわりにて、
「ただ今は、亡き人と異ならぬ御ありさまにてなむ。渡らせたまへるよしは、聞こえさせはべりぬ」
と聞こゆ。この人びともむせかへるさまなれば、
「聞こえやるべき方もなきを。今すこしみづからも思ひのどめ、また静まりたまひなむに、参り来む。いかにしてかくにはかにと、その御ありさまなむゆかしき」
とのたまへば、まほにはあらねど、かの思ほし嘆きしありさまを、片端づつ聞こえて、
「かこちきこえさするさまになむ、なりはべりぬべき。今日は、いとど乱りがはしき心地どもの惑ひに、聞こえさせ違ふることどももはべりなむ。さらば、かく思し惑へる御心地も、限りあることにて、すこし静まらせたまひなむほどに、聞こえさせ承らむ」
とて、我にもあらぬさまなれば、のたまひ出づることも口ふたがりて、
「げにこそ、闇に惑へる心地すれ。なほ、聞こえ慰めたまひて、いささかの御返りもあらばなむ」
などのたまひおきて、立ちわづらひたまふも、軽々しう、さすがに人騒がしければ、帰りたまひぬ。
道のりは遠く、山に入って、物寂しい。見るからに不吉な幕を張りめぐらせて式場は隠して、西面に夕霧を招じ入れた。大和守が出てきて、泣く泣く畏まって挨拶する。妻戸の簀子に座り高覧に背をもたせると、女房を呼び出すが、女房たちは皆、悲しみに気もそぞろで分別もつかないでいる。
夕霧がこうしてお出でになったので、少しほっとして、少将の君が来た。夕霧は物も言わない。涙もろい方ではないが、場所柄、人の気配など思いやるとひどく悲しく、世の無常の有様を感じ、他人事でないのも、とても悲しい。少しためらいながら、
「病状も少しはよろしいと承っていたので、安心して気を許していました。夢なら覚めるのですが、これは夢ではない」
と夕霧は挨拶する。「御息所のご心痛は、この方に悩まされたのだ」と思うと、亡くなるのはそれが定とはいいながら、このつらい人との縁なので、宮は返事もしない。
「どのように仰っておられるとお伝えしたらよいでしょうか」
「高いご身分の方が、こうして急いで来られた心ばえを、分からぬようなのも、あまりのことですので」
と口々に言うので、
「よいように返事せよ。わたしは何と挨拶したらいいのか」
と臥しているのも当然のことで、
「今は亡くなった人と同じような状態です。君がお越しになった旨は、お伝えしました」
と少将がお伝えする。女房たちも涙にくれているので、
「お慰めもできず。今少し自分も気持ちが落ち着き、こちら様もお心の静まった時に、来ましょう。どうしてこんなに急に亡くなられたか、その有様も知りたい」
と言うので、全部聞こえているわけではないが、御息所の思い嘆いていた様子も、片々聞こえて、
「これ以上になりますと、恨みがましくなりましょう。今日は宮のお気持ちがたいそう取り乱れておりますので、言うことに間違うこともありましょう。それに悲しみに沈む気持ちも、限りあることですので、少し気持ちが静まってから、お話もしてまた承りたい」
と少将は言い、宮が悲しみにわれを忘れて、何も言えずにいるので、
「実に、闇に惑える気持ちです。でも、お慰めして、少しはご返事のお言葉もいただければ」
などと言って、帰る潮時を失って愚図々々しているのも、見苦しく、さすがに人騒がせなので、帰った。
2020.7.16/ 2022.3.9/ 2023.8.1
39.22御息所の葬儀
今宵しもあらじと思ひつる事どものしたため、いとほどなく際々しきを、いとあへなしと思いて、近き御荘の人びと召し仰せて、さるべき事ども仕うまつるべく、おきて定めて出でたまひぬ。事のにはかなれば、削ぐやうなりつることども、いかめしう、人数なども添ひてなむ。大和守も、
「ありがたき殿の御心おきて」
など、喜びかしこまりきこゆ。「名残だになくあさましきこと」と、宮は臥しまろびたまへど、かひなし。親と聞こゆとも、いとかくはならはすまじきものなりけり。見たてまつる人びとも、この御事を、またゆゆしう嘆ききこゆ。大和守、残りのことどもしたためて、
かく心細くては、えおはしまさじ。いと御心の隙あらじ
など聞こゆれど、なほ、峰の煙をだに、気近くて思ひ出できこえむと、この山里に住み果てなむと思いたり。
御忌に籠もれる僧は、東面、そなたの渡殿、下屋などに、はかなき隔てしつつ、かすかにゐたり。西の廂をやつして、宮はおはします。明け暮るるも思し分かねど、月ごろ経ければ、九月になりぬ。
今晩はないだろうと思っていた葬儀の準備が、実に簡素で、いかにもそっけないので、夕霧は近くの荘の人々を呼んで、必要な支度をさせるべく、指示をして帰った。あまりに急だったので、簡略だった葬儀も、盛大になり、人数などもそろって大勢になった。大和守も、
「ありがたい殿のご手配」
など、喜び畏まった。「すっかり名残もなくなってしまった」と、宮は、臥して泣き崩れたが、何ともしようがない。親といっても、これほど仲良くなってはいけないのだった。お付きの女房たちも、宮の悲しみを、由々しいことと嘆くのであった。大和守、後かたずけをして、
「こんな寂しい所で暮らせないだろう。悲しみが紛れない」
などと言うのだが、それでも、御息所の峰の煙を、近くで思い出だそうと、宮はこの山里に住もうと思うのだった。
忌に籠る僧は、東面、その渡殿、下屋などに、仮の隔てをしつらえて、ひっそりと控えている。西の廂をしつらえて、宮がいる。明け暮れも分からぬ状態になって、月が代わって九月になった。
2020.7.16/ 2022.3.10/ 2023.8.1
39.23夕霧、返事を得られず
山下ろしいとはげしう、木の葉の隠ろへなくなりて、よろづの事いといみじきほどなれば、おほかたの空にもよほされて、干る間もなく思し嘆き、「命さへ心にかなはず」と、厭はしういみじう思す。さぶらふ人びとも、よろづにもの悲しう思ひ惑へり。
大将殿は、日々に訪らひきこえたまふ。寂しげなる念仏の僧など、慰むばかり、よろづの物を遣はし訪らはせたまひ、宮の御前には、あはれに心深き言の葉を尽くして怨みきこえ、かつは、尽きもせぬ御訪らひを聞こえたまへど、取りてだに御覧ぜず、 すずろにあさましきことを、弱れる御心地に、疑ひなく思ししみて、消え失せたまひにしことを思し出づるに、「後の世の御罪にさへやなるらむ」と、胸に満つ心地して、この人の御ことをだにかけて聞きたまふは、いとどつらく心憂き涙のもよほしに思さる。人びとも聞こえわづらひぬ。
一行の御返りをだにもなきを、「しばしは心惑ひしたまへる」など思しけるに、あまりにほど経ぬれば、
「悲しきことも限りあるを。などか、かく、あまり見知りたまはずはあるべき。いふかひなく若々しきやうに」と恨めしう、「異事ことことの筋に、花や蝶やと書けばこそあらめ、わが心にあはれと思ひ、もの嘆かしき方ざまのことを、いかにと問ふ人は、睦ましうあはれにこそおぼゆれ。
大宮の亡せたまへりしを、いと悲しと思ひしに、致仕の大臣のさしも思ひたまへらず、ことわりの世の別れに、公々おおやけおおやけしき作法ばかりのことを孝じたまひしに、つらく心づきなかりしに、六条院の、なかなかねむごろに、後の御事をも営みたまうしが、わが方ざまといふ中にも、うれしう見たてまつりしその折に、故衛門督をば、取り分きて思ひつきにしぞかし。
人柄のいたう静まりて、物をいたう思ひとどめたりし心に、あはれもまさりて、人より深かりしが、なつかしうおぼえし」
など、つれづれとものをのみ思し続けて、明かし暮らしたまふ。
山おろしが激しく吹き、木の葉もすっかりなくなり、何もかもうらぶれた季節になり、物悲しい秋の空に誘われて、涙の乾く間もなく、「自分の命も思い通りにならない」と、わが身も厭わしく思う。お付きの女房たちも、何ごとにも悲しみにくれている。
夕霧は、日々にお見舞いの文を遣わせる。寂し気に念仏する僧たちを、慰めたり、いろいろなものを用意して遣って、宮の前には、あわれな心深い言葉を尽くして恨み言を書き、一方、何度も見舞いの訪いを遣わすが、宮は手に取って見ることもなく、まったくもってあの浅ましい夕霧の振舞いを、御息所が病に弱った気持ちで、そう思い込んで、亡くなったことを思うと、「あのことに執着して成仏の障りになる」と胸いっぱいになり、夕霧のことを聞くだけで、つらい気持ちになり泣くのであった。女房たちも取扱いに困っている。
ただ一言の返事もないので、「悲しみにくれているのだろう」などと思っているが、あまりに時がたつので、
「悲しみも日がたてば薄れるものを。どうしてこんなに、人の気持ちを無視するのだろう、まるで子供のように」と恨めしく、「色めいて花や蝶やと書くわけでもないのに、自分が心からあわれと思い、お見舞いをすれば、それなりに親しみを感じうれしく思うものだが。
祖母の大宮が亡くなった時、たいそう悲しかったが、その子の致仕の大臣はそれほど悲しみの様子もなく、死別は世の常と割り切り、表向きの行事ばかりは盛大に行ったが、それがつらく思いやりがないと思ったが、源氏の六条院は、かえって丁重に、後の法事も営んだが」、自分の父とはいえ、うれしく思って見ていたその折に、故衛門の督をとりわけ好ましく思った。
柏木は人柄も大そう落ち着いていて、物事を深く心を留めて、あわれを感じる心も深く人に勝っていて慕わしい人物に思えた」
など、所在なく物思いにふけって、日を明かし暮らしていた。
2020.7.17/ 2022.3.10/ 2023.8.1
39.24雲居雁の嘆きの歌
女君、なほこの御仲のけしきを、
「いかなるにかありけむ。御息所とこそ、文通はしも、こまやかにしたまふめりしか」
など思ひ得がたくて、夕暮の空を眺め入りて臥したまへるところに、若君してたてまつれたまへる。はかなき紙の端に、
あはれをもいかに知りてか慰めむ
あるや恋しき亡きや悲しき

おぼつかなきこそ心憂けれ」
とあれば、ほほ笑みて、
「先ざきも、かく思ひ寄りてのたまふ、似げなの、亡きがよそへや」
と思す。いとどしく、ことなしびに、
いづれとか分きて眺めむ消えかへる
露も草葉のうへと見ぬ世を

おほかたにこそ悲しけれ」
と書いたまへり。「なほ、かく隔てたまへること」と、露のあはれをばさしおきて、ただならず嘆きつつおはす
なほ、かくおぼつかなく思しわびて、また渡りたまへり。「御忌など過ぐしてのどやかに」と思し静めけれど、さまでもえ忍びたまはず、
「今はこの御なき名の、何かはあながちにもつつまむ。ただ世づきて、つひの思ひかなふべきにこそは」
と、思したばかりにければ、北の方の御思ひやりを、あながちにもあらがひきこえたまはず。
正身は強う思し離るとも、かの一夜ばかりの御恨み文をとらへどころにかこちて、 「えしも、すすぎ果てたまはじ」と、頼もしかりけり。
雲居の雁は、この二人の間柄の様子を、
「どうなっているのだろう。御息所とは細やかに文を交わしているようだが」
など、合点がゆかなくて、夕霧が夕暮れの空を眺めて臥している所へ、子供に託してきた。ありあわせの紙の端に、
(雲居の雁)「あなたの悲しみはどちらが原因なのでしょう
この世に残った人か亡くなった人か
どちらか分からないのが情けない」
とあったので、微笑んで、
「前々もこんな風に疑っていましたね、故人を持ちだして見当違いに」
と思う。すぐ何気ない風に返歌して、
(夕霧)「特に誰を悲しんでいるわけではありません
あっけなく消える草葉の露もこの世のならいです
この世の無常が悲しいのです」
と書いてあった。「それでも、このように本心を明かさないで」と、露のあわれはさしおいて、雲居の雁はひどく嘆いた。
しかし夕霧は、宮が何と思っているかわからず、また小野に行った。「忌が明けてからでかけよう」と思っていたが、そんなに我慢もできず、
「今は、ふりかかったあらぬ噂を、強いて隠そうとも思わない。男らしく、思いを遂げるだけだ」
と意を決したので、雲居の雁の疑いもしいて気にせず、ことさら打ち消そうともしない。
落葉の君本人が強く拒んでも、あの一夜限りのとあった御息所の文に証しにしたら、「潔白を言い張ることもできまい」と意気軒高であった。
2020.7.18/ 2022.3.10/ 2023.8.1
39.25九月十日過ぎ、小野山荘を訪問
九月十余日、野山のけしきは、深く見知らぬ人だに、ただにやはおぼゆる。山風に堪へぬ木々の梢も、峰の葛葉くずはも、心あわたたしう争ひ散る紛れに、尊き読経の声かすかに、念仏などの声ばかりして、人のけはひいと少なう、木枯の吹き払ひたるに、鹿はただまがきのもとにたたずみつつ、山田の引板にもおどろかず、色濃き稲どもの中に混じりてうち鳴くも、愁へ顔なり。
滝の声は、いとどもの思ふ人をおどろかし顔に、耳かしかましうとどろき響く。草むらの虫のみぞ、よりどころなげに鳴き弱りて、枯れたる草の下より、龍胆りんどうの、われひとりのみ心長うはひ出でて、露けく見ゆるなど、皆例のこのころのことなれど、折から所からにや、いと堪へがたきほどの、もの悲しさなり。
例の妻戸のもとに立ち寄りたまて、やがて眺め出だして立ちたまへり。なつかしきほどの直衣に、色こまやかなる御衣の擣目うちめ、いとけうらに透きて、影弱りたる夕日の、さすがに何心もなうさし来たるに、まばゆげに、わざとなく扇をさし隠したまへる手つき、「女こそかうはあらまほしけれ、それだにえあらぬを」と、見たてまつる。
もの思ひの慰めにしつべく、笑ましき顔の匂ひにて、少将の君を、取り分きて召し寄す。簀子のほどもなけれど、奥に人や添ひゐたらむとうしろめたくて、えこまやかにも語らひたまはず。
「なほ近くて。な放ちたまひそ。かく山深く分け入る心ざしは、隔て残るべくやは。霧もいと深しや」
とて、わざとも見入れぬさまに、山の方を眺めて、「なほ、なほ」と切にのたまへば、鈍色の几帳を、簾のつまよりすこしおし出でて、裾をひきそばめつつゐたり。大和守の妹なれば、離れたてまつらぬうちに、幼くより生ほし立てたまうければ、衣の色いと濃くて、つるばみの衣一襲、小袿着たり。
「かく尽きせぬ御ことは、さるものにて、聞こえなむ方なき御心のつらさを思ひ添ふるに、心魂もあくがれ果てて、見る人ごとに咎められはべれば、今はさらに忍ぶべき方なし」
と、いと多く恨み続けたまふ。かの今はの御文のさまものたまひ出でて、いみじう泣きたまふ。
九月十余日、野山の気色は 深く情趣を知らぬ人も心を動かさずにはいられない。山風に堪えた木々の梢も、峰の葛葉くずはも、あわただしく散ってゆく中で、尊い読経の声がかすかに聞こえ、念仏の声も混じって、人の気配は少ない。木枯らしが吹き払って、鹿は籬のもとにたたずみ、山田の鳴子にも驚かず、色濃い稲の中に混じって鳴いているが、それも愁い顔だ。
滝の音は、物思う人を驚かし、耳にかしましくとどろき響く。草むらの虫は、頼りな気に鳴き細って、枯れた草の下から、龍胆りんどうだけがひとり咲き残っていて、露に濡れている、どれもこれもがいつものことだが、季節柄なのか山里という場所のせいなのか堪えがたいほどの物悲しさが漂っていた。
夕霧は 例の妻戸の所に立ち寄って、やがて物思いに沈んだふうで立った。着慣れた直衣に、色細やかな衣の擣目うちめが美しく、裏が透いて、弱い夕日が差し込んでくるのを、さりげなくまぶしそうに扇をかざした手つきは、「女こそこうありたいもの、それでもこれ程美しい所作はなかなかできない」と女房たちは見ている。
悲しみを紛らすこともできそうな、笑みがこぼれそうな美しい顔をして、少将の君を指名して呼ぶ。簀子は広くないので、奥に人がいるだろうと心配で込み入った細かな話はできない。
「もっと近くに。遠ざけないでください。このような山奥に分け入る気持ちを察して、隔てないでください。霧も深いことだし」
と言って、わざと見ないようにして、山の方を眺めて、「もう少し近くへ」と切に言えば、少将は鈍色の几帳を、簾の端から少し出て、裾を引き隠して座っていた。大和の守の妹なので、血縁は近く、御息所が幼い頃から育てた人なので、喪服の色は濃く、つるばみの衣一襲に、小袿を着ていた。
「尽きぬ故人への追悼の思いは、それとして、言いようもない宮の御心の冷たい仕打ちに、心も魂もどこかに飛んで行って、腑抜けになり、会う人ごとに聞かれる。堪えられない。」
とあれこれ恨み言を言う。あの御息所の最後の文を持ちだして、激しく泣くのだった。
2020.7.20/ 2022.3.11/ 2023.8.2
39.26板ばさみの小少将君
この人も、ましていみじう泣き入りつつ、
「その夜の御返りさへ見えはべらずなりにしを、今は限りの御心に、やがて思し入りて、暗うなりにしほどの空のけしきに、御心地惑ひにけるを、さる弱目に、例の御もののけの引き入れたてまつる、となむ見たまへし。
過ぎにし御ことにも、ほとほと御心惑ひぬべかりし折々多くはべりしを、宮の同じさまに沈みたまうしを、こしらへきこえむの御心強さになむ、やうやうものおぼえたまうしこの御嘆きをば、御前には、ただわれかの御けしきにて、あきれて暮らさせたまうし
など、とめがたげにうち嘆きつつ、はかばかしうもあらず聞こゆ。
「そよや。そもあまりにおぼめかしう、いふかひなき御心なり。今は、かたじけなくとも、誰をかはよるべに思ひきこえたまはむ。御山住みも、いと深き峰に、世の中を思し絶えたる雲の中なめれば、聞こえ通ひたまはむこと難し。
いとかく心憂き御けしき、聞こえ知らせたまへ。よろづのこと、さるべきにこそ。世にあり経じと思すとも、従はぬ世なり。まづは、かかる御別れの、御心にかなはば、あるべきことかは
など、よろづに多くのたまへど、聞こゆべきこともなくて、うち嘆きつつゐたり。鹿のいといたく鳴くを、「われ劣らめや」とて、
里遠み小野の篠原わけて来て
我も鹿こそ声も惜しまね

とのたまへば、
藤衣露けき秋の山人は
鹿の鳴く音に音をぞ添へつる

よからねど、折からに、忍びやかなる声づかひなどを、よろしう聞きなしたまへり。
御消息とかう聞こえたまへど、
「今は、かくあさましき夢の世を、すこしも思ひ覚ます折あらばなむ、絶えぬ御とぶらひも聞こえやるべき」
とのみ、すくよかに言はせたまふ。「いみじういふかひなき御心なりけり」と、嘆きつつ帰りたまふ。
この少将も、それ以上に激しく泣いて、
「あの夜の返事の文もいただけなかったのを、御息所は今わの際のみ心に思い込んで、暗くなった空のけしきに、心が迷っている時、そんな弱気なっているときに、例の物の怪を呼び込んだのだ、と思います。
以前の不幸のときも、御息所は心惑う時が多くありましたが、宮も同じ気持ちで沈んでおりまして、慰めようと、気を張っていましたので、どうにか正気を保っていました。御息所が亡くなった時は、宮様はまるで人ごとのように、ぼんやりしていました」
など、涙をこらえられず嘆いた。しっかりした物言いもできない。
「そうです。あまりに頼りない。情けないお気持ちの持ちようです。今は、誰を寄る辺にしたらいいのでしょう。父朱雀院も山深く住み、世の中と断念した雲の中のような所にいますので、文を交わすのも難しいでしょう。
こんなにつれない仕打ち、あなたからも申してください。すべて、前世の定めです。この世にいたくないと思っても、それはできません。御心のままにいくのなら御息所と死別することもなかった」
などと夕霧はいろいろ言ってみたが、少将は言葉もなく、嘆いている。鹿がひどく鳴くので、「わたしは劣らず泣きたい」とて、
(夕霧)「遠い山里 小野の篠原を分けて来たが
我も泣く 鹿に劣らず声を惜しまず」
と詠えば、
(少将)「喪服を着て悲しみにくれる山里人は
鹿の鳴く音に声を添えて泣いています」
よい歌ではないが、折が折なので、ひっそりした声づかいなどが、いいと思う。
少将を通じてなんとか取次を頼んだが、
「今は悪い夢を見ているようですが、少しは目覚めるときがありましたら、毎度の訪いのお礼を申し上げたい」
とのみ、そっけなく答えさせるのだった。「張り合いのない、ご返事だな」と嘆きながら帰った。
2020.7.20/ 2022.3.11◎
39.27夕霧、一条宮邸の側を通って帰宅
道すがらも、あはれなる空を眺めて、十三日の月のいとはなやかにさし出でぬれば、小倉の山もたどるまじうおはするに、一条の宮は道なりけり。
いとどうちあばれて、未申の方の崩れたるを見入るれば、はるばると下ろし籠めて、人影も見えず。月のみ遣水の面をあらはに澄みましたるに、大納言、ここにて遊びなどしたまうし折々を、思ひ出でたまふ。
見し人の影澄み果てぬ池水に
ひとり宿守る秋の夜の月

と独りごちつつ、殿におはしても、月を見つつ、心は空にあくがれたまへり。
「さも見苦しう。あらざりし御癖かな」
と、御達も憎みあへり。上は、まめやかに心憂く、
「あくがれたちぬる御心なめり。もとよりさる方にならひたまへる六条の院の人びとを、ともすればめでたきためしにひき出でつつ、心よからずあいだちなきものに思ひたまへる、わりなしや。我も、昔よりしかならひなましかば、人目も馴れて、なかなか過ごしてまし。世のためしにしつべき御心ばへと、親兄弟よりはじめたてまつり、めやすきあえものにしたまへるを、ありありては、末に恥がましきことやあらむ
など、いといたう嘆いたまへり。
夜明け方近く、かたみにうち出でたまふことなくて、背き背きに嘆き明かして、朝霧の晴れ間も待たず、例の、文をぞ急ぎ書きたまふ。いと心づきなしと思せど、ありしやうにも奪ひたまはず。いとこまやかに書きて、うち置きてうそぶきたまふ。忍びたまへど、漏りて聞きつけらる。
いつとかはおどろかすべき明けぬ夜の
夢覚めてとか言ひしひとこと

上より落つる
とや書いたまひつらむ、おし包みて、名残も、「いかでよからむ」など口ずさびたまへり。人召して賜ひつ。「御返り事をだに見つけてしがな。なほ、いかなることぞ」と、けしき見まほしう思す。
道すがら、風情ある空を眺めて、十三日の月が華やかに出ているので、ほの暗い小倉の山も通れるだろうと思い、一条の宮を通る道だった。
ひどく荒れ果てて、西南の築地が崩れているのを見て、一面に格子を下ろして、人影は見えない。月だけが遣り水の面に明らかに澄んで、故柏木が、ここで遊んだ折々を、思い出した。
(夕霧)「親しかった友の姿もない池水に
宿守をしている秋の夜の月の影が映っている」
と独り言をしながら、邸に帰っても、月を見て、心は空にあこがれるのだった。
「見苦しいこと。今までにないお振舞いですこと」
と主だった女房も皆憎らしがる。北の方は心底情けない思いで、
「放心のていですこと。元々六条院のあのような婦人たちが、女の鑑であるかのように見ていて、私を性根の悪い女と思っているのが、やりきれないです。わたしだって、昔からあのような生活をしていれば、はた目にもよく、うまくいったであろうに。夕霧は、世間の手本にもなりそうな実直な夫だったが、親兄弟から皆から、模範的な夫婦と見られていたのに、挙句は、最後には恥を書くようなことにもなる」
などとひどく嘆くのだった。
明け方近く、互いに話もなくて背を向け合って嘆きあかし、朝霧の晴れるのも待たず、例の、文を急いで書くのだった。とても不愉快に思ったが、この前のように、取り上げたりはしない。念入りに書いて、それを置いてうそぶいた。声をひそめていたが、漏れくるのが聞こえた。
(夕霧)「いつお訪ねしたらよろしいのでしょう
夢が覚めたらと仰せですが
どうしたらいいのでしょう」
とでも書いたのか、包んだ後も、「どうしたらよいでしょう」などと口ずさむ。遣いを呼んで、文を預けた。「返事だけでも見たい。どんな様子なのか」と、雲居の雁はあちらの様子を知りたがる。
2020.7.22/ 2022.3.11/2023.8.2
39.28落葉宮の返歌が届く
日たけてぞ持て参れる。紫のこまやかなる紙すくよかにて、小少将ぞ、例の聞こえたる。ただ同じさまに、かひなきよしを書きて、
「いとほしさに、かのありつる御文に、手習ひすさびたまへるを盗みたる」
とて、中にひき破りて入れたる、「目には見たまうてけり」と、思すばかりのうれしさぞ、いと人悪ろかりける。そこはかとなく書きたまへるを、見続けたまへれば、
朝夕に泣く音を立つる小野山は
絶えぬ涙や音無の滝

とや、とりなすべからむ、古言など、もの思はしげに書き乱りたまへる、御手なども見所あり。
「人の上などにて、かやうの好き心思ひ焦らるるは、もどかしう、うつし心ならぬことに見聞きしかど、身のことにては、げにいと堪へがたかるべきわざなりけり。あやしや。など、かうしも思ふべき心焦られぞ」
と思ひ返したまへど、えしもかなはず。
日が高くなって、紫の細やかな紙に、小少将が、例によって、そっけなく書いた文がきた。いつもの通り、何もない旨を書いて、
「お気の毒なので、いただいた文に、宮が手習いに書いた歌を入れました」
とて、破った紙を入れてあった。「宮が見たことは見たのだ」と思うとうれしく、何とも体裁が悪い。取りとめもなく書いているのを、見続けていると、
(落葉宮)「朝に夕に泣く音を立てている小野山は
涙が絶えず音無しの滝になって流れています」
とでも読むのであろうか、古歌なども、物思わし気に書きちらして、筆跡は見事だった。
他人ひとのことでは、好き心であくせくするのは、感心できない、正気の沙汰ではないと思っていたが、自分のこととなると、なるほど、堪えがたい。不思議だ。どうしてこう気がくのだろう」
と夕霧は反省するが、思うようにいかない。
2020.7.22/ 2022.3.18/ 2023.8.3
39.29源氏や紫の上らの心配
六条院にも聞こし召して、いとおとなしうよろづを思ひしづめ、人のそしりどころなく、めやすくて過ぐしたまふを、おもだたしう、わがいにしへ、すこしあざればみ、あだなる名を取りたまうし面起こしに、うれしう思しわたるを、
いとほしう、いづ方にも心苦しきことのあるべきこと。さし離れたる仲らひにてだにあらで、大臣なども、いかに思ひたまはむ。さばかりのこと、たどらぬにはあらじ。宿世といふもの、逃れわびぬることなり。ともかくも口入るべきことならず」
と思す。女のためのみにこそ、いづ方にもいとほしけれと、あいなく聞こしめし嘆く。
紫の上にも、来し方行く先のこと思し出でつつ、かうやうのためしを聞くにつけても、亡からむ後、うしろめたう思ひきこゆるさまをのたまへば、御顔うち赤めて、「心憂く、さまで後らかしたまふべきにや」と思したり。
「女ばかり、身をもてなすさまも所狭う、あはれなるべきものはなし。もののあはれ、折をかしきことをも、見知らぬさまに引き入り沈みなどすれば、何につけてか、世に経る映えばえしさも、常なき世のつれづれをも慰むべきぞは。
おほかた、ものの心を知らず、いふかひなきものにならひたらむも、生ほしたてけむ親も、いと口惜しかるべきものにはあらずや。
心にのみ籠めて、無言太子とか、小法師ばらの悲しきことにする昔のたとひのやうに、悪しきこと善きことを思ひ知りながら、埋もれなむも、いふかひなし。わが心ながらも、良きほどには、いかで保つべきぞ」
と思しめぐらすも、今はただ女一の宮の御ためなり
源氏の耳にも噂が入り、夕霧が何ごとも落ち着いて慎重な態度であり、人の非難もなく、そつなくやっているのを、誇らしく思い、自分が若い頃に、少し好色で浮き名をながした名誉挽回にもなると思っていたので、
「困ったことだ。どちらの女にとっても気の毒だ。赤の他人でもないのだから、致仕の大臣は、どう思っているだろう。その程度のことが本人に分からぬはずもないだろう。宿世は逃れられないものだ。わたしが口出すことでもないだろう」
と思う。女の身にとっては、どちらも困ったことになった、と気をまわして嘆いた。
紫の上にも、来し方行く末を思い出しつつ、このような話をして、自分が死んだ後、こんな状況を心配していると言うと、紫の上は顔を赤らめて、「情けない。そんなに後までわたしを残してゆくおつもりか」と思うのだった。
「女ほど、身の処し方も窮屈で、あわれなものはない。物の情趣や折々の風情あることも、見知らぬ様にして引きこもって入れば、一体何によって、この世を生きている晴れがましさを味わい、無常なこの世の所在なさをを慰めることができよう。
世間の常識もわきまえず、つまらない女ということになってしまっては、育てた親も、不本意であろう。
心に思っているだけで、無言太子のように、小法師らがする悲しい昔話ように、悪しきことも善いことも知っていて、黙っているのも、つまらない。自分ながら、ほどよい身の処し方をするにはどうしたらよいか」
と紫の上が思いめぐらし、今はただ女一の宮のためであった。
2020.7.24/ 2022.3.18/ 2023.8.4
39.30夕霧、源氏に対面
大将の君、参りたまへるついでありて、思ひたまへらむけしきもゆかしければ、
「御息所の忌果てぬらむな。昨日今日と思ふほどに、三年よりあなたのことになる世にこそあれ。あはれに、あぢきなしや。夕べの露かかるほどのむさぼりよ。いかでかこの髪剃りて、よろづ背き捨てむと思ふを、さものどやかなるやうにても過ぐすかな。いと悪ろきわざなりや」
とのたまふ。
「まことに惜しげなき人だにこそ、はべめれ」など聞こえて、「御息所の四十九日のわざなど、大和守なにがしの朝臣、一人扱ひはべる、いとあはれなるわざなりや。はかばかしきよすがなき人は、生ける世の限りにて、かかる世の果てこそ、悲しうはべりけれ」
と、聞こえたまふ。
「院よりも弔らはせたまふらむ。かの皇女、いかに思ひ嘆きたまふらむ。はやう聞きしよりは、この近き年ごろ、ことに触れて聞き見るに、この更衣こそ、口惜しからずめやすき人のうちなりけれ。おほかたの世につけて、惜しきわざなりや。さてもありぬべき人の、かう亡せゆくよ。
院も、いみじう驚き思したりけり。かの皇女こそは、ここにものしたまふ入道の宮よりさしつぎには、らうたうしたまひけれ。人ざまもよくおはすべし」
とのたまふ。
「御心はいかがものしたまふらむ。御息所は、こともなかりし人のけはひ、心ばせになむ。親しううちとけたまはざりしかど、はかなきことのついでに、おのづから人の用意はあらはなるものになむはべる」
と聞こえたまひて、宮の御こともかけず、いとつれなし。
「かばかりのすくよけ心に思ひそめてむこと、諌めむにかなはじ。用ゐざらむものから、我賢しに言出でむもあいなし」
と思して止みぬ。
夕霧が、来たついでに、ほんとうはどう思ってるのか知りたかったので、
「御息所の忌は済んだか。昨日今日と思う間に、三年もたってしまう世の中だが、あわれで味気ない。わたしは余命いくばくもなくこの世にしがみついている。髪をそって、世に背き、すべてを捨てようと思うが、いつまでも命があるように過ごしている。よくないことだ」
と源氏が仰せになる。
「まったく、どうでもよいと思われる人々でも、捨てがたいものがあります」などと言って、「御息所の四十九日の法要など、大和守の朝臣がひとりでやっていました、奇特な人だ。確かな身寄りのない人は、生きている時はともかく、亡き後は寂しいものです」
と夕霧は言う。
「朱雀院からも弔問があるだろう。あの女二の宮は、どんなに嘆いていることだろう。以前聞いていたより、近頃、ことに触れて聞くのは、この御息所こそは、なかなかしっかりした難のない人だったらしい。世間も惜しい人を亡くした。もっと生きていてほしい人が、先に亡くなる。
院も驚いたであろう。何といってもあの落葉の宮こそは、ここの女三の宮の次に、院のご寵愛を受けていた。あの皇女は人柄も好いのだろね」
と仰せになった。
「姫のお人柄はどんなか知りません。御息所は申し分のないお人柄で気立はよかった。親しく打ち解けたわけではありませんが、ちょっとしたことで、おのずから人柄は現れるものです」
と話して、宮のことには触れず、素知らぬ体であった。
「これほど生一本な男が、思い染めたことは、意見をしても駄目だろう。聞き入れないだろうから、分別ぶって意見しても無駄だ」
と思って言いださない。
2020.7.24/ 2022.3.18/ 2023.8.4
39.31父朱雀院、出家希望を諌める
かくて御法事に、よろづとりもちてせさせたまふ。事の聞こえ、おのづから隠れなければ、大殿などにも聞きたまひて、「さやはあるべき」など、女方の心浅きやうに思しなすぞ、わりなきや。かの昔の御心あれば、君達、参で訪らひたまふ。
誦経など、殿よりもいかめしうせさせたまふ。これかれも、さまざま劣らずしたまへれば、時の人のかやうのわざに劣らずなむありける。
宮は、かくて住み果てなむと思し立つことありけれど、院に、人の漏らし奏しければ、
「いとあるまじきことなり。げに、あまた、とざまかうざまに身をもてなしたまふべきことにもあらねど、後見なき人なむ、なかなかさるさまにて、あるまじき名を立ち、罪得がましき時、この世後の世、中空にもどかしき咎負ふわざなる。
ここにかく世を捨てたるに、三の宮の同じごと身をやつしたまへる、すべなきやうに人の思ひ言ふも、捨てたる身には、思ひ悩むべきにはあらねど、かならずさしも、やうのことと争ひたまはむも、うたてあるべし。
世の憂きにつけて厭ふは、なかなか人悪ろきわざなり。心と思ひ取る方ありて、今すこし思ひ静め、心澄ましてこそ、ともかうも」
とたびたび聞こえたまうけり。この浮きたる御名をぞ聞こし召したるべき。「さやうのことの思はずなるにつけて倦じたまへる」と言はれたまはむことを思すなりけり。さりとて、また、「表はれてものしたまはむもあはあはしう、心づきなきこと」と、思しながら、恥づかしと思さむもいとほしきを、「何かは、我さへ聞き扱はむ」と思してなむ、この筋は、かけても聞こえたまはざりける。
こうして法事は、夕霧がすべて取り仕切って行った。その様子は、自ずから評判になり、致仕の大臣にも耳に入って、「そんなはずがあろうか」など、女の方が軽率だから、と思われるのも困ったものだ。亡き柏木との縁で、弟君たちも参列した。
読経など、到仕の大臣からも盛大にさせるのだった。ご子息たちもそれぞれ負けずに布施なさったので、時の人に劣らず盛大だった。
宮は、このまま小野に引きこもってしまおうと思い立ったが、朱雀院に、告げる人があって、
「とんでもないことだ。確かに、あれこれの男と関係をもつのは、感心しないが、後見のない人が、なまじ尼になって、けしからぬ浮き名も立ち、この世でも来世でもうまくゆかず、どっちつかずで罪作りになるのが落ちだろう。
わたしはこうして世を捨てているが、三の宮も同じように尼僧姿になり、どうしようもないと言う人もいるが、世を捨てた身で、思い悩むことではないが、二人が何も競うようにして出家するのも、外聞が悪かろう。
世の中がつらいからと言って出家するのは、かえって見苦しいです。自分でしっかり考えて、落ち着いて、決めては如何でしょう」
とたびたびご意見なされた。夕霧との浮いた噂を聞いているのであろう。「そのようなことがうまくゆかず世が嫌になったのか」と噂されるのを心配している。かといって、「表立って一緒になるのも軽率で、感心しない」とおもいながら、宮に恥ずかしい思いをさせるのも気の毒で、「なんでわたしが噂を聞いて口出しするか」と思って、このことは、一言も仰せにならなかった。
2020.7.25/ 2022.3.18/ 2023.8.4
39.32夕霧、宮の帰邸を差配
大将も、
「とかく言ひなしつるも、今はあいなし。かの御心に許したまはむことは、難げなめり。御息所の心知りなりけりと、人には知らせむ。いかがはせむ。亡き人にすこし浅き咎は思はせて、いつありそめしことぞともなく、紛らはしてむ。さらがへりて、懸想だち、涙を尽くしかかづらはむも、いとう ひうひしかるべし」
と思ひ得たまうて、一条に渡りたまふべき日、その日ばかりと定めて、大和守召して、あるべき作法のたまひ、宮のうち払ひしつらひ、さこそいへども、女どちは、草茂う住みなしたまへりしを、磨きたるやうにしつらひなして、御心づかひなど、あるべき作法めでたう、壁代、御屏風、御几帳、御座などまで思し寄りつつ、大和守にのたまひて、かの家にぞ急ぎ仕うまつらせたまふ。
† その日、我おはしゐて、御車、御前などたてまつれたまふ。宮は、さらに渡らじと思しのたまふを、人びといみじう聞こえ、大和守も、
† 「さらに承らじ。心細く悲しき御ありさまを見たてまつり嘆き、このほどの宮仕へは、堪ふるに従ひて仕うまつりぬ。
今は、国のこともはべり、まかり下りぬべし。宮の内のことも、見たまへ譲るべき人もはべらず。いとたいだいしう、いかにと見たまふるを、かくよろづに思しいとなむを、げに、この方にとりて思たまふるには、かならずしもおはしますまじき御ありさまなれど、さこそは、いにしへも御心にかなはぬためし、多くはべれ。
一所やは、世のもどきをも負はせたまふべき。いと幼くおはしますことなり。たけう思すとも、女の御心ひとつに、わが御身をとりしたため、顧みたまふべきやうかあらむ。なほ、人のあがめかしづきたまへらむに助けられてこそ、深き御心のかしこき御おきても、それにかかるべきものなり。
君たちの聞こえ知らせたてまつりたまはぬなり。かつは、さるまじきことをも、御心どもに仕うまつりそめたまうて」

と、言ひ続けて、左近、少将を責む。
夕霧も、
「あれこれ言っても、今は甲斐なし。宮の御心の許しを得るのは、難しい。御息所が承知していた、と人には言っておこう。仕方ない。亡き人に少し軽率だった罪を負わせて、何時からそうなったかは曖昧にして紛らわそう。また今さららしく色恋めいて、涙を流して口説くのも、いかにもうぶなやり方だ 」
と思い至って、一条の邸に移転する日を、何日と一方的に決めて、大和守を呼び寄せて、しかるべき準備の数々を言いつけて、邸の内を掃除して整え、女ばかりでは、草も茂ったまま住んでいたので、磨いたようにきれいにして、その気遣いは、あるべき立派な作法にのっとって、壁代、屏風、几帳、御座にまでおよび、大和守に言いつけて、自家で急ぎ調達するよう命じるのだった。
当日は、夕霧が立ち会って、車、前駆などを小野に手配した。宮は、どうしても帰らないと言っていたが、女房たちが説得し、大和守も、
「とても承服できない。ひとりになって心細く悲しんでいる有様を拝見して、これまで出来るかぎりお仕えしました。
今は任国のこともあり、下向しなければなりません。邸の管理も、任せる人がございません。気がかりで、心配ですが、夕霧がこうして万端お世話くださいますので、われわれの側としも、どうしても一条邸に移る事情があるわけでもないでしょうが、そんな風に昔も思い通りにならなかった例はたくさんございます。
あなたおひとりが世間の非難を負うべきでもないでしょう。いかにも聞き分けのないことです。いくら強がっても、女ひとりで、わが身の処置をきちんとし、気を遣ってやれるでしょうか。やはり、よく世話をする人がいて、支援を得て、深いご思慮によってよい暮らし向きもできるのです。
お供のあなた方がよく言って教えないからこうなるのです。そのくせ、けしからぬ文の取り次ぎを、勝手にされたり」
と言って、お供の右近、少将などを責めるのだった。
2020.7.27/ 2022.3,20/ 2023.8.4
39.33落葉宮、自邸へ向かう
集りて聞こえこしらふるに、いとわりなく、あざやかなる御衣ども、人びとのたてまつり替へさするも、われにもあらず、なほ、いとひたぶるに削ぎ捨てまほしう思さるる御髪を、かき出でて見たまへば、六尺ばかりにて、すこし細りたれど、人はかたはにも見たてまつらず、みづからの御心には、
「いみじの衰へや。人に見ゆべきありさまにもあらず。さまざまに心憂き身を」
と思し続けて、また臥したまひぬ。
「時違ひぬ。夜も更けぬべし」
と、皆騒ぐ。時雨いと心あわたたしう吹きまがひ、よろづにもの悲しければ、
のぼりにし峰の煙にたちまじり
思はぬ方になびかずもがな

心ひとつには強く思せど、そのころは、御鋏などやうのものは、皆とり隠して、人びとの守りきこえければ、
かくもて騒がざらむにてだに、何の惜しげある身にてか、をこがましう、若々しきやうにはひき忍ばむ。人聞きもうたて思すまじかべきわざを
と思せば、その本意のごともしたまはず。
人びとは、皆いそぎ立ちて、おのおの、櫛、手筥、唐櫃、よろづの物を、はかばかしからぬ袋やうの物なれど、皆さきだてて運びたれば、一人止まりたまふべうもあらで、泣く泣く御車に乗りたまふも、傍らのみまもられたまて、こち渡りたまうし時、御心地の苦しきにも、御髪かき撫でつくろひ、下ろしたてまつりたまひしを思し出づるに、目も霧りていみじ。御佩刀はかしに添へて経筥を添へたるが、御傍らも離れねば、
恋しさの慰めがたき形見にて
涙にくもる玉の筥かな

黒きもまだしあへさせたまはず、かの手ならしたまへりし螺鈿の筥なりけり。誦経にせさせたまひしを、形見にとどめたまへるなりけり。浦島の子が心地なむ。
女房たち皆が、なだめ申し上げるので、仕方なく、鮮やかな婚礼に相応しい衣に、女房たちが変えるので、呆然として、切に削ぎ落したいと願った御髪を、脇に出して見れば、六尺ばかりあって少し少なくなっていたが、女房たちはそれとも気づかず、自分だけが気になるのだった、
「ずいぶん衰えたものだ。人に見せられない。なんと情けないこの身か」
と思い込んで、また臥すのだった。
「遅れますよ。夜も更けてしまう」
と皆騒いだ。時雨がひどくなり、あわただしく吹きつけて、なにもかも悲しい。
(落葉宮)「母の埋葬の煙に混じって死んでしまいたい
自分が思わぬ方向にはなびきたくない」
自分では強く思っているが、その頃は、鋏などは、みな隠して、髪を自分で切らないように、女房たちは見張っていたので、
「こんなにまわりが騒がしくしなくても、何の惜しくもないこの身で、髪をおろすなどと、馬鹿げた子供っぽいことをするだろうか、人聞きも悪いのに」
と思っているので、髪をおろすこともしない。
女房たちは急いで支度して、それぞれ、櫛、手筥てばこ唐櫃からひつなど、いろいろな物をしかと荷造りしない袋に詰めて、皆先立って運んだので、ひとり残るわけにもいかず、泣く泣く車に乗ったが、誰もいない傍らが気になり、こちらに来たときは、気持ちが沈んでいた御息所が髪をなでてくれて、下車を助けてくれたことを思い出して、目も涙に曇って悲しい。佩刀はかしに添えて、経筥を側に置いて、傍らを離れないので、
(落葉宮)「亡き母の恋しさの詰まった形見の
玉の箱を見ると涙に曇ります」
喪中の黒い経箱もまだ用意できず、母君が親しく使っていた螺鈿らでんの箱で間に合わせた。布施の遺言があったが、形見に手元に置いていた。浦島の子の心地だ。
2020.7.28/ 2022.3.20/ 2023.8.4
39.34夕霧、主人顔して待ち構える
おはしまし着きたれば、殿のうち悲しげもなく、人気多くて、あらぬさまなり。御車寄せて降りたまふを、さらに、故里とおぼえず、疎ましううたて思さるれば、とみにも下りたまはず。いとあやしう、若々しき御さまかなと、人びとも見たてまつりわづらふ。殿は、東の対の南面を、わが御方を、仮にしつらひて、住みつき顔におはす。三条殿には、人びと、
「にはかにあさましうもなりたまひぬるかな。いつのほどにありしことぞ」
と、驚きけり。なよらかにをかしばめることを、好ましからず思す人は、かくゆくりかなることぞうちまじりたまうける。されど、年経にけることを、音なくけしきも漏らさで過ぐしたまうけるなり、とのみ思ひなして、かく、女の御心許いたまはぬと、思ひ寄る人もなし。とてもかうても、宮の御ためにぞいとほしげなる。
御まうけなどさま変はりて、もののはじめゆゆしげなれど、もの参らせなど、皆静まりぬるに、渡りたまて、少将の君をいみじう責めたまふ。
「御心ざしまことに長う思されば、今日明日を過ぐして聞こえさせたまへ。なかなか、立ち帰りてもの思し沈みて、亡き人のやうにてなむ臥させたまひぬる。こしらへきこゆるをも、つらしとのみ思されたれば、何ごとも身のためこそはべれ。いとわづらはしう、聞こえさせにくくなむ」
と言ふ。
「いとあやしう。推し量りきこえさせしには違ひて、いはけなく心えがたき御心にこそありけれ
とて、思ひ寄れるさま、人の御ためも、わがためにも、世のもどきあるまじうのたまひ続くれば、
いでや、ただ今は、またいたづら人に見なしたてまつるべきにやと、あわたたしき乱り心地に、よろづ思たまへわかれず。あが君、とかくおしたちて、ひたぶるなる御心なつかはせたまひそ
と手をする。
「いとまだ知らぬ世かな。憎くめざましと、人よりけに思し落とすらむ身こそいみじけれ。いかで人にもことわらせむ」
と、いはむかたもなしと思してのたまへば、さすがにいとほしうもあり、
まだ知らぬは、げに世づかぬ御心がまへのけにこそはと、ことわりは、げに、いづ方にかは寄る人はべらむとすらむ
と、すこしうち笑ひぬ。
一条邸に着いてみれば、邸のうちは悲しげなふうもなく、人気が多く、以前の邸とは違っていた。車を寄せて下りたが、とてももとの邸と思えない。不愉快な感じがして、すぐにも下りられない。子供っぽい振舞いと、女房たちも見て心配した。夕霧は、東の対の南面を、自分の住まいと仮に準備して、主人気取りでいる。三条邸の、女房たちは、
「急にとんでもないことになりましたね。いつからそんなことになっていたのか」
と驚くのだった。色ごとの艶っぽいことを、夕霧のように苦手にする人は、こうした突拍子もないことをするものだ。しかし、長年にわたった仲であったのを隠していたのだ、と女房たちは思っていて、女が結婚の承諾はしていない、と思う人はいなかった。どちらにしても宮にはお気の毒であった。
祝膳なども喪中のため様変わり、新婚に縁起でもないが、食事などさし上げて皆寝静まった頃に、夕霧は来て、少将の君をひどく責めた。
「み心が本当に末永くとお思いでしたら、今日明日はご遠慮ください。今は一条に戻ってから物思いに沈み、亡き人のようになって、伏せてしまいました。結婚を宮に得心させようとしても、つらいとばかり言われますので、仕える身ですから。ご不興をかうのも恐れ多いです」
と少将は言う。
「おかしいな。わたしが推察していたこととは違うな。ずいぶん聞き分けのない人だな」
と言い寄って、夕霧は宮の立場や自分の立場を世の批判をあびないよう心配ない旨を説得をしようとしたが、
「いいえ、お願いです。今は亡き御息所の後を追うのではないかと、取り乱している状態です。分別がありません。どうか、無体をなさって、み心を押し通そうとなさらないでください」
と少将は手をすって頼むのであった。
「こんなあしらいを女からうけたことはない。憎むべき嫌な人と、見下されたこの身があわれだ。人にも是非を判断させたいものだ」
と、夕霧は言っても無駄と思うと、さすがにお気の毒になり、
「こんな扱いを受けたことがないとは、女の経験が少ないからでしょう、道理と言えば、どちらに軍配が上がるでしょう」
と少将は少し笑うのだった。
2020.7.29/ 2022.3.27/ 2023.8.4
39.35落葉宮、塗籠に籠る
かく心ごはけれど、今は、かれたまふべきならねば、やがてこの人をひき立てて、推し量りに入りたまふ。
宮は、「いと心憂く、情けなくあはつけき人の心なりけり」と、ねたくつらければ、「若々しきやうには言ひ騒ぐとも」と思して、 塗籠に御座ひとつ敷かせたまて、うちより鎖して大殿籠もりにけり。「これもいつまでにかは。かばかりに乱れ立ちにたる人の心どもは、いと悲しう口惜しう」思す。
男君は、めざましうつらしと思ひきこえたまへど、かばかりにては、何のもて離るることかはと、のどかに思して、よろづに思ひ明かしたまふ。 山鳥の心地ぞしたまうける。からうして明け方になりぬ。かくてのみ、ことといへば、直面ひたおもてなべければ、出でたまふとて、
「ただ、いささかの隙をだに」
と、いみじう聞こえたまへど、いとつれなし。
怨みわび胸あきがたき冬の夜に
また鎖しまさる関の岩門

聞こえむ方なき御心なりけり」
と、泣く泣く出でたまふ。
少将の君が、これだけ強く言ったにもかかわらず、今は邪魔されたくないので、少将の君をせかし、見当をつけて中に入った。
宮は、「何と情なく思いやりのない付け人だろう」と無念で恨めしいので、「子供っぽい振舞いと騒がれてもいい」と思って、塗籠に褥を敷かせて、中から錠をかけて寝た。「こんなことでいつまで身を守れるだろう。こんなにお付きの者が浮足立っては、何と悲しく口惜しい」と宮は思う。
夕霧は、ひどい仕打ちだと思ったが、こうなっては、相手も逃れられない、とのんびり構えて、あれこれと物思いして夜を明かした。山鳥の尾の長々し夜を一人かも寝る心地がした。こんなことでは、下手をすると、露骨なにらみ合いになってしまう、と思って帰ろうとして、
「ほんの少しだけでも」
と熱心に頼むけれども、返事がない。
(夕霧)「恨みは晴れようもない長い冬の夜
さらに錠を鎖した関の岩戸ですか
申し上げようもない冷たいみ心ですね」
と泣く泣く帰った。
2020.7.29/ 2022.3.27/ 2023.8.4
39.36夕霧、花散里へ弁明
六条の院にぞおはして、やすらひたまふ。東の上、
「一条の宮渡したてまつりたまへることと、かの大殿わたりなどに聞こゆる、いかなる御ことにかは」
と、いとおほどかにのたまふ。御几帳添へたれど、側よりほのかには、なほ見えたてまつりたまふ。
「さやうにも、なほ人の言ひなしつべきことにはべり。故御息所は、いと心強う、あるまじきさまに言ひ放ちたまうしかど、限りのさまに、御心地の弱りけるに、また見譲るべき人のなきや悲しかりけむ、亡からむ後の後見にとやうなることのはべりしかば、もとよりの心ざしもはべりしことにて、かく思たまへなりぬるを、さまざまに、いかに人扱ひはべらむかし。さしもあるまじきをも、あやしう人こそ、もの言ひさがなきものにあれ」
と、うち笑ひつつ、
「かの正身なむ、なほ世に経じと深う思ひ立ちて、尼になりなむと思ひ結ぼほれたまふめれば、何かは。こなたかなたに聞きにくくもはべべきを、さやうに嫌疑離れても、また、かの遺言は違へじと思ひたまへて、ただかく言ひ扱ひはべるなり。
院の渡らせたまへらむにも、ことのついではべらば、かうやうにまねびきこえさせたまへ。ありありて、心づきなき心つかふと、思しのたまはむを憚りはべりつれど、げに、かやうの筋にてこそ、人の諌めをも、みづからの心にも従はぬやうにはべりけれ
と、忍びやかに聞こえたまふ。
「人のいつはりにやと思ひはべりつるを、まことにさるやうある御けしきにこそは。皆世の常のことなれど、三条の姫君の思さむことこそ、いとほしけれ。のどやかに慣らひたまうて」
と聞こえたまへば、
「らうたげにものたまはせなす、姫君かな。いと鬼しうはべるさがなものを」とて、「などてか、それをもおろかにはもてなしはべらむ。かしこけれど、御ありさまどもにても、推し量らせたまへ。
なだらかならむのみこそ、人はつひのことにははべめれ。さがなくことがましきも、しばしはなまむつかしう、わづらはしきやうに憚らるることあれど、それにしも従ひ果つまじきわざなれば、ことの乱れ出で来ぬる後、我も人も、憎げに飽きたしや。
なほ、南の御殿の御心もちゐこそ、さまざまにありがたう、さてはこの御方の御心などこそは、めでたきものには、見たてまつり果てはべりぬれ」
など、ほめきこえたまへば、笑ひたまひて、
「もののためしに引き出でたまふほどに、身の人悪ろきおぼえこそあらはれぬべう。
さて、をかしきことは、院の、みづからの御癖をば人知らぬやうに、いささかあだあだしき御心づかひをば、大事と思いて、戒め申したまふ。後言しうりごとにも聞こえたまふめるこそ、賢しだつ人の、おのが上知らぬやうにおぼえはべれ」
とのたまへば、
「さなむ、常にこの道をしも戒め仰せらるる。さるは、かしこき御教へならでも、いとよくをさめてはべる心を」
とて、げにをかしと思ひたまへり。
御前に参りたまへれば、かのことは聞こし召したれど、何かは聞き顔にもと思いて、ただうちまもりたまへるに、
「いとめでたくきよらに、このころこそねびまさりたまへる御盛りなめれ。さるさまの好き事をしたまふとも、人のもどくべきさまもしたまはず。鬼神も罪許しつべく、あざやかにものきよげに、若う盛りに匂ひを散らしたまへり。
もの思ひ知らぬ若人のほどにはたおはせず、かたほなるところなうねびととのほりたまへる、ことわりぞかし。女にて、などかめでざらむ。鏡を見ても、などかおごらざらむ」
と、わが御子ながらも、思す。
夕霧は六条の院に行って、お休みになる。花散里が、
「一条の宮が、京にお移りになったと、致仕大臣方で噂しているそうですが、どういう事情なのですか」
たいそうおっとりと聞かれる。几帳で隔てられているが、隅の方から中がわずかに見えている。
「そのように噂されているようです。故御息所は、気丈夫な方で、宮の再婚など飛んでもないと言っていましたが、死期も近くなって、気持ちが弱ったのでしょうか、他に世話を頼める人がなかったのを悲しんだのでしょうか、亡き後の後見にと遺言されまして、わたしもその積りだったものですから、こうして引き受けることになったのですが、人はさまざまに言うでしょう。そんなに騒ぎ立てることではないのに、人は口さがないものです」
と笑いつつ、
「ご本人は、世を捨てて、尼になると思いつめています、いえ、なに。結婚となればあちこちに外聞の悪いこともありましょう、たとえ尼になっても、あの遺言は守り通そうと思い、こうしてお世話しているのです。
源氏の君がお越しになるときがありましたら、ことのついでに、このように申し上げてください。この年になって、よからぬ料簡を起こしたと、お小言を頂戴しそうですが、実際、このようなことには、人の諫めにも従えず、自分の思うようにならないものです」
と声をひそめて言うのだった。
「世間のあらぬ噂と思っておりましたが、本当にそうだったのですね。世間によくあることですけれど、三条の姫君がどう思うか、お気の毒です。今までは安心しておられたのに」
と花散里が言えば、
「姫君などと可愛らし気に呼ぶのですね。鬼のような性悪ですのに」とて、「どうして、雲居の雁をおろそかにできましょうか。恐れ多いですが、こちらの夫人方の処し方で推し量ってください。
穏やかなのこそ、女は取るべき道と思います。意地を張って、ことを荒立てるのも、最初のうちは何やら面倒で、厄介ですが、それにずっと従っているわけにもいかず、ことがもつれてきますと、わたしもあちらも、憎たらしくなります。
なおこの頃は、紫の上の心遣いこそ、色々と真似のできぬことで、次いであなたの心遣いがご立派である、と近頃つくづく思うようになりました」
などと誉めると、笑って、
「そんな例に引き合いに出されて、わたしの体裁の悪い評判がはっきりしそうです。
それはそれとして、おかしいことには、源氏の君は自分の女癖はそっちのけで、少しでも浮気心があなたに見えると、大騒ぎして、注意することです。陰口までいうのは、賢い人は、自分のことは自分では分からないのですね」
と花散里が言えば
「そうです。いつも女のことでは注意を受けます。わざわざ教えられなくても、わたしは十分気をつけていますのに」
と言って、実におかしいと思うのだった。
源氏の御前に出れば、源氏は一条の宮のことは聞いていたが、聞いたそぶりも見せず、ただじっと夕霧の顔を見ている、
「とても美しい、ちょうど今頃が男盛りというのであろう。そのような浮気心を起こしても、人に非難されるような様子でもない。鬼神も罪を許すだろうほどに、あざやかに美しい、若い盛りの照り映える見事な美しさであった。
ものの分別を知らぬ未熟な若人でもなく、どこといって欠点もなく立派な壮年であった。無理もない。女から見ても素晴らしいと思うだろう。鏡を見ても、いい男と思うだろう」
とわが子ながら思うのだった。
2020.7.30/ 2022.4.5/ 2023.8.4
39.37雲居雁、嫉妬に荒れ狂う
日たけて、殿には渡りたまへり。入りたまふより、若君たち、すぎすぎうつくしげにて、まつはれ遊びたまふ。女君は、帳の内に臥したまへり。
入りたまへれど、目も見合はせたまはず。つらきにこそはあめれ、と見たまふもことわりなれど、憚り顔にももてなしたまはず、御衣をひきやりたまへれば、
「いづことておはしつるぞ。まろは早う死にき。常に鬼とのたまへば、同じくはなり果てなむとて」
とのたまふ。
「御心こそ、鬼よりけにもおはすれ、さまは憎げもなければ、え疎み果つまじ」
と、何心もなう言ひなしたまふも、心やましうて、
めでたきさまになまめいたまへらむあたりに、あり経べき身にもあらねば、いづちもいづちも失せなむとするを、かくだにな思し出でそ。あいなく年ごろを経けるだに、悔しきものを
とて、起き上がりたまへるさまは、いみじう愛敬づきて、匂ひやかにうち赤みたまへる顔、いとをかしげなり。
「かく心幼げに腹立ちなしたまへればにや、目馴れて、この鬼こそ、今は恐ろしくもあらずなりにたれ。神々しき気を添へばや」
と、戯れに言ひなしたまへど、
「何ごと言ふぞ。おいらかに死にたまひね。まろも死なむ。見れば憎し。聞けば愛敬なし。見捨てて死なむはうしろめたし」
とのたまふに、いとをかしきさまのみまされば、こまやかに笑ひて、
近くてこそ見たまはざらめ、よそにはなにか聞きたまはざらむ。さても、契り深かなる瀬を知らせむの御心ななり。にはかにうち続くべかなる冥途のいそぎは、さこそは契りきこえしか
と、いとつれなく言ひて、何くれと慰めこしらへきこえ慰めたまへば、いと若やかに心うつくしう、らうたき心はたおはする人なれば、なほざり言とは見たまひながら、おのづからなごみつつものしたまふを、いとあはれと思すものから、心は空にて、
「かれも、いとわが心を立てて、強うものものしき人のけはひには見えたまはねど、もしなほ本意ならぬことにて、尼になども思ひなりたまひなば、をこがましうもあべいかな」
と思ふに、しばしはとだえ置くまじう、あわたたしき心地して、暮れゆくままに、「今日も御返りだになきよ」と思して、心にかかりつつ、いみじう眺めをしたまふ。
日が高くなり、三条の自邸に戻った。帰るなり、子供たちが、次々と可愛らし気な姿で、まつわりついて来る。女君は、帳の内にいて臥していた。
中に入ったが、雲居の雁は目も合わせない。つらい気持ちなのは当然として、分かるのだが、自分に気づいた風も見せないので、女の衣の裾を引くと、
「ここをどこと思って。わたしはとうに死にましたよ。いつも鬼と言われていますから、鬼になりました」
と言う。
「あなたの心こそ鬼より怖い、姿は憎らしくはないから、嫌いにはなれないな」
と戯れに言われるのに、腹が立って、
「素敵なおしゃれをするお方のお側に、いられる身でもないので、どこへでも失せてしまいたい。もうわたしを見限ってください。おめおめと長く連れ添ったのも、口惜しいだけです」
と言って起き上がる様は、ひどく愛嬌があって、つやつやと赤みを帯びた顔は、可愛らしい。
「このように子供っぽく腹を立てるのは、馴れているので、この鬼はもう怖くない。もう少し神々しいところがあったらいい」
と戯れに言うと、
「何を仰いますか。あっさり死んでしおしまい。わたしも死ぬわ。見れば憎い。聞けば嫌だし。見捨てて先に死ぬのは心配だし」
と女君が言うと、愛らしい様子が勝るので、にこやかに笑って、
「わたしを近くに見なくなっても、ほかでわたしの噂を聞くでしょう。そんなに深い契りの仲だったと知らせようと、おつもりですか。続いて冥土に行くと、約束したでしょう」
と素っ気なく言って、あれこれとやって慰めるようとしていると、雲居の雁は、無邪気で素直で、可愛げのある気性なので、冗談だとは思いながらも、雲居の雁が自然に気持ちが和んゆくのを、可愛い人だと思う一方で、上の空で、
「落葉の宮も、自分の気持ちを貫いて、意志の強い人には見えないけれど、もし自分と一緒にならずに、本当に尼になってしまったら、自分は馬鹿な目に合うだろうな」
と思うと、ここ当分は絶えず訪れようと、落ち着かない心地で、夕暮れになるままに、「今日も返事がないな」と思って、気になりながら、物思いに沈むのだった。
2020.7.30/ 2022.4.5/ 2023.8.4
39.38雲居雁、夕霧と和歌を詠み交す
昨日今日つゆも参らざりけるもの、いささか参りなどしておはす。
「昔より、御ために心ざしのおろかならざりしさま、大臣のつらくもてなしたまうしに、世の中の痴れがましき名を取りしかど、堪へがたきを念じて、ここかしこ、すすみけしきばみしあたりを、あまた聞き過ぐししありさまは、女だにさしもあらじとなむ、人ももどきし。
今思ふにも、いかでかはさありけむと、わが心ながら、いにしへだに重かりけりと思ひ知らるるを、今は、かく憎みたまふとも、思し捨つまじき人びと、いと所狭きまで数添ふめれば、御心ひとつにもて離れたまふべくもあらず。また、よし見たまへや。命こそ定めなき世なれ」
とて、うち泣きたまふこともあり。女も、昔のことを思ひ出でたまふに、
「あはれにもありがたかりし御仲の、さすがに契り深かりけるかな」
と、思ひ出でたまふ。なよびたる御衣ども脱いたまうて、心ことなるをとり重ねて焚きしめたまひ、めでたうつくろひ化粧じて出でたまふを、灯影に見出だして、忍びがたく涙の出で来れば、脱ぎとめたまへる単衣の袖をひき寄せたまひて、
馴るる身を恨むるよりは松島の
海人の衣に裁ちやかへまし

なほうつし人にては、え過ぐすまじかりけり」
と、独言にのたまふを、立ち止まりて、
「さも心憂き御心かな。
松島の海人の濡衣なれぬとて
脱ぎ替へつてふ名を立ためやは

 うち急ぎて、いとなほなほしや。
女君は、少しも手をつけなかったが、少し召しあがるようになった。
「昔から、あなたのために志を通してきたのだ、大臣がつらく当たってきた時も、世間から痴れ者といわれたが、堪えがたきを忍び、あちこちから、縁組を進める人たちがいたが、全部聞き過ごして、女だってそんな操を守る例がない、と人が咎めるまでになった。
今思うに、どうしてあんなことができたか、自分でも、若い頃も浮ついたところはなかったと思いますが、今はこうして憎み合っても、見捨てられない子供たちも大勢いるし、自分だけの意思で出て行くわけにもいかない。まあ見ていてください。わたしの気持ちは変わりません」
と涙を流しながら言うこともあった。女も、昔のその頃を思い出して、
「二人は世にまたとないありがたい仲で、本当に深い契りだったのだ」
と、思い出していた。しわになった衣を脱いで、新調の見事な衣装を取り重ねて香を焚きしめて、美しく身づくろいをして出かけるのを、火影に見て、堪えかねて涙がでてくる、脱いだまま置いてある衣の袖を引き寄せて、
(雲居雁)「長年連れ添って古びたこの身をいっそのこと
尼衣に着替えようか
この世に生きていけない」
と独り言を言うのを、立ち止まって聞いて、
「何と、情けないことをお考えだ
(夕霧)長年連れ添ったわたしに飽きたからといって
わたしを見限ったという噂が立っていいものか」
お出かけ間際で、平凡な歌だこと。
2020.7.31/ 2022.4.5◎
39.39塗籠の落葉宮を口説く
かしこには、なほさし籠もりたまへるを、人びと、
「かくてのみやは。若々しうけしからぬ聞こえもはべりぬべきを、例の御ありさまにて、あるべきことをこそ聞こえたまはめ」
など、よろづに聞こえければ、さもあることとは思しながら、今より後のよその聞こえをも、わが御心の過ぎにし方をも、心づきなく、恨めしかりける人のゆかりと思し知りて、その夜も対面したまはず。「戯れにくく、めづらかなり」と、聞こえ尽くしたまふ。人もいとほしと見たてまつる。
「『いささかも人心地する折あらむに、忘れたまはずは、ともかうも聞こえむ。この御服のほどは、一筋に思ひ乱るることなくてだに過ぐさむ』となむ、深く思しのたまはするを、かくいとあやにくに、知らぬ人なくなりぬめるを、なほいみじうつらきものに聞こえたまふ」
と聞こゆ。
思ふ心は、また異ざまにうしろやすきものを。思はずなりける世かな」とうち嘆きて、「例のやうにておはしまさば、物越などにても、思ふことばかり聞こえて、御心破るべきにもあらず。あまたの年月をも過ぐしつべくなむ」
など、尽きもせず聞こえたまへど、
なほ、かかる乱れに添へて、わりなき御心なむいみじうつらき人の聞き思はむことも、よろづになのめならざりける身の憂さをば、さるものにて、ことさらに心憂き御心がまへなれ
と、また言ひ返し恨みたまひつつ、はるかにのみもてなしたまへり。
落葉の宮が、まだ塗籠に籠っているのを、女房たちは、
「このままではいけません。大人げない振舞いと世間が噂しそうですので、いつものご座所に戻って、お考えを申し上げなさい」
などと口々に言うので、そうであろうとは思いながら、これからの外聞の悪さも、今までの悲しみも、あの嫌な恨めしい男のせいだと思って、その夜も会おうとしない。「冗談にも程がある。変わった方だ」と言葉を尽くして夕霧は言うのだった。女房たちもとてもお気の毒だと思っている。
「『少し人心地がついて、わたしをお忘れでなければ、とかくのご返事もいたしましょう。喪の間は、とにかく菩提を弔いたい』と深く決心していますので、こうして都合が悪く、世間に知れ渡ってしまったのを、たいそうつらいと言っております」
と少将が伝言する。
「わたしの思う気持ちは、宮の思いと違って安心できるものです。心外なことになりました」と嘆いて、「普段の御座所におられれば、物越しでも自分の思いを伝えて、宮を傷つけることはしません。何年でも待ちましょう」
などとあれこれと言うが、
「こうして喪中で悲しみに沈んでいるのに、ご無体な振舞いをされるのが、つらいのです。世間の人が聞いても、この身のつらさはさておいて、情けなくも無理を通そうとする心ばえです」
とまた恨みがましく言い返して、全く近くに寄せつけないのだった。
2020.7.31/ 2022.4.5/ 2023.8.4
39.40夕霧、塗籠に入って行く
「さりとて、かくのみやは。人の聞き漏らさむこともことわり」と、はしたなう、ここの人目もおぼえたまへば、
「うちうちの御心づかひは、こののたまふさまにかなひても、しばしは情けばまむ。世づかぬありさまの、いとうたてあり。また、かかりとて、ひき絶え参らずは、人の御名いかがはいとほしかるべき。ひとへにものを思して、幼げなるこそいとほしけれ」
など、この人を責めたまへば、げにと思ひ、見たてまつるも今は心苦しう、かたじけなうおぼゆるさまなれば、人通はしたまふ塗籠の北の口より、入れたてまつりてけり。
いみじうあさましうつらしと、さぶらふ人をも、げにかかる世の人の心なれば、これよりまさる目をも見せつべかりけりと、頼もしき人もなくなり果てたまひぬる御身を、かへすがへす悲しう思す。
男は、よろづに思し知るべきことわりを聞こえ知らせ、言の葉多う、あはれにもをかしうも聞こえ尽くしたまへど、つらく心づきなしとのみ思いたり。
† 「いと、かう、言はむ方なきものに思ほされける身のほどは、たぐひなう恥づかしければ、あるまじき心のつきそめけむも、心地なく悔しうおぼえはべれど、とり返すものならぬうちに、何のたけき御名にかはあらむ。いふかひなく思し弱れ
思ふにかなはぬ時、身を投ぐるためしもはべなるを、ただかかる心ざしを深き淵になずらへたまて、捨てつる身と思しなせ」
と聞こえたまふ。単衣の御衣を御髪込めひきくくみて、たけきこととは、音を泣きたまふさまの、心深くいとほしければ、
「いとうたて。いかなればいとかう思すらむ。いみじう思ふ人も、かばかりになりぬれば、おのづからゆるぶけしきもあるを、岩木よりけになびきがたきは、契り遠うて、憎しなど思ふやうあなるを、さや思すらむ」
と思ひ寄るに、あまりなれば心憂く、三条の君の思ひたまふらむこと、いにしへも何心もなう、あひ思ひ交はしたりし世のこと、年ごろ、今はとうらなきさまにうち頼み、解けたまへるさまを思ひ出づるも、わが心もて、いとあぢきなう思ひ続けらるれば、あながちにもこしらへきこえたまはず、嘆き明かしたまうつ。
「そうでもこのままでは。人の噂の種になるのも当然だ」と、自分が見っともなく、ここの女房たちの手前もあるので、
「当分は、宮の思い通りにして、しばしは逆らわずやさしく扱おう。男女の営みを、拒否するのは、情けない。また、こうだからと、これっきりお伺いしないのでは、宮の評判も心配だ、一方的に自分のことばかり考えて、大人げないのも困ったものだ」
など、少将を責めると、本当にそうだと思い、夕霧を拝見しても今はお気の毒に思えて、恐れ多い気がするので、女房の出入りする塗籠の北の口から、夕霧を中へ案内した。
宮は、何とひどいことだ、お付きの女房も、世間の人並みの心根で、これ以上にひどいことをやるかもしれないと恐れ、頼りにできる人もなくなったわが身を、つくづく悲しく思った。
夕霧は、何かと宮が納得できるような条理を、あれこれ言葉を多くして、感情にも訴えて言葉を尽くしたが、宮は恨めしく嫌なお方とのみ思った。
「全くこのように、お話しにならない男と思われてしまったこの身が、ひどく恥ずかしいが、あるまじき恋心が生じたのも、迂闊なことだったと、口惜しく思いますが、今さら汚名を晴らそうとしても、取り返しがつきません。
思い通りにならない時、淵に身を投げる例もありますが、こうした私の気持ちを淵と思って、この淵に身投げしたとお考えください」
と夕霧は説得するのだった。単衣に髪を包み込んで、できることと言っては、音にだして泣く様が、実にお気の毒だったので、
「ああ情けない。これほど嫌われるとは。どんなに意志の強い女でも、こうなれば、自然と気持ちが弛み、岩木のようになびかないのは、前世の因縁が薄いため、男を憎いと思いようになったのか」
と思うと、あまりにも情けなく、雲居の雁を思い出し、昔から無邪気に、思い交わしていたこと、今までずっと疑うことなく自分を頼みにし、安心しきっていた様子を思い出して、自分のせいで、このようにどちらも味気ない状態にさせてしまったので、無理にも宮を説得せず、嘆き明かすのだった。
2020.8.1/ 2022.4.6/ 2023.8.5
39.41夕霧と落葉宮、遂に契りを結ぶ
かうのみ痴れがましうて出で入らむもあやしければ、今日は泊りて、心のどかにおはす。かくさへひたぶるなるを、あさましと宮は思いて、いよいよ疎き御けしきのまさるを、をこがましき御心かなと、かつは、つらきもののあはれなり。
塗籠も、ことにこまかなるもの多うもあらで、香の御唐櫃、御厨子などばかりあるは、こなたかなたにかき寄せて、気近うしつらひてぞおはしける。うちは暗き心地すれど、朝日さし出でたるけはひ漏り来たるに、埋もれたる御衣ひきやり、いとうたて乱れたる御髪、かきやりなどして、ほの見たてまつりたまふ。
いとあてに女しう、なまめいたるけはひしたまへり。男の御さまは、うるはしだちたまへる時よりも、うちとけてものしたまふは、限りもなうきよげなり。
「故君の異なることなかりしだに、心の限り思ひあがり、御容貌まほにおはせずと、ことの折に思へりしけしきを思し出づれば、まして、かういみじう衰へにたるありさまを、しばしにても見忍びなむや」と思ふも、いみじう恥づかしう、とざまかうざまに思ひめぐらしつつ、わが御心をこしらへたまふ。
ただかたはらいたう、ここもかしこも、人の聞き思さむことの罪さらむ方なきに、折さへいと心憂ければ、慰めがたきなりけり。
御手水、御粥など、例の御座の方に参れり。色異なる御しつらひも、いまいましきやうなれば、東面は屏風を立てて、母屋の際に香染の御几帳など、ことことしきやうに見えぬ物、沈の二階なんどやうのを立てて、心ばへありてしつらひたり。大和守のしわざなりけり。
人びとも、鮮やかならぬ色の、山吹、楷練かいねり、濃き衣、青鈍などに着かへさせ、薄色の裳、青朽葉などを、とかく紛らはして、御台は参る。女所にて、しどけなくよろづのことならひたる宮の内に、ありさま心とどめて、わづかなる下人をも言ひととのへ、この人一人のみ扱ひ行ふ。
かくおぼえぬやむごとなき客人のおはすると聞きて、もと勤めざりける家司など、うちつけに参りて、政所など言ふ方にさぶらひて営みけり。
これ程間抜けな有様で出入りするのは不体裁なので、今日は泊まって、ゆったり過ごした。(夕霧の)一方的なやり方を、(宮は)浅ましいと思って、いっそう嫌いになっていくのを、夕霧は見苦しいと見て、つらくも気の毒にも思った。
塗籠も細かなものがたくさんあるでなし、香の唐櫃、厨子なだがあり限りだが、それがあちらこちらに寄せてあって、住みやすく片付いていた。中は暗いように思われるが、朝日が出てくる気配が漏れてくると、かぶった衣を引きのけ、乱れた髪を脇に押しやるなど、ちらりと見えるのであった。
宮は、気品があり、優雅な感じがした。夕霧の様子は、身なりを整えている時よりも、打ち解けているその様子は、限りなく美し見えるのだった。
「亡くなった柏木が際立って美男子でもないのに、思いあがって、何かの折に宮は美しくないと柏木が思っていたことを宮は思い出して、まして、このようにすごく衰えた今の様を、夕霧は我慢できるか」と宮は思うも、ひどく恥ずかしい、あれこれと思いめぐらしながら、自分の心を納得させようとする。
ただ宮としては、立場が悪く、あちらでもこちらでも噂を聞けば自分が悪いとなるであろう、喪中でもあり、言い訳できない。
手水、お粥など、いつものご座の方に用意した。喪中の色の異なる調度類も、新婚には縁起でもないので、東面に屏風を立て、母屋の際は香染めの几帳など、控えめに喪中らしく見えないものを用意し、沈で作った二階棚を立て、気を遣っていた。大和守の差配だった。
女房たちも派手でない色の、山吹、楷練かいねり、濃い衣、青鈍などに着替え、薄色の裳、青朽葉を目立たぬようにして、食膳が出された。女所帯なので、諸事のんびりやっていた邸に、体面も色々気を遣って、数少ない下男へも声をかけて大和守ただひとり面倒見て仕切っていた。
こんな思いがけない客人が来られると聞いて、以前は怠けていた家司なども、急きょ女所帯の邸に参上して、政所に詰めて働くのだった。
2020.8.1/ 2022.4.6/ 2023.8.5
39.42雲居雁、実家へ帰る
かくせめても見馴れ顔に作りたまふほど、三条殿、
「限りなめりと、さしもやはとこそ、かつは頼みつれ、まめ人の心変はるは名残なくなむと聞きしは、まことなりけり」
と、世を試みつる心地して、「いかさまにしてこのなめげさを見じ」と思しければ、大殿へ、方違へむとて、渡りたまひにけるを、女御の里におはするほどなどに、対面したまうて、すこしもの思ひはるけどころに思されて、例のやうにも急ぎ渡りたまはず。
大将殿も聞きたまひて、
「さればよ。いと急にものしたまふ本性なり。この大臣もはた、おとなおとなしうのどめたるところ、さすがになく、いとひききりにはなやいたまへる人びとにて、めざまし、見じ、聞かじなど、ひがひがしきことどもし出でたまうつべき」
と、驚かれたまうて、三条殿に渡りたまへれば、君たちも、片へは止まりたまへれば、姫君たち、さてはいと幼きとをぞ率ておはしにける、見つけてよろこびむつれ、あるは上を恋ひたてまつりて、愁へ泣きたまふを、心苦しと思す。
消息たびたび聞こえて、迎へにたてまつれたまへど、御返りだになし。かくかたくなしう軽々しの世やと、ものしうおぼえたまへど、大臣の見聞きたまはむところもあれば、暮らして、みづから参りたまへり。
夕霧が無理にも落葉の君になじんだ顔をしている頃、雲居の雁は、
「これでお終いだ。まさかそんなことはと思っていたが、堅物が浮気をしたら、振り向きもされないと聞いていたが、本当だ」
夫婦の仲を見届けてしまった心地がして、「どうかしてこの無様な仕打ちを見るまい」と思って、実家へ、方違えを口実に帰ったのを、弘徽殿の女御が里帰りしていたので、対面して、少しは面白くない気が晴れるかと思い、いつものように、急いで帰らない。
夕霧も聞いて、
「やっぱりか。親子で短気な性格だから。父の大臣も、大人らしくゆったりしたところがなく、すぐに思い切って派手なことをする人で、けしからん、顔も見たくない、聞きたくない、などとまずいことになってしまうだろう」
と驚いて、三条の邸に向かったら、子供たちも半ばは残っていて、姫君とまだ幼い子を連れて行ったので、残った子らは夕霧を見て喜びまとわりつき、あるいは、母を慕って泣いたりするのを、かわいそうに思うのだった。
文を頻繁に出して、迎えを出したが、まったく返事がない。こんなお粗末な軽々しい夫婦であったかと、腹立たしく思ったが、大臣が見聞きすれば大げさなことになるので、日が暮れてから、自分で向かった。
2020.8.2/ 2022.4.6/ 2023.8.5
39.43夕霧、雲居雁の実家へ行く
寝殿になむおはするとて、例の渡りたまふ方は、御達のみさぶらふ。若君たちぞ、乳母に添ひておはしける。
「今さらに若々しの御まじらひや。かかる人を、ここかしこに落しおきたまひて。など寝殿の御まじらひは。ふさはしからぬ御心の筋とは、年ごろ見知りたれど、さるべきにや、昔より心に離れがたう思ひきこえて、今はかく、くだくだしき人の数々あはれなるを、かたみに見捨つべきにやはと、頼みきこえける。はかなき一節に、かうはもてなしたまふべくや」
と、いみじうあはめ恨み申したまへば、
「何ごとも、今はと見飽きたまひにける身なれば、今はた、直るべきにもあらぬを、何かはとて。あやしき人びとは、思し捨てずは、うれしうこそはあらめ」
と聞こえたまへり。
「なだらかの御いらへや。言ひもていけば、誰が名か惜しき」
とて、しひて渡りたまへともなくて、その夜はひとり臥したまへり。
「あやしう中空なるころかな」と思ひつつ、君たちを前に臥せたまひて、かしこにまた、いかに思し乱るらむさま、思ひやりきこえ、やすからぬ心尽くしなれば、「いかなる人、かうやうなることをかしうおぼゆらむ」など、物懲りしぬべうおぼえたまふ。
明けぬれば、
「人の見聞かむも若々しきを、限りとのたまひ果てば、さて試みむ。かしこなる人びとも、らうたげに恋ひきこゆめりしを、選り残したまへる、やうあらむとは見ながら、思ひ捨てがたきを、ともかくももてなしはべりなむ」
と、脅しきこえたまへば、すがすがしき御心にて、この君達をさへや、知らぬ所に率て渡したまはむ、と危ふし。姫君を、
「いざ、たまへかし。見たてまつりに、かく参り来ることもはしたなければ、常にも参り来じ。かしこにも人びとのらうたきを、同じ所にてだに見たてまつらむ」
と聞こえたまふ。まだいといはけなく、をかしげにておはす、いとあはれと見たてまつりたまひて、
「母君の御教へにな叶ひたまうそ。いと心憂く、思ひとる方なき心あるは、いと悪しきわざなり」
と、言ひ知らせたてまつりたまふ。
雲居の雁は寝殿にいて、里帰りに使う部屋は、一緒に来た年配の女房たちがいて、幼い子らは乳母たちとともにいた。
「今さら若い娘のような流行の話ですか。幼い子供たちをあちこちに放置して、寝殿で女御とお喋りとは。自分に似合わない性格とは知っていたが、それが前世の因縁だろう、昔から忘れられない人と思っていたが、今はこうして手のかかる子供たちがいて、気の毒であるが、お互いに見捨てることはない、と安心していた。些細なことで、こんな態度をとるとは」
と夕霧が恨みがましくなじって言えば、
「何もかも、今は見飽きられたこの身ですから、今さら、元の鞘に戻れません、何をしようとわたしの勝手です。拙い子供たちは見捨てないでくれればうれしい」
と答えるのだった。
「穏やかなお言葉ですね。結局、どちらの名折れになるでしょう」
と言って、自邸に帰るのを促すわけでもなく、その夜はひとりで寝た。
「何とも中途半端な気持ちだな」と思いながら、子供たちを寝かせて、一条の宮は、どう思い悩んでいるだろう、と思いやり、落ち着かないので、「どんな男がこのような色恋沙汰を楽しむのだろう」などと、もう懲り懲りした気分になる。
朝になり、
「世間の手前も大人気ないから、もうお終いと仰るのなら、そうしましょう。あちらに残った子供たちも、かわいそうにあなたを慕っているようですが、あえて残した理由もあるのでしょうが、ともかくもわたしが育てましょう」
と、脅すように言い、まっすぐな性なので、この子たちも未だ知らぬ一条邸に連れていかれるのかと、心配になる。姫君 に、
「さあ、いらっしゃい。会うために来るのも、その都度こうでは、いつもは来れない。あちらにも子供たちが待ってるので、同じところで世話しましょう」
と夕霧は言うのだった。まだとても幼く可愛らしいので、しみじみと愛おしくなって、
「お母さんの言うことを聞いちゃだめだよ。とても情けなく、分別の足りないところがあるから、いけませんよ」
と言い聞かせる。
2020.8.2/ 2022.4.10/ 2023.8.5
39.44蔵人少将、落葉宮邸へ使者
大臣、かかることを聞きたまひて、人笑はれなるやうに思し嘆く。
「しばしは、さても見たまはで。おのづから思ふところものせらるらむものを。女のかくひききりなるも、かへりては軽くおぼゆるわざなり。 よし、かく言ひそめつとならば、何かは愚れて、ふとしも帰りたまふ。おのづから人のけしき心ばへは見えなむ」
とのたまはせて、この宮に、蔵人少将の君を御使にてたてまつりたまふ。
契りあれや君を心にとどめおきて
あはれと思ふ恨めしと聞く

なほ、え思し放たじ」
とある御文を、少将持ておはして、ただ入りに入りたまふ。
南面の簀子に円座さし出でて、人びと、もの聞こえにくし。宮は、ましてわびしと思す。
この君は、なかにいと容貌よく、めやすきさまにて、のどやかに見まはして、いにしへを思ひ出でたるけしきなり。
「参り馴れにたる心地して、うひうひしからぬに、さも御覧じ許さずやあらむ」
などばかりぞかすめたまふ。御返りいと聞こえにくくて、
「われはさらにえ書くまじ」
とのたまへば、
御心ざしも隔て若々しきやうに。宣旨書き、はた聞こえさすべきにやは
と、集りて聞こえさすれば、まづうち泣きて、
「故上おはせましかば、いかに心づきなし、と思しながらも、罪を隠いたまはまし」
と思ひ出でたまふに、涙のみつらきに先だつ心地して、書きやりたまはず。
何ゆゑか世に数ならぬ身ひとつを
憂しとも思ひかなしとも聞く

とのみ、思しけるままに、書きもとぢめたまはぬやうにて、おしつつみて出だしたまうつ。少将は、人びと物語して、
「時々さぶらふに、かかる御簾の前は、たづきなき心地しはべるを、 今よりはよすがある心地して、常に参るべし。内外なども許されぬべき、年ごろのしるし現はれはべる心地なむしはべる」
など、けしきばみおきて出でたまひぬ。
致仕の大臣がこれを聞いて、世間の笑い者になると嘆いた。
「女君も様子を見ることもしないで、夕霧にも思うところがあるだろう、女がこんなに思いっきりがいいのは、かえって軽はずみだと思われる。まあ、言い出したからには、間抜け顔してすぐ戻ることもあるまい。そのうち男がどうするか出方が分かるだろう」
と言って、一条の宮のところに、子息の蔵人少将を使いに出したのだった。
(致仕大臣)「前世からの因縁でしょうか
おいたわしくもお恨みにも思います。
やはり見捨るわけにはいきません」
と書かれた文を、少将に持たせ、少将は馴れた様子で入ってゆく。
南面の簀子に円座を出して、女房たちは挨拶の申し上げようもない。宮はわびしく思う。
この君は、中でも容貌がよく、見た目もよく、物静かに辺りを見回して、兄柏木を思い出して居るような気配である。
「出入りにも馴れて、初めての感じはしませんが、馴染みの者と扱われないかも」
などの思いがかすめる。致仕大臣への返歌は、申し上げにくく、
「わたしにはとても書けません」
と宮は仰せになると、
「お気持ちも伝わりません、子供っぽく思われます。代筆はいけません」
と女房たちが集まって申し上げるので、まづ泣いて、
「故御息所がいらっしゃれば、意が満たなくても、罪をかばってくださった」
と思い出して、辛い気持ちの上に涙が先にあふれて、とても書けそうにない。
(落葉宮)「どんなわけでしょうわたしのような数ならぬ身に
かわいそうとも、恨めしいとも思われるとは」
とのみ、思ったままに、最後まで書ききれないようで、上包みに包んで出した。少将は女房たちに話をして、
「時々参りますが、このような御簾の前では、落ち着かない。これからは、ご縁があるので、いつも来ることでしょう。御簾の内もお許しがでれば、日頃の務めの表れと思います」
など、意味ありげに言いおいて、帰った。
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39.45藤典侍、雲居雁を慰める
†いとどしく心よからぬ御けしき、あくがれ惑ひたまふほど、大殿の君は、日ごろ経るままに、思し嘆くことしげし。典侍ないしのすけ、かかることを聞くに、
「われを世とともに許さぬものにのたまふなるに、かくあなづりにくきことも出で来にけるを」
と思ひて、文などは時々たてまつれば、聞こえたり。
数ならば身に知られまし世の憂さを
人のためにも濡らす袖かな

なまけやけしとは見たまへど、もののあはれなるほどのつれづれに、「かれもいとただにはおぼえじ」と思す片心ぞ、つきにける。
人の世の憂きをあはれと見しかども
身にかへむとは思はざりしを

とのみあるを、思しけるままと、あはれに見る。
この、昔、御中絶えのほどには、この内侍のみこそ、人知れぬものに思ひとめたまへりしか、こと改めて後は、いとたまさかに、つれなくなりまさりたまうつつ、さすがに君達はあまたになりにけり。
この御腹には、太郎君、三郎君、五郎君、六郎君、中の君、四の君、五の君とおはす。内侍は、大君、三の君、六の君、次郎君、四郎君とぞおはしける。すべて十二人が中に、かたほなるなく、いとをかしげに、とりどりに生ひ出でたまける。
内侍腹の君達しもなむ、容貌をかしう、心ばせかどありて、皆すぐれたりける。三の君、次郎君は、東の御殿にぞ、取り分きてかしづきたてまつりたまふ。院も見馴れたまうて、いとらうたくしたまふ。
この御仲らひのこと、言ひやるかたなく、とぞ。
宮のますます機嫌の悪い様子に、夕霧は気がそわそわして、雲居の雁は、時がたつにつれ、いっそう嘆いた。典侍ないしのすけ、このようなことを聞くと、
「わたしをけっして許さないと仰っていたのに、こんなに侮りがたいことが起こったのだから」
と思って、文など時々出していたので、今度も文を出した。
(典侍)「数ならぬ身ですので夫婦の憂さは知りませんが、
あなたのために涙を流します」
当てつけがましいとも思ったが、物のあわれを感じる日々のつれづれに、「典侍も平静ではいられなかったのだろう」と思った。
(雲居雁)「他人の夫婦仲の不幸をお気の毒と思っていたが
わが身に起ころうとは」
とのみあるのを、典侍は、あわれと見るのであった。
昔、雲居の雁との仲がとだえた時は、この内侍だけは、人目を忍ぶ夕霧の恋人であった。二人の間が元に戻ってからは、間遠になり、あまり通わなくなったが、さすがに子供たちはたくさんいた。
雲居の雁の子は、太郎君、三郎君、五郎君、六郎君、中の君、四の君、五の君といる。内侍には、大君、三の君、六の君、次郎君、四郎君、といた。すべて十二人の中に、出来の悪いのはなく、可愛らしくそれぞれに育っていた。
典侍の子供たちも、皆容貌もよく、才気もあり、優れた器量のものばかりだった。三の君、次郎君は、東の御殿で、とりわけ大事にお育てしていた。源氏もよく見馴れていて、たいそう可愛がっていた。
この夫婦一統の話は、とても語りつくせないくらいだ。
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読書期間2020年7月3日 - 2020年8月3日