源氏物語  夕霧 注釈

HOME表紙へ 源氏物語 目次 39 夕霧
ことわざしげきおのがじしの世のいとなみに紛れつつ 仕事に忙しいめいめいの暮らしにかまけて。
北の方けしきとりたまへれば 北の方の雲井の雁は、様子を察しているので。雲居の雁は二人の仲があやしいと、すでに告げ口されている。
なべての宣旨書き 通り一遍の(女房の)代筆の手紙では。宣旨は、勅旨を文章にしたものなので、代筆の手紙を「宣旨書き」という。
あなたの御消息通ふほど、すこし遠う隔たる隙に 御息所への挨拶を取り次ぐ女房が何度もあちらへ行く間、少し間遠に時間がかかるその隙に。
齢積もらず軽らかなりしほどに、ほの好きたる方に面馴れなましかば、かううひうひしうもおぼえざらまし こんなに年も取らずまだ軽輩だったころ、多少とも色めいた方面に場数を踏んでいたら、若い頃から自分は真面目に過ごして来た人間だ、と言う。
みづから聞こえたまはざめるかたはらいたさに、代はりはべるべきを、いと恐ろしきまでものしたまふめりしを 
(母が)ご自分で直接お話申し上げることも、叶わぬようでご無礼いたしておりますので、母に変わるべきところ、ひどい病状でしたので、介護しておりましたら、自分が絶え入りそうになりまして、お話も叶いません。「かたはらいたし」見るに見かねる気持ち。
かたじけなけれど、ものを思し知る御ありさまなど、はればれしき方にも見たてまつり直したまふまでは、平らかに過ぐしたまはむこそ、誰が御ためにも頼もしきことにははべらめと 恐れ多い申し分ですが、何ごとも行き届いご理解をお示しになる日ごろのお人柄を、さっぱりしたご気分にもなられるまで、その回復を(あなたが)ご覧になられるまでは、あなたが何ごともなくお過ごしになることが、お二人どちらにとっても心丈夫なことでしょうと、ご推察申し上げるからにほかなりません。物の怪は、往々にして明晰な理解、判断を狂わす症状を呈するので、「ものをおぼし知る御ありさまなど」と、日ごろの儀息所の聡明さを特にいう。
ただあなたざまに思し譲りて、積もりはべりぬる心ざしをも知ろしめされぬは、本意なき心地なむ (わたしがこうしてお伺いするのも)ただあちらのお母様のことを心配してとばかりお思いで、今までの長い間の切ない私の気持ちもお察しくださいませんのは、不本意です。
かかる御愁へ聞こしめし知らぬやうなり こんなにまでご不満をおもらしですのに、(何もおっしゃらないのでは)ご理解がないように思われかねません。
山里のあはれを添ふる夕霧に立ち出でむ空もなき心地して  山里の裳のわびしさをつのらせる夕霧に、ここから帰って行く気にもなれない思いでおります。夕霧の歌。『釈』以下「夕霧に衣は濡れて草枕旅寝するかも逢わぬ君ゆえ」(『古今6帖』一、霧。五、来れども逢わず)を引く。巻名はこの歌により、この巻の主人公であるので、この人をも夕霧と呼ぶ。(新潮)/ 山里の物寂しい気持ちを添える夕霧のために帰って行く気持ちにもなれずおります(渋谷)
山賤のまがきをこめて立つ霧も心そらなる人はとどめず この山里の垣根に立ちこめる霧も、帰ろうと気もそぞろな人を引き止めることをいたしません。宮の返歌。「心空なる」うわのそら。(新潮)/ 山里の垣根に立ち籠めた霧も気持ちのない人は引き止めません(渋谷)
さりともおのづから御覧じ知るふしもはべらむものを、しひておぼめかしう、け疎うもてなさせたまふめれば、聞こえさせむ方なさに、いかがはせむ そうは言っても、何かの折りに私の気持ちにお気づきのこともあろうと存じますのに、無理に知らぬふりをなさり、他人行儀におあつかいなさるようですから、お話の申し上げようもありませんので。 
言ひ知らぬ御けしきの辛きものから、いとかたじけなければ 言いようもないつれないご態度がうらめしく思われますが、まことに恐れ多いことですが。これ以上のことはしないと言うこと。
うたて心のままなるさまにもあらず 思いやりのない勝手な振舞いをなさることもない。
世とともにものを思ひたまふけにや 柏木の死以来ずっと悲しみに沈まれているせいか。 
なほ、かう思し知らぬ御ありさまこそ、かへりては浅う御心のほど知らるれ やはりこうして私の気持ちをお分かりいただけないご様子では、かえって浅はかなご心底のほどと察せられることです。
かう世づかぬまでしれじれしきうしろやすさなども、たぐひあらじとおぼえはべるを、何事にもかやすきほどの人こそ、かかるをば痴者などうち笑ひて、つれなき心もつかふなれ こんな世にもまれなほど間の抜けた、御心配のいらないところなども、わたしのような男はほかにいまいと思われるが、何ごとも手軽にやってのける身分の者は、私のような者を笑いものにして、(女に対して)自分勝手な思いをも押し通すもののようです。
あまりこよなく思しおとしたるに、えなむ静め果つまじき心地しはべる。世の中をむげに思し知らぬにしもあらじを あまりにもわたしを見くびりきっていますので、もうとてもおとなしくはしていられない気がします。「つれなき心を使う」かもしれないとおどす。 
世を知りたる方の心やすきやうに、折々ほのめかすも、めざましう、 夫を持ったことがあるから組みしやすいと言わんばかりに、時折夕霧が匂わすのも、不愉快で。
我のみや憂き世を知れるためしにて濡れそふ袖の名を朽たすべき 私だけが、不幸な女の例として、夫に先立たれた悲しみの上に、さらにあなたとのことでつらい思いをして、恥をさらさねばならぬのでしょうか。「名をくたす」は、悪い評判をとるの意。
げに、悪しう聞こえつかし ほんとに、失礼なことを申し上げてしまいました。前に、「世の中をむげにおぼし知らぬにしもあらじを」と言ったこと。 
おほかたは我濡衣ゆれぎぬを着せずとも
朽ちにし袖の名やは隠るる
 大体、わたしがあらぬ噂を立てれるようなことをしなくても、悲しい思いをなさった汚名(柏木とのこと)は隠れもないことではありませんか。
ひたぶるに思しなりねかし 何もかも捨てたお気持ちにおなり下さい。/ 一途にお心向け下さい/くよくよお考えにならないで、一思いにご決心ください。
かばかりたぐひなき心ざしを御覧じ知りて、心やすうもてなしたまへ。御許しあらでは、さらに、さらに これほどのまたとない私の気持ちをお分かりくださって、気をお楽になさってください。お許しがなければ、決して決して無体な振舞いには及びません。 
かの過ぎにし方に思し貶すをば、恨めしげに怨みきこえたまふ 宮があの亡くなった柏木ほどには自分を思って下されないことを、夕霧は不満げにお恨み申し上げる。
かれは、位などもまだ及ばざりけるほどながら、誰れ誰れも御許しありけるに、おのづからもてなされて、見馴れたまひにしを、それだにいとめざましき心のなりにしさま、ましてかうあるまじきことに、よそに聞くあたりにだにあらず、大殿などの聞き思ひたまはむことよ。なべての世のそしりをばさらにもいはず、院にもいかに聞こし召し思ほされむ 柏木は位などもまだ十分ではない身分だったがどなたも(朱雀院も母御息所も)ご賛成だったので、そうした成り行きに身をまかせて夫婦としてなじまれたのだが、それだって、柏木から後々どんな心外な仕打ちを受けたことか、ましてこうしたとんでもないことを、夕霧は縁もゆかりもない人ではなく、致仕の大臣に知れたら、世間の批判もさることながら、院が聞かれたらどう思われるか。
あさましや。ことあり顔に分けはべらむ朝露の思はむところよ 何ということでしょう。いかにも分けあり気に朝露を踏み分けて帰る、その朝露の思惑も恥ずかしいことです。実際は、逢って帰るわけでもないので、言う。 
なほ、さらば思し知れよ。をこがましきさまを見えたてまつりて、賢うすかしやりつと思し離れむこそ、その際は心もえ収めあふまじう、知らぬことと、けしからぬ心づかひもならひはじむべう思ひたまへらるれ どうぞそれなら覚悟してください。こんな間抜けなところをお目にかけて、うまく言いくるめて帰したと今後わたしを相手にして下さらないなら、その時は、とてもおとなしくしていられそうもなく、私にはまだ経験のないことですが、不埒な料簡も懐くようなことになりそうです。
いとうしろめたく、なかなかなれど、ゆくりかにあざれたることの、まことにならはぬ御心地なれば あとあと宮がどんな態度に出るかとても気がかりで、なまじっかな逢い方をしたものと思うけれども、いきなり色めいた振舞いに及ぶのは、ほんとうに今まで経験がない人なので、
いとほしう、わが御みづからも心劣りやせむ (ここで乱れた振舞いに及んだら)何もかも台無しで、自分で自分を見下げはてた奴と思うことにもにもなろう。 
誰が御ためにも、あらはなるまじきほどの霧に立ち隠れて出でたまふ、心地そらなり どちらにとっても、事が人目につきそうにない立ち込めた霧に立ち紛れてお帰りになる、気もそぞろの思いである。
荻原や軒端の露にそぼちつつ八重立つ霧を分けぞ行くべき 一面の萩の原、その軒端の萩の露にしっとり濡れながら、これから、幾重にも立ち込める霧の中を帰ってゆかねばなりません。
濡衣はなほえ干させたまはじ。かうわりなうやらはせたまふ御心づからこそは あなたも、あらぬ浮き名はやはりおまぬがれになるわけにはいきますまい。こんなにやみくもに、わたしを帰そうとなさるとは。濡衣(ぬれごろも)は、濡衣(ぬれぎぬ)に同じ。 
げに、この御名のたけからず漏りぬべきを、「心の問はむにだに、口ぎよう答へむ」と思せば、いみじうもて離れたまふ 確かに自分の浮き名は、世に漏れ聞こえようが、せめて自分の心に問われた場合だけでもきっぱり潔白だ、と答えよう。
分け行かむ草葉の露をかことにてなほ濡衣をかけむとや思ふ 踏み分けて帰ってゆく草場の露に濡れると難癖をつけてどうしてわたしにまであらぬ浮き名を負わせようとなさるのですか。 
年ごろ、人に違へる心ばせ人になりて、さまざまに情けを見えたてまつる、名残なく、うちたゆめ、好き好きしきやうなるが、いとほしう、心恥づかしげなれば、おろかならず思ひ返しつつ、「かうあながちに従ひきこえても、後をこがましくや」と、さまざまに思ひ乱れつつ出でたまふ。道の露けさも、いと所狭し 「心ばせ人」よく気を配る人というほどの意。今までずっと、普通の人とは違った親切気を出して、あれこれと好意を寄せて来たのに、手のひらを返すように、油断させた挙句に色めいた振舞いに及ぶといったことは、宮がかわいそうでもあり、また気はずかしいお人柄でもあるので、並々ならず気持ちを抑え抑えしては、こんなに無理をして宮の言葉に従っても、今後相手にされないで馬鹿な目を見るのではないか、帰り道の草の露けきもひと方ならぬものがある。
「何かは、ほのかに聞きたまひて、ことしもあり顔に、とかく思し乱れむ。まだきに、心苦し いえ、なに、はっきりもせぬことをお耳になさって、いかにも何かあったかのように、あれこれ心配なさるのは、まだ何事もないのにおいたわしいことです。夕霧の近づいたことを御息所のお耳に入れて、余計な心配をかけることはない。 
ayasiunanigokoronakisamanite">あやしう、何心もなきさまにて、人にかばかりにても見ゆるあはつけさの、みづからの過ちに思ひなせど、思ひやりなかりしあさましさも、慰めがたくなむ。え見ずとを言へ 見っともなく、うっかりそて、男の方にあの程度にせよお逢いした至らなさを、私自身が悪かったのだと思っては見ますが、人を踏みつけにしたあまりのお振舞いも、とても情けなく思われます。拝見できないとお返事しなさい。「あわつけ」軽薄さ。
魂をつれなき袖に留めおきてわが心から惑はるるかな 魂をつれないあなたの袖の中に置いてきてしまいましたので、そんなわたし自身せいで、心ここにあらぬ思いでいます。魂があなたの元にあるので、わが身は正体もない思いです(新潮)/ 魂をつれないあなたの所に置いてきて自分ながらどうしてよいか分かりません(渋谷)
ほかなるものはとか、昔もたぐひありけりと思たまへなすにも、さらに行く方知らずのみなむ 思い通りにならないものは心であるとか、昔もこんな例はあったのだと、思って見ましても、気持ちの晴らしようもない思いです。「わが恋はむなしき空に満ちぬらし思ひやれども行くかたもなし」(『古今集』巻十八雑下読み人知らず)
例のけしきなる今朝の御文にもあらざめれど、なほえ思ひはるけず 普通の後朝の文のよう今朝のお手紙でもないようだが、女房たちにはどうも十分に納得がいかない。昨夜はたして何があったのか。 
人知れず思し弱る心も添ひて、下に待ちきこえたまひけるに 御息所は、ひそかに、宮を夕霧に許そうと、折れる気持ちにもなっていられて。事ここに及んでは止むを得ないという気持ちになっていた。「下に待ちきこえたまひけるに」心の中では夕霧の訪れを心待ちにしていた。 
さもあらぬなめりと思ほすも そうでもないのだろう(今夜訪ねてはこないのだろう)と気になって。
せくからに浅さぞ見えむ山川の 流れての名をつつみ果てずは これから先の浮き名をどうせ隠しおおせるものではないのなら、私を拒もうとすればするほど、あなたの考えのなさがはっきりするばかりです。/ わたしの心を堰こうとなさるほど、その考えの浅さがはっきりするでしょう。世間に流れた浮き名は隠しようもありません。(瀬戸内訳)
頼もしげなくなりにてはべる、訪らひに渡りたまへる折にて、そそのかしきこゆれど、いとはればれしからぬさまにものしたまふめれば、見たまへわづらひてなむ すっかり弱ってしまいました私を、宮は見舞いにこちらへ来ています折ですので、お返事をおすすめするのですが、ひどくふさぎ込んでおりますので、見るに見かねまして。 
女郎花萎るる野辺をいづことて
一夜ばかりの宿を借りけむ
 女郎花(落ち葉の君)の嘆き萎れている野辺(小野の山荘)を、一体どことお思いで、ただ一夜だけお泊りになったのでしょう。
をこつり取らむの心にて 「をこつる」だまし取る。 
すずろに、かく、あだへ隠して。いでや、わがならはしぞや 手紙を、あろうことか、あのように悪ふざけして隠して、それも元々は自分のしつけが悪かったからだ。「すずろに」つまらぬことに、馬鹿なことに。
秋の野の草の茂みは分けしかど仮寝の枕結びやはせし そちらにお伺いはいたしましたが、かりそめの契りなど結んだ覚えはありません。
明らめきこえさするもあやなけれど、昨夜の罪は、ひたやごもりにや 言い訳を申し上げますのも、筋の通らぬ話ですが、昨夜お伺いしませんでしたお咎めは、ご無体というものでございましょうか。
いとしも思ししまぬを、かくいみじうおぼいたるを、あさましう恥づかしう、明らめきこえたまふ方なくて、例よりももの恥ぢしたまへるけしき見えたまふを それほど気にしていないのを、御息所がこんなに悲しまれているのを、ひどく気恥ずかしく、はっきり弁明するするすべもなく、いつもより恥じらいの色が深くなっているのを、 
ただ人だに、すこしよろしくなりぬる女の、人二人と見るためしは、心憂くあはつけきわざなるを 普通の人でも、夫二人にまみえるといったことは、不本意な軽々しいことですが。「あわつけし」浮ついている。軽薄である。
末の世までものしき御ありさまを あとあとまでおもしろからぬお身の上を。柏木に先立たれたことをいう。「物し」気にくわない。不愉快だ。目ざわりだ。厭わしい。
思したりしさま、これに多くは御心も乱れにしぞかし 御息所のご心痛だったご様子、この夕霧とのことで主にはご気分もひどくお悪くなったのだとお思いになると。落ち葉の宮の心中。 
かく心細くては、えおはしまさじ。いと御心の隙あらじ こんな小野のようなさびしい所ではお暮しになれますまい。悲しみの紛れるときとてないだろう。京の一条の宮に帰ることをすすめる。
すずろにあさましきことを、弱れる御心地に、疑ひなく思ししみて、消え失せたまひにしことを思し出づるに、「後の世の御罪にさへやなるらむ」と、胸に満つ心地して、この人の御ことをだにかけて聞きたまふは、いとどつらく心憂き涙のもよほしに思さる あのとんでもない心外な一件を、病に弱った気持ちで、頭からそうだと思い詰めて亡くなって仕舞ったのだと思うと、「成仏の妨げになるのではないか」と、胸もいっぱいになり、この夕霧の噂だけでもちらりと耳になさるときは、いっそう恨めしく情けない涙がどっとあふれる思いがする。 
大宮の亡せたまへりしを、いと悲しと思ひしに、致仕の大臣のさしも思ひたまへらず、ことわりの世の別れに、公々おおやけおおやけしき作法ばかりのことを孝じたまひしに、 祖母の大宮が亡くなった時に、長男の致仕の大臣(元の頭の中将)がそれほど悲しみの様子もなく、死別はこの世の定めと割り切って、表向き盛大な供養を営むだけで子としての務めを果たしただけで、
あはれをもいかに知りてか慰めむ あるや恋しき亡きや悲しき あなたの悲しみも、何が原因と知ってお慰めしたらよいのでしょう。後に残った方か(落葉の君)それとも亡くなったお方か(御息所)。 
いづれとか分きて眺めむ消えかへる露も草葉のうへと見ぬ世を 特にだれのことというわけで悲しみに沈んでいるわけでもありません。あっけなく消えてしまう露も、草場の上のことだけではないこの世ですから。人皆命はかないこの世ですから。落葉の君のことをはぐらかした返歌。
「なほ、かく隔てたまへること」と、露のあはれをばさしおきて、ただならず嘆きつつおはす やはり、このように本心をお明かしにならないと、この世の無常を悲しむなどということは、知ったことではなくて、(雲居の雁は)並々ならず心を痛める。
かくおぼつかなく思しわびて 夕霧は落葉の宮がどんな気持ちでいられるのか、気がかりでたまらなくなって。返事がなく苛立つ思い。
えしも、すすぎ果てたまはじ 潔白を言い張ることもおできになるまい。
過ぎにし御ことにも、ほとほと御心惑ひぬべかりし折々多くはべりしを、宮の同じさまに沈みたまうしを、こしらへきこえむの御心強さになむ、やうやうものおぼえたまうし 以前のご不幸の折も、もう少しで正気もなくなりそうな時がよくございましたけれど、宮もまるで同じひどい悲しみようでしたので、お慰め申そうと気を張っておいででしたので、どうにか正気を取り戻しました。 
この御嘆きをば、御前には、ただわれかの御けしきにて、あきれて暮らさせたまうし その母君のお亡くなりになったお悲しみには、宮様は、ただもう人心地もないようなご様子で、ぼんやりお過ごしなのでした。
よろづのこと、さるべきにこそ。世にあり経じと思すとも、従はぬ世なり。まづは、かかる御別れの、御心にかなはば、あるべきことかは 何もかも、前世からのさだめなのです。この世に生きていたくないとお思いでも、そうはいかない世の中です。このような死別も思いのままなら、死に別れもないはずです。 
藤衣露けき秋の山人は鹿の鳴く音に音をぞ添へつる 喪服を涙でしめりがちな、露深い秋の山里に住む私たちは、鹿の鳴き声に声を添えて泣き暮らしております。「藤衣」は、喪服。
里遠み小野の篠原わけて来て 我も鹿こそ声も惜しまね 人里も遠いので、この小野の篠原を踏み分けて来て、私もあの鹿のように声も惜しまず泣きます。
一条の宮 朱雀邸の更衣(御息所)、落葉の君の実家。
見し人の影澄み果てぬ池水にひとり宿守る秋の夜の月 親しかった柏木の姿ももうここにない池の水に、ひとりこの家の留守を守る秋の月よ(新潮)/ あの人がもう住んでいないこの家の池水に独り宿守をしている秋の夜の月よ(玉上) 
もとよりさる方にならひたまへる六条の院の人びとを、ともすればめでたきためしにひき出でつつ、心よからずあいだちなきものに思ひたまへる、わりなしや はじめから何人もの婦人たちが一緒にお住まいの六条院の方々を、何かというと女の鑑のように、引き合いに出しては、私を性根の悪い遠慮のない女だとお思いなのが、やりきれない。「あいだちなし」無愛想だ、つれない。遠慮がない。
世のためしにしつべき御心ばへと、親兄弟よりはじめたてまつり、めやすきあえものにしたまへるを、ありありては、末に恥がましきことやあらむ 世間のお手本にもできる実直な(夕霧の)お心掛けと、親兄弟から始まって、皆が模範的な夫婦だと思っているのに、このままでは、挙句の果ては恥をかくことになるだろうか。 
いつとかはおどろかすべき明けぬ夜の 夢覚めてとか言ひしひとこと いつのことと思って、そちらにお訪ねしたらよろしいのでしょうか。いつまでも明けない夜の夢がさめましたらとか仰せでしたお言葉では。(新潮)いつになったらお訪ねすればよろしいのでしょうか、夜の夢が覚めてからとおっしゃたお言葉では(玉上)/ 「おどろかす」③(関心を呼び起こすために)便りする。訪れる。④びっくりさせる。
上より落つる 「いかにしていかによからむ小野山の上よりお落つる音無しの滝」(出典未詳。『奥入り』『河海抄』などに引く)どうしたらよいのでしょう、の意。
朝夕に泣く音を立つる小野山は 絶えぬ涙や音無の滝 朝に夕に亡き母を慕って声を上げて泣いているこの小野山では、尽きもしない涙が、音無しの滝になるのでしょうか(新潮) 朝に夕に声をたててなく小野山は、ひっきりなしに流れる私の涙が音無しの滝となっているのかしら(玉上)
いとおとなしうよろづを思ひしづめ、人のそしりどころなく、めやすくて過ぐしたまふを、おもだたしう 夕霧が、いかにも老成したふうで何事にも慎重に構えて、人の非難を受けることもなく、そつなく今まで過ごしてこられたのを、(親としても)誇らしい。 
いとほしう、いづ方にも心苦しきことのあるべきこと。さし離れたる仲らひにてだにあらで、大臣なども、いかに思ひたまはむ 困ったことだ。雲井の雁にも落葉の宮にも、どちらにも具合が悪いことになる。赤の他人といった間柄ではないのだから、大臣なども、どう思っているだろう。
今はただ女一の宮の御ためなり 今上の第一皇女。明石の女御の所生で紫の上が自分の手元で養育している。
以下大和の守の言葉。宮が「さらに渡らじ」(決して一条邸には帰らない)と言ったのに対する反論している。宮がこのような聞きわけないことを言うのは、お付きの女房たちの教育が悪いとまで言っている。
「さらに承らじ。心細く悲しき御ありさまを見たてまつり嘆き、このほどの宮仕へは、堪ふるに従ひて仕うまつりぬ。 今は、国のこともはべり、まかり下りぬべし。宮の内のことも、見たまへ譲るべき人もはべらず。いとたいだいしう、いかにと見たまふるを、かくよろづに思しいとなむを、げに、この方にとりて思たまふるには、かならずしもおはしますまじき御ありさまなれど、さこそは、いにしへも御心にかなはぬためし、多くはべれ。 一所やは、世のもどきをも負はせたまふべき。いと幼くおはしますことなり。たけう思すとも、女の御心ひとつに、わが御身をとりしたため、顧みたまふべきやうかあらむ。なほ、人のあがめかしづきたまへらむに助けられてこそ、深き御心のかしこき御おきても、それにかかるべきものなり。 君たちの聞こえ知らせたてまつりたまはぬなり。かつは、さるまじきことをも、御心どもに仕うまつりそめたまうて」//「だいだいし」従来「怠々し」「退々し」など字音語かとされていたが、これらは当て字であろう。道にでこぼこや高低のあるさまをいう「たぎたぎし」の変化で、道路が悪くて進みがたいさまから、事態の悪いさま、困難を極めるさまと転じ、あるまじきさまに対して思い嘆くことばになったとする説が妥当と思われる。(web広辞苑)「たいだいし」は歩きにくい様を言う語らしい(他の註釈)「いとたいだいしう、いかにと見たまふるを、」一条邸を管理するものがいなくなるのに、(大和の国に下向するのは、足が重くなる)邸のことが気がかりでどうしたものかと思うが、と大和の守が自問している。「かくよろづに思しいとなむを、」(夕霧が)このようにあれこれ世話をしてくれるのは、「げに、この方にとりて思たまふるには、」(身内として)こちら側の者として(私が)思うのは、「かならずしもおはしますまじき御ありさまなれど、さこそは、いにしへも御心にかなはぬためし、」なるほど、ぜひにも一条邸にお移りになるまでもなかろうご様子であるけれど、昔にもお心にかなわぬ例は多くある(皇女が再婚すること)「一所やは、世のもどきをも負はせたまふべき。」あなたひとりだけが世間の批難を負ってよいはずもない。// ここでは宮が一条邸へ移ることが、夕霧に靡く(世話を受ける、結婚する)ことになる、それが前提になっている。
げに、この方にとりて思たまふるには、かならずしもおはしますまじき御ありさまなれど、さこそは、いにしへも御心にかなはぬためし、多くはべれ たしかに、ご結婚ということで考えてみますと、どうしてもそうならなくてはならないお身に上でもありませんが、そんな風に、昔もお思い通りにならなかった例はたくさんあります。皇女の再婚の例はたくさんあるということ。(新潮)
のぼりにし峰の煙にたちまじり思はぬ方になびかずもがな 母を弔った時の峰の煙と一緒になって、心にもない方になびかないでいたいものです。夕霧の意のままになるよりは、ここで死んでしまいたい。(新潮) / 母君が上っていった峰の煙と一緒になって思ってもいない方角にはなびかずにいたいものだわ(渋谷)
かくもて騒がざらむにてだに、何の惜しげある身にてか、をこがましう、若々しきやうにはひき忍ばむ。人聞きもうたて思すまじかべきわざを たとえまわりがこんなに騒がなくても、何のこの世に未練のある身の上で、愚かしく、子供っぽくこっそり髪をおろしたりしようか。むしろ死にたいと思っているのだから、そんな子供っぽい真似をする気はない、の意。(新潮)/このように騒がないでいても、どうして惜しい身の上で、愚かしく、子供っぽくもこっそり髪を下ろしたりしようか。人聞きも悪いとお思いなさることを(渋谷)/ こんなに騒ぎまわらずとも、何の惜し気のあるこの身と考えて、愚かしく子供っぽい態度でこっそり隠れたりしよう(玉上)
恋しさの慰めがたき形見にて涙にくもる玉の筥かな 亡き母君への恋しさを慰めようもない形見の品として、涙に曇る玉の箱であることよ(新潮)/ 恋しさの慰めがたくなるばかりの形見ゆえ涙で曇ってしまう玉の箱だこと(玉上)
女の御心許いたまはぬと、思ひ寄る人もなし 落葉の宮が心を許していないなどとは思いもつかない。
なよらかにをかしばめることを、好ましからず思す人は、かくゆくりかなることぞうちまじりたまうける 色っぽいつやっぽいいきさつを、苦手となさる夕霧のようなお方は、こうした突拍子もない振舞いを時として及ばれるものだ。
こしらへきこゆるをも 私どもがお取りなし申し上げるのも。「こしらふ」は、夕霧との結婚を宮に得心させること。
推し量りきこえさせしには違ひて、いはけなく心えがたき御心にこそありけれ ご推察申し上げていたのとは裏腹に、聞き分けのないお考えなのですね。
いでや、ただ今は、またいたづら人に見なしたてまつるべきにやと、あわたたしき乱り心地に、よろづ思たまへわかれず。あが君、とかくおしたちて、ひたぶるなる御心なつかはせたまひそ いいえ、今はただ続いてお亡くなりになるのではないかと、気が気でなく取り乱しております、何も分別がつきません。どうか、お願いです、何かとご無体をなさって是が非にもお心を通そうとなさることはおやめください。/ いえもう、ただ今は、またもお亡くし申し上げてしまうのではないかと、気が気ではなく取り乱しておりますので、万事判断がつきません。お願いでございます、あれこれと無理押しなさって、乱暴なことはなさいませぬように(渋谷
まだ知らぬは、げに世づかぬ御心がまへのけにこそはと、ことわりは、げに、いづ方にかは寄る人はべらむとすらむ 「まだ知らぬ」(こんなあしらいを受けたことがない)との仰せは、確かに女に対するお扱いもご存じでないなさり方のせいだと。「いとまだ知らぬ世かな」を「世づかぬ」で受けて、夕霧の強引なやり方を軽くたしなめる。
かく心ごはけれど 少将の君がこんなに強く言い張るけれども。
塗籠 建物の一部を四方壁を塗りこめて調度類を納めておく部屋。初期には寝室としても使われた。
山鳥の心地ぞしたまうける 「足引きの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む(『拾遺集』巻十三恋二 人麻呂)
かくてのみ、ことといへば、直面なべければ こんなことでは、下手をすると、露骨なにらみ合いということになりかねないので。
怨みわび胸あきがたき冬の夜にまた鎖しまさる関の岩門 恨みあぐねて胸の晴れようもない長い冬の夜に、その上戸鎖しもいよいよ堅い二人の間のきびしい隔てであることです(新潮)/ 恨みは慰めようもなくつらい思いに気持ちも晴れず明けにくい冬の夜。更に錠をなさる関所の岩の門だ(玉上)
かやうの筋にてこそ、人の諌めをも、みづからの心にも従はぬやうにはべりけれ なるほど、こうしたことについては、人の意見にも、自分の心にもおとなしく従えないものだ。
三条の姫君 雲居の雁。
めでたきさまになまめいたまへらむあたりに、あり経べき身にもあらねば、いづちもいづちも失せなむとするを、かくだにな思し出でそ。あいなく年ごろを経けるだに、悔しきものを すてきなおしゃれをなすって色っぽく振舞われるようなお方の側に、いつまでもご一緒できる身でもございませんから、もうどこへなりと失せたいです。どうぞ見限ってください。おめおめと、長の年月連れ添ったのも、口惜しいです。
近くてこそ見たまはざらめ、よそにはなにか聞きたまはざらむ。さても、契り深かなる瀬を知らせむの御心ななり。にはかにうち続くべかなる冥途のいそぎは、さこそは契りきこえしか (夕霧が言う側近くに(私を))ご覧にならないにしても、よそながら(私の噂をお聞きにならないわけにはゆきますまい。「見れば憎し。聞けば愛嬌なし」に応じたもの。)そうして夫婦の縁の深い二人の仲を私に分からせようというおつもりなのでしょうね。「おいらかに死にたまひね。まろも死なむ」に応じたもの。あわただしく続くことになる冥土への支度は、きっとそうしようとお約束したはずです。
馴るる身を恨むるよりは松島の海人の衣に裁ちやかへまし 長年連れ添って古びてしまったわが身を恨むよりは、いっそこの単衣を尼の衣に裁ち変えてしまいましょうか(新潮)長い間一緒にいて捨てられる自分を恨んだりするよりいっそ尼衣に着かえてしまおうか師ら(玉上)
松島の海人の濡衣なれぬとて脱ぎ替へつてふ名を立ためやは いくら長年連れ添った私に飽きたからといって、私を見限ったという評判を立ててよいものでしょうか(新潮) 慣れてしまったからといって、脱ぎ変えたという噂は立たない方がよいのではないか(玉上)
今より後のよその聞こえをも、わが御心の過ぎにし方をも、心づきなく、恨めしかりける人のゆかりと思し知りて これから先の外聞の悪さも、自分の今までの悲しみも皆あの気に入らない男のせいだと身に染みて思って、
 いささかも人心地する折あらむに、忘れたまはずは、ともかうも聞こえむ。この御服のほどは、一筋に思ひ乱るることなくてだに過ぐさむ 少しでも人心地のつく折がありましたら、(私を)お忘れでなければ、とかくのご返事をいたしましょう。御息所の喪の間は、せめて心を乱すことなく菩提を弔いたい。
思ふ心は、また異ざまにうしろやすきものを。思はずなりける世かな わたしのつもりは、それとは違って何の心配もいらないことですのに、心外な目に合うものです。無理をするつもりはない、の意。
なほ、かかる乱れに添へて、わりなき御心なむいみじうつらき それでもこうして喪中の悲しみに取り乱しているところへ、ご無体なことをお考えなのが、いかにも怨めしゅうございます。少将の君を介しての宮の言葉。
人の聞き思はむことも、よろづになのめならざりける身の憂さをば、さるものにて、ことさらに心憂き御心がまへなれ 世間の人が聞いても、どう見ましてもいい加減なことではすまされない、この身の情けなさは、さておくとしても。返す返すも情けない、あなたさまの心積もりです。/世間の人が聞いても、あなたのなさり方はひどい、が要旨。
いと、かう、言はむ方なきものに思ほされける身のほどは、たぐひなう恥づかしければ、あるまじき心のつきそめけむ 全くこのようにお話にもならぬ男だと思われた他わが身のつたなさは、ひどく恥ずかしいが、思ってはならぬことを思ってしまったのも。「あるまじき心のつきそめけむ」「あるまじき心」は考えてはならないこと。宮に対する思慕。
とり返すものならぬうちに、何のたけき御名にかはあらむ。いふかひなく思し弱れ もうどうにもならない上に、今さら汚名を晴らそうとなさったところで、何の甲斐がありましょう。もう仕方のないことと諦めなさい。
よし、かく言ひそめつとならば、何かは愚れて、ふとしも帰りたまふ まあ仕方がないこうして言い出したからには、何で、間抜け顔をして、すぐにお帰りになることがあろうか。
契りあれや君を心にとどめおきてあはれと思ふ恨めしと聞く ご縁があったからでしょうか。あなたのことが気になってならなくて、おいたわしくも思い、お恨みにも存ずる次第です(新潮)/ 前世からの約束があるのか、あなたを忘れずにかわいそうに思い、また恨めしいよも聞きます(玉上)
御心ざしも隔て若々しきやうに。宣旨書き、はた聞こえさすべきにやは せっかくのお歌ですのに、よそよそしくなさっては、大人気ないように思われましょう。代筆のお返事などさしあげるわけにはゆきません。「宣旨書き」は代筆の手紙。
何ゆゑか世に数ならぬ身ひとつを 憂しとも思ひかなしとも聞く どうしたわけなのでございましょう、この世に人数でもないつまらぬわたしの一身を、情けないともお思いになり、いとしいともお聞きになるとは(新潮) どういうわけで一人前でもない私一人を辛いとも思いかわいそうともお聞きになるのでしょう(玉上)
今よりはよすがある心地して これからは、ご縁があるように存じられますので、終始お伺いすることになりましょう。姉(雲居の雁)の婿である夕霧がいるから、という軽い気持ち。
数ならば身に知られまし世の憂さを人のためにも濡らす袖かな 私が人数にも入る女でしたら、わが身のこととして思い知られるでありましょう夫婦仲のつらさでしょうが、今私はあなた様のために涙に袖を濡らしております(新潮) 人並みの者でしたら私にも分かりますでしょう、結婚の苦しみも分からないので、あなたのために涙を流します(玉上)
人の世の憂きをあはれと見しかども
身にかへむとは思はざりしを
 外の人の夫婦仲の辛さをかわいそうにと思ったことはありますが、同情して泣こうとまではおもいませんでした(玉上) 人の夫婦仲の不幸を気の毒に思ったことはありますが、わが身のこととまでは思いませんでした。
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公開日2020年8月3日