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原文 | 現代文 |
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6.1 亡き夕顔追慕 | |
思へどもなほ飽かざりし夕顔の露に後れし心地を、年月経れど、思し忘れず、ここもかしこも、うちとけぬ限りの、気色ばみ心深きかたの御いどましさに、け近くうちとけたりしあはれに、似るものなう恋しく思ほえたまふ。
いかで、ことことしきおぼえはなく、いとらうたげならむ人の、つつましきことなからむ、見つけてしがなと、こりずまに思しわたれば、すこしゆゑづきて聞こゆるわたりは、御耳とどめたまはぬ隈なきに、さてもやと、思し寄るばかりのけはひあるあたりにこそ、一行をもほのめかしたまふめるに、なびききこえずもて離れたるは、をさをさあるまじきぞ、いと目馴れたるや。 つれなう心強きは、たとしへなう情けおくるるまめやかさなど、あまりもののほど知らぬやうに、さてしも過ぐしはてず、名残なくくづほれて、なほなほしき方に定まりなどするもあれば、のたまひさしつるも多かりける。 かの空蝉を、ものの折々には、ねたう思し出づ。荻の葉も、さりぬべき風のたよりある時は、おどろかしたまふ折もあるべし。火影の乱れたりしさまは、またさやうにても見まほしく思す。おほかた、名残なきもの忘れをぞ、えしたまはざりける。 | いくら思いかえしても飽きない夕顔に、先立たれた気持ちは、年月を経ても忘れることがなく、あちこちの女たちは妍を競って源氏の気を惹こうとするが、夕顔のうち解けたあわれさは、似るものもなく恋しく思われた。
なんとかして、世間の評判はそれほどではなくても、かわいらしく、控えめな女を見つけたいと、懲りずに思っていたので、すこしでも評判が立つ女は、それと聞くとこまめにあたって、さてもやと思い寄る気配がある女のところには、一行でも文を書いてほのめかすが、それに靡かずに袖にする女は、ほとんどなかったが、それは色男にはよくあることだ。 気が強く容易に靡かない女は、とても情が薄く生真面目で、あまり人の機微なども知らず、それで気の強さを最後まで押し通さず、当初の意地もくずれて、平凡な男の妻になるなど、源氏も言葉をかけてやめたのも多かった。 あの空蝉も、折々には、口惜しく思い出す。軒端の荻も、しかるべき風の便りがあるときは、文を送って驚かすこともあった。火影に映った取り乱した様子を、またそんな光景を見たいと思う。おおかた、昔の女のことは、忘れることがなかった。 2017.7.9/ 2021.6.10/ 2023.1.9◎ |
6.2 故常陸宮の姫君の噂 | |
左衛門の乳母とて、大弐のさしつぎに思いたるが女、大輔 故常陸親王 「心ばへ容貌など、深き方はえ知りはべらず。かいひそめ、人疎うもてなしたまへば、さべき宵など、物越しにてぞ、語らひはべる。琴をぞなつかしき語らひ人と思へる」と聞こゆれば、 「三つの友にて、今一種 「さやうに聞こし召すばかりにはあらずやはべらむ」 と言へど、御心とまるばかり聞こえなすを、 「いたうけしきばましや。このころのおぼろ月夜に忍びてものせむ。まかでよ」 とのたまへば、わづらはしと思へど、内裏わたりものどやかなる春のつれづれにまかでぬ。 父の大輔の君は他にぞ住みける。ここには時々ぞ通ひける。命婦は、継母のあたりは住みもつかず、姫君の御あたりをむつびて、ここには来るなりけり。 | 左衛門の乳母といって、大弐の次に源氏が大事にしている人の娘で、大輔 故常陸親王が晩年にもうけた子で、大変大事に育てられた女が、心細く残されて暮らしているのを、命婦が物のついでに語ったのを、源氏は気の毒に思い、心にとどめていて尋ねた。 「心ばえや容貌など、深くは知りません。ひっそりと人から離れて暮らしているので、用のあるときは夕暮れどきに、物越しに話をします。琴を一番の友としていると思います」と申し上げると、 「琴は三つの友のひとつですが、女に酒は困るでしょう」とて、「わたしに聞かせなさい。父親王はその方面に堪能 「そのようにお聞きなさるほどではありますまい」 と言うが、心に響くように申し上げるので、 「やけに思わせぶりに言うね。このごろの朧月夜に忍んで行こう。案内せよ」 と仰るので、わずらわしいと思ったが、内裏ものどかな春のつれずれなので、出かけたのである。 父の大輔の君は他に住んでいた。宮邸には時々来るだけだった。命婦は、継母のところには住みつかず、姫君のあたりに親しみを感じて、ここに来ていた。 2017.7.10/2021.6.10/ 2023.1.9◎ |
6.3 新春正月十六日の夜に姫君の琴を聴く | |
のたまひしもしるく、十六夜 「いと、かたはらいたきわざかな。ものの音澄むべき夜のさまにもはべらざめるに」と聞こゆれど、 「なほ、あなたにわたりて、ただ一声も、もよほしきこえよ。むなしくて帰らむが、ねたかるべきを」 とのたまへば、うちとけたる住み処に据ゑたてまつりて、うしろめたうかたじけなしと思へど、寝殿に参りたれば、まだ格子もさながら、梅の香をかしきを見出だしてものしたまふ。よき折かな、と思ひて、 「御琴の音、いかにまさりはべらむと、思ひたまへらるる夜のけしきに、誘はれはべりてなむ。心あわたたしき出で入りに、えうけたまはらぬこそ口惜しけれ」と言へば、 「聞き知る人こそあなれ。百敷に行き交ふ人の聞くばかりやは」 とて、召し寄するも、あいなう、いかが聞きたまはむと、胸つぶる。 ほのかに掻き鳴らしたまふ、をかしう聞こゆ。何ばかり深き手ならねど、ものの音がらの筋ことなるものなれば、聞きにくくも思されず。 「いといたう荒れわたりて寂しき所に、さばかりの人の、古めかしう、ところせく、かしづき据ゑたりけむ名残なく、いかに思ほし残すことなからむ。かやうの所にこそは、昔物語にもあはれなることどもありけれ」など思ひ続けても、ものや言ひ寄らまし、と思せど、うちつけにや思さむと、心恥づかしくて、やすらひたまふ。 命婦、かどある者にて、いたう耳ならさせたてまつらじ、と思ひければ、 「曇りがちにはべるめり。客人 とて、いたうもそそのかさで帰りたれば、 「なかなかなるほどにても止みぬるかな。もの聞き分くほどにもあらで、ねたう」 とのたまふけしき、をかしと思したり。 「同じくは、け近きほどの立ち聞きせさせよ」 とのたまへど、「心にくくて」と思へば、 「いでや、いとかすかなるありさまに思ひ消えて、心苦しげにものしたまふめるを、うしろめたきさまにや」 と言へば、「げに、さもあること。にはかに我も人もうちとけて語らふべき人の際は、際とこそあれ」など、あはれに思さるる人の御ほどなれば、 「なほ、さやうのけしきをほのめかせ」と、語らひたまふ。 また契りたまへる方やあらむ、いと忍びて帰りたまふ。 「主上 と聞こゆれば、たち返り、うち笑ひて、 「異人 とのたまへば、「あまり色めいたりと思して、折々かうのたまふを、恥づかし」と思ひて、ものも言はず。 寝殿の方に、人のけはひ聞くやうもやと思して、やをら立ち退きたまふ。透垣 この夕つ方、内裏よりもろともにまかでたまひける、やがて大殿にも寄らず、二条院にもあらで、引き別れたまひけるを、いづちならむと、ただならで、我も行く方あれど、後につきてうかがひけり。あやしき馬に、狩衣姿のないがしろにて来ければ、え知りたまはぬに、さすがに、かう異方 君は、誰ともえ見分きたまはで、我と知られじと、抜き足に歩みたまふに、ふと寄りて、 「ふり捨てさせたまへるつらさに、御送り仕うまつりつるは。 もろともに大内山は出でつれど 入る方見せぬいさよひの月」 と恨むるもねたけれど、この君と見たまふ、すこしをかしうなりぬ。 「人の思ひよらぬことよ」と憎む憎む、 「里わかぬかげをば見れどゆく月の いるさの山を誰れか尋ぬる」 「かう慕ひありかば、いかにせさせたまはむ」と聞こえたまふ。 「まことは、かやうの御歩きには、随身からこそはかばかしきこともあるべけれ。後らさせたまはでこそあらめ。やつれたる御歩きは、軽々しき事も出で来なむ」 と、おし返しいさめたてまつる。かうのみ見つけらるるを、ねたしと思せど、かの撫子はえ尋ね知らぬを、重き功に、御心のうちに思し出づ。 |
命婦は言ったとおり、十六夜の月が美しく照る夜にやって来た。
「まあ、あいにくなことです。ものの音が美しくひびく夜ではありませんね」と申し上げれば、 「それでも、あちらに行って、ただ一曲でも弾いてくれるよう申せ。空しく帰るのは、心残りだ」 と仰るので、住みなれた自分の部屋にお通しし、気がかりでもありもったいなくもあったのだが、寝殿に参上すると、姫はまだ格子も上げたままで、梅の香がかぐわしいのを眺めていた。よい折だと思い、 「琴の音がいっそうよく響きそうな夜の風情に誘われて、参りました。気ぜわしく出入りしておりますので、久しくお聞きしていないのが残念です」と言えば、 「聞いて分かる人がいてほしい。大宮人とは言わないけれど」 とて、琴を引き寄せる、心配だ、君はどう聞くか、と胸がどきどきする。 少しかき鳴らすが、おもしろい。すごく上手という程でもないが、琴の音は筋の違うものだけに、源氏は聞きにくいとは思わない。 「たいへん荒れて寂しいところに、親王ほどの人が、昔風に大切に育てた名残もなく、姫はどんなに物思いし寂しくされていことだろう。このような所にこそ、昔物語にもあわれなことが多い」など源氏は思い続けて、口説こうと思ったが、手順も踏まずぶしつけなので、気後れがして、躊躇した。 命婦は、機転の利く女で、あまり耳馴れさせてしまわないように、と思い、 「曇ってきました。客人が来たようです、居留守と思われたくないので。すぐまた拝聴しましょう。格子を下ろします」 とて、演奏を勧めずに、部屋に帰ったので、 「途中でやめてしまったのでは。演奏を聞き分けるまでいかないので、残念だ」 と源氏が仰る様子から、興味を持ったようだ。 「どうせなら、近くで立ち聞きさせよ」と仰るが、 「もっと聞きたい」と感じた処でやめると命婦は 決めていたので、 「いいえ、かすかに消え入るばかりのありさまで、心苦しげに奏しておりますので、あとが心配なのです」 と言えば、「それもそうだ。お互いにすぐ打ち解けて親密になる人の身分などは、その程度のものだ」など、ここの女の高いご身分を考えると、 「なお、そのような思いをそれとなく伝えてくれ」と仰った。 他に契られた方がいるのだろう、忍んでお帰りになった。 「帝が、源氏の君は真面目すぎると、ご心配されているのは、こっけいに思うことが時々あります。このような狩衣姿を、ご覧になることはないでしょうから」 と命婦が申し上げれば、振り返り、笑って、 「どこぞのまじめな人が咎めるようには、言われたくないな。これを浮気と言うなら、どこぞの浮気な女はどうか」 と仰るので、「色好みな女と思われて、時々からかわれるので、恥ずかしい」と思い、命婦は黙った。 寝殿の方なら、姫の気配を感じられるかもしれないと思い、ゆっくり部屋を出た。透垣 この夕べ、内裏を一緒に退出したのだが、やがて左大臣邸にも二条院にも寄らず、別れたが、どこへ行くのか気になって、自分も寄るところがあったのだが、源氏の後をついてきたのであった。中将は貧相な馬に狩衣姿の無造作ななりで来たので、気づかれなかったのだが、さすがに見知らぬ所に入ったので要領を得ず、琴の音を聞いたので立っていて、君がお帰りになるのを待っていたのである。 源氏は、誰とも気づかず、自分も気づかれまいと、抜き足差し足で行くと、その男がふと寄ってきて、 「わたしをまいてゆこうとするので、お送りしたのですよ。 (頭中将)大内山の御所を一緒にでて 入る処を見せない十六夜の月ですね」 と恨みがましくいわれたが、頭中将と分かれば、すこし滑稽 「人の考え付かないことよ」と源氏は憎らしげに仰る。 (源氏)「どの里も隈なく照らす月は見上げるが、 山に入る月を誰が尋ねましょう」 「このように後をつけまわしたら、どう思いますか」と頭中将が言う。 「本当は、このような御歩きは、随身次第なのです。わたしを置いて一人歩きしないでほしい。身分を隠してのひとり歩きは、軽率なことも起こります」 と、かえって戒めている。こんな時ばかり見つけられるのは、癪だけれど、あの撫子は頭中将も尋ね知らず、自分の手柄だと思っている。 2017.7.13/ 2021.6.11/ 2023.1.10◎ |
6.4 頭中将とともに左大臣邸へ行く | |
おのおの契れる方にも、あまえて、え行き別れたまはず、一つ車に乗りて、月のをかしきほどに雲隠れたる道のほど、笛吹き合せて大殿におはしぬ。
前駆 中務 君たちは、ありつる琴の音を思し出でて、あはれげなりつる住まひのさまなども、やう変へてをかしう思ひつづけ、「あらましごとに、いとをかしうらうたき人の、さて年月を重ねゐたらむ時、見そめて、いみじう心苦しくは、人にももて騒がるばかりや、わが心もさま悪しからむ」などさへ、中将は思ひけり。この君のかう気色ばみありきたまふを、「まさに、さては、過ぐしたまひてむや」と、なまねたう危ふがりけり。 その後、こなたかなたより、文などやりたまふべし。いづれも返り事見えず、おぼつかなく心やましきに、「あまりうたてもあるかな。さやうなる住まひする人は、もの思ひ知りたるけしき、はかなき木草、空のけしきにつけても、とりなしなどして、心ばせ推し測らるる折々あらむこそあはれなるべけれ、重しとても、いとかうあまり埋もれたらむは、心づきなく、悪びたり」と、中将は、まいて心焦 「しかしかの返り事は見たまふや。試みにかすめたりしこそ、はしたなくて止みにしか」 と、憂ふれば、「さればよ、言ひ寄りにけるをや」と、ほほ笑まれて、 「いさ、見むとしも思はねばにや、見るとしもなし」 と、答へたまふを、「人わきしける」と思ふに、いとねたし。 君は、深うしも思はぬことの、かう情けなきを、すさまじく思ひなりたまひにしかど、かうこの中将の言ひありきけるを、「言多く言ひなれたらむ方にぞ靡かむかし。したり顔にて、もとのことを思ひ放ちたらむけしきこそ、憂はしかるべけれ」と思して、命婦をまめやかに語らひたまふ。 「おぼつかなく、もて離れたる御けしきなむ、いと心憂き。好き好きしき方に疑ひ寄せたまふにこそあらめ。さりとも、短き心ばへつかはぬものを。人の心ののどやかなることなくて、思はずにのみあるになむ、おのづからわがあやまちにもなりぬべき。心のどかにて、親はらからのもてあつかひ恨むるもなう、心やすからむ人は、なかなかなむらうたかるべきを」とのたまへば、 「いでや、さやうにをかしき方の御笠宿りには、えしもやと、つきなげにこそ見えはべれ。ひとへにものづつみし、ひき入りたる方はしも、ありがたうものしたまふ人になむ」 と、見るありさま語りきこゆ。「らうらうじう、かどめきたる心はなきなめり。いと子めかしうおほどかならむこそ、らうたくはあるべけれ」と思し忘れず、のたまふ。 瘧病 |
それぞれ興に乗って、約束の女のところには行かず、ひとつの車に乗って、月が風情をそそり雲に隠れた道を、笛吹き合わせて、左大臣邸に向かった。
先追いなどをつけず、こっそり邸に入って、人がいない廊下で直衣を取り寄せて着替えた。今来たばかりのようによそおって、笛を吹いて興じていると、左大臣が例によって聞きつけて、高麗笛を取り出した。名手だったので、実におもしろく吹いた。御簾のなかでも、琴をだして、心得あるものたちに弾かせた。 中務 若い君たちは、先ほどの琴の音を思い出して、さびし気だった住まいの様子も、事情が変われば風情があると思い、「あり得ないだろうが、すばらしく美しくかわいい人が、長年住んでいて、それをわたしが見初めて、恋に苦しみ、人にも騒がれたら、格好がつかなくなる」などと、頭中将は思うのであった。源氏が、こう熱心になるのなら、「まさに、もう、このまま過ぎるとは思えない」と、ねたみ危うく思うのであった。 その後、二人とも、文などを送ったらしい。どちらにも返事が来ず、不安でいらいらし、「おもしろくないなあ。あのような邸に住んでいる人は、物のあわれを知っていて、はかない草木や、空の移り変わりにつけても、心を動かして和歌などものし、心ばえを推し量られる折々があるのがいいのだが、宮家の出といっても、あまりに引っ込み思案では、おもしろくないしよろしくないね」と一段と中将はいらだっている。例によって、隠し立てのない性分で、 「しかし、文の返事は見ましたか。ためしに、それとなく言い寄ったのだが、梨のつぶてさ」 と中将が嘆けば、「やはり、文を出しのだ」と、源氏は微笑んで、 「さあ、見たいとも思わないので、見ることもないよ」 と答えたのを、「人を選別している」と思い、中将はねたましくなる。 君は深く思っていたわけではないが、こうもつれない仕打ちをされて、興ざめになったが、この中将が言い寄っているのを、「言葉数の多い方に、女はなびくという。中将がしたり顔で、先口 「文の返事もなく、袖にされたようで、つらい気持ちです。好色者と疑っているのではありませんか。まさか、一時の浮気と思っているのでは。女がゆっくり待ってくれずに、予期せぬ結果になると、自ずからこちらに非があるようになってしまう。長い目で見てくれて、親兄弟のうるさい口出しもなく、そのような気のおけない人は、そうとうにかわいい人だね」と仰れば、 「いえ、そのような風情を求める立ち寄り所としては、当方は不向きでございます。ただひとえに、遠慮がちで控えめな方ですから、それは稀なほどでございます」 と、命婦は見たままを語っている。「気が利いていなくてもいいです。子どもっぽくおっとりしているのがいい」と、夕顔のことを思い出しながら、仰る。 源氏は、瘧病 2017.7.17/ 2021.6.11/ 2023.1.10◎ |
6.5 秋八月二十日過ぎ常陸宮の姫君と逢う | |
秋のころほひ、静かに思しつづけて、かの砧の音も耳につきて聞きにくかりしさへ、恋しう思し出でらるるままに、常陸宮にはしばしば聞こえたまへど、なほおぼつかなうのみあれば、世づかず、心やましう、負けては止まじの御心さへ添ひて、命婦を責めたまふ。
「いかなるやうぞ。いとかかる事こそ、まだ知らね」 と、いとものしと思ひてのたまへば、いとほしと思ひて、 「もて離れて、似げなき御事とも、おもむけはべらず。ただ、おほかたの御ものづつみのわりなきに、手をえさし出でたまはぬとなむ見たまふる」と聞こゆれば、 「それこそは世づかぬ事なれ。物思ひ知るまじきほど、独り身をえ心にまかせぬほどこそ、ことわりなれ、何事も思ひしづまりたまへらむ、と思ふこそ。そこはかとなく、つれづれに心細うのみおぼゆるを、同じ心に答へたまはむは、願ひかなふ心地なむすべき。何やかやと、世づける筋ならで、その荒れたる簀子 など、語らひたまふ。 なほ世にある人のありさまを、おほかたなるやうにて聞き集め、耳とどめたまふ癖のつきたまへるを、さうざうしき宵居など、はかなきついでに、さる人こそとばかり聞こえ出でたりしに、かくわざとがましうのたまひわたれば、「なまわづらはしく、女君の御ありさまも、世づかはしく、よしめきなどもあらぬを、なかなかなる導きに、いとほしき事や見えむなむ」と思ひけれど、君のかうまめやかにのたまふに、「聞き入れざらむも、ひがひがしかるべし。父親王おはしける折にだに、旧 かく世にめづらしき御けはひの、漏りにほひくるをば、なま女ばらなども笑み曲げて、「なほ聞こえたまへ」と、そそのかしたてまつれど、あさましうものづつみしたまふ心にて、ひたぶるに見も入れたまはぬなりけり。 命婦は、「さらば、さりぬべからむ折に、物越しに聞こえたまはむほど、御心につかずは、さても止みねかし。また、さるべきにて、仮にもおはし通はむを、とがめたまふべき人なし」など、あだめきたるはやり心はうち思ひて、父君にも、かかる事なども言はざりけり。 八月二十余日、宵過ぐるまで待たるる月の心もとなきに、星の光ばかりさやけく、松の梢吹く風の音心細くて、いにしへの事語り出でて、うち泣きなどしたまふ。「いとよき折かな」と思ひて、御消息や聞こえつらむ、例のいと忍びておはしたり。 月やうやう出でて、荒れたる籬のほどうとましくうち眺めたまふに、琴そそのかされて、ほのかにかき鳴らしたまふほど、けしうはあらず。「すこし、け近う今めきたる気をつけばや」とぞ、乱れたる心には、心もとなく思ひゐたる。人目しなき所なれば、心やすく入りたまふ。命婦を呼ばせたまふ。今しもおどろき顔に、 「いとかたはらいたきわざかな。しかしかこそ、おはしましたなれ。常に、かう恨みきこえたまふを、心にかなはぬ由をのみ、いなびきこえはべれば、『みづからことわりも聞こえ知らせむ』と、のたまひわたるなり。いかが聞こえ返さむ。なみなみのたはやすき御ふるまひならねば、心苦しきを。物越しにて、聞こえたまはむこと、聞こしめせ」 と言へば、いと恥づかしと思ひて、 「人にもの聞こえむやうも知らぬを」 とて、奥ざまへゐざり入りたまふさま、いとうひうひしげなり。うち笑ひて、 「いと若々しうおはしますこそ、心苦しけれ。限りなき人も、親などおはしてあつかひ後見きこえたまふほどこそ、若びたまふもことわりなれ、かばかり心細き御ありさまに、なほ世を尽きせず思し憚るは、つきなうこそ」と教へきこゆ。 さすがに、人の言ふことは強うもいなびぬ御心にて、 「答へきこえで、ただ聞け、とあらば。格子など鎖してはありなむ」とのたまふ。 「簀子 など、いとよく言ひなして、二間の際なる障子、手づからいと強く鎖して、御茵 いとつつましげに思したれど、かやうの人にもの言ふらむ心ばへなども、夢に知りたまはざりければ、命婦のかう言ふを、あるやうこそはと思ひてものしたまふ。乳母だつ老い人などは、曹司に入り臥して、夕まどひしたるほどなり。若き人、二、三人あるは、世にめでられたまふ御ありさまを、ゆかしきものに思ひきこえて、心げさうしあへり。よろしき御衣たてまつり変へ、つくろひきこゆれば、正身 男は、いと尽きせぬ御さまを、うち忍び用意したまへる御けはひ、いみじうなまめきて、「見知らむ人にこそ見せめ、栄えあるまじきわたりを、あな、いとほし」と、命婦は思へど、ただおほどかにものしたまふをぞ、「うしろやすう、さし過ぎたることは見えたてまつりたまはじ」と思ひける。「わが常に責められたてまつる罪さりごとに、心苦しき人の御もの思ひや出でこむ」など、やすからず思ひゐたり。 君は、人の御ほどを思せば、「されくつがへる 今様のよしばみよりは、こよなう奥ゆかしう」と思さるるに、いたうそそのかされて、ゐざり寄りたまへるけはひ、忍びやかに、衣被 「いくそたび君がしじまにまけぬらむ ものな言ひそと言はぬ頼みに のたまひも捨ててよかし。玉だすき苦し」 とのたまふ。女君の御乳母子 「鐘つきてとぢめむことはさすがにて 答へまうきぞかつはあやなき」 いと若びたる声の、ことに重りかならぬを、人伝てにはあらぬやうに聞こえなせば、「ほどよりはあまえて」と聞きたまへど、 「めづらしきが、なかなか口ふたがるわざかな 言はぬをも言ふにまさると知りながら おしこめたるは苦しかりけり」 何やかやと、はかなきことなれど、をかしきさまにも、まめやかにものたまへど、何のかひなし。 「いとかかるも、さまかはり、思ふ方ことにものしたまふ人にや」と、ねたくて、やをら押し開けて入りたまひにけり。 命婦、「あな、うたて。たゆめたまへる」と、いとほしければ、知らず顔にて、わが方へ往にけり。この若人ども、はた、世にたぐひなき御ありさまの音聞きに、罪ゆるしきこえて、おどろおどろしうも嘆かれず、ただ、思ひもよらずにはかにて、さる御心もなきをぞ、思ひける。 正身は、ただ我にもあらず、恥づかしくつつましきよりほかのことまたなければ、「今はかかるぞあはれなるかし、まだ世馴れぬ人、うちかしづかれたる」と、見ゆるしたまふものから、心得ず、なまいとほしおぼゆる御さまなり。何ごとにつけてかは御心のとまらむ、うちうめかれて、夜深う出でたまひぬ。 命婦は、「いかならむ」と、目覚めて、聞き臥せりけれど、「知り顔ならじ」とて、「御送りに」とも、声 |
秋になって、静かに思い出にふけりながら、あのうるさかった砧の音さえ、夕顔と共にに懐かしく思い出され、常陸宮の姫君にはしばしば文を出すが、返事が来ないので、この常識はずれが、口惜しくなり、負けられないとの思いも加わり、命婦を責めるのだった。
「どういうことなのか。こんなことはいまだ知らぬ」 と、源氏が非常に不愉快だと思って仰ると、気の毒に思ってか、 「相応しくない、お似合いではない、と申し上げてはいません。ただ、とにかくとても内気で、それで手を出しかねているのでしょう」と命婦が申し上げると、 「それこそ世間知らずだ。物心のつかぬ子や、自分を思いのままにできない年頃なら、分かるが、十分分別もあるはず、と思うから言うのだ。なんとなく、つれづれに心細い気がして、同じ心で返事がもらいたいだけだ。色恋沙汰ではなく、あの荒れた簀子にたたずんでみたい。はなはだ納得いかない気持ちなので、あちらののお許しがなくとも、手はずを整えよ。わたしは、いらだったりして人をひどい扱ったりはしないよ」 などと、源氏は語った。 なお、源氏は、世間の女たちの様子を、気のないふりをして聞いていて、耳にとどめている癖があり、暇な夜更けな どに、とりとめのない話のついでに、こんな人がいるとお耳に入れたのを聞きとめて、このように本気で仲介を催促するので、 命婦は思う。「わずらわしく、女君も、男女の情に疎く風流を解する方でもないので、手引をしてかえって、姫に迷惑にならないか」源氏が熱心に迫るので、「聞き入れないのも、意地悪しているようだ。父親王が居られるときでさえ、時勢に遅れたお邸で尋ねてくる人も稀だったが、まして今はあばら家を訪れる人はまったくいない」。 このように世にも珍しいお方からすばらしい文が時々くるのを、下劣な女房たちは笑い興じて、「ご返事をお出しなさい」と、そそのかすのだが、極端に引っ込み思案の性格なので、熱心に文を見て興じることもない。 命婦は、「ならば、よい折に、物越しにお話なさることにして、気に入らなければ止めればよいだろう。また、ご縁があって、仮にも君が通うことがあっても、咎める人もないだろう」など、浮気でお調子者の考えで、命婦の父の兵部大輔にもこの話はしなかった。 八月二十余日、宵が過ぎるまで待たれる月の心もとなく、星の光ばかりさやけく、松の梢吹く風の音も心細く、昔のことを語りだして、姫君は泣き出している。「いい頃合だ」と命婦は思って、使いをだしたのだろう、源氏は例のお忍び姿でやってきた。 月がようやく出て、荒れた籬を源氏は気味悪く眺めていたが、促されたのだろう琴をほのかにかきならした調子は、悪くはなかった。「もっと、親しみやすく当世風の趣をつけたほうが」と、命婦のはすっぱな心には、物足りなく思う。源氏は人目がない所なので、気安く入った。命婦を呼んだ。命婦は初めて知って驚いたような顔をして 、 「大変困りました。とにかく、あのお方が来られました。いつも返信がないのを恨んでおりましたが、自分の一存でどうにもならないと、お断りしたのですが、『わたしが自分でよく話そう』と仰います。どうご返事したものでしょうか。並みの気楽なお越しではありませんので、心配です。物越しにて君が申されることをお聞きなさい」 と命婦が言えば、姫君は恥ずかしく思って、 「ご挨拶の仕方も知らないのに」 とて、奥へいざり入るさまが、いかにも初々 「ほんとに幼い、そこが心配です。身分の高い人も、親がいて後見がしっかりしている頃は、世間知らずで通りますが、このように心細い境涯では、男女の仲をどこまでも敬遠するのは、相応しくありません」と諭すのだった。 姫君は、さすが人の言うことは、強く断ろうとはせず、 「答えないで、ただ聞いているだけなら。格子などを鎖してお聞きします」と言う。 「簀子 など、よく言い聞かせて、二間の境にある障子を自分で強く鎖して、座布団を用意して整えた。 姫君は、ひどく気恥ずかしく思ったが、このような高貴な方に物言う心がまえも、まったく知らなかったので、命婦がこのように言うのも、そういうものだと思っていた。乳母役の老人たちは、部屋に入って伏し、うつらうつらしている。若い女房は二三人は、世間で評判のお方のお姿を、一目みたいと思って、そわそわしている。命婦は、何とかもっとましな衣装に身づくろいさせたが、当の姫君は、何心もない気でいたのだった。 君は、限りなく美しいお姿を、忍ぶ恋路のために心づかいして、すばらしく優雅なので、「物の分かる人に見せたい、こんなさえない邸ではなく、ああ、残念だ」と命婦は思うのだが、姫君がおっとりしているのを見て、「安心だ、出過ぎたことをご覧に入れることもないだろう」と思った。「君から急 源氏は、姫君の身分の程を思えば、「大げさな今様の風情を強く出すよりも、ずっと奥ゆかしい」と思ったが、女房たちに強く勧められて、いざり寄る気配に、ひそかに衣被 (源氏)「なんどあなたの沈黙に負けたことでしょう、 物を言うなとまで言われていないにしても」 はっきり言ってください。どっちつかずではなくて」 と仰る。姫君の乳母の子で、侍女で才気ばしった若人が、「じれったい、見ていられない」と思って、さし寄って申している。 (侍従)「鐘をついて議論は終わりとすることもせず、 お答えにくいのはまたどうしてでしょう」 若やいだ声で、軽く、姫君自身が答えているように言っているので、「身分の割には馴れている」ように聞こえたのだが、 「珍しい返歌だ、今度はわたしが物を言えなくなる、 (源氏)何も言わぬのは言うに勝ると知りながら 胸にこめて物を言わぬのは苦しいものです」 源氏は、あれこれと、とりとめのないことを、可笑しいふうにもにも真面目なふうにも話しをしたが、まったく反応がない。 「変わっているな、何か普通と違った考えをもっているのか」と妬みを覚えて、襖を開けて中へ入った。 命婦は、「あ、油断させたんだ」と、姫君を気の毒に思ったが、素知らぬ顔で自分の部屋に戻った。若い女房たちは、世に類なき評判のお方とお聞きして、咎め立てせず、大げさに嘆いたりせず、ただ、思いがけず急なことだったので、姫君が何の準備もしていないのを思った。 姫君は、ただもう呆然として、恥ずかしく控え目でいるほかないので、「今はこのようなのがいいのだ、まだ世馴れぬし、深窓に育ったのだから」と源氏は思ってみるが、納得がいかず、かわいそうに思ってしまう。どうしてこのような人に惹かれるだろう、ついため息が出て、まだ暗いうちにお帰りになった。 命婦は、「どうなったか」と、伏せて聞き耳を立てていたが、「知らぬふりを通そう」とて、「お見送り」の合図の咳払いもしない。源氏もひっそりと出てゆかれた。 2017.7.26/ 2021.6.13/ 2023.1.11◎ |
6.6 その後、訪問なく秋が過ぎる | |
二条院におはして、うち臥したまひても、「なほ思ふにかなひがたき世にこそ」と、思しつづけて、軽らかならぬ人の御ほどを、心苦しとぞ思しける。思ひ乱れておはするに、頭中将おはして、
「こよなき御朝寝かな。ゆゑあらむかしとこそ、思ひたまへらるれ」 と言へば、起き上がりたまひて、 「心やすき独り寝の床にて、ゆるびにけりや。内裏よりか」 とのたまへば、 「しか。まかではべるままなり。朱雀院の行幸、今日なむ、楽人、舞人定めらるべきよし、昨夜うけたまはりしを、大臣にも伝へ申さむとてなむ、まかではべる。やがて帰り参りぬべうはべり」 と、いそがしげなれば、 「さらば、もろともに」 とて、御粥、強飯 「なほ、いとねぶたげなり」 と、とがめ出でつつ、 「隠 とぞ、恨みきこえたまふ。 事ども多く定めらるる日にて、内裏にさぶらひ暮らしたまひつ。 かしこには、文をだにと、いとほしく思し出でて、夕つ方ぞありける。雨降り出でて、ところせくもあるに、笠宿りせむと、はた、思されずやありけむ。かしこには、待つほど過ぎて、命婦も、「いといとほしき御さまかな」と、心憂く思ひけり。正身は、御心のうちに恥づかしう思ひたまひて、今朝の御文の暮れぬれど、なかなか、咎とも思ひわきたまはざりけり。 「夕霧の晴るるけしきもまだ見ぬに いぶせさ添ふる宵の雨かな 雲間待ち出でむほど、いかに心もとなう」 とあり。おはしますまじき御けしきを、人びと胸つぶれて思へど、 「なほ、聞こえさせたまへ」 と、そそのかしあへれど、いとど思ひ乱れたまへるほどにて、え型のやうにも続けたまはねば、「夜更けぬ」とて、侍従ぞ、例の教へきこゆる。 「晴れぬ夜の月待つ里を思ひやれ 同じ心に眺めせずとも」 口々に責められて、紫の紙の、年経にければ灰おくれ古めいたるに、手はさすがに文字強う、中さだの筋にて、上下等しく書いたまへり。見るかひなううち置きたまふ。 いかに思ふらむと思ひやるも、安からず。 「かかることを、悔 大臣、夜に入りてまかでたまふに、引かれたてまつりて、大殿におはしましぬ。行幸のことを興ありと思ほして、君たち集りて、のたまひ、おのおの舞ども習ひたまふを、そのころのことにて過ぎゆく。 ものの音ども、常よりも耳かしかましくて、かたがたいどみつつ、例の御遊びならず、大篳 御いとまなきやうにて、せちに思す所ばかりにこそ、盗まはれたまへれ、かのわたりには、いとおぼつかなくて、秋暮れ果てぬ。なほ頼み来しかひなくて過ぎゆく。 |
二条院に戻って伏していても「男女の仲は思い通りにゆかないものだ」と思い、末摘花の軽くないご身分で、好きになれそうになくてお気の毒だ、と思う。思い悩んでいると、頭中将が見えて、
「たいそうな朝寝ですね。何か訳がありそうだ、と思わざるを得ない」 と言えば、起き上がって、 「独り寝だから、のんびりしているだけさ。内裏の帰りか」 と仰ると、 「そうです、今帰る途上です。朱雀院の行幸は、今日楽人、舞人が決まる由、昨夜うけたまわったので、父の大臣にお伝えしようと戻ります。すぐにまた参内しなければ」 と忙しげであったので、 「では、一緒に行こう」 とて、お粥やお強 「まだ、眠そうですね」 と、咎めながら、 「隠していることが沢山おありですね」 と恨みごとを申し上げる。 多くのことが決まる日なので、内裏にいて一日過ごした。 あちらへは、せめて文だけでも、と気の毒に思って、夕方使いを出した。雨が降りだし、動きずらいので、立ち寄ろうとは思われなかったのだろう。あちらでは、待つ時間も過ぎて、命婦も「まったくお気の毒なことに」と、心配であった。当のご本人は、ただ恥ずかしく思って、今朝の文が夕方になったことなど、すぐには君の咎とも思わなかったのである。 (源氏)「夕霧が晴れる様子もないのに 気が滅入る宵の雨がふっています 雲の切れ間をまつ間、いかにも心もとない」 とあり。君が来る様子がないので、女房たちは悲嘆にくれたが、 「それでも、ご返事しなさい」 と、催促するのだが、姫君は思い乱れて、型どうりの文も続けられないのを見て、「夜が更けてしまう」とて、侍従が例のように教えるのだった。 (末摘花)「晴れぬ夜に月を待つ里人を思いやってください 同じ心で眺められないとしても」 口々に責められて、古びて色もあせた紫の紙に、手はさすがに強く、中古風の書体で、天地の余白を等しくして、書いた。源氏は、見る甲斐なしと、放置した。 末摘花がどう思っているだろう、と案じた。 「これを後悔するというのだろうか。それでどうなるものでもない。わたしは、それでも、最後まで面倒を見よう」と、思う君の心を知らず、あちらではひどく嘆いていた。 左大臣は、夜なって内裏を退出したので、源氏もご一緒して左大臣邸に帰ってきた。行幸を楽しみなこととして、若者たちが集まって、その話をし、舞などの練習に励むのが日常のことになっていた。 いろいろな楽器の音も、普段よりも耳に響き、互いに競い合っては、いつもの演奏とは違って、大篳 暇がなく、切に思う所ばかりひそかに通っていて、あの常陸宮邸には、まったく通うこともなく、秋が暮れた。あちらでは、当てにした甲斐もなく、過ぎていった。 2017.8.1/2021.6.13/ 2023.1.11◎ |
6.7 冬の雪の激しく降る日に訪問 | |
行幸近くなりて、試楽 「いかにぞ」など、問ひたまひて、いとほしとは思したり。ありさま聞こえて、 「いとかう、もて離れたる御心ばへは、見たまふる人さへ、心苦しく」 など、泣きぬばかり思へり。「心にくくもてなして止みなむと思へりしことを、くたいてける、心もなくこの人の思ふらむ」をさへ思す。正身の、ものは言はで、思しうづもれたまふらむさま、思ひやりたまふも、いとほしければ、 「いとまなきほどぞや。わりなし」と、うち嘆いたまひて、「もの思ひ知らぬやうなる心ざまを、懲らさむと思ふぞかし」 と、ほほ笑みたまへる、若ううつくしげなれば、我もうち笑まるる心地して、「わりなの、人に恨みられたまふ御齢や。思ひやり少なう、御心のままならむも、ことわり」と思ふ。 この御いそぎのほど過ぐしてぞ、時々おはしける。 かの紫のゆかり、尋ねとりたまひて、そのうつくしみに心入りたまひて、六条わたりにだに、離 されど、みづからは見えたまふべくもあらず。几帳など、いたく損なはれたるものから、年経にける立ちど変はらず、おしやりなど乱れねば、心もとなくて、御達四、五人 隅の間ばかりにぞ、いと寒げなる女ばら、白き衣のいひしらず煤けたるに、きたなげなる褶 「あはれ、さも寒き年かな。命長ければ、かかる世にもあふものなりけり」 とて、うち泣くもあり。 「故宮おはしましし世を、などてからしと思ひけむ。かく頼みなくても過ぐるものなりけり」 とて、飛び立ちぬべくふるふもあり。 さまざまに人悪ろきことどもを、愁へあへるを聞きたまふも、かたはらいたければ、たちのきて、ただ今おはするやうにて、うちたたきたまふ。 「そそや」など言ひて、火とり直し、格子放ちて入れたてまつる。 侍従は、斎院に参り通ふ若人にて、この頃はなかりけり。いよいよあやしうひなびたる限りにて、見ならはぬ心地ぞする。 いとど、愁ふなりつる雪、かきたれいみじう降りけり。空の気色はげしう、風吹き荒れて、大殿油消えにけるを、ともしつくる人もなし。かの、ものに襲はれし折思し出でられて、荒れたるさまは劣らざめるを、ほどの狭う、人気のすこしあるなどに慰めたれど、すごう、うたていざとき心地する夜のさまなり。 をかしうもあはれにも、やうかへて、心とまりぬべきありさまを、いと埋れすくよかにて、何の栄 |
行幸が近くなって、試楽などと騒いでいるころ、命婦が内裏に来た。
「どうされているか」と、源氏は問うて、気の毒に思っている。命婦が様子をご報告して、 「このように、疎遠にされたのでは、傍にいる者もおいたわしく思って」 など、泣かんばかりである。「奥ゆかしいと思うところで止めたいと思っていたのを、だめにされてしまった、と命婦は思っている」などとさえ源氏は気を回している。姫君が、物も言わず沈んでいる様子を、思ってみてもお気の毒に思って、 「忙しかったのだ。仕方ない」と嘆いてみせて、「大人の交わりを知らぬようなので、懲らしめてやろうと思ったのだ」 と源氏は、微笑んだが、若く愛敬があるので、命婦も笑える心地がして、「人に恨まれ勝ちな年齢だ。思いやりが少なく、思うがままに振舞うのも、致し方ないことだ」と命婦は思う。 この忙しい時期が過ぎて、時々通うようになった。 あの藤壺ゆかりの紫の上を手に入れてからは、その美しさに夢中で、六条渡りですら足が遠のいているので、まして荒れた宿へは、あわれに思うことはあっても、行き難い気持ちも無理からぬことであるし、あの気づまりな恥ずかしがりの女を見届けようとも思わずに、過ぎてゆくのだが、また反対に、「見優 だが、姫君の姿は見えるはずもない。几帳など、かなり傷んでいて、年は経ても置く場所は変えず、隅へ押しやったりしていないので、見えずらく、五六人の女房たちがいた。お膳には、青磁の唐の器だが、見栄えが悪く、ごく粗末なものを、御前から下がって、女房たちが食べている。 隅の方の間に、寒そうな女たちが、白い衣はなんとなく黒ずんで、汚らしい褶 「ああ、なんと寒い年だこと。長生きすれば、こんなにひどい目にあうのだ」 とて、泣くものもある。 「宮様のいた頃は、どうして辛いなど思ったのかしら。こんなに頼りなくても、暮らしていけるなんて」 とて、飛び立ちかねている者もいる。 さまざまな外聞の悪い話や、愚痴などを聞いていたが、いたたまれなくなったので、源氏は一度さがって、今来たばかりのように格子を叩いた。 「それそれ」など言って、女房が灯火を持ち、格子を上げ中に入れた。 侍従は斎院へ通っている女房で、この頃は留守だった。それでいっそう貧相で野暮ったい女房ばかりで、勝手が違っていた。 先ほど嘆いていた雪が激しく降っていた。空模様も険しく、風が吹き荒れ、大殿油が消えたが、それを灯す人もいない。あの物の怪に襲われたときを思い出し、荒れ模様の天気は劣らなかったが、部屋が狭く、人気 見方を変えれば、かえって風情がありおもしろい夜だったが、姫君は内にこもって何も引き立つところがないのが、残念だった。 2017.8.4/2021.6.13/ 2023.1.11◎ |
6.8 翌朝、姫君の醜貌を見る | |
からうして明けぬるけしきなれば、格子手づから上げたまひて、前の前栽の雪を見たまふ。踏みあけたる跡もなく、はるばると荒れわたりて、いみじう寂しげなるに、ふり出でて行かむこともあはれにて、
「をかしきほどの空も見たまへ。尽きせぬ御心の隔てこそ、わりなけれ」 と、恨みきこえたまふ。まだほの暗けれど、雪の光にいとどきよらに若う見えたまふを、老い人ども笑みさかえて見たてまつる。 「はや出でさせたまへ。あぢきなし。心うつくしきこそ」 など教へきこゆれば、さすがに、人の聞こゆることをえいなびたまはぬ御心にて、とかう引きつくろひて、ゐざり出でたまへり。 見ぬやうにて、外の方を眺めたまへれど、後目 まづ、居丈の高く、を背長に見えたまふに、「さればよ」と、胸つぶれぬ。うちつぎて、あなかたはと見ゆるものは、鼻なりけり。ふと目ぞとまる。普賢菩薩の乗物とおぼゆ。あさましう高うのびらかに、先の方すこし垂りて色づきたること、ことのほかにうたてあり。色は雪恥づかしく白うて真青 頭つき、髪のかかりはしも、うつくしげにめでたしと思ひきこゆる人びとにも、をさをさ劣るまじう、袿 聴し色 何ごとも言はれたまはず、我さへ口閉ぢたる心地したまへど、例のしじまも心みむと、とかう聞こえたまふに、いたう恥ぢらひて、口おほひしたまへるさへ、ひなび古めかしう、ことことしく、儀式官の練り出でたる臂もちおぼえて、さすがにうち笑みたまへるけしき、はしたなうすずろびたり。いとほしくあはれにて、いとど急ぎ出でたまふ。 「頼もしき人なき御ありさまを、見そめたる人には、疎からず思ひむつびたまはむこそ、本意ある心地すべけれ。ゆるしなき御けしきなれば、つらう」など、ことつけて、 「朝日さす軒の垂氷は解けながら などかつららの結ぼほるらむ」 とのたまへど、ただ「むむ」とうち笑ひて、いと口重げなるもいとほしければ、出でたまひぬ。 御車寄せたる中門の、いといたうゆがみよろぼひて、夜目にこそ、しるきながらもよろづ隠ろへたること多かりけれ、いとあはれにさびしく荒れまどへるに、松の雪のみ暖かげに降り積める、山里の心地して、ものあはれなるを、「かの人びとの言ひし葎の門は、かうやうなる所なりけむかし。げに、心苦しくらうたげならむ人をここに据ゑて、うしろめたう恋しと思はばや。あるまじきもの思ひは、それに紛れなむかし」と、「思ふやうなる住みかに合はぬ御ありさまは、取るべきかたなし」と思ひながら、「我ならぬ人は、まして見忍びてむや。わがかうて見馴れけるは、故親王 橘の木の埋もれたる、御随身召して払はせたまふ。うらやみ顔に、松の木のおのれ起きかへりて、さとこぼるる雪も、「名に立つ末の」と見ゆるなどを、「いと深からずとも、なだらかなるほどにあひしらはむ人もがな」と見たまふ。 御車出づべき門は、まだ開けざりければ、鍵の預かり尋ね出でたれば、翁のいといみじきぞ出で来たる。娘にや、孫にや、はしたなる大きさの女の、衣は雪にあひて煤けまどひ、寒しと思へるけしき、深うて、あやしきものに火をただほのかに入れて袖ぐくみに持たり。翁、門をえ開けやらねば、寄りてひき助くる、いとかたくななり。御供の人、寄りてぞ開けつる。 「降りにける頭の雪を見る人も 劣らず濡らす朝の袖かな 『幼き者は形蔽れず』」 とうち誦じたまひても、鼻の色に出でて、いと寒しと見えつる御面影、ふと思ひ出でられて、ほほ笑まれたまふ。「頭中将に、これを見せたらむ時、いかなることをよそへ言はむ、常にうかがひ来れば、今見つけられなむ」と、術なう思す。 世の常なるほどの、異なることなさならば、思ひ捨てても止みぬべきを、さだかに見たまひて後は、なかなかあはれにいみじくて、まめやかなるさまに、常に訪れたまふ。 黒貂の皮ならぬ、絹、綾、綿など、老い人どもの着るべきもののたぐひ、かの翁のためまで、上下思しやりてたてまつりたまふ。かやうのまめやかごとも恥づかしげならぬを、心やすく、「さる方の後見にて育まむ」と思ほしとりて、さまことに、さならぬうちとけわざもしたまひけり。 「かの空蝉の、うちとけたりし宵の側目には、いと悪ろかりし容貌ざまなれど、もてなしに隠されて、口惜しうはあらざりきかし。劣るべきほどの人なりやは。げに品にもよらぬわざなりけり。心ばせのなだらかに、ねたげなりしを、負けて止みにしかな」と、ものの折ごとには思し出づ。 |
ようやく夜が明ける頃になったので、格子を自分で上げて、前裁に降った雪を見た。踏まれた跡もなく、はるか遠くまで雪景色で、ひどく寂しげで、このまま帰ってしまうのもかわいそうに思い、
「風情のある空をご覧なさい。いつまでもうちとけてくださらないのが、残念です」 と、恨みがましく仰せになる。まだほの暗いが、雪の光で源氏が清く若く見えるのを、老いたる女房たちが相好をくずして見ている。 「早くお出なさい。いけません。女は素直なのがいいのです」 など女房たちがしきりと教えれば、さすがに、人が言うことは否むことのできない性分で、身づくろいをして、いざり出てきた。 源氏は見ないふりをして、外を眺めていたが、後目 まず、座高が高く、胴長に見えるので、「やっぱりだったか」と、がっかりする。それに次いで、異様なのは、鼻であった。自然に目がそこへいってしまう。普賢菩薩の乗物かと思う。すごく高くのびて、先っぽが少し垂れて色づいているのが、とりわけ異様で不快だった。肌の色は雪のように白く青みがかっていて、額はかなり広く、顔の下の方はおそろしく長いだろうと思われた。痩せていて、いたましいほど骨ばっていて、肩のあたりなどは、痛々しく衣の上から見えるほどであった。「どうしてすっかり見てしまったのだろう」と思ったが、珍しい見ものなので、やっぱり見てしまう。 頭つきや髪のかかり具合は、美しく申し分ないと賞賛される人びとにも、劣らず、袿 聴し色 言うべき言葉もなく、自分まで口を閉じた心地がしたが、例のだんまりの口を何とか開けさせようと、いろいろ仰せになったが、ひどく恥らって口元をおおうのさえ、古めかしく、大げさで、儀式官のやる肘を張ったやり方を思い出し、それでも微笑もうとする気色は、とってつけたようだった。たいへんお気の毒に感じ、急いでお出になった。 「頼りにする人もないご様子なので、ご縁を結んだわたしには親しんでくださってこそ、本意というものです。うちとけない様子ですから、情けないです」などと、理由を付けて、 (源氏)「朝日さす軒のつららさえ溶けるのに あなたは どうして氷が張って打ち解けないのでしょうか」 と仰るが、「むむ」と笑って、口が重いのがかわいそうなので、出て行った。 お車を寄せた中門が、ひどくゆがみ崩れかかっていて、夜目には、ひどい状態ながら、目立たないことも多かったが、あわれにさびしく荒れていて、松の雪だけが暖かそうに降り積り、山里の心地して、ものあわれで、「あの人びとの言った葎の門は、このようなところだったのだろう。実際に、気の毒で品のある女をここに住まわせて、忘れられない恋をしたいものだ。藤壺への物思いも、きっと紛れるだろう」と、「望みどおりの住まいでも、相応しくない姫君では、どうしようもない」と思いながら、「わたし以外の人は、誰が我慢して世話し続けるだろうか。こうして親しく交われるのは、後を案じて置いていった故親王御魂のお導きだ」と思われるのだった。 橘の木が雪に埋もれているのを、随身に払わせた。うらやんだように、松の木が起き上がって、こぼれる雪を、「名に立つ末の」と見立てたのを、「深い味わいはなくても、それなりに受け答えできる人であったらなあ」と思う。 車が出る門は、まだ開いていないなったので、鍵を預かっているものを探したが、ずいぶん年をとった翁がでてきて、娘か孫かどちらともとれる女が、雪に映えてすすけたような衣をまとい、ひどく寒そうで、見たこともないものに火種を入れて袖に包むように抱えている。翁は、門が開けられないので、女が助けているのが、見苦しかった。供の者が、寄って開けた。 (源氏)「白髪の老人に降る雪を見ていると わたしの袖も今朝の雪に濡れてしまった 『幼き者は着るものもない』」 と誦じてみたが、姫君の鼻の色に出るまで寒がりの面影がふと思い出されて、微笑んでしまった。「頭中将がこれを見たら、どんなことを他に言うことだろう。いつもやってくるので、今に見つけられるだろう」と諦め顔だ。 世間並みで、とくにどうと言うこともない女なら、捨ててもいいだろうが、しっかり見てしまったからには、どうしてもひどくあわれに思われて、実にまめに、人を邸に行かせた。 黒貂の皮ならぬ、絹、綾、綿など、老女房やあの翁の着るもののたぐいを、上から下まで配慮して用意した。このような実にまめなことも、姫君は恥ずかしがらず受け入れるので、君は心安く、姫君の後見人として世話しようと決心して、普通ならしないようなことまで世話した。 「あの空蝉の、くつろいだ宵に側目で見たのは、容貌は悪かったが、所作がすばらしく、つまらない女とは思わなかった。末摘花はあれに劣る身分だろうか。実に、女は身分ではない。空蝉は心ばせがおだやかで、妬ましいほど立派だったので、負けたのだ」と折に触れて思い出す。 2017.8.10/2021.6.15/ 2023.1.11◎ |
6.9 歳末に姫君から和歌と衣箱が届けられる | |
年も暮れぬ。内裏の宿直所 「あやしきことのはべるを、聞こえさせざらむもひがひがしう、思ひたまへわづらひて」 と、ほほ笑みて聞こえやらぬを、 「何ざまのことぞ。我にはつつむことあらじと、なむ思ふ」とのたまへば、 「いかがは。みづからの愁へは、かしこくとも、まづこそは。これは、いと聞こえさせにくくなむ」 と、いたう言籠めたれば、 「例の、艶なる」と憎みたまふ。 「かの宮よりはべる御文」とて、取り出でたり。 「まして、これは取り隠すべきことかは」 とて、取りたまふも、胸つぶる。 陸奥紙 「唐衣君が心のつらければ 袂はかくぞそぼちつつのみ」 心得ずうちかたぶきたまへるに、包みに、衣筥 「これを、いかでかは、かたはらいたく思ひたまへざらむ。されど、朔日 「引き籠められなむは、からかりなまし。 袖まきほさむ人もなき身にいとうれしき心ざしにこそは」 とのたまひて、ことにもの言はれたまはず。「さても、あさましの口つきや。これこそは手づからの御ことの限りなめれ。侍従こそとり直すべかめれ。また、筆のしりとる博士ぞなかべき」と、言ふかひなく思す。心を尽くして詠み出でたまひつらむほどを思すに、 「いともかしこき方とは、これをも言ふべかりけり」 と、ほほ笑みて見たまふを、命婦、面赤みて見たてまつる。 今様色の、えゆるすまじく艶なう古めきたる直衣の、裏表ひとしうこまやかなる、いとなほなほしう、つまづまぞ見えたる。「あさまし」と思すに、この文をひろげながら、端に手習ひすさびたまふを、側目に見れば、 「なつかしき色ともなしに何にこの すゑつむ花を袖に触れけむ 色濃き花と見しかども」 など、書きけがしたまふ。花のとがめを、なほあるやうあらむと、思ひ合はする折々の、月影などを、いとほしきものから、をかしう思ひなりぬ。 「紅のひと花衣うすくとも ひたすら朽 心苦しの世や」 と、いといたう馴れてひとりごつを、よきにはあらねど、「かうやうのかいなでにだにあらましかば」と、返す返す口惜し。人のほどの心苦しきに、名の朽ちなむはさすがなり。人びと参れば、 「取り隠さむや。かかるわざは人のするものにやあらむ」 と、うちうめきたまふ。「何に御覧ぜさせつらむ。我さへ心なきやうに」と、いと恥づかしくて、やをら下りぬ。 またの日、上にさぶらへば、台盤所 「くはや。昨日の返り事。あやしく心ばみ過ぐさるる」 とて、投げたまへり。女房たち、何ごとならむと、ゆかしがる。 「ただ梅の花の色のごと、三笠の山のをとめをば捨てて」 と、歌ひすさびて出でたまひぬるを、命婦は「いとをかし」と思ふ。心知らぬ人びとは、 「なぞ、御ひとりゑみは」と、とがめあへり。 「あらず。寒き霜朝に、掻練 「あながちなる御ことかな。このなかには、にほへる鼻もなかめり」 「左近の命婦、肥後の采女や混じらひつらむ」 など、心も得ず言ひしろふ。 御返りたてまつりたれば、宮には、女房つどひて、見めでけり。 「逢はぬ夜をへだつるなかの衣手に 重ねていとど見もし見よとや」 白き紙に、捨て書いたまへるしもぞ、なかなかをかしげなる。 晦日 「御歌も、これよりのは、道理聞こえて、したたかにこそあれ」 「御返りは、ただをかしき方にこそ」 など、口々に言ふ。姫君も、おぼろけならでし出でたまひつるわざなれば、ものに書きつけて置きたまへりけり。 |
年の暮れになった。源氏が内裏の宿直所にいると、大輔の命婦がやって来た。源氏の髪をとくときなど、色恋沙汰ではなく、心安いし、さすがに冗談など言って、使い慣れているので、用事がなくても、報告すべきことがあると、やって来た。
「奇妙なことがありまして、ご報告しないのも、素直ではない、と悩みまして」 と微笑んで、黙っているので 「何のことだ。わたしにそれこそ遠慮は無用と思うのだが」と仰せになると、 「さあ、自分の心配事は、おそれながら、すぐご報告しますが。これは大変言い難いことでして」 と、ひどく口ごもっているので、 「また例の、思わせぶりな」と叱れば、 「あの姫君からの御文です」といって、取り出した。 「それなら、なおさら隠すべきことか」 と言って、受け取ったが、命婦はどきりとする。 陸奥紙の厚手のものに、匂いばかり深くしめしていた。たいへんよく書けていた。歌も、 (末摘花)「あなたがつれないので わたしの袖は濡れそぼっています」 源氏は納得がゆかず首をかしげていると、包み布に衣箱の重々しく古風なのを置いて、押し出した。 「これをどうしてお目にかけられましょう。しかし、元日の君の衣裳として、わざわざ贈られたのですから、お気持ちに反してお返しするわけにも参りません。わたしの一存でしまいこんでは、姫君の御心に違うでしょうから、まずお見せして」と報告すると、 「しまいこんでは、つらいだろう。共寝して袖を乾かす女 と仰ったあとは、何も言わない。「それにしても、あきれた詠みっぷりだ。自分で精一杯詠んだのだろう。侍従が直すべきだろう。筆のしりをとって教える先生もいないのだろう」と、言っても甲斐のないことを思う。一生懸命に歌を詠んでいる姿を思っていた。 「恐れ多い人とは、こんなこんな方を言うのだろう」 と、微笑んでいるのを、命婦は顔を赤らめて見ている。 贈り物は、今流行の色で、とてもひどいほど艶がなく古めいた直衣で、裏表は同じく濃い色で、ごく平凡な仕立てが端々み見えた。源氏は、「あきれた」と思うが、その文を広げて、端に手習いのすさびをしているのを、ちらっと見ると、 (源氏)「親しみを感じる色でもないのに、 どうして末摘花に袖を触れたのだろう 色の美しい花とは思ったが」 などと書き散らした。紅花をけなしたのも、理由があるのだろうと、命婦は折々の月影などで容貌を思い出すと、お気の毒であったが、おかしく思う。 (命婦)「紅花に染めた君の愛が薄くても せめて姫君の名に傷がつくことはないように 気がかりな仲ですこと」 と、ごく馴れた風で独り言をしたが、歌はいい出来ではないが、「せめてこの程度のものなら」と、口惜しそうだ。末摘花の高い身分への気づかいも、名を惜しむとはさすがである。女房たちが来たので、 「隠そう。このようなことはするべきではない」 と、源氏はため息をついた。「どうしてお見せしたのだろう。わたしも礼儀知らずと思われる」と、命婦は恥ずかしくなり退去した。 翌日、命婦が参内していると、君は台盤所を覗いて、 「そら、昨日の返事だ。妙に気取りすぎたかもしれん」 と言って、文を投げた。女房たちは何事ならんと、知りたがる。 「ただ梅の花の色のごと、三笠の山のをとめをば捨てて」 と俗謡を歌いながら出て行ったのを、命婦は「たいへん可笑しい」と思う。心知らぬ人びとは、 「どうして君はひとり笑っているの」と、とがめた。 「いえ、霜のおりた寒い朝、掻練の赤い色合いを見たのでしょう。つづしり歌なんて」と言へば、 「自分勝手なこと。このなかに、鼻の赤い人なんていないでしょう」 「左近の命婦や肥後の采女がいたのかしら」 など、勝手に言い合うのであった。 返しの歌では、宮邸は女房たちが集って、感心していた。 (源氏)「逢わぬ夜が続いて衣手が隔てているのに さらに衣手を重ねて見よというのですか」 白い紙に無造作に書いたのが、なかなか風情があった。 大晦日の夕方、あの衣装箱に、「御料」として、人から献上された衣類一揃い、葡萄染 「歌だって、これより筋が通っていて、しっかりしている」 「返りの歌は、ただしゃれているだけで」 など、口々に言う。姫君も相当に努力して作った歌なので、手控えに書き付けて置いたのだった。 2017.8.14/2021.6.15/ 2023.1.11◎ |
6.10 正月七日夜常陸宮邸に泊まる | |
朔日 例のありさまよりは、けはひうちそよめき、世づいたり。君も、すこしたをやぎたまへるけしきもてつけたまへり。「いかにぞ、改めてひき変へたらむ時」とぞ、思しつづけらるる。 日さし出づるほどに、やすらひなして、出でたまふ。東の妻戸、おし開けたれば、向ひたる廊の、上もなくあばれたれば、日の脚、ほどなくさし入りて、雪すこし降りたる光に、いとけざやかに見入れらる。 御直衣などたてまつるを見出だして、すこしさし出でて、かたはら臥したまへる頭つき、こぼれ出でたるほど、いとめでたし。「生ひなほりを見出でたらむ時」と思されて、格子引き上げたまへり。 いとほしかりしもの懲りに、 上げも果てたまはで、脇息をおし寄せて、うちかけて、御鬢ぐきのしどけなきをつくろひたまふ。わりなう古めきたる鏡台の、唐櫛笥 女の御装束、「今日は世づきたり」と見ゆるは、ありし筥の心葉 「今年だに、声すこし聞かせたまへかし。 侍たるるものはさし置かれて、御けしきの改まらむなむゆかしき」とのたまへば、 「さへづる春は」 と、からうしてわななかし出でたり。 「さりや。年経ぬるしるしよ」と、うち笑ひたまひて、「夢かとぞ見る」 と、うち誦じて出でたまふを、見送りて添ひ臥したまへり。口おほひの側目より、なほ、かの末摘花、いとにほひやかにさし出でたり。見苦しのわざやと思さる。 |
正月の日々が過ぎて、今年は男踏歌のある年なので、あちこちで遊びののしって練習で、騒がしいのだが、末摘花のような寂しい所があわれに思われたので、七日の節会が終わって夜になり、御前よりさがると、宿直所にそのまま泊まるようなふりをして、夜が更けてから出かけた。
あのさびれていた頃よりは、人がいる気配がして、ようやく世間並になった。君も、少しゆったりした気持ちになった。「どうだろう、改めてすっかり姫君の姿が変わったら」と、思い続けている。 翌朝、日が出る頃、ぐずぐずしてお出になった。東の妻戸が開いていて、向いの渡り廊下の屋根がなく荒れたままなので、日の光が差し込み、雪が少し降ったあとの光で、奥まではっきりと見えた。 姫君が、直衣を着るのを見ようとして、少し前にいざり出ると、横に伏した頭からこぼれた髪が美しい。「すっかり変わって美しくなったら、どれだけうれしいことか」と思われて、格子を上げた。 かわいそうな容貌に懲りたので、格子を全部上げないで、下に脇息を置いて下ろして明り取りとし、髪の乱れをなおした。どうしようもなく古い鏡台や櫛箱や髪結いの道具入れなどを、女房たちが取り出してきた。さすがに男の用具箱が少しはあるのに感心された。 女の装束が、「今日は当世風だな」と見えるのは、あの衣装箱のお心そのままなのであった。源氏はそうとは気付かず、面白い柄の表着が、目に付いた。 「今年こそ、少し声を聞かせてほしい。待たれる鶯はさておき、気持ちがすっかり改まったのだから」と仰るので、 「さえずる春は」 とかろうじて、震える声で言った。 「そうです、ひとつ年をとったのだから」と笑って、「夢を見ているのか」 と言いながら、お帰りになるのを、末摘花は寄り伏して見送った。口を手で覆う様子を横から見ると、なお、あの末摘花、赤い鼻がはっきり見えたのであった。醜いとお思いになる。 2017.8.16/2021.6.15/ 2023.1.12◎ |
6.11 紫の君と鼻を赤く塗って戯れる | |
二条院におはしたれば、紫の君、いともうつくしき片生ひにて、「紅はかうなつかしきもありけり」と見ゆるに、無紋の桜の細長、なよらかに着なして、何心もなくてものしたまふさま、いみじうらうたし。古代の祖母君の御なごりにて、歯黒めもまだしかりけるを、ひきつくろはせたまへれば、
眉のけざやかになりたるも、うつくしうきよらなり。「心から、などか、かう憂き世を見あつかふらむ。かく心苦しきものをも見てゐたらで」と、思しつつ、例の、もろともに雛遊びしたまふ。
絵など描きて、色どりたまふ。よろづにをかしうすさび散らしたまひけり。我も描き添へたまふ。髪いと長き女を描きたまひて、鼻に紅をつけて見たまふに、画に描きても見ま憂きさましたり。わが御影の鏡台にうつれるが、いときよらなるを見たまひて、手づからこの赤鼻を描きつけ、にほはして見たまふに、かくよき顔だに、さてまじれらむは見苦しかるべかりけり。姫君、見て、いみじく笑ひたまふ。 「まろが、かくかたはになりなむ時、いかならむ」とのたまへば、 「うたてこそあらめ」 とて、さもや染みつかむと、あやふく思ひたまへり。そら拭 「さらにこそ、白まね。用なきすさびわざなりや。内裏にいかにのたまはむとすらむ」 と、いとまめやかにのたまふを、いといとほしと思して、寄りて、拭ごひたまへば、 「平中 と、戯れたまふさま、いとをかしき妹背と見えたまへり。 日のいとうららかなるに、いつしかと霞みわたれる梢どもの、心もとなきなかにも、梅はけしきばみ、ほほ笑みわたれる、とりわきて見ゆ。階隠 「紅の花ぞあやなくうとまるる 梅の立ち枝はなつかしけれど いでや」 と、あいなくうちうめかれたまふ。 かかる人びとの末々、いかなりけむ。 |
二条院へもどると、紫の上は幼さがとてもかわいらしく、「同じ紅でもこうも違うものか」と見えるし、無紋の桜の細長をしなやかに着て、無心でいる様子は、すごくかわいらしいと思う。古風な祖母の名残で、お歯黒はしていなかったのを、きちんとさせたのも、眉に黛を引かせたのも、清らかで美しい。「自分から求めて、どうして、思うにまかせぬ男女の仲に苦しむのだろう。こんなに可愛いい人を見ていないで」と思いながら、一緒に雛遊びをした。
絵などを描いて、色をつける。何かと面白く描き散らして遊んでいる。源氏も描き添えてみる。髪の長い女を描いて、鼻に紅をつけて見たが、絵に描いたのを見るのも嫌になる。自分の姿を鏡台に映して、美しい姿が映っているのを見るが、自分で鼻を赤く描いて色をぬって眺めるてみると、このようにいい顔ですら赤い鼻になると、見苦しくなってしまった。姫君はそれを見て、笑い転げた。 「わたしがこんな顔になったとしたら、どうしますか」と仰ると、 「いやです」 と言って、姫君は染み付いたかと心配している。空拭きすると、 「さて、白くならないぞ。つまらないことをしたもんだ。帝にはどう言えばいいだろう」 と、まじめな顔で仰ると、たいへんかわいそうに思って、寄って、拭ってみると、 「平中のように墨の色をつけないで。赤いのは我慢ができる」 と戯れている様は、実に仲のよい兄妹と見えたのである。 日は実にうららかに、待ちわびたように霞にかかる木々の梢に、ようやく梅がふくらみ、いまにもほころびそうであった。階隠 (源氏)「紅の花はどうしても好きになれない 紅梅の枝は好ましいけれど」 どうだろう」 と、どうしょうもなくため息をつくのであった。 このような人びとの行く末は、どうなるのであろうか。 2017.8.17/2021.6.15/ 2023.1.12◎ |
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