源氏物語  3 空蝉 うつせみ

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原文 現代文
3.1 空蝉の物語
寝られたまはぬままには、「我は、かく人に憎まれてもならはぬを、今宵なむ、初めて憂しと世を思ひ知りぬれば、恥づかしくて、ながらふまじうこそ、思ひなりぬれ」などのたまへば、涙をさへこぼして臥したり。いとらうたしと思す。手さぐりの、細く小さきほど、髪のいと長からざりしけはひのさまかよひたるも、思ひなしにやあはれなり。あながちにかかづらひたどり寄らむも人悪ろかるべくまめやかにめざましと思し明かしつつ例のやうにものたまひまつはさず夜深よぶかう出でたまへば、この子は、いといとほしく、さうざうしと思ふ
女も、並々ならずかたはらいたしと思ふに、御消息も絶えてなし。思し懲りにけると思ふにも、「やがてつれなくて止みたまひなましかば憂からまし。しひていとほしき御振る舞ひの絶えざらむもうたてあるべし。よきほどに、かくて閉ぢめてむ」と思ふものから、ただならず、ながめがちなり。
君は、心づきなしと思しながら、かくてはえ止むまじう御心にかかり、人悪ろく思ほしわびて、小君に、「いとつらうも、うれたうもおぼゆるに、しひて思ひ返せど、心にしも従はず苦しきを。さりぬべきをり見て、対面すべくたばかれ」とのたまひわたれば、わづらはしけれど、かかる方にても、のたまひまつはすは、うれしうおぼえけり。
眠れないままに、「わたしは人に憎まれることはめったにないが、今宵は初めてこの世を憂しと思い知り、恥かしくて、生きてゆけないと思った」など仰れば、小君は涙をこぼして臥していた。たいそう可愛らしいと思う。手さぐりで、細く小さいのや髪の長くない様子が、似ているなあと心なしか思う。あえてここでさらに居所を探すのも、外聞がわるいし、実に心外だと思い、いつものようにあれこれと用を言いつけなかった。夜深く、紀伊守の邸をでたので、小君は大変お気の毒に思い、また物足りなくもあった。
女も、とてもお気の毒に思ったが、それから手紙が来なくなった。懲りたのかと思ったが、「だんだん熱が冷めて終わってしまうのもいやだ。強いて困った振舞を続けられるのも嫌だ。このまま時が過ぎて自然に終わりになるのがいい」と思っていて、ただならず物思いにふけるのであった。
源氏は、いまいましい女だと思いながらも、このままでは終われないと意地になり、見かねるほど落ち込んで、小君に「辛いし腹もたつし、強いて忘れようとしても、心がいうことをきかぬ、苦しいのだ。頃合いをみて、逢えるように手はずをとれ」と仰るので、わずらわしかったが、小君はこんなことでも、言いつけられるのはうれしく思った。
2017.02.15/ 2022.12.31◎
3.2 源氏、再度、紀伊守邸へ
幼き心地に、いかならむ折と待ちわたるに、紀伊守国に下りなどして、女どちのどやかなる夕闇の道たどたどしげなる紛れに、わが車にて率てたてまつる。
この子も幼きを、いかならむと思せど、さのみもえ思しのどむまじければ、さりげなき姿にて、門など鎖さぬ先にと、急ぎおはす。
人見ぬ方より引き入れて、降ろしたてまつる。童なれば、宿直人とのゐびとなどもことに見入れ追従ついしょうせず、心やすし。
ひむがし妻戸に、立てたてまつりて、我は南の隅の間より、格子叩きののしりて入りぬ御達ごたち
あらはなり」と言ふなり。
「なぞ、かう暑きに、この格子は下ろされたる」と問へば、
「昼より、西の御方の渡らせたまひて、碁打たせたまふ」と言ふ。
さて向かひゐたらむを見ばや、と思ひて、やをら歩み出でて、すだれのはさまに入りたまひぬ。
この入りつる格子はまだ鎖さねば、、ひま見ゆるに、寄りて西ざまに見通したまへば、この際に立てたる屏風、端の方おし畳まれたるに、紛るべき几帳きちょうなども、暑ければにや、うち掛けて、いとよく見入れらる。
幼い心にも、どうしたらいいかと機会をさぐっていると、紀伊守が国に下り、女たちがのんびりしている頃合いの夕闇にまぎれて、自分の車で源氏をご案内した。
源氏は、この子は幼いので、大丈夫かと思ったが、そうのんびりもできないので、目立たぬ格好で、門を鎖さぬ間に、と急いだ。
人に見られない方から入れて、源氏を降ろした。子供なので、宿直の者も注意することなく、安心だった。
東側の妻戸に源氏の君を立たせ、自分は南側の端から格子戸を叩き大きな声を上げながら入った。女たちは、
「見えてしまうでしょう」と言っている。
「こんなに暑いのにどうして格子戸をおろしているのか」と問うている、
「昼から西の対の方がいらして、碁を打っています」と女房が言う。
それじゃ向き合っている様子を見ようと、源氏は踏み出して簾の隙間に入った。
小君が入った格子戸はまだ閉めていなかったので、隙間から見通せたし、そばの屏風は端の方が畳まれて、几帳なども暑さのせいでまくり上げていたのでよく見えた。
2017.2.17/ 2022.12.31◎
3.3 空蝉と軒端荻、碁を打つ
火近う灯したり。母屋もやの中柱に側める人やわが心かくると、まづ目とどめたまへば、濃き綾の単衣襲ひとえがさねなめり。何にかあらむ表に着て、頭つき細やかに小さき人の、ものげなき姿ぞしたる。顔などは、差し向かひたらむ人などにも、わざと見ゆまじうもてなしたり。手つき痩せ痩せにて、いたうひき隠しためり
いま一人は、東向きにて、残るところなく見ゆ。白きうすもの単衣襲ひとえがさね二藍ふたあい小袿こうちきだつもの、ないがしろに着なして、くれない腰ひき結へる際まで胸あらはに、ばうぞくなるもてなしなり。いと白うをかしげに、つぶつぶと肥えて、そぞろかなる人の、頭つき額つきものあざやかに、まみ口つき、いと愛敬あいぎょうづき、はなやかなる容貌かたちなり。髪はいとふさやかにて、長くはあらねど、下り端、肩のほどきよげに、すべていとねぢけたるところなく、をかしげなる人と見えたり。
むべこそ親の世になくは思ふらめと、をかしく見たまふ。心地ぞ、なほ静かなる気を添へばやと、ふと見ゆる。かどなきにはあるまじ。碁打ち果てて、けちさすわたり、心とげに見えてきはぎはと さうどけば、奥の人はいと静かにのどめて、
「待ちたまへや。そこはにこそあらめ。このわたりの劫をこそ」など言へど、
「いで、このたびは負けにけり。隅のところ、いでいで」と指をかがめて、「とを二十はた三十みそ四十よそ」などかぞふるさま、伊予の湯桁もたどたどしかるまじう見ゆ。すこし品おくれたり。
たとしへなく口おほひて、さやかにも見せねど、目をしつけたまへれば、おのづから側目も見ゆ。目すこし腫れたる心地して、鼻などもあざやかなるところなうねびれて、にほはしきところも見えず。言ひ立つれば、悪ろきによれる容貌をいといたうもてつけて、このまされる人よりは心あらむと、目とどめつべきさましたり。
にぎははしう愛敬づきをかしげなるを、いよいよほこりかにうちとけて、笑ひなどそぼるれば、にほひ多く見えて、さる方にいとをかしき人ざまなり。あはつけしとは思しながら、まめならぬ御心は、これもえ思し放つまじかりけり。
見たまふかぎりの人は、うちとけたる世なく、ひきつくろひ側めたるうはべをのみこそ見たまへ、かくうちとけたる人のありさまかいま見などは、まだしたまはざりつることなれば、何心もなうさやかなるはいとほしながら、久しう見たまはまほしきに、小君出で来る心地すれば、やをら出でたまひぬ。
渡殿わたどのの戸口に寄りゐたまへり。いとかたじけなしと思ひて、
例ならぬ人はべりて、え近うも寄りはべらず」
「さて、今宵もや帰してむとする。いとあさましう、からうこそあべけれ」とのたまへば、
「などてか。あなたに帰りはべりなば、たばかりはべりなむ」と聞こゆ。
さもなびかしつべき気色にこそはあらめ。童なれど、ものの心ばへ、人の気色見つべくしづまれるを」と、思すなりけり。
碁打ち果てつるにやあらむ、うちそよめく心地して、人びとあかるるけはひなどすなり。
「若君はいづくにおはしますならむ。この御格子は鎖してむ」とて、鳴らすなり。
「静まりぬなり。入りて、さらば、たばかれ」とのたまふ。
この子も、いもうとの御心みこころはたわむところなくまめだちたれば、言ひあはせむ方なくて、人少なならむ折に入れたてまつらむと思ふなりけり。
「紀伊守の妹もこなたにあるか。我にかいま見せさせよ」とのたまへど、
「いかでか、さははべらむ。格子には几帳添へてはべり」と聞こゆ。
さかし、されどもをかしく思せど、「見つとは知らせじ、いとほし」と思して、夜更くることの心もとなさをのたまふ。
こたみは妻戸を叩きて入る。皆人びと静まり寝にけり。
「この障子口に、まろは寝たらむ。風吹きとほせ」とて、畳広げて臥す御達ごたち、東の廂にいとあまた寝たるべし。戸放ちつる童もそなたに入りて臥しぬれば、とばかり空寝して、灯明かき方に屏風を広げて、影ほのかなるに、やをら入れたてまつる。
「いかにぞ、をこがましきこともこそ」と思すに、いとつつましけれど、導くままに、母屋の几帳の帷子引き上げて、いとやをら入りたまふとすれど、皆静まれる夜の、御衣おんぞのけはひやはらかなるしも、いとしるかりけり。
近くに灯をともしていた。母屋の中柱に、横を向いているのがお目当ての人だと目を留める、濃い紫の綾のある単衣襲ひとえがさねだ。上に何か羽織っていて、頭はほっそりして小柄で、目立たない容姿である。顔は、向かい合った人にも見えないようにしている。手つきは痩せて、袖をのばして隠している。
相方の女は、東に向いているので、すっかり見えた。白い薄物の単衣襲ひとえがさねに、二藍ふたあい小袿こうちきめいたものを、無造作にひっかけて、紅の袴の紐を結ったところまで胸をあらわにして、だらしない格好である。たいそう色白で、まるまると肥って背が高く、頭つき額つきもはっきりしていて、眉や口つきにも愛嬌があって、派手な容姿をしている。髪はふさふさして、長くはないが、肩のあたりの下がり端も品があり、どこといって欠点のない美しい人であった。
なるほど、親が、世にも稀な娘だと思うのももっともだ、と源氏は思いながら見ている。もう少し落ち着きがあれば、と思う。才がないことはないだろう。碁を打ち終わって「だめ」を詰めるとき、すばやく、陽気に騒いでいるが、奥の女は静かに落ち着いて、
「お待ちください。そこは関ですよ。こちらの劫が先ですよ」などと言っているが、
「いえ、この勝負は負けです。隅のところが、さあ」と指を折って、「十、二十、三十。四十」と数えるさまは、伊予の湯桁もすらすら数えてしまうようだ。少し品がない。
空蝉はしっかり口をおおって、はっきりとは見えないが、目をこらせば、おのずと横顔が見える。目がすこし腫れぼったくて、鼻筋がとおっているわけでなく、老けて見えるし、艶もない。はっきり言えば、器量の悪さをしっかり取りつくろって、容貌に勝る相手よりたしなみが良いと、目をつけられるわけである。
相方の女は、派手に愛嬌をふりまき、ますます陽気にくつろいで、笑いなどもこぼれて、艶やかであり、それなりに美人である。源氏は、浮ついていると思うが、元来気が多いたちなので、この女も手放すわけにはいかないな、と思う。
源氏は思うに、自分の知っている女たちは、うちとけた時がなく、気どった横顔のうわべを見るだけで、このように人がうちとけた様子を覗き見ることなどなかったので、女たちが気づかずにすっかり見られているのは気の毒だが、もっと見ていたかったが、小君が来る気配がしたのでそっと出た。
源氏は渡殿の戸口に寄りかかっていた。恐れ多いと思って、
「普段居ない人がいて、近寄れないのです」
「さて、今宵も帰されるのか。なさけない、こんな辛い気持ちにされるとは」と仰るので
「いえいえ。相方が西の対にお帰りになれば、なんとか」と答える。
「姉を説得したのであろう。子供だが、周囲の空気を読み人の顔色を見るだけの沈着さはある」と 源氏は思う。
碁はどうやら終わったようだ、ざわついて人々が散会する気配などがする。
「小君はどこにいるのかしら。この格子戸を締めなければ」とがらがら鳴らす。
「静かになったぞ。入って何とかせよ」と仰る。
小君も、姉の心はなびきそうになく真面目だから、説得などとてもできそうもないので、人が少なくなったらご案内しようと思っていた。
「紀伊守の妹もこちらにいるのか。わたしに覗き見させよ」と仰せになるが、
「どうしてできましょう。格子戸の内側には几帳があります」と言う。
そうだ、と可笑しく思ったが「見たとは言わないでおこう、可愛そうだ」と思って、夜が更けるのが待ち遠しいなどと仰る。
今度は妻戸を叩いて入れてもらう。皆静かに寝ている。
「この障子口でぼくは寝ます。風が吹き抜けるから」と、小君は薄縁うすべりを広げて横になる。女たちは東の廂の間に大勢寝ている。妻戸を開けてくれた童女もそこに行って寝たので、小君はしばし寝たふりをして、灯の明るい方に屏風をおき、影になるところに、源氏を入れた。
「見っともないことをしているな」と気がひけたが、小君に案内されるまま、母屋の几帳の帷子を上げて、源氏はそっと中に入ったが、皆静まった夜に、自分のやわらかい衣擦れの音がはっきりするのだった。
2017.2.24/2022.12.31◎
3.4 空蝉逃れ、源氏、軒端荻と契る
女は、さこそ忘れたまふをうれしきに思ひなせど、あやしく夢のやうなることを、心に離るる折なきころにて、心とけたるだにられずなむ、昼はながめ、夜は寝覚めがちなれば、春ならぬ木の芽も、いとなく嘆かしきに、碁打ちつる君、「今宵は、こなたに」と、今めかしくうち語らひて、寝にけり。
若き人は、何心なくいとようまどろみたるべし。かかるけはひの、いと香ばしくうち匂ふに、顔をもたげたるに、単衣うち掛けたる几帳の隙間に、暗けれど、うち身じろき寄るけはひ、いとしるしあさましくおぼえて、ともかくも思ひ分かれず、やをら起き出でて、生絹すずしなる単衣を一つ着て、すべり出でにけり。
君は入りたまひて、ただひとり臥したるを心やすく思す。床の下に二人ばかりぞ臥したる。衣を押しやりて寄りたまへるに、ありしけはひよりは、ものものしくおぼゆれど、思ほしうも寄らずかしいぎたなきさまなどぞ、あやしく変はりて、やうやう見あらはしたまひて、あさましく心やましけれど、「人違ひとたがへとたどりて見えむも、をこがましく、あやしと思ふべし、本意ほいの人を尋ね寄らむも、かばかり逃るる心あめれば、かひなう、をこ にこそ思はめ」と思す。かのをかしかりつる灯影ほかげならばいかがはせむに思しなるも、悪ろき御心みこころ浅さなめりかし
やうやう目覚めて、いとおぼえずあさましきに、あきれたる気色にて、何の心深くいとほしき用意もなし世の中をまだ思ひ知らぬほどよりはさればみたる方にて、あえかにも思ひまどはず。我とも知らせじと思ほせど、いかにしてかかることぞと、後に思ひめぐらさむも、わがためには事にあらねどあのつらき人の、あながちに名をつつむも、さすがにいとほしければ、たびたびの御方違へにことつけたまひしさまを、いとよう言ひなしたまふ。たどらむ人は心得つべけれど、まだいと若き心地に、さこそさし過ぎたるやうなれど、えしも思ひ分かず。
憎しとはなけれど、御心とまるべきゆゑもなき心地して、なほかのうれたき人の心をいみじく思す。「いづくにはひ紛れて、かたくなしと思ひゐたらむ。かく執念しふねき人はありがたきものを」と思すしも、あやにくに、紛れがたう思ひ出でられたまふ。この人の、なま心なく、若やかなるけはひもあはれなれば、さすがに情け情けしく契りおかせたまふ。
「人知りたることよりも、かやうなるは、あはれも添ふこととなむ、昔人も言ひける。あひ思ひたまへよ。つつむことなきにしもあらねば、身ながら心にもえまかすまじくなむありける。また、さるべき人びとも許されじかしと、かねて胸いたくなむ。忘れで待ちたまへよ」など、なほなほしく語らひたまふ。
人の思ひはべらむことの恥づかしきになむ、え聞こえさすまじき」とうらもなく言ふ
「なべて、人に知らせばこそあらめ、この小さき上人に伝へて聞こえむ。気色なくもてなしたまへ」
など言ひおきて、かの脱ぎすべしたると見ゆる薄衣を取りて出でたまひぬ。
小君近う臥したるを起こしたまへば、うしろめたう思ひつつ寝ければ、ふとおどろきぬ。戸をやをら押し開くるに、老いたる御達の声にて、
「あれは誰そ」
とおどろおどろしく問ふ。わづらはしくて、
「まろぞ」と答ふ。
「夜中に、こは、なぞ外歩かせたまふ」
さかしがりてざまへ。いと憎くて、
「あらず。ここもとへ出づるぞ」
とて、君を押し出でたてまつるに、暁近き月、隈なくさし出でて、ふと人の影見えければ、
「またおはするは、誰そ」と問ふ。
民部のおもとなめりけしうはあらぬおもとの丈だちかな
と言ふ。丈高き人の常に笑はるるを言ふなりけり。老人、これを連ねて歩きけると思ひて、
今、ただ今立ちならびたまひなむ
と言ふ言ふ、我もこの戸より出でて来。わびしければ、えはた押し返さで、渡殿の口にかい添ひて隠れ立ちたまへれば、このおもとさし寄りて
「おもとは、今宵は、上にやさぶらひたまひつる。一昨日より腹を病みて、いとわりなければ、下にはべりつるを、人少ななりとて召ししかば、昨夜参う上りしかど、なほえ堪ふまじくなむ」
と、憂ふ。答へも聞かで、
「あな、腹々。今聞こえむ」とて過ぎぬるに、からうして出でたまふ。なほかかる歩きは軽々しくあやしかりけりと、いよいよ思し懲りぬべし。
空蝉は、手紙が途切れて忘れられていくのをうれしく思うが、不思議な夢のようなあの夜のことは、心から離れたことがなく、ゆっくり寝られず、昼はぼんやりし、夜は寝覚めがちで、歌にある目の休まるときがなく、ため息ばかりつくので、碁を打った君が「今宵はこちらで寝ます」と、今風のお喋りして、寝てしまった。
若い軒端荻は、ぐっすり眠ってしまった。人の気配がして、香ばしい匂いに、顔をあげて見ると、単衣をかけた几帳の隙間に、暗いけれど、身じろいで寄ってくる気配がはっきりする。空蝉は驚いて、わけが分からぬまま、静かに起き上がって、生絹の単衣をひとつ着て、そっと抜け出した。
源氏は中に入ったが、ひとりで寝ているので安心だと思った。床の下に女房が二人ばかり寝ていた。衣を押しやって寄っていくと、あの時より大柄に感じたが、人違いとは思いもしない。ぐっすり寝込んでいる様子など、なにか違うと感じ、ようやく正体が分かると、驚きまた不快に感じたが、「人違いとやっと気づいたと思われるのも、物笑いになるだろうし、お目当ての人を尋ねあてても、このように逃げられては、ふがいのない男と思われるだろう」と思う。あの灯影にかいま見た美しい娘なら、仕方ないと思ったのも、源氏の感心しない軽薄さだろう。
軒端荻はようやく目覚めて、突然のことに驚き、呆然としたが、男心をそそる奥ゆかしい所作はない。男をまだ知らぬにしては、ませていて、初々しくうろたえるでもない。源氏の名を明かさないと思っていたが、どうしてこうなったか、と女が後で思いめぐらすとき、自分は心配ないが、あのつれない空蝉が、世間に名が出るのをひどく気にするから、さすがに可愛そうなので、たびたびの方違えにかこつけてお前に会いに来たのだ、などと言いくるめる。思慮深い女なら、嘘が分かるだろうが、まだ若いので、ませていても、理解できなかったようだ。 
女が可愛くないわけではなかったが、惹かれるところもなく、あの腹立たしい空蝉をひどいと思う。「どこに隠れて、わたしを馬鹿な男と思っているだろう。こんな強情な女はめったにいない」と思うものの、なおいっそう忘れ難い。軒端荻の無邪気な若さも魅力があるので、さすがにたいそう情をこめて契った。
「人に知られた仲よりも、このような密会は、あわれをさそうと昔の人も言っています。あなたもわたしを思ってください。わたしも身を慎まねばならぬ立場なので、わが身ながら思うままには振舞えないのです。また後見の親兄弟も許さないでしょう、胸が痛みます。忘れず待っていなさい」などと月並みに語った。
「人がなんと思うでしょうか、恥かしくて、お手紙も出せません」と素直に言う。
「人に知られるからでしょう、この小さい上人に託して文を届けてください。何気なく振舞ってください」
などと言いおいて、空蝉の脱ぎ残していった薄衣を取って、出ていった。
手前に寝ている小君をゆすると、首尾を心配しながら寝ていたので、驚いてすぐ起きた。戸口を押し開けると、老いたる女房の声で、
「そこにいるのは誰です」
と大きな声で問う。面倒なので、
「ぼくです」と答える。
「夜中に、なんで外歩きをするのですか」
とおせっかいにも、外へ出てくる。憎らしくて、
「何でもない、ちょっとそこへ出るだけだ」
と言って、源氏を押し出したが、暁近くの月がこうこうと出ていて、ふと人影が見えたので、
「もう一人おられるのはどなたかな」と問う。
「ああ、民部のおもとだな。なかなかの背丈だから」
と言う。背の高い人はいつもからかわれるのを言ったのだ。老女房は、小君がこのおもとと連れ立って歩いているのだと思って、
「今に小君も同じくらいの背丈になりましょう」
と言いながら、自分も戸口から出てきた。困ったが押し戻すわけにもいかず、渡戸の戸口にそって源氏が隠れて立っていたので、寄って来ると、
「あなたは今宵は上でお勤めか。わしは一昨日より腹を病んで、どうしようもないので、下にいたのだが、人が少ないので召されて、昨夜参上したのだが、なお堪えられない」
と嘆く。答えも聞かず、
「ああ、腹が痛い、またあとで話します」と行ったので、やっと出られた。このような忍び歩きは軽率で危ない、もう懲りたと思っただろう。
2017.2.25 / 2022.12.31◎
3.5 源氏、空蝉の脱ぎ捨てた衣を持って帰る 
小君、御車みくるましりにて二条院おはしましぬ。ありさまのたまひて、「幼かりけり」とあはめたまひて、かの人の心を爪弾きをしつつ恨みたまふ。いとほしうてものもえ聞こえず
「いと深う憎みたまふべかめれば、身も憂く思ひ果てぬ。などか、よそにても、なつかしき答へばかりはしたまふまじき。伊予介に劣りける身こそ
など、心づきなしと思ひてのたまふ。ありつる小袿こうちきを、さすがに、御衣おんぞの下に引き入れて、大殿籠もれり。小君を御前に臥せて、よろづに恨み、かつは、語らひたまふ。
「あこは、らうたけれど、つらきゆかりにこそえ思ひ果つまじけれ
まめやかにのたまふを、いとわびしと思ひたり。
しばしうち休みたまへど、寝られたまはず。御硯急ぎ召して、さしはへたる御文にはあらで、畳紙たたうがみに手習のやうに書きすさびたまふ。
空蝉の身をかへてけるのもとに
なほ人がらのなつかしきかな

と書きたまへるを、懐に引き入れて持たりかの人もいかに思ふらむと、いとほしけれど、かたがた思ほしかへして、御ことつけもなし。かの薄衣は、小袿のいとなつかしき人香に染めるを、身近くならして見ゐたまへり。
小君、かしこに行きたれば、姉君待ちつけて、いみじくのたまふ。
あさましかりしにとかう紛らはしても人の思ひけむことさりどころなきに、いとなむわりなき。いとかう心幼きを、かつはいかに思ほすらむ」
とて、恥づかしめたまふ左右ひだりみぎに苦しう思へど、かの御手習取り出でたり。さすがに、取りて見たまふ。かのもぬけを、いかに、伊勢をの海人のしほなれてや、など思ふもただならず、いとよろづに乱れて。
西の君も、もの恥づかしき心地してわたりたまひにけり。また知る人もなきことなれば、人知れずうちながめてゐたり。小君の渡り歩くにつけても、胸のみ塞がれど、御消息もなし。あさましと思ひ得る方もなくて、されたる心に、ものあはれなるべし。
つれなき人も、さこそしづむれいとあさはかにもあらぬ御気色を、ありしながらのわが身ならばと、取り返すものならねど、忍びがたければ、この御畳紙の片つ方に、
空蝉の羽に置く露の木隠れて
忍び忍びに濡るる袖かな」
小君は、牛車の後ろに乗って、二条院に着いた。源氏は、昨夜のなりゆきを説明し、「幼稚だったな」と責め、空蝉を爪はじきして恨んだ。小君は源氏が気の毒で慰めの言葉もでない。
「君の姉さんは私を嫌っているので、自分が厭になった。どうして、逢ってはくれないまでも、優しい文のひとつくらい書けるだろうに。わたしは伊予の介に劣っているのか」
などと、不快な気持ちで仰せになる。残った小袿を、衣の下に入れてお休みになった。小君をそばに寝かせ、あれこれと恨み言をいい、かつ語るのだった。
「お前は、可愛いけれど、つれない人の縁者、長くは続かないだろう」
とまじめな顔で言われて、小君はひどくわびしくなった。
しばし横になっていたが寝られない。急いで硯箱を取り出して、改まった手紙ではなく、懐紙に手習いのように書き流した。
(源氏)「蝉が脱皮して木の下に
残した脱け殻をなつかしんでいる」
と書いたのを、小君は懐に入れて持った。軒端荻がどう思っているか、可愛そうであったが、あれこれ考えて、言付けもしない。あの薄衣は、小袿でなつかしい人の香が染みているので、身近においていつも見ていた。
小君が家に帰ったら、姉君が待ち構えていて、たいそうひどく叱った。
「あまりの事だったので、何とか逃げましたが、世間の目は避けられないので、ほんとに困ります。まだほんの子供なのに、何と思っているのか」
と恥かしい思いをさせる。小君はどちらからも責められて、苦しく思い、あの手習いを取り出す。空蝉はさすがに手に取って読んだ。脱ぎおいた衣、海女の潮じみていなかったかなど、ひどく気にしている。
軒端荻も、恥ずかしい気がして、自室に戻ってしまった。あの夜のことを知っている人もいないので、ひとりぼんやりしている。小君が渡り歩くにも、胸塞がれる思いだが、文がない。それが変だ、と思い付くこともなく、陽気な女がもの寂しくしている。
空蝉も、気持ちを静めて、源氏の浅からぬ気持ちを、結婚前の身ならばと思い、取り返すことはできないが、堪えきれぬ思いを、その畳紙の隅に書く、
(空蝉)「空蝉の羽根に置く霜が木の間隠れに見えないように 
人目を忍んで泣いて袖を濡らしています」 
2017.2.28 ○ 2021.5.26/ 2022.12.31◎

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読書期間2017年2月15日 - 2017年2月28日