源氏物語  2 帚木 ははきぎ

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原文 現代文
2.1 長雨の時節
光る源氏、名のみことことしう言ひたれたまふとが多かなるに、いとど、 かかる好きごとどもを、末の世にも聞き伝へて、軽びたる名をや流さむと、忍びたまひけるかくろへごとをさへ、語り伝へけむ人のもの言ひさがなさよ。さるは、いといたく世を憚り、 まめだちたまひけるほどなよびかに をかしきことはなくて、交野かたの少将には笑はれたまひけむかし。
まだ中将などにものしたまひし時は内裏うちにのみさぶらひようしたまひて、大殿には絶え絶えまかでたまふ。忍ぶの乱れやと、疑ひきこゆることもありしかど、さしもあだめき目馴れたる うちつけの好き好きしさなどは好ましからぬ御本性にて、まれには、あながちに引き違へ 心尽くしなることを、御心に思しとどむる癖なむ、あやにくにてさるまじき御振る舞ひもうち混じりける。
光る源氏などと、たいそうな名で呼ばれているが、口に出せない失敗も多く、さらにこのような色恋沙汰が後世に伝えられ、好色な男の評判がたつのをおそれて、ひそかに隠していたことなども、世間に語り伝えられるなんて、人はなんとお喋りなのだろう。とはいうものの、源氏の君は世間をはばかり、まじめだったから、色めいておもしろい話などなくて、交野の少将には及びませんよ。
源氏の君がまだ中将の頃は、内裏にばかりいて、左大臣邸の葵の上の処にはほとんど戻らなかった。さてはほかにいいひとがいるのではないか、と疑われることもあったが、見なれた色恋沙汰やみえすいたことは好まぬ性分で、稀には、あえて本性と違って、気苦労の多いことを好む癖があるようで、憎らしいことに、あるまじきお振舞も時になされるのであった。
2022.12.24◎
2.2 宮中の宿直所、光る源氏と頭中将
長雨晴れ間なきころ、内裏の物忌ものいみさし続きて、いとど長居さぶらひたまふを、大殿にはおぼつかなく恨めしく思したれど、よろづの御よそひ何くれとめづらしきさまに調じ出でたまひつつ、御息子の君たちただこの御宿直所の宮仕へを勤めたまふ。
宮腹の中将は、なかに親しく馴れきこえたまひて、遊び戯れをも人よりは心安く、なれなれしく振る舞ひたり。右大臣のいたはりかしづきたまふ住み処は、この君もいともの憂くして、好きがましきあだ人なり。
里にても、わが方のしつらひまばゆくして、君の出で入りしたまふにうち連れきこえたまひつつ、夜昼、学問をも遊びをももろともにして、をさをさ立ちおくれず、いづくにてもまつはれきこえたまふほどに、おのづからかしこまりもえおかず、心のうちに思ふことをも隠しあへずなむ、むつれきこえたまひける。
つれづれと降り暮らして、しめやかなる宵の雨に、殿上にもをさをさ人少なに、御宿直所も例よりはのどやかなる心地するに、大殿油おほとなあぶら近くてふみどもなど見たまふ。近き御厨子なる色々の紙なる文どもを引き出でて、中将わりなくゆかしがれば
さりぬべき、すこしは見せむ。かたはなるべきもこそ
と、許したまはねば、
「そのうちとけて かたはらいたしと思されむこそゆかしけれ。おしなべたるおほかたのは、 数ならねど、程々につけて、書き交はしつつも見はべりなむ。おのがじし、恨めしき折々、待ち顔ならむ夕暮れなどのこそ、見所はあらめ」
と怨ずれば、やむごとなくせちに隠したまふべきなどは、かやうにおほぞうなる御厨子などにうち置き散らしたまふべくもあらず、深くとり置きたまふべかめれば、 二の町の心安きなるべし。片端づつ見るに、「かくさまざまなる物どもこそはべりけれ」とて、心あてに「それか、かれか」など問ふなかに、言ひ当つるもあり、もて離れたることをも思ひ寄せて疑ふも、をかしと思せど、言少なにてとかく紛らはしつつ、とり隠したまひつ。
そこにこそ多く集へたまふらめ。すこし見ばや。さてなむ、この厨子も心よく開くべき」とのたまへば、
「御覧じ所あらむこそ、かたくはべらめ」など聞こえたまふついでに、「女の、これは しもなんつくまじきは、かたくもあるかなと、やうやうなむ 見たまへ知る。ただうはべばかりの情けに、手走り書き、をりふしの答へ心得て、うちしなどばかりは、 随分によろしきも多かりと見たまふれど、そもまことにその方を取り出でむ選びにかならず漏るまじきは、いと難しや。わが心得たることばかりを、おのがじし 心をやりて、人をば落としめなど、かたはらいたきこと多かり。
親など立ち添ひもてあがめて、生ひ先籠れる窓の内なるほどは、ただ 片かどを聞き伝へて、心を動かすこともあめり。容貌をかしくうちおほどき、若やかにて紛るることなきほど、はかなきすさびをも、人まねに心を入るることもあるに、おのづから一つゆゑづけてし出づることもあり。
見る人、後れたる方をば言ひ隠し、さて ありぬべき方をばつくろひてまねび出だすに、『それ、しかあらじ』と、そらにいかがは推し量り思ひくたさむ。まことかと見もてゆくに、見劣りせぬやうは、なくなむあるべき」
と、うめきたる気色も恥づかしげなれば、いとなべてはあらねど、われ思し合はすることやあらむ、うちほほ笑みて、
「その、片かどもなき人は、あらむや」とのたまへば、
「いと、さばかりならむあたりには、誰れかはすかされ寄りはべらむ。取るかたなく口惜しき際と、優なりとおぼゆばかりすぐれたるとは、数等しくこそはべらめ。人の品高く生まれぬれば、人にもてかしづかれて、隠るること多く、自然にそのけはひこよなかるべし。中の品になむ、人の心々、おのがじしの立てたるおもむきも見えて、分かるべきことかたがた多かるべき。下のきざみといふ際になれば、ことに耳たたずかし
とて、いと隈なげなる気色なるも、ゆかしくて
「その品々や、いかに。いづれを三つの品に置きてか分くべき。元の品高く生まれながら、身は沈み、位みじかくて人げなき。また直人なほびと上達部かむだちめなどまでなり上り我は顔にて家の内を飾り、人に劣らじと思へる。そのけぢめをば、いかが分くべき」
と問ひたまふほどに、左馬頭ひだりのむまのかみ藤式部丞とうしきぶのじょう、御物忌に籠もらむとて参れり。世の好き者にて物よく言ひとほれるを、中将待ちとりて、この品々をわきまへ定め争ふ。いと聞きにくきこと多かり。
晴れ間がなく長雨が続いていた頃、帝の物忌みが続いて長居の務めしていたとき、源氏は左大臣邸にはあまり帰らず恨みがましく思われていたが、装束の類は何くれとなく珍しいものを調達してくれており、子息たちは源氏の宿直所で相手役を勤めていた。
帝の妹君腹の中将は、源氏の君にとりわけ親しくて、遊び戯れも心安く、馴れなれしく振る舞っていた。右大臣の邸では丁重に遇されていたが、中将もあまり邸には帰っておらず、色好みの好き者であった。
中将の里でも、自分の部屋は豪華にしつらえ、源氏の君の出入りのつど一緒に連なって、昼となく夜となく、学問のときも遊びのときもいつも行動をともにし、少しもひけをとらず、どこへ行くにも一緒なので、自ずから遠慮もなくなり、互いに思うことも隠し立てせず、仲むつまじかった。
一日中しめやかに雨が降っていた宵になって、殿上にも人が少なくなって、宿直所ものんびりした気分がただよい、源氏は灯火をつけて書を読んでいた。逗子から色々な文を取り出して、中将がしきりに見たがるので、
「差し支えないものは、少し見せてよい。見苦しいのもあるだろうから」
と許可したので、
「読まれて恥ずかしい、と思うのこそいいのです。世間並みのものは、わたしのような者でも、文を交換しているから見ている。それぞれが恨みがましかったり、来るのを心待ちにしている夕暮れの頃などの文こそ見たいものだ。」
としつこく頼むので、特に隠しておくべきものは、このような不用心な逗子に置くべくもなく、奥に隠しているので、二流どころのものを見せた。その一部をそれぞれえ見て中将は、「いろいろなものがあるのだなあ」と感じ入って、当てずっぽうに「これはあれか、かれか」など聞くのだが、言い当てるのもあるし、全然違う人をそうではないかと疑ったりして面白かったが、源氏は言葉少なにはぐらかして、手紙を仕舞ってしまった。
「君こそ多くの文を集めただろう。少し見たい。そうすればこの逗子をもっと開いて見せよう」と源氏が言えば、
「お見せできる文など、ないですよ」と中将が言いながら、「これぞと思える、欠点のない女など、なかなかいないものだ、とようやく知りました。ただうわべだけの風情で走り書きしたり、その時々の応答を心得ているのは、身分によっては多いと思うが、本当にその方面の技量を取り出して選ぶとすれば、必ず選に入るとは言い難いものばかりだ。自分の得意なことを、勝手に自慢して、人を見下すなど、笑止千万な女が多いのだ。
親などが付き添い、大切にかしずき、先がある深窓の令嬢などは、ただひとつの才芸だけを伝え聞いて、心を動かすことはある。容貌もよく、性格もおおらかで、若々しく、雑事に紛らわらされない頃は、芸事なども人をまねて一心にやれば、おのずから一芸をものにすることもある。
周りの人たちが、劣った面を隠して言わず、ものになりそうな面をつくろって言い出せば、『そうでもあるまい』と、見ないままで当て推量には決められないものだ。本当だろうかと付き合ってみると、思ったほどでもないのだ」
と中将は嘆息したが、その様子が大したものに見えたので、源氏はすべてではないが、思い当たることもあったので、苦笑して、
「そんな、まったく才芸がない女なんているのか」と、言えば、
「いや、そんなひどい女の処には、誰がだまされて行くものか。取柄がなくつまらない女と、衆に秀でた優れた女と、数からいえば等しく、どちらも稀だ。身分が高く生まれれば、人にもかしずかれ、欠点も隠れることが多く、自然にその人の気配は良いものになろう。中流の人は、人それぞれの趣が見えて個性もはっきりして、他との違いもそれぞれに多いのである。下流の身分の女になると、言わずもがな、聞くまでもない」
と、何でもよく知っている様子なので、もっと聞いてみたくて、
「その品格は、どうか。どのよう三つの品に分けるのか。元の身分は高く生まれても、今は零落し、位も低く、人並みの生活ができていないのと、普通の人が上達部まで昇りつめ、自信に満ちて家のなかを飾り、人に負けないと思っている。その境はどう分けていくべきか」
と問うていると、左馬頭ひだりのむまのかみ藤式部丞とうしきぶのじょうが御物忌に籠るために参内してきた。世に知れた好き者で、弁が立つので、中将はさっそく、この品定めの論争を仕掛けた。お聞き苦しいことも多いです。
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2.3 左馬頭、藤式部丞ら女性談義に加わる
「なり上れども、もとよりさるべき筋ならぬは、世人の思へることも、さは言へどなほことなり。また、元はやむごとなき筋なれど、世に経るたづき少なく、 時世に移ろひておぼえ衰へぬれば、心は心として こと足らず悪ろびたることども出でくるわざなめれば、とりどりにことわりて、中の品にぞ置くべき。
受領ずりょうと言ひて、人の国のことにかかづらひ営みて、品定まりたる中にも、またきざみきざみありて、中の品のけしうはあらぬ、選り出でつべきころほひなり。なまなまの上達部よりも非参議の四位どもの、世のおぼえ口惜しからず、もとの根ざし卑しからぬ、やすらかに身をもてなしふるまひたる、いとかはらかなりや。
家の内に足らぬことなど、はたなかめるままに、省かずまばゆきまでもてかしづける女などの、おとしめがたく生ひ出づるもあまたあるべし。宮仕へに出で立ちて、思ひかけぬ幸ひとり出づる例ども多かりかし」など言へば、
「すべて、にぎははしきによるべきななり」とて、笑ひたまふを、
異人ことびとの言はむやうに、心得ず仰せらる」と、中将 憎む
「元の品、時世のおぼえうち合ひ、やむごとなきあたりの内々のもてなしけはひ後れたらむは、さらにも言はず、 何をしてかくひ出でけむと、言ふかひなくおぼゆべし。うち合ひてすぐれたらむもことわり、これこそはさるべきこととおぼえて、めづらかなることと心も驚くまじ。 なにがしが及ぶべきほどならねば、上が上はうちおきはべりぬ。
さて、世にありと人に知られず、さびしくあばれたらむ葎の門に、思ひの外にらうたげならむ人の閉ぢられたらむこそ、限りなくめづらしくはおぼえめ。いかで、はたかかりけむと、思ふより違へることなむ、あやしく心とまるわざなる。
父の年老い、ものむつかしげに太りすぎ、兄の顔憎げに、 思ひやりことなることなき閨の内に、いといたく思ひあがりはかなくし出でたることわざもゆゑなからず見えたらむ、片かどにても、いかが思ひの外にをかしからざらむ。
すぐれて疵なき方の選びにこそ及ばざらめ、さる方にて捨てがたきものをは」
とて、式部を見やれば、わが妹どものよろしき聞こえあるを思ひてのたまふにや、とや心得らむ、ものも言はず。
「いでや、上の品と思ふにだに難げなる世を」と、君は思すべし。白き御衣どものなよらかなるに、直衣ばかりをしどけなく着なしたまひて、紐などもうち捨てて、添ひ臥したまへる御火影、いとめでたく、女にて見たてまつらまほし。この御ためには上が上を選り出でても、なほ飽くまじく見えたまふ。
さまざまの人の上どもを語り合はせつつ、
おほかたの世につけて見るには咎なきも、わがものとうち頼むべきを選らむに、多かる中にも、えなむ思ひ定むまじかりける。男の朝廷に仕うまつり、はかばかしき世のかためとなるべきも、まことの器ものとなるべきを取り出ださむには、かたかるべしかし。されど、賢しとても、一人二人世の中をまつりごちしるべきならねば、上は下に輔けられ、下は上になびきて、こと広きに譲ろふらむ。
狭き家の内の主人とすべき人一人を思ひめぐらすに、足らはで悪しかるべき大事どもなむ、かたがた多かる。とあればかかり、あふさきるさにてなのめにさてもありぬべき人の少なきを、好き好きしき心のすさびにて、人のありさまをあまた見合はせむの好みならねど、ひとへに思ひ定むべきよるべとすばかりに同じくはわが力入りをし直しひきつくろふべき所なく、心にかなふやうにもやと、選りそめつる人の、定まりがたきなるべし。
かならずしもわが思ふにかなはねど、見そめつる契りばかりを捨てがたく思ひとまる人はものまめやかなりと見え、さて、保たるる女のためも、心にくく推し量らるるなり。されど、 何か世のありさまを見たまへ集むるままに、心に及ばずいとゆかしきこともなしや。君達の上なき御選びには、まして、いかばかりの人かは足らひたまはむ
容貌かたちきたなげなく、若やかなるほどの、おのがじしは塵もつかじと身をもてなし、文を書けど、 おほどかに言選りをし、墨つきほのかに心もとなく思はせつつ、またさやかにも見てしがなとすべなく待たせ、わづかなる声聞くばかり言ひ寄れど、息の下にひき入れ言少ななるが、いとよくもて隠すなりけり。なよびかに女しと見れば、あまり情けにひきこめられて、とりなせば、あだめく。これをはじめの難とすべし。
事が中になのめなるまじき人の後見の方は、 もののあはれ知り過ぐしはかなきついでの情けあり、をかしきに進める方なくてもよかるべしと見えたるに、また、まめまめしき筋を立てて耳はさみがちに美さうなき家刀自いえとうじの、ひとへにうちとけたる後見ばかりをして。
朝夕の出で入りにつけても、公私の人のたたずまひ、善き悪しきことの、目にも耳にもとまるありさまを、疎き人に、わざとうちまねばむやは近くて見む人の聞きわき思ひ知るべからむに語りも合はせばやと、うちも笑まれ、涙もさしぐみ、もしは、あやなきおほやけ腹立たしく心ひとつに思ひあまることなど多かるを、何にかは聞かせむと思へば、うちそむかれて、人知れぬ思ひ出で笑ひもせられ、『あはれ』とも、うち独りごたるるに、『何ごとぞ』など、あはつかにさし仰ぎゐたらむは、いかがは口惜しからぬ。
ただひたふるに子めきて柔らかならむ人を、とかくひきつくろひてはなどか見ざらむ。心もとなくとも、直し所ある心地すべし。げに、さし向ひて見むほどは、さても らうたき方に罪ゆるし 見るべきを、立ち離れてさるべきことをも言ひやり、をりふしにし出でむわざのあだ事にもまめ事にも、わが心と思ひ得ることなく深きいたりなからむは、いと口惜しく頼もしげなき咎や、なほ苦しからむ。常はすこしくそばそばしく 心づきなき人の、をりふしにつけて出でばえするやうもありかし」
など、隈なきもの言ひも、定めかねていたくうち嘆く。
「成り上がりは、元からの高貴な家柄ではないので、世間の人も違った目で見るものです。また、元は高貴な家柄でも、世を渡る手段が少なく、時勢に流されて、世間の評判も落ち、気位は高くとも、経済力が足りず、都合の悪いことも出てくるもので、どちらも中流とすべきでしょう。
受領といって、地方の国主のなかに、他人の国を治めながらも、中流の地位を占め、そのなかにもさらに段階があり、その中からそこそこの者が出てくる時世ではある。並みの上達部より、非参議で四位くらいで、世間の評判もよく、元の家柄も卑しからず、余裕をもって暮らしているのは、感じのいいものですね。
家の内に足らぬものなく、その勢いで、惜しみなく金をかけて育てている娘などの、けちのつけようもなく育っている者もたくさんいるでしょう。宮仕えに出て、思いもかけぬ幸運をつかむ例も多いですよ」などと左馬頭が言えば、
「すべて金次第ということだね」と源氏が笑いながら言うと、
「まさか、あなたらしくもないお言葉ですね」と中将が返す。
「元の家柄と世間の評判が揃っていて、高貴な出でありながら、内々の躾や作法に至らぬところがあるのは、論外として、どうしてこんな娘に育ってしまったのか、がっかりします。家柄も世間の評判もともに良くて、すぐれたひとが育つのは当然で、何も珍しいことではない。わたしごときが及ばぬ身分のことゆえ、上の上の品のことはさておきます。
さて、世間に知られることなく、さびしく茂った葎の門に、思いがけず美しいひとがこもっているのは、この上なく珍しいことと思われます。どうにしてこのようなことが生じたか、意外に思われるのが、あやしく心にとまります。
年老いた父親は、不様に太り、兄の顔も憎らしげで、思うに格別のものもない深窓に、たいへん気位が高く、それとなく見せる才芸にも風情があり、その芸がささやかなものであっても、思いのほか興味がひかれます。
まったく欠点のないひとには及ばないが、このような方にも捨てがたいものがある」
と言って左馬頭が式部の方を見れば、自分の妹が評判のいいのを知って言っているのかと思ったのか、ものも言わない。
「さあどうだろう、上流だってすぐれた女はめったにいない」と、源氏は思っただろう。白い下着の衣のなめらかで、直衣だけをしどけなく着て、紐も捨てて、もたれかかっている灯火の影は、たいへんめでたく、女として見たかったと思わせます。この方なら、上の上の女を選んでも、なお飽き足らないようにお見受けする。
様々な人のことを左馬頭は、語り比べながら、
「普通に付き合うには欠点も気にならないが、自分の妻として頼むに足る人を選ぶとすれば、たくさんいる中でもなかなか決められないものです。男が宮仕えする場合にも、どうどうと天下の要となる、まことの人材を選ぶのは難しいものです。しかし、賢いと言っても、一人や二人の力では世の中を治められないので、上の者は下に助けられ、下の者は上に服して、広い分野で融通がつくものです。
それに対して、狭い家のなかの主婦たるべき人は一人しかいないので、足らない処があっては困る大事が多いのです。これは有るがあれは無い、と揃っていないものですが、十分ではなくとも、これならばというひとは少ないので、好き好きしくあれこれの女に会うわけではないのだが、このひとならとただ一筋に思い定め、どうせなら、自分が努力して直すこともなく、心に適うひとを選びたいと思うので、なかなか決まらないのです。
かならずしも思い通りではないが、見初めた妻を捨てず思いとどまるひとは、実直な人に見られ、また、長く連れ添う妻も、奥ゆかしいと思われる。けれども、さあどうでしょうか、世間の様子を見て集めてみれば、とても立派だったり、奥ゆかしかったりしてませんね。宮さまがたのような上級の人たちは、どんな女がご満足なのでしょう。
容貌もまあまあで、若く、互いが塵もつかない所作をし、文を書けば、あたりさわりのない言葉を選び、墨つきもかすれて男の気を持たせ、もっとはっきり見たいと男に思わせるほどに待たせ、やっと声が聞こえるほどに近づけるようになっても、か細い声で言葉少なく、欠点を隠そうとする。上品で女らしいと思っても、風情にかくされていて、そのように遇すると、色っぽいしぐさをする。これを初めの難とすべきです。
家事のなかで、おろそかにできない夫の世話という面では、物のあわれをよく知り、折にふれて歌もよくするなど、風雅の道を心得なくてもよいと思えるが、一方、まめまめしく家事をやり髪を耳はさみなどして飾り気もなく、主婦がいつも所帯じみているのもどうか。
朝夕の出勤帰宅の時の、人々の装束などにしても、善いこと悪いことを見たり聞いたりしても、それに関心のない女に、どうして話せるだろうか。自分をよく知る妻なら聞いて理解し、互いに語り合ったり、一緒に笑い、涙し、あるいは、筋の通らない公事に怒ったりできるし、心ひとつに思い余ることも多いのに、こんな女に話して何になろうと思ってしまえば、ついそっぽを向いて、ひとりで思いだし笑いもし、『あわれ』と独り言も言い、『どうされたのですか』と間の抜けた顔で妻に言われると、なんと口惜しいことだろうか。
ただ子供っぽくて素直なひとを、なんとか仕付けしなおして妻とするのがよいようです。頼りなくても、直し甲斐いがあります。実際、差し向いで暮らしていれば、可愛いということで欠点も許せるが、離れていてなすべき事を伝え、折にふれ出てくる用事も、趣味的なことであれ実用的なことであれ、その気にならず深く考えないのは、たいへん口惜しく、頼りにならないのはやはり困ったことです。普段は少し角があって気に入らないと思う人でも、折にふれて見栄えがいいのも良いです」
など、何事にも通じている左馬頭ひだりうまのすけも、決めかねて嘆いている。
2022.12.24◎
2.4 女性論、左馬頭の結論
「今は、ただ、しなにもよらじ。容貌かたちをばさらにも言はじ。いと口惜しくねぢけがましきおぼえだになくは、ただひとへにものまめやかに、静かなる心のおもむきならむよるべをぞ、つひの頼み所には思ひおくべかりける。あまりのゆゑよし心ばせうち添へたらむをば、よろこびに思ひ、すこし後れたる方あらむをも、あながちに求め加へじ。うしろやすくのどけき所だに強くは、うはべの情けは、おのづからもてつけつべきわざをや。
艶にもの恥ぢして、恨み言ふべきことをも見知らぬさまに忍びて、上はつれなくみさをづくり、心一つに思ひあまる時は、言はむかたなくすごき言の葉、あはれなる歌を詠みおき、しのばるべき形見をとどめて、深き山里、世離れたる海づらなどにはひ隠れぬるをり
童にはべりし時、女房などの物語読みしを聞きて、いとあはれに悲しく、心深きことかなと、涙をさへなむ落としはべりし。今思ふには、いと軽々しく、 ことさらびたることなり。心ざし深からむ男をおきて、見る目の前につらきことありとも、人の心を見知らぬやうに逃げ隠れて、人をまどはし、心を見むとするほどに、 長き世のもの思ひになる、いとあぢきなきことなり。『心深しや』など、ほめたてられて、あはれ進みぬれば、やがて尼になりぬかし。思ひ立つほどは、いと心澄めるやうにて、世に返り見すべくも思へらず。『いで、あな悲し。かくはた思しなりにけるよ』などやうに、あひ知れる人来とぶらひ、 ひたすらに憂しとも思ひ離れぬ男、聞きつけて涙落とせば、使ふ人、古御達など、『君の御心は、あはれなりけるものを。 あたら御身を』など言ふ。みづから額髪ひたいがみをかきさぐりて、あへなく心細ければ、うちひそみぬかし。忍ぶれど涙こぼれそめぬれば、折々ごとにえ念じえず、悔しきこと多かめるに、仏もなかなか心ぎたなしと、見たまひつべし。//濁りにしめるほどよりも、なま浮かびにては、かへりて悪しき道にも漂ひぬべくぞおぼゆる。絶えぬ宿世浅からで尼にもなさで尋ね取りたらむも、やがてあひ添ひて、とあらむ折もかからむきざみをも、見過ぐしたらむ仲こそ、契り深くあはれならめ、我も人も、うしろめたく心おかれじやは。
また、なのめに 移ろふ方あらむ人を恨みて、気色ばみ背かむ、はたをこがましかりなむ。心は移ろふ方ありとも、見そめし心ざしいとほしく思はば、さる方のよすがに思ひてもありぬべきに、さやうならむたぢろきに、絶えぬべきわざなり
すべて、よろづのことなだらかに、怨ずべきことをば見知れるさまにほのめかし、恨むべからむふしをも憎からずかすめなさば、それにつけて、あはれもまさりぬべし。多くは、わが心も見る人からをさまりもすべし。あまりむげにうちゆるべ見放ちたるも、心安くらうたきやうなれど、おのづから軽き方にぞおぼえはべるかし。繋がぬ舟の浮きたる例もげにあやなし。さははべらぬか」
と言へば、中将うなづく。
「さしあたりて、をかしともあはれとも心に入らむ人の、頼もしげなき疑ひあらむこそ、大事なるべけれ。 わが心あやまちなくて見過ぐさばさし直してもなどか見ざらむとおぼえたれど、それさしもあらじ。ともかくも、違ふべきふしあらむを、のどやかに見忍ばむよりほかに、ますことあるまじかりけり」
と言ひて、わが妹の姫君は、この定めにかなひたまへりと思へば、君のうちねぶりて言葉まぜたまはぬを、さうざうしく心やましと思ふ。馬頭、物定めの博士になりて、ひひらきゐたり。中将は、このことわり聞き果てむと、心入れて、あへしらひゐたまへり。
「よろづのことによそへて思せ。木の道の匠のよろづの物を心にまかせて作り出だすも、 臨時のもてあそび物の、その物と 跡も定まらぬは、そばつきさればみたるも、げにかうもしつべかりけりと、時につけつつさまを変へて、今めかしきに目移りてをかしきもあり。大事として、まことにうるはしき人の調度の飾りとする、あわせて物を難なくし出づることなむ、なほまことの物の上手は、さまことに見え分かれはべる。
また絵所に上手多かれど、墨がきに選ばれて、次々にさらに劣りまさるけぢめ、ふとしも見え分かれず。かかれど、人の見及ばぬ蓬莱の山、荒海の怒れる魚の姿、唐国のはげしき獣の形、目に見えぬ鬼の顔などの、おどろおどろしく作りたる物は、心にまかせてひときは目驚かして、実には似ざらめど、さてありぬべし。
世の常の山のたたずまひ、水の流れ、目に近き人の家居ありさま、げにと見え、なつかしくやはらいだる形などを静かに描きまぜて、 すくよかならぬ山の景色、木深く世離れて畳みなし、け近き籬の内をば、 その心しらひおきてなどをなむ、上手はいと勢ひことに、悪ろ者は及ばぬ所多かめる。
手を書きたるにも、深きことはなくて、ここかしこの、点長に走り書き、そこはかとなく気色ばめるは、うち見るに かどかどしく気色だちたれど、なほまことの筋をこまやかに書き得たるは、うはべの筆消えて見ゆれど、今ひとたびとり並べて見れば、なほ実になむよりける。
はかなきことだにかくこそはべれ。まして人の心の、時にあたりて気色ばめらむ見る目の情けをば、え頼むまじく思うたまへ得てはべる。そのはじめのこと、好き好きしくとも申しはべらむ」
とて、近くゐ寄れば、君も目覚ましたまふ。中将いみじく信じて、頬杖をつきて向かひゐたまへり。法の師の世のことわり説き聞かせむ所の心地するも、かつはをかしけれど、かかるついでは、おのおの睦言もえ忍びとどめずなむありける。
「今思うのは、家柄ではない。容貌でもない。どうしようもないほどひねくれた性格でさえなければ、ただ真面目一方で落ち着いた趣のあるひとならば、生涯の伴侶たるべきでしょう。その上で、余分のたしなみとして風雅の心得があるなら、喜びと思い、少し足らぬところがあっても、あえて求めるべきではない。安心して家を任せられて、嫉妬せずおっとりした性格なら、うわべの教養などは自ずから身についてくるものだろう。
品よくはにかんで、夫に恨み言を言うべきときも素知らぬふうをして、表面は平静をよそおい、気持ちがいっぱいになって思い余ると、言いようのない悲しい言葉を残し、またあわれな歌を詠み、後で偲べる形見を残し、深い山里や離れた海辺などに、秘かに隠れたりする。
子供の時、女房などが物語を読むのを聞いて、たいへん感動して悲しくなり、女は思慮深いと思って涙したものです。今思うに、それはあさはかで、わざとらしい所業です。 情愛の深い夫を捨てて、目の前に辛いことがあったとしても、夫の気持ちを無視するように逃げ隠れして、惑わし、夫の本心を探ろうとするなど、生涯消えぬ悔いを残すことになり、まったくつまらぬことです。『心が深い』などと、ほめられて、気持ちが高じると、そのまま尼になってしまう。出家を思い立った時は、心も澄んだ気持ちになり、俗世に戻ろうとは思わない。『ああ、悲しい。これほど思いつめていたとは』などと人にも言われ、知人も来訪し、女に未練がある夫が駆けつけて涙を落とせば、女の侍女や老女たちが『ご主人は、情愛深かった。なまじ出家することはなかった』など言う。女は短くなった額髪をいじって、心細くなり、泣き顔になってしまう。涙があふれ、何につけても我慢ができず、悔いも多く、仏様も心が定まっていない出家と見るでしょう。この俗世に生きるより、中途半端な出家ではかえって悪しき道に惑うことになるかもしれない。前世からの因縁が深く、尼になる前に夫が連れ帰って、そのまま連れ添って、どういうことがあろうとも危機を乗り越えた間柄こそ、宿縁も深く情もわくものです、自分も相手もお互いに気を使うでしょうが。 
また、ごく普通に他の女に心を移した夫を恨んで、気色ばみ離縁しようとする女も、みっともない。たとえ他に女がいても、見初めた頃を思っていとおしく思えば、それをよすがとして処すべきであるのに、そうはならずにごたごたを起こして、破局に至るのである。
すべてにおいて、穏やかに処すべきで、恨み事も知っているふうにほのめかし、事を荒立てずにそれとなく言えば、それにつけて愛情も深まるでしょう。多くは、夫の心も妻次第です。しかし、あまりに夫を放任しても、大らかでかわい気があるように見えるが、夫から軽く見なされてしまうでしょう。繋がない舟は漂うの例もあるように、無茶である。そうではありませんか」
と言えば、中将がうなずく。  
「さしあたって、可愛らしく心惹かれる気に入ったひとがいて、相手に不貞の疑いがあれば、一大事だ。自分に不実はなく大目に見るならば、女の心を改めさして結婚生活を続けていけないこともないが、必ずしもそうはいくまい。ともかく、互いに問題があるにせよ、気長に我慢すること、これに勝るものはない」
と中将は言って、自分の妹の葵の上はこの状況に当てはまると思ったが、源氏の君は眠っていて口をさしはさまないので、もの足りなく残念に思った。左馬頭は、審判の判事になって盛んに弁てじたてる。中将は議論を最後まで聞こうと、熱心に相手になっていた。
「すべて物事にことよせて考えてみよう。木の匠は、心にまかせて色々なものを作り出すが、その場限りの玩具にしても、手本もないのに、外見は洒落ていて品よく、こうも作れるものかと思われ、時には様式をかえて、今風な作りに目移りして面白いものもある。本格的な仕事では、貴人の調度類の飾りなど、一定の様式にならって難なく作り出すなど、真の上手は、どこか普通と違っていて際立っている。
また、絵所には上手な絵描きがたくさんいるが、師匠たる墨書きに選ばれて、次々に描きだすものは、優劣はまったく分からない。しかし、人が見たことのない蓬莱山や、荒海に怒る魚の姿や、唐国のはげしい獣の形や、見えない鬼の顔など、大げさな作り物は思いのままに描いて人目を驚かすが、似ていないが、それでいいのでしょう。
世の普通の山のたたずまい、水の流れ、近くの人家の有様、いかにもそう見えて、懐かしく柔らかい形を静かに描いて、なだらかな山の姿や、人里離れた林の奥に畳んだ描き方、近景の籬の内側など、その心づかいや描法の点で、上手の筆力には、下手な絵師はとうてい及ばない。
書を書くにも、深い教養はなく、ここかしこの点を長く引っ張って、なんとなく気どっているのは、よく見ると才気走っているようだけれど、正統の書法によってしっかり書いたものは、うわべの筆勢が消えたように見えても、もう一度並べ直して見れば、実力は歴然としています。
才芸についてすらこうです。まして女の心をはかるのに、その時々で見せた気どった見た目の風情を頼りにはできません。わたしの初めの頃ですが、色っぽい話になりますが、申し上げましょう」
と弁じて左馬頭が膝を進めれば、源氏の君も目を覚ました。中将はすっかり感心して、頬杖をして向き合った。僧が世の摂理を説くかのような心地がして、おかしかったが、このような時は、それぞれの打ち明け話も自ずと出てくるものである。
2022.12.24◎
2.5 女性体験談(左馬頭、嫉妬深い女の物語)
はやう、まだいと下臈にはべりし時、あはれと思ふ人はべりき。聞こえさせつるやうに、容貌などいと まほにもはべらざりしかば、若きほどの好き心には、この人をとまりにとも思ひとどめはべらず、よるべとは思ひながらさうざうしくてとかく紛れはべりしを、もの怨じをいたくしはべりしかば、 心づきなく、いとかからで、おいらかならましかばと思ひつつ、あまりいと許しなく疑ひはべりしもうるさくて、 かく数ならぬ身を 見も放たで、などかくしも思ふらむと、心苦しき折々もはべりて、自然に心をさめらるるやうになむはべりし。
この女のあるやう、もとより思ひいたらざりけることにも、いかでこの人のためにはと、 なき手を出だし後れたる筋の心をもなほ口惜しくは見えじと思ひはげみつつ、とにかくにつけて、ものまめやかに後見、 つゆにても心に違ふことはなくもがなと思へりしほどに、 進める方と思ひしかど、とかくになびきてなよびゆき、 醜き容貌をも、この人に見や疎まれむと、わりなく思ひつくろひ、 疎き人に見えば面伏せにや思はむと、憚り恥ぢて、 みさをにもてつけて見馴るるままに、心も けしうはあらずはべりしかど、ただこの憎き方一つなむ、心をさめずはべりし。
そのかみ思ひはべりしやう、かうあながちに従ひぢたる人なめり、いかでるばかりのわざして、おどして、 このかたすこしよろしくもなり、 さがなさもやめむと思ひて、まことに憂しなども思ひて絶えぬべき気色ならば、かばかり我に従ふ心ならば思ひ懲りなむと思うたまへ得て、ことさらに情けなくつれなきさまを見せて、例の腹立ち怨ずるに、
かくおぞましくは、いみじき契り深くとも、絶えてまた見じ。限りと思はば、かくわりなきもの疑ひはせよ。行く先長く見えむと思はば、つらきことありとも、念じてなのめに思ひなりてかかる心だに失せなば、いとあはれとなむ思ふべき。 人並々にもなり、 すこしおとなびむに添へてまた並ぶ人なくあるべき』やうなど、かしこく教へたつるかなと思ひたまへて、われたけく言ひそしはべるに、すこしうち笑ひて、
『よろづに見立てなくものげなきほどを見過ぐして、人数ひとかずなる世もやと待つ方は、いとのどかに思ひなされて、心やましくもあらず。つらき心を忍びて、思ひ直らむ折を見つけむと、年月を重ねむ あいな頼みは、いと苦しくなむあるべければ、かたみに背きぬべききざみになむある』
ねたげに言ふに、腹立たしくなりて、憎げなることどもを言ひはげましはべるに、女もえをさめぬ筋にて、およびひとつを引き寄せて喰ひてはべりしを、おどろおどろしくかこちて
『かかる疵さへつきぬれば、いよいよ交じらひをすべきにもあらず。辱めたまふめる官位つかさくらい、いとどしく何につけてかは人めかむ世を背きぬべき身なめり』など言ひ脅して、『さらば、今日こそは限りなめれ』と、この指をかがめてまかでぬ。
手を折りてあひ見しことを数ふれば
これひとつやは君が憂きふし

えうらみじ』
など言ひはべれば、さすがにうち泣きて、
憂きふしを心ひとつに数へきて
こや君が手を別るべきをり

など、言ひしろひはべりしかど、まことには変るべきこととも思ひたまへずながら、日ごろ経るまで消息も遣はさず、 あくがれまかり歩くに、臨時の祭の調楽に、夜更けていみじう霙降る夜、これかれまかりあかるる所にて、思ひめぐらせば、なほ家路と思はむ方はまたなかりけり。
内裏わたりの旅寝 すさまじかるべく、気色ばめるあたりはそぞろ寒くや、と思ひたまへられしかば、いかが思へると、気色も見がてら、雪をうち払ひつつ、なま人悪ろく爪喰はるれど、さりとも今宵日ごろの恨みは解けなむ、と思うたまへしに、火ほのかに壁に背け萎えたる衣どもの厚肥えたる、大いなるにうち掛けて、引き上ぐべきものの帷子かたびらなどうち上げて、今宵ばかりやと、待ちけるさまなり。さればよと、心おごりするに、 正身そうじみはなし。さるべき女房どもばかりとまりて、『親の家に、この夜さりなむ渡りぬる』と答へはべり。
艶なる歌も詠まず、気色ばめる消息もせで、いとひたや籠もりに情けなかりしかば、あへなき心地して、さがなく許しなかりしも、我をうとみねと思ふ方の心やありけむと、 さしも見たまへざりしことなれど、心やましきままに思ひはべりしに、着るべき物、常よりも心とどめたる色あひ、しざまいとあらまほしくて、さすがにわが見捨ててむ後をさへなむ、思ひやり後見たりし。
さりとも、絶えて思ひ放つやうはあらじと思うたまへて、とかく言ひはべりしを、背きもせずと、尋ねまどはさむとも隠れ忍びず、かかやかしからず答へつつ、ただ、『ありしながらは、えなむ見過ぐすまじきあらためてのどかに思ひならばなむ、あひ見るべき』など言ひしを、さりともえ思ひ離れじと思ひたまへしかば、しばし懲らさむの心にて、『しかあらためむ』とも言はず、いたく綱引きて見せしあひだに、いといたく思ひ嘆きて、はかなくなりはべりにしかば、戯れにくくなむおぼえはべりし。
ひとへにうち頼みたらむ方はさばかりにてありぬべくなむ思ひたまへ出でらるる。はかなきあだ事をもまことの大事をも、 言ひあはせたるにかひなからず、龍田姫と言はむにもつきなからず織女の手にも劣るまじくその方も具して、うるさくなむはべりし」
とて、いとあはれと思ひ出でたり。中将、
「その織女の裁ち縫ふ方をのどめて、長き契りにぞあえまし。げに、その龍田姫の錦には、またしくものあらじ。はかなき花紅葉といふも、をりふしの色あひつきなく、はかばかしからぬは、露の はえなく消えぬるわざなり。さあるにより難き世とは定めかねたるぞや
と、言ひはやしたまふ。
左馬頭は話す。「昔、わたしがまだ下臈だった頃、いいなと思う女がいました。申し上げましたように、容貌はいまいちで、若さの好みでこの女を終生の妻にとは思わず、時々寄る処にしていましたから、もの足りずに、気まぐれにあちこちの女の処に寄っていましたが、それをすごく嫉妬したので、気に入らず、こんなに嫉妬深くなくて、もっとおおらかだったらいいのにと思いながらも、女がしつこく疑うのもうるさく感じて、自分のようなとるに足らない男を見捨てずに、どうしてこんなに尽くしてくれるのか、胸が詰まるときもあり、自然と浮気心はなくなった。
この女のやり方は、自分がとても思い至らないことでも、何とかして男のためにと工夫をこらし、不得意な面も男にダメな女と思われたくないために努力し、何事につけこまめに世話をし、気に入られようとして決して男の心にたがことはするまいと思っていましたので、勝気な性格だと思っていましたが、とにかく言うこともきき優しくもあり、醜い容貌も男に嫌われまいと務めて化粧し、不意の来客にも男が恥かしく感じないかをはばかり、いつも気を配っていましたので、慣れ親しんでくると、気立ても悪くはないので、ただこの強い嫉妬心だけがまんできずにいた。
その頃思っていたのは、こうむやみにわたしに従い恐れる女だったので、なんとからしめて、おどせば、嫉妬も和らぎ、意地の悪い性格も直るだろうと思い、本当に嫌になったから縁を切る素振りを見せれば、わたしにこのように従順なのだから懲りるだろうと思い、ことさら薄情でつれない態度を見せると、例のごとく腹を立て恨みを言うので、
『そんなに強情を張るのなら、宿世の深い契りでも、縁を切ってもう会わない。今回限りだから、いくらでも疑うがよい。先行き長い夫婦と思えば、多少辛いことがあっても、がまんして平静を保ち、ひがみ根性がなくなれば、わたしもおまえをいとおしく思うだろう。わたしも人並みに出世し、一人前になれば、お前も妻として並ぶ者なくなるだろう』とこのように、賢く教えたと思い、得意になって言い過ぎたが、女は苦笑して、
『すべて見栄えも悪く一人前にもなれない人をがまんして、人並みに出世するだろう思って待つのは、気にならず、いやではありません。夫の薄情な態度に堪えて、いつかは帰ってくるだろうと、あてのない年月を過ごすのは、とても苦しいので、お互いに別れるときが来たのでしょう』
と憎らしそうに言ったので、腹立たしくなり、こちらも同様に言い返すうちに、女もおさまらず、わたしの指を取って噛んだので、大げさに口実を言って、
『こんな傷をつけられては、世の中に出ていけない。馬鹿にされた官位も、これではどうして人並みに出世できようか。出家しかできない身になった』などと言い脅して、『さらばだ、今日こそ最後だ』とこの指をまげて退出した。
(馬頭)『指を折ってあなたとの日々を数えますと
あなたの難点はこの痴話ひとつではありますまい、
恨まないでくれ』
などと言うとさすがに泣き出して、
(女)『あなたのつらい仕打ちに堪えて来ましたが
今度こそあなたと別れるときでしょうか』
など言い争ったが、本当に別れるとは思っていなかったので、何日ものあいだ手紙も書かず、あちこち遊び呆けておりましたが、加茂神社の臨時の祭りの練習が終わった、夜更けの霙ふるとき、だれかれと別れて帰る家路に、自分が帰る処がなかったのです。
宮中での宿直は気乗りがしないし、気どった女の家では気が寒いだろうし、あの女はどうしているだろうと様子を見がてらに、雪を払いつつ、なんとなくきまり悪くもじもじしたが、今夜こそは日頃の恨みが溶けるかもしれないと思い、家に入ると、燭台はほの暗く壁にむけ、柔らかな綿入れの衣は大きな伏籠ふせごにかぶせ、上げるべき帳の類は引き上げて、今夜は来るだろうと待っている様子であった。やはり、待っていてくれたのかといささか自惚れたのだが、本人がいない。留守の女房たちが言うに『夜分に親の家に行った』と答えるのだった。
女は、しゃれた歌を詠み置くでなし、思わせぶりな置手紙をするでなし、まったく不愛想だったので、張り合いがなくなり、あのように口やかましく容赦なかったのも、わたしを嫌ってくださいとの女の思いだったのではないか、とそれまで思わなかったのだが、腹立ちまぎれにそうも思い、いつもより心のこもった色合いや衣装仕立てが、素晴らしく、わたしが捨てたあとも、気を配ってくれていたのだった
それでも、わたしを見限ることはないと思い、便りなどしていたが、嫌だということもなく、隠れるでもなく、こちらに恥をかかせない程度に返事もくれて、『今までのようなお気持ちでは、一緒に暮らせません。気持ちを改めて下さるなら』とだけ言っていたが、それでもわたしを捨てないだろうと思い、もっと懲らしてやろうの気持ちで、『心を改める』とも言わず、意地をはっていたが、女は大変嘆いて、あっけなく亡くなってしまったので、戯れも程々にやるものだ、と思い知りました。
もっぱら家事をまかせる本妻ということなら、このような女で十分だろうと思われます。風流なことでも生活上の用件でも、相談ができ、竜田姫といってもいいほど染色の腕もあり、織姫といってもいいほど裁縫の腕もあり、大したものであった」
と言って、あわれと思い出している。中将は、
「その織姫の裁縫の腕は二の次にしても、七夕の長い契りにあやかりたいのものだね。まことにその竜田女以上のものはいないでしょう。染色にしても折々の色合いが不揃いで、下手なのは、見栄えがしない。そうだから、妻選びは難しく、決めかねるのだ」
と興がって言う。
2022.12.24◎
2.6 左馬頭の体験談(浮気な女の物語)
「さて、また同じころ、まかり通ひし所は、人も立ちまさり心ばせまことにゆゑありと見えぬべく、うち詠み、走り書き、掻い弾く爪音、手つき口つき、みなたどたどしからず、見聞きわたりはべりき。見る目もこともなくはべりしかば、このさがな者を、うちとけたる方にて、時々隠ろへ見はべりしほどは、こよなく心とまりはべりき。この人亡せて後、いかがはせむ、あはれながらも過ぎぬるはかひなくて、しばしばまかり馴るるには、すこしまばゆく えんに好ましきことは、 目につかぬ所あるに、うち頼むべくは見ず、かれがれにのみ見せはべるほどに、忍びて心交はせる人ぞありけらし。
神無月のころほひ、月おもしろかりし夜、内裏よりまかではべるに、ある上人来あひて、この車にあひ乗りてはべれば、大納言の家にまかり泊まらむとするに、この人言ふやう、『今宵人待つらむ宿なむ、あやしく心苦しき』とて、この女の家はた、きぬ道なりければ、荒れたる崩れより池の水かげ見え、月だに宿る住処を過ぎむもさすがにて、下りはべりぬかし。
もとよりさる心を交はせるにやありけむ、この男いたくすずろきて、門近き廊の簀子すのこだつものに尻かけて、とばかり月を見る。菊いとおもしろく 移ろひわたり、風に競へる紅葉の乱れなど、あはれと、げに見えたり。
懐なりける笛取り出でて吹き鳴らし、『蔭もよし』などつづしり謡ふほどに、よく鳴る和琴を、調べととのへたりける、うるはしく掻き合はせたりしほど、けしうはあらずかし。律の調べは、女のものやはらかに掻き鳴らして、簾の内より聞こえたるも、今めきたる物の声なれば、清く澄める月に折つきなからず。男いたくめでて、簾のもとに歩み来て、
『庭の紅葉こそ、踏み分けたる跡もなけれ』などねたます。菊を折りて、
琴の音も月もえならぬ宿ながら
つれなき人をひきやとめける

悪ろかめり』など言ひて、『今ひと声、聞きはやすべき人のある時、手な残いたまひそ』など、いたくあざれかかれば、女、いたう声つくろひて、
木枯に吹きあはすめる笛の音を
ひきとどむべき言の葉ぞなき

となまめき交はすに、憎くなるをも知らで、また、箏の琴を盤渉調に調べて、今めかしく掻い弾きたる爪音、かどなきにはあらねど、まばゆき心地なむしはべりし。ただ時々うち語らふ宮仕へ人などの、あくまでさればみ好きたるは、さても見る限りはをかしくもありぬべし。時々にても、さる所にて忘れぬよすがと思ひたまへむには、頼もしげなくさし過ぐいたりと心おかれて、その夜のことにことつけてこそ、まかり絶えにしか。
この二つのことを思うたまへあはするに、若き時の心にだに、なほさやうにもて出でたることは、いとあやしく頼もしげなくおぼえはべりき。今より後は、ましてさのみなむ思ひたまへらるべき。御心のままに、折らば落ちぬべき萩の露、拾はば消えなむと見る玉笹の上の霰などの、艶にあえかなる好き好きしさのみこそ、をかしく思さるらめ、今さりとも、七年あまりがほどに思し知りはべなむ。なにがしがいやしき諌めにて、好きたわめらむ女に心おかせたまへ。過ちして、見む人の かたくななる名をも立てつべきものなり」
と戒む。中将、例のうなづく。君すこしかた笑みて、さることとは思すべかめり。
「いづ方につけても、人悪ろくはしたなかりける身物語かな」とて、うち笑ひおはさうず。
左馬頭の話は続く。「さて、おなじ頃、通っていた所は、家柄もよく人柄もよさそうで、歌を詠み、さらさらと文を書き、琴をよくし、手つき口つきともに上手で、世間の評判もよかった。容貌もそこそこで、この嫉妬深い女を普段通う所とし、こちらは時々隠れて会っていましたのが、すっかり気に入ってしまいました。指喰い女が亡くなってからは、どうしようか、あわれだったが亡くなった者はどうしようもないので、しばらく通ううちに、少し派手で好色ところは、好ましくなかったが、頼りになりそう女ではなく、ほんの時々会っていたが、実は内緒で心を許していた男がいたのです。
神無月の頃、月の美しい晩、内裏より帰ろうとすると、ある殿上人と一緒になって、牛車に相乗りすることになり、大納言の家で泊まろうと思ったが、この人が言うには、『今宵待っている女がいる、すごく気にかかる』と、女の家は途中だったので、荒れて崩れた築地から池の水に映った月影が見えたので、月が宿る住いを過ぎてゆくのも心残りだったので、寄りました。
元々心を通わせていたのだろう、この男は気もそぞろで、門近くの廊下の簀子に腰を下ろして、しばし月を眺めていた。菊の色が移ろう様子もおもしろく、風に揺れる紅葉の乱れなど、実にあわれな風情を感じた。
懐より笛を取り出して吹き、『蔭もよし』を口ずさむと、はっきり琴の音が聞こえ、調子を整えて合わせて上手に合奏したのが、悪くはなかった。律の調べを、女はものやわらかにかきならし、簾の内から聞こえたが、今風の声が清く澄む月に似合っていた。男は大いに喜んで、簾に近づき、
『庭の紅葉を、踏み分けた跡がありませんね』とからかう。菊を折って、
(男)『琴の音も月影も素晴らしい宿ですが 
おひとりですか
悪いことを言ったみたいですね』など言って、『もう一声、聞いて喜ぶ私がいますので、弾き惜しまないで』など、調子にのって言えば、女は、気どった作り声で、
(女)『木枯らしに調子を合わせて笛を吹く方を 
お引き止めする術を持ちません』
と色っぽく交わすのを聞いて、わたしがすっかり嫌気がさしたのも知らずに、また、琴を盤渉調ばんしきちょうにかきならして今様に弾いた音は、才能がないわけではなかったが、目を覆いたくなった。時々は、気心の知れた宮仕えの女房たちが、戯れに気どった調子で遊ぶのは、それなりにおもしろい。しかし時々でも、通い妻の一人として生涯を託する女としては、心もとなく派手過ぎると用心し、その夜のことあってから、通わなくなった。
この二つの場合を比べてみると、若い日の心にも、木枯らしの女のような目立ちすぎる振舞いは、感心せず頼りにならないと思えました。これからも、なおそのように思うでしょう。思いのままに、手折れば落ちる萩の露、拾えば消えそうな笹の上の霰など、艶のあるあわい風情の好みこそよいと思うでしょうが、これから7年も経てば、お分かりになるでしょう。わたしのような至らない者のお説教ですが、色ごとが好きで風流な女は、用心してください。女が過ちを犯せば、世間では、男の愚かさの噂を立てるものですよ」
と言う。中将は、うなずいて聞いている。源氏の君は笑みを浮かべて、そのようなものかと思っている。
「いずれの例にしても、外聞が悪い見っともない話ですね」と源氏の君は言って、笑った。
2022.12.26◎
2.7 頭中将の体験談(常夏の女の物語)
中将、
「なにがしは、痴者しれものの物語をせむ」とて、「いと忍びて見そめたりし人の、さても見つべかりしけはひなりしかば、ながらふべきものとしも思ひたまへざりしかど、馴れゆくままに、あはれとおぼえしかば、絶え絶え忘れぬものに思ひたまへしを、さばかりになれば、うち頼めるけしきも見えき。頼むにつけては、恨めしと思ふこともあらむと、心ながらおぼゆるをりをりもはべりしを、見知らぬやうにて、久しきとだえをも、かうたまさかなる人とも思ひたらず、ただ朝夕にもてつけたらむありさまに見えて、心苦しかりしかば、 頼めわたることなどもありきかし。
親もなく、いと心細げにて、さらばこの人こそはと、事にふれて思へるさまもらうたげなりき。 かうのどけきにおだしくて、久しくまからざりしころ、 この見たまふるわたりより、情けなくうたてあることをなむ、さるたよりありてかすめ言はせたりける、後にこそ聞きはべりしか。
さる憂きことやあらむとも知らず、心には忘れずながら、消息などもせで久しくはべりしに、むげに思ひしをれて心細かりければ、幼き者などもありしに思ひわづらひて、撫子の花を折りておこせたりし」とて涙ぐみたり。
「さて、その文の言葉は」と問ひたまへば、
「いさや、ことなることもなかりきや。
山がつの垣ほ荒るとも折々に
あはれはかけよ撫子の露

思ひ出でしままにまかりたりしかば、例のうらもなきものから、いと物思ひ顔にて、荒れたる家の露しげきを眺めて、 虫の音に競へるけしき、昔物語めきておぼえはべりし。
咲きまじる色はいづれと分かねども
なほ常夏にしくものぞなき

大和撫子をばさしおきて、まづ『塵をだに』など、親の心をとる
うち払ふ袖も露けき常夏に
あらし吹きそふ秋も来にけり

はかなげに言ひなして、まめまめしく恨みたるさまも見えず。涙をもらし落としても、いと恥づかしくつつましげに紛らはし隠して、つらきをも思ひ知りけりと見えむは、わりなく苦しきものと思ひたりしかば、心やすくて、またとだえ置きはべりしほどに、跡もなくこそかき消ちて失せにしか。
まだ世にあらば、はかなき世にぞさすらふらむ。あはれと思ひしほどに、わづらはしげに思ひまとはすけしき見えましかば、かくも あくがらさざらまし。こよなきとだえおかず、さるものにしなして長く見るやうもはべりなまし。かの撫子のらうたくはべりしかば、いかで尋ねむと思ひたまふるを、今もえこそ聞きつけはべらね。
これこそのたまへるはかなき例なめれ。つれなくてつらしと思ひけるも知らで、あはれ絶えざりしも、益なき片思ひなりけり。今やうやう忘れゆく際に、かれはたえしも思ひ離れず、折々人やりならぬ胸焦がるる夕べもあらむとおぼえはべり。これなむ、え保つまじく頼もしげなき方なりける。
されば、かのさがな者も、思ひ出である方に忘れがたけれど、さしあたりて見むには わづらはしくよ、よくせずは、飽きたきこともありなむや。琴の音すすめけむかどかどしさも、好きたる罪重かるべし。この心もとなきも、疑ひ添ふべければ、いづれとつひに思ひ定めずなりぬるこそ。世の中や、ただかくこそ。とりどりに比べ苦しかるべき。このさまざまのよき限りをとり具し、難ずべきくさはひまぜぬ人は、いづこにかはあらむ。吉祥天女きちじょうてんにょを思ひかけむとすれば、 法気ほうけづきくすしからむこそ、また、わびしかりぬべけれ」とて、皆笑ひぬ。
中将は、
「わたしは、阿呆な男の話をしましょう」と語り始めた。「ごく内緒で会っていた女の、ずっと会っていてもよさそうに思っていたが、長く続くとは思っていなかったが、馴れてくるとあわれと感じ、途切れながらも忘れずに思っていると、そんな関係が続くと、わたしを頼りにする気色も見え、恨めしく思うこともあろうにと折々に感じておりましたが、女は気づかない風で、久しく行かなかったときも、時々しか来ない人とも思わず、朝夕の務めも何気なくこなし、わたしも心苦しく思って、頼りにしてもいいよ、と言っていました。
親もなく、すごく心細げで、この人こそはと頼りにする様子も見られて、可愛げがあった。女はおっとりしていて、心が落ち着くのだが、久しく行かなかった時に、わたしの妻からある時とてもひどいことを女にほのめかしたことを、あとで使いの者から聞きました。
そんなかわいそうなことがあったとも知らず、心には忘れず、便りもださず久しく経つうちに、気落ちして心細かったのか、幼い子供などもあって悩んだのであろう、撫子の花を手折って送ってきた」と言って涙ぐんだ。
「さて、その文の言葉は」と源氏の君が問えば、
「いや、特別なこともないのだ。
(女)『山賤の家の垣根は荒れていても
露が撫子に置くように時々は娘にあわれをかけてください』
思い出して行ってみると、例によって信じ切った様子であったが、もの思わし気な顔をして、荒れた家の露を眺めて、虫の音に競えるほどに泣く様が、昔物語の一場面のようであった。
(中将)『いろいろ咲いている花はどれも美しいが
やはり母の撫子に勝るものはないでしょう』
子の大和撫子を置いて、『塵をだに』の、常夏の親の方を取った。
(女)『露を払うわたしの袖も露でいっぱいです
 涙で濡れた常夏に嵐をはらんだ秋が来そうです』
と女は何事もないように言って、真剣に恨んでいる様子も見えなかった。涙を落としても、恥かしげにつつましく紛らわしつつ隠して、わたしに辛い気持ちでいると見られるのが、かえって心苦しいと思っていたので、安心してまた行くのをやめておりましたところ、跡形もなく居なくなった。
まだ生きているなら、はかなきこの世に流浪しているだろう。わたしが愛している間に、しつこく付きまとってくれていれば、こんな失踪などさせなかった。あんなに疎遠にせず、常の通い所にして長く面倒をみただろう。あの撫子の娘が可愛らしく、どうかして訪ねたいと思っていたが、今も消息は知れません。
これこそあなたの申した、はかない例であろう。女が、つれなく感じ辛い思いに苦しんでいたとも知らずに、愛情を注いでいたのも、甲斐なき片思いであった。こちらが忘れる頃になって、女は少しも忘れず、時には自分のせいと思い、胸焦がす夕べもあるだろう。これが、縁が続かず頼りにならない女でした。
ですから、あのやかまし屋の指喰い女も、思い出すよすがとしては忘れがたいが、普段生活を共にするには煩わしく、悪くすると、厭になることもあろう。琴の達者な才走った女も、風流好みの罪は重いでしょう。この心もとない女も、疑えばきりがないし、どれがいいか決めかねます。世の中はこのようなもの。それぞれ比べて悩みます。様々の美点だけを具して難点のない人は、どこにいるのだろう。吉祥天女きちじょうてんにょがそれとすれば、抹香臭まっこうくさいし、人間離れもしているから、興覚めでしょう」と、皆笑った。
2022.12.26 ◎
2.8 式部丞の体験談(畏れ多い女の物語)
「式部がところにぞ、けしきあることはあらむ。すこしづつ語り申せ」と責めらる。
しもしもの中には、 なでふことか、聞こし召しどころはべらむ
と言へど、頭の君、まめやかに「遅し」と責めたまへば、何事をとり申さむと思ひめぐらすに、
「まだ文章生もんじょうのしょうにはべりし時、かしこき女の例をなむ見たまへし。かの、馬頭うまのかみの申したように、公事をも言ひあはせ、私ざまの世に住まふべき心おきてを思ひめぐらさむ方もいたり深く、才の際なまなまの博士恥づかしく、すべて口あかすべくなむはべらざりし。
それは、ある博士のもとに学問などしはべるとて、まかり通ひしほどに、主人のむすめども多かりと聞きたまへて、はかなきついでに言ひ寄りてはべりしを、親聞きつけて、盃持て出でて、『わが両つの途歌ふを聴け』となむ、聞こえごちはべりしかど、をさをさうちとけてもまからず、かの親の心を憚りて、さすがにかかづらひはべりしほどに、いとあはれに思ひ後見、寝覚の語らひにも、身の才つき、朝廷に仕うまつるべき道々しきことを教へて、いときよげに消息文にも仮名といふもの書きまぜず、むべむべしく言ひまはしはべるに、 おのづからえまかり絶えで、その者を師としてなむ、わづかなる腰折文作ることなど習ひはべりしかば、今にその恩は忘れはべらねど、なつかしき妻子とうち頼まむには、無才の人なま悪ろならむ振る舞ひなど見えむに、恥づかしくなむ見えはべりし。まいて君達の御ため、 はかばかしくしたたかなる御後見は、何にかせさせたまはむ。はかなし、口惜し、とかつ見つつも、ただわが心につき、宿世の引く方はべるめれば男しもなむ、仔細なきものははべめる
と申せば、残りを言はせむとて、「さてさてをかしかりける女かな」とすかいたまふを、心は得ながら、鼻のわたり をこづきて語りなす。
「さて、いと久しくまからざりしに、もののたよりに立ち寄りてはべれば、常のうちとけゐたる方にははべらで、心やましき物越しにてなむ逢ひてはべる。ふすぶるにやと、をこがましくも、また、よきふしなりとも思ひたまふるに、このさかし人はた、軽々しきもの怨じすべきにもあらず、 世の道理を思ひとりて恨みざりけり
声もはやりかにて言ふやう、
『月ごろ、風病重きに堪へかねて、極熱の草薬を服して、いと臭きによりなむ、え対面賜はらぬ。目のあたりならずとも、さるべからむ雑事らは承らむ』
と、いとあはれにむべむべしく言ひはべり。答へに何とかは。ただ、『承りぬ』とて、立ち出ではべるに、さうざうしくやおぼえけむ、
『この香失せなむ時に立ち寄りたまへ』と高やかに言ふを、聞き過ぐさむもいとほし、しばしやすらふべきに、はたはべらねば、げにそのにほひさへ、はなやかにたち添へるも術なくて、逃げ目をつかひて、
ささがにのふるまひしるき夕暮れに
ひるま過ぐせといふがあやなさ

いかなることつけぞや』
と、言ひも果てず走り出ではべりぬるに、追ひて、
逢ふことの夜をし隔てぬ仲ならば
ひる間も何かまばゆからまし

さすがに口疾くなどははべりき」
と、しづしづと申せば、君達あさましと思ひて、「嘘言」とて笑ひたまふ。
「いづこのさる女かあるべき。おいらかに鬼とこそ向かひゐたらめ。むくつけきこと
爪弾きをして、「言はむ方なし」と、式部をあはめ憎みて、
「すこしよろしからむことを申せ」と責めたまへど、
「これよりめづらしきことはさぶらひなむや」とて、をり
「すべて男も女も悪ろ者は、わづかに知れる方のことを残りなく見せ尽くさむと思へるこそ、いとほしけれ。
三史五経、道々しき方を、明らかに悟り明かさむこそ、愛敬あいぎょうなからめ、などかは、女といはむからに、世にあることの公私おおやけわたくしにつけて、むげに知らずいたらずしもあらむ。わざと習ひまねばねど、すこしもかどあらむ人の、耳にも目にもとまること、自然じねんに多かるべし。
さるままには、真名まんなを走り書きて、さるまじきどちの女文に、なかば過ぎて書きすすめたる、あなうたて、この人のたをやかならましかばと見えたり。心地にはさしも思はざらめ、おのづからこはごはしき声に読みなされなどしつつ、 ことさらびたり。上臈の中にも、多かることぞかし。
歌詠むと思へる人の、やがて歌にまつはれ、をかしき古言ふることをも初めより取り込みつつ、 すさまじき折々、詠みかけたるこそ、ものしきことなれ。返しせねば情けなし、えせざらむ人ははしたなからむ
さるべき節会せちゑなど、五月の節に急ぎ参る朝、何のあやめ思ひしづめられぬに、えならぬ根を引きかけ、 九日の宴に、まづ難き詩の心を思ひめぐらして暇なき折に、菊の露をかこち寄せなどやうの、 つきなき営みにあはせ、さならでもおのづから、げに後に思へばをかしくもあはれにもあべかりけることの、その折につきなく、目にとまらぬなどを、推し量らず詠み出でたる、なかなか心後れて見ゆ
よろづのことに、などかは、さても、とおぼゆる折から、時々、思ひわかぬばかりの心にては、 よしばみ情け立たざらむなむ目やすかるべき
すべて、心に知れらむことをも、知らず顔にもてなし、言はまほしからむことをも、一つ二つのふしは過ぐすべくなむあべかりける」
と言ふにも、君は、人一人の御ありさまを、心の中に思ひつづけたまふ。「これに足らずまたさし過ぎたることなくものしたまひけるかな」と、ありがたきにも、いとど胸ふたがる。
いづ方により果つともなく、果て果てはあやしきことどもになりて、明かしたまひつ。
「式部の丞のところには、面白い話があるだろう。少しずつ話してみよ」と責められる。
「下の下には、どういうわけか、お話すべき例などありません」
と言えば、中将の君はむきになって「早く」と急がせるので、何をお話ししようかと思いめぐらすうちに、
「まだ文章生もんじょうのしょうだった頃、賢い女に会いました。かの、馬頭うまのかみが申されたように、公のことも言い合せ、私生活にかかわる生きる処世の心得も深く、その才覚は生半可な博士の及びもしない程で、わたしが口を出す余地はなかった。
それはある博士のもとに、学問を習いに通っていた時のこと、博士の娘がたくさんいると聞きまして、何心なく言い寄ったのですが、親が聞きつけて、盃を持ち出し、『我が二つの途を歌うを聴け』とやりだしたので、心から打ち解けることもないまま、あの親心をはばかりながらも、かかわりあっていましたが、女は情が深く世話してくれて、寝覚めの語らいにもわたしの学才がつき、宮仕えに役立つの漢学の素養を教えてくれて、美しい消息文も仮名をつかわず、格式のある調子でしたためるので、自ずから止めることもなく、その女を師として、下手な漢詩文なども作ることを学んだので、今もその恩は忘れないけれど、親しみが持てる妻にと頼むには、わたしに学才がなく、馬鹿な行動を見られたりしたら、恥をかくことになるだろう。まして、あなた方のような若殿に、このようなすごくしたたかな後見人は、どうして必要でしょうか。妻とするには、心もとなく、残念だと思いながらも、自分の気に入り、前世の因縁に引かれていたのでしょうか、男というものは、しようがないものですね」
と言えば、残りを言わそうとして「実におもしろい女だなあ」と中将がおだてると、心得ていて、鼻のあたりをヒクヒクさせてまた語りだした。
「さて久しく行っていないかったのだが、ある時立ち寄ったところ、いつもの打ち解けた場所ではなく、不愉快にも物越しに会うことになった。恨んでいるのかと、生意気にも感じ、また縁を切るいい機会だとも思ったが、この賢い女は、軽々しく恨むような人ではなく、男女の仲をわきまえていて恨んではいなかった。
何げない調子で早口に言う。
『この何か月か、風病が重くなり、極熱の草薬を服して、臭いがつよいので、御目通りできません。ご対面できなくても、しかるべき雑務はお受けしましょう』
と、殊勝にもきちんと言うのであった。何と応じればいいのか。ただ、『了解した』と言って立ち上がると、女はもの足りない気がしたのか、
『この臭いが消えたら立ち寄ってください』と声高に言うので、聞き過ごすのもかわいそうで、しばし休んでもいけず、臭いも強くなり、逃げ腰になって、
(式部)『蜘蛛の動きで夕暮れにわたしが来るのを知っていますのに、
昼まで待てとは、合点がいきません
なんという口実でしょう』
と、言い果てずに走りだしますと、追ってきて、
(女)『毎夜逢っている仲ならば、
昼間もなんでまぶしく恥かしいことがありましょう』
さすがに素早い応答でした」
と、淡々として語ると、君達は皆あきれて、「嘘だろう」と笑い合うのだった。
「どこにそんな女がいるもんか。まあ鬼とでも向かい合っている方がましだろう。気味の悪い話だ」
と爪はじきして、「話にならん」と、式部をけなして、
「もっとましな話をせよ」と責めたのだが、
「これより珍しい話はありません」といって、開き直っている。
「すべて男も女も教養のない者は、わずかに知っていることを、全部見せようとするから、困ったものである。
三史五経など道理を説く学を究めようとする女は、可愛げがないが、しかし女だからといって世の中の公事おおやけごと私事わたくしごとを、あえて知らないでいいものだろうか。わざわざ学ばなくても、少しの才気があれば、耳目にとまり、自然に身に付くものである。
それにしても、漢字をさらさらと書いて、あるべきではない女どうしの文で、半分以上も漢文で書き進めているのを見ると、ああ、もっと女らしかったらなあと思います。自分では思っていなくても、こちらではぎこちなく読むようになり、わざとらしい。身分の高い人々にも多いです。
上手な歌人が、歌にとらわれて、趣きある古歌を初めから織り込み、気分がのらない時に、詠みかけられることこそ、不愉快なことはない。返歌しなければ興覚めだし、返さない人は、不作法と見られる。
節会のときなど、五月の節句に急ぎ参内する朝、心の準備がないまま、見事な菖蒲の根にこと寄せたり、九月九日 の宴で、難しい詩の言葉に四苦八苦している最中に、菊の露に寄せて誘いかけ、気の利かない時機で仕掛けるなど、もともと、あとで思えば興もありあわれもあることでも、その時は時機を得ず、見向きもされないなど、よく考えもせず詠みだすなどして、気の利かないことである。
万事につけ、どうしてそんなことになるのか、時と場合によって、分別できる心をもっていなければ、つい気どって風雅の道をゆかぬのがよい。
すべて、知っていることも知らない風をし、言いたいことも十のうち一つ二つは控えておくのがいいのだ」
左馬頭さまのかみは言うが、源氏の君は、ひとりのお方を心の中に思い続けていた。「あの方は、足りないものもなく、過ぎたることもない」と、理想のお方と思うにつけ、胸が一杯になるのであった。
どちらにどう決着がついたわけでもなく、しまいには変な話になって、夜が明けた。
2022.12.26◎
2.9 天気晴れる
からうして今日は日のけしきも直れり。かくのみ籠もりさぶらひたまふも、大殿の御心いとほしければ、 まかでたまへり
おほかたの気色、人のけはひも、けざやかにけ高く、 乱れたるところまじらず、なほ、これこそは、かの、人びとの捨てがたく取り出でし まめ人には頼まれぬべけれ、と思すものから、あまりうるはしき御ありさまの、とけがたく恥づかしげに思ひしづまりたまへるをくさうざうしくて中納言の君、中務なかつかさなどやうの、おしなべたらぬ若人どもに、戯れ言などのたまひつつ、暑さに乱れたまへる御ありさまを、見るかひありと思ひきこえたり。
大臣おとども渡りたまひて、うちとけたまへれば、御几帳隔てておはしまして、御物語聞こえたまふを、「暑きに」とにがみたまへば、人びと笑ふ。 「あなかま」とて、脇息に寄りおはす。いとやすらかなる御振る舞ひなりや。
暗くなるほどに、
「今宵、中神、内裏よりは塞がりてはべりけり」と聞こゆ。
さかし、例は忌みたまふ方なりけり」
「二条の院にも同じ筋にて、いづくにか違へむ。いと悩ましきに」
とて大殿籠もれり。「いと悪しきことなり」と、これかれ聞こゆ。
紀伊守きのかみにて親しく仕うまつる人の、中川のわたりなる家なむ、このころ水せき入れて、涼しき蔭にはべる」と聞こゆ。
「いとよかなり。悩ましきに、牛ながら引き入れつべからむ所を」
とのたまふ。忍び忍びの御方違へ所は、あまたありぬべけれど、久しくほど経て渡りたまへるに、方塞げて、ひき違へ他ざまへと思さむは、いとほしきなるべし。紀伊守に仰せ言賜へば、承りながら、退きて、
伊予守いよのかみの朝臣の家に慎むことはべりて、女房なむまかり移れるころにて、狭き所にはべれば、なめげなることやはべらむ」
と、下に嘆くを聞きたまひて、
「その人近からむなむ、うれしかるべき。女遠き旅寝は、もの恐ろしき心地すべきを。ただその几帳のうしろに」とのたまへば、
「げに、よろしき御座所にも」とて、人走らせやる。いと忍びて、ことさらにことことしからぬ所をと、急ぎ出でたまへば、大臣にも聞こえたまはず、御供にも睦ましき限りしておはしましぬ。
やっとのことで、今日は天気もよくなった。このように内裏に籠っていても、義父の左大臣の御心を案じて、宮中を退出した。
邸のたたずまいや、葵の上の様子も、きわだって気品があり、くずれたところはなく、これこそは頭中将や左馬頭たちが、捨てがたい例としてあげた実直で頼れる人だろうと思うのだが、その美しい姿があまりに端正で打ち解けがたく取り澄ましているので、何かもの足りなく感じ、中納言や中務などの並々ならぬ容貌の若い女房たちに冗談をいいつつ、暑さに着崩したさまを女房たちは素晴らしい、と見とれるのだった。
大臣も渡って来て、源氏の君がうちとけているので、御簾越しに長話を始めると、「暑いのに」と 苦々しく言って、人々の笑いをさそう。「静かにね」などと言って、脇息にもたれる。まことに屈託のない振舞いだった。
暗くなって
「今宵は、中神が宮中から見て、塞がっています」と言うものがある。
「そうです、いつもは禁忌の方角です」
「二条院も同じ方向だから、どこに避けようか、気分も悪いのに」
と言っておやすみになった。「いけません」という声が誰彼から上がった。
「紀伊守で親しく左大臣家に出入りしている人の、中川にある家は、この頃邸内に水を引き入れて、涼しい緑蔭がある」と聞いている。
「いいだろう。気分がすぐれないから、牛車がそのまま入る所を」
と仰る。忍びで方違えで行く所は、たくさんあるはずだが、久しく来なかった左大臣邸に来て、方違えで、すぐ他の女の処へ行ったと思われるのは、残念であった。紀伊守に仰せになると、了承したが、
伊予守の朝臣の家に忌むことがあって、女房たちが自分の家に移ってくるので、狭い所でご無礼なことになりはしないか」
とひそかに心配しているのを聞いて、
「人がいるのがいいのだ、女気のいない外泊は、気味の悪いものだ。その几帳のうしろにでも」と仰れば、
「よし、立派な御座所をしつらえましょう」と、人を走らせる。ひっそりと、大げさにならない所を、と急いで退出したので、左大臣にも告げず、ごく気心のしれたお供をだけを連れていた。
2022.12.26◎
2.10 紀伊守邸への方違へ
「にはかに」とわぶれど、人も聞き入れず。寝殿の東面払ひあけさせて、かりそめの御しつらひしたり。水の心ばへなど、 さる方にをかしくしなしたり。田舎家だつ柴垣して、前栽など心とめて植ゑたり。風涼しくて、そこはかとなき虫の声々聞こえ、蛍しげく飛びまがひて、をかしきほどなり。
人びと、渡殿わたどのより出でたる泉にのぞきゐて、酒呑む。主人も肴求むと、こゆるぎのいそぎありくほど、君はのどやかに眺めたまひて、かの、中の品に取り出でて言ひし、この並ならむかしと思し出づ。
思ひ上がれる気色に聞きおきたまへる女なれば、ゆかしくて耳とどめたまへるに、この西面にぞ人のけはひする。衣の音なひはらはらとして、若き声どもにくからず。さすがに忍びて、笑ひなどするけはひ、ことさらびたり。格子を上げたりけれど、守、「心なし」とむつかりて下しつれば、火灯したる透影、障子の上より漏りたるに、やをら寄りたまひて、「見ゆや」と思せど、隙もなければ、しばし聞きたまふに、この近き 母屋もやに集ひゐたるなるべし、うちささめき言ふことどもを聞きたまへば、わが御上なるべし。
「いといたうまめだちて。まだきにやむごとなきよすが定まりたまへるこそ、さうざうしかめれ」
「されど、さるべき隈には、よくこそ、隠れ歩きたまふなれ」
など言ふにも、思すことのみ心にかかりたまへば、まづ胸つぶれて、「かやうのついでにも、 人の言ひ漏らさむを、聞きつけたらむ時」などおぼえたまふ。
ことなることなければ、聞きさしたまひつ式部卿宮の姫君に朝顔奉りたまひし歌などを、すこし ほほゆがめて語るも聞こゆ。「くつろぎがましく、歌誦じがちにもあるかな、なほ見劣りはしなむかし」と思す。
守出で来て、灯籠掛け添へ、灯明くかかげなどして、御くだものばかり参れり。
とばり帳も、いかにぞはさる方の心もとなくては、めざましき饗応ならむ」とのたまへば、
何よけむとも、えうけたまはらず」と、かしこまりてさぶらふ。端つ方の御座に、仮なるやうにて大殿籠もれば、人びとも静まりぬ。
主人の子ども、をかしげにてあり。童なる、殿上のほどに御覧じ馴れたるもあり。 伊予介の子もあり。あまたある中に、いとけはひあてはかにて、十二、三ばかりなるもあり。
「いづれかいづれ」など問ひたまふに、
「これは、故衛門督えもんのかみの末の子にて、いとかなしくしはべりけるを、幼きほどに後れはべりて、姉なる人のよすがに、かくてはべるなり。才などもつきはべりぬべく、けしうははべらぬを、殿上なども思ひたまへかけながら、すがすがしうはえ交じらひはべらざめる」と申す。
「あはれのことや。この姉君や、まうとの後の親
「さなむはべる」と申すに、
似げなき親をも、まうけたりけるかな。主上にも聞こし召しおきて、『宮仕へに出だし立てむと漏らし奏せし、いかになりにけむ』と、いつぞやのたまはせし。こそ定めなきものなれ」と、いとおよすけのたまふ。
「不意に、かくてものしはべるなり。世の中といふもの、さのみこそ、今も昔も、定まりたることはべらね。中についても、女の宿世は浮かびたるなむ、あはれにはべる」など聞こえさす。
「伊予介は、かしづくや。君と思ふらむな
いかがは私の主とこそは思ひてはべるめるを、好き好きしきことと、なにがしよりはじめて、うけひきはべらずなむ」と申す。
「さりとも、まうとたちのつきづきしく今めきたらむに、おろしたてむやは。かの介は、いとよしありて気色ばめるをや」など、物語したまひて、
「いづかたにぞ」
「皆、下屋におろしはべりぬるを、えやまかりおりあへざらむ」と聞こゆ。
酔ひすすみて、皆人びと簀子に臥しつつ、静まりぬ。
「急なお成りで」と家人は迷惑がるが、供の者たちは問題にしない。寝殿の東面を空けさせて、仮のお住まいとした。遣り水の風情などがよい。田舎風の柴垣して、心を込めた前栽が植わっていた。風涼しく、そこはかとなく虫の声も聞こえ、蛍がしげく飛び交い、なかなかの風情があった。
人々は渡殿の下から湧き出る泉を見ながら酒を飲む。主人は酒の肴を求めて小走りし、源氏の君はゆったり眺めて、中将たちがいう中の品とはこの人々のことかと思い出している。
気位の高い女と聞いていたので、好奇心から耳をそばだてていると、反対の西側に人の気配がする。衣ずれの音がさらさら聞こえ、若い女房たちの声も興味をそそる。忍び笑いする様子もおもしろい。格子を上げていたが、紀伊の守が「不注意だ」といって下ろしてしまったので、灯影が障子のうえから漏れてたので、近くに寄って「見えるか」と思ったが、隙間がないので、しばし聞いていると、この近くの母屋に集まっているらしく、ひそひそ話を聞いていると、どうも自分のことを噂しているらしい。
「源氏の君は真面目な方ですわ。早くに、高貴なお方が北の方に決まって、つまらないけれど」
「けれど、さるべき処へはよくお忍びで行ってるそうよ」
など言っているが、源氏は慕っている藤壺のことのみ心にかかって、胸がいっぱいで、「このような折にも、人が言いふらすのを聞きつけたら」などと心配する。
別段かわった話もないので、聞き耳を立てるのをやめた。式部卿の宮の姫君に朝顔を差し上げた時の歌など、少し違って語っている。「暇そうにして、すぐ歌になるのは、やはり中の品か、見劣りがする」と思う。
紀伊守が来て、灯籠をふやして、灯心を上げて明るくし、くだものなどを供した。
「寝室の方の支度はどうかな。そちらの心くばりもなければ、接待も十分ではあるまい」と源氏が冗談に言えば、
「何がよいのか、承りませんでしたので」とかしこまっている。端の御座に、仮寝のように横になると、人びとも静かになった。
主人の子供たちが、可愛らしい。殿上で見なれた子供もいる。伊予介の子もいた。沢山のなかで、品のいい気配をした十二三歳位の子が源氏の目に止った。
「どの子が誰の子か」と問うに、
「これは故衛門の督の末っ子でして、大変可愛がっていたのですが、幼い時に父親に先立たれ、姉を頼ってこうしているのです。学問などもできそうですし、そこそこにの器量もあり、殿上童などを希望してますが、すんなりとはまいらないのでございます」と言う。
「あわれなことだ。この子の姉が、あなたの母親とはね」
「さようでございます」と紀伊の守がいうと、
「不似合いな親をもったものだな。帝もお聞きになっていて、『宮仕えに参内すると言っていたが、どうなったのか』といつか仰せになっていた。男女の仲は分からないものだ」と源氏の君はとても大人びたことを言う。
「とつぜん、こうなってしまったのです。男女の縁は、今も昔も、定めなきものです。なかでも女の定めは浮草のようなもので、あわれなものです」などと言う。
「伊予の介は可愛がっているか、大事にしているだろうな」
「はいそれはそれは。内々の主人と思っているようですが、男女のことは、わたしをはじめ皆承知しておりませんが」と言う。
「それでも、若く似つかわしいあなたに、払下げしてくれるわけでもあるまい。あの御仁は、風情もありひとかどの者だからな」など語ってから、
「どこにいるのか」
「みな下屋に下がらせましたが、まだ残っているかもしれません」と言う。
酔いがすすんで、皆簀子に臥して、静まった。
2022.12.26◎
2.11 空蝉の寝所に忍び込む
君は、とけても寝られたまはず、いたづら臥しと思さるるに御目覚めて、この北の障子のあなたに人のけはひするを、「こなたや、かくいふ人の隠れたる方ならむ、 あはれや」と御心とどめて、やをら起きて立ち聞きたまへば、ありつる子の声にて、
ものけたまはる。いづくにおはしますぞ」
と、かれたる声のをかしきにて言へば、
「ここにぞ臥したる。客人は寝たまひぬるか。いかに近からむと思ひつるを、されど、け遠かりけり」
と言ふ。寝たりける声のしどけなき、いとよく似通ひたれば、いもうとと聞きたまひつ。
「廂にぞ大殿籠もりぬる。音に聞きつる御ありさまを見たてまつりつる、げにこそめでたかりけれ」と、みそかに言ふ。
「昼ならましかば、覗きて見たてまつりてまし」
とねぶたげに言ひて、顔ひき入れつる声す。「ねたう、心とどめても問ひ聞けかし」とあぢきなく思す。
「まろは端に寝はべらむ。あなくるし」
とて、灯かかげなどすべし。女君は、ただこの障子口筋交ひたるほどにぞ臥したるべき。
中将の君はいづくにぞ。人げ遠き心地して、もの恐ろし」
と言ふなれば、長押なげしの下に、人びと臥して答へすなり。
「下に湯におりて。『ただ今参らむ』とはべる」と言ふ。
皆静まりたるけはひなれば、掛金を試みに引きあけたまへれば、あなたよりは鎖さざりけり。几帳きちょうを障子口には立てて、灯はほの暗きに、見たまへば唐櫃だつ物どもを置きたれば、乱りがはしき中を、分け入りたまへれば、ただ一人いとささやかにて臥したり。なまわづらはしけれど、上なる衣押しやるまで、求めつる人と思へり。
中将召しつればなむ。人知れぬ思ひの、しるしある心地して」
とのたまふを、ともかくも思ひ分かれず、に襲はるる心地して、「や」とおびゆれど、顔に衣のさはりて、音にも立てず。
うちつけに、深からぬ心のほどと見たまふらむ、ことわりなれど、年ごろ思ひわたる心のうちも、聞こえ知らせむとてなむ。かかるをりを待ち出でたるも、さらに浅くはあらじと、思ひなしたまへ」
と、いとやはらかにのたまひて、鬼神も荒だつまじきけはひなれば、はしたなく、「ここに、人」とも、えののしらず。心地はた、わびしく、あるまじきことと思へば、あさましく、
「人違へにこそはべるめれ」と言ふも息の下なり
消えまどへる気色、いと心苦しくらうたげなれば、をかしと見たまひて
「違ふべくもあらぬ心のしるべを、思はずにもおぼめいたまふかな好きがましきさまには、よに見えたてまつらじ。思ふことすこし聞こゆべきぞ」
とて、いと小さやかなれば、かき抱きて障子のもと出でたまふにぞ、求めつる中将だつ人来あひたる。
「やや」とのたまふに、あやしくて探り寄りたるにぞ、いみじく匂ひみちて、顔にもくゆりかかる心地するに、思ひ寄りぬ。あさましう、こはいかなることぞと思ひまどはるれど、聞こえむ方なし。並々の人ならばこそ、荒らかにも引きかなぐらめ、それだに人のあまた知らむは、いかがあらむ。心も騷ぎて、慕ひ来たれど、 動もなくて、奥なる御座に入りたまひぬ。
障子をひきたてて、「暁に御迎へにものせよ」とのたまへば、女は、この人の思ふらむことさへ、死ぬばかりわりなきに、流るるまで汗になりて、いと悩ましげなる、いとほしけれど、例の、いづこより取う出たまふ言の葉にかあらむ、あはれ知らるばかり、情け情けしくのたまひ尽くすべかめれど、なほいとあさましきに、
「現ともおぼえずこそ。数ならぬ身ながらも、思しくたしける御心ばへのほども、 いかが浅くは思うたまへざらむ。 いとかやうなる際は、際とこそはべなれ
とて、かくおし立ちたまへるを、深く情けなく憂しと思ひ入りたるさまも、げにいとほしく、心恥づかしきけはひなれば、
その際々を、まだ知らぬ、初事ぞや。なかなか、おしなべたるに思ひなしたまへるなむうたてありける。おのづから聞きたまふやうもあらむ。あながちなる好き心は、さらにならはぬを。さるべきにや、げに、 かくあはめられたてまつるも、ことわりなる心まどひを、みづからもあやしきまでなむ
など、まめだちてよろづにのたまへど、いとたぐひなき御ありさまの、いよいようちとけきこえむことわびしければすくよかに心づきなしとは見えたてまつるとも、さる方の言ふかひなきにて過ぐしてむと思ひて、つれなくのみもてなしたり。人柄のたをやぎたるに、強き心をしひて加へたれば、なよ竹の心地して、さすがに 折るべくもあらず。 ※注
まことに心やましくて、あながちなる御心ばへを、 言ふ方なしと思ひて、泣くさまなど、いとあはれなり。心苦しくはあれど、見ざらましかば口惜しからまし、と思す。慰めがたく、憂しと思へれば
「など、かく疎ましきものにしも思すべき。おぼえなきさまなるしもこそ、契りあるとは思ひたまはめ。 むげにを思ひ知らぬやうに、おぼほれたまふなむ、いとつらき」と恨みられて、
いとかく憂き身のほどの定まらぬ、ありしながらの身にて、かかる御心ばへを見ましかば、 あるまじき我が頼みにて、見直したまふ後瀬をも思ひたまへ慰めましを、いとかう仮なる浮き寝のほどを思ひはべるに、たぐひなく思うたまへ惑はるるなり。よし、今は見きとなかけそ
とて、思へるさま、げにいとことわりなり。おろかならず契り慰めたまふこと多かるべし
鶏も鳴きぬ。人びと起き出でて、
「いといぎたなかりける夜かな」
「御車ひき出でよ」
など言ふなり。守も出で来て、
「女などの御方違へこそ。夜深く急がせたまふべきかは」など言ふもあり。
君は、またかやうのついであらむこともいとかたく、さしはへてはいかでか、御文なども通はむことのいとわりなきを思すに、いと胸いたし。奥の中将も出でて、いと苦しがれば、許したまひても、また引きとどめたまひつつ、
いかでか、聞こゆべき世に知らぬ御心のつらさも、あはれも、浅からぬ世の思ひ出では、さまざまめづらかなるべき例かな」
とて、うち泣きたまふ気色、いとなまめきたり。
鶏もしばしば鳴くに、心あわたたしくて、
つれなきを恨みも果てぬしののめに
とりあへぬまでおどろかすらむ

女、身のありさまを思ふに、いとつきなくまばゆき心地して、めでたき御もてなしも、何ともおぼえず、常はいと すくすくしく心づきなしと思ひあなづる伊予の方の思ひやられて、 「夢にや見ゆらむ」と、そら恐ろしくつつまし
身の憂さを嘆くにあかで明くる夜は
とり重ねてぞ音もなかれける

ことと明くなれば、障子口まで送りたまふ。内も外も人騒がしければ、引き立てて、別れたまふほど、心細く、隔つる関と見えたり
直衣(なほし)など着たまひて、南の高欄にしばしうち眺めたまふ。西面の格子そそき上げて、人びと覗くべかめる。簀子の中のほどに立てたる小障子の上より仄かに見えたまへる御ありさまを、身にしむばかり思へる好き心どもあめり。
月は有明にて、光をさまれるものから、かげけざやかに見えて、なかなかをかしき曙なり。何心なき空のけしきも、ただ見る人から、艶にもすごくも見ゆるなりけり。人知れぬ御心には、いと胸いたく、言伝てやらむよすがだになきをと、かへりみがちにて出でたまひぬ。
殿に帰りたまひても、とみにもまどろまれたまはず。またあひ見るべき方なきを、まして、かの人の思ふらむ心の中、いかならむと、心苦しく思ひやりたまふ。「すぐれたることはなけれど、めやすくもてつけてもありつる中の品かな。 隈なく見集めたる人の言ひしことは、げに」と思し合はせられけり。
このほどは大殿にのみおはします。なほいとかき絶えて、思ふらむことのいとほしく御心にかかりて、苦しく思しわびて、紀伊守を召したり。
「かのありし中納言の子は、得させてむや。らうたげに見えしを。身近く使ふ人にせむ。主上にも我奉らむ」とのたまへば、
「いとかしこき仰せ言にはべるなり。姉なる人にのたまひみむ」
と申すも、胸つぶれて思せど、
「その姉君は、朝臣の弟や持たる
「さもはべらず。この二年ばかりぞ、かくてものしはべれど、親のおきてに違へりと思ひ嘆きて、心ゆかぬやうになむ、聞きたまふる」
「あはれのことや。よろしく聞こえし人ぞかし。まことによしや」とのたまへば、
けしうははべらざるべし。もて離れてうとうとしくはべれば、世のたとひにて、睦びはべらず」と申す。
源氏の君はくつろいでやすむこともできず、わびしいひとり寝と思うと目がさえて、北の障子の方に人の気配を感じ、「こちらの方に、あの女がいるのだろう、気の毒に」と心が動き、やおら起き上がって立ち聞きすると、先ほどの子の声がして、
「お訊ねします、お姉さん、どこですか」
と、かすれた声が可愛らしく聞こえ、
「ここに寝ていますよ。お客様はおやすみになりましたか。ずいぶん近いと思いましたが、そうでもないようですね」
と言う。寝しなの声がしどけなく、声がよく似ていたので、姉君だろうと見当をつけた。
「廂の間にお寝みになっております。評判のお姿を見まして、大変美しいかったです」とひそひそ声で言う。
「昼ならばわたしも見たかった」
と眠たげに言って、顔を衣にうずめた。源氏の君は「憎らしいな、もっと関心をもって欲しい」ともの足りなく思う。
「わたしは端に寝ますよ、ああ、疲れた」
と小君が言って、灯を明るくする。女君はこの障子を隔てた斜め方向に寝ているらしい。
「中将はどこにいるの。人気ひとけがないとなんだか怖いわ」
と言えば、長押しの下から人々が寝ながら答える。
「下屋に湯に下りています。『すぐ来ます』といっております」と言う。
皆静まったので、源氏が掛け金を試みにあげると、向う側は鎖していなかった。障子口に几帳を立て、灯はほの暗く、唐櫃などを置いている乱雑な中を分け入ると、空蝉はただ一人で小柄な感じで臥していた。源氏は何となく気が咎めたが、上の衣を押しやるまでは、空蝉は自分が呼んだ女房の中将と思っていた。
「中将をお召しでしょう。人知れず慕っていた甲斐がありました」
と源氏が仰せになると、なにがなんだか分からず、悪夢に襲われた心地して、「や」と怯えたのだが、顔に衣がふれて声が出ない。
「突然の一時の出来心と思われても、当然ですが、日頃の思いつめた心の内をお伝えしたいと、このような機会を待っていたのです。軽い気持ちではありません」
と優しく言って、鬼神も手荒なことはできないような気配なので、はしたなく、「ここに、人が」と叫ぶこともできない。気持ちは動転し、わびしく、あるまじきことと思えば、なさけなく、
「お人違いでしょう」と空蝉が言うのも息たえ絶えであった。
気を失いそうな気色が、源氏は、痛々しく可愛らしく、いい女と思い、
「人違いであろうはずもない、心外です、おとぼけなさいますな。一時の出来心と思われたくありません。わたしの胸の内を少し申し上げたい」
と言って、たいへん小柄なので、抱き上げて障子の処を出た時、呼んでいた中将が来あわせた。
「やや」と叫んだが、不審に思って近づくと、よい香りが満ちて、顔にもただよってきたので、思い当たった。あさましい、これはなんとしたことだと思い惑ったが、言葉にならない。相手が並みの人なら、荒っぽく引き離すのだが、それでも人に知れたら、どうしよう。中将の心が騒いで、あとからついてきたが、源氏は動じる風はなく、奥の座敷に入っていった。
障子を閉めて、「明るくなったら迎えに参れ」と言えば、女は、中将にどう思われているか、考えるだに死ぬばかり恥かしく、汗だくになって、苦しんでいたが、源氏はいとおしいと思い、例によって言葉がどこから出てくるのか、真情がつたわるように優しく手を尽くして説得するが、女はあまりのことに、
現実うつつのこととも思えません。賤しい身分の女ですから、さげすんでご覧になるお気持ちに、どうして深い心根などがありましょうか。身分の違いをお考えください」
とて、このような無体な振舞いを情の浅いゆえと嫌がっているのを、源氏は、かえっていとおしくまた手出しのできない気がして、
「 身分の違いなどよく分からぬ、これは初めてのことです。世間の好き者と同類に見られるのは、至極残念です。いずれ分かるでしょう。わたしは一時の出来心ではやりません。これも前世の因縁だろうか、こうした振舞いを軽蔑されるのも、もっともです、自分でも変だと思っているのだから」
などと源氏がまじめくさって色々言うが、空蝉は、源氏のたぐいなく美しい御姿を見るにつけ、肌を許せば自分がいっそうみじめになり、この際はっきり嫌がっていると思われて、色恋沙汰は駄目な女で押し通そうと、つれない対応をした。元来がおとなしい性格であるが、強い心で張りつめれば、なよ竹のように、さすがに容易には折れなかった。
空蝉は、すごく気分が悪く、強引なやり方に、言葉もなくただ泣いている様子は、あわれであった。源氏は、心苦しかったが、ものにしなかったら後悔すると思っていた。女は、慰めようもなく落ちこんで、
「どうしてそんなにわたしを嫌うのか、予期せぬ逢瀬こそ、前世の因縁とは思わないのか。無理に男女の仲を知らぬふりをするのが、しごく残念です」と恨みごとを言われ、
「このような身分になる前の娘の頃ならば、こうした心ばえを見ますれば、わたしの勝手な期待で、あとでまた逢えるのを慰めとしたことでしょうが、このような一夜限りの契りでは、どうしようもなく思い乱れます。決して、人に言わないで下さい」
と思うのは、まことに道理であった。源氏は、細やかに色々と約束し慰めたことだろう。
鶏も鳴いた。人々は起きてきて、
「よく眠ったなあ」
「御車を引き出せ」
など言っている。紀伊守も出て来て、
「方違なのだ、女と違う。暗いうちに急ぐこともない」など言う者もあった。
源氏の君は、またこういう機会があろうとも思えず、わざわざ来ることもないだろうし、文を交わすことも難しいだろうと、案じていた。奥から中将も出て来て、ひどく困惑しているので、源氏は女を手放し、また引きとどめたりしながら、
「どうやってお便りしましょう。類なきあなたの冷たさも、あわれを感じるわたしの気持ちも、ともに浅からぬ思い出は、稀有のことでしょう」
と、泣く様子は、たいへんなまめかしかった。
何度も鶏が鳴くので、心あわただしく、
(源氏)「あなたのつれない態度に恨み言も十分言えずに
朝になっていて起こされてしまった」
女は、自分の置かれた立場を思うと、不似合で恥かしくて、源氏の真情も、何とも思わず、いつもは不愛想で好きになれない夫のいる伊予の国の方を気にして、「もしかしたら夫が夢に見るかもしれない」と恐れていた。
(空蝉)「わが身のなさけなさを嘆き足りない夜が明けた 
鶏とともにわたしも泣いています
明るくなってきたので、女を障子口まで送った。部屋の内も外も騒がしくなり、襖を閉めると、源氏は心細く、関所で隔てられたように思えた。
源氏は、直衣に着替えて、南の高欄によりかかりしばし眺めている。西面の格子をそそくさと上げて、人々が覗いている。簀子の中ほどに立てた小障子の上に見えるお姿を、身にしむばかりに美しいと感じ入る好き者の女房たちもいる。
月は有明にて、光は和らいでいるが、かえって物の形がはっきり見えて、風情のある曙であった。空に心はないものの、見る人によって、はなやかにもさびしくも感じるものである。源氏の人知れぬ心は、胸が高ぶり、伝言する手だてもなく、後ろ髪をひかれる思いで発った。
邸に帰っても、すぐには寝ることができない。再び逢う方法がないものか、それにあの女がどう思っているのか、源氏は 心苦しく思っていた。「上等の女ではないけれど、見苦しくはないし、中の品だろう。経験豊富な人の見立ては、さすがだ」と感心して思い合わせるのだった。
最近は左大臣の邸にのみ籠っている。音信が絶えているので女がどう思っているか、気になって、思い悩み、紀伊守を呼び出した。
「あの亡き中納言の子は、任せてもらえないか。可愛いし、傍で使いたい。お上にもわたしから奏上したい」と言われたので、
「大変ありがたいお言葉です。姉に聞いてみましょう」
と言ったので、源氏は姉と聞いて胸がつぶれる思いだったが、
「その姉君には、あなたの腹違いの兄弟がいるのか」
「いえおりません。後添えになって二年ほどですが、親の志に背いたことを嘆いて、不満な気持ちでいると聞いております」
「あわれなことだ。器量が良くて評判のひとだった。実際に美しいのか」と仰ると、
「悪くはないでしょう。継母はよそよそしい態度ですので、世間で言う通り、親しくしておりません」と言う。
2022.12.28◎
2.12 それから数日後
さて、五六日ありて、この子()て参れり。こまやかにをかしとはなけれど、 なまめきたるさまして、 あて(びと)と見えたり。召し入れて、いとなつかしく語らひたまふ。童心地に、いとめでたくうれしと思ふ。 いもうとの君のことも詳しく問ひたまふ。さるべきことは(いら)へ聞こえなどして、恥づかしげにしづまりたれば、うち出でにくし。されど、いとよく言ひ知らせたまふ。
かかることこそはと、ほの心得るも、思ひの外なれど、幼な心地に深くしもたどらず。御文を持て来たれば、女、あさましきに涙も出で来ぬ。この子の思ふらむこともはしたなくて、さすがに、御文を面隠おもがくしに広げたり。いと多くて、
見し夢を逢ふ夜ありやと嘆くまに
目さへあはでぞころも経にける

寝る夜なければ
など、目も及ばぬ御書きざまも、霧り塞がりて、心得ぬ宿世うち添へりける身を思ひ続けて臥したまへり
またの日小君(こぎみ)召したれば、参るとて御返り乞ふ。
「かかる御文見るべき人もなし、と聞こえよ
とのたまへば、うち笑みて、
違ふべくものたまはざりしものを。いかが、さは申さむ」
と言ふに、心やましく、残りなくのたまはせ、知らせてけると思ふに、つらきこと限りなし。
「いで、およすけたることは言はぬぞよき。さは、な参りたまひそ」とむつかられて、
召すには、いかでか」とて、参りぬ。
紀伊守、好き心にこの 継母(ままはは)のありさまをあたらしきものに思ひて、追従しありけば、この子をもてかしづきて、率てありく。
君、召し寄せて、
「昨日待ち暮らししを。なほあひ思ふまじきなめり」
と怨じたまへば、顔うち赤めてゐたり。
いづら」とのたまふに、しかしかと申すに、
「言ふかひなのことや。あさまし」とて、またも賜へり。
「あこは知らじな。その伊予の翁よりは、先に見し人ぞ。されど、頼もしげなく(くび)細しとて、ふつつかなる後見(うしろみ)まうけて、かく侮りたまふなめり。さりとも、あこはわが子にてをあれよ。この頼もし人は、行く先短かりなむ」
とのたまへば、「さもやありけむ、いみじかりけることかな」と思へる、「をかし」と思す。
この子をまつはしたまひて、内裏(うち)にも()て参りなどしたまふ。わが御匣殿(みくしげどの)にのたまひて、装束などもせさせ、まことに親めきてあつかひたまふ。
御文(おんふみ)は常にあり。されど、この子もいと幼し、心よりほかに散りもせば軽々しき名さへとり添へむ身のおぼえをいとつきなかるべく思へば、めでたきこともわが身からこそと思ひて、うちとけたる御答(おんいらえ)へも聞こえず。ほのかなりし御けはひありさまは、「げに、なべてにやは」と、思ひ出できこえぬにはあらねど、「をかしきさまを見えたてまつりても、何にかはなるべき」など、思ひ返すなりけり。
君は(おぼ)おこたる時の間もなく、心苦しくも恋しくも思し出づ。(おも)へりし気色などのいとほしさも、晴るけむ方なく思しわたる。軽々しく這ひ紛れ立ち寄りたまはむも、人目しげからむ所に、便なき振る舞ひやあらはれむと、人のためもいとほしく、と思しわづらふ。
例の、内裏に日数経たまふころ、さるべき方の忌み待ち出でたまふ。にはかにまかでたまふまねして、道のほどよりおはしましたり。
紀伊守おどろきて、遣水の面目とかしこまり喜ぶ。小君には、昼より、「かくなむ思ひよれる」とのたまひ契れり。明け暮れまつはし馴らしたまひければ、今宵もまづ召し出でたり。
女も、さる御消息ありけるに、思したばかりつらむほどは、浅くしも思ひなされねど、さりとて、うちとけ、 人げなきありさまを見えたてまつりても、あぢきなく、夢のやうにて過ぎにし嘆きを、またや加へむ、と思ひ乱れて、なほさて待ちつけきこえさせむことのまばゆければ、小君が出でて往ぬるほどに、
「いとけ近ければ、かたはらいたし。なやましければ、忍びてうち叩かせなどせむに、ほど離れてを」
とて、渡殿(わたどの)に、中将(ちゅうじょう)といひしが局したる隠れに、移ろひぬ。
さる心して人とく静めて、御消息あれど、小君は尋ねあはず。よろづの所求め歩きて、渡殿に分け入りて、からうしてたどり来たり。いとあさましくつらし、と思ひて、
「いかにかひなしと思さむ」と、泣きぬばかり言へば、
「かく、けしからぬ心ばへは、つかふものか。幼き人のかかること言ひ伝ふるは、いみじく忌むなるものを」と言ひおどして、「『心地悩ましければ、人びと避けずおさへさせてなむ』と聞こえさせよ。あやしと誰も誰も見るらむ」
と言ひ放ちて、心の中には、「いと、かく品定まりぬる身のおぼえならで、過ぎにし親の御けはひとまれるふるさとながら、たまさかにも待ちつけたてまつらばをかしうもやあらまし。しひて思ひ知らぬ顔に見消(みけ)つもいかにほど知らぬやうに思すらむ」と、心ながらも、胸いたく、さすがに思ひ乱る。「とてもかくても、今は言ふかひなき宿世なりければ、無心に心づきなくて止みなむ」と思ひ果てたり。
君は、いかにたばかりなさむと、まだ幼きをうしろめたく待ち臥したまへるに、 不用なるよし聞こゆればあさましくめづらかなりける心のほどを、「身もいと恥づかしくこそなりぬれ」と、いといとほしき御気色なり。とばかりものものたまはず、いたくうめき憂しと思したり。
「帚木の心を知らで園原の
道にあやなく惑ひぬるかな

聞こえむこそなけれ」
とのたまへり。女も、さすがに、まどろまざりければ、
「数ならぬ伏屋に生ふる名の憂さに
あるにもあらず消ゆる帚木」

と聞こえたり。
小君、いといとほしさに眠たくもあらでまどひ歩くを、人あやしと見るらむ、とわびたまふ
例の、人びとはいぎたなきに、一所(ひとところ)すずろにすさまじく思し続けらるれど人に似ぬ心ざまの、なほ消えず立ち上れりける、とねたく、かかるにつけてこそ心もとまれと、かつは思しながら、めざましくつらければ、さばれと思せども、さも思し果つまじく、
「隠れたらむ所に、なほ率て行け」とのたまへど、
「いとむつかしげにさし籠められて、人あまたはべるめれば、かしこげに」
と聞こゆ。いとほしと思へり。
よし、あこだに、な捨てそ
とのたまひて、御かたはらに臥せたまへり。若くなつかしき御ありさまを、うれしくめでたしと思ひたれば、つれなき人よりは、なかなかあはれに思さるとぞ
さて五六日して、その子を連れてきた。細かいところまで申し分ないとは言えないが、貴人らしくはあった。源氏は招じ入れて、優しく話をする。子供心にも、源氏を立派な人と思い、うれしく感じた。姉のことも詳しく問うた。答えられることには答えるが、気まずくなるくらい喋らないので、源氏もなかなか用向きを言い出しにくい。だがうまく言い含めた。
男女の仲のことは、なんとなく分かったが、意外だったので、子供心に深くは考えなかった。小君が源氏の文を持ってくると、空蝉は情けなく、涙をこぼした。弟がどう思うかも気になり、さすがに手紙を面隠おもがくしに広げた。こまごまと書かれていて、
(源氏)「先夜の逢瀬は夢であったか、またいつ逢えるのか
眠れずに時がすぎてゆく
恋しくて寝られません」
など、目の覚めるような筆跡に、空蝉はたちまち目が曇り、意に沿わぬ宿世のわが身を思い、床に臥した。
翌日、小君は召されて、参上するので手紙の返事を催促した。
「あのような文は見るべき人がおりません、と言いなさい」
と言ったので、微笑んで、
「間違いないと仰いました。そんなことは言えません」
と小君が言うと、姉は心やましく感じ、また全部話されて小君に知られていると思うと、限りなくつらかった。
「まあ、ませたことを言うんじゃありません。では、行かぬがいい」と気を悪くされて、
「お召しがあったのに、参上しないわけには」とて、邸へ向かった。 
紀伊守は、根が好色で、この継母をこのままでは惜しいと思い、へつらいの心があって、この子を大事にし、連れ歩いた。
源氏は小君をそばに寄せて
「昨日は待ったぞ。わたしほどお前は好きになってくれないのだね」
となじったので、小君は顔を赤らめた。
「どうだった」と聞くと、しかじかと答える。
「駄目だね。なさけない」と言って、また文を渡した。
「お前は知らないだろう。あの伊予の爺さんよりも、わたしが先なのだ。だが、頼りにならない首の細い男と思われたから、無骨な爺さんを後見にして、わたしを軽く見たのだ。だがお前はわたしの子のつもりでいてくれ。頼りの爺さんは、老い先長くはないよ」
と言うので「そうだったのか。深刻な話だな」と小君が思い込むのを、「可笑しい」と思う。
源氏は、この子をいつも側に従えて、内裏にも連れて行く。自分の裁縫所に言って、相応の衣装も作らせ、本当の親のように世話をしていた。
源氏の文はしきりに寄せられた。しかし、空蝉は思う、この子も幼いし、思いがけず世間に漏れてしまえば、幼い子を使った軽薄さも加わり、この身に不相応な噂が立つだろう、うれしい気持ちも自分の身分を考えて、親しい返事は出さなかった。あの夜のほのかな気配は、「さすが、特別だ」と思い出すが、「風流の遊びの相手をして何になろう」などと、思い返した。
源氏は、思いのやむ時がなく、恋い焦がれていた。空蝉のもの思わし気な様子を思い、気持ちの晴れる時がなかった。軽々しく忍んで寄っても、人目の多い所だから、不都合なふるまいが露顕すると、空蝉に迷惑をかけると思い悩んでいた。
いつものように内裏で過ごしていて、ある方塞がりを待っていた。左大臣邸へ行くふりをして途中から急に中川に向かった。
紀伊守はおどろき、遣水が気に入られたのだ、と喜んだ。小君には昼に、「こうするつもりだ」と、言い含めていた。朝夕そばで使っていたので、今宵もまず小君を呼んだ。
女も、手紙で知らされていたので、策を弄する心ばえは浅くはないと思ったが、そうかといって、うちとけて、見苦しい姿をお見せするのも情けなく、夢のように過ぎた先夜の嘆きをまた嘆くのかと、思い悩み、このままお待ちするのもとても気恥かしかったので、小君が出て行くと、
「寝所があまりに近いので、都合が悪い。気分が悪く、こっそり肩など叩いてもらうので、もっと離れた処に」
とて、渡殿の中将の局に移った。
予定通り、供の者たちを早く休ませ、手紙をもたせたが、小君は姉の居所が分からない。あちこち探して、渡殿に分け入り、やっと探しあてた。なさけない気持ちになって、
「頼りにならない奴と思われます」と泣き出しそうに言えば、
「いけません、こんなことに関わっては。子供がこんな取り次ぎするのはいけないことよ」と叱って、「『大儀なので、侍女たちを側に呼んであんまをしてもらっています』と言いなさい。誰だってお前を不審に思いますよ」
と言い放ったが、心のなかでは、「このように受領(ずりょう)の妻となってしまわずに、亡くなった親の気配の残る実家で、たまに来るのを待っているのなら、楽しくもあろう。あえて源氏の御心を無視して、どんなに身の程知らぬ女と思われているだろう」と、自分で決めたことながら胸が痛み、思い悩んだ。「とにかく、今はどうにもならない宿世であれば、情のない女で通そう」と心に決めたのであった。
源氏は、小君がどのようにやっているのか、幼いので心配しながら、臥して待っていたが、駄目でしたとの報告を受けて、女の驚くべき稀有な気性を知り、「自分が恥かしくなった」と気の毒な程落ちこんだ。しばしものも言わず、ひどくがっかりした。
(源氏)「近づけば消える帚木のようなあなたの心も知らず
園原に来てすっかり道に迷ってしまった
言う術もありません」
と詠った。女も、さすがに寝られないので、
(空蝉)「貧しい伏屋に生まれた卑しい身ですので
居たたまれずに帚木のように消えるのです」
と返歌した。
小君は、君を気の毒に思い、眠くもならずうろうろしていたが、空蝉は侍女たちに不審に思われることを心配した。
例のとおり、人びとは寝込んで、源氏は一人興ざめた気持ちで覚めていたが、女の類い稀な気性が消えずに立って、それがくやしく、だから心惹かれるのかとも思いながら、ひどく辛い気持ちになって、どうにでもなれとも思うが、納得できず、
「隠れている処に連れてゆけ」と仰せになったが、
「むさくるしい所に錠をかけて籠っているので、人も多く、恐れ多いです」
と申し上げる。小君は大変お気の毒に思った。
「よし、お前だけはわたしを捨てないでくれ」
と仰って傍らに寝かせた。若くて優しい所作を、小君は、よろこばしく立派だと慕っていたので、源氏はつれない空蝉よりはずっといとしく思ったそうである。
2016.7.14/ 2021.5.24/2022.12.28◎

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読書期間2016年4月29日 - 2016年7月14日