様々な思想


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召し人たち

私が和泉式部の行状を「けしからぬ」と言ったのは、彼女がもともと自宅住まいの人妻という「里の女」の身でありながら夫以外の男性と関係したこと、またその相手が二人ながら宮様で、しかも兄弟という人騒がせな恋だったからだ。里の女ではなく女房ならば、幾人もの男を次々と相手にすることは、さして珍しくない。相手が高貴な殿方ならば、浮名は女房にとって決して不名誉ではなく、むしろ誇れることである。また殿方にとっても、恋や和歌は風流の面目を表し、世間に自慢できることだ。『御饌ごせん和歌集』などは、勅撰和歌集ながら公卿方と女房との恋を隠さず記し、二人が交わした和歌を載せる。無論、実名でだ。

ただ、女房とその主家の殿方との関係となると、話は違う。例えば女房を御帳台に呼んで足をもませるうちに主人が手をつけてしまうなどということは、しょっちゅうあって特に言い立てるにも及ばないことだ。こうした女房を呼ぶ「うど」という言葉もある。だがこれは、人様の前で堂々と話題にできることではない、むしろ外聞を憚る関係だ。理由はおそらく、恋ではないから。殿方にとって召し人は、風流の相手ではなくて、手軽な性のけ口だからだ。

 

召し人たちは、その殿方とどんなに長く男女の関係を続けようとも、恋人や妻の一人として数えられることはない。北の方も、夫が家の女房と通じたことを知っても、新しい妻を迎えた時のように目くじらを立てることはしない。召し人との関係は、黙殺すべきものとなっているのだ。彼女らは社会的に存在しないことになっている、主の女たちだ。だから世に名前が伝わることは、普通はない。

例えば私の同僚の大納言の君は、殿と男女の関係であることが世に周知されていた。それは彼女が殿のただのお手つきだからではなく、それなりにきちんとした愛情をかけられていたからだ。殿の北の方の倫子様が、「大納言の君なら、姪だから大目に見る」とお許しになったというのも、「召し人」ではないからこそ、許す許さないが問題になったのだ。その意味では、彼女は単なる召し人とは言い難い。和泉式部も、敦道親王の邸宅に迎えとられた時には女房の扱いだったから。形としては「召し人」となる。だが二人は強く愛し合っていた。親王は彼女を、「妻」と呼び、世間もその愛情を知っていた。だからやはり、本当の召し人ではない。

だが、彼女たちのような日の当たる召し人はは例外で、召し人とは本来が日陰の存在、名前のない、主家にとって恥にあたる女だ。女房になれば、そうした存在にさせられる可能性は、誰にでもある。女房として生きるからには、それを覚悟し、受け入れなくてはならないのだ。されに言えば。、「一時的に主人の手がついても、「召し人」にもならず、やがて関係の途絶えてしまう女房もいる。主家の殿方が、気まぐれに幾度か手を伸ばしただけで、後は関係したことを忘れたかのように捨て置かれる女房だ。そんな関係から生まれて来る赤ん坊も、女房の世界には、時にいる。

私は『源氏の物語』に、召し人たちを幾人も登場させた。光源氏の正妻の女房だった中納言の君。きさき候補として高慢に育てられた正妻は、年上ということも手伝い夫の光源氏には冷淡で、若い彼が求めても相手にしない夜が多い。その彼女付きの女房の中に、光源氏は自然に召し人を持った。他の物語ならば、彼女の存在は記されまい。しかし私は、中納言の君に名前と人格を与え、光源氏と別れの場面では涙を流させた。また、夕顔の娘に恋する髭面で無骨な大将宅の女房である、木工の君と中将のおもと。大将は壮年だが、妻が長らく病んでおり、彼の相手を務めることができない。そんな彼が、ごく手近な家の女房を、しかも二人も召し人としているのは、、手間をかけて恋せぬ無粋な男だからだ。だが彼が若い新妻を手に入れるや、彼女たちは棄てられる。その事態に。彼女たちは分際なりに不安と恨みを感じ、また口にするのだ。

そして宇治十帖の、中将の君。桐壷の帝の皇子ながら零落した八の宮は、次女の出産で妻を喪う。口ばかりは出家したいと言いながら、彼の体は手近なところに性を求めて、亡妻の姪で女房として仕えていた彼女を寝屋の相手とする。だが、中将の君が娘を産むや、八の宮は彼女を厭い、子供ともども見捨てる。中将の君は踏みにじられた哀しさと悔しさとを心に抱きながら生きるいっぽう、愛を注いで娘を育てる。この娘こそが、『源氏の物語』最後の女主人公だ。

私なんと様々の環境の女たちを見てきたことだろうか。下流から上流の際にまで至る貴族の娘たち、また妻たち、そして女房たち。皆の顔が脳裏に浮かぶ。誰もが「世」を負い「身」を生きていた。そして当然のこと、誰も心があった。私はそんな女たちの心を、せめて私の『源氏の物語』の中では言葉と声にして響かせたい、そう思った。

『紫式部ひとり語り』山本淳子著 角川ソフィア文庫

Peter Milward氏のシェイクスピアと源氏という文章を読んだ時、とっぴでもないことを論じるのだなあと思ったが、その中の主要な論点のひとつは、『源氏物語』の主人公は男性の源氏ではなく、登場する女性たちの苦境を書いているのだと語っていた。この山本淳子さんの本を読んでいて、そのことを思い出した。よく読んでいる人は意見が一致するのだなあと思って、ここに引用しました。 管理人

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公開日2024年9月20日