いづれの経論も釈尊のときおき給へる経教なり。しかれば法華涅槃等の大乗経を修行して、 仏になるになにのかたき事かあるらん。それにとりてことに法華経は、三世の諸仏もこの経によりて仏になり、 十方の如来もこの経によりて正覚をなり給ふ。しかるに法華経などをよみたてまつらんになにの不足かあらん。 かやうに申す日はまことにさるべき事なれども、われらが器量はこの教におよばざるなり。 その故は、法華には菩薩声聞を機とする故に、われらが凡夫はかなふべからずと思ふべき也。しかるに阿弥陀ほとけの本願は、 末代のわれらがためにおこし給へる願なれば、利益いまの時に決定往生すべき也。わが身は女人なればとおもふ事なく、わが身 は罪悪深重の身なればといふ事なかれ。もとより阿弥陀仏は罪悪深重の衆生の、三世の諸仏も十方の如来もすてさせ給ひ たるわれらを、迎へんと誓い給ひける願にあひたてまつれり。往生うたがひなしと深く思ひいれて南無阿弥陀仏南無 阿弥陀仏と申せば、善人も悪人も、男子も女人も、十人は十人ながら、百人は百人ながらみな往生をとぐるなり。
法華経は諸仏如来一大事因縁なり。大師釈尊所説の諸経のなかには法華経これ大王なり、大師なり。余経 余法はみなこれ法華経の臣民なり、眷属なり。法華経中の所説これまことなり、余経中の所説みな方便を帯せり。ほとけの 本意にあらず。余経中の説をきたして法華経に比校したてまつらん、これ逆なるべし。法華の功徳力をかうぶらざれば余経ある べからず。余経みな法華に帰投したてまつらんことをまつなり。この法華経のなかにいまの説まします。しるべし、三宝の 功徳まさに最尊なり、最上なりといふことを。
おほよそ震旦にこの経つたはれ、転法華してよりこのかた数百歳、あるひは疏釈をつくるともがらままにしげし。また この経によりて上人の法をうるもあれども、いまわれらが高祖曹渓古仏のごとく法華転の宗旨をえたるなし。転法華の宗旨 つかふあらず、いまこれをききいまこれにあふ古仏の古仏にあふにあへり。古仏土にあらざらんや。よろこぶべし。劫より 劫にいたるも法華なり、昼より夜にいたるも法華なり。法華これ従劫至劫なるがゆゑに、法華これ乃昼乃夜なるがゆゑに。 たとひ自身心を強弱すともさらにこれ法華なり。あらゆる如是は珍宝なり、光明なり、道場なり、広大深遠なり。深大久遠 なり、心迷法華転なり、心悟転法華なる。実にこれ法華転法華なり。心迷法華転、心悟転法華、究尽能如是、法華転法華。 かくのごとく供養、供敬、尊重、讃歎する法華是法華なるべし。
夫法華経と申すは、八万法蔵の肝心、十二部経の骨髄也。三世の諸仏は此の経を師として正覚を成じ、十方 の仏陀は一乗を眼目として衆生を引導し給ふ。今現に経蔵に入って此を見るに、後漢の永平より唐の末に至るまで渡れる所の 一切経論に二本あり。所謂旧訳の経は五千四十八巻也、新訳の経は七千三百九十九巻也。彼の一切経は皆各各分分に随って 我第一也となのれり。然るに法華経と彼の経経とを引き合わせて之を見るに、勝劣天地也、高下雲泥也、彼の経経は衆星 の如く、法華経は月の如し。彼の経経は燈炬星月の如く、法華経は大日輪の如し。
慈恩大師は深密経、唯識論を師として法華経を読み、嘉祥大師は般若経、中論を師として法華経を読む。杜順、法蔵等 は華厳経、十住毘婆沙論を師として法華経をよみ、善無畏、金剛智、不空等は大日経を師として法華経をよむ。此等の人人 は各法華経をよむと思へども未だ一句一偈もよめる人には非ず。詮を論ずれば伝教大師理りて云わく、法華経を讃ずと雖も 還って法華経の心を死すと云々。例せば、外道は仏教をよめども外道と同じ、蝙蝠が昼を夜と見るが如し、又赤き面の者は 白き鏡も赤しと思ひ、太刀に顔をうつせるもの、円かなる面をほそながし思うに似たり。今日蓮は爾らず。已今当の経文 を深く護り、一経の肝心たる題目を我も唱へ人にも勧む。麻の中の蓬、墨うてる木の如し。自体は正直ならざれども 自然に直くなるが如し。経のままに唱へればまがれる心なし。当に知るべし、仏の御心の我等が身に入らせ給はずば 唱えがたき題目なる與。
問うていはく、たとひ三諦円融の観をなして即身自仏のさとりをとることかなはずとも、ただ法華経を 受持読誦して成仏せんことは、いかなる下根の機なりともなどかかなはざらん。経文のごときは 1於我滅度後、 応受持此経、 是人於仏道、 決定無有疑ともいひ、あるひは 2若有聞法者、 無一不成仏ともときたれば、 この経によりて修行せば速疾の益をえんことかたからざるものをや。
答へていはく、まことに法華経を受持読誦せんこと功徳莫大なり、その益むなしかるべからず。ただし天台の こころによりておもふに、理の観解をもて本として、そのうへに事の修行をいたすを本意とす。経に如説修行ととけるは すなはち3解行具足の義をあらはすなり。ただ文字を読誦せんばかりは遠因とはなるとも、直に成仏の因とはさだめがたし。 ・・・また、一家のこころによるに、止観に釈するがごときは、この経を修行するに五縁具足すべきことをあかせり。五縁 といふは、一つには衣食具足、二つには持戒清浄、三つには常居閑処、四つには息諸縁務、五つには得善智識なり。五縁の うち、もしひとつもかけなば道行を成じがたく、功徳をえがたきものなり。なかんづくに法華と念仏と、ともに仏智一乗 の法なるがゆゑに、その体一つなり。しかれども聖のためには法華ととき凡のためには念仏ととく。、凡聖の二機に対する ところ各別なるがゆゑに、難行易行の二道あひわかれたり。障重根鈍のともがら、無相の観解をこらしがたく如説の行を 修しえずば、もとも易行の念仏をつとめて、はやく易行の浄土に生ずべし。いはんや天台大師も、あるひは観経の疏を製し、 あるひは十疑をつくりて弥陀の利生を人にもすすめ、安養の往生をみづからも願じたまえり。されば天台の経文を学せん につけても弥陀を念じ、法華の巨益をあふがんについても本願を信ずべきなり。
註
1 於我滅度後、応受持此経、是人於仏道、決定無有疑 わが滅度の後において この経を受持すべし この人は仏道において
決定して疑い有ること無かならん(如来神力品第二十一)
2 若有聞法者、無一不成仏 若し法を聞くことあらん者は 一人として成仏せずということなからん(方便品第二)
3 解行 解釈(理解・理論)と実践(修行)のこと。
如何して法華真の面目を徹見すべきぞとならば、先須らく大疑団を起こすべし。何物を指してか法華真の面目とはするぞ、 自己本有の妙法の一心なりと聞くからに、自心を見るにしかず。自心とは如何なるものぞ、白き物とやせん、赤き物とやせん。 是非是非一回見得すべきぞと猛く甲斐甲斐しき志を震って、大誓願を起こして昼夜に究め見るべし。自心を参究するに、行持は様様 多き中に、法華経の行者ならば、法華三昧の行持に越えたる事や侍るべき。法華三昧の行持とは、今日より思ひ立ちて、憂きにつけ つらきにつけ、悲しきにつけ嬉しきにつけ、寝ても覚めても、起っても居ても、只管に法華の首題を南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経 と間もなく唱へらるべし。此の首題を杖にも力にもして、是非とも法華真の面目を見届くべしと、深く望をかけて唱へらるべし。 願はくば出づる息入る息を題目にしてほしき事よと、随分親切に断間もなく唱へらるべし。唱へ唱へて怠らずんば、久しからずして 心性たしかに、大石などを淘り居ゑたる如くにして、安住不動、如須彌山の心地はほのかに覚えあるべし。其の時にすて置かず、 随分唱へらるべし。いつしか聞き及びし正念工夫の大事に契當して、平正の心意識情都べて行はれず、金剛圏に入るが如く、瑠璃 瓶裏に坐するに似て、一点の計較思想なく、忽然として大死底の人と異る事なけん。纔かに蘇息し来たらば覚えず純一無雑、打成 一片の真理現前して、立処に法華真の面目に撞著して、忽ち身心を打失し、本門寿量、久遠実成の如来は、目前に分明にして 推せども去らじ、此の時に当って、天台の法性寂然而常照の宝所に投入し、真言の阿字不生の慧日に照らされ、律宗の諸仏無上 の金剛宝戒に冥合し、浄土の即心往生極楽報土の素懐を遂げ、水鳥樹林、念仏念法念僧の妙荘厳をまのあたり見届け、娑婆即 寂光の正眼を開き、草木国土悉皆成仏の田地に至らん事、毫釐も相違あるべからず。然らば則ち人中天上の善果、何事かこれに しかんや。是即ち三世の諸仏出世の本懐なり。一遍の題目は、禅門一則の話頭と其の功異なる事なし。