HOME表紙へ 日記目次 紫式部年譜
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第一部 敦成親王誕生記

《第一章 寛弘五年(一〇〇八)秋の記》
1.1.1 【一 土御門殿邸の初秋の様子】
 秋のけはひ入りたつままに、土御門殿つちみかどどののありさま、いはむかたなくをかし。池のわたりの梢ども、遣水やりみづのほとりの草むら、おのがじし色づきわたりつつ、大方の空も艷なるにもてはやされて、不断の御読経の声々、あはれまさりけり。やうやう凉しき風のけはひに、例の絶えせぬ水の音なひ、夜もすがら聞きまがはさる。 秋の気配が深まり、土御門殿の邸は、言いようもなく風情があった。池のほとりの梢や遣水に沿った草むらは、それぞれに色づき始め、今日この頃の空が美しいのにひきたてられって、絶え間のない安産読経の声が響き渡って、いっそうあわれを感じた。ようやく風が涼しくなり、例の絶え間ない遣水の音が夜通し読経の声にまじって聞こえた。
御前にも、近うさぶらふ人びとはかなき物語するをきこしめしつつ、悩ましうおはしますべかめるを、さりげなくもて隠させたまへる御ありさまなどの、いとさらなる事なれど、憂き世の慰めには、 かかる御前をこそ、尋ね参るべかりけれと、現し心をばひき違へ、たとしへなくよろづ忘らるるも、かつはあやし。 宮様にあっては、侍女たちのとりとめのない話を聞いても、身重な体で苦しいに違いないのだが、さりげなくされてそのことを感じさせない様子が立派なのはいうまでもなく、憂き世の慰めには、このようなお方にお仕えすべきで、平常の気持ちと違って、例えようもなく一切の憂さが消えてしまうのも、不思議だ。
1.1.2【二 五壇の御修法】
 まだ夜深きほどの月さし曇り、木の下をぐらきに、  「御格子参りなばや。」  「女官は、今までさぶらはじ。」  「蔵人参れ。」 など言ひしろふほどに、後夜の鉦打ち驚かして、五壇の御修法の時始めつ。われもわれもと、うち上げたる伴僧の声々、遠く近く、聞きわたされたるほど、おどろおどろしく尊し。 まだ夜も深く月も曇り、木の下も暗いときに、「格子を上げたいね」「女官はまだ出仕していないでしょう」「蔵人に上げさしたら」など言い合っているうち、後夜の鐘が鳴って驚き、五壇の御修法が始まった。われもわれもと張り上げた僧たちの声が、遠く近くに聞こえて、重々しく尊い。
 観音院の僧正、東の対より、二十人の伴僧を率ゐて、御加持参りたまふ足音、渡殿の橋のとどろとどろと踏み鳴らさるるさへぞ、ことごとのけはひには似ぬ。法住寺の座主は馬場の御殿、浄土寺の僧都は文殿などに、うち連れたる浄衣姿にて、ゆゑゆゑしき唐橋どもを渡りつつ、木の間をわけて帰り入るほども、遥かに見やらるる心地してあはれなり。斎祇阿闍梨も、大威徳を敬ひて、腰をかがめたり。人びと参りつれば、夜も明けぬ 観音院の僧正が、東の対で二十人ほどの僧たちを率いて、加持に参上する足音、渡殿の橋をどんどんと踏み鳴らして渡るさまは、普通ではない。法住寺の座主は馬場に面した殿舎、浄土寺の僧都は書庫を控室にして、おそろいの浄衣姿で趣向をこらした唐橋を渡って、木の間を通って帰る様子もずっと遠くまで見える心地がして、さいき阿闍梨も大威徳を敬って、腰をかがめて拝礼している。女官たちが出仕してくると、夜が明ける。
1.1.3【三 道長との女郎花の歌の贈答】
渡殿の戸口の局に見出だせば、ほのうち霧りたる朝の露もまだ落ちぬに、殿歩かせたまひて、御隨身召して、遣水払はせたまふ。橋の南なる女郎花のいみじう盛りなるを、一枝折らせたまひて、几帳の上よりさし覗かせたまへる御さまの、いと恥づかしげなるに、我が朝顏の思ひ知らるれば、「これ、遅くては悪ろからむ。」とのたまはするにことつけて、硯のもとに寄りぬ。
  女郎花盛りの色を見るからに
  露の分きける身こそ知らるれ(一)

「あな、疾。」と、ほほ笑みて、硯召し出づ。
  白露は分きても置かじ女郎花
  心からにや色の染むらむ(二)
渡殿の戸口の局から見れば、朝霧の露もまだ残っているのに、道長様が歩いていて、随身を呼んで、遣水が通るように手入れさせた。橋の南の女郎花が今が盛りと咲いているのを、一枝折って、わたしの几帳の上から覗いている様子が、とても立派なお姿なので、起きたままの素顔が恥ずかしく思っていると、「この和歌遅かったら、興覚めでしょう」というので、硯の処に急いだ。
  女郎花が今が盛りと露をおいて咲います
  露は別け隔てしてわが身においてくれません(一)
「さすが、早いこと」と、ほほ笑んで、硯を求める。
  白露は分け隔てしないでしょう
  女郎花は自ずから咲き誇っているのでしょう(二) 
1.1.4 【四 殿の子息三位の君頼通の姿】
 しめやかなる夕暮に、宰相の君と二人、物語してゐたるに、殿の三位の君、簾のつま引き上げてゐたまふ。年のほどよりはいと大人しく、心にくきさまして、  「人はなほ心ばへこそ、難きものなめれ。」 など、世の物語、しめじめとしておはするけはひ、幼しと人のあなづりきこゆるこそ悪しけれと、恥づかしげに見ゆ。うちとけぬほどにて、  「多かる野辺に」 とうち誦じて、立ちたまひにしさまこそ、物語にほめたる男の心地しはべりしか。かばかりなる事の、うち思ひ出でらるるもあり、その折はをかしきことの、過ぎぬれば忘るるもあるは、いかなるぞ。 しっとりした夕暮れ、宰相の君と二人で話をしていた時、道長様の子息の頼通様が簾の下を持ち上げた。年の頃よりは大人びて、奥ゆかしい様をして、「女はなんといっても心ばえでしょう。難しいようですが」など、男女の物語を、しんみり話する様子は、幼いと人が軽く見るのは間違いで、とても立派に見える。打ち解けた話にならないていどに 「多かる野辺に」と口ずさんでお立ちになったのは、物語でよくほめる男の様だ。 この程度のことを思い出すのも、その時は面白いと思ったことも、過ぎてしまえば忘れてしまうのは、どういうことだろう。
1.1.5【五 碁の負わざ】
播磨守、碁の負けわざしける日あからさまにまかでて、後にぞ御盤のさまなど見たまへしかば、華足などゆゑゆゑしくして、洲浜のほとりの水に書き混ぜたり
  紀伊の国の白良しららの浜に拾ふてふ
  この石こそは巌ともなれ(三)

扇どもも、をかしきを、そのころは人びと持たり。
播磨の守が、碁の負けわざで饗応したとき、わたしはちょっと里にさがっていて、あとで見せてもらったのですが、盤など拝見すると、華足など奥ゆかしくて、作り物の洲浜の水辺においてあった。
  紀伊の国の白良の浜で拾ったという
  この石こそは御代末永く巌となりますように(三)
扇なども、趣向を凝らしたものを、その頃の人は持っていた。
1.1.6【六 八月二十日過ぎの宿直の様子】
八月二十余日のほどよりは、上達部殿上人ども、さるべきはみな宿直がちにて、橋の上、対の簀子すのこなどに、みなうたた寝をしつつ、はかなう遊び明かす。琴、笛の音などには、たどたどしき若人たちの、読経あらそひ、今様歌どもも、所につけてはをかしかりけり。 宮の大夫だいぶ<斉信>左の宰相中将<経房>兵衛の督美濃の少将<済政>などして、遊びたまふ夜もあり。わざとの御遊びは、殿おぼすやうやあらむ、せさせたまはず。 お産も近い八月二十余日ころからは、上達部、殿上人は、宿直すべき人はみな泊まることが多く、橋の上や対の屋の簀子に仮寝して、とりとめのない演奏をしたりして夜を明かした。琴、笛などまだうまく習熟していない若人たちが、読経を競ったり、今様のはやり歌なども、その時は面白かった。宮の大夫斉信ただのぶ様、左の宰相中将の経房よしふさ様、右衛門督様、美濃守の少将様、などが一緒に演奏して遊ぶ夜もあった。表立った管弦の遊びは、道長様にお考えがあるのだろう、させなかった。
 年ごろ里居したる人びとの、中絶えを思ひ起こしつつ、參り集ふけはひ騒がしうて、そのころはしめやかなることなし。 長年里帰りしていた人々が、ご無沙汰を思い出して、参上するときはにぎやかで、そんな時は邸もざわついていた。
1.1.7【七 八月二十六日、弁宰相の君の昼寝姿】
 二十六日、薫物たきもの合せ果てて、人びとにも配らせたまふ。まろがしゐたる人びと、あまた集ひゐたり。 八月二十六日、薫物の調合が終わって、中宮様は女房たちにお分けになる。薫物を丸めていた女房たちはたくさんいた。
 上より下るる道に、弁の宰相の君の戸口をさし覗きたれば、昼寝したまへるほどなりけり。 はぎ紫苑しおん、色々の衣に、濃きが打ち目心ことなるを上に着て、顏は引き入れて、硯の筥に枕して臥したまへる額つき、いとらうたげになまめかし。絵に描きたるものの姫君の心地すれば、口おほひを引きやりて、  「物語の女の心地もしたまへるかな。」 といふに、見上げて、  「もの狂ほしの御さまや。寝たる人を心なく驚かすものか。」 とて、すこし起き上がりたまへる顏の、うち赤みたまへるなど、こまかにをかしうこそはべりしか。  大方もよき人の、折からに、又こよくなくまさるわざなりけり。 中宮様の御前から下がる途中で、弁の宰相の君の戸口を覗くと、昼寝の最中だった。萩・紫苑などいろいろな色目の衣に、濃い紅の砧を打った艶のある袿をかけて、顔は埋めて、硯の箱を枕にして、寝ている姿が、とても美しくかわいらしかった。絵にかいた姫君の様だったので、口もとの覆いを引くと、「物語の女のようだわ」と言うと、宰相の君は見上げて、「なんて馬鹿なことをするのよ。寝てる人をいきなり起こすなんて」といって、少し起きあがった顔が赤みを帯びて、ととのって美しかった。平素から美しい人なので、こんな折、さらに美しく見えたのだった。
1.1.8【八 九月九日、菊の綿の歌】
九日、菊の綿兵部のおもとの持て来て、  「これ、殿の上の、とり分きて。『いとよう、老い拭ひ捨てたまへ』と、のたまはせつる。」 とあれば、
  菊の露若ゆばかりに袖触れて
  花のあるじに千代は譲らむ(四)

とて、返したてまつらむとするほどに、「あなたに帰り渡らせたまひぬ」とあれば、用なさにとどめつ
九日、菊の綿を兵部のおもとが持ってきて、「これは殿の北の方から特別にあなたにとのことです。『よく老いをぬぐい捨てなさい』と仰せです」とあったので、
   菊の露は若返る程度に袖にふれて
   千代の寿命はあるじに譲りましょう(四)
と、歌でお返ししようとしましたが、「あちらにお帰りになりました」となったので、役に立たずとりやめになった。
1.1.9 【九 九月九日の夜、御前にて】
その夜さり、御前に参りたれば、月をかしきほどにて、端に、御簾の下より裳の裾など、ほころび出づるほどほどに、小少将の君、大納言の君などさぶらひたまふ。御火取りに、ひと日の薫物取う出て、試みさせたまふ。御前のありさまのをかしさ、蔦の色の心もとなきなど、口々聞こえさするに、例よりも悩ましき御けしきにおはしませば、御加持どもも参るかたなり、騒がしき心地して入りぬ。 その日の夜、中宮様の御前に参れば、月が美しく照り、端の方に、御簾の下から裳の裾をのぞかせて、小少将の君、大納言の君などが侍していた。香炉に火を入れて先日の薫物を取り出して、試してみた。御前の庭の美しさや蔦が色づかない待ち遠しさ、など口々に話するに、中宮様ががいつもより苦しそうなので、加持をする時刻でもあり、落ち着かない気持ちでお傍に寄った。
 人の呼べば局に下りて、しばしと思ひしかど寝にけり。夜中ばかりより騒ぎたちてののしる。 人が呼ぶので、局に下がって、少し休もうとしたが、寝てしまった。夜中に、産気づいて騒がしくなった。
1.1.10 【一〇 九月十日、産室に移る】
 十日の、まだほのぼのとするに、御しつらひ変はる。白き御帳みちょうに移らせたまふ。殿よりはじめたてまつりて、君達、四位五位どもたち騒ぎて、御帳の帷子かたびらかけ、御座おましども持てちがふほど、いと騒がし。日一日、いと心もとなげに起き臥し暮らさせたまひつ。 十日の、明け方、装いがすっかり変わった。。中宮様は白い御帳に移る。道長様をはじめ、君達、四位五位たちが騒いで、御帷のかたびらかけ、ご座を取り違えたりして大騒ぎであった。中宮様は一日中、不安げに起きたり臥したりして過ごした。
御もののけども駆り移し、限りなく騒ぎののしる。月ごろ、そこらさぶらひつる殿のうちの僧をば、さらにもいはず、山々寺々を尋ねて、験者といふかぎりは残るなく参り集ひ、三世の仏もいかに翔りたまふらむと思ひやらる。陰陽師とて、世にあるかぎり召し集めて、八百万の神も、耳ふりたてぬはあらじと見えきこゆ。 物の怪を駆り出そうと、大声でののしる。日頃から邸にいる僧はもとより、山々寺々を尋ねて験者といわれる人々はすべて集めて祈祷するので、三世の仏たちも呼びたてられてどんなに急いで飛んでいることか。陰陽師も、世にいる限りを集めて、祈らせるので八百万の神々も聞き耳を立ないはずはないだろうと思われる。
御誦経の使、立ち騒がしく、その夜も明けぬ。 安産祈願で読経を頼む寺々への布施の使者たちも騒がしく、その夜は明けた。
 御帳の東面は、内裏の女房参り集ひてさぶらふ。西には、御もののけ移りたる人びと、御屏風一よろひを引きつぼね、局口には几帳を立てつつ、験者あづかりあづかりののしりゐたり。南には、やむごとなき僧正、僧都、重りゐて、不動尊の生きたまへるかたちをも呼び出で現はしつべう、頼みみ恨みみ、声みな涸れわたりにたる、いといみじう聞こゆ。  北の御障子と御帳とのはさま、いと狹きほどに、四十余人ぞ、後に数ふればゐたりける。いささかみじろぎもせられず、気あがりてものぞおぼえぬや。今、里より参る人びとは、なかなかゐこめられず。裳の裾、衣の袖、ゆくらむかたも知らず、さるべきおとななどは、忍びて泣きまどふ。 御帷の東の間には、内裏から派遣された女房たちが集まっている。西の間は、物の怪が移った人たちが集まっていて、屏風一具で囲み入り口には几帳を立てて憑人一人ひとりに験者がついて大声を上げている。南側の間には、極めて尊い僧正、僧都が重なるように並びいて、不道明王を生きたまま呼び出そうとするかのように、頼んだり恨んだり声をからして唱える様は尊く聞こえる。北側の御帷と障子の間の狭い所に、後で数えたら四十余人ばかりいた。身じろぎもできず、のぼせて息もつまりそうだ。遅れて里から戻った人は、なかなか中に入れない。裳の裾、衣の袖がどこにあるか分からない、しかるべき年輩の女房たちは、中宮様の身を案じて忍んで泣きまどった。
1.1.11 【一一 九月十一日の暁、加持祈祷の様子】
十一日の暁に、北の御障子、二間はなちて、廂に移らせたまふ。御簾などもえかけあへねば、御几帳をおし重ねておはします。僧正、定澄僧都、法務僧都などさぶらひて加持まゐる。院源僧都、昨日書かせたまひし御願書に、いみじきことども書き加へて、読み上げ続けたる言の葉のあはれに尊く、頼もしげなること限りなきに、殿のうち添へて、仏念じきこえたまふほどの頼もしく、さりともとは思ひながら、いみじう悲しきに、みな人涙をえおし入れず、
 「ゆゆしう、かうな。」
など、かたみに言ひながらぞ、えせきあへざりける。
十一日の明け方、北の障子を二間開け放って、中宮様は廂の間に移られた。御簾を掛けるわけにはいかないので、几帳を重ねてならべる。僧正、定済僧都、法務僧都などが伺候して加持を行う。院源僧都は、道長様が昨日書かれた願文に、尊い言葉を書き加えて、読み上げた言葉がとて尊く頼もしいこと限りなく、道長様が一緒になって仏の加護を祈念する姿が頼もしく、いくら何でも大丈夫だろうと思うものの、とても悲しくなり皆涙をとめることができず、
「縁起が悪いから、そんなに泣かないで」
など互に言いながらも涙をとめることができない。
 人げ多く混みては、いとど御心地も苦しうおはしますらむとて、南、東面に出ださせたまうて、さるべきかぎり、この二間のもとにはさぶらふ。殿の上讃岐の宰相の君、内蔵の命婦、御几帳の内に、仁和寺の僧都の君三井寺の内供の君も召し入れたり。殿のよろづにののしらせたまふ御声に、僧も消たれて音せぬやうなり。 人が多く立て込んでいては、中宮様の心地も苦しかろうと、道長様は南や東の間に女房たちを移して、お傍にいるべき人だけがこの二間に控えている。妻倫子様、讃岐の宰相の君、内蔵の命婦、几帳のなかには、仁和寺の僧都の君、三井寺の内供の君も入れた。殿が万事に大声で仰るので、僧の声も、気圧されて消えそうだった。
 いま一間にゐたる人びと、 大納言の君小少将の君宮の内侍弁の内侍中務の君大輔の命婦大式部のおもと、殿の宣旨よ。いと年経たる人びとのかぎりにて、心を惑はしたるけしきどもの、いとことわりなるに、まだ見たてまつりなるるほどなけれど、類なくいみじと、心一つにおぼゆ もう一間には、大納言の君、小少将の君、宮の内侍、弁の内侍、中務の君、大輔の命婦、大式部のおもと、殿の宣旨たちがいた。。長い間お仕えしている人たちで、皆心配している様子は当然だが、わたしはまだよく知己を得ていないないので、とても大変なことが起きているのだ、とひとりで心配している。
 また、この後ろの際に立てたる几帳の外に、尚侍の中務の乳母姫君の少納言の乳母いと姫君の小式部の乳母し入り来て、御帳二つが後ろの細道を、え人も通らず。行きちがひみじろく人びとは、その顏なども見分かれず。 殿の君達宰相中将<兼隆>四位の少将<雅通>などをばさらにもいはず、左宰相中将<経房>宮の大夫など、例はけ遠き人びとさへ、御几帳の上よりともすれば覗きつつ、腫れたる目どもを見ゆるも、よろづの恥忘れたり。頂きにはうちまきを雪のやうに降りかかり、おししぼみたる衣のいかに見苦しかりけむと、後にぞをかしき。 さらに、この後ろの際に、几帳を立て、内侍の中務の乳母、姫君の少納言の乳母、いと姫君の小式部の乳母など押し入って、帳二つの後ろの細道は人が通れない。すれ違いに行き来しても顔も見分けられない。 殿の子息たちや、宰相中将の兼隆様、四位の少将の雅通様、宮の大夫など、いつもは親しくない人々まで、御几帳の上から時々覗いて、わたしたちの泣きはらした目を見るので、恥も忘れた。頭のうえには、邪気を払う米が雪のようにまかれ、くしゃくしゃになった衣の見苦しかったことも、後で考えるとおかしかった。
1.1.12 【一二 無事出産】
御頂きの御髮下ろしたてまつり、御忌む事受けさせたてまつりたまふほど、くれ惑ひたる心地に、こはいかなることと、あさましう悲しきに、平らかにせさせたまひて、後のことまだしきほど、さばかり広き母屋、南の廂、高欄のほどまで立ちこみたる僧も俗も、いま一よりとよみて額をつく。 中宮様の頭のてっぺんの髪を少しおろして受戒させるほど、すっかり動揺して、どうしたことか、とても悲しんでいるさなかに、安らかに出産されて、後産のことがまだすまない間は、これほど広い母屋、南の廂の間、簀子すのこ高欄こうらんにまで立て込んだ僧や俗人たちはもう一度声を張り上げて、額を床につけて礼拝する。
 東面なる人びとは、殿上人にまじりたるやうにて、 小中将の君の、左の頭中将に見合せて、あきれたりしさまを、後にぞ人ごと言ひ出でて笑ふ。化粧などのたゆみなく、なまめかしき人にて、暁に顏づくりしたりけるを、泣き腫れ、涙にところどころ濡れそこなはれて、あさましう、その人となむ見えざりし。宰相の君の、顏変はりしたまへるさまなどこそ、いとめづらかにはべりしか。まして、いかなりけむ。されど、その際に見し人のありさまの、かたみにおぼえざりしなむ、かしこかりし。 東の廂の間の女房たちは、殿上人に交ったようになって、小中将の君は、左の頭中将と鉢合せしそうになって、茫然とした様子を、のちに人に話して笑う。化粧などきちんとして上品で美しい人の、暁に化粧したのを、泣き腫れて、涙にくずれて、あきれるほどで、その人とも見えない。 宰相の君が顔が変わった様子など、たいへん珍しいものです。ましてわたしなどどうなっていたでしょう。けれど、その時会った人の有様はお互いに覚えていないのは、いい具合だった。
 今とせさせたまふほど、御もののけのねたみののしる声などのむくつけさよ。源の蔵人には心誉阿闍梨しんよあざり、兵衛の蔵人には妙尊といふ人、右近の蔵人には法住寺の律師、宮の内侍の局には千算阿闍梨を預けたれば、もののけに引き倒されて、いといとほしかりければ、念覚阿闍梨を召し加へてぞののしる。阿闍梨の験の薄きにあらず、御もののけのいみじうこはきなりけり。宰相の君のをき人に叡効えいこうを添へたるに、夜一夜ののしり明かして、声も涸れにけり。御もののけ移れと召し出でたる人びとも、みな移らで騒がれけり。   今お産みになるという時は、物の怪がくやしがりののしる声は恐ろしかった。源の蔵人の憑人よりましには心誉阿闍梨、兵衛の蔵人の憑人には妙尊といふ人、右近の蔵人のには法住寺の律師、宮の内侍の局には千算阿闍梨をつけて、阿闍梨が物の怪に引き倒されて、気の毒だったので、念覚阿闍梨をさらに呼んで祈祷させた。 阿闍梨の祈祷の効験が薄いのではない、物の怪がとても手ごわいからだ。宰相の君の係に叡効を加えて、一晩中ののしり明かして、声も涸れてしまった。物の怪が移るように召しだした憑人よりましにもみな移らないで、騒がしかった。
1.1.13 【一三 午後、安堵と男御子誕生の慶び】
ひるの時に、空晴れて朝日さし出でたる心地す。平らかにおはしますうれしさの類もなきに、男にさへおはしましける慶び、いかがはなのめならむ。昨日しほれ暮らし、今朝のほど、秋霧におぼほれつる女房など、みな立ちあかれつつ休む。御前には、うちねびたる人びとの、かかる折節つきづきしきさぶらふ。 午の時にお生まれになる。空が晴れて朝日が出た心地がした。安産であるうれしさに、その上男であった喜びがどうして平静でいられよう。昨日までは涙にくれ、今朝は、亡きあかした女房たちは、みな局にさがって休む。御前には、年輩の女房たちで、こんな折に相応しい者がお仕えする。
 殿も上も、あなたに渡らせたまひて、月ごろ、御修法、読経にさぶらひ、昨日今日召しにて参り集ひつる僧の布施賜ひ、医師、陰陽師など、道々のしるし現れたる、禄賜はせ、内には御湯殿の儀式など、かねてまうけさせたまふべし。 殿も北の方も、あちらにさがって、月ごろ、修法、読経に勤め、昨日今日参上してくれた僧の布施を賜い、医師、陰陽師など、それぞれの方面で効験あった者に禄を賜い、内には御湯殿の儀式の準備をさせているのであろう。 
 人の局々には、大きやかなる袋、包ども持てちがひ、唐衣の縫物、裳、ひき結び、螺鈿縫物、けしからぬまでして、ひき隠し、
 「扇を持て来ぬかな」など、言ひ交しつつ化粧じつくろふ。
女房たちの局では、晴れ着を入れた大きな袋や包みを実家から持ってくる者たちが出入りし、唐衣の刺繍や、裳のくみ紐、螺鈿入りの縫いものなど、人に見せないように隠して、
「扇は来てないか」など言い交しながら化粧をしている。
1.1.14 【一四 外祖父道長の満足げな様子】
例の、渡殿より見やれば、妻戸の前に、宮の大夫春宮の大夫など、さらぬ上達部もあまたさぶらひたまふ。  殿、出でさせたまひて、日ごろ埋もれつる遣水つくろはせたまふ。人びとの御けしきども心地よげなり。心の内に思ふことあらむ人も、ただ今は紛れぬべき世のけはひなるうちにも、宮の大夫、ことさらにも笑みほこりたまはねど、人よりまさるうれしさの、おのづから色に出づるぞことわりなる。右の宰相中将は権中納言とたはぶれして、対の簀子すのこにゐたまへり。 いつものように、渡殿から寝殿を見れば、 宮の大夫、春宮の大夫など、その他の上達部もたくさんいた。道長様は、お出でましになり、日頃つまった遣水の手入れを指図される。人々の気色はうれしそうである。心の内で悩みがある人も、今は忘れてしまいそうな邸の雰囲気のなかで、宮の大夫はとりわけ得意げであるというのではないが、人よりうれしそうなのが自ずから表れているのも当然だろう。右の宰相中将は権中納言と楽しそうにして、簀子の間にいた。
1.1.15 【一五 内裏より御佩刀参る】
内裏より御佩刀みはかしもて参れる頭中将頼定、今日伊勢奉幣使、帰るほど、昇るまじければ、立ちながらぞ、平らかにおはします御ありさま奏せさせたまふ。禄なども賜ひける、そのことは見ず。 内裏から、御佩刀を持って、頭中将の頼定が参上。今日伊勢へ奉幣使が行く日、帰っても殿上に昇れないので、立って、安産の奏上をするよう、殿は指図する。禄なども賜ったがそれは見ていない。
 御臍の緒は殿の上。御乳付は橘の三位<徳子>。御乳母、もとよりさぶらひ、むつましう心よいかたとて、大左衛門おおさえもんのおもと仕うまつる。備中守道時の朝臣のむすめ、蔵人の弁の妻。 臍の緒を切るのは殿の北の方。乳つけは橘の三位徳子。乳母は以前からお仕えしている大左衛門のおもとがお仕えする。彼女は備中守道の朝臣の娘、蔵人の弁の妻である。
1.1.16【一六 御湯殿の儀式】
 御湯殿みゆどのとりの時とか。火ともして、宮のしもべ、緑の衣の上に白き当色着て御湯まゐる。その桶、据ゑたる台など、みな白きおほひしたり。尾張守知光、宮の侍の長なる仲信かきて、御簾のもとに参る。水仕二人、清子の命婦、播磨、取り次ぎてうめつつ、女房二人、大木工、右馬、汲みわたして、御ほとぎ十六にあまれば入る。薄物の表着、かとりの裳、唐衣、釵子さいしさして、白き元結したり。頭つき映えてをかしく見ゆ。 湯殿の儀は、酉の時に行われた。火を灯して、中宮のしもべが緑の衣の上に白い袍を着て、湯を持ってくる。桶を据えた台など、みな白でおおっている。尾張守知光と宮の侍の長の仲信がかついで御簾まで運んだ。湯係が二人、清子の命婦と播磨が取り次ぎ湯加減をして、女房二人、大木工と右馬に手渡して、お湯を御ほとぎ十六に注ぎ、余りは浴槽に入れる。薄物の表着、かとりの裳、唐衣、釵子さして、白き元結にしている。頭つき映えて美しい。
御湯殿は、宰相の君、御迎へ湯大納言の君<源廉子>湯巻姿もの、例ならずさまことにをかしげなり。 湯殿役は宰相の君、脇に大納言の君<源廉子>。湯巻姿が、いつもと違い風情がある。
 宮は、殿抱きたてまつりたまひて、御佩刀、小少将の君、虎の頭、宮の内侍とりて御先に参る。唐衣は松の実の紋、裳は海賦かいふを織りて、大海の摺目にかたどれり。腰は薄物、唐草を縫ひたり。少将の君は、秋の草むら、蝶、鳥などを、白銀して作り輝かしたり。織物は限りありて、人の心にしくべいやうのなければ、腰ばかりを例に違へるなめり。 若宮は、道長様が抱いて、御佩刀は小少将の君が持ち、虎の頭は中宮の内侍が持って先導する。内侍の唐衣は松の実の紋、裳は海浦を織って、大海の摺模様に似せる。腰は薄物、唐草を刺繍してある。少将の君は、秋の草むらで蝶や鳥などを白銀で作ってキラキラしている。織物にも身分上の制限があり、、腰の部分だけ意匠を変えたようだ。
 殿の君達二ところ、源少将<雅通>など、散米うちまきを投げののしり、われ高ううち鳴らさむと争ひ騒ぐ。浄土寺の僧都護身にさぶらひたまふ、頭にも目にも当たるべければ、扇を捧げて、若き人に笑はる。 道長の子息二人が、源少将雅通などと、散米を大声でまいて騒ぎ、自分が大きい声だと争っている。浄土寺の僧護身がやって来て、頭にも目にも当たるので、扇で防いで若い人に笑われる。
 文読む博士蔵人弁広業ひろなり、高欄のもとに立ちて、『史記』の一巻を読む。弦打ち二十人、五位十人、六位十人、二列に立ちわたれり。 文読む博士の蔵人弁広業は高欄の処に立って、『史記』の一巻を読む。弦打ち二十人、五位十人、六位十人、二列になって並んでいた。
 夜さりの御湯殿とても、様ばかりしきりてまゐる。儀式同じ。御文の博士ばかりや替はりけむ。伊勢守致時むねときの博士とか。例の『孝経』なるべし。又挙周たかちかは、『史記』文帝の巻をぞ読むなりし。七日のほど、替はる替はる。 夕刻の湯殿も、仕来たりを守ってやっている。儀式も同じである。文の博士だけは交代している。伊勢守致時の博士は、例によって『孝経』を読むのだろう。又挙周は、『史記』文帝の巻を読むのだろう。替わ替わる七日のほど奉仕する。
1.1.17 【一七 九月十二日、女房たちの服装】
よろづの物のくもりなく白き御前に、人の様態、色合ひなどさへ、掲焉けちえん現れたるを見わたすに、よき墨絵に髮どもを生ほしたるやうに見ゆ。いとどものはしたなくて、輝かしき心地すれば、昼はをさをささし出でず。のどやかにて、東の対の局より参う上る人びとを見れば、色聴されたるは、織物の唐衣、同じ袿どもなれば、なかなか麗しくて、心々も見えず。聴されぬ人も、少し大人びたるは、かたはらいたかるべきことはとて、ただえならぬ三重五重の袿に、表着は織物、無紋の唐衣すくよかにして、襲ねには綾、薄物をしたる人もあり。 扇など、みめにはおどろおどろしく輝やかさで、由なからぬさまにしたり。心ばへある本文うち書きなどして、言ひ合はせたるやうなるも、心々と思ひしかども、齢のほど同じまちのは、をかしと見かはしたり。人の心の、思ひおくれぬけしきぞ、あらはに見えける。 裳、唐衣の縫物をばさることにて、袖口に置き口をし、裳の縫ひ目に白銀の糸を伏せ組みのやうにし、箔を飾りて、綾の紋にすゑ、扇どものさまなどは、ただ、雪深き山を、月の明かきに見わたしたる心地しつつ、きらきらとそこはかと見わたされず、鏡をかけたるやうなり。 すべてが白い中宮の御前では、女房の容姿や色合いまで、はっきり現れる状態を見ると、墨絵に髪を描いたようにも見える。 わたしはとてもおもはゆく、恥ずかしかったので、昼には御前に出仕せず、局でゆっくりして、東の対から参上する女房たちを見ると、禁色をゆるされた女房は織物の唐衣に、同じくうちかけを着ているので、美しいのだが、各自の色が出ていない。禁色の女房も、少し年配のひとは、見っともないことはしまいと思って、美しい三重五重の袿に、表着は織物、無紋の唐衣を地味に着て、かさねに綾やうすもの着ている人もいる。 扇なども、見た目に仰々しくきらきらしないで、趣があるようにしている。詩文なども、相談したようなのも、各自のものと思っていたが、年齢が同じくらいの者は、同じ詩文であった。人の心の、負けまいとする気持ちが表れている。 裳や唐衣の刺繍はいうまでもなく、袖口に縁取りをつけ、裳の縫い目に白金の糸を伏組にして、箔の飾りを綾の紋につけ、扇などは白一色なので、雪深い山のなかで月の明かりに照らされた心地がし、きらきらしてどれが誰か分からず、ちょうど鏡をかけたようだった。
1.1.18 【一八 九月十三日夜、三日の中宮職主催の御産養】
三日にならせたまふ夜は、宮司みやづかさ大夫だいぶよりはじめて御産養仕うまつる右衛門督<大夫斉信>は御前の事沈の懸盤じんのかけばん、白銀の御皿など、詳しくは見ず。 源中納言<権大夫俊賢>藤宰相権亮ごんのすけ実成>襁褓むつき衣筥の折立ころもばこのをたて入帷子いれかたびらつつみおおい下机したづくゑなど、同じことの、同じ白さなれど、しざま、人の心々見えつつし尽くしたり。近江守は、おほかたのことどもや仕うまつるらむ。 東の対の西の廂は、上達部の座、北を上にて二行に、南の廂に、殿上人の座は西を上なり。白き綾の御屏風、母屋の御簾に添へて、外ざまに立てわたしたり。 三日の夜は、中宮職の宮司や大夫はじめ一同が、産養いをお祝いする。中宮職の右衛門の督の斉信が御祝膳を用意したが、 沈の懸盤じんのかけばんや白金の皿などは詳しく見ていない。 源中納言の権大夫俊賢と藤宰相の権亮実成さねなりはともに、御衣、御襁褓、衣筥の折立、入帷子、包、覆、下机などを用意して、すべてが白で同じようであるが、人々のやり方にはそれぞれ工夫が凝らしてある。近江の守がその他膳部ぜんぱんを担当したのだろうか。 東の対の西の廂の間は公卿たちの座で、北を上として二列に並べ、南の廂の間は殿上人たちの座で、西が上だ。白い綾の屏風が、母屋との間を仕切るべく、御簾に添えて、外向きに立てている。
1.1.19 【一九 九月十五日夜、五日の道長主催の御産養】
 五日の夜は、殿の御産養。十五日の月曇りなくおもしろきに、池の汀近う、篝火どもを木の下に灯しつつ、屯食とじきども立てわたす。あやしき賤の男のさへづりありくけしきどもまで、色ふしに立ち顔なり。主殿とのもりが立ちわたれるけはひおこたらず、昼のやうなるに、ここかしこの岩の隠れ、木のもとに、うち群れつつをる上達部の随身などやうの者どもさへ、おのがじし語らふべかめることは、かかる世の中の光出でおはしましたることを、陰にいつしかと思ひしも、および顔にぞ、すずろにうち笑み、心地よげなるや。まいて殿のうちの人は、何ばかりの数にしもあらぬ五位どもなども、そこはかとなく腰うちかがめて行きちがひ、いそがしげなるさまして、時にあひ顔なり。 五日の夜は、道長様主催の産養いだった。十五日の月は曇りなく晴れ、池の近く、篝火を木の下に灯し、屯食を並べて供した。下賤の者たちが喋ったり歩いたりする様子にも、晴れがまし気である。主殿寮の役人が、松明を持って、懸命に明るくしているので、昼のようだが、あちこちの岩の影や木の元に群れている上達部の随身のような者たちも、互に話し合っていることは、このような世の中の光の誕生に、陰ながらお待ちしていたことに、出会えた喜びに自ずと笑みがこぼれている。まして、土御門家の家人たちは、五位など物の数にもはいらぬ者も、忙しそうに腰をかがめて行き交い、良い時に出会ったという顔つきである。
御膳まゐるとて、女房八人、一つ色にさうぞきて、髪上げ、白き元結して、白き御盤とりつづきまゐる。今宵の御まかなひは宮の内侍、いとものものしく、あざやかなるやうだい、元結ばえしたる髪の下がりば、つねよりもあらまほしきさまして、扇にはづれたるかたはらめなど、いときよげにはべりしかな。 髪上げたる女房は、源式部<加賀守重文が女>、小左衛門<故備中守道時が女>、小兵衛<左京大夫明理が女とぞいひける>、大輔<伊勢斎主輔親が女>、大馬<左衛門大輔頼信が女>、小馬<左衛門佐道順が女>、小兵部<蔵人なる庶政が女>、小木工<木工允平文義といひはべるなる人の女なり>、かたちなどをかしき若人のかぎりにて、さし向かひつつゐわたりたりしは、いと見るかひこそはべりしか。例は、御膳まゐるとて、髪上ぐることをぞするを、かかる折とて、さりぬべき人びとを選らみたまへりしを、心憂し、いみじと、うれへ泣きなど、ゆゆしきまでぞ見はべりし。 中宮に食膳を差し上げるということで、女房八人、白一色で、髪上げをし、元結して、白銀の盤を捧げて次々と参上する。今宵の給仕役は、中宮の内侍で、堂々として、華やかな姿で、元結した髪の下がりばな、いつもより好ましく、扇からはずれた横顔などとても美しかった。 髪上げした女房は、源式部(加賀守源重文の娘)、小左衛門(故備中守橘道時の娘)、小兵衛(左京大夫源明理の娘と言った)、大輔(伊勢斎主大中臣輔親の娘)、大馬(左衛門大輔藤原頼信の娘)、小馬(左衛門佐高階道順の娘)、小兵部(蔵人である藤原庶政の娘)、小木工(木工允平文義と言います人の娘である)、みな容貌などすぐれた若人で、向かい合って並んでいた様子は、見る甲斐があった。 いつも、中宮様に食膳をさし上げるときは、髪あげするのだが、このような特別の機会なので、道長様が自ら選んだ者たちだが、つらい、大変だと泣いたりして、困ったことであった。
 御帳の東面二間ばかりに、三十余人ゐなみたりし人びとのけはひこそ見ものなりしか。威儀の御膳おものは、采女うねめどもまゐる。戸口のかたに、御湯殿の隔ての御屏風にかさねて、また南向きに立てて、白き御厨子一よろひにまゐりすゑたり。 夜更くるままに、月のくまなきに、采女、水司もひとり御髪上みくしあげども、殿司とのもり掃司かむもりの女官、顔も見知らぬをり。韋]司などやうの者にやあらむ、おろそかにさうぞきけさうじつつ、おどろの髪ざし、おほやけおほやけしきさまして、寝殿の東の廊、渡殿の戸口まで、ひまもなくおしこみてゐたれば、人もえ通りかよはず。 御帳の東面二間に、三十余人が控えている女房たちの様子は、見ものであった。威儀の御膳は采女が奉仕する。戸口の方に、湯殿の仕切りの屏風をかさねて、また南向きには白い厨子が一対据えてある。 夜が更けるままに月が隈なく照り、采女、水司、御髪上げども、殿司、掃司の女官など、顔も知らない者もいるいる。闈司みかどづかさなどだろうか、粗末な装束をつけ簡単な化粧をして、粗末なかんざしをさして、儀式ばった様子をして、寝殿の東の渡殿の戸口まで、隙もなく押し込めているので、人も通れない。 
御膳まゐりはてて、女房、御簾のもとに出でゐたり。火影にきらきらと見えわたる中にも、大式部のおもとの裳、唐衣、小塩山の小松原を縫ひたるさま、いとをかし。大式部は陸奥守の妻、殿の宣旨よ。大輔の命婦は、唐衣は手も触れず、裳を白銀の泥して、いとあざやかに大海に摺りたるこそ、掲焉ならぬものから、めやすけれ。弁の内侍の、裳に白銀の洲浜、鶴を立てたるしざま、めづらし。裳の縫物も、松が枝の齢をあらそはせたる心ばへ、かどかどし。少将のおもとの、これらには劣りなる白銀のはくさいを、人びとつきしろふ。少将のおもとといふは、信濃守佐光がいもうと、殿のふる人なり。 その夜の御前のありさま、いと人に見せまほしければ、夜居の僧のさぶらふ御屏風を押し開けて、  「この世には、かういとめでたきこと、まだ見たまはじ。」 と、言ひはべりしかば、 「あなかしこ、あなかしこ。」 と本尊をばおきて、手を押しすりてぞ喜びはべりし。 食膳が終わって、女房たちは、御簾を出てきた。火影にきらきら見えたが、大式部のおもとの裳、唐衣は、小塩山の小松原を刺繍しているのは、気が利いている。大式部は陸奥の守の妻で、この邸の宣旨だった。大輔の命婦は、唐衣には何もせず、裳を白金の泥であざやかに大海の波の模様を摺っているのは、派手ではないが、見た目に感じがよい。弁の内侍の、裳に白金の洲浜に鶴を立たせているのは、斬新である。裳の刺繍も、松を配して、鶴と齢の長さを競わせているのは才気が感じられる。少将のおもとの、これらには劣る銀箔を使っているのを、人々は口うるさい。少将のおもとというのは、信濃の守佐光の妹で、邸の古参である。 その夜の中宮の御前の様子は、人に見せたかったので、夜居の僧がいる屏風を押し開けて、 「この世では、こんなに素晴らしいことは、またと見ることはできないでしょう」 と言うと、 「ああ、ありがたい、ありがたい」 と本尊を措いて、手をすって喜ぶのだった。
上達部、座を立ちて、御橋の上にまゐりたまふ。殿をはじめたてまつりて、うちたまふ。上の争ひ、いとまさなし。  上達部たちは、座を立ち渡殿に来る。殿を始め攤を打ちはじめた。高貴な方々が賭け事で争うのは見苦しい。
歌どもあり。  「女房、盃。」 などある折、いかがはいふべきなど、口ぐち思ひ心みる。
  めづらしき光さしそふさかづきは
  もちながらこそ千代もめぐらめ(五)

 「四条大納言にさし出でむほど、歌をばさるものにて、声づかひ、用意いるべし。」 など、ささめきあらそふほどに、こと多くて、夜いたう更けぬればにや、とりわきても指さでまかでたまふ。禄ども、上達部には、女の装束に御、御襁褓むつきや添ひたらむ。殿上の四位は、あわせ一襲ね、はかま位は袿一襲ね、六位は袴一具ぞ見えし。
詠歌のことがあって、 「女房よ、盃を受けて歌を詠みなさい」などと言われたら、どう詠んだらいいのだろう、とめいめいが口に出して試みる。
  若宮ご誕生の祝いの盃は望月に照らされ
  世々に渡り千代にめぐってゆくでしょう(五)
 「四条大納言に歌をだす時は、歌もさることながら、誦詠のやり方まで、気をつけなければ。」 など、言い合っているうち、なにやかやと、夜もふけたので、特に盃もなくて退出された。禄などは、上達部には女の装束に若君の衣、襁褓がついていただろうか。殿上人の四位には、袷一揃いと、袴、五位は袿一揃い、六位は袴一揃いであったようだ。
1.1.20 【二〇 九月十六日夜、若い女房たちの舟遊び】
 またの夜、月いとおもしろし。ころさへをかしきに、若き人は舟に乗りて遊ぶ。色々なる折よりも、同じさまにさうぞきたるやうだい、髪のほど、曇りなく見ゆ。小大輔こたいふ、源式部、宮城の侍従、五節の弁、右近、小兵衛、小衛門、馬、やすらひ、伊勢人など、端近くゐたるを、左宰相中将<経房>殿の中将の君<教通>、誘ひ出でたまひて、右宰相中将<兼隆>に棹ささせて、舟に乗せたまふ。片へはすべりとどまりて、さすがにうらやましくやあらむ、見出だしつつゐたり。いと白き庭に、月の光りあひたる、やうだいかたちもをかしきやうなる。 またの夜、月が美しい。時候もよいので、若い女房たちは舟に乗って遊ぶ。色々な衣裳をつけているよりも、白一色の装束の方が、姿や髪の具合がはっきり見える。  小大輔、源式部、宮城の侍従、五節の弁、右近、小兵衛、小衛門、馬、やすらひ、伊勢人などが端近くいたので、左宰相中将の君と、殿の子息の中将の君が誘い出して、右宰相中将の君に棹ささせて、舟に乗せたのだった。一部の女房は残ったが、さすがにうらやましかったのだろう外を眺めて座っていた。白砂の庭に、月明かりが当たって、女房たちの姿や容貌も風情ある様であった。
 北の陣に車あまたありといふは、主上人どもなりけり藤三位をはじめにて、侍従の命婦藤少将の命婦馬の命婦左近の命婦筑前の命婦少輔の命婦近江の命婦などぞ聞きはべりし。詳しく見知らぬ人びとなれば、ひがごともはべらむかし。舟の人びともまどひ入りぬ。殿出でゐたまひて、おぼすことなき御気色に、もてはやしたはぶれたまふ。贈物ども、品々にたまふ。 北門に牛車がたくさん集まったのは、内裏の女房たちがきたのである。藤三位をはじめ、侍従の命婦、藤少将の命婦、馬の命婦、左近の命婦、筑前の命婦、少輔の命婦、近江の命婦であったと聞いている。詳しく知らないひとたちなので、間違っていることもあるだろう。 舟の女房たちはあわてて邸に入った。殿が出てきて、しごくご満悦で、歓待し冗談を言っている。贈物は、身分に応じて賜った。
1.1.21 【二一 九月十七日夜、朝廷主催の御産養】
七日の夜は、朝廷の御産養うぶやしない蔵人少将<道雅>を御使ひにて、ものの数々書きたる文、柳筥に入れて参れり。やがて返したまふ。勧学院の衆ども、歩みして参れる、見参けざんの文また啓す。返したまふ。禄ども賜ふべし。 七日目の夜は、朝廷の御産湯であった。蔵人少将が使いにきて、数々の御下賜品ごかしひんを書いた文を柳筥に入れて参上した。中宮は目を通されて、すぐに係にお返しになる。勧学院の学生たちが列をなして、歩いてくる。参加者の名簿を御覧にいれ、お祝い申し上げる。中宮は目を通されて係にお返しになる。禄もお与えになったようだ。
 今宵の儀式は、ことにまさりて、おどろおどろしくののしる。御帳の内をのぞきまゐらせたれば、かく国の親ともてさわがれたまひ、うるはしき御気色にも見えさせたまはず、すこしうちなやみ、面やせて大殿籠もれる御ありさま、常よりもあえかに若くうつくしげなり。小さき灯籠を御帳の内に掛けたれば、隈もなきに、いとどしき御色あひの、そこひも知らず清らなるに、こちたき御髪は、結ひてまさらせたまふわざなりけりと思ふ。かけまくもいとさらなれば、えぞ書き続けはべらぬ。 今宵の儀式は、格別に盛大で、騒ぎも大きい。御簾の内を覗いてみましたら、中宮様は国の親とも騒がれているが、格式ばった気色にも見えず、少し具合が悪そうで、面やせて休まれている御様子は、いつもより弱々し気で若く美しかった。小さい灯篭を御簾の中にかけていたので、隅々まで明るく一段と美しいお顔が、限りなくきれいで、多すぎるほどの髪を結っているので、一層美しさがまさるのだろうと思う。こう書き連ねるのも、今さらと思われるので、これ以上書きません。
 おほかたのことどもは、一夜の同じこと。上達部の禄は、御簾の内より、女装束、宮の御衣など添へて出だす。殿上人、頭二人をはじめて、寄りつつ取る。朝廷の禄は、大袿おおうちきふすま腰差こしざし例の公けざまなるべし。御乳付け仕うまつりし橘三位の贈物、例の女の装束に、織物の細長添へて、白銀の衣筥、包などもやがて白きにや。また包みたる物添へてなどぞ聞きはべりし。詳しくは見はべらず。 おおよそのところは、先夜と同じである。上達部への禄は、御簾の内からなされ、女装束、若宮の御衣を添えて出した。殿上人への禄は、蔵人頭二人をはじめ、寄ってきて受け取る。朝廷からの禄は、大袿おおうちきふすま腰差こしざしなど、いつもの公式のものだろう。乳付けに奉仕した橘の三位への禄は、例の女の装束に、織物の細長を添えて、白金の衣筥・包みも、同じく白いものだったか。また包んだ品物を添えて賜ったなどと後から聞きました。詳しくは見ていません。
 八日、人びと、色々さうぞき替へたり 八日目からは、女房たちは平常にもどり、色とりどりの衣装になった。
1.1.22【二二 九月十九日夜、春宮権大夫頼通主催の御産養】
九日の夜は、春宮権大夫仕うまつりたまふ。白き御厨子一よろひに、まゐり据ゑたり。儀式いとさまことに今めかし。白銀の御衣筥、海賦かいふをうち出でて、蓬莱など例のことなれど、今めかしうこまかにをかしきを、取りはなちては、まねび尽くすべきにもあらぬこそ悪ろけれ。 九日の夜は、春宮権大夫が産養いのお祝いをした。白い逗子一揃いを据えた。儀式は変わっていて今風である。白銀の衣裳箱に海賦模様を打ち出して、蓬莱山は珍しくないが、今めかしく精巧ですばらしく、ひとつづつとりたてて、ここに表し尽くせないのが残念です。
 今宵は、おもて朽木形の几帳、例のさまにて、人びとは濃きうち物を上に着たり。めづらしくて、心にくくなまめいて見ゆ。透きたる唐衣どもに、つやつやとおしわたして見えたる、また人の姿もさやかにぞ見えなされける。 今宵は、おもて朽木形の几帳で、いつものように、人々は濃いうち物を上に着ている。新鮮に感じ、魅力があり、美しい。透いた唐衣などの下に、つややかにはっきり見える。それぞれの人の姿も鮮やかに見える。
こまのおもとといふ人の恥見はべりし夜なり。 こまのおもとという人が恥をかいた夜であった。
《第二章 寛弘五年(一〇〇八)冬の記》
1.2.1 【一 道長、初孫を抱く】
十月十余日までも御帳出でさせたまはず。西の側なる御座に夜も昼もさぶらふ。殿の、夜中にも暁にも参りたまひつつ、御乳母の懐をひきさがさせたまふに、うちとけて寝たるときなどは、何心もなくおぼほれておどろくも、いといとほしく見ゆ。心もとなき御ほどを、わが心をやりてささげうつくしみたまふも、ことわりにめでたし。ある時は、わりなきわざしかけたてまつりたまへるを、御紐ひき解きて、御几帳の後ろにてあぶらせたまふ。 「あはれ、この宮の御尿に濡るるは、うれしきわざかな。この濡れたるあぶるこそ、思ふやうなる心地すれ。」 と、喜ばせたまふ。 中宮は十月十余日まで御帳を出なかった。西側の御座にわたしは、夜も昼も控えていた。殿が夜中にも明け方にも若宮のところにくる。乳母の懐をさぐるので、気をゆるして寝ている時などは、寝ぼけて目が覚めてしまうのが、気の毒だった。首もすわらない若宮を満足そうに高くさし上げるのも、当然ですばらしいことだ。ある時は、おしっこをされたので、直衣の紐を解いて、几帳の後ろであぶっていた。 「あわれ、この宮の尿しとに濡れるのは、うれしいことだ。濡れてあぶっていると、望みがかなった思いだ」と喜んだ。
中務の宮<具平親王>わたりの御ことを御心に入れてそなたの心寄せある人とおぼして、語らはせたまふも、まことに心のうちは思ひゐたること多かり。 中務の宮具平親王家との縁談には熱心で、わたしも宮家に関係ある者と見られて、殿が相談されるのも、あれこれと思案にくれることが多かった。
1.2.2 【二 土御門殿邸への行幸近づく】
行幸近くなりぬとて、殿の内をいよいよ繕ひ磨かせたまふ。世におもしろき菊の根を尋ねつつ掘りてまゐる。色々移ろひたるも、黄なるが見どころあるも、さまざまに植ゑたてたるも、朝霧の絶え間に見わたしたるは、げに老もしぞきぬべき心地するに、なぞや、まして思ふことのすこしもなのめなる身ならましかばすきずきしくももてなし若やぎて、常なき世をも過ぐしてましめでたきことおもしろきことを見聞くにつけても、ただ思ひかけたりし心のひくかたのみつよくてもの憂く、思はずに嘆かしきことのまさるぞ、いと苦しきいかで今はなほもの忘れしなむ、思ふかひもなし、罪も深かんなりなど、明けたてばうちながめて、水鳥どもの思ふことなげに遊びあへるを見る。
  水鳥を水の上とやよそに見む
  われも浮きたる世を過ぐしつつ(六)

かれもさこそ心をやりて遊ぶと見ゆれど、身はいと苦しかんなりと、思ひよそへらる。
行幸が近くなり、邸を一段と手入れしさせてきれいにする。世に珍しい菊を探しだして、掘ってきて移植する。様々に色変わりするが、黄色が見どころがあり、色々と植えているが、朝霧の絶え間に見ていると、実に老いも退く心地がするのだが、どうしたことか、もし、悩みごとが、並み一通りのものであったら、色めいたり若やいだりして、この無常の世を過ごしていくだろうが、めでたきことやおめでたいことを見ても聞いても、ただ自分の心の思いに引かれてもの憂く、嘆かわしいことがまさるのが苦しい。どうにかして今はすべてを忘れよう、思っても甲斐ないことだし、罪障も深いだろうと、明け方になって、水鳥たちが何の屈託もなく遊んでいるのを眺めている。
  水鳥が水の上で浮いているよとよそごとに見れるだろうか
  わたしもこの憂き世を浮いて過ごしているのに    (六)
水鳥も楽しく遊んでいると見えるが、内心は苦しいのだろう、とわが身に替えて思ってしまう。
1.2.3 【三 時雨れのころ 小少将の君と文通】
小少将の君の文おこせたまへる返り事書くに、時雨れのさとかきくらせば、使ひも急ぐ。
 「また空の気色も心地さわぎてなむ。」 とて、腰折れたることや書きまぜたりけむ。暗うなりにたるに、たちかへり、いたう霞みたる濃染紙こぜんしに、
  雲間なくながむる空もかきくらし
  いかにしのぶる時雨れなるらむ(七)

書きつらむこともおぼえず、
  ことわりの時雨れの空は雲間あれど
  ながむる袖ぞ乾く間もなき(八)
小少将の君が文をくれたその返事に、時雨がさっときて空も暗くなり、使いも急いでいた。
「わたしも空の気色もざわついた心地がして」と、腰折れ歌を書いて渡した。暗くなって、また文が来て、ぼかした濃染紙に
  雲間なく眺める空は暗くなり   
  時雨れは何を偲んで降っているのでしょうか(七)
先に書いた歌は覚えていない、
  時雨れはその時がきたので降っているのです
  あなたのことを思いわたしも時雨れています (八)
1.2.4 【四 十月十六日 土御門殿邸行幸の日】
その日、新しく造られたる舟どもさし寄せて御覧ず。龍頭鷁首りゅうとうげきしゅの生けるかたち思ひやられて、あざやかにうるはし。行幸は辰の時と、まだ暁より人びとけさうじ心づかひす。上達部の御座は西の対なれば、こなたは例のやうに騒がしうもあらず。内侍の督の殿の御方に、なかなか人びとの装束なども、いみじうととのへたまふと聞こゆ。 その日は、新しく造った舟を岸に寄せて、殿は御覧になる。龍頭や鷁首が生きているように思われて、あざやかだ。行幸は御前八時頃ということで、まだ夜明け前から女房たちは化粧をし気を使う。上達部の席は西の対なので、東の対のこちらは騒がしくない。あちらの内侍の督の御殿では、女房たちの衣裳も、大そう念入りに整えたようである。
 暁に少将の君参りたまへり。もろともに頭けづりなどす。例の、さいふとも日たけなむとたゆき心どもはたゆたひて扇のいとなほなほしきを、また人にいひたる、持て来なむと待ちゐたるに、鼓の音を聞きつけて急ぎ参る、さま悪しき。 明け方に、小少将の君が里から戻ってきた。一緒に髪を梳く。例によって、辰の刻といっても日が高くなるだろうと、扇のいいのを持ってきてくださいと人に頼んで、来るのを待っていたら、鼓の音が聞こえたので、急いで参ったのが、恰好が悪かった。
 御輿こし迎へたてまつる船楽いとおもしろし。寄するを見れば、駕輿丁かよちょうのさる身のほどながら、階より昇りて、いと苦しげにうつぶし伏せる、なにのことごとなる、高きまじらひも、身のほどかぎりあるに、いと安げなしかしと見る。 御輿をお迎えする船楽の演奏が、素晴らしかった。寝殿に寄せるのを見ていると、駕輿丁かよちょうが賤しい身分ながら階を担いで上がって、苦しそうにうつ伏すのは、わたしと異なることがない、身分が高い交じらいも限りがあるので、安らかなことなどないと思う。
2.4解説 駕輿丁かよちょうを見て
 御帳の西面に御座をしつらひて、南の廂の東の間に御椅子を立てたる、それより一間隔てて、東に当たれる際に北南のつまに御簾を掛け隔てて、女房のゐたる、南の柱もとより、簾をすこしひき上げて、内侍二人出づ。その日の髪上げ麗しき姿、唐絵ををかしげに描きたるやうなり。左衛門の内侍御佩刀みはかし執る青色の無紋の唐衣領巾ひれ裙帯くんたい浮線綾ふせんりょう櫨緂はじだんに染めたり。上着は菊の五重いつえ掻練かいねりは紅、姿つきもてなし、いささかはづれて見ゆるかたはらめ、はなやかにきよげなり。 弁の内侍はしるしの御筥。紅に葡萄染えびぞめめの織物の袿、裳、唐衣は、先の同じこと。いとささやかにをかしげなる人の、つつましげにすこしつつみたるぞ、心苦しう見えける。扇よりはじめて、好みましたりと見ゆ。領巾は楝緂あふちだん。夢のやうにもごよひのだつほど、よそほひ、むかし天降りけむ少女子の姿もかくやありけむとまでおぼゆ。 中宮の御帳の西側に帝の御座を設けて、南側の廂の東の間に御椅子を立てる、それより一間隔てて、東側の際に北と南の端に御簾をかけて隔て、女房たちのいた、南側の柱から簾を少し引き上げて内侍二人出てくる。その日の髪上げした美しい姿は、唐絵を美しく描いたようだ。左衛門の内侍が御佩刀をささげ持つ。青色の無紋の唐衣に、裾濃すそごの裳をつけ、領巾ひれ裙帯くんたい櫨緂はじだんに染めてある。上着は菊の五重、掻練かいねりは紅で、その姿や振舞は、扇から少しはずれて見える横顔が、華やかで美しい。弁の内侍は御璽みしるしの箱を持ち、紅の掻練に葡萄染めの袿をつけて、裳や唐衣はは先のと同じです。小柄で美しい人が、恥ずかしそうに、少し緊張しているのは、いたわしい。扇をはじめ趣向は左衛門内侍より、優っている。領布は楝緂あふちだんに染めている。夢を見っているようだ、その装いや振舞は、昔天下った天女もかくやと思われた。
 近衛司、いとつきづきしき姿して、御輿のことどもおこなふ、いときらきらし。藤中将、御佩刀などとりて、内侍に伝ふ。 近衛府の役人たちがこの場に相応しく、あざやかに御輿のことを仕切っていた。藤中将が御佩刀や御璽を取って、左衛門の内侍に伝達する。
1.2.5 【五 行幸当日の女房たちの装束】
御簾の中を見わたせば、色聴されたる人びとは、例の青色、赤色の唐衣に地摺の裳、上着は、おしわたして蘇芳すほうの織物なり。ただ馬の中将ぞ葡萄染めを着てはべりし。打物どもは、濃き薄き紅葉をこきまぜたるやうにて、中なる衣ども、例のくちなしの濃き薄き、紫苑色、うら青き菊を、もしは三重など、心々なり。 御簾の中を見れば、禁色をゆるされた女房たちは、例の青色、赤色の唐衣に地摺りの裳をつけ、表着は一様に蘇芳すほうの織物だった。ただ馬の中将だけは、葡萄染めを着ていた。打衣はそれぞれで、濃い薄い紅葉が交ったり、内側に着こんだ衣は、いつものくちなしかさねの濃いのや薄いのや、裏を青くした菊襲や、もしくは三枚重ねを着たり、それぞれの思いがある。
 綾聴されぬは、例のおとなおとなしきは、無紋の青色、もしは蘇芳など、みな五重にて、襲ねどもはみな綾なり。大海ただ馬の中将だけはの摺裳の、水の色はなやかに、あざあざとして、腰どもは固紋をぞ多くはしたる。袿は菊の三重五重にて、織物はせず。若き人は、菊の五重の唐衣を心々にしたり。上は白く、青きが上をば蘇芳、単衣は青きもあり。上薄蘇芳、つぎつぎ濃き蘇芳、中に白きまぜたるも、すべてしざまをかしきのみぞ、かどかどしく見ゆる。言ひ知らずめづらしく、おどろおどろしき扇ども見ゆ。 綾が許されていない、年輩の女房は、唐衣は無紋の青色もしくは蘇芳など、みな五枚襲の袿で、襲はすべて綾であった。大海の摺模様の裳の水色がはなやかで、あざやかで、裳の腰は固紋を多く使っている。袿は菊の三重五重であった。若い人は、五重の唐衣をそれぞれに着ている。表は白く青色の上を薄い蘇芳にしたり、一枚は青いのもある。表は薄い蘇芳にして、次第に濃い蘇芳にし、内側に白いのをまぜたのもあるが、すべて色どり趣のいいのが、気が利いている。斬新で仰々しい扇も見える。
 うちとけたる折こそ、まほならぬかたちもうちまじりて見え分かれけれ、心を尽くしてつくろひけさうじ、劣らじとしたてたる、女絵のをかしきにいとよう似て、年のほどのおとなび、いと若きけぢめ、髪のすこし衰へたるけしき、まだ盛りのこちたきがわきまへばかり見わたさる。さては、扇より上の額つきぞ、あやしく人のかたちを、しなじなしくも下りてももてなすところなむめる。かかる中にすぐれたりと見ゆるこそ限りなきならめ。 くつろいだ時には、容貌の劣っている人は交っていても分るが、心を尽くしてつくろい、負けまいと一心に化粧したあとでは、女絵と同じで、見分けがつかず、年を取っているのか、若いのか、よくわからない、髪が豊かなのか衰えているのか、が分かる程度だ。さらに、扇をかざして、それより上に見える額の恰好が、不思議と品があるのとそうでないのとがある。こんな状態でも美しい人が本当の美人なのだろう。
 かねてより、主上の女房、宮にかけてさぶらふ五人は、参り集ひてさぶらふ。内侍二人、命婦二人、御まかなひの人一人。御膳おものまゐるとて、筑前、左京、一もとの髪上げて、内侍の出で入る隅の柱もとより出づ。これはよろしき天女なり。左京は青色に柳の無紋の唐衣、筑前は菊の五重の唐衣、裳は例の摺裳なり。御まかなひ橘三位。青色の唐衣、唐綾の黄なる菊の袿ぞ、上着なむめる。一もと上げたり。柱隠れにて、まほにも見えず。 以前から、内裏の女房で中宮付きを兼ねている五人は、参上して伺候している。内侍が二人、命婦二人、給仕係が一人だ。お帝に御膳をさし上げるというので、筑前、左京が髪を結いあげて、内侍の出入する隅の柱の傍から出てくる。これはまさに天女の趣だ。左京は、青色に柳襲の無紋の唐衣、筑前は、菊襲の五重の唐衣に、裳はいつもの摺裳だ。給仕は橘三位。青色の唐衣、唐綾の黄の菊襲の袿を羽織っている。ひとつ髷の髪上げしている。柱にかくれて、よく見えない。
 殿、若宮抱きたてまつりたまひて、御前にゐてたてまつりたまふ。主上、抱き移したてまつらせたまふほど、いささか泣かせたまふ御声、いと若し。弁宰相の君、御佩刀執りて参りたまへり。母屋の中戸より西に殿の上おはする方にぞ、若宮はおはしまさせたまふ。主上、外に出でさせたまひてぞ、宰相の君はこなたに帰りて、  「いと顕証に、はしたなき心地しつる。」 と、げに面うち赤みてゐたまへる顔、こまかにをかしげなり。衣の色も、人よりけに着はやしたまへり。 道長様が、若宮を抱いて、御前にお連れする。帝が若宮を抱き取る時、赤子らしく少し泣いた。弁の宰相の君が御佩刀を持って若宮のところまできた。母屋の中戸から西の方へ殿の北の方のおられる方へ若宮をそれとなくお誘いする。帝が御簾の外で御椅子に座られているあいだ、宰相の君がこちらに戻ってきて、 「晴れがましくてきまり悪い思いを致しました」と実際顔が赤みをおびていて、ととのって美しい感じがする。衣の色も他の女房より着映えがするようだ。
1.2.6 【六 御前の管弦・舞楽の御遊】
暮れゆくままに、楽どもいとおもしろし。上達部、御前にさぶらひたまふ。万歳楽、太平楽、賀殿などいふ舞ども、長慶子を退出音声にあそびて、山の先の道をまふほど、遠くなりゆくままに、笛の音も、鼓の音も、松風も、木深く吹きあはせて、いとおもしろし。 暮れ行くままに、楽の演奏がされて趣があった。上達部が御前に伺候している。万歳楽、太平楽、賀殿などという舞いも、長慶子は退出の時奏して、中島の山の先をこぎまわって、遠くなるまま、笛の音も鼓の音も、松風も楽器とまじりあって、たいそう趣があった。
 いとよく払らはれたる遣水の心地ゆきたる気色して、池の水波たちさわぎ、そぞろ寒きに、主上の御あこめただ二つたてまつりたり。左京の命婦のおのが寒かめるままに、いとほしがりきこえさするを、人びとはしのびて笑ふ。筑前の命婦は、 「故院のおはしましし時、この殿の行幸は、いとたびたびありしことなり。その折、かの折。」 など、思ひ出でて言ふを、ゆゆしきこともありぬべかめれば、わづらはしとて、ことにあへしらはず、几帳隔ててあるなめり。 「あはれ、いかなりけむ。」 などだに言ふ人あらば、うちこぼしつべかめり。 よく手入れされた遣水が心地よい感じで、池の水波がたち、寒い気色なので、帝が召していたのが衵二枚だけだった。左京の命婦が自分が寒いので、ご同情されるのを、人々は忍び笑っていた。筑前の命婦は、「故院が生前、この殿に度々お越しになりました。その時、あの時」など思い出を言うのを、泣き出すなど縁起でもないことが起こりそうで、面倒なことになると、相手にせず、几帳を隔てている。 「まあ、どんなだったでしょうか」 など相槌をうつ人があれば、すぐ泣きだしそうだ。
 御前の御遊び始まりて、いとおもしろきに、若宮の御声うつくしう聞こえたまふ。右の大臣、 「万歳楽、御声にあひてなむ聞こゆる。」 と、もてはやしきこえたまふ。左衛門督など、 「万歳、千秋」 と諸声に誦じて、主人の大殿、 「あはれ、さきざきの行幸を、などて面目ありと思ひたまへけむ。かかりけることもはべりけるものを。」 と、酔ひ泣きしたまふ。さらなることなれど、御みづからもおぼし知るこそ、いとめでたけれ。 御前での遊びが始まって、たいそう趣があるが、若宮の声が美しく聞こえた。右大臣が「万歳楽の声が、若宮に和してきこえますなあ」と、座を引き立てる。左衛門督などは、「万歳、千秋」とと声をそろえて朗誦し、主人の道長様は、「ああ、どうして、先の行幸をありがたく思っていたか。これほどの栄誉にあずかるとは」と酔い泣きした。今さらながら、今日の栄光を殿ご自身が感じておられるのがすばらしい。
 殿は、あなたに出でさせたまふ。主上は入らせたまひて、右の大臣を御前に召して、筆とりて書きたまふ。宮司、殿の家司のさるべきかぎり、加階す。頭弁して案内は奏せさせたまふめり。 道長様はじめ公卿たちは、西の対へ戻った。帝は御簾に入られて、右大臣を召して、筆をとって書かせた。中宮職の役人、この邸の家司たちのしかるべき者の階位はすべて上った。頭の弁に命じて加階の案は奏上される。
 新しき宮の御よろこびに、氏の上達部ひき連れて、拝したてまつりたまふ。藤原ながら門分かれたるは、列にも立ちたまはざりけり。次に、別当になりたる右衛門督、大宮の大夫よ宮の亮、加階したる侍従の宰相、次々の人、舞踏す。 親王宣下の喜びに伴い、殿は一族の上達部をひきつれ、拝礼する。藤原系列でも門別れした家系は、列に入らない。次に別当になった、大宮の大夫や宮の亮や、この日加階した侍従の宰相、等次々と拝礼の舞踏する。
 宮の御方に入らせたまひて、ほどもなきに
 「夜いたう更けぬ。御輿寄す。」 と、ののしれば、出でさせたまひぬ。
帝が中宮の御簾に入ってどれほどもたたないのに、「夜も更けました」「御輿が来ます」と大声で騒ぐので、御帳台からお出になった。
1.2.7 【七 十月十七日 行幸翌日の中宮の御前】
またの朝に、内裏の御使ひ、朝霧も晴れぬに参れり。うちやすみ過ぐして、見ずなりにけり。今日ぞ初めて削いたてまつらせたまふ。ことさらに行幸の後とて。また、その日、宮の家司、別当、おもと人など、職定まりけり。かねても聞かで、ねたきこと多かり。 翌朝、朝霧も晴れぬ間に、内裏の使いが参上した。わたしは寝過ごして見れなかった。今日初めて若宮を剃いだのだった。あえて行幸のあとで。またこの日は、若宮の家司、すなわち別当や、侍者など職員が決まった。かねてから打診もなく、残念に思う人も多いだろう。
 日ごろの御しつらひ、例ならずやつれたりしを、あらたまりて、御前のありさまいとあらまほし。年ごろ心もとなく見たてまつりたまひける御ことのうちあひて、明けたてば、殿の上も参りたまひつつ、もてかしづききこえたまふ、にほひいと心ことなり。 このところ、中宮様の居間の設備は、簡素にしていたが、もとに戻って、まったく申し分ない。年ごろ待ち望んでいた慶事があって、明けてから、殿の北の方もやってきて、お世話する様子は、晴れやかでこの上ない。
1.2.8 【八 宰相の君たちと月を眺める】
暮れて月いとおもしろきに、宮の亮、女房にあひて、とりわきたるよろこびも啓せさせむとにやあらむ、妻戸のわたりも御湯殿のけはひに濡れ、人の音もせざりければ、この渡殿の東のつまなる宮の内侍の局に立ち寄りて、「ここにや。」 と案内したまふ。宰相は中の間に寄りて、まだ鎖さぬ格子の上押し上げて、 「おはすや。」 などあれど、いらへもせぬに、大夫の、  「ここにや。」 とのたまふにさへ、聞きしのばむもことごとしきやうなれば、はかなきいらへなどす。いと思ふことなげなる御けしきどもなり。「わが御いらへはせず、大夫を心ことにもてなしきこゆ。ことわりながら悪ろし。かかる所に、上下臈のけぢめ、いたうは分くものか。」とあはめたまふ。「今日の尊とさ」など、声をかしううたふ。 日が暮れて月が美しいとき、中宮の亮が、女房に会って、加階の喜びを中宮様にお伝えしてもらおうとでもおもったのか、妻戸のわたりも湯殿の湯気がたち人の気配もなかったので、この渡殿の東の端にある宮の内侍の局に立ち寄り、 ここですか」と声をかける。宰相の実成様が中の間に入って、まだ桟を鎖していない格子を押し上げて、「おられますか」などと声をかける、答えずにいると、中宮大夫の斉信様が「こちらですか」と言うのを、聞こえないふりをするのも大人げないので、ちょっと応じる。二人とも何の屈託もない様子だ。「わたしには返事をされず、大夫を格別に扱われる。もっともだが、悪い習慣だ。こんなときに上下の差をつけるもんじゃないでしょう」と戒められる。「今日の尊さ」と催馬楽をいい声で詠う。
 夜更くるままに、月いと明かし。 「格子のもと取りさけよ。」 と、せめたまへど、いと下りて上達部のゐたまはむも、かかる所といひながら、かたはらいたし、若やかなる人こそ、もののほど知らぬやうにあだへたるも罪許さるれ、なにか、あざればましと思へば、放たず。 夜が更けるまま、月ががとても美しい。「格子の下を取って下さい。ゆっくり話しましょう」と迫ってくるが、このような下様の処に上達部がお座りになるのも、私的な場所といえ、見っともない。若い人たちならものを知らないで許されるが、好色がましく見られるので、取り外さなかった。
1.2.8 解説
1.2.9 【九 十一月一日 誕生五十日の祝儀】
御五十日は霜月の朔日の日。例の人びとのしたてて参う上り集ひたる御前のありさま、絵に描きたる物合せの所にぞ、いとよう似てはべりし。 御帳の東の御座の際に、御几帳を奥の御障子より廂の柱まで隙もあらせず立てきりて、南面に御前の物は参り据ゑたり。西によりて、大宮の御膳、例の沈の折敷、何くれの台なりけむかし。そなたのことは見ず。  御まかなひ宰相の君讃岐、取り次ぐ女房も、釵子さいし結などしたり。若宮の御まかなひは大納言の君、東に寄りて参り据ゑたり。小さき御台、御皿ども、御箸の台、洲浜なども、雛遊びの具と見ゆ。それより東の間の廂の御簾すこし上げて、弁の内侍、中務の命婦、小中将の君など、さべいかぎりぞ、取り次ぎつつまゐる。奥にゐて、詳しうは見はべらず。 生誕五十日は霜月のついたちの日だった。例によって人々が着飾って中宮の御前に集う様は、絵に描かれた物合わせに、よく似ていた。 御帳の東側のきわに、几帳を奥の障子から廂の柱まで隙なく立て、御座の南側に御膳を用意してある。その中で西側は中宮の御膳、例によって沈の式敷、何やかやの台なのだろう。それは見ていない。 お給仕役の宰相の君讃岐、取次の女房も釵子、元結などをしている。若宮のまかないは大納言の君で東に寄って侍している。小さい食卓、お皿、お箸台、州浜なども、雛遊びの道具のようだ。それより東の間の廂は御簾を少し上げて、弁の内侍、中務の命婦、小中将の君など、しかるべき女房だけが控えている。奥にいてくわしくは見ていない。
 今宵、少輔の乳母、色聴さる。ここしきさまうちしたり。宮抱きたてまつり、御帳の内にて、殿の上抱き移したてまつりたまひて、ゐざり出でさせたまへる火影の御さま、けはひことにめでたし。赤色の唐の御衣、地摺の御裳、麗しくさうぞきたまへるも、かたじけなくもあはれにも見ゆ。大宮は葡萄染めの五重の御衣、蘇芳の御小袿たてまつれり。殿、餅はまゐりたまふ。 今宵、少輔の乳母が禁食をゆるされる。おっとりしたお方である。若宮を抱いていて、御帳のうちでは殿の北の方が乳母から若宮を抱き取って、いざり出る様子は、火影に移って、とても立派である。赤色の唐の御衣、地摺りの裳をきちんとお召しになっていらっしゃるのももったいなく立派に見える。中宮様は葡萄染めの五重の御衣、蘇芳の御小袿をお召しになっている。殿は若宮へ餅をさし上げる。
 上達部の座は、例の東の対の西面なり。いま二所の大臣も参りたまへり。橋の上に参りて、また酔ひ乱れてののしりたまふ。折櫃物おりびつもの籠物こものどもなど、殿の御方より、まうち君たち取り続きて参れる、高欄に続けて据ゑわたしたり。たちあかしの光の心もとなければ、四位少将などを呼び寄せて、紙燭ささせて、人びとは見る。内裏の台盤所にもて参るべきに、明日よりは御物忌みとて、今宵みな急ぎて取り払ひつ。 上達部の座は、例によって対の西の廂である。二人の大臣も参上した。橋の上で、また見苦しく酔って大声を出している。殿の方から、折櫃物・籠物を続々と家司が持ってきて、高欄に並べる。松明の光が心もとないので、四位少将を呼び寄せて、紙燭をかかげさせるのを、人は見ている。内裏の台盤所に持参するのだが、明日からは物忌みなので、今宵急いで取り払うのだった。
 宮の大夫、御簾のもとに参りて、  「上達部、御前に召さむ。」 と啓したまふ。  「聞こし召しつ。」 とあれば、殿よりはじめたてまつりて、みな参りたまふ。階の東の間を上にて、東の妻戸の前までゐたまへり女房、二重、三重づつゐわたりて、御簾どもをその間にあたりてゐたまへる人びと、寄りつつ巻き上げたまふ。大納言の君宰相の君小少将の君宮の内侍とゐたまへるに、右の大臣寄りて、御几帳のほころび引き断ち、乱れたまふ。  「さだ過ぎたり。」 とつきしろふも知らず、扇を取り、たはぶれごとのはしたなきも多かり。大夫、かはらけ取りて、そなたに出でたまへり。「美濃山」うたひて、御遊び、さまばかりなれど、いとおもしろし。 宮の大夫が、中宮の御簾のところに参って、「上達部を御前に御呼びしてください」と奏上すると、「お聞きあそばした」とあったので、殿より始め皆参上する。階の東の間を上席にして、東の妻戸の前までいっぱいであった。女房たちは二列三列に重なって、御簾が当たる人は巻き上げて座った。 大納言の君、宰相の君、小少将の君、宮の内侍が座っておられる。右大臣がきて、几帳の帷子の一部を引きちぎって、酔っている。「いい年をして」と女房たちが批判するのも知らずに、女房の扇を取って、品の良くない冗談も多く出る。中宮の大夫が、そちらに行った。催馬楽の「美濃山」を謡って、面白い。
 その次の間の東の柱もとに、右大将寄りて、衣の褄、袖口かぞへたまへるけしき、人よりことなり。酔ひのまぎれをあなづりきこえまた誰れとかはなど思ひはべりて、はかなきことども言ふに、いみじくざれ今めく人よりも、けにいと恥づかしげにこそおはすべかめりしか。盃の順の来るを、大将はおぢたまへど、例のことなしびの、「千歳万代」にて過ぎぬ。 次の間の東の柱のもとに右大将(藤原実資さねすけ)がいて、几帳の下から見える女房の衣の褄や袖口などを数えていたのだろうか、ちょっと違った様子だった。酔っているからと軽く思い申しあげて、わたしを誰と分からないだろうと思って、たわいのないことを言うと、今めいて洒落た人よりも、恥ずかしいほどに立派な態度でいらっしゃった。盃が順にくるのを気にされて、びくびくされていたが、いつもの当たり障りのない、「千年、万代」で終わってしまった。
1.2.9 解説 藤原実資
 左衛門督、  「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ。」 と、うかがひたまふ。源氏に似るべき人も見えたまはぬに、かの上はまいていかでものしたまはむと、聞きゐたり。  「三位の亮、かはらけ取れ。」 などあるに、侍従の宰相立ちて、内の大臣のおはすれば、下より出でたるを見て、大臣酔ひ泣きしたまふ。権中納言、隅の間の柱もとに寄りて、兵部のおもとひこしろひ、聞きにくきたはぶれ声も、殿のたまはず。 衛門督(藤原公任)がきて、「失礼します、こちらに若紫さんはいらっしゃいますか」と聞くのだった。源氏に似た人もいないのに、どうして紫の上がいることがありましょう、と聞き流していた。「三位の亮、盃を受けなさい」と道長様が言われるので、侍従の宰相は立って、父の内大臣がいるので、下からまわったのを見て、大臣が酔って泣くのだった。権中納言、隅の間の柱に寄って、兵部のおもとをむりに引っ張り、聞き苦しい戯れごとを言うが、道長様は何も仰らない。
1.2.9 解説  あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ。
1.2.10 【一〇 五十日祝いの夜の酒宴】
恐ろしかるべき夜の御酔ひなめりと見て、事果つるままに、宰相の君に言ひ合はせて、隠れなむとするに、東面に殿の君達、宰相中将など入りて、騒がしければ、二人御帳の後ろにゐ隠れたるを、取り払はせたまひて、二人ながら捉へ据ゑさせたまへり。 「和歌一つ仕うまつれ。さらば許さむ。」 と、のたまはす。いとわびしく恐ろしければ聞こゆ。
  いかにいかがかぞへやるべき八千歳の
  あまり久しき君が御代をば(九)  「あはれ、仕うまつれるかな。」 と、二たびばかり誦ぜさせたまひて、いと疾うのたまはせたる、
  あしたづの齢しあらば君が代の
  千歳の数もかぞへとりてむ(一○)
今夜の宴は何か乱れそうだと見て、宴が終わって、宰相の君と相談し、隠れようとして、東面は殿の子息や、宰相中将などがいて、騒がしいので、二人で几帳の後ろに隠れていたが、取り払われて見つかってしまった。「和歌を一首ずつ詠め、そうすれば許す」と道長様が仰る。逃げたくもあり恐ろしくもあったので、詠んだ。
  今日は五十日のお祝いですこれからの幾千年
  永い御代をどうやって数えたものでしょう  (九)
「やあ、うまく詠んだものだなあ」といって二度も朗誦するのだった。
  鶴のような千年の歳がわたしにあったなら
  永い君の御代も数えられるでしょう     (一〇) 
 さばかり酔ひたまへる御心地にも、おぼしけることのさまなれば、いとあはれにことわりなり。げにかくもてはやしきこえたまふにこそは、よろづのかざりもまさらせたまふめれ。千代もあくまじき御ゆくすゑの、数ならぬ心地にだに思ひ続けらる。  「宮の御前、聞こしめすや。仕うまつれり。」 と、われぼめしたまひて、  「宮の御父にてまろ悪ろからず、まろがむすめにて宮悪ろくおはしまさず。母もまた幸ひありと思ひて、笑ひたまふめり。良い夫は持たりかし、と思ひたんめり。」 と、たはぶれきこえたまふも、こよなき御酔ひのまぎれなりと見ゆ。さることもなければ、騒がしき心地はしながらめでたくのみ聞きゐさせたまふ。殿の上、聞きにくしとおぼすにや、渡らせたまひぬるけしきなれば、  「送りせずとて、母恨みたまはむものぞ。」 とて、急ぎて御帳の内を通らせたまふ。  「宮なめしとおぼすらむ。親のあればこそ子もかしこけれ。」 と、うちつぶやきたまふを、人びと笑ひきこゆ。 あれほど酩酊していても、この歌は日頃から思っていることを詠んでいるので、感動するのもごもっとなことだ。こうして若宮をお引き立てして大切に世話しているので、若君も輝くのだ。千年でも充分でない行末を、わたしのような物の数にも入らぬ者にも願われるのだ。「中宮様、お聞きですか、みごとに歌を詠みましたよ」と褒められて、「中宮の父親としてわたしは悪くないだろう、わたしの娘で中宮は悪くありません、母親も幸せと思って、笑っているだろう。良い夫を持ったと、思っているだろう」と戯れているのも、酔った勢いだろうと見える。たいしたこともないので、ちょっとやりすぎと思うが、中宮はご機嫌よく聞いていた。殿の北の方は、見苦しいと思ったのか、退出なさる気配なので、「お見送りしなければ、母はお恨みされるだろう」とて、急いで御帳の内を通るのだった。「中宮様、失礼と思われますか。この親あって賢い子ができた」とつぶやくのを女房たちは笑うのだった。
1.2.11 【一一 内裏還御の準備 御冊子作り】
入らせたまふべきことも近うなりぬれど、人びとはうちつぎつつ心のどかならぬに、御前には御冊子作りいとなませたまふとて、明けたてば、まづ向かひさぶらひて、色々の紙選りととのへて、物語の本ども添へつつ、所々に文書き配る。かつは綴じ集めしたたむるを役にて明かし暮らす。  「なぞの子持ちか、冷たきにかかるわざはせさせたまふ。」 と、聞こえたまふものから、よき薄様ども、筆、墨など、持てまゐりたまひつつ、御硯をさへ持てまゐりたまへれば、取らせたまへるを、惜しみののしりて、  「ものの奥にて向かひさぶらひて、かかるわざし出づ。」 とさいなむ。されど、よき継ぎ、墨、筆などたまはせたり。 内裏へ入る時も近くなってきたころ、女房たちは次々と気が休まらないのに、中宮のところでは御冊子を作るということで、夜が明ければ、中宮の御前に伺候して、色々の紙をととのえて、物語の原本を添えてありこちに書写の依頼の文を書きくばる。一方では冊子に綴じて作る。「産後で、冷えることして障りはないか」と道長様が仰せになるが、上等の鳥の子紙や筆、墨を持ってきて、硯も持ってきたのを、中宮様はわたしに下さるのを惜しんで、「奥に隠れていてこんな仕事を始めるとは」と注意する。しかし道長様からは上等な墨挟や墨を賜るのだった。
 局に物語の本ども取りにやりて隠しおきたるを御前にあるほどに、やをらおはしまいて、あさらせたまひて、みな内侍の督の殿にたてまつりたまひてけり。よろしう書きかへたりしはみなひき失ひて、心もとなき名をぞとりはべりけむかし。   物語の本を里に取りにやって、わたしの局に隠しておいたのを、わたしが中宮様のところに出仕中、道長様が来て探し出して、みな内侍の督様にさし上げてしまった。どうにかみられる程度に清書したのはみな失って、良くないのが伝わって、芳しくない評判を得ることだろう。
 若宮は御物がたりなどせさせたまふ。内裏に心もとなくおぼしめす、ことわりなりかし。 若宮は何かしゃべり始めた。帝が参内の日を待ち遠しくしているのは、当然のことだろう。
1.2.12 【一二 里下がりしての述懐】
御前の池に、水鳥どもの日々に多くなり行くを見つつ、「入らせたまはぬさきに雪降らなむ。この御前のありさま、いかにをかしからむ」と思ふに、あからさまにまかでたるほど、二日ばかりありてしも雪は降るものか。見所もなきふるさとの木立ちを見るにも、ものむつかしう思ひ乱れて、年ごろつれづれにながめ明かし暮らしつつ、花鳥の色をも音をも、春秋に行き交ふ空のけしき、月の影、霜、雪を見て、その時来にけりとばかり思ひ分きつつ、いかにやいかにとばかり、行く末の心細さはやる方なきものから、はかなき物語などにつけて、うち語らふ人、同じ心なるは、あはれに書き交はし、すこしけ遠きたよりどもを尋ねてもいひけるを、ただこれをさまざまにあへしらひ、そぞろごとにつれづれをば慰めつつ、世にあるべき人数とは思はずながら、さしあたりて恥づかし、いみじと思ひ知る方ばかり逃れたりしを、さも残ることなく思ひ知る身の憂さかな 土御門殿の池の水鳥が多くなってゆくのを見ながら、「内裏に入る前に雪が降って欲しい。土御門が雪の御殿になると、すばらしいだろう」と思っていると、ちょっと里へ行っているあいだの二日ばかりして、雪が降るではないか。見どころのない実家の木立を見るにも、何とも気が重く、宮仕え前は、さびしく物思いしてながめ暮らしていて、花の色や鳥の音にも、春秋に移り変わ る空の気色を感じ、月の光や霜雪を見て、その時節が来たのだと分かるばかりで、歌に詠まれたように「いかにやいかにこの先はどうなる」と行末の心細さを嘆いていた頃、はかない物語について語りあえる人と、感動の文を交わし、少し近づきがたい人にも文などかわして、このような物語をいろいろいじったりして、つれづれを慰めていたが、自分など世に存在価値がないと思いながらも、今さしあたって恥ずかしい辛いと思うことのみ避けていたが、宮仕えしてからは、本当にわが身のつらさを味わい尽くすことになった。
 試みに物語を取りて見れど、見しやうにもおぼえず、あさましく、あはれなりし人の語らひしあたりも、われをいかに面なく心浅きものと思ひおとすらむと、おしはかるに、それさへいと恥づかしくて、えおとづれやらず。心にくからむと思ひたる人は、おほぞうにては文や散らすらむなど、疑はるべかめれば、いかでかは、わが心のうち、あるさまをも深うおしはからむと、ことわりにて、いとあいなければ、仲絶ゆとなけれど、おのづからかき絶ゆるもあまた。住み定まらずなりにたりとも思ひやりつつ、おとなひ来る人も難うなどしつつ、すべてはかなきことにふれても、あらぬ世に来たる心地ぞ、ここにてしもうちまさり、ものあはれなりける 試しに当時の物語を読んでみても、以前のように感興もわかず、仲の良く親しかった人も、わたしを恥知らずで心の浅い人だと軽蔑しているだろうと思って、わたしがそう思うのさえ嫌で、文も出さなくなった。奥ゆかしい人は、わたしのような普通の宮仕えの者は、出した文も散逸するだろうと、疑われるので、どうしてわが心の内を深く推し量れよう、と思うのも道理で、味気ない気持ちがして、絶交ではないが、自然と交際の絶えたひとが多くあり、住まいが一定ではないからだろうか、訪れてくる人も来にくくなり、すべては、ちょっとしたことでも、別の世界に来た心地がして、実家にいてももの悲しいのだった。
 ただ、えさらずうち語らひ、すこしも心とめて思ふ、こまやかにものを言ひかよふ、さしあたりておのづから睦び語らふ人ばかりを、すこしもなつかしく思ふぞ、ものはかなきや。大納言の君の、夜々は御前にいと近う臥したまひつつ、物語りしたまひしけはひの恋しきも、なほ世にしたがひぬる心か。
  浮き寝せし水の上のみ恋しくて
  鴨の上毛にさへぞ劣らぬ(一一)
返し、
  うちはらふ友なきころの寝覚めには
  つがひし鴛鴦ぞ夜半に恋しき(一二)
 書きざまなどさへいとをかしきを、まほにもおはする人かなと見る。  「雪を御覧じて、折しもまかでたることをなむ、いみじく憎ませたまふ。」 と、人びとものたまへり。殿の上の御消息には、  「まろがとどめし旅なれば、ことさらに急ぎまかでて、『疾く参らむ』とありしもそらごとにて、ほど経るなめり。」 と、のたまはせたれば、たはぶれにても、さ聞こえさせ、たまはせしことなれば、かたじけなくて参りぬ。
ただ、終始話し合って、少しでも心にとめている人、ねんごろにものを言い交す人、さしあたって、自然と仲良く話し合う人を懐かしく思っている自分の変わりようがはかないものだ。 大納言の君は、夜々は御前に近くに臥して、互に物語した様子も恋しいのは、環境に順応したということか。
  中宮様の御前であなたと仮根した水の上が恋しく
  ひとり寝の里の寒さは鴨の上毛にさえ劣りません   (一一)
大納言の君の返し、
  上毛の霜を払う友なきころの寝覚めには
  つがった鴛鴦が恋しい夜半の目覚めです       (一二)
書きざまも趣があり、万事完全な人です。  「中宮が雪を御覧になって、雪景色の美しい折、あなたがいないのは残念だ。」 と他の人々も文で伝えてくれます。殿の北の方の文には、  「わたしが止めた里帰りですが、あなたが急いで帰省しまして『すぐ戻ります』と言っていたのも空ごとで、里帰りもずいぶん経ちますね」と仰せなので、冗談にしても、すぐ戻ると言ってお暇を賜ったので、恐縮して戻りました。
2.13 【一三 十一月十七日、中宮還御】
入らせたまふは十七日なり。戌の時など聞きつれど、やうやう夜更けぬ。みな髪上げつつゐたる人、三十余人、その顔ども見え分かず。母屋の東面、東の廂に内裏の女房も十余人、南の廂の妻戸隔ててゐたり。 中宮様の還御は十七日であった。午後八時ころと聞いていたが、だんだん夜も更けてきた。髪上げした女房たち総勢三十余人、顔はよく分からない、母屋の東の間や廂に内裏の女房も十余人、南の廂の妻戸で隔てている。
 御輿には宮の宣旨乗る。糸毛の御車に殿の上、少輔の乳母若宮抱きたてまつりて乗る。大納言、宰相の君、黄金造りに、次の車に小少将、宮の内侍、次に馬の中将と乗りたるを、悪ろき人と乗りたりと思ひたりしこそ、あなことごとしと、いとどかかるありさまむつかしう思ひはべりしか。殿司の侍従の君、弁の内侍、次に左衛門の内侍、殿の宣旨式部とまでは次第知りて、次々は例の心々にぞ乗りける。月の隈なきに、いみじのわざやと思ひつつ足をそらなり。馬の中将の君を先に立てたれば、行方も知らずたとたどしきさまこそ、わが後ろを見る人、恥づかしくも思ひ知らるれ。 中宮の御輿には宮の宣旨が乗る。糸毛の御車に殿の北の方、少輔の乳母が若宮をだいて乗る。大納言の君と宰相の君は黄金造りの車に、次の車に小少将、宮の内侍、次の車に馬の中将とわたしが乗って、嫌な人と乗り合わせたと相手が思っているのが、勿体ぶっている様子が分かり、こんなことが宮仕えの難しさだ。殿司の侍従の君・弁の内侍次に左衛門の内侍・殿の宣旨式部までは順序がきまっていて、その次は思い思いに乗った。月が隈なく明るく、顔がみえるので、恥ずかしいことと思い、足が浮ついている。馬の中将の君を先に立てたので、わたしの後ろ姿も同じ恰好で恥ずかしく思われる。
 細殿の三の口に入りて臥したれば、小少将の君もおはして、なほかかるありさまの憂きことを語らひつつ、すくみたる衣ども押しやり、厚ごえたる着重ねて、火取に火をかき入れて、身も冷えにける、もののはしたなさを言ふに、侍従の宰相、左の宰相の中将、公信の中将など、次々に寄り来つつとぶらふも、いとなかなかなり。今宵はなきものと思はれてやみなばやと思ふを、人に問ひ聞きたまへるなるべし。「いと朝に参りはべらむ。今宵は耐へがたく、身もすくみてはべり。」 など、ことなしびつつ、こなたの陣のかたより出づ。おのがじし家路と急ぐも、何ばかりの里人ぞはと思ひ送らる。わが身に寄せてははべらず、おほかたの世のありさま、小少将の君の、いとあてにをかしげにて、世を憂しと思ひしみてゐたまへるを見はべるなり。父君よりことはじまりて、人のほどよりは幸ひのこよなくおくれたまへるなんめりかし。 細殿の三の口に入って臥すと、小少将の君がいて、こんな時のつらいことを語らいながら、こわばった衣を押しやり、厚い綿入れを着て香炉に火を入れて、体も冷えて、その不格好な様を言っていると、侍従の宰相、左の宰相の中将、公信の中将などが次々にやってきて話かけるのが、ありがた迷惑だ。今宵はいないものと思われてやり過ごしたいと思っているのに、誰かに所在を聞いたのだろう。 「明朝早く参りましょう。今宵は寒く体もこわばっている」など何でもない挨拶をして、こちらの陣から出ていく。それぞれが家路に急ぐのも、何ばかりの里人が待っているのかと思ってしまう。自分を顧みて言うのではない。世のありさまは、小少将の君の、とても美しいのに、世を憂しと思っているのを見ています。父君の出家からはじまって、人柄に比し幸が薄いと思われるのです。
1.2.14 【一四 中宮還御の翌日、道長から中宮への贈物】
昨夜の御贈物、今朝ぞこまかに御覧ずる。御櫛の筥の内の具ども、言ひ尽くし見やらむかたもなし。手筥一よろひ、かたつかたには白き色紙作りたる御冊子ども、『古今』、『後撰集』、『拾遺抄』、その部どものは五帖に作りつつ、侍従の中納言<行成その時大弁>、延幹と、おのおの冊子一つに四巻をあてつつ書かせたまへり。表紙は、紐同じ唐の組、懸子の上に入れたり。下には能宣よしのぶ元輔もとすけやうの、いにしへいまの歌よみどもの家々の集書きたり。延幹と近澄の君と書きたるは、さるものにて、これはただけ近うもてつかはせたまふべき、見知らぬものどもにしなさせたまへる、今めかしうさまことなり。 昨夜の道長様からの贈り物を、今朝つぶさに見る。御櫛箱の中の具どもは、言い尽くすことも見尽くすこともできないすばらしいものだ。手箱一対の他に一方には白い紙の冊子に、『古今』、『後撰集』、『拾遺抄』、それぞれ五帖になっていて、侍従の中納言(藤原行成)と能書家の延幹とに、おのおの冊子の四巻を書かせていた。表紙は、紐も同じ羅の唐様の組紐で、かけごの上段に入れてある。下段には能宣や元輔などのような古今の歌人たちの歌集を集めている。延幹と行成ゆきなりの書はいうまでもなく立派で、これらの歌集は身近に置いてお使いになるもので、見知らぬものたちにかかせたものだ。新しみがあり斬新だ。
1.2.15 【一五 十一月二十日丑の日、五節の舞姫、帳台の試み】
 五節は二十日に参る侍従の宰相に舞姫の装束などつかはす。右の宰相中将の五節にかづら申されたる、つかはすついでに、筥一よろひに薫物入れて、心葉、梅の枝をして、いどみきこえたり。 五節の舞姫は二十日に参上する。中宮様は、侍従の宰相に舞姫の装束など下賜する。右の宰相の中将が日陰の鬘の下賜かしを申請したのを、そのついでに、一対の箱に薫物を入れて、心葉、梅の枝など競い合えるようにした。
 にはかにいとなむ常の年よりもいどみましたる聞こえあれば、東の御前の向かひなる立蔀たてとじみ、ひまもなくうちわたしつつ灯したる火の光、昼よりもはしたなげなるに、歩み入るさまども、あさましうつれなのわざやとのみ思へど、人の上とのみおぼえず。ただかう殿上人のひたおもてにさし向かひ、紙燭ささぬばかりぞかし。屏幔ひき、おひやるとすれど、おほかたのけしきは、同じごとぞ見るらむと思ひ出づるも、まづ胸ふたがる。 にわかに用意された例年より、今年は競って立派なものにしたという評判なので、当日は、東の御前の向かいにある立蔀に隙間なく並べた灯火が、昼よりも明るくて、きまりが悪い程なのに、舞姫たちはよくもまあ平然としていること、他人事とは思えない。中宮還御の折も、殿上人に近くにじかに顔を突き合わせて、紙燭をさしていないだけのことだ。幔幕を引いて、さえぎっているとしても、大体の様子はあらわに見えるのは同じことだ、とその時を思い出すについても、胸のふさがる思いがする。
業遠なりとおの朝臣のかしづき、錦の唐衣、闇の夜にもものにまぎれず、めづらしう見ゆ。衣がちに、身じろきもたをやかならずぞ見ゆる。殿上人、心ことにもてかしづく。こなたに主上も渡らせたまひて御覧ず。殿もしのびて遣戸より北におはしませば、心にまかせたらずうるさし。 業遠なりとおの朝臣の介添えの女房は、錦の唐衣が闇の夜にも紛れず、立派に見える。たくさん重ね着して、身動きも自由にできそうにない。付き添いの殿上人が格別気を遣って世話をしている。帝が中宮の座に来られて御覧になる。殿も忍んで来て遣戸より北の方におられたので、気楽にできず煩わしい。
 中清のは、「丈どもひとしくととのひ、いとみやびかに心にくきけはひ、人に劣らず」と定めらる。右の宰相の中将の、あるべきかぎりはみなしたり。樋洗ひすましの二人ととのひたるさまぞさとびたりと、人ほほ笑むなりし。はてに、藤宰相の、思ひなしに今めかしく心ことなり。 かしづき十人あり。又廂の御簾下ろして、こぼれ出でたる衣の褄ども、したり顔に思へるさまどもよりは、見どころまさりて、火影に見えわたさる。 中清の介添えは、「背丈がそろっていて大そう優雅で心にくい気配があり、他に引けを取らない」と評される。右の宰相中将の介添えは、なすべきことはすべて整えている。樋洗の二人は、畏まった様子をして、鄙びていたので、人々は微笑んでいた。最後の藤宰相の介添え役は、気のせいか格別に趣がある。かしづきは十人いた。又廂の御簾をおろして、こぼれでた衣裳の褄などは、得意然としているよりは、見どころがあって火影に見えるのだった。
1.2.15 解説 五節の舞姫
1.2.16 【一六 二十一日寅の日、五節の舞姫、御前の試み】
寅の日の朝、殿上人参る。つねのことなれど、月ごろにさとびにけるにや、若人たちのめづらしと思へるけしきなり。さるは、摺れる衣も見えずかし。  その夜さり、春宮の亮召して、薫物たまふ。大きやかなる筥一つに、高う入れさせたまへり。尾張へは殿の上ぞつかはしける。その夜は御前の試みとか、上に渡らせたまひて御覧ず。若宮おはしませば、うちまきしののしる。つねに異なる心地す。 寅の日の朝、殿上人たちが参上する。いつものことだが、中宮のお産で土御門の里に長くいて馴れたのか、若い女房たちは殿上人の参上を珍しいと見ている。青い摺衣は見えない。その夜、春宮の亮の高階業遠を召して、薫物を賜った。大きな箱にうず高く入っていた。尾張の藤原中清へは、殿の北の方が賜った。その夜は、御前の試みで、中宮は清涼殿にお越しになって御覧になる。若宮がいるので散米して大声を上げる。いつもと違った。
 もの憂ければしばしやすらひて、ありさまにしたがひて参らむと思ひてゐたるに、小兵衛、小兵部なども、炭櫃にゐて、  「いとせばければ、はかばかしうものも見えはべらず。」 など言ふほどに、殿おはしまして、  「などて、かうて過ぐしてはゐたる。いざもろともに。」 と、せめたてさせたまひて、心にもあらず参う上りたり。舞姫どもの、いかに苦しからむと見ゆるに、尾張守のぞ、心地悪しがりて往ぬる、夢のやうに見ゆるものかな。こと果てて下りさせたまひぬ。 気が重かったので、少しやすんで、様子を見て参上しようと思って、小兵衛、小兵部などと、炭火にあたっていて、「人が混んでいてよく見えませんね」などと言っていると、道長様が来られて、「どうしてこんなところにいるのか。一緒に行こう」と誘うので気が進まないまま参上した。舞姫たちはどんなに辛いだろうと見ていると、尾張守の舞姫が気分が悪くなって退出したが、この様子が夢のなかのように見えたよ。やがて御前の試みが終わって、中宮は退出された。
 このごろの君達は、ただ五節所のをかしきことを語る。  「すだれの端、帽額もこうさへ心々にかはりて、出でゐたる頭つき、もてなすけはひなどさへ、さらにかよはず、さまざまになむある。」 と、聞きにくく語る。 このごろの若い殿方は、ただ五節所の、風流なことを語る。「簾のはしや、帽額もこうさえ、局ごとに変わっていて、頭つきや、所作などそれぞれに趣がある」と聞きにくいことを言っていた。
1.2.16 解説 舞姫について
1.2.17 【一七 二十二日卯の日、五節の舞姫、童女御覧】
かからぬ年だに御覧の日の童女の心地どもは、おろかならざるものを、ましていかならむなど、心もとなくゆかしきに歩み並びつつ出で来たるは、あいなく胸つぶれていとほしくこそあれ。さるは、とりわきて深う心寄すべきあたりもなしかし。われもわれもと、さばかり人の思ひてさし出でたることなればにや、目移りつつ、劣りまさりけざやかにも見え分かず。今めかしき人の目にこそ、ふともののけぢめも見とるべかめれ。ただかく曇りなき昼中に、扇もはかばかしくも持たせず、そこらの君達のたちまじりたるに、さてもありぬべき身のほど、心もちゐといひながら、人に劣らじとあらそふ心地も、いかに臆すらむと、あいなくかたはらいたきぞ、かたくなしきや 今年のように競わない普通の年でも、舞姫の緊張は並大抵ではないだろうが、早く見たいので気になり、舞姫と童女が並んで歩み来る様子を見るのは、わけもなく胸がつぶれる思いがして、気の毒で可哀想だった。特別ひいきにするのもいないのだが。あれほどの人たちが自信をもってさしだした童女なので、目移りして優劣は決められない。ただこのように曇りもない日中に顔を隠す扇もきちんと持っていないし、公達の若者たちもいるのに、衆人環視のなかこのような所にでて恥ずかしくない身分や心もちがあるとはいうものの、人に劣るまいと競う心地のなかで、どんなに気後れすることだろうと、わけもなく気の毒に思われるのは、わたしは融通のきかない性分であることよ。
丹波守の童女の青い白橡しらつるばみ汗衫かざみ、をかしと思ひたるに、藤宰相の童女は、赤色を着せて、下仕への唐衣に青色をおしかへしたる、ねたげなり。童女のかたちも、一人はいとまほには見えず。宰相の中将は、童女いとそびやかに、髪どもをかし。馴れすぎたる一人をぞ、いかにぞや、人のいひし。みな濃き衵に、表着は心々なり。汗衫は五重なる中に、尾張はただ葡萄染めを着せたり。なかなかゆゑゆゑしく心あるさまして、ものの色合ひ、つやなど、いとすぐれたり。 丹波守の童女の青い白橡の汗衫をがおもしろいと思ったが、藤宰相の童女は、赤色を着せて、下仕えは唐衣に青色にしているのは、心にくい。童女たちの容貌も、丹波守の童女は十分ではなかったが、宰相の中将の童女は、とても背がすらりとして、髪の具合も美しい、その中のもの馴れたのはどうもよくないと人々は話題にした。みな濃い紅の衵を着て表着は各自めいめいだ。汗衫は五重に着ているなかで、尾張守の童女は、ただ葡萄染を着せていた。それがかえって品があり色目や艶など、たいそうすぐれて見えた。
下仕への中にいと顔すぐれたる、扇取るとて六位の蔵人ども寄るに、心と投げやりたるこそ、やさしきものから、あまり女にはあらぬかと見ゆれ。 下仕えの中に顔の美しいがいて、六位の蔵人が扇を取ろうとして寄ると、自分から扇を投げたのは、優しい手つきであったが、あまり女らしい所作とはいえなかった。
われらを、かれがやうにて出でゐよとあらば、またさてもさまよひありくばかりぞかし。 立ち出でむとは思ひかけきやは。されど、目にみすみすあさましきものは、人の心なりければ、今より後のおもなさは、ただなれになれすぎ、ひたおもてにならむやすしかしと、身のありさまの夢のやうに思ひ続けられて、あるまじきことにさへ思ひかかりて、ゆゆしくおぼゆれば、目とまることも例のなかりけり。 わたしが、あの人たちにように衆人の前に出ることになったら、あのようにまごついて歩くばかりだろう。こうまで、人前に出るなど、思いもしなかった。見ているうちにあきれるほどに変わるのは人の心なので、今よりのちの厚かましさは、宮仕えにすっかり馴れてしまって、直に顔を合わせるのもたやすい、とこの身が夢のように思われて、あるまじきことさえ思ってしまい、空恐ろしくなって眼前の儀式も、いつものように見る気がしなくなった。
1.2.17 解説 御覧の日について
1.2.18 【一八 二十三日辰の日、豊明節会】
侍従の宰相の五節局、宮の御前のただ見わたすばかりなり。立蔀の上より、音に聞く簾の端も見ゆ。人のもの言ふ声もほの聞こゆ。  「かの女御の御かたに、左京の馬といふ人なむ、いと馴れてまじりたる。」 と、宰相中将、昔見知りて語りたまふを、  「一夜かのかいつくろひにてゐたりし、東なりしなむ左京。」 と、源少将も見知りたりしを、もののよすがありて伝へ聞きたる人びと、  「をかしうもありけるかな。」 と、言ひつつ、いざ知らず顔にはあらじ、昔心にくだちて見ならしけむ内裏わたりを、かかるさまにてやは出で立つべき。しのぶと思ふらむを、あらはさむの心にて御前に扇どもあまたさぶらふ中に、蓬莱作りたるをしも選りたる、心ばへあるべし、見知りけむやは。筥の蓋にひろげて、日蔭をまろめて、反らいたる櫛ども、白き物忌みし1.て、つまづまを結ひ添へたり。  「すこしさだ過ぎたまひにたるわたりにて、櫛の反りざまなむ、なほなほしき。」 と、君達のたまへば、今様のさま悪しきまでつまもあはせたる反らしざまして、黒方くろぼうをおしまろがして、ふつつかにしりさき切りて、白き紙一重ねに、立文にしたり。大輔のおもとして書きつけさす。
   おほかりし豊の宮人さしわきて
   しるき日蔭をあはれとぞ見し(一三)
侍従の宰相の舞姫の控所は、中宮の御座所のすぐ近くであった。立蔀の上から評判のすだれのはしも見える。人が話す声もかすかに聞こえる。「あの弘徽殿の女御の処に、左京の君という馴れた女房がいました」と宰相中将が昔見知っていたのを語る。「先夜、介添役で出ていましたね。東側にいたのが左京ですよ」と、源少将も知っていて、何かの縁で伝え聞いた人々が、「おもしろそうね」と言いながら、素知らぬ顔はできない、左京の君は昔は上品そうに住みならしていたその宮中で介添役で出るなんて、人目を忍んでいるらしいが、それを暴露してやろうの気持ちで、中宮の御前に扇がたくさんあったなかで、蓬莱山の絵柄のを選んだ、意図がお分かりだろうか。箱の蓋の上で扇を広げ、日陰の鬘をまるめ、反った櫛をつけ、白い物忌をのせて端を結ったのをそえた。「少し年とっているので、櫛の反りざまはまだ少し足りないな」と公達が言えば、今様のどぎついほどに反らして、黒方を丸めてのばして両端を不格好に切って、白い紙を二枚重ねて立文の形にした。大輔のおもと殿と書きつけた。
  豊明の節会に大勢の大宮人いましたなかで
  とりわけ目立った日陰の鬘の君に感銘しました (一三)
御前には、  「同じくは、をかしきさまにしなして、扇などもあまたこそ。」 と、のたまはすれど、  「おどろおどろしからむも、ことのさまにあはざるべし。わざとつかはすにては、忍びやかにけしきばませたまふべきにもはべらず。これはかかる私ごとにこそ。」 と、聞こえさせて、顔しるかるまじき局の人して、  「これ中納言の君の御文、女御殿より左京の君にたてまつらむ。」 と高やかにさしおきつ。ひきとどめられたらむこそ見苦しけれと思ふに、走りきたり。女の声にて、  「いづこより入りきつる。」 と問ふなりつるは、女御殿のと、疑ひなく思ふなるべし。 中宮様は、「同じ、贈るのなら、趣を考えて扇などもたくさんにしたらどうか」とおっしゃるが、「大げさにするのも、この趣旨にそぐわないのです。特別に下賜なされるのなら、このように内緒でするものでもありません。これはほんとうに私的なことですから」と言って、顔を知られていない人をやって、「これは中納言さまからの文で、女御さまから左京の君へさし上げてください」声高く言って置いてきた。引き止められたら厄介と、走って戻ってきた。女の声で、「どこから入ってきたのか」と尋ねているらしいのは、女御様からのものと、疑いなく思っていらしい。
1.2.19 【一九 五節過ぎの寂寥の日々】
何ばかりの耳とどむることもなかりつる日ごろなれど、五節過ぎぬと思ふ内裏わたりのけはひ、うちつけに さうさうざうしきを巳の日の夜の調楽は、げにをかしかりけり。若やかなる殿上人など、いかに名残つれづれならむ。 たいして聞きおくべくもない日々が続いて、五節が終わった内裏の気配は、急にもの寂しくなるなか、巳の日の夜の試楽はとてもよかった。若い殿上人などは、どんなに名残おしかったであろう。
 高松の小君達さへ、こたみ入らせたまひし夜よりは、女房ゆるされて、間のみなく通りありきたまへば、いとどはしたなげなりや。さだ過ぎぬるを豪家にてぞ隠ろふる。五節恋しなども、ことに思ひたらず、やすらひ、小兵衛などや、その裳の裾、汗衫にまつはれてぞ、小鳥のやうにさへづりざれおはさうずめる。 高松邸の小公達さえ今回の内裏還御の夜から、女房たちの局への出入りが許されて、近くを通るので、とてもきまりが悪い。盛りを過ぎた年を口実に隠れている。五節が恋しいなどと思っておらず、やすらい、小兵衛など童女の裳の裾、汗衫にまとわりついて小鳥のようにキャッキャ騒いでいる。
1.2.20 【二〇 十一月二十八日下酉の日、臨時の祭】
臨時の祭の使ひ殿の権中将の君なり。その日は御物忌みなれば、殿、御宿直せさせたまへり。上達部も舞人の君達もこもりて、夜一夜、細殿わたり、いともの騒がしきけはひしたり。 賀茂神社の臨時の祭りの使いは、殿の子息の権中将の君であった。その日は帝の物忌みの日に当たっていたので、事前に宿直していた。上達部も舞人も宮中にこもって、夜どおし、細殿のあたりは、騒がしかった。
 つとめて、 内の大殿の御隨身、この殿の御随身にさしとらせていにける、ありし筥の蓋に白銀の冊子筥を据ゑたり。鏡おし入れて、沈の櫛、白銀の笄など、使ひの君の鬢かかせたまふべきけしきをしたり。筥の蓋に葦手に浮き出でたるは日蔭の返り事なめり。文字二つ落ちて、あやしうことの心たがひてもあるかなと見えしは、かの大臣の、宮よりと心得たまひて、かうことごとしくしなしたまへるなりけり、とぞ聞きはべりし。はかなかりしたはぶれわざを、いとほしう、ことごとしうこそ。 翌朝、内大臣の随身がこちらの殿の随身に手渡したのは、先日の箱の蓋に、白金の冊子箱を添えたものであった。それには鏡がはめられていて、沈の櫛や白金の笄を添えて、権中納言の君が鬢の手入れをさせるようにとの体裁がしてあった。冊子箱の蓋に葦手に書いてあるのは、「しるき日陰」の歌の返歌らしい。文字二つ抜けていて変だし、さらに趣旨が違っているな、内大臣が中宮様からの贈物と勘違いされて、このように仰々しくされたのだ。ちょっとしたいたずらだったのに、大げさになってしまった。
殿の上も、参う上りて物御覧ず。使ひの君の藤かざして、いとものものしくおとなびたまへるを、内蔵の命婦は、舞人には目も見やらず、うちまもりうちまもりぞ泣きける。 殿の北の方も、参上して奉幣使出立の儀式をご覧になる。使いの君がさした藤の花が、たいそう大人びて見えたので、内蔵の命婦は、舞人には目もくれず、うっとりして泣くのだった。
 御物忌みなれば、御社より丑の時にぞ帰りまゐれば、御神楽などもさまばかりなり。兼時が去年まではいとつきづきしげなりしを、こよなく衰へたる振る舞ひぞ、見知るまじき人の上なれど、あはれに思ひよそへらるること多くはべる。 物忌みなので、翌朝丑の時に宮中へ上がり、神楽もほんの形式だけであった。兼時が去年まではうってつけの役だったが、すっかり衰えた所作で、自分にかかわりのない人だが、あわれでわが身に寄せて思われた。
1.2.21 【二一 十二月二十九日、参内、初出仕時に思いをはせる】
師走の二十九日に参る。初めて参りしも今宵のことぞかし。いみじくも夢路にまどはれしかなと思ひ出づれば、こよなくたち馴れにけるも、うとましの身のほどやとおぼゆ。  夜いたう更けにけり。御物忌みにおはしましければ、御前にも参らず、心細くてうち臥したるに、前なる人びとの、  「内裏わたりはなほいとけはひことなりけり。里にては今は寝なましものを。さもいざとき沓のしげさかな。」 と色めかしく言ひゐたるを聞く。
  年暮れてわが世更け行く風の音に
  心の中のすさまじきかな 
   (一四)
とぞ独りごたれし。
師走の二十九日に里から戻る。初めての出仕も同じ日だった。あのときは、まったく夢路に惑う心地だったが、すっかり馴れてしまったのも、嫌なわが身だとつくづく思う。夜がふけた。物忌みなので中宮の御前にも参らず、心細く打ち臥していると。女房たちが、「内裏というところは、全く気配が違うわね。里だったら今頃は寝ているのに。しきりに沓音がするわ」と色めかしく言うのを聞いている。
  歳暮れてわが世もふけてゆく吹きわたる風の音に
  心の中はなんとすざましく共鳴することか  (一四) 
と独りごとを詠った。
1.2.22 【二二 十二月三十日の夜、追儺の儀の後】
つごもりの夜、追儺はいと疾く果てぬれば、歯黒めつけなど、はかなきつくろひどもすとて、うちとけゐたるに、弁の内侍来て、物語りして臥したまへり。 大晦日の夜、追儺に儀は早く終わったので、おはぐろなど、ちょとした化粧をしようと、くつろいでいたら、弁の内侍が来て、話をして臥してしまった。
内匠たくみの蔵人は長押の下にゐて、あてきが縫ふ物の、重ねひねり教へなど、つくづくとしゐたるに、御前のかたにいみじくののしる。内侍起こせど、とみにも起きず。人の泣き騒ぐ音の聞こゆるに、いとゆゆしくものもおぼえず。火かと思へど、さにはあらず。  「内匠の君、いざいざ。」 と先におし立てて、  「ともかうも、宮下におはします。まづ参りて見たてまつらむ。」 と、内侍をあららかにつきおどろかして、三人ふるふふるふ、足も空にて参りたれば、裸なる人ぞ二人ゐたる。靫負、小兵部なりけり。かくなりけりと見るに、いよいよむくつけし。 内匠たくみの蔵人は長押の下にいて、あてきに縫いものを、重ねやひねりを教えていて、しんみりしていた。御前の方から大声がする。内侍を起こそうとしたすぐには起きない。人の泣き叫ぶ声も聞こえ、とても恐ろしかった。なんにも分からず、火事と思ったが、そうではなかった。「内匠の君、さあ早く早く」と先におしたてて。「ともかく中宮様下におられます、まずそこへ行って確かめましょう」と、内侍を起こして、三人がふるえて、足も宙に浮いて参上すると、裸の人が二人いた。靫負と小兵部だった。こういうことだったのか、いっそう気味が悪い。
 御厨子所の人もみな出で、宮の侍も滝口も儺やらひ果てけるままに、みなまかでにけり。手をたたきののしれど、いらへする人もなし。御膳宿1おもやどりりの刀自とじを呼び出でくたるに、  「殿上に兵部丞といふ蔵人、呼べ呼べ。」 と、恥も忘れて口づから言ひたれば、たづねけれど、まかでにけり。つらきこと限りなし。  式部丞資業ぞ参りて、所々のさし油ども、ただ一人さし入れられてありく。 御厨子所の人もみな退出していて、中宮職の侍も滝口もみな退出してしまっていた。手をたたいて大声をだすが、応える人はない。御膳宿1おもやどり刀自とじを呼び出して、直接「殿上にいる兵部の丞という蔵人を呼んできなさい」恥も忘れてこの口で言ったが、退出した後だった。恨めしいことこの上ない。式部の資業が来てあちこちの油をひとりでさして回った。
人びとものおぼえず、向かひゐたるもあり。主上より御使ひなどあり。いみじう恐ろしうこそはべりしか。納殿にある御衣取り出でさせて、この人びとにたまふ。朔日の装束は盗らざりければ、さりげもなくてあれど、裸姿は忘られず、恐ろしきものから、をかしうとも言はず。 女房たちはぼんやり顔を見合わせている。帝から見舞いの使いがあった。とても恐ろしかった。納殿にある衣を取り出させて、女房たちに賜う。元日の装束は盗られなかった何もなかったようにしてるが、裸姿は忘れられず、恐ろしくもおかしくもあった。
《第三章 寛弘六年(一〇〇九)春の記》
1.3.1 【一 正月三日 若宮の御戴餅の儀】
正月一日、言忌みもしあへず坎日かんにちなりければ、若宮の御戴餅の事、停まりぬ。三日ぞ参う上らせたまふ。 正月一日。元日なので、昨夜のことは言忌みしなければならないのだがつい話してしまう。坎日かんにちなので、若宮の戴餅も中止になり。若宮は三日に参内する。
 今年の御まかなひは大納言の君。装束、朔日の日は紅、葡萄染め、唐衣は赤色、地摺の裳。二日、紅梅の織物、掻練は濃き、青色の唐衣、色摺の裳。三日は、唐綾の桜襲、唐衣は蘇芳の織物。掻練は濃きを着る日は紅は中に、紅を着る日は濃きを中になど、例のことなり。萌黄、蘇芳、山吹の濃き薄き、紅梅、薄色など、つねの色々をひとたびに六つばかりと、表着とぞ、いとさまよきほどにはべる。 今年の若宮の屠蘇の給仕は、大納言の君がする。装束は、朔日ついたちは紅、葡萄染、唐衣は赤色、地摺の裳。二日は、紅梅の織物、掻練は濃い紅、青色の唐衣、色摺の裳、三日は、唐綾の桜襲、唐衣は蘇芳の織物。掻練は濃い紅を着る日は紅は中に、紅を着る日は濃い紅はなかに着るのはいつもの通りである。萌黄・蘇芳・山吹の濃いのや薄いの・紅梅・淡色など、普通の色目の袿を一度に六つばかり、表着に、とても体裁のよい着こなしである。
 宰相の君の、御佩刀みはかし取りて、殿の抱きたてまつらせたまへるに続きて、参う上りたまふ。紅の三重五重、三重五重とまぜつつ、同じ色のうちたる七重に、単衣を縫ひ重ね、重ねまぜつつ、上に同じ色の固紋の五重、袿、葡萄染めの浮紋のかたぎの紋を織りたる、縫ひざまさへかどかどし。三重襲の裳、赤色の唐衣、菱の紋を織りて、しざまもいと唐めいたり。いとをかしげに、髪などもつねよりつくろひまして、やうだい、もてなし、らうらうじくをかし。丈だちよきほどに、ふくらかなる人の、顔いとこまかに、にほひをかしげなり。 宰相の君が御佩刀を持って、殿の若宮を抱いてくる後に続く。紅の三重五重、三重五重とまぜながら。同じ色合いの砧で打った七重とひとえを縫い合わせ、その上に同じ色合いの固紋の五重、袿、葡萄染の浮紋のかたぎの紋を織って、縫い方まで気が利いている。三重がさねの裳、赤色の唐衣、ひえの紋を織って、作りも唐めいている。髪などもいつもよりうつくしくつくろって、容姿や態度も、もの馴れていてすばらしい。背丈も程よい高さで、ふっくらして、顔は整っていて、色つやも美しい。
 大納言の君は、いとささやかに、小さしといふべきかたなる人の、白ううつくしげにつぶつぶと肥えたるが、うはべはいとそびやかに、髪、丈に三寸ばかりあまりたる裾つき、髪ざしなどぞ、すべて似るものなく、こまかにうつくしき。顔もいとらうらうじく、もてなしなど、らうたげになよびかなり。 大納言の君は、小柄で、むしろ小さいといったほうがいい方で、白く美しく太っているのだが、見た目はすらりとして、髪、丈に三寸ばかりあまったその裾の様子や、髪の生えぎわなど、似る者もなくよくととのっていて美しい。顔も愛らしく、身のこなしも可愛らしくもの柔らかである。
 宣旨の君は、ささやけ人の、いと細やかにそびえて、髪の筋こまかにきよらにて、生ひさがりのすゑより一尺ばかり余りたまへり。いと心恥づかしげに、きはもなくあてなるさましたまへり。ものよりさし歩みて出でおはしたるも、わづらはしう心づかひせらるる心地す。あてなる人はかうこそあらめと、心ざま、ものうちのたまへるも、おぼゆ。 宣旨の君は小柄な人で、細くすらりとして髪の毛筋はととのっていて、衣の裾から一尺ばかりあまっている。まったくこちらが恥ずかしくなるほど、限りなく上品な気配をしている。物影から歩み出ておいでになった時も、とても気が置けて、心配りをせずにはいられない。上品な人とはこういうものなのだ、と気だてもものを仰るにも、そう思う。

第二部 宮仕女房批評記

《第一章 人物批評》
2.1.1 【一 宰相の君、小少将の君、宮の内侍、式部のおもとの批評】
このついでに、人の容貌を語りきこえさせば、物言ひさがなくやはんべるべき。ただ今をや。さしあたりたる人のことは、わづらはし、いかにぞやなど、すこしもかたほなるは、言ひはべらじ。 このついでに、女房たちの容姿について語れば、口さがないということになりましょうか。それも現存の人では。現に顔を合わせているひとは面倒なことになるだろうし、少しでも足りないところがある人はやめましょう。
 宰相の君は、北野の三位のよ、ふくらかに、いとやうだいこまめかしう、かどかどしき容貌したる人の、うちゐたるよりも、見もてゆくにこよなくうちまさり、らうらうじくて、口つきに恥づかしげさも、匂ひやかなることも添ひたり。もてなしなどいと美々しくはなやかにぞ見えたまへる。心ざまもいとめやすく、心うつくしきものから、またいと恥づかしきところ添ひたり。 宰相の君は、あの北野の三位の女の方ですが、ふっくらして、容姿がとても整っていて才気のある顔だちをして、対座している時よりも、長く付き合えば良さが出て来る人で、洗練されていて、口もとにとても気品があり美しい色つやをしている。物腰などとても立派で、華やかだ。気だてもとてもよくて難点がなく、心も素直で美しく、気おくれするような気品があった。
 小少将の君は、そこはかとなくあてになまめかしう、二月ばかりのしだり柳のさましたり。やうだいいとうつくしげにもてなし心にくく、心ばへなどもわが心とは思ひとるかたもなきやうにものづつみをし、いと世を恥ぢらひ、あまり見苦しきまで児めいたまへり。腹ぎたなき人、悪しざまにもてなしいひつくる人あらば、やがてそれに思ひ入りて、身をも失ひつべく、あえかにわりなきところついたまへるぞ、あまり後ろめたげなる。 小宰相の君はどことなく上品で美しい。二月のしだれ柳のようだ。姿態はとても美しく物腰は奥ゆかしく、心ばえも自分では何も決められないように遠慮がちで、人目に立つのを恥ずかしがり、見るに忍びないほど純である。意地の悪い人やひどい扱いをする人がいると、すぐにそのことばかり思いつめて死んでしまいそうになり弱々しくてどうしようもないところがおありで、あまりにも気がかりな感じである。
 宮の内侍ぞ、またいときよげなる人。丈だちいとよきほどなるが、ゐたるさま、姿つき、いとものものしく、今めいたるやうだいにて、こまかにとりたててをかしげにも見えぬものから、いとものきよげにそびそびしく、なか高き顔して、色のあはひ白さなど、人にすぐれたり。頭つき、髪ざし、額つきなどぞ、あなものきよげと見えて、はなやかに愛敬づきたる。ただありにもてなして、心ざまなどもめやすく、つゆばかりいづかたざまにも後ろめたいかたなく、すべてさこそあらめと、人の例にしつべき人がらなり。艶がりよしめくかたはなし 宮の内侍は、また美しい人だ。背丈もちょうどよいくらいで、座っている様子や体つきは、実に堂々として、晴れやかな体つきで、取り立ててどこに魅力があるようには見えないが、美しくすらりとして、鼻筋が通って、 髪に映えた顔の色合いや肌の白さなど、人に優れている。頭の恰好、前髪の生え具合額の様子はまあなんときれいなと思われて、はなやかで愛らしい。気どることなく自然に振舞って、性格も非の打ちどころがなく、どの面から見ても懸念されるところはなく、すべてにおいてあのようにあるべきだと、手本にしたいような人柄です。 風流がることもしない。
 ///式部のおもとはおとうとなり。いとふくらけさ過ぎて肥えたる人の、色いと白くにほひて、顔ぞいとこまかによくはべる。髪もいみじくうるはしくて、長くはあらざるべし、つくろひたるわざして、宮には参る。ふとりたるやうだいの、いとをかしげにもはべりしかな。まみ、額つきなど、まことにきよげなる、うち笑みたる、愛敬も多かり。 式部のおもとは宮の内侍の妹だ。ふっくらという程度を越えて太っている人で、色白でつややかで、顔はととのって器量はよい。髪も非常にきちんとしているが、長くはない。かつらをつかって、宮に出仕した。その折は太った体つきがとても魅力的でした。目もと、額の様子など、まことに美しい。にっこりした時はとても愛嬌がある。
2.1.2 【二 小大輔、源式部、小兵衛、少弐、宮木の侍従、五節の弁、小馬の批評】
若人の中に容貌よしと思へるは、小大輔、源式部など。大輔はささやかなる人の、やうだいいと今めかしきさまして、髪うるはしく、もとはいとこちたくて、丈に一尺余あまりたりけるを、落ち細りてはべり。顔もかどかどしう、あなをかしの人やとぞ見えてはべる。容貌は直すべきところなし。源式部は、丈よきほどにそびやかなるほどにて、顔こまやかに、見るままにいとをかしく、らうたげなるけはひ、ものきよくかはらかに、人のむすめとおぼゆるさましたり。  小兵衛、少弐などもいときよげにはべり。それらは、殿上人の見残す、少なかなり。誰れも、とりはづしては隠れなけれど、人ぐまをも用意するに、隠れてぞはべるかし。 若い女房たちのなかで、器量がよいとみなが思うのは、小大輔、源式部などだ。小大輔は小柄な人で、体つきは今風で、髪はきちんとして、以前はたくさんあって、丈に一尺もあまっていたが、少なくなってしまった。顔も才気が感じられ、ああ素敵な人だと思える。容姿は難点のつけようがない。源式部は背丈も適当ですらりとしており、顔は細かく見るほど美しく感じられ可憐な感じで、すがすがしくさっぱりしていて、良家のお嬢さんの趣があります。小兵衛、少弐なども、とても美しい。彼女らは殿上人が見逃すことはなどない人たちです。まかり間違うと知れ渡ってしまいますので、人目に届かないところで用心しているので、知られずにすんでいます。
宮城の侍従こそ、いとこまかにをかしげなりし人。いと小さく細く、なほ童女にてあらせまほしきさまを、心と老いつき、やつしてやみはべりにし。髪の、袿にすこし余りて末をいとはなやかに削ぎてまゐりはべりしぞ、果ての度なりける。顔もいとよかりき。 宮城の侍従こそ、顔がととのって美しかった人だ。小さく細かく童女にしてもよさそうで、自分から老けて剃髪してそれっきりになってしまった。髪は袿の裾に少しあまっていたが、それをさっぱりと切りそろえて参上したのが、最後であった。その時の顔も美しかった。
 五節の弁といふ人はべり。平中納言の、むすめにしてかしづくと聞きはべりし人。絵に描いたる顔して、額いたうはれたる人の、目尻いたうひきて、顔もここはやと見ゆるところなく、色白う、手つき腕つきいとをかしげに、髪は、見はじめはべりし春は、丈に一尺ばかり余りて、こちたく多かりげなりしが、あさましう分けたるやうに落ちて、裾もさすがに細らず、長さはすこし余りてはべるめり。 五節の弁という人がいた。平中納言惟仲が養女にして世話したと聞いている。絵に描いたような顔をして額が広く、目尻が長くて、顔も、ここは難点というところもなく、色白で、手つき腕つきがとても美しく、髪は見はじめた春頃は、丈に一尺ばかりあまっていて、多すぎるほどであったが、意外にも分けとったように少なくなって、それでも裾は細くならず、長さは少し余るようであった。
 小馬といふ人、髪いと長くはべりし。むかしはよき若人、今は琴柱こととじにかわさすやうにてこそ、里居してはべるなれ。 小馬という人がいて、髪はとても長かった。むかしはよい女房であったが、琴柱を膠でくっつけたように、里居してしまった。
 かういひいひて、心ばせぞかたうはべるかし。それもとりどりに、いと悪ろきもなし。また、すぐれてをかしう、心おもく、かどゆゑも、よしも、後ろやすさも、みな具することはかたし。さまざま、いづれをかとるべきとおぼゆるぞ、多くはべる。さもけしからずもはべることどもかな このように述べてきましたが、気立てのよい人となるとなかなかいないものです。それぞれに個性もあり、悪いというのもいない。しかし、すぐれて立派な人、思慮深く、才覚もあり趣味もよくて、安心もできる、全部備えているのは難しい。各人各様で、どれをとるかということになるのです。まあ、実にけしからんことを言いましたね。
2.1.3 【三 斎院方と中宮方の気風比較】
斎院に、中将の君といふ人はべるなりと聞きはべる、たよりありて、人のもとに書き交はしたる文をみそかに人の取りて見せはべりし。いとこそ艶に、われのみ世にはもののゆゑ知り、心深きたぐひはあらじ、すべて世の人は、心も肝もなきやうに思ひてはべるべかめる、見はべりしに、すずろに心やましう、おほやけ腹とか、よからぬ人のいふやうに、にくくこそ思うたまへられしか。文書きにもあれ、  「歌などのをかしからむは、わが院よりほかに、誰れか見知りたまふ人のあらむ。世にをかしき人の生ひ出でば、わが院のみこそ御覧じ知るべけれ。」 などぞはべる。 斎院に、中将の君という人がいると聞いていましたが、あるつてがあって、その人が他人に出した文をこっそりわたしにみせてくれました。とても気どって、自分だけがこの世の情趣がわかり、その思慮の深さは例がない。自分以外のすべての世の人は感受性も分別もないと思っているような手紙を見ると、むやみに不愉快で、他人事ながら腹が立ち、身分の賤しい人のいうように憎らしく思われました。「文の書きぶりであってもまた歌などのすぐれたのがあるなら、わが院より他に誰が分るでしょう。今の世に歌のすぐれた人が出現するなら、わが院のみが鑑別できるでしょう。などと書いている。
 げにことわりなれど、わが方ざまのことをさしも言はば、斎院より出できたる歌の、すぐれてよしと見ゆるもことにはんべらず。ただいとをかしう、よしよししうはおはすべかめる所のやうなり。さぶらふ人を比べて挑まむには、この見たまふるわたりの人に、かならずしもかれはまさらじを。 なるほど、それもごもっともですが、自分の側のことをそんなにいうのなら、斎院側の歌がすぐれてよいということもないでしょう。斎院は実に趣があり、風情のある生活をなされているところのようです。しかし、仕えている女房を比較して優劣を争うなら、わたしのまわりの女房たちについては、あちらが優っていることはないでしょう。
 つねに入り立ちて見る人もなし。をかしき夕月夜、ゆゑある有明、花のたより、ほととぎすのたづね所に参りたれば、院はいと御心のゆゑおはして、所のさまはいと世はなれ神さびたり。 斎院は人の出入りも少ない。美しい夕月の夕べ、風情のある有明の頃、花のたより、時鳥の声を聞きに、参上してみると、斎院様は実にみ心が風流であられ、場所柄は俗界から離れて神々しい。
またまぎるることもなし。上に参う上らせたまふ、もしは、殿なむ参りたまふ、御宿直なるなど、ものさわがしき折もまじらず。もてつけ、おのづからしか好む所となりぬれば、艶なることどもを尽くさむ中に、何の奥なき言ひすぐしを交はしはべらむ。 また斎院は雑事に取り紛れることもない。例えば中宮が清涼殿に参上するとか、もしくは殿がお越しになる。殿が宿直でお泊りになるなど、心の落ち着かないことも起こらずに取り繕って、自ずから、風情を好むところとなれば、気のきいた歌を詠むに、言い損ないをすることもないでしょう。
  かういと埋れ木を折り入れたる心ばせにて、かの院にまじらひはべらば、そこにて知らぬ男に出であひ、もの言ふとも、人の奥なき名を言ひおぼすべきならずなど、心ゆるがしておのづからなまめきならひはべりなむをや。まして若き人の容貌につけて、年齢に、つつましきことなきが、おのおの心に入りて懸想だち、ものをも言はむと好みだちたらむは、こよなう人に劣るもはべるまじ。 わたしのような埋もれ木をさらに深く埋めたような内気な者でも、斎院にお仕えしたら、そこで知らぬ男に応接して、歌を詠み交わすとも、誰も軽薄だと噂を立てることはないだろうと元気になり、自ずから色めいた交際にも馴れるでしょう。まして、若い女房で、容貌も年齢も引けを取らない者が、それぞれ思う存分に色めかしくして歌も詠んだりして、本気になったら斎院方の女房たちに、劣るものでもないでしょう。
 されど、内裏わたりにて明け暮れ見ならし、きしろひたまふ女御、后おはせず、その御方、かの細殿といひならぶる御あたりもなく、男も女も、挑ましきこともなきにうちとけ、宮のやうとして、色めかしきをば、いとあはあはしとおぼしめいたれば、すこしよろしからむと思ふ人は、おぼろけにて出でゐはべらず。心やすく、もの恥ぢせずとあらむかからむの名をも惜しまぬ人、はたことなる心ばせのぶるもなくやは。たださやうの人のやすきままに、立ち寄りてうち語らへば、中宮の人埋もれたり、もしは用意なしなども言ひはべるなるべし。上臈中臈のほどぞ、あまりひき入り上衆めきてのみはべるめる。さのみして、宮の御ため、ものの飾りにはあらず、見苦しとも見はべり。 しかし、こちらは内裏で明け暮れ顔を見馴れていて、競うような女御・后はおらず、あの御方この御方といい並べる御方もなく、男も女も、競う必要もなくのんびりしていて、また中宮の気風として、色めかしいのは、軽薄だと思われているので、少しはましにしていようと思う女房は、並大抵のことでは、男との応接に出ません。気安くて恥ずかしがらず人の評判を気にしない女房は、中宮の気風と異なることを述べることもないわけではない。男が来ると、中宮方の女房は引っ込み思案だとかまた気づかいがないとか言われるのでしょう。上臈や中臈当たりの人は引き込んで上品ぶっているようです。そうばかりしていては、中宮のための引き立て役にもならず、かえって見苦しいのです。
 これらをかく知りてはべるやうなれど、人はみなとりどりにて、こよなう劣りまさることもはべらず。そのことよければ、かのことおくれなどぞはべるめるかし。されど、若人だに重りかならむとまめだちはべるめる世に、見苦しうざれはべらむも、いとかたはならむ。ただおほかたを、いとかく情けなからずもがなと見はべり こう言うと、上臈中臈の女房のことをよく知っているようだが、人はみな様々なので、すぐれた面があれば、劣っている面もあるものです。若い人たちが慎重に所作しようと真面目にやっている時に、上臈中臈の人々が見苦しくふざけるのも、不体裁なものです。とにかく、全体として、まったく風情がないということのないようにしたいものです。
2.1.4 【四 中宮方の気風】
さるは、宮の御心あかぬところなく、らうらうじく心にくくおはしますものを、あまりものづつみせさせたまへる御心に、何とも言ひ出でじ、言ひ出でたらむも、後ろやすく恥なき人は、世にかたいものとおぼしならひたり。げにものの折など、なかなかなることし出でたる、後れたるには劣りたるわざなりかし。ことに深き用意なき人の、所につけてわれは顔なるが、なまひがひがしきことども、ものの折に言ひ出だしたりけるを、まだいと幼きほどにおはしまして、世になうかたはなりと聞こしめし、おぼほししみにければ、ただことなる咎なくて過ぐすを、ただめやすきことにおぼしたる御けしきに、うち児めいたる人のむすめどもは、みないとようかなひきこえさせたるほどに、かくならひにけるとぞ心得てはべる。 とはいっても、中宮の御心に不足な処はなく、洗練されて奥ゆかしいく、あまりに控え目なご性分ですから、女房たちに何も言い出すまい、口に出したとしても、信頼でき、恥ずかしくない女房はなかなかいないものだと思っておられる。実際、何か行事の折、失敗をすれば、不十分な者よりよくないものだ。実際、思慮のない人で、得意顔をしている者が筋の通らないことを言い出して、中宮はまだ幼かったので、ひどく見苦しいと思ったが、ただ格別な落ち度もなくて過ごすのを、無難なこととお思いになり、それにそって中宮のお気持ちに適うべく、子供っぽい良家の子女がそのようにお仕えして、馴れてしまったのだと思われます。
 今はやうやうおとなびさせたまふままに、世のあべきさま、人の心の良きも悪しきも、過ぎたるも後れたるも、みな御覧じ知りて、この宮わたりのことを、殿上人もなにも目馴れて、ことにをかしきことなしと思ひ言ふべかめりと、みな知ろしめいたり。 今は中宮様はだんだん大人になり、世のあるべき姿も、人の心の良し悪しも、過度なのも不足なのもみなご存じで、この中宮御所のことを、殿上人も他の人も馴れて、特に興味のあることもないと思い、言ってもいるようだと、万事ご承知です。
さりとて、心にくくもありはてず、とりはづせば、いとあはつけいことも出で来るものから、情けなく引き入りたる、かうしてもあらなむとおぼしのたまはすれど、そのならひ直りがたく、また今やうの君達といふもの、たふるるかたにて、あるかぎりみなまめ人なり。  斎院などやうの所にて、月をも見、花をも愛づる、ひたぶるの艶なることは、おのづからもとめ、思ひても言ふらむ。朝夕たちまじり、ゆかしげなきわたりに、ただことをも聞き寄せ、うち言ひ、もしは、をかしきことをも言ひかけられて、いらへ恥なからずすべき人なむ、世にかたくなりにたるをぞ、人びとは言ひはべるめる。みづからえ見はべらぬことなれば、え知らずかし。 といっても、奥ゆかしさで通すわけにもゆかず、ちょっと間違うと、軽薄なことにもなりかねず、無風流の引き籠っている女房たちにこうしてほしい、と思いそう仰るけれど、今までの習慣はなおり難く、当世の貴公子たちは、気風に順応しますので、これらでは真面目に振舞います。斎院などのようなところでは、月を見て花を愛で、風流一筋の会話をして自然と風流を求め、心がけるものです。朝夕出入りして、趣の乏しい所で、普通の会話も、風流に関連づけて聞き、また言い、興あることを話しかけられて、恥ずかしくない返事ができる女房は、少なくなったと、男たちは話題にしているようです。自分は直接聞いていないので、実際のところは知らない。
かならず、人の立ち寄り、はかなきいらへをせむからに、にくいことをひき出でむぞあやしきいとようさてもありぬべきことなりこれを、人の心ありがたしとは言ふにはべるめり。などかかならずしも、面にくくひき入りたらむがかしこからむまた、などてひたたけてさまよひさし出づべきぞよきほどに、折々のありさまにしたがひて、用ゐむことのいとかたきなるべし。 殿上人が来られて、話しかけられてちょっとした返事をしようとして、相手の気分を損なってしまうのは、困ったことである。上手に対応して当然なのである。ところがこの当然のことが難しいのです。どうして、面にくいことに、引き籠ってしまうのが賢いといえましょう。また、だらしなく人前にしゃしゃり出てよいであろうか。その都度、適宜状況に応じて対応するのが難しいのであろう。
 まづは、宮の大夫参りたまひて、啓せさせたまふべきことありける折に、いとあえかに児めいたまふ上臈たちは、対面したまふことかたし。また会ひても、何ごとをかはかばかしくのたまふべくも見えず。言葉の足るまじきにもあらず、心の及ぶまじきにもはべらねど、つつまし、恥づかしと思ふに、ひがごともせらるるを、あいなし、すべて聞かれじと、ほのかなるけはひをも見えじ。  ほかの人は、さぞはべらざなる。かかるまじらひなりぬれば、こよなきあて人も、みな世にしたがふなるを、ただ姫君ながらのもてなしにぞ、みなものしたまふ。下臈の出で会ふをば、大納言心よからずと思ひたまうたなれば、さるべき人びと里にまかで、局なるも、わりなき暇にさはる折々は、対面する人なくて、まかでたまふときもはべるなり。 例えば、中宮大夫の藤原斉信様が参って、啓したいことがあり、なよなよして子供じみた上臈たちが、応接にでるのは難しい。また、会っても何かをきちんと申し上げるのはむつかしい。言葉が十分でないわけではなく、心持が行き届かないからでもなく、きまり悪い、恥ずかしいと思って、間違った言動をしてしまう。自分の言葉や姿を一切を聞かれまい見られまいとして簾越しに自分を隠してしまう、他所の女房はそうではないでしょう。こうした宮仕えがはじまると、とても高貴な生まれの人も、世の習わしに従うものですが、全く宮仕え以前の姫君の時のままの振舞で、みないらっしゃる。下臈が応接にでるのを大納言の宮の大夫が心よく思わないので、しかるべき女房が里に下がったり、休憩でで局にいたりしてどうにもならないときは、応接する人がいなくて、訪問者が帰ってしまうこともあります。
そのほかの上達部、宮の御方に参り馴れ、ものをも啓せさせたまふは、おのおの、心寄せの人、おのづからとりどりにほの知りつつ、その人ない折は、すさまじげに思ひて、たち出づる人びとの、ことにふれつつ、この宮わたりのこと、「埋もれたり」など言ふべかめるも、ことわりにはべり。 その他の公家方が、中宮の御所に参って啓したいときは、おのおの仲の良い女房がいて、その女房がいないときは、がっかりして帰っていくのは、そんな人たちが、折に触れて、中宮の御所は「消極的だ」などといわれる時もある。
 斎院わたりの人も、これをおとしめ思ふなるべし。さりとて、わが方の、見所あり、ほかの人は目も見知らじ、ものをも聞きとどめじと、思ひあなづらむぞ、またわりなき。すべて、人をもどくかたはやすく、わが心を用ゐむことはかたかべいわざを、さは思はで、まづわれさかしに、人をなきになし、世をそしるほどに、心のきはのみこそ見えあらはるめれ。 斎院の人たちも、こんなところを、軽蔑するのでしょう。だからといって、自分の方こそ、見どころがあり、他の人はものを見る目もないだろう、と軽んずるのも、道理のないことです。すべて、人を誹るのは容易で、自分の方で心配りするのは難いものですから、そう思わないで、まず自分が賢い、人を無視し、世間を非難するのは、当人の見えすいた心根が見えてくるものです。
 いと御覧ぜさせまほしうはべりし文書きかな。人の隠しおきたりけるを盗みてみそかに見せて、取り返しはべりにしかば、ねたうこそ。 まったくお見せしたいような手紙の書きぶりでした。ある人が隠したものをこっそり見せてくれて、持ちかえったのが、残念です。
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2.1.5 【五 和泉式部、赤染衛門、清少納言の批評】
和泉式部といふ人こそ、おもしろう書き交はしける。されど和泉はけしからぬかたこそあれ、うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見えはべるめり。歌はいとをかしきこと。ものおぼえ、歌のことわりまことの歌詠みざまにこそはべらざめれ、口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまる詠み添へはべり。それだに、人の詠みたらむ歌、難じことわりゐたらむは、いでやさまで心は得じ、口にいと歌の詠まるるなめりとぞ、見えたるすぢにはべるかし。恥づかしげの歌詠みやとはおぼえはべらず。 和泉式部という人とは、興ある文を交わしました。けれど和泉はけしからん面があるが、気楽に文を走り書きした時、文章の才がある人で、ちょっとした言葉の美しさも感じられます。歌はうまく趣向をこらし、古歌の知識、歌の良し悪しの判断、これらについて本当の歌人ではないようだが、口から出るにまかせたあれこれの歌に、かならず魅力のある点があり、目にとまります。そうであっても、人の歌を、非難し批評するときは、さあ十分歌を分かっていないであろうと思われる歌こちらが恥ずかしくなるほどの歌詠みではありません。
 丹波守の北の方をば、宮、殿などのわたりには、匡衡衛門とぞ言ひはべる。ことにやむごとなきほどならねど、まことにゆゑゆゑしく、歌詠みとてよろづのことにつけて詠み散らさねど、聞こえたるかぎりは、はかなき折節のことも、それこそ恥づかしき口つきにはべれ。 丹波の守の北の方を、内裏や土御門あたりでは、匡衡まさひら衛門/と呼んでいる。格別優れた歌人ではないが、歌は風格があり、歌人だからといってよろずのことについて詠んでいるわけではなく、世に知られている歌はみなちょっとしたその折々の歌も立派な詠いぶりです。
ややもせば、腰はなれぬばかり折れかかりたる歌を詠み出で、えも言はぬよしばみごとしても、われかしこに思ひたる人、憎くもいとほしくもおぼえはべるわざなり。 どうかすると、腰折れ歌になりそうな歌を詠み出して、あやしげな由緒ありげなことをしてまでも、自分こそすぐれていると思っている人は、憎らしくも気の毒にも思われる。
 清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。かく、人に異ならむと思ひ好める人は、かならず見劣りし、行末うたてのみはべれば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよくはべらむ。 清少納言こそたいそうな得意顔していた人です。あれほど賢こぶって、漢字を書き散らすのだが、よく見れば、まだ足らぬ処が多い。あれほど、人とは違うことを好み思う人は、必ず見劣りがして、行末は悪くなってゆくばかりですし、風流を気どる人は、ひどく殺風景で漫然としているときにも、もののあわれがあるかのように振舞い、自ずから見当はずれの実意のない振舞ともなるでしょう。そのように実意のない振舞をする人の果てがどうしてよいことがありましょう。
第二章 わが身と心を自省
2.2.1 【一 わが心の内の披瀝】
かく、かたがたにつけて、一ふしの思ひ出でらるべきことなくて過ぐしはべりぬる人の、ことに行末の頼みもなきこそ、なぐさめ思ふかただにはべらねど、心すごうもてなす身ぞとだに思ひはべらじ。その心なほ失せぬにや、もの思ひまさる秋の夜も、端に出でゐて眺めば、いとど、月やいにしへほめてけむと、見えたるありさまを、もよほすやうにはべるべし、世の人の忌むといひはべる咎をも、かならずわたりはべりなむと憚られて、すこし奥にひき入りてぞ、さすがに心のうちには尽きせず思ひ続けられはべる。 このように色々な方々について語ってきたが、わたしとしては一つとして思い出に残る事柄もなく過ごしてきて、これという将来の頼みもなく、慰めにするものもありませんが、せめて荒んだ身で振舞うようなことだけはするまいと思う。その思いが消えないのか、物思いにふける秋の世も、簀子にでて外を眺めて物思いにふけっていたら、昔の人は月を愛でたろうか、いやそうではない老いを怖れて賞美しなかったろう、月はわが身の老いを照らすばかりだ、世間の人が月を見る咎を避けても、わが身にはやってくると、憚られて、少し奥へ引っ込みはしたが、さすがに心の内はもの思いは尽きない。
2.2.1 ある解釈
風の涼しき夕暮れ、聞きよからぬ独り琴をかき鳴らしては、「嘆き加はる」と聞き知る人やあらむと、ゆゆしくなどおぼえはべるこそ、をこにもあはれにもはべりけれ。 風の涼しい夕方、聞きよくもない琴をひとり奏でては、「嘆きが増えた」と、聞く人がいるのか、忌まわしくおもうのは、おろかしくもあり悲しくもあります。
さるは、あやしう黒みすすけたる曹司に筝の琴、和琴、調べながら心に入れて、「雨降る日、琴柱倒せ」なども言ひはべらぬままに塵積もりて、寄せ立てたりし厨子と柱とのはざまに首さし入れつつ、琵琶も左右に立ててはべり。 とはいっても、見苦しくすすけた曹司に、箏の琴・和琴を調べながら、気をつけて「雨降る日、琴柱倒せ」などとなどともいわないのに、そのままにして、塵が積り、箏や和琴をそのまま厨子と柱の間に立てかけ、琵琶もその左右に立ててある。
大きなる厨子一よろひに、ひまもなく積みてはべるもの、一つには古歌、物語のえもいはず虫の巣になりにたる、むつかしく這ひ散れば、開けて見る人もはべらず。片つ方に書どもわざと置き重ねし人もはべらずなりにし後、手触るる人もことになし。それらをつれづれせめて余りぬるとき、一つ二つ引き出でて見はべるを、女房集まりて、  「御前はかくおはすれば、御幸ひは少なきなり。なでふ女か真名書は読む。昔は経読むをだに人は制しき。」 としりうごち言ふを聞きはべるにも、物忌みける人の、行末いのち長かめるよしども、見えぬ例なりと、言はまほしくはべれど、思ひくまなきやうなり、ことはたさもあり。 大きな厨子一つに、隙もなく積んであるのは、ひとつには古歌、物語の類で、すっかり虫食いになって、気味悪く動くので、開けて見る人もいない。漢籍があり、大切にしていた夫も亡くなったあとは、手を触れる人もいない。それらを所在なさがひどい時に、一つ二つ引き出して見ていると、女房が来て、「奥様はこのようだから幸い少ないのです。なぜ女が漢字を読みますか。昔はお経でも読むのを禁じられたのに」と蔭口をきくので、縁起をかついだ人が行く末寿命が長いという例は見当たらないと言い返したかったが、それでは思いやりがないようである。実際は女房の言うことにも一理ある。
2.2.2 【二 わが心のありよう】
よろづのこと、人によりてことごとなり。誇りかにきらきらしく心地よげに見ゆる人あり。よろづつれづれなる人のまぎるることなきままに、古き反古ひきさがし、行なひがちに口ひひらかし、数珠の音高きなど、いと心づきなく見ゆるわざなりと思ひたまへて、心にまかせつべきことをさへ、ただわが使ふ人の目に憚り、心につつむ。まして人の中にまじりては、言はまほしきこともはべれど、いでやと思ほえ、心得まじき人には、言ひて益なかるべし。ものもどきうちし、われはと思へる人の前にては、うるさければもの言ふことももの憂くはべり。ことにいとしも、もののかたがた得たる人はかたし。ただ、わが心の立てつるすぢをとらへて、人をばなきになすなめり。 何ごとも、人それぞれです。いかにも得意そうで目立って、心地よさそうにしている人もいる。何につけ、所在なくさびしそうな人が、気が紛れることのないまま、古い反故を探しだして、お勤めに熱心になり、読経で口をもぐもぐさせたり、数珠の音高くならすのは、人には好感がもたれないし、自分の思いのままにしてよいことでも、使用人の眼を憚って、胸に納めておく。まして宮仕えで人に交わり、言いたいことも、どうかと思って、分かってくれそうにない人には、言っても無駄だし、何かと文句をつけて得意になっている人には、面倒でものを言う気もしない。とりわけ、何事にもすぐれている人はめったにいるものではない。ただ、自分の思惑を盾に、他人を無視しているのだ。  
 それ、心よりほかのわが面影を恥づと見れどえさらずさし向かひまじりゐたることだにありしかじかさへもどかれじと、恥づかしきにはあらねど、むつかしと思ひてほけ痴れたる人にいとどなり果ててはべれば、  「かうは推しはからざりき。いと艶に恥づかしく、人見えにくげに、そばそばしきさまして、物語このみ、よしめき、歌がちに、人を人とも思はず、ねたげに見落とさむものとなむ、みな人びと言ひ思ひつつ憎みしを、見るには、あやしきまでおいらかに、こと人かとなむおぼゆる。」 とぞ、みな言ひはべるに、恥づかしく、人にかうおいらけものと見落とされにけるとは思ひはべれど、ただこれぞわが心と、ならひもてなしはべるありさま、宮の御前も、  「いとうちとけては見えじとなむ思ひしかど、人よりけにむつましうなりにたるこそ。」 と、のたまはする折々はべり。くせぐせしくやさしだち、恥ぢられたてまつる人にも、そばめたてられではべらまし そもそも、本心とは違うわが姿を恥ずかしいとは思うが、避けられずに一緒に座っていた時もあり、あれこれと批難されるおそれがあり、気おくれするわけではないが、弁解するのも面倒なので、痴れたぼけ役に徹していたら、「あなたがこんな人だとは思わなかった。とても気どって、気がおけて、近づきにくく、よそよそしくて、物語好きで、風流ぶって、何かというと歌を詠み、人を人とも思わず、憎らしいほど人を軽蔑するような人だと、みな思っていたし、言ってもいましたので、会ってみると不思議なくらいおっとりして、別人かと思われました」とみな言っていたので、きまりが悪く、痴れ者と蔑まれるとは思っていたが、これがわたしが望んだ姿ですから、中宮も「本当には打ち解けたお付き合いはできないだろうと思っていましたが、他の人よりずっと親しくなりましたね」と言っていただけるようになりました。個性が強く上品な人々、そのため中宮には一目置かれている上臈の女房たちにも疎まれずにいたいものです。
2.2.3 人の心のありよう 結論
さまよう、すべて人はおいらかに、すこし心おきてのどかに、おちゐぬるをもととしてこそ、ゆゑもよしも、をかしく心やすけれ。もしは、色めかしくあだあだしけれど、本性の人がら癖なく、かたはらのため見えにくきさませずだになりぬれば、憎うははべるまじ。 総じて、女は、見苦しくなく、穏やかで、少しゆったりして落ち着いているのを基本としてこそ、たしなみも風流も魅力があり親しみがもてる。色っぽく浮気であっても本来の人柄に癖がなく、傍で見る者に見っともない振舞いをしなければ、嫌な感じはしないであろう。
 われはと、くすしくならひもち、けしきことごとしくなりぬる人は、立ち居につけて、われ用意せらるるほども、その人には目とどまる。目をしとどめつれば、かならずものを言ふ言葉の中にも、来てゐる振る舞ひ、立ちて行く後ろでにも、かならず癖は見つけらるるわざにはべり。もの言ひすこしうち合はずなりぬる人と、人の上うち落としめつる人とは、まして耳も目も立てらるるわざにこそはべるべけれ。人の癖なきかぎりは、いかではかなき言の葉をも聞こえじとつつみ、なげの情けつくらまほしうはべり 自分は違うと仰々しい態度に馴れた人は、立居振舞につけてこちらで自然に注意するようになるから、人の目が集まります。注意して見れば必ず、もの言う言葉の中にも、来て座る所作にも、立ってゆく後ろ姿にも、必ず癖を見つけられます。言うことが少し食い違うようになった人と、人をけなした人には、いっそう耳をそばだて目を見開くようになりましょう。癖のない人には、すべて、とりとめのない噂など、聞こえないようにして、仮にも好意も見せたい気になります。
 人すすみて、憎いことし出でつるは、悪ろきことを過ちたらむも、言ひ笑はむに、憚りなうおぼえはべり。いと心よからむ人は、われを憎むとも、われはなほ人を思ひ後ろむべけれど、いとさしもえあらず。  慈悲深うおはする仏だに、三宝そしる罪は浅しとやは説いたまふなる。まいて、かばかりに濁り深き世の人は、なほつらき人はつらかりぬべし。それを、われまさりて言はむといみじき言の葉を言ひつけ、向かひゐてけしき悪しうまもり交はすと、さはあらずもて隠し、うはべはなだらかなるとのけぢめぞ、心のほどは見えはべるかし。 人が故意にいやなことをしたときは、自分が誤ってへまをしたとしても、そう言って笑っても、いいのだと思います。至極心の美しい人は、憎まれても、その人に好意を持って世話をするべきかも知れないが、とてもそんなことはできないでしょう。慈悲深い仏でさえ、三宝そしる罪は軽いなんて説いているだろうか。まして、これほど濁りきった世の人としては、自分に薄情な人には、薄情になるであろう。それなのに、自分が勝れていると言おうとして、ひどい言葉を言いふらし対座して険悪な気色でにらみあっているのと、そうではなく心の中をもて隠し、うわべはなだらかににしているのと、その違いに、心根の程度は現れるものです。
2.2.4 【四 日本紀の御局と少女時代回想】
左衛門の内侍といふ人はべり。あやしうすずろによからず思ひけるも、え知りはべらぬ心憂きしりうごとの多う聞こえはべりし。  内裏の上の『源氏の物語』、人に読ませたまひつつ聞こしめしけるに、  「この人は、日本紀をこそ読みたるべけれ。まことに才あるべし。」 と、のたまはせけるを、ふと推しはかりに、  「いみじうなむ才がる。」 と殿上人などに言ひ散らして、「日本紀の御局」とぞつけたりける、いとをかしくぞはべる。この古里の女の前にてだにつつみはべるものを、さる所にて才さかし出ではべらむよ。 左衛門の内侍という人がいた。変にわけもなくわたしを快からず思って、わたしには心当たりのないいやな陰口があれこれと聞こえた。帝が、源氏の物語を人に読ませてお聞きになっていた時に、「この人は日本記を読んでいるに違いない。ずい分と学識がある人だ」と仰せになったのを聞いた内侍はあて推量に「学問を鼻にかけている」と殿上人に言いふらして、日本記の御局とあだ名をつけた。実におかしなことです。実家の侍女の前でさえおし隠しているのに、あんな所で学識をひけらかすなんて。
  この式部の丞といふ人の、童にて書読みはべりし時、聞き習ひつつ、かの人は遅う読みとり、忘るるところをも、あやしきまでぞ聡くはべりしかば、書に心入れたる親は、「口惜しう。男子にて持たらぬこそ幸ひなかりけれ」とぞつねに嘆かれはべりし。  それを、「男だに才がりぬる人は、いかにぞや。はなやかならずのみはべるめるよ」と、やうやう人の言ふも聞きとめて後、一といふ文字をだに書きわたしはべらず、いとてづつに、あさましくはべり。  読みし書などいひけむもの、目にもとどめずなりてはべりしに、いよいよかかること聞きはべりしかば、いかに人も伝へ聞きて憎むらむと、恥づかしさに、御屏風の上に書きたることをだに読まぬ顔をしはべりしを、宮の御前にて『文集』の所々読ませたまひなどして、さるさまのこと知ろしめさまほしげにおぼいたりしかば、いとしのびて人のさぶらはぬもののひまひまに、をととしの夏ごろより、「楽府」といふ書二巻をぞしどけなながら教へたてきこえさせてはべる、隠しはべり。  宮もしのびさせたまひしかど、殿も内裏もけしきを知らせたまひて、御書どもをめでたう書かせたまひてぞ、殿はたてまつらせたまふ。まことにかう読ませたまひなどすること、はた、かのもの言ひの内侍は、え聞かざるべし。知りたらば、いかに誹りはべらむものと、すべて世の中ことわざしげく憂きものにはべりけり。 式部丞が、童で読み書きを学んでいた時、式部丞は暗誦するのに遅く、忘れるのに、わたしは不思議と聰く覚えているので、学問に熱心だった父は、「残念だ。この子を男の子として持たなかったのが不運だった」といっていつも嘆いていた。それを、「男でも学問を鼻にかける人はどんなもんでしょうか。栄達しないようです」と、次第に人のいうのを聞いてからは、一という文字さえ書きませんし、実に無学で無様なありさまを装ってきました。かって読んだ書も目にしないようにしているのに、、こんな話を聞いたので、どんなに人に伝わっているだろうと恥ずかしく、屏風の上に書かれた文字も読めない顔をしていたのだが、中宮様の御前で『白氏文集』のところどころをわたくしにお読ませになりなどして、漢籍の世界をお知りになりたそうにしていましたので、隠れて、女房がお傍に控えていない合間に、一昨年の夏ごろから、楽府という書二巻を、正式にではないが、教えてきましたことは、隠していました。中宮も隠していましたが、殿も帝もそれを知って、殿は書を名筆家に書かせて、賜わるのだった。まことに、わたくしに中宮様が漢籍を読ませることを、ひょっとするとあの口うるさい左衛門の内侍は聞いていないだろう。知ったら、どんな悪口を言うだろうと思われ、すべて世の中、何かとことが多く、憂きものであろう。
2.2.5 【五 求道への思いと逡巡】
いかに、今は言忌みしはべらじ人、と言ふとも、かく言ふとも、ただ阿弥陀仏にたゆみなく、経をならひはべらむ。世の厭はしきことは、すべてつゆばかり心もとまらずなりにてはべれば、聖にならむに、懈怠すべうもはべらず。ただひたみちに背きても、雲に乗らぬほどのたゆたふべきやうなむはべるべかなる。それに、やすらひはべるなり。 さあ、今は、物言いに遠慮しますまい。人が何といおうと、ただ阿弥陀仏に向かってたゆみなく経を唱えましょう。世の厭わしいことは、まったく未練がなくなりましたので、出家しても怠けることはないでしょう。一途に出家しても、来迎の雲に乗るまでは気持ちがぐらつくときがあるかもしれません。そのためためらっているのです。
年もはた、よきほどになりもてまかる。いたうこれより老いほれて、はた目暗うて経読まず、心もいとどたゆさまさりはべらむものを、心深き人まねのやうにはべれど、今はただ、かかるかたのことをぞ思ひたまふる。それ、罪深き人は、またかならずしもかなひはべらじ。前の世知らるることのみ多うはべれば、よろづにつけてぞ悲しくはべる。 年齢もよい頃になり、これ以上老けて目が悪くなって経も読めず、怠け心がまさって、信心深い人のまねをしているようだが、今はただそんな生活のことを思っています。その願いも、罪深いわたしなどは、叶わないかもしれない。前世の因縁を知られることが多く、何につけても悲しく思います。
2.2.6 【六 宮仕女房批評記の結び】
御文にえ書き続けはべらぬことを、良きも悪しきも、世にあること、身の上の憂へにても、残らず聞こえさせおかまほしうはべるぞかし。 文に書けなかったこと、良いのも悪いのも、世にあること、この身の憂いも、残らず申し上げておきたいと思っています。
けしからぬ人を思ひ、聞こえさすとても、かかるべいことやははべる。されど、つれづれにおはしますらむ、またつれづれの心を御覧ぜよ。また、おぼさむことの、いとかうやくなしごと多からずとも、書かせたまへ。見たまへむ。夢にても散りはべらばいといみじからむ。耳も多くぞはべる。 好まぬ人のことを申し上げるとしても、こんなことをしてよいものでしょうか。あなたが所在なくされておられるなら、わたしの所在なさを御覧ください。またあなたがお考えのことで、無益なことはたくさんおありでなくとも書いてください。拝見したいです。万一これが人目に触れたら、ほんとうに大変です。世間の耳も気をつけましょう。
このころ反古もみな破り焼き失ひ、雛などの屋づくりに、この春しはべりにし後、人の文もはべらず、紙にはわざと書かじと思ひはべるぞ、いとやつれたる。こと悪ろきかたにははべらずとさらによ。 最近、古い文の類もみな破り捨て、この春、人形の家作りに使ってしまいましたので、人の文はなくなり、まともな紙にはもう書くことはないと思っております。誠に貧相です。でも不如意のためではありません。
御覧じては疾うたまはらむ。え読みはべらぬ所々、文字落としぞはべらむ。それはなにかは、御覧じも漏らさせたまへかし。 ご覧になったら、これは早く返してください。あちこち読めない処や、文字の脱けたところもありましょう。そこは飛ばしてください。
かく世の人ごとの上を思ひ思ひ、果てにとぢめはべれば身を思ひ捨てぬ心の、さも深うはべるべきかな。何せむとにかはべらむ。このように、世間の評判を気にしながら、この文を閉じます、この身を捨てられず、俗世への執着がとても深いのです。いったいどうしようというのでしょう。
2.2.6 消息文解説

第三部 宮仕生活備忘記

 3.1.1《第一章 寛弘五年五月二十二日、土御門殿邸の法華三十講》
 二十二日の暁、御堂へ渡らせたまふ。御車には殿の上、人びとは舟に乗りてさし渡りけり。それには遅れて夜さり参る。教化行ふところ、山、寺の作法うつして大懺悔す。 二十二日の暁、御堂へ移った。御車には殿の北の方、女房たちは舟で渡った。わたしは遅れて、夜になるころ、参上する。教化を行う所であり、叡山や三井寺の作法そのままに大懺悔を行う。
白印塔など多う絵に描いて、興じあそびたまふ。上達部多くはまかでたまひて、すこしぞとまりたまへる。 白印塔などたくさん絵に描いて、遊び卿じる。上達部の多くは退席して、少しは残っていた。
後夜の御導師、教化ども、説相みな心々、二十人ながら宮のかくておはしますよしを、こちかひきしな、言葉絶えて、笑はるることもあまたあり。 後夜の導師、教化のやり方はみなそれぞれで、二十人の僧が、中宮がこうして臨席しているのを、慶び、常葉が途切れて笑われることも多々あった。
 事果てて、殿上人舟に乗りて、みな漕ぎ続きてあそぶ。御堂の東のつま、北向きに押し開けたる戸の前、池につくり下ろしたる階の高欄を押さへて、宮の大夫はゐたまへり。殿あからさまに参らせたまへるほど、宰相の君など物語して、御前なれば、うちとけぬ用意、内も外もをかしきほどなり。 法会が終わって、殿上人は舟に乗り、こぎ出して遊ぶ。御堂の東の端、北向きに開けた妻戸の前に、池に降りられる階の高欄に手をかけて、宮の大夫の斉信様が座っておられた。殿がちょっと中宮の御前に参上なさっている間、宰相の君などと話をされて、御前なので気を許さぬ心遣いは御簾の内も外も趣のある雰囲気であった。
月おぼろにさし出でて、若やかなる君達、今様歌うたふも、舟に乗りおほせたるを、若うをかしく聞こゆるに、大蔵卿の、おほなおほなまじりて、さすがに声うち添へむもつつましきにや、しのびやかにてゐたる後ろでの、をかしう見ゆれば、御簾のうちの人もみそかに笑ふ。  「舟のうちにや老いをばかこつらむ。」 と、言ひたるを聞きつけたまへるにや、大夫、  「徐福文成誑誕じょふくぶんせいきょうたん多し」 と、うち誦じたまふ声もさまもこよなう今めかしく見ゆ。  「池の浮き草」 とうたひて、笛など吹き合せたる暁方の風のけはひさへぞ心ことなる。はかないことも所から折からなりけり。 月が朧にでていて、若い君達は、今風の歌を詠って舟に乗っていたが、若い人々の中に、大蔵卿が交っていて、さすがに一緒に詠うわけにもいかず、ひっそり座っている後姿が、おかしかったので、御簾のうちの人もこっそり笑った。「舟の中で老いました」とわたしが言ったのを、聞きつけて、大夫が「徐福文成誑誕多し」と、誦じる声もその調子も、とても新鮮に感じられた。「池の浮草」と詠って、笛など合わせる様子は暁方の風の気配さへ格別の風情があった。ちょっとしたことも、場所柄やその時の様子で感動するものである。
 《第二章 寛弘五年土御門邸にて 道長と和歌贈答》
3.2.1【一 源氏物語について】
『源氏の物語』、御前にあるを、殿の御覧じて、例のすずろ言ども出で来たるついでに梅の下に敷いた紙にかかせたまへる、
  すきものと名にしたてれば見る人の
  折らで過ぐるはあらじとぞ思ふ」(一五)
 たまはせたれば、
 「人にまだ折られぬものをたれかこの
  すきものぞとは口ならしけむ (一六)
めざましう。」 と聞こゆ。
『源氏の物語』が中宮の御前にあるのを、殿が御覧になり、いつものたわいない冗談を言って、梅の実の下にの紙にお書きになり。
     「好きものの名が立っているので、会う人は
     折らずに過ぎる人はいないでしょう (一五)
  という歌をくださったので、
     「人にまだ口説かれてもいませんのに
      誰が好きものなどと広めたのでしょう (一六)
  心外ですわ」と御返事しました。
3.2.2【二 渡殿に寝た夜の事】
渡殿に寝たる夜、戸をたたく人ありと聞けど、恐ろしさに、音もせで明かしたるつとめて、
   よもすがら水鶏よりけになくなくぞ
   槙の戸口にたたき侘びつる(一七)
  返し、
   ただならじとばかりたたく水鶏ゆゑ
   あけてはいかに悔しからまし(一八)
渡殿に寝た夜、戸をたたく人がいてその音を聞いたけれど、恐ろしさに、音をたてず明かした、翌朝、殿から、
  昨夜は水鶏のように夜通し 
  真木の戸口をたたきました     (一七)
 返し 
  ただごとではないとばかりに水鶏がたたきますので
 開けたらどんなに悔しかったろうか (一八)
3.2.2解説 渡殿に寝た夜のこと
 《第三章 寛弘七年正月 若宮たちの御戴餅》
3.3.1【一 正月元日 敦成・敦良親王たちの御戴餅】
今年正月三日まで、宮たちの御戴餅おんいただきもちに日々に参う上らせたまふ、御供に、みな上臈も参る。左衛門の督抱いたてまつりたまうて、殿、餅は取り次ぎて、主上にたてまつらせたまふ。二間の東の戸に向かひて、主上の戴かせたてまつらせたまふなり。下り上らせたまふ儀式、見物なり。大宮は上らせたまはず。 寛弘七年の正月三日まで、敦成あつひら敦良あつなが親王の御戴餅の儀に毎日清涼殿に参る御供に、上臈もみな参上する。左衛門の督の頼通様がお抱きになって、殿は餅をとって帝にさし上げなさる。二間の東の戸に向かって、帝が若宮たちの頭上にお載せ申し上げるのである。清涼殿に参上・退下する儀式は見ものであった。母宮は参上しなかった。
 今年の朔日、御まかなひ宰相の君。例のものの色合などことに、いとをかし。蔵人は、内匠、兵庫仕うまつる。髪上げたる容貌などこそ、御まかなひはいとことに見えたまへ、わりなしや。薬の女官にて、文室ふやの博士さかしだちさひらきゐたり。膏薬とうやく配れる例のことどもなり。 今年の朔日、御給仕役は宰相の君。例によって衣裳の色合いは格別で尋常ではない。女蔵人は、内匠・兵庫が仕った。髪を上げた形など御給仕役は格段に素晴らしく見えるが、やむをえないことだ。薬の女官で文室の博士、利口ぶって進んでくる。膏薬が例によって配られる。
3.3.2【二 正月二日初子の日 臨時客】
二日、宮の大饗はとまりて、臨時客東面とり払ひて、例のごとしたり。 正月の二日、中宮の大饗は中止になり、臨時客のため、東面をとりはらって、例年通り行われた。
上達部は、傅大納言、右大将、中宮大夫、四条大納言、権中納言、侍従の中納言、左衛門督、有国の宰相、大蔵卿、左兵衛督、源宰相、向かひつつゐたまへり。源中納言、右衛門督、左右の宰相の中将は長押の下に、殿上人の座の上に着きたまへり。 上達部は、傅大納言、右大将、中宮大夫、四条大納言、権中納言、侍従の中納言、左衛門督、有国の宰相、大蔵卿、左兵衛督、源宰相たちが向かい合って座っている。源中納言、右衛門督、左右の宰相の中将は廂の間の長押の下に、殿上人の座の上に着いた。
 若宮抱き出でたてまつりたまひて、例のことども言はせたてまつり、うつくしみきこえたまひて、上に、  「いと宮抱きたてまつらむ。」 と、殿ののたまふを、いとねたきことにしたまひて、  「ああ。」 とさいなむを、うつくしがりきこえたまひて、申したまへば、右大将など興じきこえたまふ。 殿は若宮をお抱きになって、例の幼時語で挨拶させた、かわいがって、北の方に「弟宮を抱きましょう」と道長様が申し上げると、若宮はいやがって、「ああ」とむずがるのを、かわいがって、道長様があれこれなだめるのを、右大臣などが興じた。
上に参りたまひて、主上、殿上に出でさせたまひて、御遊びありけり。殿、例の酔はせたまへり。わづらはしと思ひて、かくろへゐたるに、  「なぞ、御父の御前の御遊びに召しつるに、さぶらはで急ぎまかでにける。ひがみたり。」 など、むつからせたまふ。  「許さるばかり歌一つつかうまつれ。親の代はりに。初子の日なり。詠め詠め。」 とせめさせたまふ。うち出でむに、いとかたはならむ。こよなからぬ御酔ひなめれば、いとど御色合ひきよげに、火影はなやかにあらまほしくて、  「年ごろ、宮のすさまじげにて、一所おはしますを、さうざうしく見たてまつりしに、かくむつかしきまで、左右に見たてまつるこそうれしけれ。」 と、大殿籠もりたる宮たちを、ひき開けつつ見たてまつりたまふ。  「野辺に小松のなかりせば」 とうち誦じたまふ。新しからむことよりも折節の人の御ありさま、めでたくおぼえさせたまふ。 その後、清涼殿に参上して、帝が殿上の間にお越しになって、管弦の遊びがあった。道長様もいつものように酔っておられた。わたしは面倒なこととおもって、隠れていたが、「なぜ、おまえの父親は、御前の遊びに召したのに、最後までお仕えしないで、退出したのかなどとご機嫌がわるい。「父の罪が勘弁されるほどの歌を詠め。親の代わりに初子の日だから読め詠め」と責められる。言われるままに歌を詠んだら、見っともないだろうと格別酔ってもいないので、いつもより顔色が美しく、火影に映えて、申し分なく、「年来中宮も寂しそうで、おひとりでいらっしゃったのが、物足りなく拝していましたが、右も左も子がいてうれしい」とお休みになっている宮たちを帷子をあげて見ている。「 野べに小松のなかりせば」とうち誦じる。新しく詠まれた歌であるよりも、折にあった歌を引かれる殿のようすがめでたく思われる。
またの日、夕つ方、いつしかと霞みたる空を、造り続けたる軒のひまなさにて、ただ渡殿の上のほどをほのかに見て、中務の乳母と昨夜の御口ずさびをめできこゆ。この命婦こそものの心得て、かとかどしくははべる人なれ。 翌日、夕方、早くも霞んでいる空を、建てまし続けた軒の隙間が、ただ渡殿の上の空をわずかに見て、中務の乳母と、昨夜道長が口ずさんだ古歌の話をする。この命婦はものの道理をわきまえて、才気のある人だ。
3.3.3【三 正月十五日 敦良親王御五十日の祝い】
あからさまにまかでて、二の宮の御五十日は正月十五日、その暁に参るに、 小少将の君、明け果ててはしたなくなりにたるに参りたまへり。例の同じ所にゐたり。二人の局を一つに合はせて、かたみに里なるほども住む。ひとたびに参りては、几帳ばかりを隔てにてあり。殿ぞ笑はせたまふ。  「かたみに知らぬ人も語らはば。」 など聞きにくく、されど誰れもさるうとうとしきことなければ、心やすくてなむ。 わたしはちょっと里に下がっていて、二の宮の御五十日は、正月十五日なので、暁に参内した。小少将の君、すっかり明けて間が悪くなってから参内した。ふたりの局をひとつに合わせて、一方が里にいるときも、そこに住んでいる。同時にいるときは、几帳で隔てている。殿は笑っている。「互いに知らぬ男がいて、そんな男が忍んできたら」などと聞きにくい冗談を言う。二人ともそんな内緒の男はいないので、安心である。
 日たけて参う上る。かの君は、桜の織物の袿、赤色の唐衣、例の摺裳着たまへり。紅梅に萌黄柳の唐衣、裳の摺目など今めかしければ、とりもかへつべくぞ、若やかなる。上人ども十七人ぞ、宮の御方に参りたる。 日が高くなってから参内した。小少将の君は、桜の織物の袿、赤色の唐衣、例の摺裳を着ている。わたしは、紅梅の萌黄、柳の唐衣、喪の摺目など派手だったので、君のと取り換えたほうがよいくらいだ。内裏の女房は十七人が中宮の御座の方に来る。
いと宮の御まかなひは橘三位。取り次ぐ人、端には小大輔、源式部、内には小少将。 弟宮の給仕は橘三位。取り次ぎ役は、端の方に小大輔、源式部、母屋に小少将。
 帝、后、御帳の中には二所ながらおはします。朝日の光りあひて、まばゆきまで恥づかしげなる御前なり。主上は御直衣、小口たてまつりて、宮は例の紅の御衣、紅梅、萌黄、柳、山吹の御衣、上には葡萄染めの織物の御衣、柳の上白の御小袿、紋も色もめづらしく今めかしき、たてまつれり。あなたはいと顕証なれば、この奥にやをらすべりとどまりてゐたり。 帝と后は、御帳の中に二人でおります。朝日の光が入り、まばゆいほどの美しい御前であった。帝は御直衣に小口の袴を着け、中宮は紅の御衣、紅梅の萌黄、柳・山吹の御衣、上には葡萄の織物の御衣、柳の小袿、紋も色も珍しく華やかなものをお召しになっている。東廂の方はよく見えて、女房たちは奥のほうにひっそりしていた。
 中務の乳母、宮抱きたてまつりて、御帳のはざまより南ざまに率てたてまつる。こまかにそびそびしくなどもあらぬかたちの、ただゆるるかに、ものものしきさまうちして、さるかたに人教へつべく、かどかどしきけはひぞしたる。葡萄染めの織物の袿、無紋の青色に、桜の唐衣着たり。 中務の乳母は、弟宮をを」抱いて、御帳のはざまから南面の方にお連れ申し上げる。乳母は、ととのって、背丈は高くはないが、ただゆったりと、重々しい気配で、人を教育するにふさわしく、才気の感じられ様子だ。葡萄染の織物の袿、無紋の青色に、桜の唐衣を着ていた。
 その日の人の装束、いづれとなく尽くしたるを、袖口のあはひ悪ろう重ねたる人しも、御前の物とり入るとて、そこらの上達部、殿上人に、さしい出でてまぼられつることとぞ、のちに宰相の君など、口惜しがりたまふめりし。さるは悪しくもはべらざりき。ただあはひの褪めたるなり。小大輔は紅一襲、上に紅梅の濃き薄き五つを重ねたり。唐衣、桜。源式部は濃きに、また紅梅の綾ぞ着てはべるめりし。織物ならぬを悪ろしとにや。それあながちのこと。顕証なるにしもこそ、とり過ちのほの見えたらむ側目をも選らせたまふべけれ、衣の劣りまさりは言ふべきことならず。 その日の女房たちの衣裳は、みな優劣はつけがたく、袖口の色合いが悪い人の、御前に供するものを取り次ぐ時に、大勢の上達部や殿上人に袖口を出すのでじろじろ見られるのを、のちに、宰相の君などが残念がっていらっしゃった。とはいっても、それほど悪い配色でもなかったのであるが。小大輔は、紅ひとかさね、上に紅梅の濃い薄いを五つ重ねていた。唐衣は桜襲である。源式部は、濃い紅梅襲に、また紅梅襲の綾入りを着ている。唐衣が織物でないのがよくないのか。それは禁色なので無理でしょう。もっと公式の場であったら、過ちがちらりと見えたなら、批判もよろしいが、このような場では衣裳の優劣はとやかく言うべきではないでしょう。
 餅まゐらせたまふことども果てて、御台などまかでて、廂の御簾上ぐるきはに、上の女房は御帳の西面の昼の御座に、おし重ねたるやうにて並みゐたり。三位をはじめて典侍たちもあまた参れり。 餅をさし上げる儀式も終わって、食膳を下げて廂の御簾を上げると、帝の女房たちは、御帳の西側の昼の御座所のあたりに、重なるように座っている。橘の三位をはじめ内侍のすけたちもたくさん参列していた。
 宮の人びとは、若人は長押の下、東の廂の南の障子放ちて、御簾かけたるに、上臈はゐたり。御帳の東のはざま、ただすこしあるに、大納言の君、小少将の君ゐたまへる所に、たづねゆきて見る。 中宮の女房たちは、若い人は長押の下、東の廂の南の障子を開け放って御簾をかけたあたりに、上臈はいた。御帳の東のあたりに、大納言の君と小少将の君がいるところにわたしは尋ねて行った。
 主上は、平敷の御座に御膳まゐり据ゑたり。御前のもの、したるさま、言ひ尽くさむかたなし。簀子に北向きに西を上にて、上達部。左、右、内の大臣殿、春宮傅、中宮の大夫、四条大納言、それより下は見えはべらざりき。 帝の平敷の御座に食膳が並べられた。お膳は作りが言い尽くせなおほど素晴らしい。南の簀子に北向きに西を上座にして、上達部、左・右・内の大臣、春宮傳、四条大納言が着席し、それより下の官職はいらっしゃらない。
 御遊びあり。殿上人はこの対の辰巳にあたりたる廊にさぶらふ。地下は定まれり。景斉朝臣、惟風朝臣、行義、遠理などやうの人びと。上に、四条大納言拍子とり、頭弁、琵琶、琴は、□□、左の宰相中将、笙の笛とぞ。双調の声にて、「あな尊と」、次に「席田」「此の殿」などうたふ。曲のものは、鳥の破、急を遊ぶ。外の座にも調子などを吹く。歌に拍子うち違へてとがめられたりしは、伊勢守にぞありし。 管弦の遊びが催された。殿上人はこの対の辰巳にあたる廊に伺候している。庭の席は決まっている。景斉朝臣、惟風朝臣、行義、遠理などである。殿上で、四条の大納言が拍子をとり、頭の弁は琵琶、琴は□□、左の宰相中将、笙の笛を奏する。双調の声にて、催馬楽の「あな尊と」、次に「席田」「此の殿」などを謡う。楽曲は、鳥の破、急を演奏する。地下の座にも調子などを吹く。歌の調子が違って、とがめられたのは伊勢の守だった。
右の大臣、  「和琴、いとおもしろし。」 など、聞きはやしたまふ。ざれたまふめりし果てに、いみじき過ちのいとほしきこそ、見る人の身さへ冷えはべりしか。 右の大臣が、和琴、とてもいい。」とほめた。戯れの果てにひどい失態をして、見ているほうもひやりとした。
 御贈物、笛歯二つ、筥に入れてとぞ見はべりし。 道長から帝への贈りものは横笛二本、箱に入れて送呈した。
寛弘五年  
左大臣道長  右大臣顕光  内大臣公季<左大将>  
大納言道綱<傅>  権大納言実資<右大将 按察>  
大納言懐忠<民部卿>  権中納言斉信<中宮大夫 右衛門督 十月十六日 正二位>  
中納言公任<皇太后宮大夫 左衛門督>  権中納言隆家  
権中納言俊賢<治部卿 中宮権大夫 十月従二位>  中納言時光<弾正尹>  
権中納言忠輔<兵部卿>  
参議有国<勘解由長宮 播磨権守>  行成<左大弁 侍従 皇太后宮権大夫>  
  懐平<春宮大夫 左兵衛督 伊予権守>  輔正<式部大輔 八十五>  
  兼隆<右近中将如元>  正光<大蔵卿>  
  経房<左近中将 近江権守>  実成<右中将 侍従>  
前帥伊周<准大臣 給封戸>  
正三位頼通<春宮権大夫>  
従三位兼定<右兵衛督>  
蔵人頭左中弁通方  左中将頼定  
左中将経房  頼親  
少将 重尹  兼綱  
   忠経  頼宗  
   公信  教通  
  源雅通  済政  
   道政 寛弘七年十一月廿八日遷新造一条院中宮同行啓  
 寛弘七年  
左大臣道長ー 右大臣顕光 内大臣公季<左大将>  
前内大臣伊周<正月二十八日薨三十七>  
大納言道綱<傅>  実資<右大将按察>  権大納言斉信<中宮大夫>  
公任<皇太后宮大夫>  
権中納言俊賢<治部卿中宮権大夫十二月十七日正二位>  中納言隆家  
権中 行成<皇太后宮権大夫侍従>  頼通<左衛門督春宮権大夫>  
中納言 時光<年>  権中  忠輔<兵部卿>  
参議 有国<勘解由長官三月十六日修理大夫>  懐平<右衛門督春宮大夫>  
   兼高<右中将>  正光<大蔵卿>  経房<左中将>  
   実成<右兵衛督>  頼定  
左中将 経房<参議>  公信<蔵人従四上内蔵頭>  
    教通<従四位上十一月二十八日従三位行幸如元十五>  
少将 済政<十一月二十五日右中将>  兼綱<従四位下>  
   忠経<蔵人正五位下正月七日従四下>  定頼<二月十六日元右十二月二十日正五下>  
   朝任<蔵人従五位下十一月二十五日才任元右>  
右中将兼澄  公任<任左> 頼宗<十一月二十八日正四下>  
   済政<十一月二十五日任>  
少将 雅通<二月三十日兼木工頭>  道雅<従四下>  
   好親<正月七日従五上>  定頼<任左>  
   朝任<二月十六日任元少納言任左>  経親<二月二十五日任元左衛門佐>
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読書期間 2024年8月15日 - 2024年10月15日