HOME表紙へ 日記目次 紫式部年譜

 

土御門殿   一条天皇の中宮彰子の父藤原道長邸。土御門大路の南、京極大路の西にあり、南北に二町を占めていた。一町は約120m四方。彰子はお産のため、寛弘五年(1008年)7月16日からここに退出していた。
御前にも   貴人をさし、中宮彰子のこと。当時21歳。※中宮を賛美することは、この日記の主題である。
五壇の御修法   不動・降三世ごうざんぜ軍荼利ぐんだり・大威徳・金剛夜叉の各明王を祭る五つの護摩壇を設け、山門(延暦寺)・寺門(三井寺)・東寺が合同で行う祈祷。「時」はお勤め。
女郎花盛りの色を見るからに  露の分きける身こそ知らるれ(一)   (露に美しくく染められた)女郎花の盛りの色を見ますと、分けへだてして露の置いてくれない私のみにくさが身にしみて感じられます。(新潮)/女郎花が朝露の恵みを受けて、今を盛りと美しい色に咲いているのを見るとすぐに、露が別けへだてをして恵みを与えてくれないこのわが身に不遇が、思い知られます。(講談社文庫)/女郎花の朝露を置いた盛りの美しい色を見るとすぐに露が分け隔てして恩恵を受けないわが身が思い知られます(渋谷)
白露は分きても置かじ女郎花 心からにや色の染むらむ(二)   白露は分けへだてをして置いてはいないだろう。女郎花は(美しくなろうとする)自分の心で美しく染まっているのだろう(新潮)/白露は分けへだてして置いているわけではありますまい。女郎花みずからの心の持ちようによって、このように色美しく花を咲かせているのだと思いますよ。(講談社文庫)/白露は花に分け隔てをして置いているのではないでしょう、女郎花が自分から美しい色に染まって咲いているのでしょう(二)(渋谷)
御格子参りなばや   「格子まゐる」は、格子を上げたり下ろしたりする行為の謙譲語。
後夜 一日6回行う勤行のひとつで、午前3時。
宰相の君  中宮の上臈女房。大納言道綱の娘豊子。中宮の従姉。讃岐守大江清通の妻。
殿の三位の君  道長の長男頼通。母倫子。当時正三位で十七歳。
多かる野辺に   「女郎花おほかる野辺に宿りせばあやなくあだの名をや立ちなむ」(『古今集』秋上 小野美材)の一句を、美しい女の人の多い所に長居していると浮名が立つだろうから帰ろう、の意をこめて歌ったもの。
播磨守、碁の負けわざしける日   当時権中納言藤原行成が播磨守で、参議藤原有国が播磨権守であったが、二人ともこの日記では別称によって敬語を用いているので疑問。日記執筆当時の該当者平成生昌かとする説もある。「碁の負けわざしける日」碁に負けた側が饗応すること。先に中宮の前で碁の試合があり、後日負けわざが行われ、播磨守が行事係だったのだろう。
あからさまにまかでて   「あからさまに」②一時的であるさま。ちょっと。しばらく。自分に用事があってちょっと里に下がっていた。
御盤のさまなど 「盤」食器などを載せる、脚つきの台。/ 洲や浜辺の景色を作った飾り物の台。
洲浜のほとりの水に書き混ぜたり 意味がよくわからない、状況がつかめない。「洲や浜辺の作り物の水辺に「紀の国の」の歌が散らし書きにされていたのだろう」との註釈があるが、何か紀の国白浜を模した作り物があったのだろう。
紀伊の国の白良の浜で拾ったというこの石こそは 御代末永く巌となりますように(三)  紀の国の白良(しらら)の浜で拾うというこの碁石は、君の御代と共に末長くあって、巌となりますように。中宮の御代を寿いでいる。(新潮)/ 紀の国の白良の浜で拾うというこの小さな碁石こそは、長久の君が代とともに永くあって、大きな巌にまで成長すること間違いありません(講談社文庫)/ 紀伊の国の白良の浜で拾うというこの碁石こそは大きな巌ともなるでしょう(三)(渋谷)
扇なども趣向を凝らしたものを  負けわざの折、勝った方に多くの扇が贈られ、それを持っていたのであろう。天禄四年円融院資子内親王乱碁歌合せの負けわざにも趣向をこらした扇が多く贈られている。
上達部 公卿の異称。大臣・大中納言・参議および三位以上の者をいう。
殿上人ども  清涼殿の殿上にの間に昇ることを許された者。四位五位の中で許された者と六位の蔵人をいう。
宮の大夫だいぶ<斉信>  中宮職の長官。中宮大夫の斉信ただのぶ。従二位権中納言兼右衛門督。
左の宰相中将<経房>  左の宰相中将の経房。従三位参議左近衛権中将。源経房つねふさ
兵衛督  源憲定のりさだ。従三位非参議で右兵衛督。母は道長の妻明子と姉妹。
美濃の少将<済政>   右近衛少将源済政なりまさ。美濃守任官は寛弘六年頃。中宮の母倫子の甥。
薫物たきもの合せ果てて沈香じんこう丁字ちょうじ白檀びゃくだん等の香木の粉末を調合し、密でねり固めた練香。壺に入れ、水辺の土中に数日以上埋めてから用いる。/薫物を調合し終わって。
※この段の薫物の調合は中宮の風流な日常の一こま。弁の宰相の美しさの讃美は、やがて誕生の若宮の乳母となった女房の讃美ということであろう。
菊の露若ゆばかりに袖触れ 花のあるじに千代は譲らむ(四)   着せ綿の菊の露で身を拭えば、千年も寿命が延びるということですが、私は若返る程度にちょっと袖を触れさせていただき、千年の寿命は、花の持ち主であられるあなたさまにお譲りしましょう。(新潮)/ この菊の露に、私ごときはほんのちょっと若返る程度に袖を触れるだけにとどめまして、この露がもたらす千年もの齢は、花の持ち主であるあなたさまにお譲り申しましょう。(講談社文庫)/菊の露にわたしはちょっと若返るくらいに袖を触れることにしてこの花の持ち主であるあなた様に千年の寿命はお譲り申し上げましょう(四)(渋谷)
弁の宰相の君  「宰相の君」のこと。のちに、若宮の乳母となる。それへの讃美だろう。
  表蘇芳すおう、裏青のかさねの色目。
紫苑しおん    表薄紫・裏青の襲の色目。または表蘇芳すおう萌黄もえぎとも。
濃きが打ち目  濃い紅で艶のある袿をかけて。
菊の綿  九月八日から九日にかけて菊の花を綿でおおって露と香を移し、その綿で身体を拭くと老いが除けると考えられた。この綿を菊の着せ綿といい、人に贈りもした。「綿」とは真綿のこと。
兵部のおもと  中宮の女房。素性不詳・「おもと」は敬称。
殿の上  道長の妻、中宮の母倫子。「上」は貴族の妻への敬称。/ 源 倫子(みなもと の りんし/みちこ/ともこ、康保元年(964年)- 天喜元年6月1日(1053年6月19日))は、平安時代中期の貴族女性で、藤原道長の正室。 父は左大臣源雅信、母は正室藤原穆子。 兄弟に宇多源氏の嫡流源時中、源時通、『枕草子』にたびたび登場する源扶義、源時方、源通義、大僧正済信、寂源など。父雅信の土御門邸で出生。宇多天皇の曾孫にあたる。雅信は倫子を天皇の后にと考えていたようだが[注釈 1]、花山天皇は在位短くして退位、続く一条天皇も年齢が不釣合いであり、また母穆子の強い勧めもあって、永延元年(987年)に道長と結婚して鷹司殿と呼ばれた。その当時倫子は24歳、道長は22歳であった。道長の実父であった摂政藤原兼家を牽制しえた唯一の公卿が一上の有資格者であった源雅信であり、この結婚が兼家と雅信の緊張緩和につながったこと、また朝廷の中心的地位にあり土御門邸をはじめとする財産を有した雅信の婿になることは、道長の政治的・経済的基盤の形成において大きな意味を有した。また、夫婦仲は円満であったらしく多くの子女、とりわけ娘に恵まれたことが夫道長の後の幸運を支えることになった。 (Wikipedia)
用なさにとどめつ  役に立たないのでやめてしまった。中宮の母の長寿を祝う歌は中宮の前で披露してこそ中宮をも祝うことになるのに、倫子が中宮の前にいなくなっては歌にこめた祝意が伝えられず、折角の歌も役に立たなくなった。
御しつらひ変はる  お産のときは、衣装や調度類は白いものを用いる。
  御もののけども駆り移し、限りなく騒ぎののしる  物の怪を憑人よりましに移して、調伏しようとこの上なく大声を張り上げている。「物の怪」は、人の身体的あるいは精神的な弱り目に乗じて乗り移り人を苦しめる死霊や生霊の類。中宮についた物の怪なので「御」がついている。物の怪を払うには、祈祷により憑人よりましという少女に駆り移して調臥する。
殿の上  道長の妻、倫子。
讃岐の宰相の君  大納言道綱の女豊子。讃岐守大江清通の妻。まもなく誕生の敦成親王の乳母となる。
内蔵の命婦  大中臣輔親の妻で、中宮の弟教通の乳母。産婆役が上手であった。
大納言の君  源扶義の女廉子。倫子の姪で、中宮の上女房。
仁和寺の僧都の君  源済信。倫子の兄。法務僧都。
小少将の君  源時通の女。倫子の姪で、中宮の上臈の女房。式部ともっとも親交があった。
宮の内侍  中宮の内侍という役の女房。もと東三条院の女房、橘良芸子。
弁の内侍  中宮の女房。源扶義の妻、藤原義子というが不明。
中務の君  中宮の女房。中務少輔源致時の女隆子かという。
大輔の命婦  中宮の女房。もと倫子の女房。大江景理の妻。
大式部  道長家の宣旨女房。「陸奥の守の妻」とあるが、夫は橘道貞か藤原済家か不明。「大式部は陸奥守の妻、殿の宣旨よ」と本文にある。
三井寺の内供の君  永円。母は倫子の姉妹。のちに大僧正になる。
類なくいみじと、心一つにおぼゆ  覚えがないほど大変だと、ひとりで心配している。「心一つにおぼゆ」人知れず心配している。
尚侍の中務の乳母  中宮の妹(尚侍)妍子の乳母。藤原惟風の妻。
姫君の少納言の乳母  中宮の妹威子の乳母。素性不詳。
いと姫君の小式部の乳母  中宮の末の妹の嬉子の乳母。藤原泰通の妻。
殿の君達  道長の子の頼通や教通。母は倫子。
宰相中将<兼隆>  道長の兄道兼の次男兼隆。参議兼右近衛中将。
四位の少将<雅通>  倫子の兄源時通の長男惟通。従四位下右近衛少将。
左宰相中将<経房>  源高明の四男経房。道長の妻明子の兄弟。
御頂きの御髮下ろしたてまつり、御忌む事受けさせたてまつりたまふほど  受戒し仏弟子となるために髪を少しそぐこと。在俗のままの受戒は、しるしばかりの剃刀をあてる。中宮が、受戒の功徳によって安産を願ったのである。
今とせさせたまふほど   今お産みになるという時には。
源の蔵人には心誉阿闍梨   監蔵人・兵衛蔵人、右近蔵人の三人は中宮の女蔵人で、宮内侍や宰相の君と共に各自ひとりずつ局を担当し、憑人を一人ずつ出したのである。「心誉阿闍梨しんよあざり」、左衛門佐藤原重輔の子。のちに権僧正。園城寺の長吏で、今度の五壇の御修法では軍荼利明王の壇を担当。
小中将の君   皇后定子所生の*子内親王の乳母であったが、内親王が亡くなったのち、三条天皇の当子内親王の乳母となり、中将内侍と呼ばれた女房かというが未詳。
>  左の頭中将   蔵人頭で左近衛中将の源頼定。為平親王次男。母は源高明の女で道長の妻明子と姉妹。
叡効  園城寺に学ぶ。当時四十四歳。のちに権律師。
ひる   『関白記』にも、午の時に生まれたとある。午の時は、午前十一時~午後一時。
春宮の大夫   春宮坊の長官。藤原斉敏の子の参議懐平。
内裏より御佩刀みはかし   皇子誕生の際に下賜される慶祝の剣。
頭中将頼定   為平親王の子、母は源高明の女。道長の妻明子の甥。頼定はお産の穢れにふれているため、宮中へ帰っても清涼殿に昇れないので、庭前に立ったまま報告するよう道長が指示したのである。穢れのあるものが着席すると同座の人に穢れが移り、立っていれば移らぬものとされた。
奉幣使   伊勢神宮へ幣帛を奉る勅使で毎年九月十一日出発。/ 「幣帛(へいはく)とは祭祀において神々に対する祈願などのために奉られるものです。幣(ぬさ)ともいう。「幣」「帛」が共に布にちなむ意味を持つことから、古くより絹や麻、木綿(ゆう)などの布帛を柳筥(やないばこ)に納めてお供えをしました。この布帛の代りに貨幣をもってお供えするのが幣帛料です。(中略)明治の神社制度では、官国弊社には例祭などの折、幣帛現品もしくは幣帛料と神饌料がそれぞれ奉られました。官幣社には例祭に皇室より幣饌料の御奉納があり、国幣社の例祭には国庫より供進されました。(中略)戦後は、神社本庁より包括化の神社の例祭などの祭祀に「本庁幣」として貨幣が供進されています。」(『神道史大辞典』)/ 頼定はお産の穢れにふれているため、宮中っへ帰っても清涼殿に昇れないので、立ったまま報告するよう道長が指示したのである。穢れのあるものが」着席すれば、同座の人に穢れが移り、立っていれば移らぬとされた。
橘の三位<徳子>   橘仲遠の女。藤原有国の妻。一条天皇の乳母。
大左衛門おおさえもんのおもと   徳子の従弟橘道時の女で蔵人の弁広業の妻。
とりの時   午後五時から七時までをいう。
宮のしもべ、緑の衣の上に白き当色着て   中宮職の下級役人。六位は深緑、七位は薄緑の衣服を着用するが、「しもべ」はそれ以下の位の者をさす。
当色着て   儀式の種類により決められた色。
御迎へ湯   産湯をつかわせる時の脇役。
大納言の君<源廉子>  中宮の上臈女房。源扶議の女廉子。倫子の姪。
湯巻姿   衣服が濡れないように腰に巻く生絹(すずし)の布。
人の心にしくべいやうのなければ   思うままに作れるものでもないので。
虎の頭   虎の骨は薬効があるとされ、虎の頭は造り物で、お湯にその姿をうつし、まじないにしたのだという。
文読む博士   寝殿で産湯をつかっている間、前庭で孝経や史記等の一節を読むために選ばれた者。紀伝道から、ひとり選ばれ、弦打の前に北面に並列し、毎回交代し、読むときは二三歩前進して行う。
蔵人弁広業ひろなり   参議藤原有国の次男。東宮学士。紀伝道の読書役で、十月三十日文章博士となる。妻は若宮の乳母となった大左衛門。
>  海賦かいふ   大きな波の線に、貝や海藻をあしらった模様。
掲焉けちえん   著しい、目立っている、あらわである。はっきりしている。
いとどものはしたなくて、輝かしき心地すれば   「(常よりも)いっそうきまりが悪く、おもはゆい気持ちがする」「はしたなし」(端なし)1どっちつかず、中途半端、2きまりが悪い、体裁が悪い3そっけない4程度がはなはだしい 「輝かしき心地」 恥ずかしい、おもはゆい(恥ずかしい、きまりが悪い)面目がたたない、恥ずかしい。
宮司みやづかさ大夫だいぶよりはじめて御産養仕うまつる   中宮職の役人が、長官をはじめとして職員一同でお誕生日のお祝いを申し上げる。子供が生まれて、三日、五日、七日、九日の夜、近親者や縁者がお祝いする。
右衛門督<大夫斉信>は御前の事   中宮大夫藤原斉信。道長の従弟。中宮職の御膳部。
沈の懸盤じんのかけばん  「沈」は熱帯地方に産する 喬木(きょうぼく高木に同じ⇔灌木)。香木としてまた調度品の材料として用いられる。「懸盤」四脚の台に折敷をのせたもの、脚付の食膳。
>  源中納言<権大夫俊賢>   中宮権大夫源俊賢。道長の妻明子の兄。
※斉信・行成・公任とともに四納言と称せられた才人。
藤宰相<権亮実成>   中宮権亮藤原実成さねなり。道長の従弟。
  皇子のお召し物。
襁褓むつき   産着のことといわれるが、「御衣」との区別がつかない。
衣筥の折立ころもばこのをたて   「衣筥」衣類を入れる箱。「折立」裏打ちした織物を箱の中に敷いて、箱の四隅で折って立てて飾りとしたもの。
>  入帷子いれかたびら   衣類を箱に入れるとき、衣類を包む布。
   
近江守   中宮亮源高雅。有明親王の孫。
屯食とじきども立てわたす   強飯を蒸して、おにぎり状にしたもの。身分の低いものに供する。
主殿とのもりが立ちわたれるけはひおこたらず   主殿寮というのは、”律令制で宮内省に属し、宮中の清掃、灯燭(とうしょく)・薪炭などの火に関すること、天皇の外出時の乗り物、調度の帷帳(いちょう)などを司(つかさど)った役所のこと”です。主殿(とのもり、とのも)は「主殿寮(とのもりょう)の下級役人のこと/宮中の雑役や、蔵人(くろうど)の拝賀に湯漬けの給仕をした女官のこと」の意味として用いられています。ギモン雑学/ ここでは松明をかかげて照明を加えている。
采女うねめどもまゐる   「采女」天皇や皇后の炊事や食事に奉仕した下級の女官。
采女、水司もひとり御髪上みくしあげども、殿司とのもり掃司かむもりの女官、顔も見知らぬをり   采女・水司・理髪・掃司かむもり闈司みかどづかさ等は、後宮職員にも同名のものがあるがここは中宮の下級の女官で、配膳・水・理髪・灯燭・清掃・門の鍵等に関する奉仕をしていたようである。
小塩山おしおやまの小松原を縫ひたるさま、いとをかし   大式部の裳と唐衣にほどこした衣装をほめているのである。「小塩山」は京都府乙訓郡大原にあり歌枕として有名である。「大原や小塩の山の小松原はや木(こ)高かれ千代の蔭見む」(『後撰集』巻二十賀、貫之)の祝意を趣向としてとったものであろう。山麓に大原野神社があり、藤原氏の氏神である。藤原氏の繁栄を祝って、小塩山/小松原のセットで、よく詠まれた。
少将のおもと   内匠頭藤原尹浦の女。藤原宗相の妻。
その夜の御前のありさま   中宮の御前に並べられたお膳部とたくさんの着飾った女房たちの有様。
うちたまふ   サイコロをつかった遊び。「ダを打つ」という言い方をする。/ 「双六(すごろく)」の一種。さいころと銭を用いる賭け事。
めづらしき光さしそふさかづきは もちながらこそ千代もめぐらめ(五)   今宵の望月に清新な光が加わったような若宮ご誕生のお祝いの盃は、望月さながら欠けることもなく皆の手に渡されて千代もお祝い申しあげるでしょう。(新潮)/新しい光が加わったような若宮ご誕生のお祝いの盃は、今宵の満月さながら欠けることなく、千年もの間、人々の手をめぐり続けることでありましょう。(講談社文庫)/ 若宮御誕生の祝宴の盃は   手に持ちながら満月のように欠けることなく人々の手から手へと千年もめぐり続けるでしょう(渋谷)
四条大納言   藤原公任。この時(寛弘五年)は、従二位中納言で皇太后宮大夫と左衛門を兼任。寛弘六年三月四日び42才で権大納言となっている。歌人として当時の第一人者。
小大輔こたいふ、源式部、宮城の侍従、五節の弁、右近、小兵衛、小衛門、馬、やすらひ、伊勢人   いづれも中宮の女房。
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北の陣に車あまたありといふは、主上人どもなりけり   「北の陣」ここは土御門殿に北門に設置した武士の詰め所。「主上(しゅじょう)」天皇のこと。天皇に仕える内裏の女房。
藤三位   左大臣師輔の女繁子。従三位で典侍。冷泉天皇の時から女房として出仕。関白道兼の妻で、一条天皇の女御尊子の母。道兼の死後中納言惟仲の妻。
侍従の命婦   内裏女房。素性不詳。
藤少将の命婦   内裏女房。藤原祐子。寛弘七年内侍となる。
馬の命婦   内裏女房。『枕草子』の「猫の乳母」と同一人物か。
左近の命婦   内裏女房。素性不詳。
筑前の命婦   内裏と中宮の女房兼務。あとに彰子に従い出家。
少輔の命婦   内裏女房。「少輔のめのと」と同一人物か。
近江の命婦   内裏女房。素性不詳。一説に、敦成親王の乳母の藤原美子かという。
左宰相中将<経房>   源高明の四男経房。道長の妻明子の兄弟。
殿の中将の君<教通>   道長の五男教通。母は倫子で彰子と同腹。
右宰相中将<兼隆>   関白藤原道兼の次男兼隆。中宮の従兄。
見参けざんの文また啓す   「見参の文」参賀者の名簿。参賀者の名簿を中宮の御覧にいれ。こういう者がお祝いに参上していると申し上げるのである。「勧学院」は藤原氏出身の大学の学生のため藤原氏のたてた寄宿舎。そこの学生達が、氏の長者の慶事に、作法に従い、練歩や徐歩するのを「勧学院の歩み」という。他の記録では三日の夜に行われている。
蔵人少将<道雅>   藤原伊周の長男。当時十七歳。道雅。
かけまくもいとさらなれば、えぞ書き続けはべらぬ。   「かけまくも」心にかけて思うことも。言葉に出して言うことも。/(かけましくもかしこき) 声に出して言うのも畏れ多い//「いえばさらなり」言うまでもない。/古語《形容動詞》の「さらなり」が「言うまでもない」と訳されるのは、 「言へばさらなり(口に出して言うと今さらという感じがする)」 「言ふもさらなり(口に出して言うことも今さらと言う感じがする)」 の省略形だから。
大袿おおうちきふすま腰差こしざし   「大袿」禄として賜る袿で大きく仕立ててある。各自の身に合わせて縫い直して着る。「衾」寝るとき身を覆う夜具。「腰差」一疋の絹を巻いたもの。賜ったとき、それを腰に差すところからこの名がある。
人びと、色々さうぞき替へたり   七日夜までは調度も衣裳も白であるが、八日目からは平常にもどるので、女房たちもさまざまな色の衣裳に替えたのである。
人びとは濃きうち物を上に着たり   濃紅の打衣うちぎぬを上に着ている。打衣は砧を打ってつやを出した衣。袿の上、唐衣の下に着る。「うち物」は砧で打って光沢をだした布。
こまのおもとといふ人の恥見はべりし夜なり   『小右紀』の七夜の記事の中に、公家達が、少高嶋という字の采女にふざけて酒を飲ませ酔談させたとある。「少」は「こま」と読み「こまのおもと」が恥ずかしい目にあったというのはこのことで、九夜のこととあるのは、作者の思い違いだろう、と註にあり。
西の側なる御座に夜も昼もさぶらふ   御帳台の西側に中宮の御座所として茵(しとね)が敷かれてあり、そこに作者は控えていたのである。
わりなきわざしかけたてまつりたまへるを   難儀なこと、の意で、ここはおしっこをしかけること。
中務の宮<具平親王>わたりの御ことを御心に入れて   村上天皇の第七皇子具平親王。当時。親王の娘と道長の長男頼通との縁談があり、道長は乗り気だった。
そなたの心寄せある人とおぼして   そちらへ親しい関係のあるもの。父為時及び夫宣孝は、具平親王の家司だった。具平親王は、当時四十五歳。才人として知られ『本朝麗藻』の中心的詩人であり、一条朝詩文壇の重鎮だった。また、『拾遺集』以下の勅撰集に四十一首も入っている。歌人でもあり、公任と並ぶ当代歌壇の指導者であった。
まし。て思ふことのすこしもなのめなる身ならましかば   まして悩みごとがすこしでも普通の人程度であったならば//「なのめなる」①いい加減だ、不十分だ②平凡だ、ありふれている、普通だ、まあまあ無難だ。その反対で「なのめならず」普通ではない。並ではない。格別だ。特別に。
すきずきしくももてなし若やぎて、常なき世をも過ぐしてまし   今よりももっと色めかしく振舞い、若やいで、無常な人生も過ごすだろうに。
めでたきことおもしろきことを見聞くにつけても、ただ思ひかけたりし心のひくかたのみつよくてもの憂く、思はずに嘆かしきことのまさるぞ、いと苦しき   めでたいことやおもしろいことを見たり聞いたりするにつけても、 ただ心に思っていることに引き寄せられるばかりで、気が重く、思うにまかせずに、嘆かわしいことが多くなるのが、実に苦しい。
いかで今はなほもの忘れしなむ、思ふかひもなし、罪も深かんなりなど   何とかして今はやはりすべて忘れてしまおう、考え込んでも甲斐のないことであるし、嘆くのは罪障も深いことだなどと。
水鳥を水の上とやよそに見むわれも浮きたる世を過ぐしつつ(六)   水鳥の楽し気なさまを、水の上のことで私には関係のないこととして見られようか。傍目には私もはなやかな宮仕えにうわついた日々過ごしているのに(新潮社)/ あの水鳥を水の上のことで自分には無関係なことだと、よそごとに見られようか。自分もまた水鳥同様に、人目にはうわついた宮仕えの日々を過ごしているのだから(講談社文庫)/ あの水鳥たちをただ水の上で遊んでいる鳥だと他人事と思われようかわたしも同じように浮いたような嫌な人生を過ごしているのだから(渋谷)
雲間なくながむる空もかきくらしいかにしのぶる時雨れなるらむ   たえまなくもの思いに沈んで眺めている空をも、雲の切れ目もなくまっくらにして降るのは、今までどれほどこらえていた時雨なのでしょう。それはあなたが恋しくてたえきれず流れる涙のようです。(新潮社)/絶え間なくもの思いにふけって眺めている空も、雲の切れ目もなく一面にかき曇って雨が降り出しましたが、これは何を恋しく思って降る時雨なのでしょうか。(実はこの時雨は、あなたを恋い慕って流す私の涙なのです)(講談社文庫)/ 絶え間なく物思いに耽って眺めている空も曇ってきて雨が降り出しました時雨は何を恋い忍んで降るのでしょう、実はあなたを思ってなのですよ(渋谷)
ことわりの時雨れの空は雲間あれどながむる袖ぞ乾く間もなき   季節柄降るのが当然の時雨の空には雲の絶え間もありますが、あなたを思ってもの思いする私の袖は乾く間もありません。(新潮社)/季節柄、当然降る時雨の空には時には雲の絶え間もありますが、絶えずもの思いにふけりつつあなたを慕って涙する私の袖は、乾くひまとてありません。(講談社文庫)/ 季節どおりに降る時雨れの空には雲間もあるが物思いに耽っているわたしは袖の乾く間もありません(渋谷)
龍頭鷁首りゅうとうげきしゅ竜と鷁は想像上の獣と鳥。楽人の乗る舟の船首につけた。   ///
例の、さいふとも日たけなむと、   「さいふとも」そうはいっても。「日たけなむ」日が高くなっているだろう。
たゆき心どもはたゆたひて   のんびりしていて、怠け心が働いて。
駕輿丁かよちょう   御輿を舁(か)く仕丁(じちょう)。舁手十二人。綱取り十人。
2.4 解説 駕輿丁かよちょうを見て
御輿の到着を人々がみつめているとき、式部はそれをかつぐ駕輿丁かよちょうの苦しげな姿に、人間共通の苦悩を見いだしている。華やかな宮廷生活に明け暮れる女房たちの中で、誰が人並みに思わぬ仕丁の身の上にまで共感を持ちうるであろうか。人間の運命を描いた物語作家の透徹した人生観照の目を感じさせる。(新編日本古典文学全集 『和泉式部日記・紫式部日記・更科日記・讃岐内侍日記 中野幸一校注・訳 小学館)
左衛門の内侍、御佩刀みはかし執る   内裏の女房。掌侍橘隆子かといわれるが未詳。/ 式部とは馬が合わない。「日本紀の局」と式部のあだ名をつける。
御佩刀みはかし執る   三種の神器の一の剣。天皇の行動に常に従う。
領巾ひれ   首から肩にかける帯状の薄い絹地の布。禍を払いのける呪力があると信じられた。
青色の無紋の唐衣   今日の緑色に相当する。
裙帯くんたい   裳の腰の左右に垂らす幅広の飾り紐。
浮線綾ふせんりょう   織紋の糸を浮かせて織りだした綾。
櫨緂(はじだん)   櫨色(黄色味がかった赤色)と白とのだんだら染。/ だんという字をコトバンクのみで見つけた。辞書の実例では、この箇所が初出か。
菊の五重いつえ   襲の色目。菊襲には種々の重ね方がある。
掻練かいねりは紅   掻練は表着の下、袿の上に着る練絹で打ち衣のこと。掻練かいねりは紅である。
裾濃すそごの裳   裾濃は裾の方を濃く染めるそめかた。///
しるしの御筥  璽(ジ・しるし) 三種の神器のひとつ八坂瓊曲玉の入った箱。剣とともに天皇の行動に常に従う。/ 璽 と呼ぶこともあり、やはり三種の神器のひとつである剣とあわせて「剣璽」と称される。
八尺瓊勾玉   八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は、八咫鏡・天叢雲剣と共に三種の神器(みくさのかむだから・さんしゅのじんぎ)の1つ。八坂瓊曲玉とも書く。(Wikipedia)
"楝緂あふちだん   薄紫と白のだんだら染。
近衛司、いとつきづきしき姿して   「近衛司」近衛府の役人で、宮中の警備や行幸の警護をつかさどる。「いとつきづきしき姿して」いかにもこの場に相応しい/振舞で/いでたちで。
地摺の裳   白い地に模様を摺りつけた裳。禁食をゆるされた者の裳である。
蘇芳すほう   色の名称。黒みがかった赤。/ マメ科の植物「蘇芳 」を染料とする色です。古くからの色名で、別に『蘇方 』『蘇枋 』の字が当てられます。我が国では古くから蘇芳を輸入しており、正倉院の御物の中にもその名が見られる貴重な品でした。「伝統色のいろは」を参照しました。
馬の中将   内裏の女房か。左馬頭藤原相伊の女。道長の妻明子の姪。
蘇芳   染色名。黒みがかった赤色。襲の色目にも登場し、色目は樹の断面を模した表は薄茶、裏は赤色の通年使用可能な重ねである。
菊の三重五重   菊襲の三重が一組になったものと五重が一組になったものであろう。
固紋   かたもん。経(たていと)も緯(よこいと)ともに染めた生糸で綾を浮かさず固く織った織物。
主上の女房、宮にかけてさぶらふ五人   天皇の女房で、中宮の女房を兼任してお仕えしている五人。左衛門内侍と弁内侍との二人と、筑前命婦と左京命婦との二人、「御まかなひ」の橘三位徳子、以上の五人であろう。
御膳おものまゐるとて   お食事をさし上げる。お膳を供する。朝餉あさがれい①天皇の日常の簡単な食事。 ②「朝餉の間」の略。清涼殿の天皇が食事をとる部屋。「あさげ」と読めば別の意。
いと顕証に、はしたなき心地しつる   晴れがましくきまりの悪い思いでした。
あこめ   束帯や直衣の時、単衣の上、下襲の下に着る中着。
故院   東三条院詮子。円融天皇の女御で一条天皇の母。正歴二年(991)東三条院となり長保三年閏十二月崩御。道長の姉で土御門殿に住むときが時々あった。
右の大臣   藤原顕光。正二位、六十五歳。
左衛門督   藤原公任。当時は従二位中納言で皇太后宮大夫と左衛門督を兼任。
殿は、あなたに出でさせたまふ   『不知記』によれば、演奏の後、帝は母屋の御座に、道長以下の公卿は西の対の公卿の座に復した。
別当になりたる右衛門督、大宮の大夫よ   権中納言で右衛門督と中宮大夫兼任の藤原斉信がこの日正二位になり、新親王の別当に任命された。「大宮の大夫よ」は、「右衛門督」の説明。
宮の亮   参議で侍従と中宮権亮兼任の藤原実成。実成はこの日正四位下から従三位に上がった。
宮の御方に入らせたまひて、ほどもなきに   帝が、中宮の御簾に入ってどれほども経っていないのに。
宮の亮   中宮権亮。参議藤原実成さねなり。「藤宰相」として前出。
宮の内侍の局   中宮の上臈女房。もと東三条院の女房。橘良芸子。
宰相は中の間に寄りて   「宰相」は宮の亮と同一人物。「宰相」は参議の唐名。/ 渡殿の局の中の間。ちなみに、前出の「渡殿の戸口の局」によれば、作者は東端の局にいたことになり、宮の内侍と同居していたのであろう。宰相(宮の亮)はは中の間の方から声をかけたものかと思われる。
2.8 解説 土御門邸の一大行事たる行幸が終わった翌日の夜、打ち解けた雰囲気の月明の下に、中宮大夫の斉信と権亮実成さねすけの二人は、連れ立って女房の局を訪れる。特別の加階に浴した御礼の言上を中宮に取り次いでもらうためである。中宮への御礼言上は、中宮の女房を介して啓上するのが作法であった。とはいえ、中宮の女房ならば誰でもよいという訳ではあるまい。「女房にあひて」とはいうものの、目指す女房がいたはずである。あの藤原実資さねすけが、中宮御所を訪れた折の「フ女房」として「越後守為時女」(紫式部)を挙げ、「此ノ女ヲ以ッテ、前々ヨリ雑事ヲ啓セシムルノミ」(『小右記』長和二年五月二十五日条)と記しているところから知られるように、公卿らは、中宮に啓上する際の取り次ぎに、懇意の女房を決めていたらしいのである。この場合も、すでに誰か取り次ぎの女房が決まっていたというのではないが、お目当てはどうやら紫式部であるらしい。宮の内侍の局に 立ち寄ったとあるが、これは偶然であって、紫式部の局を探してやってきた途中経過のことにすぎまい。中宮職の主要なこの二人がめざしてきたのが、紫式部であるならば、式部は中宮の信任厚い、頼り甲斐のある女房であったこととなろう。来訪の要件はそれとして、くつろいだ雰囲気の中での交流をの望む二人に対して、式部は自制の勝った態度に終始し、会話の進展など開放的な場面の展開はなされない。ここには、紫式部の自制に徹した姿勢とともに、世に処する倫理観が見てとれるのである。なお、『日記』のこの条は、後に『紫式部日記絵巻』に描かれることとなり、それが平成十二年、2000年を記念して発行された二千円紙幣の図柄に採用されるに至って、一般的に広く知られるところとなった。(この項『紫式部日記』宮崎正平著 講談社文庫p178)
いと思ふことなげなる御けしきどもなり   ふたりとも、何の屈託もなさそうな様子である。
  
   いま二所の大臣も参りたまへり   道長の他のもう二人の大臣。右大臣藤原顕光と内大臣藤原公季。
折櫃物おりびつもの籠物こもの   檜の薄板を四角や六角に折りまげて作った箱に入れた御馳走が「折櫃物」で籠に入れた果物が「籠物」。『小右記』には、善美を尽くした折櫃物・籠物だったとある。公卿に披露の後、帝に献上。
たちあかしの光   手に持って掲げる松明。
紙燭ささせて   「紙燭」長さ50センチ細さ1センチくらいの松の先に油をしみこませたもの。
階の東の間を上にて、東の妻戸の前までゐたまへり  『不知記』によると、簀子敷に伺候したとあり、階段の東側の簀子敷に西を上席にしたことになる。出席の公卿は十九名。一間三名ずつとして十二名が南に、七名が東の妻戸に前に座ったことになる。
女房、二重、三重づつゐわたりて、御簾どもをその間にあたりてゐたまへる人びと、寄りつつ巻き上げたまふ   女房たちは廂の間に二列三列に重なって御簾を巻き上げて座ることになったのである。
大納言の君   源扶養の女廉子。倫子の姪で、中宮の上臈女房。
宰相の君   大納言道綱の女豊子。道長の姪で中宮の上臈女房。
小少将の君   源時通の女。倫子の姪で、中宮の上臈女房。父源時通は、永延元年(987年)4月に出家した出家した。それから始まって色々不運が続いた。   
宮の内侍   橘良芸子。もと東三条院の女房で中宮の上臈女房。/
右大将   藤原実資。当時、正二位按察使権大納言で右大将。五十二歳。『小右記』の筆者。
酔ひのまぎれをあなづりきこえ   酔っているからと軽く思い申して。
また誰れとかはなど思ひはべりて   (わたしを)誰とお気づきにならないだろうと思って。
左衛門督   藤原公任きんとう。当時は、従二位中納言で皇太后宮大夫や左衛門督を兼ねていた。
あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ。   失礼します、恐縮ですが、こちらに、若紫さんはおられますか。『源氏物語』の若紫の巻でで登場した紫の上を若紫と呼び、紫式部を若紫になぞらえて語りかけようとあいたもの。
三位の亮   内大臣藤原公季の長男実成。当時従三位参議で、中宮権亮や侍従等を兼任。「侍従の宰相」と同一人物。
内の大臣   内大臣の公季。実成の父。当時五十二歳。///
権中納言   藤原隆家、故関白道隆 の子。故皇后定子の弟。
2.9 解説   公任が式部を紫の上に擬して呼んだことは、見方をかえれば、自身を光る源氏になぞらえた行動である。それをとらえて、そうおっしゃる殿方の中に、光る源氏に似ていさそうなお方もお見えにならないのに、まして紫の上などどうしてここにおられるものですか、と心の中で言い返したのだろう。この記事は『源氏物語』が、この時期すでに公任のような男性官人にも読まれていたことを示すものとして興味深い。(小学館『日本古典文学全集』中野幸一校注訳
2.9 解説 藤原実資   実資は、阿諛追従の多い当時の宮廷人の中で、もっとも理非曲折をわきまえた人物であった。ここでは日頃内省的な式部が珍しく彼に話しかけているが、式部が実資を見る目が好意的であるのも、彼のそのような人柄と無縁ではないだろう。(小学館『日本古典文学全集』中野幸一校注訳)
よろづのかざりもまさらせたまふめれ   万事にわたる若君の栄光。「かざり」は、美しさ、栄光等の抽象的な意。/ (若宮を大切にお扱になられるからこそ、)すべての栄光もいっそう盛んにおなりになるのだろう。(宮崎)/(このように殿が若宮を大切に取り扱われるからこそ)、すべての栄光も、いっそうおまさりになるのだろう。(中野)/(なるほどこのように若宮を大切にお扱い申していらっしゃるからこそ)、すべての栄光もおまさりになるのであろう(渋谷)
  
なぞの子持ちか、冷たきにかかるわざはせさせたまふ。   いったいどういう子持ちか、冷たいのにこんなことをなさるのですか。産前産後の冷えは禁物なのに、の意を含む。
ものの奥にて向かひさぶらひて、かかるわざし出づ。   奥まったところに隠れて伺候して、このようなことをしている。(渋谷)/ 奥まったところにお仕えして、こんな仕事を始めるとは(宮崎)/ものの奥に向かいはべっているのに、こんな仕事をし始めるとは(中野) 「ものの奥」奥まったところ・中宮の御前」
局に物語の本ども取りにやりて隠しおきたるを   物語の本を里へ取りにやって、自分の局にかくしておいたのを・この物語は『源氏物語』であろう。///
御前にあるほどに、やをらおはしまいて、あさらせたまひて、みな内侍の督の殿にたてまつりたまひてけり   「御前にあるほどに」私が中宮様の処に出仕している間に、(道長様が)来られて探し出し、みな尚侍の督様にさし上げられた。「尚侍の督」道長の次女妍子。中宮の同母妹。当時十五歳。後に三条天皇の中宮。
いかにやいかにとばかり、   「世の中をかくいひいひいひてはてはてはいかにやいかにならむとすらむ」(『拾遺集』巻八雑上、題知らず、よみ人知らず)による表現で、歌に詠まれている通り、///
水鳥どもの日々   鴨(かも)・雁(かり)などの渡り鳥や、鴛鴦(おしどり)・かいつぶり等のように冬に姿を見せる水鳥。
さも残ることなく思ひ知る身の憂さかな   (宮仕えに出て)こんなにも残らず味わい尽くすわが身の嘆かわしいことよ。/ 宮仕えに出てからは、ほんとうにわが身のつらさを残ることなく思い知ることよ。
ここにてしもうちまさり、ものあはれなりける   (心の休まるべき実家においても)もの悲しいのだった。
まろがとどめし旅なれば、ことさらに急ぎまかでて、『疾く参らむ』とありしもそらごとにて、ほど経るなめり   (中宮の母倫子のことば)わたしが止めた里帰りだったが、そなたが急いで退出して、『すぐ戻ります』といったのも空ごとのようで、長いこと里にいますね。/ わたしが引き止めた里下がりなので、格別に急いで退出して、『早く帰参します』と言ったのも嘘で、長く里にいるようですね。(渋谷)
たまはせしことなれば   (お暇を)賜ったので(山本校注)/ お手紙をわざわざくだされたことなので。(中野校注訳)解釈ちがっているのは、非常に珍しいことなのであえて記した。(管理人)
戌の時   午後八時頃。出発予定時刻であろう。
言ひ尽くし見やらむかたもなし   形容し尽くすことも見極めることもできない。
立蔀たてとじみ   板張りの目隠しの塀。舞姫は東北の門から入るり、中宮の御座所の東北の対の東側から東の対に入ったと考えられ、そこに立蔀があったようである。
樋洗ひすまし   便器の清掃をする下役の女。傅(かしずき)の後に従っていたのである。
かしづきは十人いた 傅(かしずき)は普通六人から八人くらい。十人は他よりも多かったことを示す。
五節は二十日に参る   「五節」十一月中の丑の日、舞姫が常寧殿に参入し、四日間の五節の行事に参加する。五節の舞姫。公卿から二人、受領から二人の舞姫が献ぜられる。この年は、公卿分は参議藤原実成(侍従の宰相)と藤原兼隆(右の宰相の中将)、受領分は、丹波守高階業遠と尾張守藤原中清。舞姫は四人である。ひとりの舞姫にかしづきと称される行き添いは六人から八人つく。
右の宰相中将   /参議で右近衛中将兼任の藤原兼隆(舞姫を出すひとり・公家側)。//
侍従の宰相   参議で中宮権亮と侍従兼任の藤原実成(舞姫を出すひとり・く公家側)
業遠なりとおの朝臣   丹波守で春宮権亮と敦成親王瑕家司の高階業遠。「かしづき」舞姫の世話役としてつき従う女房。
藤宰相   藤原実成。公卿として舞姫を出したひとり。
2.15 解説 五節の舞姫   五節の舞姫が衆目にさらされて参入してくるのを見て、彼女たちが懸命に平静を装っているつらい心を思いやり、はてはそれが他人事ではなく、自分もまったく同様な境遇であることに思い至って胸を詰まらせる。他事を見てそれをわが身にひき比べ、内省し沈潜してゆくのは、例の式部特有の精神構造である(小学館新編日本古典文学全集 『和泉式部日記・紫式部日記・更科日記・讃岐内侍日記』中野幸一校注・訳)/五節の舞姫の内裏参入の様子、、特にその介添役の女房を」中心に描くが、その中で衆人環視のなかに身をさらす舞姫たちの立場に目をみはる。このくだりは、舞姫たちへの同情を超えて、慨嘆の披露となっている。そして、それは他人事ではなくして、ただちにわが身の上と同然のことと思い見る。土御門邸行幸の折に、駕輿丁かよちょうの姿にわが身をひき比べずにはいられなかったのと、類洞の反応であり、紫式部特有の思考を示している。舞姫の姿から触発される式部の慨嘆は、次々節に至り、いっそう深まりを見せるが、表出されるこの感慨は、いわば通奏低音のごとく響き、『日記』を特徴づけるものとなっている。(『紫式部日記全訳注』宮崎荘平著 講談社文庫)
五節の舞(ごせちのまい)とは、日本の雅楽では唯一、女性が演じる舞[1]。大嘗祭や新嘗祭に行われる豊明節会で、大歌所の別当の指示の下、大歌所の人が歌う大歌に合わせて、4 - 5人の舞姫によって舞われる(大嘗祭では5人)。舞姫は、公卿の娘2人、受領・殿上人の娘2人が選ばれ、選ばれた家は名誉であった。また、女御が舞姫を出すこともあった。大嘗祭では公卿の娘が3人になる。古くは実際に貴族の子女が奉仕し、大嘗祭の時には叙位にも与った。清和天皇皇后の藤原高子も后妃になる前に清和天皇の大嘗祭で舞姫を奉仕して従五位下に叙された。もっとも貴族女性が姿を見せないのをよしとするようになった平安中期以降、公卿は実際に娘を奉仕させず、配下の中級貴族の娘を出した。『源氏物語』少女巻において、光源氏が乳母子の惟光の娘(のちの藤典侍)を奉仕させたというのも、こうした時代背景を反映する。また、これとは別に五節舞姫と天皇が性的関係を結ぶことが行われ、天皇と貴族との関係強化の場としても機能していたが、藤原北家などの特定の家からしか天皇の后妃が出せなくなると、性的要素が排除されて変質が行われて行ったとする見方もある[2]。 (Wikipedia)/
寅の日の朝、殿上人参る   寅の日、正午頃から殿上の淵酔えんすい(清涼殿に殿上人を召して賜る酒宴)があり、そのため殿上人が清涼殿へ参上するのをいう。
月ごろにさとびにけるにや、若人たちのめづらしと思へるけしきなり   七月中旬以来およそ四か月、土御門邸にいて宮中を離れていた間に田舎じみてしまったのか、若い女房たちは殿上人を珍しいと思っている模様である。
摺れる衣も見えずかし   青摺り衣。小忌衣おみごろも/のことで、神事にたずさわる公卿たちが着る祭服。白布を張って山藍の草汁で竹・桐・鳥などの模様を青摺りにしてある。新嘗会・豊明の節会などの神事は明日、明後日であるから、今日はその珍しい青摺り衣も見られない。//
御前の試み   寅の日の夜、天皇が舞姫を清涼殿に召してその舞いを御覧になること。
帽額もこう   御簾や御帳の上辺に横に引き渡した一幅の布。
五節所   舞姫たちの控室。
2.16 解説 舞姫について   盛大な五節の御前の試みの見物に、気が進まずながら、道長に強いられて参上する式部。その華麗な舞姫の姿よりも、まず彼女たちの内心の苦しみを思わずにはいられない式部の心は、単なる同性に対する同情を超えて、自省に回帰し、沈思して悩む。(新編日本古典文学全集 『和泉式部日記・紫式部日記・更科日記・讃岐内侍日記』中野幸一校注・訳 小学館)
かからぬ年だに御覧の日の童女の心地どもは、おろかならざるものを   今年のように競い合わない普通の年でさえも、童女は並大抵の緊張ではないのに。
「童女御覧」
歩み並びつつ出で来たるは、あいなく胸つぶれて   童女と付き添いの下仕えの童女とが次々に歩み出た様子には、わけもなく胸が詰って。
御覧の日の童女の心地どもは   「童女御覧」卯の日に舞姫に付き添っている童女らを清涼殿に召して主上が御覧になる行事。その日の童女の緊張は。
心もとなくゆかしきに   童女たちの様子が気になるので、早く見たい。
いとほしくこそあれ   ①気の毒だ。かわいそうだ。②かわいい。③困る、いやだ。(学研全訳古語辞典)
かたくなしきや   なんと堅苦しく融通のきかないことか。(わたしは)固苦しい性分だよ。まったくわれながら融通のきかないおもいであるよ。堅苦しい考えであることよ
青い白橡しらつるばみ汗衫かざみ   「白橡」には「青白橡」と「赤白橡」があり、それぞれ「青色」「赤色」ともいう。「青白橡」は苅安と紫草とで染めたもので、黄がちの萌黄色に赤味の加わったもの。「白橡」童女の表着の上に着る礼服。
みな濃き衵に   童女たちは皆濃い衵で、婦人や童女の着る衵は、肌着の衣と表着との間に着るもの。
葡萄染め   「葡萄染」は襲の色目、表紫、裏赤。
扇取る   童女や下仕えが座につくと、帝は顔を見るため、扇を下に置くよう命ずる。童女には、殿上人が、下仕えには六位の蔵人が介添についている。その介添役が顔にかざした扇をとりおろさせるのである。
われらを、かれがやうにて出でゐよとあらば、またさてもさまよひありくばかりぞかし   私のようなものを、あの人たちのように人前に出よとあらば、私もあのようにまごついて歩くだけだろう。「ら」は謙遜の気持ちを表す接尾語。
2.17 解説 御覧の日について   御覧の日の童女への同情は、やがて自己の身の上の反省となって、知らず知らずのうちに宮仕え生活に慣れ、あつかましくなってゆく自分がうとましく思われ、目前の華麗な行事も目にとまらず、味気ない思いで憂鬱になる。彼女自身「例の」と記しているように、他人への同情、批評から転じて内省に進み、自己批判せずにはいられなくなるのが式部の精神の特徴である。(新編日本古典文学全集 『和泉式部日記・紫式部日記・更科日記・讃岐内侍日記』中野幸一校注・訳 小学館)// 多くの男の人にまじって見られている童女たちの心の中を想像すると気の毒に思えてならない。そんな自分を融通がきかないことだととも思うほど、人前に出るのは恥ずかしいものとする作者である。だが、宮仕えに馴れるにつれ自分もどんなに変わるかもしれないと思う。見物を楽しまず、自分の身の上に思い及ぶ、というのが作者辿たどるいつもの軌跡である。(新潮日本古典集成『紫式部日記 紫式部集』山本利達校注 新潮社)
侍従の宰相の五節局   藤原実成の舞姫の控所。中宮様の御座所から見渡せる近くにある。
かの女御の御かたに、左京の馬といふ人なむ、いと馴れてまじりたる   「かの女御」内大臣公季の女で実成の姉、弘徽殿女御義子。あの弘徽殿の女御の御方に左京の馬という人がものなれた様子で交っていましたね。「左京馬」左京の君の誤りか。
おほかりし豊の宮人さしわきてしるき日蔭をあはれとぞ見し   豊明節会に奉仕した大勢の人々の中でひときわ目立つ日陰の鬘のあなたを感慨深く拝見しました。(新潮/ 山本)/ 大勢奉仕した豊明節会の人々の中でひときわ目立ってはっきり見えた日蔭の鬘のあなたをしみじみと拝見しました(渋谷)大勢奉仕した豊明節会の人々の中で、とりわけ目立つ存在であった日蔭の鬘のあなたを、印象深くお見受けしました。(宮崎/講談社 )/ 大勢いた豊明の節会に奉仕する宮人のなかで、とりわけて目立った日陰の鬘のあなたを、しみじみ感慨深くお見受けしましたわ(小学館/中野)
「日陰の鬘(ひかげのかずら)」 1 ヒカゲノカズラ科の常緑多年生の蔓性 (つるせい) のシダ。山野に生え、茎は地をはい、針状の葉がうろこ状につく。茎から細い枝が直立し、長さ約5センチの黄色い胞子嚢 (ほうしのう) の穂をつける。胞子を石松子 (せきしょうし) といい、薬用などにする。きつねのたすき。かみだすき。てんぐのたすき。 2 新嘗祭 (しんじょうさい) ・大嘗祭 (だいじょうさい) などの神事に、冠の巾子 (こじ) の根もとに1をつけたもの。のちには青糸や白糸を組んで作ったものも用いるようになった。かずらがけ。
白き物忌みして   白い薄様の紙を重ねて幅三分に切ったものを「物忌」として五節の童女たちは左右の耳の前につける。
黒方くろぼうをおしまろがして   「黒方」は薫物の名。それを丸めて棒状にした。
さうさうざうしき   「古文の於けるそうぞうし」はあるべきものがなくて物足りない、心さびしい様子を表す形容詞。
 道長の妻の一人明子(左大臣源高明の女)腹の子息たち。当時十六歳の頼宗のち右大臣、十五歳の顕信のち出家、十四歳の能信のち権大納言、三歳の長家のち権大納言、らがいた。「高松」は源高明の邸の名。
高松の小君達さへ   ///
さだ過ぎぬるを豪家にてぞ隠ろふる   年を取っているのを頼みとして隠れている。「豪家」は頼る所、逃げ場。
臨時の祭の使ひ   十一月下の酉の日が賀茂神社の臨時の祭り。祭りの使いは帝の名代として御幣を捧げ宣命を読む等をする。
殿の権中将の君   道長の五男教通。母倫子。従四位上右近衛権 中将兼近江介。十三歳。
その日は御物忌みなれば   帝が物忌みの日。その日参内しても公儀に参加できない。そこで公儀の日が帝の物忌みに当たる時は、関係ある侍臣は前日から参内し、宿直する習わしであった。
内の大殿の御隨身、この殿の御随身にさしとらせていにける   「内の大殿」内大臣藤原公季。弘徽殿女御の父。早朝、内大臣の御随身がこちらの殿の御随身に手渡していった。
年暮れてわが世更け行く風の音に心の中のすさまじきかな   年暮れてわが世更け行く風の音に心の中のすさまじきかな 今年も暮れてわたしの歳も老いてゆく。折から吹いてゆく夜ふけの風の音を聞いていると、心が寒々として寂しいことだ。(新潮社)/ 今年も暮れてゆき、私の齢もまた一つ老いてゆく。夜ふけの風の音を聞いていると、わが心の内を寒々としたものが吹き抜けてゆくように感じられることだ。(講談社文庫)/ 今年も暮れてわたしの齢もまた一つ加わっていくが、夜更けの風の音を聞くにつけてもわが心の中をなんと寒々としたものが吹き抜けていくことか(渋谷)
言忌みもしあへず   不吉な言葉を忌みさけること。元日なので言忌みすべきなのだが、昨夜の一件をつい口に出してしまうのである。
坎日かんにち   陰陽道で諸事に凶であるとする日。
宣旨の君   中宮付き「宮の宣旨」。中納言源伊陟(これちか)の女。 陟子(ちょくこ?)かといわれる。
二月ばかりのしだり柳のさましたり   『源氏物語』女三の宮を二月二十日頃の青柳のしだれはじめた感じだとたとえている。
ただありにもてなして   ありのまま振舞って。気どらずに。
艶がりよしめくかたはなし   「えんがる」は風流がるさま。「よしめく」は由緒ありげに気どるさま。気どったり風流心があるようにすることはない。風流ぶったり気どったりするようなことはありません。
式部のおもとはおとうとなり   橘良芸子の妹。「宮の内侍」の妹。上野介橘忠範の妻で寛弘三年(1006)夫と死別し、その後中宮に出仕したらしい。「兄弟姉妹」で下のものを「おとうと」という。
琴柱こととじにかわさすやうにてこそ   琴柱は動かして調子をととのえるものなのに、膠で固定させては曲に応じて変化させることができないので、一定の考えにのみ従い臨機応変の態度のとれないたとえ。出典『史記』
心ばせぞかたうはべるかし   気立てのよいひとというのは、なかなかいないものです。
心おもく、かどゆゑも、よしも、後ろやすさも、みな具することはかたし   「心おもく」思慮が深いこと。「かど」才気、才覚、才能、「ゆゑ」趣味、風情、風流心、たしなみ。「またすぐれて気品があって、思慮深く、才覚や風情も趣も信頼もすべて持ちあわせているというようなことはなかなかありません」「うしろやすさ」将来が安心であること。
さもけしからずもはべることどもかな   まあ実にけしからん言い草ですこと。こんなことを言って、ほんとうにけしからぬことですね。
斎院   天皇一代の間、賀茂神社に仕える未婚の内親王をいう。当時は、村上天皇の第十皇女選子内親王が斎院。選子内親王は、円融・花山・一条・三条・後一条の五代にわたり斎院となり、大斎院といわれた。斎院の御所は紫野の有栖川のほとりにあった。
中将の君   斎院の女房。斎院の長官源為理の女。母は大江雅致の女(和泉式部の姉妹)紫式部の弟惟則(のぶのり)の恋人。
人のもとに書き交はしたる文を   他の人の処へ。「人」は弟の惟則かとみられる。他に人に出した文を。
みそかに人の取りて見せはべりし   「みそかに」こっそり。こっそり弟の惟則が(自分に来た文を)見せてくれたのだろう。多分、斎院は和歌に優れていると書いていたので、和歌は姉が得意とするものなので、姉に見せたのだろう。
#おほやけ腹とか   「おほやけばら」人ごとながら腹が立つ思いだ。公憤を感じる。/
かういと埋れ木を折り入れたる心ばせにて、かの院にまじらひはべらば   私のように世間から引き籠ったような者でも、斎院にお仕えしたならば。/ 自分の性格を卑下して言ったもの。内向的で融通のきかない、古風な性格を言う。「埋れ木」は土中に長いあいだ埋もれて固くなり、役に立たない木。それをへし折って奥に入れるとは、そのような性格を強調したもの。
これを、人の心ありがたしとは言ふにはべるめり   ところがその当然のことができない。
いとようさてもありぬべきことなり   うまく応対してそれで当然のことである。
はかなきいらへをせむからに、にくいことをひき出でむぞあやしき   (話かけられたとき)ちょっとした返事をしようとして、相手の気持ちを損なってしまうのは困りものです。
すべて聞かれじと、ほのかなるけはひをも見えじ   一切自分の言葉を聞かれまいとし、少しでも姿を見られまいとするのでしょう。
もの言ふとも   歌を詠み交わしたとしても。/ 会話をしたり、あるいは歌を詠み交わしたりすること。
奥なき名   軽薄だという評判。
つつましきことなきが   引け目を感じることのない女房。
中宮の人埋もれたり、もしは用意なしなども言ひはべるなるべし   「中宮方の女房は引っ込み思案だ」これは慎み深い女房に対する評。「用意なし」心づかいがない、奥ゆかしさがない。これは軽薄な女房に対する評。
これらをかく知りてはべるやうなれど   こんなことをいうと、上臈や中臈の女房をこのように心得ているようだが、
ただおほかたを、いとかく情けなからずもがなと見はべり   ぜんたいとして、こんな批判のように、風情がないということのないようにあってほしいものです(新潮)/ 中宮方の全体の雰囲気として、まったくこのような無風流ではなくしたいと思うのです(小学館)/ ただ全体の様子として、このような風情に乏しい雰囲気ではなくしたいものです(渋谷)
後ろやすく恥なき人   することに安心感がもて、どこに出しても恥ずかしくない人。(新潮)/ 気がついたことを口に出していっても、気づかいがなく、こちらが恥ずかしがらないですむような人、の意。(小学館)/ 信頼がおけてこちらが恥ずかしい思いをしなくてもよいような女房。(講談社)/ 安心で恥ずかしい思いをしなくてよい女房(渋谷)
心にくくもありはてず   男たちが魅力を感じるように振舞い通せるものではなく。/ 奥ゆかしさばかりで行くわけにもいかず(渋谷)「心にくい」①奥ゆかしい。心が引かれる。上品で美しい。 /
たふるるかた   周囲の気風に従う傾向にあり。「たふる」は「倒る」であるが、屈する、靡く等の意。
面にくくひき入りたらむがかしこからむ   面にくいことに、引き籠ってしまうのが賢い応対だろうか。
また、などてひたたけてさまよひさし出づべきぞ   どうしてだらしなく人前に出しゃばってようであろう「ひたたける」雑然としている。しまりなく乱れている。
和泉式部といふ人   大江雅致の女で橘道貞の妻。小式部内侍の母。為尊親王や敦道親王と愛情関係をもつ。寛弘六年初夏ころ、中宮の女房となり。のち、藤原保昌の妻となる。
丹波守の北の方   大江匡衡。文章博士、式部大輔、東宮学士であったが、寛弘七年三月三十日丹波の守に任ぜられた。北の方―赤染衛門。赤染時用女。実は平兼盛女。大江匡衡の妻。倫子の女房で、中宮の処へも出入りした。当代女流第一の歌人で『栄花物語』上編の作者といわれている。
一ふしの思ひ出でらるべきことなくて過ぐしはべりぬる人の   「かく、かたがたにつけて」このように、あれこれにつけて/ ひとつとして心に思い浮かぶような取柄もなく。「過ぐしはべりぬる人」作者自身のこと。/ このようにあれこれにつけても、何一つ思い出となるようなこともなくて過ごしてきました私が。(小学館)/ このように(他人のことをさまざま批評してきたが)、あれこれの方面から見て、何一つ思い出となるような取柄もなく過ごしてきた自分のような人間が、(講談社)
世の人の忌むといひはべる咎をも、かならずわたりはべりなむと憚られて   月は様々の思いを誘うので、月を見ることを忌む習わしがあった。その習わしに従わなければ物思いするという過ちを犯すのである。
月やいにしへほめてけむと、見えたるありさまを、もよほすやうにはべるべし、   「月やいにしへほめてけむ」「月やいにしへはめでけむ」ふたつある。/ 月を昔の人は賞美したろうか、老いるのをきらって賞美しなかったと、月が以前からわが身の老いを感じさせている様子を表すことになるのであろう、の意。「おほかたは月をもめでじこれぞこのつもれば人の老いとなるもの」(『古今集』雑上、 在原業平)による表現。「いにしへはめでけむ」は諸本「いにしへほめてけむとあるが「ほ」は「は」の誤写と考えた。(新潮)
2.2.1 ある解釈   「いとど、月やいにしへほめてけむと、見えたるありさまを、もよほすやうにはべるべし、世の人の忌むといひはべる咎をも・・・」の解釈がよくわからなかったので比べて考えた。
①「あの月が昔の盛りのわが身をほめてくれた月だったのだろうかと、まるで眼前の光景を誘いおこすように思われます。世間の人が忌むといいましす鳥もきっと渡ってくるだろうと憚られて、思わず奥の方へひっこんで、いるものの・・・」あの月が昔の盛りのわが身をほめてくれた月だったのだろうかと、現在の落胆の身を顧みて嘆いた歌があったと思われる。(小学館)
②「月を昔は賞美していたのだろうかと、照らし出されたわが姿をそのように思わせるのでしょう、世間の人が忌むと言います非難にも、かならず当てはまりましょうと憚られて、・・・」(渋谷)
③ 「以前にもまして、この月をかって自分は賞美したのだろうかと(思われ)、今の(老いたわが身の)有様を目立つように仕向ける感じがしますし、世間の人が忌み避けると言います(月を見る)咎にも、・・・」この月をかって自分は賞美したのだろうかと思われ、の意と解する。(講談社)
④「月やいにしへほめてけむと」と渋谷原文にあるのは、「月やいにしへはめでけむ」の誤写だろうと思う。加えて、在原業平の歌「おほかたは月をもめでじこれぞこのつもれば人の老いとなるもの」(『古今集』雑上、 在原業平)が背景にあるのだろう。(新潮)
(管理人の解釈)昔の人はもっと月を愛でたろうか、いやそうではない老いを怖れて賞美しなかったろう、月はわが身の老いを照らすばかりだ。・・・管理人
ことにいとしも、もののかたがた得たる人はかたし   特にあれもこれもすぐれている人はそんなにいるものではない。「いとしも」は打ち消しの語と呼応して、それほどは、の意。ここは「かたし」にかかっている。
それ、心よりほかのわが面影を恥づと見れど   本心とは違う自分の余所()向けの表情を我ながら恥ずかしいとは思うが、「それ」次のことを言い出す発語。そもそも、いったい。
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ほけ痴れたる人にいとどなり果ててはべれば   人前では、ぼけた人間になっているので。「ほけ痴る」は、ぼけて愚かになる意。
えさらずさし向かひまじりゐたることだにあり   避けられずに、一緒に差し向かい座っていたこともある。
しかじかさへもどかれじと、恥づかしきにはあらねど、むつかしと思ひて   「しかじかさへもどかれじと」これこれこうだとまで非難されないようにしよう、と別に気おくれするわけではないが、弁解するのも面倒なので。
くせぐせしくやさしだち、恥ぢられたてまつる人にも、そばめたてられではべらまし   個性的で上品で「恥じられたてまつる人」は、恥じる人が恥じられる人より身分が高い関係にある。ここの場合、恥じる人は中宮と思われるから、「恥じられたてまつる人は」中宮に一目おかれていた上臈の女房たちのことであろう/ ついいつも恥ずかしくお思い申し上げている方。中宮以外で「たてまつる」を用いる人だから、大納言の君、宰相の君、宣旨の君等か。「やさし」優美だ上品だ、気がひける。
われはと、くすしくならひもち、けしきことごとしくなりぬる人は///   「われは」自分は人と違う、と振舞うことになれ、気どった態度をとるのが癖になっている人は。「くすしく」久しく。「ならひもち」習慣になる。「けしきことごとしくなりぬる人」態度が大げさで仰々しい人。
なげの情けつくらまほしうはべり   「なげの情」心のこもらない、かりそめの好意。お世辞の好意でも示したくなる。
なほつらき人はつらかりぬべし   自分に薄情な仕打ちをする人は、やはりこちらも薄情となるであろう。
左衛門の内侍といふ人はべり   内裏の女房。掌侍橘隆子かといわれるが未詳。
この式部の丞といふ人   藤原惟規。紫式部の弟と考えられる。寛弘五年十二月三十日には蔵人で兵部丞であったらしい。いつ式部丞になったかは明らかではない。
いかに、今は言忌みしはべらじ   「いかに」ほんとに、さあ、感動詞で人に呼びかける。いまはもう遠慮いたしますまい。「言忌み」は不吉なことを言うのを慎む。
人、と言ふとも、かく言ふとも   人が何といおうとも。他人がとやかくいったとしても。
雲に乗らぬほどのたゆたふべきやうなむはべるべかなる   雲に乗るまでは気持ちがぐらつくことがありそうです。聖衆来迎の雲に乗らないうちは、「雲に乗る」は、臨終のとき、阿弥陀仏や緒菩薩が迎えに来る折に乗ってくる雲に乗ること。
心もいとどたゆさまさりはべらむものを   怠け心もまさってくる。
御文にえ書き続けはべらぬこと   この消息の受け手(作者の日頃書いている手紙。ただし、その消息は、日記体では書けないことを消息体によって書いた虚構であり、消息の受け手は架空と考えられる)(新潮)/ お手紙・「このついでに」(第四六節)以下前節(第五四節)までを誰かにあてた手紙と位置づけた上での言い方。このサイトの章分けからいうと、 2.1.1 【一 宰相の君、小少将の君、宮の内侍、式部のおもとの批評】「このついでに、人の容貌を語りきこえさせば・・・」から、2.2.5 【五 求道への思いと逡巡】「いかに、今は言忌みしはべらじ。・・・」までを言う。(講談社)/ 以下は手紙の末に添え書きをした体裁をとったもの。「御文」はこちらから先方へ送る手紙。「このついでに」以下の叙述をさす。(小学館)/ 2.1.1~2.2.5までが消息文の形式か。2.2.6が手紙の最後の部分か。(管理人)
こと悪ろきかたにははべらず   手許不如意のためではない。
御覧じては疾うたまはらむ   御覧になったら、これは早く返してください。あちこちわたしも読めないところや、字の脱けたところがあるでしょう。そんな処は飛ばしてください。
2.2.6 消息文解説   消息文とは、このサイトで第二部2.2.1~2.2.6までの範囲を言う、いわゆる友人に宛てた手紙の形式をとっているのでそう呼んでいるのだろう。・・・管理人
(新潮社の解説)この日記のいわゆる消息文のむすびで(ここの箇所「御覧じては・・・」)いかにも特別の消息文の私信らしい結びである。今はひたすら誦経の生活に入りたいと思いながらも、反面、世間の評判をひどく気にし続けている自分の、この世への執着の深さを思い知り、嘆かわしく思うと自省するところはまことに紫式部らしい。(新潮)・・・これは何を言いたいのか、きちんとした意見になっていない。
(講談社文庫の解説) 「このついでに」(このサイトの2.1.1)以下、「よろずにつけてぞ悲しくはべる」と結ぶ前節(このサイト2.2.5)までを、誰かにあてた手紙と位置付けた上での、結分の体裁をとっている。通常の手紙には到底書くことのできないような赤裸々なことを、この手紙には書いておきたいと思って書いた。それだけに世間に漏れては大変なので、読んだらすぐにお返し願いたいとも記す。すこぶる迫真に富んだ表現となっている。この部分ははやくから、消息文のざん入(誤ってまぎれこむこと)であるとみる説(木村架空『評釈紫女手簡』明治32年)があり、消息(手簡)の宛てられた先は誰かということがかかわりつつ、現在に尾を引いている。が、昭和30年代、秋山虔氏が諸説に詳細な吟味を加えたうえで出された、「消息文としてかかれたと見るよりは消息文という形式によってかかれたといえるのではないか」(『大系』)という見解は示唆に富み、その後、検討が加えられつつ、「積極的に書簡体仮託という結論へ踏み切るべきもの」(『新釈』)との支持なども得て、一つの方向を決定づけて今日に及んでいる。確かに、日記体部分から「このついでに」への滑らかな接続、以下における発展的な進行と整然とした構成をみると、無関係な手紙文が不用意に紛れ込んだとは考えられず、むしろ意図的な叙述の展開の結果と判断されるのである。それゆえ、手紙の宛先は誰であるかの詮議も、所詮は不用にして無益なものとなる。あるいは、反古紙の不足などという状況も、それ自体がほとんど虚構なのであろう。多用され、漸増の傾向を示す「はべり」は、次第に鋭く、しかも辛辣になっていく、批判の筆鋒を表面的に和らげ、緩衝のために、すすんで採り用いた手段であったのであろう。そして、結びとしての本設は、その総まとめとして、以上の文章がある人に宛てた手紙文であったことを明確にしてみせ、装いの仕上げをしたというわけなのであろう。(講談社)
(小学館の解説)189頁の「このついでに」(このサイトの2.1.1)以下、ここまでが(「何せむとにかはべらむ」)いわゆる消息文といわれている部分である。しかしこの部分は実際に誰かにあてた消息と見るよりも、式部が率直な心情を吐露するためにあえてそのような体裁を借用した方法じょうの虚構と見るべきであろう。日記が単なる記録ではなく、文学たりうるゆえんである。(小学館)
(管理人の意見)消息文説の主旨は、誰か親しい人にあてた消息文の形式をとってぃるが、それは形式としてもちいたもので、実際の文のやりとりではないだろうというものである。実際の手紙ととってはどうしていけないのだろう。わたしは仲のよい同僚の女房に宛てた実際の手紙として、読んだら面白いだろうと思っている。とりあえず思いつく相手は、小少将の君だろうか。・・・管理人
かく世の人ごとの上を思ひ思ひ、果てにとぢめはべれば   このように、世間の評判を気にしながら、この手紙をしめくくるのですから。
身を思ひ捨てぬ心の   わが身を捨てきれないこの世に対する未練な心が何と深いのでしょう。
二十二日の暁、御堂へ渡らせたまふ   唐突に出てくる。この「十一日の暁」が、いったいいつのことなのかをめぐって、諸説が展開されている。舟遊びが行われる季節、月の出の時期との関係、仏事・法会の内容等々の検討、考証から、寛弘五年五月二十二日の記事と結論づける『全註釈』の説を受けて、同年同日に土御門殿で行われた法華三十講結願の日の断簡(『集成』『新大系』)とする方向に傾いている。  /年月については諸説あるが、行事及び月の出の時刻からして、寛弘五年五月二十二日土御門殿で行われた法華三十講結願の記事で、断簡と考えられる。「十一」は「廿二」のあやまりだろう。新潮の原文では「十一日の暁」とあり。
白印塔   未詳。
徐福文成誑誕じょふくぶんせいきょうたん多し   『白氏文集』巻三、新学府の中の、天子が不死の薬を求めるのを戒めた「海漫漫」という詩に、「童男丱女宣舟中老。徐福文成多誑誕」による。詩では蓬莱山に向かいながら蓬莱山を見ずに若い男女が舟中で老いたというのだが、ここは大蔵卿が舟中で自分の老いを嘆いているのかと見たてたもの。『白氏文集』の一句を踏まえて式部が発した句を受けて、即座に中宮大夫斉信<が唱和して吟唱したもの。「誑誕」はでたらめ、人をあざむく言葉。
渡殿に寝たる夜、   寛弘五年六月頃、土御門殿でのことと考えられる。七月十六日に中宮がお産のため土御門殿に退出して以後の作者の局は、寝殿と東の対との間の渡殿にあった。
3.2.2解説 渡殿に寝た夜のこと   ところで、中宮の御前にある『源氏物語』が土御門殿滞在中に、中宮の指示のもとで紫式部が中心となって書写・造本し、内裏還啓時に持参されたものであるとすると、この記事の年時は、翌寛弘六年の夏のこことなろう。梅の実が、酸味を求める懐妊中の中宮の食用であったとみられることから、敦成あつひら親王懐妊中の寛弘五年の夏を想定する考察も多いが、寛弘ロ六年の夏もまた、中宮は同年十一月二十五日誕生の敦良あつひら親王を懐妊中であって、同様の状況が考えられ、上述のことは妨げとはならない。なお、『尊卑分脈』(南北朝期成立の諸家系図)には、紫式部について「御堂関白道しょう云々」と記されている。が、この贈答歌にみられるようなことが背景となって産み出された、付会ふかい(こじつけ)に基づく俗説であろう。(『紫式部日記全訳注』講談社文庫 宮崎荘平)
御戴餅   正月、小児の頭上に餅をのせて祝言する儀式。
宮の大饗   中宮の大饗。正月二日に中宮が親王・公卿以下の殿上人に賜る宴。公式に招待したものではないので「臨時客」という。
臨時客   招待をせずに年始に来客者をもてなす饗宴。
野べに小松のなかりせば   子の日の遊びをする野辺に小松がなかったら。「子の日する野辺に小松のなかりせば千代のためしになにをひかまし」(『拾遺集』 春、みぶのただみね)により、若宮たちを小松になぞらえたもの。
中務の乳母   中宮の女房。中務少輔源致時の女で、敦良親王の乳母の隆子。
初子の日   /「初子」は正月最初の子の日。この日には、野に出て小松根引きぶし、若菜を摘み、長寿を祝う。この初子にちなんだ歌を詠めと言われたのである。
小少将の君   源時通の女。倫子の姪で中宮の上臈女房。道長の召人(妾)。
かたみに知らぬ人も語らはば   お互いが内緒にしていて知らない男もあるだろう。そんな男が来たらどうするのだ。/
二の宮   敦良(あつなが)親王。一条天皇の皇子としては、第三皇子であるが、中宮彰子所生の皇子としては。敦成(あつひら)親王に次ぐ二番目の皇子であるため、このように呼称されたものとみられる。
桜の織物の袿   [ 「桜は」襲の色目で、表白、裏は紫、二藍、赤など諸説ある。ここの「袿」は表着であろう。
紅梅に萌黄   紅梅襲(表紅、裏紫)にの袿に萌黄襲(表裏共萌黄)の表着。
柳の唐衣   柳襲のこと。表白、裏青。
いと宮の御まかなひ   弟宮のお給仕は、
上達部。左、右、内の大臣殿   左大臣は藤原道長、右大臣は藤原顕光、内大臣は藤原公季、春宮傳は藤原道綱、中宮大夫は藤原斉信、四条大納言は藤原公任。
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公開日2024年//月//日