はじめに
このサイトはパスカルの『パンセ』のなかから、私の気に入ったものまた真実を伝えていると思われる章句を
集めたものである。テキストは『パスカル パンセTU』(前田陽一/由木康訳 中央公論新社中公クラシックス
2007年8月20日5版、この本の底本はブランシュヴィック版)。凡例の説明より、「< >内は、パスカルがフランス語
以外で記した語句を示し、とくに注記したもの以外は、すべてラテン語で記されている。また[ ]内は、
いったん書かれた後で、パスカル自身が線を引いて抹消した部分である」
ブレーズ・パスカル(1623年-1662年)は、いろいろなことを実によく考え、そして鋭いのである。
王位のこと、また民衆のこと、法律や正義や習慣のこと、さらに世間全般の諸々の事象について、
なかんずく、人間について、人間の生きている状態について、その多面的な観察と透徹した現状認識、また
その理性や心情のこと、そして神に対する信仰のこと、などなど対象は尽きることがない。
加えて稀有の文章家である。それらを適切な表現で描き出し、浮き彫りにする。話題は多岐にわたり、
文章には無駄がない。論理的で、したがって逆説的でもあるが、どの話も洞察に富んでいる。
実に面白いのである。おそらく若い頃読んだのでは、その面白さは分からなかったであろうと思われる。
『パンセ』の正式な書名は、『死後、書類の中から見出された、宗教及び他の若干の主題に関する
パスカル氏のパンセ』という長いものであり、1670年出版された初版には「事業は中断されたままである」という題辞が
添えられていたそうである。パスカルはある著作を計画しており、『パンセ』はその準備ノートを
編集した遺稿集であり、研究者の間では、その著作は「キリスト教護教論」
とか「キリスト教の弁明」とか書名もつけられているようです。未完に終わったことはパスカルの本意
ではなかったかも知れないが、かえって断章の集積にこそパスカルの意図は鮮やかに伝わってくる
ようにも思えます。というのも、パスカルの人間の位置付けは無限と無の間にあり、
定めなきものであり、決して何らかの全体を占めることはできないからである。
人間の存在そのものが断片であり、そこから全体を志向することができるだけであってみれば、
断章の集積こそパスカルの思想表現にふさわしいようにも思われる。パスカル自身もこう書いている。
「(373)私はここに私の考えを無秩序に、しかもおそらく無計画な混乱ではないように、書き記そうと思う。
それが真の秩序であって、その無秩序さそのものによって私の目的を常に特徴づけてくれるだろう」
パスカルは説得力がある。誰もが容易にパスカルに説得されてしまう、と少なくとも私には思えるのだが、
パスカルが説得に失敗した領域が一つだけある。神の存在と神への信仰である。これは説得に適さない
のであろう。恩寵(本書の訳語は「恩恵」)−神からの啓示−なくして神への信仰はなく、恩寵は体験して初めて知るものだからである。
あれほどのパスカルの熱意にもかかわらず、ほかのすべての面でパスカルに説得されても、多くの読者は
神からは取り残されたままであろうと思う。・・・
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