第一章 精神と文体とに関する思想
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幾何学の精神と繊細の精神との違い。
前者においては、原理は手でさわれるように明らかであるが、しかし通常の使用から離れている。
したがってそのほうへはあたまを向けにくい。慣れていないからである。しかし少しでもそのほうへ
あたまを向ければ、原理はくまなく見える。それで歪みきった精神の持ち主ででもないかぎり、みのがす
ことがほとんど不可能なほどに粒の粗いそれら原理に基づいて、推理を誤ることはない。
ところが繊細の精神においては、原理は通常使用されており、皆の目の前にある。あたまを向ける
までもないし、無理をする必要もない。ただ問題は、よい目を持つことであり、そのかわり、これこそは
よくなければならない。というのは、このほうの原理はきわめて微妙であり、多数なので、何も見のがさない
とうことがほとんど不可能なくらいだからである。ところで、原理を一つでも見落とせば、誤りにおちいる。
だから、あらゆる原理を見るために、よく澄んだ目を持たなければならず、次に、知りえた原理に基づいて
推理を誤らないために、ただしい精神を持たなければならない。
すべての幾何学者は、もし彼らがよい目を持っていたなら、繊細になれただろう。彼らは自分の知って
いる原理に基づいては、推理を誤らないからである。また繊細な精神の人々は、慣れない幾何学の原理のほうへ
目をやることができたなら、幾何学者になれただろう。
したがって、ある種の繊細な精神の人々が幾何学者でないのは、彼らが幾何学の原理のほうへ
向くことが全くできないからである。ところが幾何学者が繊細でないのは、彼らがその前にあるものを見ない
からであり、また彼らが幾何学のはっきりした粗い原理に慣れていて、それらの原理をよく見て、手にとった
のちでなければ推理しない習慣なので、原理をそのように手にとらせない繊細な事物にぶつかると途方に
暮れてしまうのである。このほうの原理はほとんど目に見えない。それらは、見えるというよりむしろ
感じられるものである。それらを自分で感じない人々を感じさせるには、際限のない苦労がいる。それらの
事物は、あまりにも微妙であり、多数なので、それらを感じ、その感じに従って正しく公平に判断する
ためには、きわめて微妙で、きわめてはっきりした感覚が必要である。その際には、たいていの場合、
幾何学におけるように秩序立ってそれらを証明することができないのである。というのは、人はそれらの原理を
同じ具合には所有していないし、そのようなことを企てたとしても際限のないことだからである。
問題のものを、すくなくともある程度までは、推理の運びによってではなく、一遍で一目で見なければならない
のである。そういうわけで、幾何学者が繊細で、繊細な人が幾何学者であるのは珍しい。なぜなら、幾何学者は
それらの繊細は事物までも幾何学的に取り扱おうとするからである。そして、まず定義から、ついで原理から
始めようとして、物笑いになる。それはこの種の推理の際のやり方ではない。といっても、精神が推理をしない
というわけではない。ただ、精神はだまって、自然に、たくまずにするのである。なぜなら、それを表現する
のは、すべての人の力を超えており、それを感じるのは、少数の人だけに限られているからである。
繊細な精神の人々は、それに反して、こうして一目で判断するのに慣れているので、彼らには何も
わからない命題が提出され、そこへはいっていくためにあまりに無味乾燥でそんなに詳しく見る癖がついていない
ような定義や原理を経なければならないとなると、驚きのあまり、おじけづき、いやになってしまう。
しかし、歪んだ精神の持ち主は、決して繊細でも、幾何学者でもない。
そこで、幾何学者でしかない幾何学者は、万事が定理や原理によってよく説明されるかぎり、正しい精神
を持っている。さもなければ、彼らは歪んでいて、鼻持ちならない。なぜなら、彼らが正しいのは、よく明らかに
された原理に基づく場合だけだからである。
また繊細でしかない繊細な人々には、彼らが、世間で一度も見たことがなく、また全く使用されていない
ような思弁的、観念的なことがらの第一原理にまでさかのぼっていくだけの忍耐力を持てないのである。
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