第十二章 イエス・キリストの証拠
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身体から精神への無限の距離は、精神から愛への無限大に無限な距離を表徴する。なぜなら、愛は超自然であるから。
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この世の偉大のあらゆる光輝は、精神の探求にたずさわる人々には光彩を失う。
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精神的な人々の偉大は、王や富者や将軍やすべて肉において偉大な人々には見えない。
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神から来るのでなければ無に等しい知恵の偉大は、肉的な人々にも精神的な人々にも見えない。これらは類をことにする
三つの秩序である。
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偉大な天才たちは、彼らの威力、彼らの光輝、彼らの偉大、彼らの勝利、彼らの光彩を持ち、肉的な偉大を少しも必要
としない。彼らの偉大は、肉的な偉大と何の関係もない。彼らは目では見えないが、精神で見える。それで十分なのだ。
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アルキメデス(1)は、この世の光輝はなくても、同じように尊敬されたであろう。
彼は目に見える戦争はしなかった。だが、すべての精神的な人々に、彼の発明を提供した。ああ、彼は精神的な人々に対して
いかに光輝を放ったことか。
——
イエス・キりストは、財産もなく、学問の対外的な業績もなく、その清浄な秩序のなかにおられる。彼は発明も授けず、
支配もしなかった。だが、謙虚で忍耐づよく、清浄で、神に対しては清く、悪魔に対しては恐るべく、少しの罪もなかった。
ああ、知恵を見る心情の目を持つ人々にとって、彼はいかに偉大な壮麗とすばらしい豪華とをもって来臨されたことであろう。
——
アルキメデスにとっては、その幾何学の書物のなかで王公のようにふるまうことは、よし彼が王公(2)
であったとしても、無用であったろう。
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われわれの主イエス・キリストにとっても、その清浄な世界において照り輝くために、王として来臨することは無用であった
であろう。だが、彼は彼の秩序にふさわしい光輝をもって、そこに来られたのだ。
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イエス・キリストの卑賤を、彼が来臨して現そうとされた偉大と同じ秩序のものであるかのように考えて、つまづくのは、
笑うべきことである。
この偉大を、彼の生涯、彼の苦難、彼の微賎、彼の死、弟子たちの選定、彼らからの置き去り、彼のひそかな復活などの
うちに見るがよい。人はそれがいかに偉大であるかを知り、そこにありもしない卑賤をつまずきの種にするようなことは
あるまい。
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しかし、世には肉的な偉大にのみ感心して、精神的な偉大などはないかのように思っている人々があり、また精神的な
偉大にのみ感心して、知恵のうちにさらに無限に高いものはないかのように、思っている人々がある。
——
あらゆる物体、すなわち大空、大地、その王国などは、精神の最も小さいものにもおよばない。なぜなら、精神は
それらのすべてと自身とを認識するが、物体は何も認識しないからである。
——
あらゆる物体の総和も、あらゆる精神の総和も、またそれらすべての業績も、愛の最も小さい動作にもおよばない。
これは無限に高い秩序に属するものである。
——
あらゆる物体の総和からも、小さな思考を発生させることはできない。それは不可能であり、ほかの秩序に属する
ものである。あらゆる物体と精神とから、人は真の愛の一動作をも引き出すことはできない。それは不可能であり、
ほかの超自然的な秩序に属するものである。
(1)(紀元前287−212)。シラクサに生まれた幾何学者・物理学者。「アルキメデスの原理」をはじめとして
多くの発明発見をしたが、ローマ軍がシラクサを占領したとき、殺害された。
(2)アルキメデスは王族であったと、プルタルコスは言っているけれども、キケロは彼を素性の知れない
人であったししるしている。
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