第四章 信仰の手段について
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われわれが真理を知るのは、推理によるだけでなく、また心情によってである。われわれが第一原理
を知るのは、後者によるのである。それに少しも関与しない理性が、それらの原理と戦おうとしてもむだである。
このことを唯一の目的としている懐疑論者たちは、無益に労しているのである。われわれは夢を見ている
のではないということを知っている。それを理性によって証明することについてわれわれがどんなに無能力
であろうとも、この無能力は、ただわれわれの理性の弱さを結論するだけであって、彼らの言い張るように、
われわれのすべての認識の不確実を結論するものではない。なぜなら、空間、時間、運動、数が存在する
というような第一原理の認識は、推理がわれわれに与えるどんな認識にも劣らず堅固なものだからである。
そして、これらの心情と本能とによる認識の上にこそ理性は、よりかからなければならないのであり、
理性のすべての論議はその基礎の上に立てられなければならないのである。心情は空間に三次元あり、数は
無限であるということを直感する。そして理性は、その次に、一方が他の二倍になるような二つの平方数は
存在しないということを論証する。原理は直感され、命題は結論される。そして、違った方法ではあるが、
すべて確実に行われるのである。それで、理性が心情に向かって、その第一原理を承認したいから、それを
証明してほしいと要求するのは、心情が理性に対して、その証明するすべての命題を受け入れたいから、
それを直感させてほしいと要求するのと同じように無益であり、滑稽である。
だから、この無能力は、すべてを判断しようとする理性をへりくだらせるのに役立つだけであって、
まるでわれわれを教えることができるのは理性だけであるかのように考えて、われわれの確実さとわたりあう
ことには役立たないのである。むしろ反対に、理性などの必要は少しもなく、すべてのことを本能と直感
とによって知ることができたら、どんなによかっただろう。だが自然はわれわれに、この賜物を拒んだ。
それに反して、このような認識はほんのわずかしか与えてくれなかった。他のすべての認識は推理に
よらなければ獲得できないのである。
それだから、神から心情の直感によって宗教を与えられた者は、非常に幸運であり、また正当に
納得させられているのである。だが、宗教を持たない人たちに対しては、われわれは推理によってしか
与えることができない。それも、神が彼らに心情の直感によってお与えになるのを待っているあいだ
のことなのであって、このことがなければ信仰は、人間的なものであるにとどまり、魂の救いのためには
無益である。
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