第ニ章 神なき人間の惨めさ
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気を紛らすこと(1)。
人間のさまざまな立ち騒ぎ、宮廷や戦争で身をさらす危険や苦労、そこから生ずるかくも多くの
争いや、情念や、大胆でしばしばよこしまな企て等々について、ときたま考えた時に、私がよく言ったことは、
人間の不幸はすべてただ一つのこと、すなわち、部屋の中に静かにとどまっていられないことに由来する
のだということである。生きるために十分な財産を持つ人なら、もし彼が自分の家に喜んでとどまっていられさ
えすれば、なにも海や、要塞の包囲戦に出かけて行きはしないだろう。軍職をあんなに高い金を払って買うのも、
町にじっとしているのがたまらないというだけのことからである。社交や賭事の気ばらしを求めるのも、
自分の家に喜んでとどまっていられないというだけのことからである。等々。
ところが、もっと突っこんで考え、われわれのあらゆる不幸の原因を見つけただけでなく、その理由を
発見しようとしたところ、私は、まさに有効な理由が一つあることを発見した。それは、弱く、死すべく、
そして、われわれがもっと突っこんで考えるときには、われわれを慰めてくれるものは何もないほどに惨めな、
われわれの状態の、本来の不幸のうちに存するものである。
どんな身分を想像したとしても、われわれのものとなしうるあらゆる利益を集めてみても、王位こそ、
この世で最もすばらしい地位である。ところで、国王が彼の受けるあらゆる満足にとりかこまれているところを
想像してみるといい。もし彼が気を紛らすことなしでおり、そして自分というものが何であるかを
しみじみと考えるままにしておくならば、そのような活気のない幸福は、彼の支えとはならないだろう。
彼は、起こりうる反乱や、ついには避けえない病や死など、彼を脅かす物思いに必然的におちいるだろう。
したがって、もし彼が、いわゆる気を紛らすことなしでいるならば、彼はたちまち不幸になる。賭事をしたり、
気を紛らすことのできる彼の臣下のはしくれよりも、もっと不幸になってしまう。
ここから、賭け、女性たちとの話、戦争、栄職などがあんなに求められることになるのである。
そういうものに実際に幸福があるというわけではなく、また真の幸福は、賭事でもうける金とか、狩りで
追いかける兎を得ることにあると思っているわけでもない。そんなものは、それをやろうと言われても
欲しくないだろう。人が求めるのは、われわれがわれわれの不幸な状態について考えるままにさせるような、
そんなのんびりした、おだやかなややり方ではないからである。また、戦争の危険でも、職務上の苦労
でもない。そうではなく、われわれの不幸な状態から、われわれの思いをそらし、気を紛らせてくれる
騒ぎを求めているのである。
獲物をつかまえることよりも、狩りのほうが好まれる理由(2)。
ここから人間は、騒ぎや、動きを好むことになり、ここから牢獄は、あんなに恐るべき刑罰になり、
ここから孤独の楽しさは、不可解なものになるのである。そして、王たちの身分が幸福である最大の理由は、
要するにそこにあるのであって、それは人々が絶えず彼らの気を紛らし、彼らにあらゆる種類の楽しみを与えよう
と試みるところにあるのである。
国王は、彼の気を紛らし、彼が自分というものについて考えないようにすることばかりしか考えない
人たちによって、とりまかれている。なぜなら、そういうことを考えれば、いくら王であっても、不幸である
からである。
以上が、人間が自分を幸福にするために考案できたすべてである。そして、この点について哲学者ぶり、
買ったのでは欲しくもない兎を追いかけて一日中過す世間の人たちを、不合理だと考える者は、われわれの
本性を、ほとんど知らないのである。この兎は、そういうものからわれわれを遠のかせる、死や悲惨を見ることから
われわれを守ってくれないが、狩りは死や悲惨を見ることからわれわれを守ってくれる。それだから、多くの苦労
を重ねた上で得ようとした休息を、ただちに求めるようにと言う、ピュロスに対する忠告は、大きな困難に
ぶつかった(3)。
[ある人に向かって、静かに暮らすようにと言うことは、彼が幸福に暮らすようにと言うことである。
それは、彼がじっくりと考えても、悩みの種が見いだされないように全く幸福な状態を持つようにすすめる
ことである。したがってそれは、人間の本性をわきまえない者の言うことである。
だから、自分の状態を自然のまま感じている人たちは、じっとしていることを何より避け、騒ぎを
求めるためには何でもやろうとするのである。とはいえ、彼らにも、真の幸福は、・・・ことを知らせる
本能が欠けているというわけではない・・・]
むなしさ。こういうことを他人に示す喜び(4)。
[だから、彼らを責めるにもその責め方がまちがっているのである。彼らのあやまちは、彼らが激動
を求めるということにあるのではない、それを気を紛らすこととして求めてさえいるならば。ところが、
悪いのは、彼らの探求しているものの所有が彼らを本当に幸福にするはずであるかのように、それを求めている
ことである。この点で、彼らの探求がむなしいものであると非難するのは正しい。これらすべてについて、
責めるほうも、責められるほうも、人間の真の本性を理解していないのである]それで、彼らに対して、
彼らがこんなに熱心に求めているものも、彼らを満足させることはできないだろうと言って非難した場合に、
もしも彼らが、(よく考えれば、そう答えるべきであるように)彼らがここでさがし求めているのは、
自分自身について考えることから彼らを遠ざけるような強烈で激しい仕事なのであって、それだからこそ、
彼らを魅了し、熱烈に引きよせるような魅惑的な対象を見立てているのであると答えたならば、彼らの敵方は、
返す言葉に窮したであろう。ところが、彼らはそうは答えないのである。なぜなら、彼らは自分自身を
知っていないからである。彼らは、自分らがさがし求めているのは、狩りだけなのであって、獲物をとらえる
ことではないということをわきまえないのである。
ダンス。どこへ足を置くのか、よく考えなければならない(5)。
貴族は、狩りを偉大な快楽、王者の快楽であると本気で思っているが、彼の猟犬係りはそんな考えを
持ってはいない(6)。
彼らは、もしあの職を得たら、それから先は喜んで休息することだろうと思いこんでいる。そして
彼らの欲望の飽くことのない本性を感知していない。彼らは、本気で安息を求めているものと信じている。
ところが実際には、騒ぎしか求めていないのである。
彼らには、気ばらしと仕事とを外に求めさす、一つのひそかな本能があり、それは彼らの絶えざる
惨めさの意識から生じるものである。彼らにはまた、われわれの最初の本能の偉大さのなごりであるいま一つの
ひそかな本能があり、それが彼らに対して、幸福は事実安息のうちにしかないのであって、激動のなかにはない
ということを知らせているのである。そして、これらの相反する二つの本能から、彼らのうちに一つの
漠然とした企てが形成される。それは、彼らの魂の奥底にあって、彼らの目には隠されているが、
立ち騒ぐことによって安息へと向かうように彼らをしむけるものである。そして、もしも彼らが当面する
いくつかの困難を乗り越え、それによって安息への門を開くことができたあかつきには、現在彼らにはない
満足が、彼らのところにくるだろうと思いこませるのである。
このようにして一生が流れていく。人は、いくつかの障害と戦うことによって安息を求める。そして、
もしそれらを乗り越えると、安息は、それを生みだす倦怠のために堪えがたくなるので、そこから出て、
激動を請い求めなければならなくなる。なぜなら、人はいまある悲惨のことを考えるか、われわれを脅かしている
悲惨のことを考えるかのどちらかであるからである。そして、かりにあらゆる方面に対して十分保護されている
ように見えたところで、倦怠が自分かってに、それが自然に根を張っている心の底から出てきて、その毒で
精神を満たさないではおかないであろう。
このように、人間というものは、倦怠の理由が何もない時でさえ、自分の気質の本来の状態によって
倦怠に陥ってしまうほど、不幸な者である。しかも、倦怠に陥るべき無数の本質的原因に満ちているのに、
玉突きとか彼の打つ球とかいったつまらないものでも、十分気を紛らすことのできるほどむなしいものである。
だが、いったい何が目的でこんなことをするのだと、君は言うだろう。それは、翌日友人たちのあいだで、
自分はだれそれよりも上手にプレーしたと自慢したいためなのだ。同じように、他の人たちは、それまで
だれも解けなかった代数の問題を解いたということを学者たちに示したいために書斎の中で汗を流す。
そしてまた、あんなに他の人たちが、あとで彼らが占領した要塞について自慢したいために極度の危険に
身をさらす。それも私に言わせれば、同じように愚かなことである。そして最後に、他の人たちは、
これらのこと全部を指摘するために身を粉にするのである。これも、そうすることによってもっと賢くなる
ためではなく、ただ単にこれらのことを知っているぞということを示すためである。この人たちこそ、
この連中のなかで最も愚かな者である。なぜなら、彼らは愚かであることを知りながらそうなっている
のに反して、前の人たちについては、もしもそのことを知っていたなら、もはや愚か者とはなっていないだろう
ということが考えられるからである。
ある男は、毎日わずかの賭事をして、退屈しないで日を過している。賭事をやらないという条件つきで、
毎朝、彼が一日にもうけられる分だけの金を彼にやってみたまえ。そうすれば、君は彼を不幸にすることになる。
彼が追求しているのは、賭事の楽しみなのであって、もうけではないと、人はおそらく言うだろう。それなら、
彼にただで賭事をやらしてみたまえ。そうすれば彼は熱中しなくなり、そんなものは退屈してしまうだろう。
したがって、彼が追求しているものは、単なる楽しみだけではないのである。活気のない、熱のはいらない
楽しみなどは彼を退屈させるだろう。熱中することが必要で、また賭事をやらないという条件つきで
人がくれても欲しくないものを、それをもうければ幸福になると思いこんで、自分をだます必要があるのである。
それは、情念の対象をみずから作るためであり、それから、あたかも子供たちが自分で塗りたくった顔を
こわがるように、みずから作った目的物に対して自分の欲望や、怒りや、恐れをかきたてるためである。
数ヶ月前、一人息子を失い、訴訟や争いごとで打ちひしがれ、つい今朝がたもあんなにくよくよしていた男が、
今ではもうそんなことを考えていないのは、どうしたわけだろう。驚くことはない。猟犬どもが六時間も前
からあんなに猛烈に追いかけている猪が、どこを通るだろうということを見るのですっかりいっぱいに
なっているのだ。それだけのことでいいのだ。人間というものは、どんなに悲しみで満ちていても、
もし人が彼を何か気を紛らすことへの引き込みに成功してくれさえすれば、そのあいだだけは幸福になれる
ものなのである。また、どんなに幸福だとしても、もし彼が気を紛らされ、倦怠が広がるのを妨げる
何かの情念や、楽しみによっていっぱいになっていなければ、やがて悲しくなり、不幸になるだろう。気ばらし
なしには、喜びはなく、気を紛らすことがあれば、悲しみはない。地位の高い人たちの幸福を成り立たせている
のもそれである。すなわち、彼らは気を紛らさせてくれる多くの人々を持ち、その状態にいつづけていることが
できるからである。
この点に注意したまえ。財務長官、大法官、高等法院長になるということは、朝から多数の人々が方々から
やってきて、一日のうち一時間でも、自分というものについて考える余裕を残してはくれないような地位にある
ことでなくて何であろう。そして彼らが寵を失って、田舎の家にもどるならば、たといそこで財産や
用をたしてくれる召使にこと欠かなくとも、惨めで、見捨てられた者となるのに変わりないであろう。
なぜなら、彼らが自分というものについて考えるのをだれも妨げてくれないからである。
[気を紛らすことは、世間の人々には、それがないと惨めになるほど、必要なものである。あるときには、
何か彼らに事故が起こるし、あるときには、彼らに起こりうるであろうもろもろの事故について考える。
あるいはまた、彼らがそういうことを考えずに、何の悲しみの種もないときに、倦怠が、自分かってに、
それが自然に根を張っている心の底から出てきて、その毒で精神を満たさないではおかないであろう]
(1)原語の「ディヴェルティスマン」は、「気ばらし」
「気をそらすこと」「娯楽」などとも訳されることがる。
(2)この一行は欄外に記されたもの。
(3)モンテーニュ『エセー』1の42の終わりに記されている、
紀元前三世紀のギリシャ西北のエピロスの王ピュロスのイタリア遠征計画に対する臣下の忠言をさす。
(4)この一行も欄外。
(5)同前。
(6)同前。
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