素粒子は粒子であるか
4 自己同一性をもたない「粒子」はあり得ないものではない
答えは「然り」である。こういう性質のものの例は、実はわれわれもすでによく知っているのである。もし諸君が
東京や大阪などの大都会におられるならば、私は諸君を新聞社の前に案内しよう。そこのビルディングの上に電光ニュースという
仕掛けがある。それは大きな板の上一面にたくさんの電球をギッシリと取付けた仕掛けである。その上をニュースの文字が電燈
の点滅によって右から左に流れていく。この装置を一つ諸君とともに
いじら して貰うことにしよう。
文字のような複雑なものは考えないで、この電球の一つを、例えば一〇〇ワットの電球で光らせよう。次にそれを消して、
ただちにその隣の電球を一〇〇ワットで点(つ)けよう。次にこれを消してまた隣の電球を一〇〇ワットで点けてみよう・・・
こういうことを、次々に行うと、明るさを変えない一〇〇ワットの光点が次々と板の上を動いていく。そのありさまは一定の
性質をもった一つの粒子が板の上を動いていくのと全く同じにみえる。同様のことを二つの電球を点火して行うことが出来る。
その時には、二つの光点が次々と板の上を動いていく。こういうふうにして板の上を幾つかの個数の光点を走らせることが出来る。
光点は一つあることもあり、二つあることもあるが、その数を一つ二つと数えることは可能である。その意味でこの光点は粒子に似た
性質をもっている。二つの光点がだんだんに近づいてきて重なり合う時には、そこの電球を二〇〇ワットで光らせるようしておこう。
そうすれば、それは、その場所に同時に、二つの粒子がやってきたのだと解釈することが出来る。この光点は一つ二つと数えられる
という意味で粒子に似ているが、明らかにこの光点のおのおのに名前をつけて区別することは出来ない。
第1図 電光ニュースの図
例えば第1図のような電光ニュースにおいて、AおよびBの電球から始まって矢で示したように光点が移動していったとしよう。
A、Bから出発した二つの光点はCで一度ぶつかり、次に再びわかれてDおよびEに行く。さてこの時、それではDに来た光点はもと
Aにあったのがやって来たのであろうか。それともBにあったのがやって来たのであろうかと問うてみる。ところでこのような質問が
何の意味もないものであることは明らかである。したがって、二つの光点が板の上を動いている時に、この二つの粒子のおのおのに
名前をつけて区別することは出来ない相談である。またもう一つの例を考えてみよう。すなわち例えば、AとBの二つの場所が光って
いると考える。この時、AとBの二つの場所を光らせる仕方に幾通りあるかを考えてみる。これは明らかに一通りしかない。
これに対し、二つの箇所AとBとに二つの米粒を置く仕方は二通りである。その理由は、前にも話したように、一つの仕方に対して、
その二つの米粒をいれかえたもう一つの仕方があったからである。しかしこのAとBとの二つの箇所の電球が点灯している時に
その光点を入れかえるなどということは出来ない。二つの箱に二つの光子を入れる仕方が一通りしかなかったのはこれと同じ事情
である。
M光子のように自己同一性がない粒子というものは、この電光ニュースの光点のようなものだと考えれば、その意味において
決して存在し得ないものではないということが、これで明らかになった。素粒子というのは、まさにこういうものなのである。
それは粒子であるといっても、電光ニュースの上の光の点のような意味のものである。実際、現在の素粒子の理論では、素粒子
をこういうものとして取扱う。
。
素粒子論において、電光板の役目をするものは、いわゆる場である。素粒子とは電光ニュース
の上に現れる光点のように、場に起こる状態の変化として現われるものである。この状態の変化を支配する法則は
場の方程式をいわれる数学の形で表される空間のなかにはいろいろな場が存在していて、そのおのおのの場にはそれぞれ異なった
素粒子が現われる。電磁場の現れとしては光子が、ディラックの場の現れとしては電子が、さらに湯川場の現われとしては
中間子が現われるのである。
5 素粒子が空間のどの点にいるかということは定められる
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