今月の言葉抄 2008年12月

素粒子は粒子であるか

3 素粒子のおのおのは自己同一性をもっていない

上述のように素粒子は粒子と似た性質をもっているけれども、しかし普通の粒子と全く同じ性質のものではない。すなわち 素粒子はその一つ一つが、自己同一性をもっていないという点で粒子と異なったものである。簡単のために、 米粒が二つあったとしよう。この時、米粒の各々を第一の米粒、第二の米粒と区別することが出来る。言い換えれば、 一方の米粒に、例えば一郎という名前をつけ、他方の米粒に次郎という名前をつけて、それらを互いに区別することが出来る。 そして、この米粒をどんなに雑(まぜ)くっても、一郎はいつも一郎であり、次郎はいつも次郎である。すなわち、 難しくいうとそれぞれの米粒が自己同一性をもっている。この時、おのおのの米粒は互いに似ていても、どこかに違いがある ものであるから、われわれがこの違いによって、一郎と次郎とを見失うことはない。この場合、考えの上では全く同一な 姿をもった米粒を考えることも出来る。その時は、双生児の名前を人が時々間違えるように、どちらが一郎で、どちらが 次郎であったか、わからなくなることもあるであろう。しかし、そういうことがあったにしろ、それはみる人に区別が わからないだけであって、実際には一郎はやはり一郎であり、次郎はやはり次郎である。こういう性質をもっているのが 通常の粒子である。こうして通常の粒子は一つ一つが自己同一性をもっている。ところで、今二個の光子をとってみる。 この時には事情が異なる。すなわちわれわれは二つの光子の一方が一郎であり、他の一方が次郎であるというふうな区別を することは、そもそもできないのである。素粒子というものは、物質構成の究極要素であり、同種類の粒子は、どの二つ をとっても互いに全く同一な瓜二つの性質をもっている。従って全く同一な姿をした双生児の場合と同じく、名前をつけても、 みる人に全く区別がつかないということが考えられる。しかも二つの素粒子においては、みる人に区別がつかないのみならず、 その区別を考えることが、原理的に出来ないのである。難しくいうと素粒子の一つ一つは、自己同一性をもっていないのである。
この事は実際実験的にも示される。それは素粒子の集まりの示す統計的な性質を調べてみればいい。この種の統計的 議論には確率論が用いられる。この確率の計算において、粒子が自己同一性をもつや否や、異なった答え与えるのである。 簡単な例として次のような問題を考えよう。二つの箱(それをA、Bと名づけよう)のなかに、 でたらめ・・・・ に二個の粒子を投げこむ実験を行ったとしよう。 こういう実験を何百回、何千回と繰り返した時、ある時には二つともの粒子が一方の箱、例えばAのなかに投げ られるだろうし、他の時には他の一方の箱Bに二つの粒子が入るだろう。しかして第三の場合にはおのおのの箱に一つずつ の粒子が入るだろう。この時、二つの粒子が二つともAの箱に落ちるのは、全体の回数の何文の一であるか。あるいは二つとも Bの箱に落ちるのは何分の一であろうか。ということは確率論の問題である。これを確率論では次のように計算する。すなわち それぞれの場合の実現の仕方が幾通りあるかということを計算し、それをあらゆる場合の実現の仕方の数で割って、おのおのの 場合の確率を計算する。今の簡単な例題においては、二つの粒子を二つともAの箱に入れる仕方は一通りであること、また二つの 粒子の二つともBの箱に入れる仕方も一通りであること、さらに二つの粒子が一つずつAとBに入る仕方は二通りあることに 注意する。この最後の場合が二通りであるというのは、一郎をAに入れ、次郎をBに入れるという仕方と、一郎と次郎とを 入れかえて、次郎をAに入れ、一郎をBに入れるという仕方と、合わせて二通りの仕方があるからである。こうして二つの粒子を 二つの箱に入れるあらゆる仕方の数は、一通りと一通りと二通りとを加えて1+1+2すなわち四通りになる。しかして二つの粒子が 二つともAに入る仕方は一通りであったから、そういうことの起こる確率は1+1+2で1を割ったもの、すなわち1/4。同様に 二つの粒子が二つともBに入る確率も1/4、しかして二つの粒子が一つずつAとBに入れる仕方は二通りであったから、その確率 は1+1+2で2を割ったもの、すなわち1/2となる。以上の結果から、例えば上述の実験を、1000回繰り返せば、そのうち約 二五○回は二つの粒子が二つともAの箱に入るであろうし、また他の約二五○回は二つの粒子ともBの箱に入るであろうし、 残った約五○○回が二つの粒子が一つずつAとBに入ることになる。実際、このような実験を、例えば通常の米粒を用いて読者自身 やってごらんになることもできよう。
ところがこの粒子として、米粒の代わりに光子をとってみよう。光子を箱に投げこむというような実験を実際直接に 行うことはできないが、これに相当した、より複雑な事柄は、たくさんの光子の集まりを表す統計的な性質を実験することに よって行うことが出来る。このような実験の場合は非常に複雑であるから、ここでは仮にこの簡単な実験を光子について行った と考え、その時どういう結果が起こるであろうかを述べてみよう。結果はこうである―。光子の場合には米粒の場合と異なって 全体の1/3すなわち一○○○回の実験を行ったなら約三三三回は二つの光子が二つともAの箱に入り、他の1/3は二つの光子が 二つともBの箱に入る。しかして、残りの1/3の回数が二つの光子が一つずつAとBに入るのである。
この結果は何を意味するのであろうか。この事実は二つの光子が二つともAに入る確率が1/3であり、二つの光子が二つとも Bに入る確率が1/3であり、さらに二つの光子が一つずつAとBに入る確率も1/3であるということを意味する。米粒の場合には、 このおのおのの確率がそれぞれ1/4、1/4、1/2 であったのに対し、いまわれわれはそれと異なって1/3、1/3、1/3 という結果を得た ことになる。それではこの差異は一体どこから起こったのであろうか。
それはこうである。すなわち光子の場合には、二つの粒子の二つともをAの箱に入れる仕方が一通りあり、二つの粒子の 二つともをBの箱に入れる仕方も一通りある、という点では米粒と同じであるが、最後に二つの粒子を一つずつAとBに入れる 仕方の数が米粒の場合と異なって一通りしかないということによるのである。この初めの二つの結論は米粒の場合と同一であって 問題はないが、最後のもの、すなわち二つの光子を一つずつ、AとBに入れる仕方が一通りしかないということは、米粒の場合と 非常に異なっている。
米粒の場合に二つの粒子を一つずつAとBに入れる仕方が二通りあったのは、すなわち一郎をAに入れ、次郎をBに入れる という仕方と、一郎と次郎を入れかえて、次郎をAに入れ、一郎をBに入れるという仕方と、二つの可能性があったからである。 これとくらべて二つの光子を二つの箱に入れる仕方が一通りしかないということは、光子に一郎、次郎の名をつけて区別しては いけないということを明らかに示しているわけである。こういうふうに、光子はそれを一つ二つと数えることが出来るという点で 米粒に似ているが、その一つ一つの粒子に名前をつけて互いに区別することが出来ないという点で米粒と異なっている。
光子以外の一般の素粒子においても事情は同じである。このとき互いに区別できないということは、単にお互いが瓜二つ に似ていて識別できないという意味ではなく、原理的に名前をつけられるような 代物・・ ではないことを意味する。それではこういう奇妙な性質の ものは、一体ありうるのであろうか。

 たくさんの光子の集まりの性質を統計的に論ずるときに、通常の粒子の集まりと異なった計算の仕方をせねばぬことに初めて 気がついたのはインドの物理学者ボースであった。そこでこの計算法をボースの統計法と名づける。粒子が電子であるときには、 それが自己同一性をもたないという点からくるもの以外にもう一つ、光子と異なって、二つ以上の電子が同一の状態にある ことが出来ないという別の性質に由来して、さらに異なった統計法を用いねばならない。この電子の場合の統計法をフェルミの 統計法という。

4 自己同一性をもたない「粒子」はあり得ないものではない

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更新12月20日