宮沢賢治、最後の日々
臨終前後、9月17日から21日まで
(昭和8年)9月17日から三日間は鳥谷ヶ先神社の祭典であった。この年は岩手県は空前の大豊作で米の収量が百三十二万石とも
言われた。前年も次の昭和9年も冷害による凶作であったから、なぜか天地も賢治の死を悼むかのようであった。
花巻は周辺の農村を相手にする商人の町であるから、農民が豊かになれば町も賑わうのである。近隣の農村の老若男女は、
久しぶりの豊作に喜んで町に出て来て、大いに賑わいをみせた。
9月17日(祭典第一日)
神輿が神社を出て町を練り歩いた。山車も町内から賑やかに繰り出した。賢治は裏二階の病室から店頭に降りてきて、
終日祭礼を楽しんだ。また門口にも足を運び、農民たちの喜びを肌で感じたようだった。
9月18日(祭典第二日)
この日も、門の所まで出たり、店先に坐ったりして、収穫を喜ぶ人出や、鹿踊りを見たりして楽しんだ。
9月19日(祭典最終日)
この日の夜は神輿が神社に還御することになっていた。賢治はそれを拝むために門の所に出て待っていた。東北地方では
九月も半ばを過ぎると夜は冷気が迫ってくるので、寒さと疲れで、病状が悪化することを心配した母イチは「賢サン。夜露
がひどいんちゃ、入って休んでいる方がいいだんすちゃ」と賢治に言ったが賢治は「大丈夫だんすじゃー」と答え、夜八時
頃に練ってきた神輿を拝んで二階の病室に戻って床についた。
この日、日中の気分の良いときに、半紙に毛筆で二首の短歌を書いた。賢治の絶筆とされている。文学的には盛岡中学校
時代に短歌で出発し、絶筆が短歌というのも奇しき因縁である。
方十里 稗貫のみかも 稲熟れて
み祭三日 そらはれわたる
(歌意)稗貫郡の十里四方に稲が登熟し、昨年の冷害に比べて、大豊作となった。それを寿ぐように、
祭典の三日間は晴れ渡った。
(管理人注)稗貫郡(ひえぬきぐん)は、岩手県(陸中国)の中央部に位置していた郡。人口23,027人、面積365.41km2(2003年)。
奥六郡として成立したときの郡域は全て現在の花巻市に含まれている。(ウイキペディアより)
と、賢治が農民のために半生を捧げたのが報われたという喜びが伝わってくる。
病 のゆゑにくもらん いのちなり みのりに棄てば うれしからまし
(歌意)今病気で失う命であるが稲の稔りの役に立つならば、嬉しいことだ。
「みのり」は「稔」と「御法」にかかる言葉で、一方では仏教の教え、ここでは法華経のために生命を棄てることも
喜んでいる。最後まで法華経の行者としての賢治の姿をうかがうことができる。
9月20日
病床にあった賢治が祭典中に三日間も店先や門の所に出ていたのを見て、賢治の病状が大分回復したと考えた農夫が、
宮沢家を訪れて、起きてきた賢治に、営農の相談をした。それを見て母イチは安心して外出したが、賢治は急に容態が変わり
呼吸が苦しくなったので呼び返され、花巻病院から医師がかけつけた。「急性肺炎」という診断であった。
政次郎も最悪の場合を考え、賢治に死の心構えをさせようと親鸞や日蓮の往生観を語りあった。
夜七時頃農夫が賢治を訪ねて肥料のことで相談に来た。賢治の容態が切迫していることを知らない店の人が、賢治に伝えた。
賢治は家人が止めるのも聞かず、衣服を改めて玄関の板の間に正座し、まわりくどい話をていねいに聞いた。一時間ほどして
やっと帰った。家人は止めることもできず、いらいらしていた。賢治を二階に抱えあげた。その夜は心配した弟清六が傍らに寝た。
賢治は「今夜は電燈が暗いなあ」と呟いた。もう視力が衰えていたのであろう。また「おれの原稿はみんなおまえにやるから、
もしどこかの本屋で出したいといってきたら、どんな小さな本屋でもいいから出版させてくれ。こなければかまわないでくれ」と
告げた。
原稿については、ある時母に「この童話は、ありがたい仏さんの教えを、一生懸命に書いたものだんすじゃ。だから
いつかは、きっと、みんなでよろこんで読むようになるんすじゃ」と告げていたという。
9月21日
朝の往診の医師に母が容態を尋ねると、医師は「どうも昨日のようでない」と答えた。それは危険な状態である
ということである。
母は実家の父に電話して熊の胆を届けるように頼んだ。賢治には祖父にあたる善治が自分で持参して孫に飲ませた。様子が
落ち着いているようなので祖父は帰った。
午前十一時過ぎに、二階の賢治の病室からりんりんとバリトンで「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・・」と唱題の声が
聞こえてきた。
階下の家族は、びっくりして階段を駆け上がった。賢治は蒲団の上に端座して合掌し、お題目を唱えていた。これを見て
家族も最悪の場合を思った。
父政次郎は、賢治に声をかけた。「賢治、今になって、何の迷いもながべな」賢治は、「もう決まっております」
と答えた。父は、「何か、言い残したいことはないか、書くから、すずり箱を持ってくるように」と云った。
母は、それは賢治に死の宣告をするようなものだと思い「いま急いでそんなことをしなくてもー」と夫を非難するような口調
で呟いた。父は、はっきりと「いいや、そんなものではない」とはっきり答えた。巻紙と筆を持った父に、賢治はゆっくりと
静かに花巻弁で語り始めた。「国訳の法華経を千部印刷して知己友人にわけて下さい。校正は北向さんにお願いして下さい。
本の表紙は赤に―。『私の一生のしごとは、このお経をあなたのお手もとにおとどけすることでした。あなたが仏さまの心に
ふれて、一番よい、正しい道に入られますように』ということを書いて下さい。」
父は「法華経は自我偈だけかまたは全品か」と聞いた。賢治は「どうぞ法華経全品をお願いします」と答えた。また
あとがきは「合掌、私の全生涯の仕事は此経をあなたのお手許に届け、そしてその中にある仏意に觸れて、あなたが無上道
に入られんことをお願ひする外ありません。昭和八年九月二十一日 臨終の日に於いて 宮澤賢治」とし、父は賢治に読み聞かせ
「これでいいか?」と問うた。賢治は「それで結構です。」と答えた。「あとはもうないか」と重ねて父が問うた。そばで聞いて
いた母は「あとは、今でなくてもいいでしょう。」と賢治に代わって答えた。賢治は「あとは、またおきて書きます。」と
答えたが再び起きて書くことは無かった。
息子の臨終に際して、この父の毅然たる態度には、驚嘆せざるを得ない。確固たる信念が無ければ、こういう行動は取れない
と思う。この父にして、この子ありの感を深くするのである。
続いて父は「たくさん書いてある原稿はどうするつもりか?」と聞いた。賢治はそれに「あれは、みんな、迷いのあと
ですから、よいように処分してください」と答えた。父は賢治に「おまえのことは、いままで、一遍もほめたことがなかった。
今度だけはほめよう。りっぱだ。」賢治は生まれて始めて死の直前に父から褒められ、心から嬉しそうに弟清六に「お父さんに、
とうとう、ほめられたもや。」と語った。
父は階下に降り、家族も昼食のため下に降り、傍には母だけが残った。賢治は母に便器を入れてもらって排尿した。母に礼を
言った。母は「そんなことはない、それよりも早く良くなっておくれ」と告げた。
賢治は「お母さん、また、すまないども水コ」と言った。母は吸口にいっぱい入った水を渡した。賢治は、おいしそうに
コクコクとのどを鳴らしてそれを呑んだ。「ああ。いい気持ちだ」と言った。
それから枕元のオキシフルを浸した脱脂綿で手、首、体を拭き、又「ああ、いいきもちだ」と繰返した。母は病状が落着いた
と思い蒲団をなおしながら、「ゆっくり休んでじゃい」と言って、そっと立って部屋を出ようとして、ふり返って賢治を見ると、
賢治の様子が変わり、すうっと眠りに入るような賢治の呼吸が潮のひくように弱くなり、手にした脱脂綿が手からポロリと落ちた。
母は「憲さん、賢さん」と強く叫びましたが、もう答えは無かった。その時一時半であった。
従容たる賢治の死は、さながら高僧の死のように、嬉々として、御仏の元に帰っていったようであった。
それにしても、賢治は最後まで、法華経の行者であった。残された者に「国訳法華経」を届けて、無上道に入ることを
願ったのである。そして父には全作品を、適当に処分してほしいと述べたことは、賢治の全作品も、法華経と引き替えてもよい
ということであろう。これ程まで法華経に帰依した生涯であったということである。
遺言は実行された。印刷所は盛岡市の山口活版所、発行者は宮沢清六、昭和9年6月5日の発行で、通し番号を付けられ、
友人知己に配られた。筆者は、以前から、賢治の散文作品は、法華経の長行(じょうごう)にあたり、詩等は偈(げ)にあたる
のではないか、と考えていた。賢治が原稿について母に言った言葉にもそれは示されている。賢治は妙法蓮華経の精神を伝える
ために多くの作品を書き、また法華経の教えにより菩薩行を実践したと言うべきである。
(第四章「雨ニモマケズ手帳」から臨終まで)より
『宮沢賢治入門 宮沢賢治と法華経について』田口昭典著(でくのぼう出版 2006年9月)
最後の時にあたって、賢治が自分の書いた作品群をどのように考えていたのか、よくわかると思います。賢治にとって、
一番大切なのは法華経の教えであった。父に「たくさん書いてある原稿はどうするつもりか?」と聞かれて、賢治はそれに
「あれは、みんな、迷いのあとですから、よいように処分してください」と答えた。このことが父を感動させたのである。
お母さんには「この童話は、ありがたい仏さんの教えを、一生懸命に書いたものだんすじゃ。だから
いつかは、きっと、みんなでよろこんで読むようになるんすじゃ」といっている。弟清六には原稿は全部お前にやるから、
出版したいという本屋が出てくれば出版してくれ、そうでなければ出版する必要はないといっている。
法華経の解釈に、開権顕実(かいごんけんじつ)という解釈がある。これが法華経解釈の定番になっている。
釈迦が成道後に説いた教えは、いわば仮(権とは仮という意味です)の教えで、本来釈迦は無量の過去世に悟りを開いていて、
その如来の真実を教えるために、歴史上のこの世に生まれ、六年の苦節を経て菩提樹下で悟りを開き、教えを説いたのである。
本当はこの如来の真実をこの世の人々に教えるためにこの世に現われたのである。仮の教えをまず説いてそこから真実に
目ざめさせることが眼目である。なぜなら如来の真実の教えは衆生には理解し難く、また衆生の性質は濁りに染まっているから、
その機根に応じて方便で説かなければ理解し難いからである。賢治にとって、この世の人びとの営みや生きる様々な悩みや驕りも
仮のものであり、真実に至るためのきっかけになるものであったのである。賢治の作品群はこのような意味で、仮のものとして書かれた。
本当は、友人知己が法華経を読んで、この世の真実に目ざめてほしいと思っていた。この世の諸々の事象が仮のものであるとは、
事象の本質が別にあるという考え方である。それが仮のものとなって現われるのである。真実の種が後に残れば、
つまり法華経が人びとの手元にあれば、自分の書いた作品群は無くなってもいいのだ、と賢治は考えたのである。
それが法華経千部を刷って友人知己に配って欲しいとの遺言であった。
(管理人追記。2008年10月27日)