今月の言葉抄 2008年5月

オルテガの言葉

物事に驚くこと、不審に思うことは、理解しはじめることである。それは、知的な人間に特有のスポーツであり、ぜいたくである。 したがって知的な人間に特有な態度は、驚きの気持ちに見開かれた瞳で世界を見ることである。しっかりと見開かれた瞳にとっては、 この世にあるすべてのことが驚異であり、不思議である。この、不思議さに目をみはるということはフットボール選手には認められて いない楽しみであるが、知的な人間のほうはそれとは反対に、この楽しみに導かれて世界を歩きまわり、たえず幻視者の陶酔を味わう のだ。驚きに見開かれた目こそ知的な人間の属性なのである。それだからこそ古代の人びとはミネルヴァに、つねに目を光らせた鳥 である梟(ふくろう)を与えたのである。

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したがってわれわれは、ここで、愚者と賢者の間に永遠に存在している相違そのものにつき当たる。賢者は、自分がもう少しで 愚者になり下がろうとしている危険をたえず感じている。そのため彼は身近に迫っている愚劣さから逃れようと努力するのであり、その 努力のうちにこそ英知があるのだ。ところが愚者は自分を疑うことをしない。彼は自分がきわめて分別に富む人間だと考えている。 愚劣な人間が自分自身の愚かさのなかに腰をおろして安住するときの、あのうらやむべき平静さはそこから生まれている。われわれが どうやっても、住みついている穴から外へ出ることのできない昆虫のように、愚者にその愚かさの殻を脱がせ、しばしの間、その 盲目の世界の外を散歩させ、力ずくで日ごろの愚鈍な物の見方をより鋭敏な物の見方と比較するように強制する方法はないのだ。 ばかは死なねばなおらないのであり、救いの道はないのである。だからこそアナトール・フランスは、愚かな者は邪悪な者よりも いまわしいといったのだ。なぜなら邪悪な者は休むときがあるが、愚かな者はけっして休まないからである。

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人間の生は、その本質上、何かに賭けられていなければならない。その何かは輝かしい事業の場合もあればつつましい事業の場合も あるだろうし、すぐれた運命の場合もあれば取るに足らぬ運命の場合もあるだろう。これは、われわれの存在に刻みこまれた奇妙な、 しかも不可避的な条件である。一方において、生きるということは、各人が自分で自分のためになすことである。しかし他方において、 私にとってのみ重要であるその私の生は、もし私によって何ものかに賭けられていないと、緊張や「形」を失って弛緩してしまう だろう。近年われわれは、献身すべき対象を持たないために、無数の生が自らの迷宮のなかをさまよい歩くという恐るべき光景を 目撃している。あらゆる掟、あらあゆる秩序が宙に浮いているのだ。こうした状態は、理想的であるはずだと思えた。というのは、 各人が自分のしたいことを行う完全な自由と、自分自身に熱中する完全な自由のなかに置かれたからである。民族の場合も同様である。 ヨーロッパは世界に及ぼしていた圧力をゆるめたが、その結果は予期に反したものであった。それぞれの生は、自分の手にゆだねら れると、なすべき仕事がないままに自分自身のなかに留まり、うつろになっている。そして、何かで自分を満たさなければならないので、 勝手な自分を作りあげるか、気まぐれに自分を偽装し、真に内的衝動から課せられたものではない偽りの仕事に従事し、今日はこれを、 明日はそれとは反対のあれをと過ごすのである。生が対決するものが自分自身だけになったとき、その生は終わりである。エゴイズム とは迷路である。それは自らを閉ざすのだ。生きるとは何かに向かって放たれていること、一つの目標に向かって歩むことである。 その目標は私の歩みそのものでもないし、私の生でもない。それは、私が自分の生を賭けているもの、したがって生の外に、 生の彼方にあるものである。もし私が自分の生のなかだけを好きなだけを好きなように歩こうと決心したら、私は前に進まず、どこへも 到達しない。私は同じところをぐるぐる回るだけである。それが迷路であり、どこへも通じない道である。自分自身のなかを歩き 回るだけなので、自分自身のなかで迷ってしまうのだ。

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いわゆる明晰な頭脳と呼べる人物は、たぶん、古代世界全体を通じても二人しかいなかった。それはテミストクレスとシーザーで、 ともに政治家である。一般に政治家というものが、著名な者も含めて、まさしく愚鈍なるがゆえに政治家であることを考えると、これは 驚くべき事実である。もちろんギリシャとローマには、多くの事柄について明晰な思想を持った人びと — 哲学者、数学者、自然 科学者 — がいた。しかし彼らの明晰さは学問的次元における明晰さ、つまり抽象的な事柄に対する明晰さであった。科学が 対象とすることは、それが何であれ、すべて抽象的であり、抽象的なものはつねに明晰である。したがって学問の明晰さは、学問をする 人間の頭脳のなかよりも、むしろ学問の対象のなかにある。具体的な生の現実は雑然としたもの、錯綜したものであり、それはつねに 唯一無二のものである。そうした生の現実のなかにあって正確に自分の進むべき道を知りうる者、生の全体状況が見せる混沌の背後に 各瞬間に秘められた構造を透視しうる者、要するに、生のなかで道に迷わない人間こそ、真に明晰な頭脳の持ち主である。諸君の周囲に いる人びとを観察していただきたい。そうすれば、彼らがいかに自分の生のなかで道に迷っているかが分かるだろう。彼らは自分の 身に起きていることに何らの疑念も抱かず、夢遊病者のように、それぞれの幸運もしくは不幸のなかをさまよい歩いているのだ。 彼らが自分自身や自分の周囲のことについて断定的な表現で話すのを聞くと、彼らがそうしたものについて明確な思想を持っている かのように思うかもしれない。しかしそれを少し分析すると、彼らの思想なるものは、それが言及しているかに見える現実を実は 少しも反映していないのが分かるだろうし、なおも仔細に吟味すれば、そのような現実に適応しようとさえしていないのが明らか なるだろう。事実はまったく逆なのである。彼らは現実の、彼らの生そのものが持つ本来の姿を直視しまいとして思想を用いている のである。なぜなら、生とはさしあたり自分が迷いこんでいる混沌だからである。人間はそのことに気づいているが、その恐ろしい 現実と対面するのがこわく、あらゆるものが明瞭に見える幻影の幕でその現実をおおい隠そうと努めているのである。彼らは自分の 「思想」が真でないことに意を介さない。彼らは思想を、自分の生から身を守る塹壕(ざんごう)、現実を追い払うたための案山子 (かかし)として用いているのである。

明晰な頭脳の持ち主とは、そうした幻影的な「思想」をふり捨て、生を直視し、生にあってはいっさいが問題を含むことを認め、 自己を迷える者と自覚する者である。これはまぎれもない真実であるから — つまり、生きるということは自分を迷える者と 自覚することだから — この真理を受け入れた者はすでに自分を見いだし始め、自分の真正なる現実を発見し始めているのである。 彼はすでに確固たるものの上に立っているのだ。難破者と同じように、彼は本能的にすがりつくべき物を求めるだろうが、その 悲劇的で、切迫した、絶対的な — というのは、自分を救おうとしているのだから — まなざしが、彼の生の混沌を 秩序づけてくれるだろう。これこそ唯一の真実なる思想、つまり難破者の思想である。その他はすべて空言であり、見せかけであり、 心の演ずる笑劇にすぎないのである。自分を迷える者と真に自覚していない者は必然的に自己を失う。つまり、けっして自己を見いだす こともなければ、絶対に真の現実に出会うこともないのである。

『大衆の反逆』ホセ・オルテガ・イ・ガセット著 桑名一博訳 白水社 1991年7月



ホセ・オルテガ・イ・ガセット(1883年〜1955年)は、本来哲学者である。『大衆の反逆』は1929年にマドリードの日刊紙 『エル・ソル』に発表され、その翌年の1930年単行本として出版された。彼の多くの論説はこのように新聞や市民講座で発表された ものが多いそうである。スペインの人びとを啓蒙したいという意図もあったようであるが、このような知的レベルの高い論説は新聞 に寄稿されるのは稀であろう。
非常に洞察力に富んだ本である。また文章がうまい。オルテガがここで大衆といっているのは、20世紀に現われた大衆一般を指して いる。またそれには社会階層的意味は全くない。オルテガはある数字を示す、「6世紀にヨーロッパの歴史が始まって以来1800年まで 12世紀にわたって、ヨーロッパの人口は1億2千万人を超えることはなかった。それが1914年には4億6千万人になったのである」このような 急激な社会的変革のなかで、出現したのが大衆という人間一般である。それは、18世紀に基本的人権を勝ち得て、19世紀はいってから 科学的発明・発見や産業革命さらに政治的には自由主義的デモクラシーによって、そうした歴史的背景をもって出現したのが大衆 なのである。したがって好むと好まざるとにかかわらず、誰もが大衆的特徴をもっているのである。20世紀は大衆が主人の座に納まる。 その大衆の特徴が様々な面からズバズバと書き出される。今日でも十分通用する内容である。また歴史に詳しく、国家の成り立ちを説明し、 現在のEU(欧州連合)の出現の必然性をはっきり予言している。
生きることのあるいは哲学や歴史の基本が随所に書かれており、引用したのは彼の人間観が現われていると思われる箇所です。 (管理人)

更新2008年5月11日