釈尊のさとり
釈尊のさとりについては以前にも引用したが、この記述(講演記録)は大変解りやすく、また表現が美しいので引用します。これを読んで「ピッパラの木の下で」と題して詩を書いた。仏陀の生涯で一番美しい場面は、苦行をやめてウルヴェーラー村に下りて来て、村人から干草の座布と乳粥が供養され、ネーランジャラー河のほとりのピッパラの木の下で禅定に入るところであろうと思う。
このところ仏教入門書ばかりを色々と読んだ。仏教の概要はおおよそ分かったように思うし、実際に釈迦は何を説いたのかを知るには、阿含経(アーガマ分献)を読めばよいことがわかった。それを読むには時間がかかるが、こつこつと読んでいって、その中の大切な言葉抄を、「阿含経を読む」ページを独立に設けて、そちらに集めるようにしたい。新しい知見があるまで、仏教関係の引用はこれまでにしたい。(管理人)
「さとり」は直感である
さて、釈尊の生涯のなかで、だれにでもよく知られていることと申せば、それは、他でもない、かの菩提樹(ぼだいじゅ)のもとで「さとり」を開かれたことであります。このことを、ふるい仏教の言葉で申しますと、「大覚成就」なされたとか、「無上の等正覚を現成」(anuttaram sammâsambodhim abhisambuddho)されたなどと申しますが、ともあれ、釈尊がこの「さとり」を開かれたということは、これはだれでも知っているところでございます。
だが、その「さとり」の消息とか、その内容とかいうこととなりますと、これはまた、釈尊の生涯のなかでも、いちばん判りにくいこと、したがって、また、いちばん判っていないことであります。つまり、もっともよく知られていることが、もっとも判っていないということになるのであります。
むろん、よく判っていることも、いろいろとあります。よく、いろんな書物にも書いてあることでございますが、「さとり」を開かれるまでの釈尊は、なにをしておられたかと申しますと、一所懸命に苦行をなさっておられました。
苦行といっても、どんな苦行をなさっておられたかと申しますと、それは、あきらかに、断食苦行でありました。ものの本によりますと、「一麻一米」などということばも見えております。一日に一粒の麻、一粒の米のほかはなにものも摂らないという断食をいとなんだ物と思われます。
なぜそのような苦行をしたのかというと、それは当時のインドの人々がみな考えていたことでありますが、人間にはいろいろの雑念が起こり、煩悩が生じてまいります。それを彼らは、すべてわれわれの肉体から起こってくるものと考えました。そこで、この肉体の力をだんだんと落としてゆくと、精神の力が高まってくるだろうと考えたわけであります。
そのころ、釈尊は、当時の名称でもうしますと、マガダ(摩掲陀)の国のウルヴェーラー(優留毘羅)という村にあって、そこで一所懸命に苦行をなさっておられました。そこは、現在のビハール州ガヤー(伽耶)の郊外にあたるようです。
ところが、釈尊は、その苦行を続けているうちに、どうもおかしいということに気付かれたのであります。だんだん体力の力を弱めてゆけば、精神の力が強まってくる。そうなるものと思って断食苦行をしておるのに、どうもそうは行かないのです。肉体の力が衰えてゆくにつれて、頭のほうも朦朧としてまいりました。考える力もまた落ちてきました。
そこで、あえてもうしておかねばならぬと思うのですが、釈尊というかたは、あきらかに合理的な方でありました。だからそのことに気が付かれると、これは方法が間違っていたのだとして、その断食苦行を中止いたしました。しかるに、よく耳にする話では、釈尊は、たいへんな苦行にたえられたすえ、ついに「さとり」を得られたといったことを聞くのでありますが、それは、けっして正しい話ではありません。本当のところは、釈尊は、その間違いに気付かれると、ただちに苦行を中止されたのであります。
そして、その近くを流れるネーランジャラー(尼連禅那)という河にいたって、垢づいた体を清めました。また、ウルヴェーラー村に住む娘さんから供養された食物(乳粥)を摂って体力を回復されました。それから、一本のピッパラ(畢鉢羅)樹のもとに草を敷いて座られました。そのピッパラ樹こそは、後世、呼んで菩提樹と称せられるものであります。
ついで申しますれば、このピッパラ樹、すなわち菩提樹なるものは、クワ科植物でございます。わが国の桑は、あまり大きくなりませんが、菩提樹のほうは、はるかに大きくなって、その木陰は、あかるく、そして涼しいのであります。釈尊は、そこで休息して体力を回復され、深い思索に入られたのであります。
そして、釈尊が、、その菩提樹のもとにあって「さとり」を成就されたのは、それからほど遠からぬころのことであります。・・・だが、その「さとり」の瞬間については、釈尊その人もまった語ってはくださらない。また、その「さとり」の消息について語ってくれる経典も稀であります。・・・わたしの知るかぎりにおいて、そのことについて詳しく記した経典もしくは分献には出会えないのであります。
・・・
「さとり」というものは、それを一言でずばりと表現するならば、それは「直感」であるということができます。ところが、直感というものは「自分で説明してみよ」といわれても、それは言葉では説明できません。直感というものは、そのようなものであります。自分でも説明できないのが直感なのです。・・・なぜ語れない、なぜ説明できないのかと申しますと、直感というものは、もともとそれは受動性のものであるからであります。自分にとっては、それは受身のものであるからであります。
そのように「さとり」は直感である、受身性のものであるということ、そのことをわたしに、はじめて明晰に教えてくれたかたは、道元禅師でございました。道元禅師の未完成の大著に『正法眼蔵』があることを、知られる方は少なくありますまい。
それは、未完の大著でありますから、後代の人々によって、いろいろの編集が試みられておりますが、そのもっとも巻数のおおい九十五巻本が、江戸時代以降もっともひろく行なわれています。その第三巻に「現成公案」と題する一巻がございます。それは、道元禅師がなお三十三歳のころの制作でありますが、すばらしい一巻でありまして、昔から『正法眼蔵』九十五巻のなかでも、もっとも尊重され、もっともひろく読まれたものであります。・・・
そのなかにおいて、道元禅師は、「迷」と「悟」を語って、つぎのような素晴らしい一節をなしているのであります。いわく
「自己をはこびて万法を修証するを迷とす。万法すすみて自己を修証するはさとりなり」
「自己をはこぶ」というは、自分のほうからすすんでというほどの意味であります。「万法を修証する」とは、一切の存在、ありとあらゆるものを弁別するというほどの意味であります。といたしますと、この第一句のいうところは、「一切の存在のありようを、自分のほうからすすんで、あれはこうであろう、これはこうであろうという具合に心を動かすことは迷いなのだ」ということであります。その一句につづいて、その二句はつぎのように記されています。
「万法すすみて自己を修証するはさとりなり」
つまり、こんどは、一切の存在が、そちらのほうから現れてきて、自己を気付かせてくれるのが、それがすなわち「さとり」であるといっております。ひとつ、この第二句のいうところを、じっくりと思いめぐらして味わっていただきたいと思うのであります。
自己の頭で考えて、あれはこうである、これはこうであろうなどと思い計らうのは、それは迷いというものなのである。それでは、どうしても我のはからいが這入るからであります。そこを、むこうの方からやってきて、「ああ、そうか」と気付かせてくれる。「万法すすみて自己を修証する」、それが「さとり」というものなのであります。
・・・
つまり、「さとり」というものは直感である。直感というものは受動性のものである。そのことをはっきりと把握していただきますと、さきに申しましたように、釈尊がその正覚成就の消息について、なにも語りのこしておられない事情もまた、よく判っていただけるはずであります。
・・・
だが、その辺のところが、この「さとり」の問題については、もっとも重要なところだと思われますので、もうすこし付け加えて申しておきたいと思います。それは、他でもない、イマニュエル・カント(Immanuel Kant, 1724-1804)がその著『純粋理性批判』(Kritik der reinen Vernunft, 1781)において述べている感性(Sinnlichkeit)と悟性(Verstand)との関係のことであります。
そこではカントはまず、悟性が自発的あるのに対して、感性は受動的であることを語っております。悟性というのは思惟能力であって、感性はその悟性に思惟の素材を提供するものであります。その素材というのは、感性が自らの形式にしたがって対象から受けとるものであります。したがって、「感性は成立しても悟性はなお働かない」とカントは語っておるのであります。
この場合、感性というのは何であるかというと、それは直感のことであります。したがって、それは受動的に対象から素材を受けとる。それに対して、悟性というのは、思惟能力として、感性によって与えられた素材を、自己の形式(範疇)にしたがって整理するのであります。だからして、直感は成立しても、なお、それを素材としての論理的な思惟は働かない、つまり、その理屈はまだわからないということが成立するのであります。
・・・
菩提樹下の思惟
ようやくそれらのことが判りはじめたころ、わたしは、いままで気が付かなかったのでありますが、一つの経典(自説経、1、1-3)がその考え方をきれいに整理して記述していることに、ふと気付くことができたのであります。
思うに、経というものは、それを読むこちらの頭脳が充分に熱してまいりませんと、その経の記述していることが、いったい何をいっておるのやら、なかなか気付くことができものでございます。したがって、経というものの真意は、十年も、二十年も、あるいは三十年もしてから、やっと気が付くということがあろうかと思うのであります。
さて、その経の題目は、原語のままで申しますと「ウダーナ」(Udâna)と申します。それを現代の学者たちは「自説経」と訳しておりますが、おそらく、一般の方々は、あまりお聞きになったことがあるまいと思います。
それもそのはずであります。なんとなれば、それは、南方仏教所伝の経典でありまして、漢訳のなかには同本は存しておりません。だが、近年にいたって、南伝大蔵経の翻訳があり、この経もまた「自説経」として、そのなか(小部経典)に訳出されまして、和文をもって読むことができるようになりました。
ところで、ここに「ウダーナ」(udâna=breathing out)という言葉は、「高まれる感動によって生まれた言葉」というほどの意の言葉でありまして、特にそれには、偈の形をとるものが多く、この経に収録せられた全経が、すべてそのような偈を有しているのであります。
しかるに、そのようにして発せられた言葉は、普通の経において見られるように、釈尊がそこに集った比丘たちに、「比丘たちよ」といって法を説かれる、あるいは、だれぞ問うものがあって、その者にたいして教示なされるといった様式、つまり対告衆、すなわち相手に法をお説きになるものとは、その経の様式を異にしております。
すなわち、だれか対手のある説法、それをかりに「説他経」とでも申しますなれば、これをいうなれば「自説経」なのであります。なんぞわが胸のなかに高まる感動がありまして、それがおのずからに吹き出てくる。「ウダーナ」(udâna=breathing out)というのは、そのようにして生まれた言葉であり、偈頌であるのでございます。
たとえば、釈尊がついに「さとり」を成就なされた。その時には、釈尊の胸中に大いなる感動があったはずであります。そして、その感動のなかから、つぎつぎ溢れでてくる言葉があり、偈頌があったはずであります。それが「ウダーナ」であり、それが「自説経」であります。それは、他の人にむかって語ったものではないのであります。
つまり、釈尊の心中のおもいであり、ことばであります。そして、それを叙する「ウダーナ」は、釈尊の思いのたけはこうであったと語っている経なのであります。
その中には、いろいろのことが記されてあるのでございますが、まず、その経の冒頭を飾るものは「菩提品」(Bodhi-vagga=the section of enlightenmant)すなわち正覚の消息を、釈尊の思いのたけを再現して叙しているのであります。では、まず、その「自説経」の一の一なる経のいうところを、そのまま読んでみたいと。思います。
かようにわたしは聞いた。
はじめて正覚を成就したまえる世尊は、ある時、ウルヴェーラー(優留毘羅)村のネーランジャラー(尼連禅那)河のほとりなる菩提樹のもとにましました。その時、世尊は、一たび結跏趺坐したままにして、七日間、解脱のたのしみを享けつつ座したもうた。
七日を過ぎてのち、世尊は、その定より起って、夜の初分(午後八時ごろ)のころ、つぎのように、順序にしたがって、縁起の法をよくよく観じたもうた。<これあればこれあり、これ生ずればこれ生ず>すなわち、無明(無智)に縁りて行(意志)がある。行によりて識(意識)がある。識によりて名色(個体)がある。名色によりて六処(六つの感官)がある。六処によりて蝕(対象との接触)がある。蝕によって受(感覚)がある。受によって愛(貪り)がある。愛によりて取(取著)がある。取によって有(欲望的存在)がある。有によりて生(迷いの生涯)がある。生によって老死があり、愁・悲・苦・憂・悩がある。このすべての苦の生起はかくのごとくである、と。かくて、世尊は、その所得を知って、その時、このようなウダーナ(感興の偈)を唱えたもうた。
まこと熱意をこめて思惟する聖者に
かの万法のあらわとなれるとき
彼の疑惑はことごとく消え去れり
有因の法を知れるがゆえなり
この経もまた、例によって、「如是我聞」で始められております。「かようにわたしは聞いた」という意味であります。釈尊の説法は、比丘たちがみんなじきじきに聴聞したわけではありません。たいていは、みな又聞きであります。ましてや、正覚直後の釈尊の内心の思いは、だれもそれを直々に聞いたものはないはずであります。ここのところは、後代の比丘たちが、釈尊の心のなかの思いを思い量って記したものにちがいありますまい。
つづいてその経は、まず、
はじめて正覚を成就したまえる世尊は、ある時、ウルヴェーラー村のネーランジャラー河のほとりなる菩提樹のもとにましました。その時、世尊は、一たび結跏趺坐したままにして、七日間、解脱のたのしみを享けつつ座したもうた。
と述べております。
それは、「さとり」の直後、それから七日の間、釈尊はさきの菩提樹のもとで、ぴったりと結跏趺坐したままで、解脱の楽しみ、すなわち「さとり」の楽しみを、じっと味わっておられたというのであります。釈尊だって、ついに「さとり」に到達することを得たということは、やはり嬉しくてたまらなかったはずであります。そして、その楽しみを味わうとともに、また、その直感の内容をいろいろと思い整えておられたのであります。
縁起の法
さらに続いて、この経は、
七日を過ぎてのち、世尊は、その定より起って、夜の初分(午後八時ごろ)のころ、つぎのように、順序にしたがって、縁起の法をよくよく観じたもうた。
と述べています。
それまで、釈尊はもっぱら「さとり」の楽しみを享受することに浸っておられましたが、ここで釈尊の悟性は、はっきりと働きはじめたのであります。その与えられたる直感を素材として、いまや、その論理的関係を追及する人間の思惟が作用しはじめたのであります。七日間を過ぎてののち、世尊は、「その定より起って」とあります。「定」とは、また「三昧」(samâdhi=concentration)という。心を一境に集注すること。その時には、心念ほぼ停止するがゆえに、それをまた「定」と訳するのであります。
それまで、釈尊は、その定中にあって「解脱のたのしみを享けつつ座したもうた」のでありました。だが、いまは、「その定より起って」、縁起の論理的関係を追及しはじめたのであります。直感の受動性をひるがえして、悟性の能動的活動がはじめられたのであります。
そして、その悟性のいとなみとして、最初になった成果は、そこに、つぎのように語られております。
これあればこれあり、これ生ずればこれ生ず
それを、漢訳をもって申しますと、「因是有是、此生則生」(これによってこれあり、これ生ずればすなわり生ず)などと見えております。
それは、まことにふしぎな表現でありますが、それこそは、いわゆる「縁起」(paticcasamuppâda=dependent origination)なる術語の最初の表現であります。そのことを、まず、充分に理解していただきたいと思います。
そもそも、釈尊がかの樹下において与えられた直感なるものは、ずばりと申しますなれば、すべての存在は関係性のなかにあるということでありました。それをもっとも素朴ないい方をいたしますと、「これがあるからこれがある」ということとなり、あるいは、「これが生ずればこれが生ずる」ということができるのであります。このふしぎな表現は、そのことの言表にほかならないのであります。
ところが、それを中国風に申しますと、「これに縁りてこれあり」となります。「縁起」の「縁」はその「縁りて」であります。では、「起」はなんであるかというと、それは「生起」であります。「生ずる」もしくは「起こる」であります。つまり、「縁起」という術語は、「これに縁りてこれが起こる」であり、あるいは、「これに縁りてこれが生ずる」であります。
それを、もし今日の学問的表現をもって言表するなれば、そらは「条件的生起」といってもよく、また、「存在の関係性」といってもよいはずであります。そして、釈尊ならびにその弟子たちは、また、その関係性を「相依性」(idappaccayatâ=having its foundation in this)といったこともありましたが、そのもっとも素朴な、そして根源的な表現が、「これあればこれあり、これ生ずればこれ生ず」というこのふしぎな表現であります。その表現を、わたしは、「縁起の公式」と考えるのであります。
それにつけても、ふと思いだすのでありますが、経典にしばしば見えている言葉に、「 阿耨多羅三藐三菩提 」(anuttara-samyak-sambodhi)という術語がございます。仏教を学びはじめた頃には、なんとまあむずかしい言葉であろうかと思ったことがありましたが、それもそのはずでありまして、これは梵語の音写でありました。
それを意訳いたしますれば、「 無上正等覚 」などとなることばであります。「無上」というは最高ということ、「正」ということは妥当すること、そして、「等」というは普遍なることを意味するのであります。それを今日の学術的な用語をもっていうなれば、最高の普遍妥当性を有する真理であることを意味することばであります。
したがって、釈尊は、その与えられたる直感、すなわち、存在の関係性を思いととのえられて、このふしぎな表現、「これあればこれあり、これ生ずればこれ生ず」という公式を立てると、今度は、それをいろいろのことに当てて考えてみたでありましょう。一般の存在に当てても考えてみたでありましょう。人間の存在にも当てて考えてみたでありましょう。
だが、釈尊にとって何よりも考えてみなければならぬことは、それは苦というものでありました。なんとなれば、釈尊が、その出家以来ずっと胸奥にいだいている課題は、この苦の問題であったからであります。
では、その苦の問題について、釈尊はどのように考えたのでありましょうか。それは、この経が、つづいて述べているながながしい連鎖のつづきであります。いわく、
すなわち、無明に縁りて行がある。行によりて識がある。識によりて名色がある。名色によりて六処がある。六処によりて蝕がある。蝕によって受がある。受によって愛がある。愛によりて取がある。取によって有がある。有によりて生がある。生によって老死があり、愁・悲・苦・憂・悩がある。このすべての苦の生起はかくのごとくである
そこに、「これあればこれあり、それ生ずればこれ生ず」という公式をあてて、その生起の条件を順次に思いめぐらしてゆくと、そこには、無明・行・識・名色・六処・蝕・受・愛・取・有・生・老死と、十二の条件が順次に連鎖をなしていることが考えられたのであります。
それがいうところの十二縁起、もしくは十二因縁と称せられるところのものでありまして、そのような条件の連鎖によって苦が生起するのだと知られたのであります。
縁滅の法
以下省略
(『釈尊のさとり』)から
『増谷文雄著作集 4』(角川書店 昭和57年)