法(ダルマ)―真理と真実
また『バウッダ・仏教・』(中村元・三枝充悳著 小学館 昭和62年)から引用します。私のように仏教について何も知らないものは、入門書を一度読んだくらいでは理解できないことが多い。また、大切なことは、メモしておかないと忘れてしまう。そうしないと、次の本へ移れない。
前回は、無我に関連して、自己と自我の言葉の使い分けについて書いていましたが、今回は法(ダルマ)に関連して、真理と真実という言葉の使い方について書いています。このようなことにこだわらない人もいるだろうが、著者はこだわっているし、私もこの二つは違うものではないか、と長い間ぐずぐず考えていた。真理は科学的に正しいことをいい、真実は人間的に正しいことを指していう、と割り切って言えればよいのだが、ことはそのように単純ではない。真理とは人間の思わくに関わらず、普遍的に存在し機能しているものとすれば、真理には科学的な面だけでなく、人間に関するものも入ってきそうだ。著者はきっぱりと断言してはいないが、真実は真理を包括していると言えるだろうか。人間的真実が、万人が共有できる真理にまでなる、そのような事柄があるだろうか。真実が真理の領域に入ってきたのが釈迦の説く法(ダルマ)だ。それは聞いて理解する人に等しく説得的だろうか。これは混同せずに正しく考えなければいけない問題である。
人間がいなくても、地球は太陽の周りを巡り、宇宙は存続し続ける。これは真理である。しかし人間のいない地球では、もはや幸福や不幸を感じものはなく、生きる意味を問うものもない。真実は消え、真理も無意味となる。真理に意味や価値を与えるのは、人間である。
もう一つ言えることがある。真実は人間にかかわる事柄ゆえ、問わなければ応じてこないということだ。求める人にのみ答えるということだろう。そしてそこには常に、信じるか信じないかという心の動きが伴う。そして多分、信じた人が、真理だと言うのだろう。
並行して読んでいた『原初経典 阿含経』(増谷文雄 筑摩書房昭和57年)に、次のような箇所があった。
・・・そして、ブッダは、つぎのように語り始める。
「比丘たちよ、まず縁起とはなんであろうか」
まず縁起の問題がとりあげられ、それを真正面から論じてゆこうとしているのである。そして、わたしどもが聞きたいと思うのもそのことである。
「比丘たちよ、生あるによりて老死あり」
これは、やがて成立する縁起の系列の第一節をなすところのものであるが、それを、いまここに、いつの世にも変わることのない人生の事実としてとりあげて説明しようとするのである。
「このことは、如来が世に出ようとも、もしくは如来が世に出なくても、定まっていることである。法として定まっていることであるり、法として確立していることである」(下線は管理人)
ここでは、縁起の法は釈迦が世に出ようが出まいが、人間の思わくに関係なく存在する法、すなわち真理であると、釈迦自身が語っている。(管理人)
大乗の諸仏
「大乗の諸仏」を論ずる前に、すでに触れたことのある「多仏」思想から進展した「大乗の諸仏」について、別の角度からさらに詳しく見て見ましょう。
その際、ここであらためて、「仏(ブッダ)」と「菩薩(ボーディ・サットヴァ)」の基本となるテーマについて、それが仏教において最も重要なテーマであることを熟慮しつつ、いささか考察を行なう。
ブッダもボーディもともにブドッを語根とし、それが「目覚める」を意味することはすでに記した。それではいったい、何に目覚めるのか。それに対して「真実に目覚める」と答えるのが、最もふさわしいであろうと思われる。そこで、当然、次の二つの問題が生ずる。
第一はここに「真実」といって、「真理」といわないという点である。なぜか。本来は、真実も、真理も、根底においてはとくに変わらない(現代の諸外国でもほぼ区別され得ない)けれども、「真理」の語には、少なくとも現在用いられている日本語としては、かなり科学的なニュアンスが濃い。ここには、科学そのものについての意見は差し控えるものの、いわゆる科学とそれに伴う技術、そしてその製品は、私たちの日常生活にあまりにも密着しており、その度合いが今後ますます深化するであろうこと、また科学はもっぱら主体と対象(客体)とをはっきり二分し、一切を対象化するところに成立し、展開すること(一言で表せば明確な二元論をとる)、しかもその方法はほぼ分析を主とすること、以上の三点だけをあげておこう。そのような中で、いわば主体の認識が対象の存在・運動・状態・性質などと合致した場合に、それを「真理」と称し、それはやがて真理の法則として体系化されつつ、さらにその法則や体系もまた対象化される。
一方、「真実」はこのような科学だけにとどまらず、私たちの現に生きているこの現実そのものに内在して、ときに対象化されることがあり得るとはいえ、つねに主体に即し、その主体は対象化とその所産とをみずから包み込んで、ここに現れる「真実」は主体が生きる現実に密着していて、けっして離れることがない。
その現実に生きる私たちは、日常いたるところに、自己の思いとあい反する事態にぶつかり、そのような在り方を凝視して、仏教はそれを「苦」と名づけた。そして、それが、「苦に関する真実」=「苦諦」
であり、「その苦の生ずる真実」=「集諦」と、「その苦を消滅して解放された真実」=「滅諦」と、および「苦の滅に到達するための実践の道である八正道という真実」=「道諦」とが導かれて、いわゆる「四諦説」が立てられる。このほかに、「無常―苦―無我」という、後世いわゆる「三法印」や、「不苦不楽の中道」など、つねに現実に直面し、現実に即しての真実があり、それを、それのみを、仏教は取り上げ、問い、答える。
このようにして、上述したように、仏教の説く「さとり」は、「真実に目覚める」ことであり、その「真実」はただちに現実の「苦」のさなかにそれを凝視し、その「目覚め」は「その苦の起点」に連なる。
第二の問題は、この「目覚める」にある。「目覚める」とある以上、それまで眠っていたものが目覚め、閉じていた目が開く。このことは、同一の主体において、眠っているあるいは目を閉じているということが一方にあり、目覚めるもしくは目を開くということが他方にある。論理を単純化するために、このうちのそれぞれ前者だけを論ずると、眠っているものは自己であり、目覚めるのも自己である。自己が眠り続けている限り、目覚めない。目覚めたならば、すでに眠りはない。眠りと目覚めとは、明らかに相互に排斥し合う矛盾関係にある。しかも、その両者は自己ひとりにあり、一個の自己においてそのような矛盾が潜む。
これを言い換えるならば、自己は自己の中に矛盾し合うものを有しており、それを認めるのであるから、自己は分裂せざるを得ず、それは明らかに「苦」の一形態であり、そして、さらに重要なことは、そのような在り方を自己が自ら知っており、あるいは自己がみずから眠り、また目覚めることを行なっていて、しかも自己の中にその目覚める素質を有している、という点である。
さらに、表現を変えれば、目覚めるのは自己なのであり、上に記した「苦の超克」を果たすのは、自己そのものなのであって、けっして他者ではなく、他者はせいぜいそれを見守り、助けるにとどまる。いわば、「目覚める素質」に相当するものを、ほかならぬ自己の見いだして、それを自己確認する。このようなことを、仏教の説く「さとり」は示している。
・・・ここにとくに強調しておきたいのは、「さとり」といっても、それは、つねに自己が生きる現実のに即しつつ、その現実が対象化されることはけっしてなく、自己がみずからその現実に即しつつ生きて行くべき真実(現実から離れた超越的な真実ではない)を、しかも自己において目覚める、という点であり、このことをもう一度再確認しておこう。(なお、この「自己におけるさとりへの目覚め」は、後述する「心性清浄」の説に展開してゆく)。・・・
(第三部第二章菩薩 第二節大乗の菩薩@大乗の諸仏)から
『バウッダ・仏教・』(小学館 1987年)中村元・三枝充悳著