今月の言葉抄 2007年1月

実朝の歌

芭蕉は、弟子の木節に、「中頃の歌人は誰なるや」と問われ、言下に「西行と鎌倉右大臣ならん」と答えたそうである(俳諧一葉集)。言うまでもなく、これは、有名な真淵の実朝発見より余程古い事である。それだけの話と言って了へば、それまでだが、僕には、何か其処に、万葉流の大歌人という様な考えに煩わされぬ純粋な芭蕉の鑑識が光っている様に感じられ、興味ある伝説と思う。きっと、本当にそう言ったのであろう。僕等は西行と実朝とを、まるで違った歌人の様に考え勝ちだが、実は非常に似たところのある詩魂なのである。・・・
・・・成る程、西行と実朝とは、大変趣の違った歌を詠んだが、ともに非凡な歌才に恵まれ乍ら、これに執着せず拘泥せず、これを特権化せず、周囲の騒擾を透して遠い地鳴りの様な歴史の足音を常に感じていた異様に深い詩魂を持っていたところに思い至ると、二人の間には切れぬ糸がある様に思うのである。二人は厭人や独断により、世間に対して孤独だったのではなく、言わば日常の自分自身に対して孤独だった様な魂から歌を生んだ稀有な歌人であった。
― 小林秀雄「実朝」より―

金槐和歌集の雑部より私の好きな歌を選んでみました。というのもたまたま選んだ本に、雑部の全128首とその他補遺として13首だけが載っていたからです。実朝の秀歌は雑部に集まっているとの事です。ちなみに歌集は、春・夏・秋・冬・賀・恋・旅・雑に分けられているそうです。(管理人)

57 春部 如月の二十日あまりのほどにやありけむ。北向きの縁に立ち出でて、夕暮れの空をながめて一人をるに、雁の鳴くを聞きてよめる

ながめつつ思うも悲し帰る雁行くらむ方の夕暮れの空

569 浜へ出でたりしに海女の藻塩火もしほびを見て

いつもかくさびしきものかあしの屋にたきすさびたる海女の藻塩火

575 深山にすみやくを見てよめる

炭をやく人の心もあはれなりさてもこの世を過ぐる習ひは

587 物詣でし侍りし時、磯のほとりに松の一本ありしを見てよめる

梓弓あずさゆみ磯辺にたてるひとつ松あなつれづれげ友なしにして

607 慈悲の心を

ものいはぬよものけだものすらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ

610
   うつつとも夢とも知らぬ世にしあればありとてありとたのむべき身か

615 思罪業歌

炎のみ虚空にみてる阿鼻地獄あびじごくゆくヘもなしといふもはかなし

616 懺悔の歌

塔をくみ堂をつくるも人のなげき懺悔にまさる功徳やはある

617 得功徳歌

大日の種子しゅじよりいでてさまやぎょうさまや形また尊形そんぎょうとなる

618 心の心をよめる

神といひ仏といふも世の中の人の心のほかのものかは

619 建暦元年七月洪水天に漫り、土民愁嘆せむことを思ひて、一人本尊に向ひ奉り聊か祈念致して云ふ

時によりすぐればたみのなげきなり八大竜王雨やめたまへ

620 人心常ならずといふ事をよめる

とにかくにあなさだめなの世の中やよろこぶものあればわぶるものあり

633 山の端に日の入るを見てよめる

くれなゐのちしほのまふり山の端に日の入る時の空にぞありける

634 二所詣下向にはまべの宿の前に前川といふ川あり。雨ふりて水まさりにしかば、日暮れてわたり侍りし時よめる

はまべなる前の川せをゆく水のはやくも今日の暮れにけるかな

636 二所詣下向後、朝にさぶらひども見えざりしかば

旅をゆきしあとのやどもりおのおのにわたくしあれや今朝はいまだ来ぬ

638 又のとし二所へまゐりし時、箱根のみうみを見てよみ侍る歌

たまくしげ箱根のみうみけけれあれやふたくにかけてなかにたゆたふ

639 箱根の山をうち出でてみれば、波の寄る小島あり。「供のもの、この海の名は知るや」とたづねしかば、「伊豆のうみとなむ申す」と答え侍りしをききて

箱根路をわれこえくれば伊豆のうみや沖の小島に波の寄る見ゆ

641 荒磯に波の寄るを見てよめる

おほうみの磯もとどろに寄する波われて砕けて裂けて散るかも

652 三輪のやしろを

いまつくる三輪のはふりがすぎやしろすぎにしことは問わずともよし

663
   山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも

貞348 霰
   もののふの矢並やなみつくろふ籠手こての上に霰たばしる那須の篠原


『中世和歌集』(日本古典文学全集 小学館 2000年)から

解説によれば、金槐和歌集の金は鎌倉の偏、槐は大臣を意味し、文字通りには鎌倉の右大臣の歌集という意味です。

実朝の歌は757首あるという。そのうち金槐和歌集(定家所伝本と呼ばれ、昭和四年発見されたもの)には663首が集められている。その巻末に「建暦三年十二月十八日」と定家の筆で記されているそうです。実朝22歳の年である。この伝本が発見されるまでは一般に、実朝の秀歌は晩年に作られたと考えられていた、晩年といっても28歳で惨殺されたのであるが。正岡子規も書いている。「実朝といふ人は三十にも足らで、いざ是からといふ処にてあへなき最期を遂げられ誠に残念致候。あの人をして今十年も活かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候」(小林秀雄「実朝」からの孫引き)。実際、実朝は早熟な詩人であったが、晩年は謀反や暗殺がいつ起こっても不思議のない政治の世界に気の休まる暇はなかったと思われる。

22歳で歌集にまとめてから亡くなるまで6年あったわけであるが、その間の歌はどうして残っていないのだろう。不思議である。何らかの理由で、歌を作らなくなったのか、あるいは歌を自分で破棄したのか、あるいは側近が廃棄したのか、また火災等事故で散逸したのか。謎である。

西行は内省してみれば、剛直で感性を内に秘めた自画像が見えるだろうが、実朝は感性は顔に表れていて若いけれどどこか老成した部分も見え隠れするような自画像が見えそうである。(管理人)

更新2007年1月20日