生きているということ、これは根本です。ところが、死を離れた生はあり得ないわけですから、実は生の裏には死があるわけです。つまり、生は死に裏付けられているわけで、生と死は我われが生きていることの相反した両面に他なりません。
「生を明らめ、死を明きらむるは、仏教一大事の因縁なり」
と道元禅師(1200〜1253)は言っていますが、これは仏教全般。さらに宗教全体についても言えることではないかと思います。
私はハーバード大学で、半年間講義をしたことがあります。そこの神学部では、月曜日の昼休みから午後にかけて、教授一同が会合して研究発表するのが常でした。ハーバード大学はボストン郊外のケンブリッジにあります。ニューイングランドの中心の都市です。ですから私は、ハーバード大学はニューイングランドの道徳を守っている厳しい所かと思って行きましたら、そこの先生というのは、お昼ご飯のときに自販機でビールを買って飲んでいるので、驚きました。私はお酒をいただきません。それでよく仏教徒の方から、「何だ、お前はクリスチャンか?」と言われます。キリスト教では飲酒を禁ずる戒律はないのですが、仏教では飲酒は五戒の一つの不飲酒戒によって禁止されているのです。しかし、仏教の方ではこの戒を一向に守りません。いずれにしても、ハーバードの先生方は月曜日の昼休みにビールを飲みながらというくだけた雰囲気の中で神学の論議をしていました。
そこで、「宗教とは何か」ということを論議したときに、イランの宗教の専門家のフライ氏が「宗教というのは、いかに死ぬかということに他ならない。How to die ということに他ならない」と叫ぶように言ったのを思い出します。
哲学の方でも、死の問題は論議されたりされなかったりしますが、考えてみますと、死から目をそむけている哲学の存在意義は非常に限られたものではないかと思います。人の心を動かす哲学とはなり得ません。
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しかし、いかに隠しても死は避けることのできないものです。死ほど、人間にとって確実なものはありません。生まれたことも確実ですが、これは過去のことです。将来の問題としては、どういう生があるかわからないけれども、死が迫ってくることだけは確かです。
人間は死の危機をもっているということ、これは原始仏教聖典でも特に強調されています。
「この世における人々の命は、常相なく、どれだけ生きられるかわからない。惨しく、短くて、苦悩に繋がれている。
生まれた者どもには、死を遁れる道がない。老いに達すれば、死がくる。実に生ある者どもには、このとおりである。
熟した果実は、早く落ちるおそれがある。それと同じく、生まれた者どもは死なねばならぬ。かれらにはつねに死の恐れがある。」(『雑阿含経』)
「人間の寿命も滅びてしまう。死んだ人の姿というものは無残なものである。ああ、この身はまもなく地上に横たわるであろう、―意識を失い、無用の木片のように、投げ捨てられて。」(『ダンマパダ』)